shinzorの日記 (original) (raw)

前の記事でも述べましたが、INWORKS研究の図1で蓄積結腸線量が0なのに相対リスクが1.0にならないのはどう考えてもおかしいです。原因となる線量が増えていないのにリスクが増えるという奇妙な結果が得られたのは何故でしょうか。

可能性としては、放射線以外のリスクを追加放射線によるリスクと誤認したのかもしれません。この誤認の原因を以下に説明します。あくまで推測です。

下図は、自然放射線も含む総累積線量とがん死率の関係を示しています。がんは放射線以外の原因、自然放射線、追加放射線(事故等)によって発生します。放射線以外の原因、自然放射線によるがん死率に対して追加放射線を含むがん死率の比率が相対リスクです。

相対リスク1.0のところがA点ですが、自然放射線160mSvやがん死率30%は変動しますので、関係曲線上を移動します。さらに放射線以外によるがん死率も変動するので、関係曲線自体が上下に移動します。この変動は確定できないのでA点の位置は不明です。

図にはA点をがん死率30%としていますが、放射線以外の原因によって31%に増える程度の変動は普通にあります。31%に増えても、追加累積線量は0なので、相対リスクは1.0です。これを混乱して、31/30=1.03としてしまった可能性があります。

INWORKS研究のグラフを追加線量0で相対リスク1.0になるように修正すると、ICRP勧告による推定値とそれほどの差はなくなります。いずれにせよ、約30%のがん死率には数%の変動があるのに、低線量追加放射線の0.5%以下の影響を詳細に調べる意味がどれほどあるのでしょうかね。

■従来の知見を覆す報告

原子力情報資料室のサイトに「国際核施設労働者調査(INWORKS)の最新報告~低線量率・低線量被曝の健康リスクがさらに明らかに~」という記事が掲載されています。菊池誠さんと鴨下全生さんの4時間余の対話で言及された報告です。

cnic.jp

この報告が正しいのか報告そのものを読んでいない私には分かりませんが、この報告が正しいとすると今までの放射線防護を大幅に見直す必要がある内容だと思います。最初にこの報告を知った時は、疫学的に確認が困難だったLNT仮説を確認しただけと思いましたが、違っていました。なんと低線量域の方が、影響が大きいというLNT仮説を否定するものでした。図1がその結果で、従来の図2とは異なります。傾きの異なる二本の直線で近似できそうで、少ない量の方が大きな影響がある範囲があります。かつての環境ホルモンを思い出しました。

なお、図1は、縦軸の相対リスクが0からではなく0.8から描かれていることに要注意です。追加線量によるリスク増が強調されています。

■疑問1 等価線量と吸収線量

報告そのものは読んでいませんが、原子力情報資料室の記事だけみるといくつか疑問があります。先ず、等価線量(シーベルト)ではなく吸収線量(グレイ)を使っていることです。両者はほとんど同じですが、等価線量は臓器への影響による重み付けをしている違いがあります。死因のがんの種類に偏りがあれば結果に影響しそうですが、この点は大した影響ではないかもしれません。

■疑問2 低線量のリスクが大きい

第二の疑問は、従来から疫学的に確認できていたはずの100mGyから200mGyの影響も大きくなっていることです。今まで疫学的に確認できなかった100mGy未満を確認したというだけでなく、従来と異なる影響を確認したという報告なのです。少なくとも、どちらかが間違っていることになります。どちらが間違っているか私には分かりませんが、仮にこの報告が正しいなら、追加線量は少ないほど良いとはならず、影響が最小になる範囲にすべきとなってしまいます。ラドン温泉俗説みたいに、適度に放射線を出す原発が健康によいとは思えませんが。

そして放射線防護上非常に厄介なことになります。追加線量は少ないほど良いのではなくなり、200~300mGy程度に維持する必要が出てきます。あるいは完全に0にするかです。ところが、グラフを見ると、追加線量0で相対リスク1.0に向かっているようには見えません。追加線量0の時の相対リスクは1.0ですから、低線量部分のグラフはかさ上げされてしまっている疑いも出てきます。

