湖畔の左へ (original) (raw)

まえがき

今年の春〜夏は、『はいよろこんで』を筆頭に、今生きている日本人の生活に蔓延する限界を、限界と名指しした上で、限界にどう対処するか、試行錯誤するような楽曲が多かった印象を持っている。しかし、この初秋リリースされた米津玄師のアルバム中の『LOST CORNER』がそれら限界論に終止符を打ったと、勝手に考えている。個人たちの限界は日本という国の限界を示唆していて、日本はピークを越えてしまったと仮定する。今後は色々失い続けることを覚悟しつつ、限界のラインを下げ、最善ではない、身の丈に合った選択を強いられていく、そんな未来が待っている。もはや、限界に手が届かない私たちが悪いのではなく、手の届かないラインを設定している私たちの自己評価が高すぎるのが悪いのだ。私たちは後退国に住んでいることを自覚し、十分に余裕を見繕って何事も計画しなければならない。そんなことを念頭に置きながら、この秋をどんな気持ちで過ごせばいいか、という問いに対する解となりそうな楽曲を聴いていきたい。

https://music.youtube.com/playlist?list=PLy6d1eVky53vOj1jyxLbeuqNCoCZHrAzO&si=THmU0_iGNZ-lFJKz

①地下鉄の揺れるリズムで

タイトルだけで味わい深い。東京の地下鉄は狭くて暗くて、8番出口のように無機質で非人間的な空間で、生命の輝きの感じられない虚ろな場所でしかないと、毎日諦めていた。そこに、リズムという発想が入るだけで、地下鉄の機能を利用するだけだった時間に彩りが出てくる。地下鉄のうるさい走行音や、他のお客との距離の近さ、体臭、よどんだ空気、それら耐えがたい要素が、生命の発露するステージになり変わりうる、という気づきが、平板化した日常に光を当て、陰影をもたらす。リズムとは、やはり鳴っていない時間の断続的な連続だと思う。乗車中様々感じるすべての事共は、意識に焦点を作り、リズムをリズムたらしめる時間の固まりなのだ。そして固まりの背後を満たす、固まらない不可視の時間の存在を、間接的に推測しようとするとき、リズムが相対的に沈み込み、その反発として浮上の感覚が生じる。浴槽に水を溜め、アヒルのおもちゃを沈めて手を離したとき、おもちゃが水面に向かって飛び上がっていくようなものだ。リズムを意識しない暮らしとは、浴槽に水を溜めないようなものとも言える。

「アステアみたいにステップ踏めたら」という歌詞は、ピチカート・ファイヴの『陽の当たる大通り』の一節から来ていると思われる。地下鉄は、陽の当たらない、狭い閉鎖空間だから、陽のあたる大通りの情景と、丁度反対になると言える。大通りでなら、ステップは踏めそうだが、地下鉄ではなかなか難しいと感じる。「アステア」とは、1930年代〜1950年代にハリウッドのミュージカル映画にダンサー・歌手として出演し、活躍したというフレッド・アステアのことだろう。YouTubeを見てみると、いくつか動画が出てくるが、その中では、アステアがタップダンスをしていた。アステアについてネットの記事を見ていたら、2019年の細野晴臣のインタビュー記事を見つけた。

https://filt.jp/lite/issue104/s10.html

失われかけているかけがえのない芸能として、フレッド・アステアのタップダンスを挙げている。なぜ失われるべきでないのか、細野晴臣は答えていないのだが、『陽の当たる大通り』に唐突に現れるように見える「アステアのように」というフレーズに、回答を見出すことができるのではないかと考えている。

タップダンスは、ヨーロッパ・アフリカからアメリカに奴隷として移住した黒人が、アフリカの民族舞踏やヨーロッパのダンスを習合させながら、当時確立していたジャズ音楽に合わせて、禁止された打楽器の代わりに足を床に打ちつける音で踊ったのが始まりだという。そこから白人社会にも広まり、フレッド・アステアのように、スーツに革靴を履き、ハットを被った正装で踊る芸能にまで高められた。アステアのタップダンスは具体的な芸だけれど、「アステアのようにステップを踏むこと」は、抽象的な言い回しだ。アステアと同時代ではなく、人種や生まれ育った土地も違っている、現代の日本人が「アステアのようにステップ」を踏んだ場合、どこか浮かれているような感じがする。バブル時代ならあり得そうだが、今どきの日本人には、心底浮ついてステップを踏めるものではない。浮ついているのではないが、浮つきを演じることに意義を見出すような、直接的ではない感情の発露を目的としてなら、現代の私たちにもステップは踏みうる。ステップなんて踏んでいる場合ではないけれど、ステップを踏むように、軽やかに踊るように、無理やりに振る舞ってみる。すると、それまで頭の中にあり、私たちに「限界」を感じさせる、真綿で締め付けるような何かの形が、逆にはっきりしてくるように思われる。はっきりさせた後は、適当に歌い飛ばせばよい。このように、「限界」に対処する術として、心中したり、無理やり引きはがすのではない、別の方針を示してくれているように思え、地下鉄から地上に出ていくような希望の光を歌から感じる。

②Νew World

Jazztronikってまだ活動していたんだ。十年以上前に聞いた記憶がある。なんと2004年リリースの七色を聞いてみると、全然古くなくて、最近の曲ですと言っても通用する。ある意味、ハウスという形式が2004年時点で完成していて、今もそのままジャンルとして残っているから、20年を隔たっても時間感覚のずれなく、スムースに聞けるのかなと思う。そして、スムースであるために、20年の歳月をジャンプして00年代半ばあたりに直接接続されるような気持ちになる。当時、よくわからないけど、気持ちのいい音楽だなと感じていた。今振り返ると、Jazztronikというアーティスト名がきっかけでジャズへの関心がわいて、色々豊かなジャズ作品を聞くことができたのかもしれない。

『SAMURAI-侍』も聞いてみる。懐かしい〜!今聞いても全然カッコいい。ただ聞いているうちに、思い出してはいけない昔のことが脳裏をよぎりそうな気配があり、少しスリリングな気持ちになったので、New Worldに戻る。

冴えわたる月の夜、「ずっと囚われつづけた理想とか憧れ」を手放すとき、なんの前触れもなく音も立てずに色のないディストピアを離れ、新しい世界に生まれ変わるという。まずこれは「転生」かもしれないと思った。不遇な人生を呪う厭世的な人間が、突然不随意に異世界に転移したり召喚されたりする。しかし、新しい世界に行くか行かないかは、自分で決められるものという内容になっている。不随意に飛ばされては、囚われを自ら手放すことができないので誤っている。次に、電子界へのシフトをイメージした。リアルに対してやはり嫌気のさした人間が、知性を電子側に移し、電気信号を主体とした現象に自らを変えてしまう。肉体を、制限のある不自由なものとみなすなら、電子化が新しい自由の世界を開く。まあ本当は、無意識に抱えている偏見や無知が、人生の選択肢を狭めているから、それらをできる限り取り払って、自分にとって新しい領域にどんどんチャレンジしていこう、そうすればその先ではより成長した自分になっていることだろう、という意味なのだろう。

でもここで『地下鉄の揺れるリズムで』の考えを無理やりつなげる。「ずっと囚われつづけた理想とか憧れ」とは、本気出せばこのくらいできるはずだ、という限界値である。私、ではなく、私たちは、その限界に達する体力が既になく、達成できない目標を掲げては苦しんでいる。一度ここで振り返りをして、私たちは自身の現状を把握し、限界のラインを再設定すべきだ。無謀なチャレンジをする前の段階で、現状認識すること自体が、世界の色や形を一瞬で塗り替えるジャンプになる。その先どうなるかは分からない。強くなることがいいこととも限らないのだ。

③星空フィーリング

「未来が透明になる」というフレーズが気になっている。不思議と、あー未来って透明になるよねという共感がわいてくる。でもそれって、先のことは考えないで、今いい気持ちになれていれば良しとする、危険な態度なのではないか。でもこの曲は、手放しで今を楽しんでいればいいと信じようとしている風ではないように聴こえる。むしろ、不透明な未来を一旦リセットし、透明で不可視で不可思議な未来を意識的に棚上げし、今ある「なんか良い」ものを自発的に集めて、今を駆動させるエネルギーを渦巻かせ、その勢いで未来を切り開こうとしている。刹那的な態度に陥らないようにすることと、定まっているかに見える幻の未来に絶望しないようにすることは、ちょうど綱渡りで左にも右にも落ちないようにバランスを取ることに似ている。必要なのは、何ものにも拘らず、自分にとって本当に価値あることを目指す生活の実践だと思う。

④IMA IMA IMA

宇宙を駆け回って探検するような、前に前にどんどん進んでいこうとする曲調が清々しい。ここ何年か、よれた音のする音楽ばかりだったなあと総括したくなってくる。すごい何となくだけど、Suchmosの『STAY TUNE』が作った時代の終わりなのかなとふと思った。私たちは一旦我に帰れた。誰かが押し着せた商品やエンタメを購入し続けることが、私たちの本当にやりたいことではない、と気付いた人が多数を占めるようになってきた。そしてついに私たちの前に、人生の楽しみとは何かという、極大の、かつ個人個人で異なる課題が、立ちはだかる。人間は誰一人として同じではないと正しく信じるのなら、私たちの多数が同時に心から満足できる楽しみもないと考えなければならない。少しずつ社会はAIにより効率化されるらしく、将来私たちの一部は、時間が余り出す。誰かのアウトプットを手にとってみても、一番楽しめたのは表現者だ。カラオケが好まれるのは、発声するという行為が一応、ある程度の表現の自由に開かれているためだ。やはり私たちも、自らアウトプットすることに楽しみを見いだしてみようとするのがいいのではないか。私が今やろうとしているのは、ある種カラオケに近いのかもしれないが、カラオケよりもう少し自由に考えてみようとしている。

