他人の不幸が蜜(みつ)の味とは (original) (raw)

通俗的な言い回しですが、掲題の言葉が当たり前のように言われることには、内心の意思を掴(つか)み取られたような“怖気(おぞけ)”を感じます。即ち、自分一人が幸せであれば、他人はどうでも良いような気持になることが一般的でしたら、ギスギスした関係が無くなることはないでしょうし、お互いが不信と猜疑の関係を超えられないということにもなります。

しかし、以前にもお話ししたとおり、管(かん)鮑(ぽう)の交わりなどは例外というべきかどうかは、自分の交流の範囲から分かるものと考えます。誰もがそうであってはならないと言ってはいますが、実際社会人となってからは、極端に友人が減り、昔の友達も音信が不通となってきて、一体自分の交友関係はどうなっているのだろうと再考せざるを得なくなるのでしょう。

しかし、あるべき姿と、ねばならないという関係性には隔たりがあるし、格差も生じて来ましたらどうにもならない自尊心とか偏見は飛躍的に増えるでしょう。

そうならないためにも、廻りを含めて知り合いが不幸でないことを祈りながら、自身の公私の生活にも変調をきたさないように努めなければならないと考えます。

生きるということは、艱難辛苦が舞い降りてきますので、これに気づかないようにするか、来ても振り払えるかを自身に問うべきでしょう。これが、蜜の味かどうかを判定する基本だと考えます。