■疑問3 追加線量のリスクを分離できるのか

最後の疑問は、本当にこんな低線量の影響を疫学的に確認できるのかです。数十万人の労働者を追跡調査すれば0.5%以下のがん死亡の増加全体は検出できるでしょう。それが原子力情報資料室の記事で強調されていることでもあります。しかし、それはバックグラウンドと追加線量による死亡の合計です。バックグラウンドのがん死割合は数%の変動があります。追加線量による0.5%未満の死亡率の増加は変動にかくれて見えないのではないでしょうか。

同じことがグラフの横軸にも言えます。追加累積放射線量が正確に把握できるのでしょうか。バックグラウンドの線量も結構変動します。線量バッジで個人の被曝を計測してもそれには変動する自然放射線も含まれており、追加線量だけ分離することができるのでしょうか。

調査人数を増やせば相対リスク(がんによって死亡する人の割合)は精度よく計算できるでしょう。しかし、その相対リスクにはバックグラウンドと追加線量によるものがあって、追加線量による追加相対リスクは、バックグラウンドの変動よりはるかに小さいですからね。

初めて統計的検定を知ったとき、釈然としませんでした。なんだか回りくどいことしているという印象でした。検定は次のように説明されます。

コインを10回投げたら表が2回出た。このコインは偏りがないと言えるか。

これを検定するために、偏りがないという帰無仮説H0(表の出る確率p=0.5)の元で、実現値x=0,1,2,8,9,10になる確率Pを求める。その確率が有意水準以下ならばH0を棄却する。

何故、直接、実現値xのときにH0が成立する確率を求めないのかと思いましたよ。その確率が小さければ、H0を棄却するとした方が分かり安いです。しかし、少し考えると、その確率の計算は簡単には出来そうにないことがわかりました。この確率は下図のP(H0|x)=①/(①+③)ですが、P(H0)P(x)が簡単にはわかりません。分かったとしても、P(H0)はコインの表の出る確率pが0~1のうち0.5というピンポイントの値になる確率ですから、0になってしまいます。計算するには、ピンポイントではなく、0.49~0.51になる確率とする必要があります。面倒なのです。

というような事情で、P(H0|x)の代わりにP(x|H0)=①/(①+②)を用いているわけで、このP(x|H0)がなにかと話題になる「P値」です。これを、帰無仮説が成り立つ確率と解釈して、その値が小さいなら帰無仮説を棄却すると説明されることが有りますが、間違いですね。今までの説明の通り、正しくは、帰無仮説が成り立つ場合にが起こる確率です。

P(H0|x)xが起こった場合にH0が成り立っている確率)とP(x|H0)H0が成り立つ時にxが起こる確率)では前後がひっくり返っていますが、なんとなく代用できるような感じがあり、実際に代用できる場合が多いので使われているのでしょう。

なんとなく代用できる感じがするのは、背理法的だからかもしれません。H0を仮定したら、非常に確率が小さいことが起こったことになるので、仮定を棄却すると考えてもよさそうな感じがします。しかし、起こりえないことが起こったのではなく、確率の小さいことが起こっただけに過ぎません。さらに、が起こる確率P(x|H0)が小さくても帰無仮説が成り立つ確率P(H0|x)が小さいとも限りません。P(H0|x)は図の①/(①+③)ですが、が0ならば、100%になります。

値を用いて検定する時には、いろいろ注意事項があるようです。

前記事の続きです。

密度✕体積=質量

速さ✕時間=距離

という関係がありますが、体積、質量、時間、距離を最初に定義し、

密度=質量÷体積

速さ=距離÷時間

のように、密度や速さを後から決めています。この順序は、たまたま先人がそうしただけで、違う順序でも構いません。似たものに、物理量の単位系があります。単位には、基本単位と組立単位がありますが、両者に本質的な違いはありません。どれを基本単位にしてもよいし、基本単位の数が異なる単位系もあります。SI単位系では、質量、時間、距離が基本単位で、密度、体積、速さは組立単位ですが、便宜的な決め事に過ぎません。

ところが、人間は便宜的な決め事に慣れてくると、本質的な事柄と錯覚しやすいようです。密度は体積や質量とは異なった性質の物理量のような気がするし、速さも時間や距離とは性質が違うように感じます。そのせいなのか、密度は示強変数で、体積と質量は示量変数という名称まで付けられています。