例えば、「魔法みたいなものでしょ」という発想が刺激的だ。そもそもこの歌のことは、電子空間に何十年も漂っているAIプログラムが、あるとき、電子空間に生命活動の拠点をシフトさせたヒト達の住む街を見つけて、ヒトと一緒に恋をしてみようとする歌だと思っていて、ヒトはまだリアルのボディを残していて、電子の街にはログインして暮らしている。ボディがあるかどうかというのは、死があるどうか、ということだ。現実世界に足をかけているものには死があると、AIは学んでいる。私たち人間がそうであるように、AIも死という現象を観測することはできるが、死そのものが何であるかは分からない。だが死んでいない時間のことは、「魔法みたいなもの」と表現する性格のAIなのだ。現実世界には、AIをダウンロードできるアンドロイドがあり、心臓の鼓動、すなわち生命までは再現できないが、現実世界で姿形をもってログインすることができる。人間にとって、電子世界にログインすることが救いになるとしよう。ではAIにとって救いになるのは、現実世界にログインすることではないか?人間はカタチを煩わしく思っているが、AIはココロだけでいることを煩わしく思ってしまうのかもしれない。お互いに足らない所を埋め合う、そんな関係は恋愛と呼んでいけないことはない。ただ、AIは中身が上書きされない限り、通電すれば元通りだが、リアルな肉体を保持する人間はそうはいかない。電子世界からログアウトした人間と、現実世界にログインしたAIがロマンスを続けられるのは、魔法が解けるまで、ということになる。

⑤透明になりたい

平野君が歌うと、めちゃくちゃスリリングに聞こえて、ドキドキしてくる。え、もしかして今の芸能界での微妙な立場にはやっぱり辟易していて、いっそ一般人に戻りたいと考えるものなのかなとか想像が膨らむ。でも平野君の美貌と才能が、イチ抜けをけして許さない。仮に芸能活動をしない世界線があったとしても、周りが放って置かない。寄って集って平野君に「未来」を手渡そうとするだろう。そしてそんな様子は「不透明」と表現してしまえばよい、というバウンディ氏の洞察がギラッと光る。

本物の美しさには、深い翳りが宿るのだと、この曲のおかげで感じ入った。バウンディ氏に曲を書いてもらいたいと発案したことをプロデュースと言っているのだと思うが、儚げな曲調にすることも、平野君の考えなのだろうか。何となく、そうな気がする。ちょっと穿ちすぎかもしれないが、平野君のアイドル卒業宣言と捉えてもいいのではないか。アイドルはファンの前では完全無欠でなくてはならず、弱みはけして表には出さず、出すのならそういうドラマとして作り物の弱みを提供しなければならない。しかし『透明になりたい』を歌う平野君は、ぼーっとして、誰の目を気にせず、心の内側の柔らかい部分をさらけ出しているように見える。表としても裏としても、作り物めいていない。一般的なアーティストは、個人的な経験や感情を題材とした作品を出していくものだと考えているが、アイドルはそうではない。アイドルは事務所に所属していて、プロデューサーとやらが付いて回る。リリースする楽曲は、事務所のコントロール下にあるアイドルグループとして、プロデューサーが出す方針の元で、形が決まっていく。アイドル側からの希望を反映させることもあるようだが、これもプロデューサーが、アイドルの希望を反映させてやる、という上からの恩情の形で行われ、アイドルやファンは、プロデューサーの恩情に感謝する文化となっている。今回のアルバムリリースにあたっては、セルフプロデュースを行ったことが喧伝されていたが、そもそもアーティストが自分で作品の方向を決めるのは当たり前のことではないか。今までの彼らは、そんな自由を奪われていたのだし、彼らも外に出てみるまで、奪われていた自由の大きさが分からなかったのではないか。芸能界とファン、ひいては社会全体が結託して、見目麗しく歌う鳥を籠に閉じ込めてきたのだ。籠から出た鳥はもう、美しく歌う必要はないし、不透明な、暗い影の歌を歌ってもよい。

⑥Continuum 10

Continuumとは、連続体という意味らしい。生命、宇宙、仏教の悟りなんかを連続体と捉えられれば、あとは死んでも特に問題ない、大丈夫だ心配いらない、という思想があり、藤井風の『Feeling go(o)d』はそんな歌だった。大きな流れから器をもって一掬いした中身が命であって、命が消えるときは、その中身を元の流れに返してやる。誰もが、大きな流れの一掬いであり、どこから来て、どこへ行くのかは、元を辿れば皆同じであるのだから、他人との違いにいくら着目しても無駄であるし、せっかく掬い掬われたのだから、互いに健やかに、精一杯生きるように努めるのがよい。なお個人的には、大きな流れをプロデュースしている人格はないものと考えている。

アルバムタイトルは『Endlessness』であり、終わりがないというのは、死んでそこで終わりではなく、大きな流れに回収されて、宇宙が終わるまで続き続ける様を言っていると捉えた。ここで少しアルバム関連の記事調べてみたら、「輪廻の概念を深く掘り下げた作品」で、「生命のサイクルと再生を祝福する壮大かつ魅惑的な祝祭を作り出している」と評されていた。タイトルの意味する所から考えたことが大体当たっていて、納得したものの、「再生」を祝福する、という点には違和感を覚える。仏教では、輪廻のサイクルから離脱し、絶対的な涅槃に至ることを目的としていて、輪廻転生すること自体は、アンチパターンとして説かれているので、「再生」してはいけないはずだからだ。ナラ・シネフロか記事のライターか、どちらが間違えているのかは分からないが、キリスト教ではイエスは再誕して神の子として象徴化されるに至ったというので、「輪廻転生」を祝福すべきものと間違って理解されている可能性がある。そのへんの理屈はさて置いて、すばらしい楽曲で、アンビエントジャズに分類されるという。めくるめく極彩色の音色の世界にトリップしているうちに、きっと輪廻してしまうのだろう。最後の最後、音がよれよれになる所が面白くて、自分には、輪廻転生している最中は気持ちよく、わりとノリノリでトリップできていたけれど、いざ転生しきってみると、生老病死の苦しみを再度受けねばならないことを一瞬に知覚して、呆然としているようにも聞こえて、だとしたらナラ・シネフロは分かってやっているのかな、と思った。表面上はキリスト教ライクな再生賛美に見えて、実は最後の最後に裏切って、輪廻転生の教えが指し示す苦しみと同じものを、端的に劇的に表現しているのかもしれない。

⑦Everything Goes Well

ここ何年か、色々な人とコラボし続けているのを見かけていたが、珍しく単独の楽曲がリリースされていたので聴いてみたところ、不思議な魅力が詰まっているように感じた。何度か聴いているうちに、『LOST CORNER』の曲調に似てるから、魅力を錯覚しているのではないかと思い始めた。そう思いつくと、タイトルもどことなく『LOST CORNER』の勘所となる発想の一部に当たっているような気がする。正直米津先生の方が、全体的に音の感じが高級というか、いわゆる音がいいというやつなのかもしれないが、ギターの使い方とか、くぐもった電子音の種類が近いように聞こえた。特に、曲調が一致しているように思える。まず、バスドラムで一定のテンポを取りつつ、切なさを含む爽やかなコーラスをかけるところがある。Idiot Popが繰り返しているコーラスの音程は、米津のサビで4,5音かかる高音のシンセと近しいような…。また、曲の途中であえて音の大きさをぎゅっと絞って、その先に抜けていく開放感を演出しているところも似ている。古来からある展開だろうだから、たまたま同じ手法を使っているだけといえばそうだが。音楽制作の知識が無なので、そんな気がする止まりになる。

私の中でだけは、Idiot PopがLOST CORNERを咀嚼して、ひとつこの方向で一曲作ってみたら、何かいい感じになったので、コラボで出すことは控えて、個人でリリースしたのだろうなと、いう考えが流行している。まあもっとあけすけに、いいものをトレースして自分のものとして披瀝してしまってもいいのではないかと思う。YouTubeのコメント欄で、すぐあれに似ているだの、これのパクリだのとご指摘している人はいるが、どうせ別の生き物なのだから、同じにしようと思っても全く同じになるものではないと私は思う。真似された方も、真似されたところで、そのいいものを生み出す発想の仕方は誰にも奪われないし、別の角度から、新しい価値を生み出せる見込みがありそうではないか。お金が絡むとそんなことも言ってられないのかもしれないけど…。

⑧LOST CORNER

2020年代で最も重要な曲になると思う。この記事では秋にリリースされた歌を収集しており、アルバムリリースが8月末なので自身の基準ではぎりぎり対象外なのだが、あまりに大きな作品であるので、秋の曲として取り上げることにする。

米津先生から繰り返し連絡されていた通り、必須課題図書はカズオ・イシグロの『私を離さないで』である。読了して少し間が空いた今振り返って、大きな流れから弾かれる生命が今後存在しうる、という警告がなされているのだと思った。私たちは死ぬが、死を苦しみからの救いと捉えることもできる。『私を離さないで』の登場人物たち、そして高度なAIも、ノーマルな人間と同じ死が訪れない。私たちは、バスに乗れることが確約された上でバスを待っている。一方彼らは、バスに乗れないことが確約されている。大きな流れに対して垂直に遮る網があり、彼らはそこに引っかかり、永久に引っかかったままとなる。彼らは、大きな流れから離される悲劇を、生まれつき構造として抱えている。私たちは失い続ける生き物だが、彼らは失い損ね続ける生き物である。ノーフォークが希望のユートピアとなるのは、失うことができるものだけだ。失うことができないものにとって、ノーフォークはむしろ失い損ね続けるあり様を思い知らせる苦しみの土地になってしまう。失うことができない生き物は、それまでの価値をすべて、山のように積み上げ続ける。時間と空間は彩りをなくし、すべてが平坦に灰色になってしまう。

私たち、失い続ける生き物は、失うことができる、という祝福と呪いを平等に受けている。音楽におけるリズムが、鳴らざる時間に縁取られた、鳴り損ねざる空隙に宿るのだとすると、宇宙全体を覆い尽くしていたはずの大きな流れから、器をもって一掬いされたものは、大きな流れを捉え返すことで初めて、リズムを感じられるようになる。私たちは、あらゆる過去が大きな流れのうちに溶け込んでいることを(忘れ物取り扱い所の存在を)感じられる生き物として、予測することを一時停止し、失ったものを改めて数え直し、今、失わざるものの輪郭を掴むことをもって、現在位置からのリアルな動きと予測位置からの想定の動きの間に生じてしまっているズレを補正することができる。この、失い損ね続ける生き物にはできない営みは、宇宙から見れば何の価値もない、些末なものだが、これから現れるのかもしれない、失い損ね続ける者たちに対する責任として、私たちは、失い続けることのできる生活を謳歌しなければならない。

https://music.youtube.com/playlist?list=PLy6d1eVky53vfZZ6zpn0fDERGeg4tHJVU&si=ToIKBMklrO4uDolj

