令和五年水無月 「般若菩薩像」、栄之と歌麿の「蛍狩り」、「太刀(号 今荒波)」 (original) (raw)
今週、東京国立博物館の本館では2室(国宝室)と10室(浮世絵)で展示替えがありました。国宝室の作品は鳥取・豊乗寺(ぶじょうじ)の『普賢菩薩像』です。年月とともに黒く変色する銀箔や銀泥をたくさん使っているせいか、暗い画面となっています。しかし、じっと見ていると菩薩の顔や、截金(きりかね)を使って描かれた細部の文様も見えてきます。5分間ほど見つめていると、暗いお堂の中から菩薩が現れてくるような感覚を味わえます。4月に展示されていた華麗な『普賢菩薩像』と異なり、重厚な作品です。寄託品のため残念ながら写真撮影が禁じられていました。
その代わりに、3室の『般若菩薩像』(重要文化財)をご紹介します。
般若菩薩像 鎌倉時代・13世紀 絹本着色 重要文化財 展示期間5/16-6/25
「般若」とは古代インドの言語パーリ語の「パンニャー」に由来する言葉で、「知恵」を意味します。たくさんの仏や菩薩を描いた「胎蔵界曼荼羅」図では、中央の四角いスペースのすぐ下の「持明院」と呼ばれる場所に、4体の明王に囲まれている像です。近くに展示されている「木版両界曼荼羅図」でも小さい像が確認できます。単独で描かれた例は現在この作品しかないそうです。眼が3つ、腕が6本、しかも鎧を着ているという異形の姿なのですが、とても穏やかな印象を受けます。それは、手と足がぽっちゃりと、しかも脱力した感じで描かれており、顔の表情もやさしげに表されているからでしょう。密教の仏画は護摩を焚く祈りの儀式で使われたため劣化しているケースが多いのですが、この像はとても良い状態を保っています。知恵を授かりたいと願った人が、個人的にお寺に寄進したもので、あまり儀式に用いなかったのかもしれません。知恵を授かるには、3つの眼、六本の腕で、鎧を着て戦う心構えが必要なのだと、やさしく諭してくれているのでしょう。
今月10室では、江戸の初夏の風物詩「蛍狩り」をテーマにした浮世絵が7点展示されています。その中から、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし)と喜多川歌麿の作品を取り上げます。現代の東京では野生の蛍を見ることはかなわぬ夢ですが、江戸時代はたくさんいたようです。谷中の螢沢、高田落合、目白下といった江戸の郊外に名所があり、日没から一時(いっとき、2時間)ほど蛍狩りを楽しんだようです。
鳥文斎栄之 蛍狩り 江戸時代・18世紀 錦絵 3枚続き 展示期間6/6-7/2
栄之は歌麿と美人画で競い合った絵師で、この絵でも8人の美女が蛍狩りを楽しんでいる情景を描いています。風が左から右に吹いており、水辺の草や着物の袖が右に流され、絵全体に動きが感じられます。でも、蛍が飛ばされていなくなってしまうのではと、ちょっと心配です。中央には縁台があり、池には筏が浮かんでいるようで、右図の女性は長い棒を船をこぐ櫂のように持っています。ここは庶民が行く蛍狩りの名所ではなく、大名庭園の池のほとりなのかもしれません。栄之は500石取りの高位の旗本で、若い頃は将軍のお世話をする小納戸役という役職についており、時の将軍とともに狩野派の絵師について絵を学んだと伝わっています。でも、狩野派の渋い絵は嫌いだったのでしょう、鳥居清長にあこがれて浮世絵師になってしまいました。この当時、浮世絵は武士の間でも人気が高く、栄之は武家好みの清楚な美人画を多く描きました。(浮世絵は町人の芸術と思われがちですが、江戸には町人が50万人、武士とその家族が50万人住んでいましたので、武家は大きなマーケットでした。)続き物の作品は一枚一枚別々にも買えたため、摺った時期が異なる作品が混じることがあります。東博の解説パネルには「中央の図には墨のぼかしがありません。夜の情感はどちらの摺りが効果的に見えるでしょうか」とあり、中央図は別の時期の摺りであることが示されています。確かに、中央図の上段には夜の闇を表す黒いぼかし摺りはありません。しかし、真ん中の主人格の女性にスポットライトが当たっているようで、私にはこの3枚でも不自然さは感じませんでした。
喜多川歌麿 蛍狩り 江戸時代・18世紀 錦絵 3枚続き 展示期間6/6-7/2
美人画で有名な歌麿ですが、風俗画もたくさん残しています。この「蛍狩り」もその一つで、栄之のように理想の美人に蛍狩りをさせるのではなく、子供も含む庶民が楽しむ様子を、3枚セットで懐かしくも美しい情景として描いています。場所も、江戸郊外の小川が流れ、雑草が繁る空き地です。中央の虫かごを持つ女の子は、既に捕まえた蛍の光を、紗の布を透かして眺めています。左の男の子はまだ捕まえていないようで母親をせかしており、母親は一生懸命団扇で蛍を追っています。
歌麿の生年は1753年頃といわれており、1756年生まれの栄之より少し年上ですが、二人は同時代に競い合いました。東博同様両者の「蛍狩り」を保有しているボストン美術館のホームページでは、制作年を両作品とも1796-7年(寛政8-9年)としています。また、版元(出版者)も同じ「泉市」の判が捺してあります。これは版元が仕組んだ競作で、同じ店頭に並べて売っていたのかもしれません。皆さんだったらどちらを買いますか。私は、迷わず両方買って帰ります。
13室では国宝や重文の刀剣が展示されていました。刀剣はあまり詳しくありませんが、刀身の輝きや刃文の美しさには魅了されます。本来は手に取って鑑賞するもので、展示ケースのガラス越しではなかなか細部が見えませんし、写真に撮るのはたいへんです。せっかく苦労して撮影しても、帰宅してPCで拡大して見てみると良く撮れてないことがほとんどです。しかし、この作品は結構良く撮れていました。
太刀 備前一文字(号 今荒波) 鎌倉時代・13世紀 重要文化財 展示期間 4/11-7/2
同上(部分)
鎌倉時代、武士は馬に乗り刃を下にした刀を腰から下げて戦に臨みました。ですから、博物館でも刃を下にして展示し、刀と区別して太刀と呼んでいます。この作品は、多くの名工を輩出した備前(岡山県南東部)の一文字派によるものです。荒波のような丁子(グローブ)の実の形の刃文が続くことから、「今荒波」の名が付けられたとのことです。上記部分図にも、その荒波が写っています。刀剣は、神社等に奉納されたものを除けば鑑賞用のものではなく、第一に人を殺傷するための武器でした。この太刀も人を切ったことがあるかもしれないと思うと、他の分野の展示品と異なり怪しい美しさを感じます。