この分類、区別は便宜的なもので、変わってしまうことは前の記事で述べましたが、感覚的にしっくりくるものはあります。それは基本単位に影響されているように思います。速さは組立単位であるのに対して、時間と距離は基本単位なので、速さは性質が違うように感じてしまいます。これは便宜的なものなので、基本単位に速さと時間を選び、距離を速さ✕時間という組立単位にすることもできます。実は、それに感覚的にフィットする単位の名称もあります。「光年」といいます。「基本単位」の速さの単位は光の速さであり、時間の単位は1年の経過です。光の速さで1年進む距離が1光年という「組立単位」で表されます。この場合だと、距離は速さや時間とは性質の異なる物理量のような感覚になってこないでしょうか。感覚の話なのですぐにはならない人もいるでしょうが、経験によって感覚は変わります。

密度✕体積=質量 の場合は、密度と体積を同じ性質と感じるのは少し、難しいです。おそらく人間の知覚は、大きさや重さを直接感じることは出来ても、密度は感じにくいからでしょう。しかし、1kgの鉄と1kgの綿を持った時は少し違う感覚があります。持ったときの筋肉からの感覚と目で大きさを見た感覚が脳で統合されて密度に近い感覚をもたらすのかもしれません。

実は、密度と質量の関係に似ているものに輝度と光度があります。輝度は単位面積当たりの光源の発する光度で、密度的ですが、人間の感覚は輝度を感じやすくなっています。

結局、示強変数や示量変数とは人間の感覚器官による感じ方の違いを表している区別だと思います。私の知る限り、物理的な性質の違いを示すものはありません。

示量変数と示強変数という概念をご存じでしょうか。同じ容積の二つの容器に同じ温度の気体を同じ量だけ入れます。二つの容器を繋ぐと当然ながら体積と気体分子数は2倍になりますが、温度や圧力は変わりません。体積に比例する粒子数を示量変数といい、変化しない温度や圧力を示強変数といいます。熱力学では本質的な違いがあるそうです。

なんて説明されていますけど、気体を断熱膨張させて体積を2倍にすれば温度は下がりますが、粒子数は変わりませんよね。変ですね。粒子数を変えないようにすれば粒子数は変わらないし、温度を変えないようにすれば温度は変わらないのは当たり前ですけど、その片方だけ見て、大仰にも「示量変数」やら「示強変数」と名付けているように見えます。

一応、熱力学の理想気体の状態方程式から考えてみましょう。

PV=nRT

体積Vが示量変数的なのは物質量nだけ変化させて、他の変数圧力Pや温度Tは変化させていないのでnに比例しているだけです。温度Tが示強変数的なのは、Pは変えずに、nVを同じように変化させて、Tを一定にしているだけです。他のパラメーター次第で変化もする場合もあれば、しない場合もあります。単純な状態方程式を見れば明白です。

もっと単純な濃度はどうでしょうか。濃度も示強変数と言われます。濃度とは(濃度を考える物質の量)÷(全体量)です。物質aがx、物質bがyある時、物質aの濃度はx/(x+y)です。x+y=zとおけば、濃度ρ=x/z です。

ここで、xyを2倍にしても、ρは変わりません。ρが示強変数だからでしょうか。では、yは変えずにxだけ2倍にすると、ρ=2x÷(2x+y)で変化します。ρは示量変数だからでしょうか。どっちなんだと悩む人はいないと思います。濃度が変わらないような変化もあれば、濃度が変わるような変化もあるだけのことです。本質的な違いなんてありません。

これは、掛算固定のひとつ分といくつ分の区別とほぼ同じです。次の式から、食塩水の濃度は、全体の重さが1のときの食塩の重さ、つまり全体の重さひとつ分の食塩の重さです。

ρ(濃度)=x(食塩の重さ)÷z(全体の重さ)

これを変形すると次のようになり、全体の重さひとつ分の食塩の重さに全体の重さを掛けると食塩の重さになります。

x=ρ✕z

ρはひとつ分、zはいくつ分であり、「本質的な」違いがあるというわけです。ひとつ分が示強変数に、いくつ分が示量変数に対応しています。

しかし、

z(全体の重さ)=x(食塩の重さ)÷ρ(濃度)