①The Light

初期のエレクトロ・ワールドとか、コンピューターシティの再解釈なのかな。コンピューターシティを十年以上ぶりに聞いたら、全く古びてなかった。コンピューター世界に日常がシフトしたら恋愛はこうなる、という想像の仕方が、コンピューターシティとThe Lightはかなり似ている。なんとコンピューターシティは2006年リリースで18年前なのでとんでもない。青春時代によく聴いていた頃のPerfumeをずっと

聞いていなかったことに気付くのに結構時間がかかった。Perfumeは1stアルバムリリース後に解散する予定もあったとのことで、1stそこまで売れてなさそうなのに、2nd出すに至った経緯としては、1stのあとに出したチョコレイト・ディスコが界隈でバズり、ポリリズムが提供されたACコラボキャンペーンに抜擢されることになったそうだ。秋には「ネビュラロマンス前篇」という、前後篇に分かれた意味不明なコンセプトのアルバムの前篇がリリースされるが、ヤスタカそんなに曲作れるのか…?ネビュラとは星雲だという。COSMIC EXPLORERとか、最近の曲ではMoonもあって、宇宙的な世界観はこれまであちこちに表れてきていたが、今回は星雲で、しかもロマンスがテーマになる。The Lightも恐らく収録されるはずだ。確かに、星雲というイメージと、ロマンスの要素を兼ね備えた楽曲だと感じる。電子空間は星雲というイメージに通じるものがあると思うし、ネビュラとは電子空間の比喩ではないかと予想する。ロマンスといえば甘い恋の夢物語、ロマンといえば夢や憧れになるが、ロマンス文学なら、恋愛や冒険を扱った大衆向けの作品となる。恋愛感情を、捉え尽くすことのできない、人間の無限の深淵から来るものと捉えるとき、完全な電子空間が人間の意識をすべてパラメータに落とし込んだとしたなら、恋愛感情はモデル化できるようになるのか?モデル化されたとき、ロマンスは存在できなくなってしまう。汲み尽くすことのない幻想があるから物語も尽きないのであって、無限に応用可能なモデルが出来上がるということは、過去現在未来すべてのロマンスが語り尽くされたに等しいからだ。脳みそが物理的に存在する限りは、物理的な条件が無限になるので幻想は尽きないだろう。もし脳みそを仮想化したなら、そこで有限となり、恋愛感情は計算可能になる。(恋愛に限らないが。)つまり、有生の恋愛は無限、無生の恋愛は有限になる。生病老死を避けられない現世で人として生きつつ愛し、人として愛を返して死ぬ方が美しいという意見は、藤井風も煉獄さんも言っているし、是非のない真実だと思っている。

しかしここで想像に想像を重ねてみると、無生の電子世界にも無限のロマンスは成立するかもしれない。無生の存在が有生に再度シフトする方法はただ一つ、死ぬことである。もはや詩的にしか書けないが、無限に光る星は、死滅を愛するのだ。ネビュラロマンスに引き返すなら、星雲におけるロマンスは、現世的な恋愛はカッコ付きで保留され、私たちの死生観に食い込んでくるだろう。Perfume中田ヤスタカがどんなロマンスを見せてくれるのかとても楽しみだ。

②Shining Summer Dream

離婚伝説が「あらわれないで」で、「いっそセレナーデ」のラジオを引用していていたが、ここでもカーラジオが出てくる。波長を合わせたものにだけメッセージが届くという仕組みがエモいのか、聞いているでも聞いていないでもない、無味乾燥な情報の波を感じている時間のザラついた手触りが現代人のリアルをいい感じに表してくれるからなのか、よく使われるモチーフだと思う。

あり得たかもしれない未来を思うことが、今のところ自分にはなくて、これは、人生の要所で常に納得のいく選択をし、諦めるものは諦めるという整理ができていたから、というわけではなく、自分で責任をもって自分の人生を選択したことが一度もないからなのだろう。生活の様々な場面でちゃんと考えていない人は、場当たり的に行動して、偶然に任せた選択をしてしまう。偶然に身を任せることに決めているならいいが、そうでないなら、身の回りの物事を選ぶ自由の楽しみは試さないでは勿体ない。

Shining Summer Dreamは恋愛の歌と捉えればよいようだが、若い頃の可能性に満ちた時期を過ぎて、ある程度将来の見通しがついてしまった大人が、昔を懐かしがっているような歌だと考えてもよい。恋愛の話なら元に戻ることはないが、青春の話なら、お金はあるのだから、あとは時間か場所かを捻出すれば、過去を総括して要するにこういうことがしたかったのではないか、と思うことに挑戦できるはずだ。当時考えなかった分を考えた結果、自分自身が変化してしまっているなとわかれば、では今ならどうするかという発想につながるし、色々情報を蓄えて視点が高くなったことで、よりよい思いつきに結びつくかもしれない。

③BON

既存の枠組みをぶち壊せるのなら、欺かれてもいい。今ある枠組みだって、最初は何の根拠もなかった。究極では国家ですら何の根拠もない。幻を信じる国民がいるだけだ。ジャニーによるジャニーのためのジャニーの事務所にも影響力なんてない。力を信じているファンと、ファンが落す金を狙うビジネスがあるだけだ。今の彼らは、トリックスターと呼んでもいい。芸能界の秩序を破り、翻弄している。彼らが歌い踊るごとに、エンタメ界隈全体の未来の可能性が拡がっていくように感じ、明るく元気な気持ちになる。

私たちは限界に直面しているが、誰かが能動的に線を引いているわけではない。到達することに限界を感じるほどのラインを、到達すべきと信じている人が多くなっているという原因不明の病のようなものだ。人間の体もよく、原因不明の不調に陥ることがある。明らかな異常がないのなら、大体姿勢や癖が気づかないうちに体の一部に凝りを生じさせていて、体のバランスを損ねてしまっている。改善したければまず凝りに注意し、その原因らしきあれこれに思いを馳せ、体の使い方を見直してみる。そして何かしらでほぐすことが必要だ。社会に蔓延する限界も同じように考えてみれば、限界を人知れず定めている何ものかを特定することは難しいので、とりあえず揺らしてほぐしてみるべきだ。彼らの曲を聞けばそれは叶う。

考えてみると、この病は、社会の老化なのではないか?社会という何ものかは、ここまでのラインまではできるはずだと思っているが、実際にはできない。できるはず、と信じて諦めきれないフェーズから、諦め始めるフェーズに移行するとき、限界という考え方も薄れていくだろう。

④はいよろこんで

Feeling Go(o)d後に聴くと、鼓舞されるというより、迷い道に鳴り物入りで行進していくような不安感がある。

「救われたのは僕のうちの1人で」…という歌詞をもう一度考えてみると、「優しさが勝つ」とき、誰か相手に対して我慢をしていて、我慢している自分を褒めているようだが、「僕」の別の部分では、言いたいことがまだふつふつと煮えている。救われた部分もある、と言っているが、強がりでしかない。主張を曲げてしまうのは、自分のオピニオンを通すための技術が足りないか、そもそも性格が向いていないのだ。不公平に怒るのは思春期までにして、全く違う世界で闘うべきだが、実際こっちのけんと氏はそうして、ついに兄・菅田将暉と闘う剣を手に入れた。結局、その剣が欲しかったんじゃないの?偶然に身を任せて選んだ過去のことを、「優しさ」から主体的に選び取ったのだ、と美化しているだけではないか。きょうだいがトップスターだなんて、どんな生き方になるのか想像もできない。「はいよろこんで」の魅力は、個人的にも本意ではないが、菅田将暉という強烈な光に隈取られた闇の深淵から吹き出す力に依って成り立っていると言わざるを得ない。つまり、この歌は優しさの歌ではなく、むさぼり、憎しみ、愚かさといった不善に満ちた奈落音頭である。

Feeling Go(o)dいわく、胸がうるせえときは、静けさに耳を傾けるべきと。自分の心臓の鼓動で頭がいっぱいになっていると、鳴らざる心を取りこぼしてしまう。

ハクナマタタのWikipediaを見たところ下記の記載があった。

ミーアキャットのティモンとイノシシのプンバアがシンバというライオンの主人公に苦しんだ過去のことを忘れて、現在だけ充実しなければならないという教訓を教えて励ましている。

ライオンキングちゃんと見たことないので、間違っているかもしれないが、過去の出来事は頭から捨て去ってしまって、新しい環境に順応して楽しくやっていこう、という仲間から主人公への誘いかけだとすると、陥れられた過去すら無に帰る可能性にも開かれた、なかなか恐ろしい方針だと思う。なぜ心音=ハクナマタタな音なのか、ずっと考えていた。自分の心音ですべてを塗りつぶし、頭の中が黒い線のぐちゃぐちゃでわっーとなる病的な状態を、ハクナマタタという言葉を持ち出して無理矢理肯定しようとしていないか?知性のハングアップによる短慮を「ギリギリ」と称し、刹那的で再現不能な判断こそ命の発露だとする考え方だとしたら、一緒に踊るのは危険かもしれない。

⑤毎日

「日々共に生き尽くすにはまた永遠も半ばを過ぎるのに」という歌詞に関して、中島らもの『永遠も半ばを過ぎて』の始めの方と終わりに、インスタントコーヒーを作る描写がある。いわく、はじめに粉を少量の湯で溶かし、どろどろにしてから薄めるようにすると風味よく仕上がるという。ゴールドブレンドのパッケージにも書いてあるので、これは知っていたが、作中に2度も描写されると少し説明的でくどさを感じた。要は混沌の比喩で、主人公が睡眠薬でラリって出力した文学の源泉はどろどろと濁っている、ということを言いたいのだろう。本が刊行された当時はどうだったのか分からないが、インスタントコーヒーは、日常生活の背景に埋没した一部分になっている。日常に溶け込んだ混沌は、お湯で薄めて飲むとよい、とおすすめされている。「毎日」で引用されたところの意味は、生を全うするまでに喰らわねばならない混沌を薄めるには、必要になるお湯が多すぎる、ということだ。宇宙の始まりからぶっ通しで続く清澄な時の流れから、私たちはいっとき水を掬うように生きる。主人公が電子写植士として、原稿の入力と出力に没頭したように、清い水に漱がれながら生きることもできる。そちらのほうが個人的には好みで、美しいと感じる。一方で、人間の短慮や悪徳によって生じる様々の地獄や奈落がもっているインセンティブを発火点として、命のエネルギーを燃やして湯を沸かし、混沌に湯を注いで飲むような生き方も人間にしかできない。大いなる智慧の眼差しで見れば無駄なだけなのかもしれないが、坊主ではないのだから、けして薄めきることのできない混沌の海を、喘ぎながら泳ぐ生活に、退廃的ではあれ喜びを感じてしまってもよい。

