◇悠々たる時空を超えて~(185年前からの書き伝え)part 3 (original) (raw)
「ご本尊様」と「天保通宝」のつながりについて
以前「悠々たる時空を超えて~part1」で、ご本尊様の台座裏に書かれている文字の読解を長野歴史館へ依頼したことを書きましたが、半年待っても返事が来ませんでした。そのため、専門業者へ読解を依頼し返答がきましたので、ここで纏めておきたいと思います。
【翻刻】
人心惟危道心惟微
惟精惟一允執二厥中一
天保七丙申龍集
庚則祈十日
湯原正彬敬白
【現代訳】
人としての心はあやうく不安定で、道にかなった心はかすかでわかりにくいものであるから、純粋精一につとめて、心から中庸(ちゅうよう)の道をとり守るようにせよ。
天保七年 庚則が十日間祈りを捧げた。
湯原正彬が申し上げます。
「天保の大飢饉」の際、庄屋という立場であった故の苦悩が書かれていました。
当時の上田で書き残された手記がありましたので、読みながら昔の状況に近づいてみたいと思います。
天保4年(巳年)は長雨で秋の実りが悪く飢饉となりました。翌5年(午年)は気候も順調で秋作も十分でしたが、同6年(未年)は夏中雨降りで風も吹き不作でした。けれども、特別の凶作というほどでもなかったとあります。しかし、この年の冬は寒気は強かったが雪は一向に降らず「からしみ」でした。そのため蒔いた麦の種が浮いてしまい、翌7年(申年)の麦のできは半作でした。そして、この7年5月頃からは冷気、降雨続きで、田植えが大変遅れてしまいました。雨はその後も降り続き晴れの日はごくわずかで、遅れて出た穂もほとんど実りがなく前代未聞の深刻な凶作・飢饉となったとしています。
4年間に3年の凶作でもあり、飢饉に備えていた者も貯えが尽き、ましてや貧しい者は飢えを免れることができませんでした。命をつなぐため、山に登って葛・蕨の根を掘り、木の実を拾い、食べられると聞けばどんなものでも刈取り、野も山も焼け野の如く取荒らしてしまったとあります。草木の毒にあたって死んだ人もあり、また、辺鄙な地では犬猫までも食いつくし、ついには命を失った人が多かったと聞いたとしています。
「天保7年」という年は全国的にも悲惨な年となりました。
北信州に「甘酒村」という村が存在していましたが、この飢饉のために村全員が餓死してしまい、村そのものが消滅してしまっている。
商人の街大坂では、不作による米の価格高騰で貧困層まで食べるものがまわらず、日々餓死者が増え続けたのにも関わらず、幕府は民衆を助けるところか、利益を優先させさらなる混迷を深めたという。翌年、与力であり陽明学者の大塩平八郎が乱を起こし鎮圧されたのはご存じのことだろう。
そういえば、仏壇の引き出しの中に1枚の「天保通宝」が大切にしまわれていたのを思い出しました。(今は家系図とともにお寺に預かってもらっていますが・・・)
当時は「なぜ、こんなところに昔のお金があるのだろう?」と疑問に感じていましたが、きっとこの時の気持ちを忘れないためにも保管していたのに違いありません。
何かあったときには、この小判を見つめ自問自答していたのでしょう。
天保通宝
将来、どのような時代が来るかはわかりませんが、気持ち的にも、経済的にも備えをしておくということが大切なのでしょう。
そう「節約・貯蓄」の大切さです。
中庸の道を守りながら、節約・貯蓄に励む・・・
サラリーマンでありながら、友人との付き合いもあるので、100%は難しいとしても、出来る範囲で心掛けて行きたいと思いました。