でもあるので、全体の重さをひとつ分と考えても構いません。濃度が1のときの食塩の重さが全体の重さです。X(食塩の重さ)とρ(濃度)をそれぞれ2倍にしても、z(全体の重さ)は変わらないので示強変数になるではありませんか。

このトリックは単純です。z(全体の重さ)を2倍にしてもρ(濃度)が変わらないのは、x(食塩の重さ)も2倍にしているからで、xを変えなければρは半分になります。つまり、ρ(濃度)は変化させないという前提からρ(濃度)は変化しない示強変数だと言っているわけです。1リットルの食塩水と1リットルの食塩水を混ぜる場合だけ考えて、1リットルの食塩水に1リットルの水を混ぜる場合は忘れています。

バカみたいですが、なんとなく食塩水の濃度は変えないものという先入観があるのかもしれません。みかんが3個載ったお皿が4皿あれば、なんとなくひとつ分は3個という先入観と似ています。

天下り的説明

毎度おなじみ、日本語助詞の「は」と「が」の違いについての記事です。

www.kokugakuin.ac.jp

日本語学の答えとしては、「従属節中では一般に『は』は使えないから」というものです。「私が作った」という部分は、一人前の文ではなくて、「(これは)私が作った俳句です」という、より大きい文の中の小さな文で、こういうのを従属節といいます(この例の場合は、従属節の中でも連体修飾節と呼ばれるもので「俳句」に係っています)。従属節の中では一般に「は」は使えなくて、その中の主語は「が」で示されます。

この説明は、「ルールだから使えない」という天下り的説明で、間違いではないとしても納得感がありませんね。なぜそういうルールなのかを知りたいわけですから。納得できる説明のためには、先ずは、よく話題になる「は」と「が」の違いから始める必要があると思います。面白いのは、理屈は分からなくても、日本語が母国語の人はちゃんと使い分けることです。「この俳句は誰が作ったの?」と尋ねられたら「私が俳句を作った」と答え「私は俳句を作った」とは答えません。一方、「あなたは何をしたのか?」と尋ねられたら「私は俳句を作った」と答えますが、「私が俳句を作った」とは応えません。また、「誰は俳句を作ったのか?」とは言いませんし、「あなたが何をしたのか?」も少し変です。

■叙述構文

何故、このようになるのでしょうか。これを説明するのが、日本語には、題説構文と叙述構文があり、日本語の文には「陳述」が必須と言う説です。日本語文法にはいろんな説があるようで、これが決定版というわけではありませんが、「私は作った俳句です」が、なぜ日本語としておかしいのかをうまく説明していると思います。説明にあたっては、小池清治氏の「日本語はどんな言語か」によりました。引用部分はそこからのものです。

まず、叙述構文です。

叙述構文は、話し手・書き手が外界の事象や事柄を客観的に叙述するために採用する構文で、叙部と述部からなる。

叙部は、補足部(いわゆる「主語」や「目的語」など)と副詞や用言の連用形で構成される修飾部からなり、述部は用言と助動詞、助詞などからなる。叙述構文では体言を述部とするものは存在しない。情報的観点から述べると、叙述構文は基本的には全体が「新情報」となる。

(中略)

叙述構文は、原則的に事柄を言語主体(話し手・書き手)の主観的判断ではなく、客観的事象として叙述しようとする時に採用する文型である。「叙部」(補足部・修飾部)と「述部」とからなり、述部の核となる用言を包むような「玉葱型構造」と称すべき構造をもっている。英語などと違い、述部に含まれる主語ではなく、述部の用言が核となるところが日本語の大きな特徴だといえる。

(中略)

叙述構文は、・・・主観抜きの情報の核になるものは、いつ・どこで・誰が・何を・どうしたという、いわゆる5W1Hに関する情報で、日本語では、用言が「どうした」に関する情報を提供し、文末に置かれる。また「いつ」以下の情報は、用言の上に置かれ、体言または体言相当の語句に格助詞がついたひとまとまりの表現によって提供される。このひとまとまりの表現を、本書では「補足部」という。

例えば、叙述構文「犬が庭で吠える。」の述部は「吠える」で、吠える主体を示す「犬が」や吠える場所を示す「庭で」などが付属します。英語の主語に当たる「犬が」は無くても構いません。「どうした」にあたる「吠える」が主たる情報として叙述され、それ以外は補足情報に過ぎません。