⑥スペル

「かけがえのない後悔」という歌詞の意味について、生まれてきた子どものことを言っていると捉えたが、さすがにこれは間違いだった。親となった自分が子どもの頃にしでかしたあれこれのことを言っている。親にならなければ親の気持ちは分からないというのは間違いないだろうが、親として子どもを観るにつけ、子どもだった頃の自分を、自身の体験だけでなく、親として子どもを見るように過去の自分を見ることで、立体的に浮かび上がってくるものがあり、それを「かけがえのない後悔」と呼んでいるのかと思う。親にしてもらったことへの感謝、親に迷惑をかけたという気付き、親にして返したことの少なさといった事の集まりが強い力で私たちを上から押さえつけてくる。親と子が連綿と具体的に続けてきた生活の時間が鎖となり、私たちを縛り付けもする。家系図が実際にはなくても、何某の土地から出て、何々を娶った男の息子、といったアイデンティティが、家族という共同体の中では通用する。個人的にそれが煩わしい。自分が何者かを決めたくない。決める必要はないではないか。血の繋がりは事実としてあるが、そこに幻想の共同体をつくり、構成員として自分自身を家系図の一角にあてがうのは、自分で自分の可能性を狭める。可能性というと、何か面倒くさい自分探しの話とかにつながりそうなので言い換えると、柔軟でなくなる。しかしまあ柔軟でなくなると言っても、どんな地点からもその時々で最大限の自由を発揮する余地があると思えば、人間生きている限り柔軟さを失うことなんてないのかもしれないし、自分を既存の枠組みに当てはめることも、自覚的に行うならそこに新しい発想は生まれうる。

家族という絆は、個性を圧迫する。無くてもいいように思えるが、無ければないで、広大無辺な自由の方に私たちは圧倒されがちになる。自由の中に自分だけの面白さを見出だせるなら、家族は近いところを並走する仲間くらいに思っていればよく、何も見つからないなら、近い人のために時間を使ったり、身を捧げてもよい。ただ、いずれかの方法を選択することの自由については誰もが考えられるべきで、家族という共同体に時間を使うことを強いられるとすると、その強いる力の源は、呪い(スペル)と呼んだ方が良い。

⑦浮遊

藤井風の言う「愛」と、安次嶺希和子の言う「愛」は何が違うのだろうか?安次嶺の愛が「研ぎすまされ」ないと見えないとすると、その愛は集中によって維持されていた。相手の存在があって、そこに向かっていく、相手がいなければ方向は定まらず、彷徨い人になってしまう。

多くの時間を共有した親しい人が死んでしまったとき、自分が大きく損なわれたように感じるのは、相手との間にだけある自分にアクセスする術を失ったためだろう。自分と相手がいて、コミュニケーションをしている間にだけ存在する自分は、相手との相互作用によって成り立っているもので、相手がいなくなってしまったら、二度と同じ自分は現れない。

安次嶺の愛は見て、聞いて、触れられる輪郭によって成り立っている。この愛は存在しない。輪郭を成り立たせるのは、絶えざる生存確認の繰り返しであって、確認する間にだけ、輪郭が現れる。一方、藤井の言う愛とは、見えず、聞こえず、触れられないものである。

⑧Feeling Go(o)d

胸がうるせえときは静けさに耳を傾けよう、という教えについて考えていた。抽象化すると、何か気になることがあるときは、気にしていないことについて考えようということかと思っている。ある人のある振る舞いが気に入らないとして、気に入らなさに集中するほど、怒りが湧いてきてしまう。そうではなくて、同じ振る舞いをしているのが別の人だったら、同じように気に入らないと思うのか?または、その人が別の振る舞いをしているとき、同じように気に入らないと思うのか?といった、今感じていることの逆や裏を考えてみる。考える対象によっては、効果は劇的で、ある人が行っている気に入らない振る舞いを、それ以外の全員が行っていないとき、気に入らない振る舞いをしないでいてくれるそれ以外の全員に感謝の気持ちを起こしうる。何かを気にしている、という状態は、目的を叶えるために維持する必要がある場合もあるので、気にしっぱなしでよいこともある。フェンシングでは相手の剣先や体の些細な動きに注意していなければ、相手からの攻撃をかわし、自身の攻撃を通すことはできない。必要なのは、注意するか、注意している対象の周辺を思うか、というレバーを機に応じて傾けられるオペレーター的な視点になる。人間は肉体が自動的に反応するようにできているので、注意することは誰でも行える。一方、注意を拡散させる方向は、できる人とできない人がいるらしい。私も注意ばかりして、注意を拡散させることが苦手だ。おそらく、拡散させる方向は訓練が必要になる。藤井風の教えが厳しいな、と感じるのは、静けさに耳を傾けるという単純なことでも、苦手な人にはそう簡単にできるものではない、と思うためだ。

改めてMVでは風氏はガイド、多様な方々はツーリストとなっている。私たちが今気を配っている物事以外のすべてについて、なぜ注目せず切り捨てていられるのか、という無限に拡がる内的な課題は、旅に例えられている。心の内側に向かっていく、それだけのことであっても、自分の中に眠っているむさぼり、憎しみ、怒りに焦点が合うかもしれないと考えれば、十分にスリリングで、冒険と呼び得るような危険がある。そんな旅にはガイドについてきてもらった方がよい。ではガイドはどこにいるか。注意するかしないかを決めるレバーを握っている者がそうだが、その人はいつでもそばにいるかというと、何かに注意している間はいない。しかし、何かに注意する自分を感じたとき、そこには明らかに何者かがいる。ガイドは自分の外側にはいない。いつも内側にいるのだけれど、内側に注目し、探していてもやはり見つからない。探している自分を感じるとき、感じている私自身がガイドそのものになっている。つまり、藤井風扮するガイドは私たち1人1人それ自身の一面を象徴している。私たちはツーリストとして歩くと同時に、ガイドとして私たち自身を導く。導かれる先の正しさは、将来過去を振り返ることでしか確認できないもので、その場その場では、神や仏に由来するライブラリを参照することになるだろう。しかしそういったものから離れた今どきの人間なら、旅の道行きは自ら評価し、自らを拠り所とするガイド=ツーリストとして、できる限り多くのことを見て感じようという決意をもって生きるべきだ。

https://music.youtube.com/playlist?list=PLy6d1eVky53vfZZ6zpn0fDERGeg4tHJVU&si=ToIKBMklrO4uDolj

①The Light

CAPSULEVR空間でライブパフォーマンスしていた。少し見てみたかったがスペックのあるPCを持っていないし、ハードルの高さは感じるので早々に諦めた。この曲を聴くと、その諦めたライブはきっとこんな感じだったのかなという雰囲気を感じられる。全体にかかっているエフェクトがどういう類のものなのかは分からないけど、一枚膜で隔たっているような印象を受ける。リアルではない、電子的な空間にビルが立ち、電車や車が通う。そこにはリアルではない人間がいて、リアルではない恋愛がある。虚飾のイメージでリアルの都市生活を批判したいのではなく、本当にリアルではない電子空間での生活をストレートに表現しようとしている。朝の光は電波として降り注ぎ、人々の顔はあらかじめ設定したパラメータによって決まった通りに動く。「体が動かない」という歌詞は解釈が分かれそうだが、電子空間にログインする端末に座るか寝た状態でログインしていて、ログアウト直後にリアルの肉体に意識が戻ってきた様子を描いているのかと思う。リアルではない出来事をリアルに戻って思い返すにつけ、サーバが電子空間に写す像と、リアルの脳が写す像に差のないことを確認できる。電子空間では姿形や身振り手振りも作られたものだが、実はリアルでも電子空間と大差ないのではないか。複雑な人間の知性は、周囲からの刺激に対する反応をあらかじめ演算して決めているのではないか。だとすると、私たちはリアルだろうと電子空間だろうと、操り人形のように悲しい存在であることに変わりがない。

②Shining Summer Dream

ファミリージェネシスで知ってから、その前後のアルバムは聞いていたが、最近この曲がレコメンドされるまで忘れていた。なんとYMCKは2023年で結成20周年とのことで、大きく活躍している風ではないけれど、世界でも人気があって、今もこうして名曲をリリースしていることに感動する。YMCKは昔から、曲やアルバムごとにテーマを設けて、そのテーマの中で歌詞や曲調を作っているところがある。感覚としてはアニソンに近いけど、枠組みを設定しているのがアーティスト自身だというところが決定的に異なる。しかも、チップチューンという鳴り方に制限のあるサウンドだけで曲を構成するスタイルを貫いているから、二重の枠組みの中で楽曲を作っていることになる。俳句や短歌は、限られた文字数で色々なルールを課すことで、無限の創意工夫を生み出す空間を作り出しているが、YMCKも同じだと思う。強い制限があるからこそ、その中で新しい発想も生まれてくる。