■題説構文

次に、題説構文です。

題説構文は、話し手・書き手がなんらかの主観的判断を示すために採用する構文で、題目部と解説部からなる。

題目部は話題の中心となる題目を示す部分で、主としてハで提示される。話し手・聞き手にとって、既に知っている事、既知の事実としての扱いを受ける。「地球は丸い。」という文を例にして述べると、「地球」という言葉の意味するもの、指し示すものが、たとえ、聞き手にはわからないとしても、話し手は「聞き手がわかっている」ものとして、この表現をしているのだということを意味する。情報的観点から述べると、題目部では、いわゆる「旧情報」が示されることになる。

解説部は題目部についての話し手の解説、説明、意見、意向を示す部分である。解説部は事柄を客観的に構成し叙述する部分と話し手の主観的判断が示される部分とからなる。

解説部で述べられる事柄は、時間的制限を越えた凡時的一般的事柄としての解説や説明であったり、話し手の個人的意見、一時的意向であったりする。情報的観点から述べると、解説部で述べられる事柄は、聞き手にとって、まだ知らないこと、未知のこと、いわゆる「新情報」として扱われる。

「地球は丸い。」は、凡時的一般的事柄を述べていますが、「僕は、ウナギだ。」は、僕が今食べたいのはウナギであるという自分の一時的意向を示しています。解説部は客観的な場合も主観的な場合もありますが、聞き手の知らない「新情報」として示されています。一方、題目部の、「地球」や「僕」は、聞き手が知っている「既知の情報」です。

以上より、「この俳句は誰が作ったの?」と尋ねられたら「私は俳句を作った」とは答えない理由は、ほぼ明らかです。質問者が「誰」と尋ねているのに、題目部の既知の情報として「私は」と答えているからです。

また、「あなたは何をしたのか?」と尋ねられて「私が俳句を作った」と答えるのは、「私」が答えのようにも受け取れるからです。

「誰は俳句を作ったのか?」がおかしな質問なのは、構文的には、名前が「誰」という者が俳句を作ったか否かを尋ねている形なのに、「誰」という言葉の意味からは、俳句の作者を尋ねているようにも受け取れ、結局、意味不明だからです。共通しているのは、既知の情報と未知の情報が混乱していることです。日本人は無意識にそれを整理して話しているんですね。

■陳述

さらに、文に必須なのは「陳述」であって、英語のように「主語」と「述語」ではないという特徴が日本語にはあります。この特徴によって本題の「私は作った俳句です」がおかしい理由を直接説明できます。次の「日本語はどんな言語か」の引用部分で、日本語の文の要件は「陳述」であると説明してされています。

なお、陳述に対して、素材となる言語表現を「叙述」という。すなわちaの語句は、文の素材であり、叙述である。これだけでは文になれない。語句、叙述に陳述が加わってはじめて文となる。あらためて、文の定義をしておこう。

文とは、表現の素材となる語句、叙述に陳述が加えられた、ひとまとまりの言語表現である。

引用部分の「aの語句」とは、「私の部屋の窓際の机の上にある一冊の本」という語句です。これだけでは文ではありませんが、「。」や「?」などの陳述が加えられて文になるという説明です。陳述は話言葉では、イントネーション等で示されます。私が初めて「陳述」の説明を読んだ時はなかなか理解できませんでした。文型として明確に示されておらず、「陳述」つまり「申し立て」とは随分あいまいな印象がありました。しかし、文字が発明される前から言葉は話されていたわけで、イントネーションや身振り手振りも言語の重要な要素なのですね。

「日本語はどんな言語か」では、「男が本を買った」は叙述であるが陳述を備えていないので文ではないと述べられています。「男が本を買った店」のように連体修飾節にもなりえるからです。話者が「男が本を買った」という叙述をどのような意向で述べたのかを示して初めて文になります。書き言葉では句点「。」で示されます。話言葉ではイントネーションなどで表現されます。これを少々くどくいうと、「私(話し手)は、「男が本を買った」と陳述した。」ということになります。この陳述はもはや連体修飾節にはなりえません。陳述は話者の意向であり、「店」の性質や状態ではないので、それを修飾することはできないからです。逆にいうと、陳述のない「叙述」なら修飾可能です。一方、題説構文は、題目部で示された話題について、解説部で話し手の意向を陳述するものですので、連体修飾節にはなりえないわけです。