Shining Summer Dreamは幻想的な曲で、何度聴いても掴みどころがない。電子空間の幻のようだ。

③BON

勢いのあるグループって縁起がいい。曲に自身のグループ名を歌いこむって、すごく勇気ある。もし何年かで下火になってしまったら、グループ名が入っている曲をNo.i自身で聞きたくなくなってしまわないか、とか親心のような心配がわいてくる。でも今の彼らにそんな心配は関係ない。後のことを考えるより、今スターダムで輝くことを目指して一生懸命踊っている。翻って、今こうして曲を聴いて色々書いている自分について考えてみる。すべて、何の真実味もない空想を書いているだけなのだけれど、ここでは「煩悩」を書いていると表現したい。煩悩とはこだわりであり、ある物事や自分はこうであるとか、こうであり続けるという思い込みである。盛者必衰、今調子が良いなら、そのうちに勢いは落ちていく。正直、今のNo.iの調子の良さは、仮初めのように見える。勢いがどれだけ続くかは、彼らに傾けられる煩悩の量によるだろう。つまり、煩悩とは、滅びゆくものを自然に逆らって存続させる力の源であり、厳しい芸能界で生き残るに足る煩悩を集めるか、滅びるかの瀬戸際に彼らは立っている。嫌らしい言い方をすれば、ジャニー喜多川の煩悩は、死んだ後日本社会に大穴を開けるくらい巨大だったわけで、そんなありえてはいけない煩悩から縁を切って、新しい煩悩を育てることの難しさが特大の課題として彼らの前に立ちはだかっている。しかし、ジャニーの宿業を祓うにあたって、雅楽をもってくるのは天才の発想で、おそらく平野氏が提案したであろう、盆栽のモチーフが結果的に雅楽という手段に繋がったようにも見え、禊ということに感覚的に近づくセンスが素晴らしい。伊勢神宮式年遷宮という、20年おきに建物を新しくする営みがほぼ途切れずに続いているように、ジャニーズという建屋をぶっ壊し、新しい建屋を築造する、ある種神聖な役目を務めようとしている彼らには、何の真実味がなかろうと、煩悩を燃やし、自然に逆らってしまってもよいと思える。

④スペル

折坂悠太のアルバムはスペル以外ピンとこなかった。結婚して子どもが生まれたとのことで、子育て中の風景を歌っているのかなと思う。しかし自分の子を「かけがえのない後悔」と歌っているとしたら、かなり大胆だ。でもそれが今の20,30代の感覚に近いだろう。後悔すると分かっているから、子どもをもうける人が減っているのだ。その後悔とは何かというと、一人の尊厳ある人間をこの世に生まれさせる重い責任であり、命に対する敬意である。かつてあったという、年頃の若者に子どもがいないことに対する社会的なプレッシャーは、新しい命に対する視線が欠けていた。それが適切に個々人に浸透した結果がただいまの少子化ではないか。スペルに充溢しているのは、命に対する視線である。観音菩薩は、あらゆる存在、事象を観る能力をもつと言われているが、観ることができるから、様々な慈悲(対処)を行うことができる。親とは、子に対する観音でなければならない、という新しいプレッシャーの方が、今の社会にはより強くあるのではないか。社会からの外圧として、観音的力を発揮しなければならない、という順番だとすると、それも、命を軽視した転倒したものの考え方になってしまう。外圧の存在は感じつつ、しかし外圧によってではなく、親自身の内から観音的力は行使されねばならず、その難しい課題を、すべての人がうまくこなせるとは限らない、というのが現実だろう。各家ごとにある喜び、苦しみ、齟齬を、日本人は積極的には共有しようとしない。そんな中で、折坂はスペルで家庭生活の核心を歌い上げてくれていて、私たちは曲を聴くにつけ、子どもだった頃に受けた視線、そして親として振り向けた視線を思い起こす縁とすることができる。

⑤はいよろこんで

サザエさん風の画面割や、昭和の漫画調をフルに使ったPVが斬新で楽しい。歌詞にモールス信号でSOSとぶち込む発想には度肝を抜かされた。ひとつひとつは意味不明そうな歌詞なのに、全体として調和していると思わされるのは、過去に精神を病んだ経歴をもつというこっちのけんと氏の視座の深みに由来する、論理的に説明することの難しいリンクが張り巡らされているためだと思う。最近、「限界」を歌う歌が多い気がする。メズマライザーとか、ビビデバとか、そのあたりを諌めているとも、扇動しているとも思える米津の「毎日」といった曲の描く世界では、限界が既に手元に到達していて、現実を疑ったり、転倒させたり、開き直ったりと、様々な対処に追われてキリキリ舞いする今の私たちが歌われていると思っている。限界とは具体的に何かというと、人それぞれに異なっていて、これと示すことは難しい。しかし全員に等しく限界が訪れている、という認識を共有しようとするのが、最近のトレンドになっている。

限界の渦中でどのように振る舞うか。対処の仕方は個々に違っている。ビビデバのように「ハイになるまで踊る」か、毎日のように「逃げるだけ逃げ出して捨てるだけ捨てる」か。こっちのけんと氏は、逃げることと踊ることを両方やろうとする。一歩踏み出すことをやめずに、嫌なことを嫌だと感じることもやめない。そもそも、一歩踏み出すことと、嫌だと感じることはどちらも人間に生得的に備わっている仕組みであって、死ぬまで止むことがない、という思想を感じる。私たちは、足を前に出しては嫌なことを思い出し、出した足を引っ込めたり、一度止めたものの結局斜め横に出したりしながら生きていく他ない。その様は傍からみれば、滑稽なダンスに見えるだろうが、限界に突き動かされて踊らざるを得ないのは誰しもそうなのであって、一人一人に誂えられた限界ギリギリのライン際で踊ることが命の発露そのものなのではないか。

⑥毎日

やっぱり朝ドラ用の仕事がストレスだったのか、虎に対して猫をぶつける皮肉まで利かせて、世間を罵倒し開き直り、両手を左右に広げつつ丁寧にお辞儀し、かつ顔はしっかりこっちを睨みつけているような曲。中島らもの『永遠も半ばを過ぎて』と石川啄木の「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」を参照している。また、「ハイホー」は白雪姫の七人の小人が歌うフレーズで、「仕事が好き」だという意味があるという説が広まっているようだ。本当かは分からないが、そのような解釈があることは意識されているだろう。以上から、労働と生活をテーマにしている。

労働歌や労作歌(ろうさくうた)というものがある。労使間の力関係が大きく、奴隷かまたは奴隷に準ずる厳しい働き方をせざるを得なかった昔の民草が、過酷な労働の合間や、作業の拍子を取るために歌った民謡の一種で、今現在本気で歌っている人はいない。はずだったが、米津の毎日は、新しい労働歌として、限界に直面する私たちに流布してもおかしくない。今の社会人がオフィスで働きながら歌を唄うなんてことは絶対に考えられないので、働きながら歌う自由がある点だけは、今の労働者よりも自由だったといえる。それに、辛い中にも労働にリズムを見出して歌いだすなんて、権力者への反骨心も感じられてクールだ。もちろんそれは肉体労働の反復作業だから、拍子が取りやすかったのだろう。しかし今の私たちは、1日、1週間、1ヶ月という長いスパンで反復作業を繰り返しているのだから、その反復からリズムを取り出して歌う自由に開かれているはずだ。

『永遠も半ばを過ぎて』を読んだが、電子写植士とでも呼べばいいのか、電子機器が出たての頃の特殊な生業で1人仕事に喜びを見出しているように思っている男が出てくる。その男は、原稿を写植機にタイプするとき、意味を掬わずにひたすらタイプし続けることに、清い水の流れで身を漱ぐような喜びを感じていた。しかしそこに転がり込んできた詐欺師の同級生が持っていた睡眠薬を飲んだ途端、男は意識を混濁させながら、原稿に過剰な意味を見出し、原稿から外れた言葉を打ち出し、ついには自ら抒情詩をタイプし始める。肉体労働によるリズムが労働歌となるように、電子写植という労働のリズムは、抒情詩として詠われるのだ。かつて地域ごと、作業ごとに労働歌が発生したように、多様化した労働ごとに、労働歌のようなものが存在するのではないか。いや、何なら、私たち一人一人に固有の労働歌のようなものがあるのかもしれない。米津はシンガーソングライターとして働く人間であり、そのような個人からは、「毎日」のような労働歌が歌われる。

⑦浮遊

「息も絶えない二人ならば」分かることが、息も絶えない二人でないならば、分からなくなる。恋人に先立たれた悲しみが来るよりも早く、思い出が夢の中に溶けようとしている。バラバラになろうとする夢を追うように、感覚を研ぎ澄ませれば、まだ辛うじて恋人の言葉を呼び起こすことができる。しかし二度と触れられない面影は悲しみの影となり、私を夢の中で彷徨わせることになる。

「息も絶えない二人ならば」という言葉は生まれて初めて聞いたし、死の表現として強く印象に残る。やはり身近な人を亡くした経験を歌っているのだろう。もし、身近な人を亡くした人を主人公とした私小説として歌ったのなら、精度が高い。多くの思い出を共にした人が亡くなるとき、未来において触れることができなくなるだけでは済まず、過去の思い出も揺らいでしまうのだ、ということを学んだ。自分の身近な人が亡くなってしまったら、これまでの思い出を糧に食いつなげばいいと、どこかで高を括っていたかもしれない。しかしこの歌のように、思い出も夢のように溶けてなくなっていくとすると、喪失を凌ぐ足がかりもなく、ただ悲しみに直面するしかなくなる。衝撃は避けられず、ダメージも避けられない。それが少し分かったのなら、生き方を修正しなければならない。悲しみに耐えられるように身を固めるか、そもそも、自分のものとして手に入れたものなど、この世のどこにもないことを確認し、失ったという幻想の不幸に身を浸す快楽から逃走するか。でもきっと、失ってすぐは、幻想を幻想と受け止めるのに時間がかかるだろう。ならばやはり、最初から幻想は幻想と、できる限り認識しておく必要があるのだろう。

⑧Feeling Go(o)d

「僕の中の君が言う」という歌詞が難しい。「僕」がガイドである風氏なのなら、私たちは風の中にいるということになる。ふつう、私はここにいると思っている。しかし風は「あなたは私の中にいる」と言っている。ここで風に全幅の信頼を寄せて、GOD藤井の中に全員集まろう!という方向でいくと、いよいよカルトじみてくるので、「私の中にも風氏がいる」と考えてみる。すると、図と地が認識の上でくるくる回るような感覚に襲われる。私というものは、トンネルのように、空洞以外のすべての集りとしてしか現れ得ないのかもしれず、つまり、私以外のすべての人、もの、ことの集合を、私たちは自分だと認識しているとすると、藤井風の言う「あなた」とは藤井風の一部分だし、私の言う「藤井風」には私の一部分が含まれる。この見方を誰かが始めると、連鎖的にあらゆる人の中にあらゆる人が乱反射し始める。

華厳経の因陀羅網が念頭にある。光を放つきれいな珠が結び目ごとについているジャングルジムのような網があり、一つの珠の光が他のすべての珠と照じ合う。どの珠も繋がり合っていて、一つだけ取り出すということはできない。お互いが支え合って存在する因陀羅網には、大きな一つという単位しかなく、小さな一つにあたる独立した個人はいない。風氏は風氏以外のすべての光を受けて光を放っており、私たちも私たち以外のすべての光を放っている。このとき、誰かと誰かを明確に分けられなくなってくる。私たちは言葉によって自分と他人、あちらとこちらを分けたつもりになって、色々な区別や差別をしているが、言葉によっては誤魔化しの効かない、全体を統べる大きな力があり、これを仏教では「因果」と言うし、風氏は「愛」と言っている。恐らく、同じことだ。難しいのは、言葉を使えばすぐに、個々人の格差を意識せざるを得なくなることだ。年代、土地、両親その他諸々によって、個人ごとに差は歴然とあるようにしか見えず、どちらがより幸福そうか、どれだけ不公平かという発想に自然に行き着いてしまう。

自分を守ったり、他人を無視したり蹴落としたりして生きるだけでも限界ギリギリなのに、愛を実践して生きることなんてできるのだろうか?でも実は、愛は実践しようとする必要はないのだ。見ているすべてに愛(または因果)を感じていればよい。言うなれば、関わるすべてをできる限り無視しないようにする。周囲の人の心を慮り、軋轢を生むような言動を控え、人を自然と笑顔にするような発想に開かれた態度を取る。物があればその来歴を学び、不心得のないように努める。もちろん限界はあるが、それは人間の物理的、時間的制約に由来するのであって、知ろうとし、感じようとすることは、あらゆることに対して行える。パッと見では限界の中で実践するのは尚更難しいように感じるが、私たちの「限界感」を癒やすのは、自分以外の全てを思いやることにかけた時間の積み重ねなのではないか。自分とは、自分以外の全てだからだ。

最近私たちは嵐の中にいるように忙しい。経済的な厳しさが増し、他を慮る余裕をなくしながらも、自分を守ることと、身近な社会的正義を果たそうとすることをできる限り続けようとするために時間を使っていて、自由に使える時間が少なくなっている。そこに、「限界」という共通認識が、新しい宗教のように広まってきている。「限界」だからと言って、私たちは何かを互いに許しあおうとしているようだ。藤井風が示す道は厳しい。言葉に頼らず、限界を限界のまま静かに手放して、過去現在未来に吹き渡る風を感じてみよ、と迫っている。風はどこか外で吹いているのではない。私たちの内側を吹いているのだし、もっと言えば、吹いている風が私たちなのだ。外側に迫る限界を警戒している限り、風を感じることはできない。風を感じられるとき、限界と感じていたものが、実は大した問題ではないと気がつくこともできるかもしれない。

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味読とは言うのに、味聴とはあまり言わない。コンテンツを取っ替え引っ替えすることに疲れたので、対象を絞って繰り返し聴くことで、曲を聴いている自分自身を発見しようとしてみる。要はヘビロテするだけではある。ヘビロテしていても、いつかはやめる。それは飽きたからなのだろうか。あるいはその曲を聴かなくてもいいほどに、その曲のエッセンスを自分のものとして吸収したからかもしれない。吸収したいエッセンスとは、死ぬ前などに振り返って見たときに自分ってこんな人だったね、とタグ付けできたら安心だな、という打算の働くところかもしれない。目標としては、打算的な部分と、自分に変化をもたらすような良し悪しを言い難い何かに分類したい。

①イガク

原口沙輔は東京五輪でパフォーマンスしたことがあるなど脅威の経歴をもつ超新星だそうで、そんな人がつくる曲を聞いている自分も、何かすごい人物になったような気持ちがしてくる。なぜユなのか、ドクターキドリとは誰なのか。発想が突飛すぎて、AIからの出力に手を加える形で制作していると言われたら納得できるような、由来の分からないブラックボックスに立脚して踊らされる不安があるが、そもそも世界に由来の決まったものは一つもなく、PCが発明される前から事物に神話や昔話、伝承といったタグ付けをし、由来があるものに囲まれる安心感を演出して暮らしてきた。でも最近はそういったタグ付けを個々人が自覚的に行おうと頑張っているところで、その過渡期においては、ブラックボックスと揶揄されるのも仕方がないのかもしれない。でも全ての事物は結局のところブラックボックスだという意識が世間に定着すれば、ブラックボックスよりも、踊ることの自由を見て取るようになるだろう。今若い人は自由に後ろめたさを感じているのかもしれない。恐る恐るという感じでブラックボックスに乗り、眺めを確認しているところのようだ。交響する他者の自由を奪わない限りにおいて、ブラックボックスを各自立て、踊ればよい。

②People365

曲の最後、ほんの少しだけ残響が入っていることに気がついてしまった。相互に越境不可能なはずの向こう側から、微かに信号が届くとしたら、それは奇跡と呼ぶにふさわしく、奇跡を起こしたと信じるに足る力を秘めた曲だと思う。個人のフィクションではなく、日本人全体に普く通じるフィクションだと感じるからこそ、近い人の死ではなく、東日本大震災レベルの大きな死をイメージするし、震災後を個々に生きている多くの生活をイメージする。ここまで主張するのにも根拠があって、「割れて止まった針は あの日のまま」という3.11を連想させる歌詞が入っている。3.11後の日本人は、15900人の死者と、2520人の行方不明者が消えた向こう側の世界への感受性を高めなければならない。誰かが言っているのを見聞きしたことはないが、宇多田ヒカルの「道」も冒頭「黒い波の向こうに朝の気配がする」で始まっていて、3.11後の私たちの話だと勝手に理解している。「道」と比べてしまうと、実は「People365」が到達している地点は道半ばなのかなと思えてしまう。

③さよーならまたいつか!

100年前の人が思う100年後と、今の人が思う100年後、まあ違うのだろうけど、内容が違うということより、質的な違いが問題になりそう。100年前の人々には未来の100年を現実的に達成できる夢と思えたのかもしれないが、今の100年後、もうまったくどうなるか分からない。ものすごく技術は進んで、人間としてはあまり変わらず、戦争は難しくなって日本人は半分以下になる。実は日本という仕組みはサービス終了を待つ段階にあり、個人の造作で何とでもなる恐ろしい時代が始まろうとしている。逆に言えば、100年前の人々と同じように、100年後に向けた大きな自由のゲームが既に始まっている。戦後の物理的な荒野とはまた違う、ゴミ屋敷のような不必要な過剰さの荒野に立ち、ここは自由の飛び上がる余地のある場所だと信じることができるか。それは、100年後を思わない人間から、フィクションとしてでも100年後を思う人間に生まれ変われるか、という課題である。

④あらわれないで

バンド名の由来はマーヴィン・ゲイのアルバムの邦題だということで、まあ由来もちゃんと用意してるのね、と悔しくなった。何か自分の知らない美しいものを知っていそうで、嫉妬している。聞いてみると、ソウルとジャズの中間なのかな、という程度の解像度でしか聞こえなかったが、とてもよかった。あらわれないではシティポップだと思っていたが、シティ感、都会的という感覚はどこからやってくるのか。マーヴィン・ゲイには生々しさがあって、都会的というのとは違うと最初思ったが、自由恋愛に魂を捧げる人間像も都会的といえばそうなのかもしれない。ただしシティポップとなると、野放図な性愛の叫びではない、抑制されたところが出てくる。改めて歌詞を見ていて、「いっそセレナーデ」という井上陽水の曲名が歌われていることに気づいた。セレナーデとは、夕方や夜に恋人のために外で演奏される楽曲のことだという。いっそセレナーデの情景では、ラジオから流れてくる恋の歌が、恋を見失った人にはさみしくも、かなしくも聞こえるが、その心情を自ら追っていくと、やさしいセレナーデにさえ聞こえてくる。このとき、セレナーデはおそらく恋の相手が歌いかけるのだろう。しかしこの歌いかけてくる相手は明らかに幻であって、幻を胸に抱きながら内に閉じこもっている。「あらわれないで」では、幻との付き合いをやめ、車で相手に会いに行く。悶々としているくらいなら、行動で愛を示した方がよくないか?という発想が爽やかに感じる。しかしなぜか不安が残る。それは、その相手が本当に存在しているのかという疑いである。「いっそセレナーデ」は、失恋も感傷も何もなく、ただ恋愛の歌を聞きながら穏やかに笑っている不気味な人間の歌かもしれない。「車」で会いに行く素振りがまったく見えないのは、そんな相手がいないからなのではないか。自由恋愛においては、恋愛なしに失恋が可能なのではないか。離婚伝説はそこをどう考えているか。あらわれないで欲しい幻に実体はあるか。もし安直にリアルな相手をイメージしているようなら、参照している「いっそセレナーデ」に足下をすくわれるかもしれない。失恋相手に実体がないのなら、車で会いに行くより、家でラジオを聞いていた方がよほどまともだからだ。

⑤May Ninth

5月を待っている、という歌詞ではじまる。テキサス州では5月になると雨が降るという。この歌も、遠い思い出を懐かしんでいる歌なのだが、その思い出が実在するのか、という疑いをもたなくていい安心感がある。前にカリフォルニアの自然を見たとき、岩壁や木やそこらをゴロゴロしている岩のスケールが、日本より何倍も大きいことに、自然に身を委ねられる安心感を感じたが、テキサスではどうなのだろう。西部劇の荒野の印象が強いが、自然のある所には、同じように雄大な自然が横たわっているのだろう。日本は水気が多いから、岩は砕け、木は腐り、水はそこかしこで細く流れていく。日本の自然は身を任せるというより、一緒になって流転していかないように踏みとどまらなければいけないというプレッシャーを与えてくる存在としてある。自分自身すら分解して海へ押し流されそうであるので、思い出など、そもそも残るようなものとは思えない。きっとテキサス州の雨は、大きな自然に少し揺らぎを与え、ひいてはそこに住まう人々の心をも移ろわせるのだろう。一方日本の自然は川の流れのように絶えず移ろい、人々の心もまたそうだから、時の流れには身を任せてしまって、逆に移ろいゆく思い出を思うことをしないような気がしている。流れていく自身を思い出として取り出す余裕が、アメリカ大陸にはあるのかなと思うと、羨ましく感じる。時間に対する感覚の違い、ひいては存在の異なりが、日本人にはまぶしく映る。