つまり、一つの「陳述」をする文の中に、他の「陳述」が入り込むことはできないのでしょう。これは、日本語だけでなく言語の普遍的規則のような気もします。ところで、陳述があれば、連体修飾節の中で「が」が使えない場合もあります。例えば、「桜が春の花だ」を考えてみれば分かります。これは、名詞文と呼ばれ実は「桜は春の花だ」という題説構文の強調形であり叙述構文ではありません。

■おまけー係り受け

日本語は係り受けの関係の解釈が一定ではなく多義になることがあります。その観点で「私が作った俳句です。」の解釈の可能性を考えてみます。

解釈1 (私が作った)俳句です。

解釈2 私が(作った俳句)です。

解釈2は、意味的におかしいですね。ところが、「私が出場した選手です。」を考えて見ると、

解釈3 (私が出場した)選手です。

解釈4 私が(出場した選手)です。

解釈3の、「私が出場した」は、前述した「私は出場した」という題説構文の強調形です。意味がおかしいというよりも、その意味自体を考えることが困難です。どうしても解釈4として読んでしまいます。

次に「私は作った俳句です。」を調べます。

解釈5 (私は作った)俳句です。

解釈6 私は(作った俳句)です。

解釈5は解釈3と同じで、意味を想起できません。

解釈6は、意味的におかしいですが、構文的には間違っていません。

まとめると、次のようになります。

解釈1と解釈4は正しい。

解釈3と解釈5がおかしいのは、文(陳述)は文(陳述)の要素にならないため。

解釈2と解釈6は構文的にあり得るが意味的におかしい。

「従属節中では一般に『は』は使えないから」と一言で片づけられませんね。

原発のリスクは小さい

確率的には、原発のリスクは他の発電方式より小さいといわれます。例えば、リンク先には次のように書いてあります。

テラワット/時」当たりの平均死亡率は、石油の場合36人、石炭の場合は161人、原子力の場合は0.04人となっています。

naglly.com

ただ、公式なデータではなく、データの信頼性は不明のようです。

お断りですが、引用したのは個人のブログで、元の情報源、算定根拠などは不明です。アメリカ政府または国際機関のデータを利用しているようですが、トレースできませんでした。データの信憑性についての担保がないことを予めご理解下さい。nextbigfuture.com/2011/03/deaths…

togetter.com

数字はともかく、原発は世界中で建設されているので、被害を便益が上回ると思われているのでしょう。

ただ、専門家ではない一般の人は、確率的な期待値だけでは判断しませんからね。大抵の人は、分かりやすい便益や損失の最大値で判断することが多いようです。

例えば保険の損失期待値は便益期待値より大きいです。そうでないと保険会社の経営が成り立ちません。にもかかわらず確率的には損な保険に入るのは、経済的に破綻するような大きな損失を避けたいからです。自動車保険に入っていないと、交通事故を起こしたとき、数億円の賠償金が払えず破産します。ちなみに、財力があり破産の可能性のない国の官用車は保険に加入していません。保険料を払うより安上がりだからです。

原発は、保険よりも投資に似ているかもしれません。身の程知らずの高額の投資は破産の危険がありますので、確率的には儲けが期待できても、お勧めできません。原発も国は推進しようとしますが、自治体が受け入れるかどうかは、一概に言えません。

また、宝くじも確率的には損する行為ですが、万が一の大当たりを夢見て多くの人が購入します。

保険へ加入する、高額な投資は避ける、原発を受け入れない、これらはどれも確率的には損する行為ですが、万が一の大損害を避けたい場合に選択します。また、宝くじを買うのも、確率的には損する行為ですが、万が一の大儲けを期待して選択します。一方、万が一の事態が良い出来事でも悪い出来事でも、それほど重大でなければ、確率的に有利な選択をします。