二度寝

「順風そうな御伽の世界」と聴くと、天皇に対して自然と敬意を抱く日本人というおとぎ話が終了したあとの私たちを思う。地球上でも随一の長さで力を発揮した天皇と日本人の物語は、明仁天皇生前退位によって終わった上、いま日本から何が喪われようとしているのかを日本人はあまり自覚していない、と勝手に考えている。今後は天皇という親の庇護から離れるように、個々人の精神的にか、国家として政治的にか、自立が謳われそうである。自立しなければならない、と身構えるほど、とんでもない量の誤った選択を繰り返さなければならず、何やら難しいことを海外から言われて本質を知らないまま追従してしまったりするだろう。MVのゴミの嵐からはそんなイメージが湧く。ゴミの嵐において、嵐を背景化し事実上無視して風下へ向かう合理的な人間となるか、ゴミにまみれながら風上へ向おうとする愚か者になるか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」という有名なナウシカのセリフがあるが、MVの中で男が子どもたちをなんとも言えない顔で見つめた後、風上に向かおうとする瞬間に命の煌めきを見た思いがした。

⑦あわいに

ソロ活女子のススメというエッセイのドラマのOPだという。一人でいることは好きだが、一人でいるときに仕事のことを考えてしまったり、仕事のときに自分のことを考えてしまうことがある。なぜだろう。とにかく、心が今いる場所にない。このずれを是正するだけでも、シンプルになるはずだ。考えを一旦止めて、呼吸を整えて、肉体としてここにある自分を軸に、心のニュートラルポジションを再設定するのがよいだろう。その時その場所で本当に必要なことを考えられれば、場当たりでない、正しい選択をすることができるだろう。あわいにを聞いているだけで、賢くなる。自己を風に縁取られた空間のように捉える仕方が、仏教の空の思想に似ている。そして歌われている「布」とは、人間の網膜が捉えた光を投射する脳内のスクリーンのようだ。人間はスクリーンを介したコミュニケーションしか行えないから、目で見えている姿かたちとは裏腹に、まったく不可視の向こう岸との通信を強いられている。そんな中でできるのは、相手をよく知り、相手の気持ちを推し量る、言い古されたような教えを実践することだろう。こちらと向こうを隔てる布越しに、風は吹いてくる。

⑧Automatic(2024 Mix)

1998年12月9日リリース。なんとウインドウズ98の日本版が発売されたのが1998年7月25日。コンピュータースクリーンとは、98のことに違いない。彼にベタ惚れしました、という歌にコンピュータースクリーンという言葉を歌いこむ発想が最先端すぎる。25年以上経っても古びない。いっそのこと、Automaticはウインドウズ98への惚れ込み様を恋愛にトレースした曲だったのかもしれない説を推したい。七回目のベルで受話器を取るのはダイアルアップ接続で少々待たされることを言っているようだし、自然とこぼれ落ちるメロディーは98の起動音で、ウインドウズ98のスタート画面は、晴れた青空みたいな画像なので、パソコンを触れない間をrainy daysと表現することが的を射ているし、そばにいるだけで体が熱くなってくるのはパソコンの放熱や排気を受けたからだし、パソコンを初めて触る人にとってはスクリーンがキラキラとまぶしかっただろう。そもそも自動的とは、パソコンを端的に言い表したらそうなる。もちろん、パソコンの魅力をフレーバーにした恋の歌だと見ればいいのだが、やはりフィクションなので、恋をフレーバーにしたパソコンの歌と解釈しても何ら問題はないはずだ。個人的には、パソコンの歌として聴けばすごく納得する。この解釈は、宇多田ヒカルからの「サイエンスフィクション」というヒントではじめて可能になった。小娘がのぼせ上がった歌を歌って生意気だな、みたいな風潮が当時あったような気がするが、恋の歌に見せかけたパソコンの歌だったとしたら、そんな評価に宇多田ヒカルは笑いが止まらなかっただろう。ここで改めてPVを見てみると、前半はパソコンを前にしている宇多田ヒカルのようだし、後半はパソコンの中のようだ。結構わかりやすい。前半までは、薄暗い部屋で赤い服を着て、なまめかしい女性らしさを感じるのに対し、後半では衣装は白に変わり、照明が強くあたっていることもあって、15歳の少女の幼さが前面に出ている。色々解釈は可能だと思う。作詞作曲歌唱能力に恵まれた骨太な女性アーティストとしての宇多田ヒカルと、肉体的には15歳の少女でしかない宇多田ヒカルという対比はすぐに浮かぶ。

または、現実の自分とネットの中の自分とすれば、98年には誰もピンとこなかっただろうが、誰もがSNSなどネットの居場所を持っている今なら理解できる。この視点で見ると、パソコンが専門家だけでなく一般家庭に広がり始めた98年の時点で、パソコンがもたらす未来を予見していたと言える(MVの監督がだが)。自分がシンプルでなくなり、何か真っ当そうなことを脳内でささやく第2第3の自分が現れることで、やりたいことにまっすぐ向かっていけた幸福とさよならせざるを得なくなる心象風景を「Goodbye Happiness」で歌っていたが、恋人への思いともパソコンへの思いとも見える歌が出来上がったのは、意図してそうなったというより、シンプルに出力した結果なのかなと見ている。

⑨ボーイズ・テクスチャー

ジェンダー中立的な長谷川白紙が、何者にもなりたくなく、かつ同時にあれやこれやの全てになりたかった、といった内容のメッセージを出しているのを読んだ。中立や中道とは、日々自分を相対化し、何かへの偏りを把握し、偏りを無化すべく行動し続けるという生活様式だと思っているが、負担が大きいのではないか。「あなたは自身の転倒した王を勤める」という歌詞があるが、上遠野浩平の『螺旋のエンペロイダー』の幕間に置かれる架空の作家の言葉を思いだした。

心の中に帝国を持つ者は、外部からの侵略を常に恐れているが
真に恐れるべきはその帝国の強大さに自らの魂が呑み込まれてしまうことである
(霧間誠一/虚空の帝国)

また、「seja forte」という言葉を調べると、ポルトガル語で「強くなってください」という意味だという。ツイッターによると、「seja forte」と「call that songwriter」のみ白紙氏の声でないので、外部から「強くあれ」と要請されている。中道を行くには、繰り返し自己の相対化が必要で、相対化するというのは、自分という王国の領地を俯瞰で見て、その中にある王たる自分の位置や姿形を見ることである。社会からは、主に企業体が広告という形で偏らせようとしてくるが、一方で、自己を強く保て、というメッセージもあれこれの手段で送ってくるように思える。つまり金が落ちる程度、かつ、社会に迷惑をかけない程度に偏るように仕向けられている。誰にも迷惑をかけないで自活できる時点で、既に一定の偏りを身に着けてしまっているともいえる。「call that songwriter」はどうか。外部からの要請のようである。おそらくだが、「call that songwriter」は2種類の音声があって、片方は不明者、片方は白紙氏ではないか。つまりこの要請は外部からの要請であると同時に、内部からの再帰的な要請でもある。生きてはたらくことを詩作になぞらえるなら、俯瞰視点を起動することは、生活をパラグラフとして読もうとする試みである。しかし読んだからといって、今を生きる生活者(songwriter)として次に選び取るべきセンテンスが分かるとは限らない。なぜなら、今という瞬間においては、紙も何も無い空中にフレーズを吐き出すことしかできず、いつの間にか出来上がっていたパラグラフを後追いで読んでいるだけだからだ。

⑩ビビデバ

「白紙も正解も間違いも愛す 本当のあたしの理想」という歌詞があり、ボイテクの後に置くにはこれ以上ないと思う。(歌詞を書いたのは星街すいせいではないが。)不安が溜まっている民草を扇動する、一人称「あたし」のアクティビストの役を見事に演じている。そしてその演技が鼻につかないのは、リアル以外の新しいリアルのレイヤーでは、演じることが生命の重要な条件だからだ。ビビデバはMVも大傑作で、演じることが題材となっているのが、核心をついている。VTuberは肉体をもたない。肉体をもたない存在はどうしたら存在できるのか。肉体のある普通の会社員はどうか。実は社会的位置づけを演じている。自分に求められている役割を把握し、その役割に自分を合わせている。役割をどれだけ自分のものとして理解し、演じられるか。役割を体現する強度は、リアルなボディに依存するのではない、と言い切れるかどうかはまだ分からない。星街すいせいの肉声と歌唱力が、リアルとバーチャルをつなぐ最後のへその緒として残されているからだ。私たちが生きるファーストリアルに対するセカンドリアルは、電子界に人間の脳を超えるパラメータが設定可能となったときに開かれる。私たちはいずれ、確固とした境としての肉体を手放すときが来るかもしれない。そのとき私たちは私たち自身を演じることによって、存在性を得られそうだ。つまり、私を私と言い張る以外に、私を後ろ盾する何ものもないのであり、言い張るには踊り続けなければならない。そして言い張りとは、踊らざるを得ない新しいリアルを形どる呪術である。

あとがき

この試みには、欠陥があり、そもそも第一印象で面白いと思えた内容をいくら紐解いても、これまでに面白いと思ったものがあるだけなのだ。まったくランダムに対象を選び、それを客観的に抽象的に聞かないと、自分にとっての新しさは見いだせない。まあ同じ曲を何度も繰り返し聞き、戦いを挑むような生活に楽しみは少しあったので、夏版もやってみよう。

https://music.amazon.co.jp/user-playlists/763c216d8bdd40f1ad7f770dd0ce7bd6jajp?ref=dm_sh_rSOVYsgM65tYpEhUObUyFhWYn

①イガク

YouTubeで流れてきてハマった。アセトンも聞いたが、こっちの方がJポップ風の分かりやすい体裁をしている。しているが、中身がぶっ壊れているので、ポップの枠も揺さぶられる。曲中何度も「ユ!」という掛け声が入るが、初めて聞いたときはかなり不愉快だった。しかしこの不愉快は、今までに一度も触れたことのない新しい発想に触れたために生じたものだったので、2回目にはもう楽しめてしまった。新しいということが、春らしさに繋がるとするなら、これほど春めいた新しさは他にない。一曲目に推す。

②People365

AmazonMusicのブレイクスルー枠でキャッチ。一聴して何と言う名曲か!と脳が震え立つ感じがした。平成初期にリリースされていたらミリオン行きそう。曲調が爽やかで美しいだけではなく、歌詞の素晴らしさが強く印象に残る。すこし抽象的な歌詞で、私には東日本大震災後の静かな暮らしがイメージされて、涙ぐんでしまう。震災が起きなかった世界線と、私たちがいま暮らしている世界。震災が起きなければどんなによかったか。切って捨てるにはあまりに惜しい可能性を追う人には、2つの世界が並走して見えている。見えているけれども、けっして行き来は叶わない。そんな切なさが、曲調と歌詞に込められている、と妄想している。

③さよーならまたいつか!