厄介なのは、万が一の出来事の重大さ加減の認識が人によって、あるいは立場によって違うところです。どちらを選択するか客観的に決められません。だから揉めます。

原発の最大被害は大きい

一般には、原発事故は極めて重大な事態です。どれほど重大かというと、原発事故の賠償責任は電力会社にあり、電力会社は原子力損害賠償責任保険への加入が法律で義務付けられています。しかし、それでも不足する可能性があるため、政府が援助することになっています。多分、政府の援助がなければ電力会社は原発を作りません。つまり、原発は国策で行わなければならないほど万が一の被害が大きいのです。

とはいえ、国が亡ぶほどではありません。重大さの加減は立場によって変わると先ほど述べたように、官用車は保険がなくても国は破産しません。重大な原発事故を起こした国は、日本の他に米国と旧ソ連がありますが、まだ存続しています。

しかし、自治体レベルになると話は違います。福島第一原発事故の影響から10年以上経っているのに、住民の帰還はわずかです。チェルノブイリ級の事故なら、町が消滅する可能性もあるのではないでしょうか。

■不平等感

ここまでの話は、保険等のそれなりの傍証がありますが、これ以降は、かなり思弁的な推測になります。ですが、持って回った言い方を避けるため、断定的に記述します。

人間の心理は首尾一貫していなことが多く、破滅的な事態も必ずしも回避するとは限りません。例えば、自動車の使用です。事故の賠償金は保険で処理できますが、交通事故で自分が死ぬこともあります。死ねば、個人レベルでは破滅です。なのに、多くの人が自動車を利用しています。理由はいろいろ考えられます。交通事故以外の原因で死ぬこともあり、また、自動車利用(救急車、物流促進等)で命が助かる場合もあって、総合的には死ぬ確率が減ります。ただそういう確率計算を個人が行うのは現実には困難です。おそらく、万人に平等にありうることは、あまり気にしないだけでしょう。

逆に、不平等だと感じると受け入れにくくなります。いわゆる迷惑施設は自分の家の隣に来てほしくないですからね。地域のためには必要だと分かっていても、また実際には不利益以上の利益を得ていても、自分だけが犠牲になっている気分になります。

原発は最大被害が大きく、かつ不平等に感じる

不平等感が大きい代表例が、原発です。発電所の恩恵は全国民が受けるのに、事故被害は、原発の近くの住民に集中します。交通事故と違って誰が被害者になるのか最初から決まっています。それに加えて、回復不能なほど最大被害が大きいです。

原発推進の立場からは、確率的に便益と損失を計算して便益が大きいことを示しますが、そんな計算は大して心に響きません。

かつて、「逆宝くじ」なるものを考えたことがあります。

shinzor.hatenablog.com

くじを引けば10万円もらえますが、1万分の1の確率で当選すると一億円を払わなければいけません。期待値を計算すると、約9万円儲かりますが、怖いですよね。さらに、1万人のグループの誰か一人がこのくじをすれば、残りの9,999人も8万円貰えるならグループとしてどうすべきでしょうか。1万人のコミュニティにとってこのくじは大きな富をもたらしますが、誰かがくじをひく一人に立候補するでしょうか。立候補すれば他の9,999人より1万円儲かる計算なのですが、犠牲者になったような気がしませんか。

■一つの原発の規模を小さくする。

1万人のコミュニティの逆宝くじは、日本と原発のアナロジーです。すぐ思いつく解決策に、不運にも1億円支払うことになった一人を他の9,999人が支援する方法があります。儲けた8万円から1万円を支援すれば、ほぼ1億円になるではありませんか。現実の福島第一原発事故でも国や、日本国中の人々が移住せざるを得なくなった被害者を支援しました。にもかかわらず、13年経過しても、帰還して以前の生活に戻れた人はわずかです。現実の物理的世界は複雑で、くじの計算ほど単純ではありません。お金を出しても、汚染された土地にすぐ住めるようにはならないのですね。いずれ回復するでしょうが、時間が係り過ぎます。それまで待てる人はどれほどいるのでしょうか。

この問題を解決するには、不平等な逆宝くじの状況を変える必要があると思います。つまり、一つの原発の事故の規模を小さくして、代わりに数を増やし、誰が事故被害を受けるか分からない自動車のようにします。東京のような都市近郊にも設置できれば理想的です。SMR(小型モジュール炉)が実用化されれば夢物語ではありませんが、どうでしょうか。可能でも遠い将来ですね。