朝ドラは見ていない。NHKに命令されて渋々、朝にぴったりな爽やかさで、パプリカと昭和っぽさを感じさせながら、虎と翼という言葉を折り込んだ曲作りましたよ、という感じがする。正直、うるせーNHKとはもう二度と絡みたくねえよ的な意味でつけたタイトルなのかと疑っている。体制に媚びずに、結局は名曲を作り出してしまう米津の業の深さが、逆に爽やかで春らしい。対するMVが、沖縄のバーガーショップで真っ赤な服着て、多民族の暴動を時空を操って消し去るという反戦めいた内容なのもクール。

④あらわれないで

WEBの不快な広告みたいなバンド名だなと思っている。一度聞いたら忘れることができないネーミングなので、マーケティングとしては成功している。アートワーク込みでシティポップ真っ向勝負で、音楽の背後に消え去るようなギターと歌声にかけられたエフェクトとなぜか空虚に聞こえる歌詞が、純度の高いシティポップ体験を届けてくれる。春のプレイリストにいれるなら、愛が一層メロウよりもこっちかなという気がした。

⑤May Ninth

クルアンビンはA Love Internationalで知った。ドリーミーなメロディの中、曖昧に歌うコーラス、柔らかい毛布に包まれるような癒やしの時空が拡がる。しかしじっと聞いていて少し不安になってくるのは、幼い頃の自分が、生まれた瞬間に立ち返るようにと背中を押してくれるかのような優しさを感じさせながらも、これまでの人生の重さを自覚させる効果をもたらしているためだと思う。

二度寝

Jポップの形式を守り、和風の言葉を選びつつ、日本らしくない音使いとボーカルワークで、どこか異国感が漂う。「御伽の世界に戻れやしない」という歌詞に非常に共感する。昔より良い世界になっていることは間違いなく、誰にとっても良い世界とは、誰もが我慢を強いられる世界だから、そんな中で、誰かを犠牲にせず自然に笑って生きるには、工夫や愛(そしてノリ)が必要という提言のように聞こえる。

⑦あわいに

2024春のベストナンバー。「今吹いた風はさみしさより わたしの形を軽やかになぞる筆」という歌詞がすごい。風が吹いてくれるから、私らしき何かが縁取られる、という発想に深い智慧と慈悲を感じる。サウンドも春めいていて、木々のような木琴、鳥の声のような管楽器、金管がシャララと鳴れば風が吹いたように感じる。歌詞のあちこちには自然を連想させるフレーズも忍ばせる。そのすべてを操るTOMOOの才能がまぶしい。

⑧Automatic(2024 Mix)

宇多田ヒカルのベストからは、何度聞いても斬新に聞こえてしまうAutomaticを選出。リマスターを聞いて泣いてしまったと本人がTVで喋っていたのが印象深い。SCIENCE FICTIONという言葉は、私たち一人ひとりのリアルに根ざしたフィクションという意味で個人的に捉えている。自分でも驚くのだが、Automaticの歌詞を頭で理解していなくて、小説のように手に取れるようなサブセットではなく、Automaticを聞く行為が自分自身の人生そのものの1ページになってしまう。

⑨ボーイズ・テクスチャー

啓蟄」という言葉を連想する。冷たい土の中から這い出た虫が、陽光を受けてきらめくように、まだどこにも至っていない不安定な新しさが、不気味さと祝祭の雰囲気の中で躍動する。パリのファッションショーのために書き下ろした楽曲をベースに製作したとのことで、いつの間にかフライング・ロータス主宰のレーベルに所属していて驚いた。口の花火もとんでもない。

⑩ビビデバ

自分の中で星街すいせいは、VTuberをやっているアーティストになった。話は逸れるが、VTuber文化では、事務所のスタッフが透明ではなく、何かの呼称で呼ばれたり、労を取ってくれた場合はファンから感謝されさえする。傑作MVに顕著にあらわれているのは、表舞台と裏方を統合する視点の存在である。星街すいせいは、表と裏、ネットとリアルを包摂し溶かし込むような地点で踊っている。

①→②

①の超絶怒涛のトップバッター感で即決したあと、掴みのあとに来るトップバッター感で②を即決したので、とくに考えはない。

②→③

世界観が、②は並行していて、③は垂直に並んでいるように見えた。違うけれど、同じ曲でつなげている。

③→④

なんかどっちも空洞がポカンと空いたような曲なのでつなげている。

④→⑤

曲調の曖昧さやエフェクトのかけられ方のおかげで、まったく違うジャンルながら流れるようにつながると思う。

⑤→⑥

ここは少し考えた。May Ninthを大きく洋楽としたとき、Creepy Nutsが一番洋楽っぽかった。二度寝は洋楽っぽさとJポップが両立した作品だと思っている。

⑥→⑦

「あわいに」は純Jポップなので、二度寝のようなJポップの要素を含む曲の後であると収まりがいいかなと思った。言うなれば、濁ったJポップのあとにこそ、「あわいに」の美しさが際立つ。

⑦→⑧

令和の歌姫と呼ばれそうなTOMOOの後に、平成以降ずっと歌姫の宇多田ヒカルをぶつけたら面白かろう、という発想。宇多田ヒカルをぶつけられても耐えられるのがTOMOOだけだった、ということでもある。

⑧→⑨

そして宇多田ヒカルの後に入って違和感のない曲なんてないのだが、Automaticの圧倒的存在感が抜けた後の真空からボーイズ・テクスチャーが伸び上がるように思えた。

⑨→⑩

混沌と秩序どちらでもなく、どちらでもある世界の中で踊れるのが、星街すいせいだけだった。

⑩→①

実はループさせても問題ない。ネットカルチャーの文脈があり、違和感なくリピートできる。

柱稽古編1話で、痣の者について柱合会議を始める前、お館様の内儀であるあまね様が挨拶に出て、お館様の病状が悪化したため今後会議に出席不可能となったことを柱たちに伝えた後、柱たちが一様に「はっ」と息を飲むシーンがある。

原作を見ると、お館様が出席できなくなったことを詫びたコマが左ページの最後で、ページをめくった次のコマで、柱たちは全員居ずまいを正している。このとき、効果音は大きく「ババッ」となっている。漫画からアニメにするにあたっては、コマとコマの間を埋める必要があるのは分かるが、このシーンの場合は、あまね様のお詫びの後、柱たちは間髪を入れず即座に居ずまいを正したと見るほうが正しい。あまね様の言葉を受けて柱たちが嘆息するカットを追加したアニメ版は、原作の内容の読み込みが不足していて、間違ったディレクションをしてしまったと言ってよい。

なぜ嘆息するカットの追加は誤りなのか。

まず、柱たちはお館様の病状をよく理解している。これまで何度も柱合会議を行ってきて、お館様の病が不治であること、進行性でいつかは死に至ることを当然知っている。これまではお館様の心の強さによって、無理を押して会議に出ていたが、心の強さではどうにもならないほど病が悪化し、会議に出られなくなる日がいつか来ることは、皆よくよく認識していた。よって、柱合会議にあまね様が来て、お館様が来ていない状況が目の前に現れた瞬間、柱たちは何を言われなくとも、ついにその時が来たのだなと察することができる。察した上であまね様からのお詫びを慎んで聴いているから、即座に励ましの言葉を返せる。即座でなければおかしい。原作ですべて書かれているわけではないが、お館様が柱合会議に遅刻、欠席するようなことは、これまで一度たりともなかっただろう。そんなお館様が、今日に限っては来ない。来ない理由は、もう立ち上がることができなくなった、このただ一つしかない。しかしアニメ版で息を飲むカットを入れたため、あまね様の発言を受けて、柱たちがわずかに驚いたようになってしまった。人が驚くのは予想外の出来事に遭遇したときなのだから、柱たちは、お館様の病状が悪化し、柱合会議に出られなくなる未来を予測していなかった阿呆にさせられてしまったのである。そんな阿呆に鬼舞辻を滅殺できるはずがない。

次に、柱を代表して悲鳴嶼さんが即座に「承知…お館様が一日でも長くその命の灯火を燃やしてくださることを祈り申し上げる…」と述べ、更に「あまね様も御心強く持たれますよう…」と述べる。これにあまね様のほうが虚を突かれたような顔をするコマが原作にはある。

なぜあまね様は虚を突かれたのか、ディレクターは理解しているだろうか?

表面だけ見れば、鬼舞辻の滅殺を指揮する代表者が大事な会議に来られなくなり、必死に戦っている柱たちに申し訳が立たないと思ってお詫びをしたところに、柱から身を案じ励ます言葉をかけられて、その言葉の有り難さに感じ入ったかのように見える。しかし、はっとしたり、虚を突かれるには、こうではないかという予測と、その予測からずれたビジョンがなければならない。ではあまね様が持っていた予測と、柱が示したビジョンは何か。これが分れば、「御心強く持たれますよう」という言葉の真の意味が理解できる。

先に悲鳴嶼さんが示したビジョンを考える。「御心強く持たれますよう…」という言葉には大きく2つの側面がある。1つ目は、あまね様によるお館様不在のお詫びに対する礼への返しとしての、あまね様への励ましである。柱合会議にお館様が現れなかった時点で、お館様の病の深刻化は柱たちにおいて察せられるところに、あまね様は改めて口頭でお館様の不在について説明し詫びる。それに応じて柱からは、励ましの言葉が儀礼的に交わされる。悲鳴嶼さんの言葉の1つ目の側面には、儀礼的なところがある。2つ目は、悲鳴嶼さんからあまね様に対する、「しっかりしてください」という叱咤である。あまね様は、お館様の代理をしっかりと務めているように見えて、わずかに弱さを露呈しており、悲鳴嶼さんにはその弱さが見えたから、儀礼的な返答に叱咤のニュアンスを添えたのだ。あまね様は、自分の中にあるわずかな弱さを認識できていなかった。だから悲鳴嶼さんから「御心強く持たれますよう」という言葉を受けたとき、わずかに動揺してしまった。あまね様はおそらく無意識のうちに、お館様の不在という状況が、隊士の意気を削ぐかもしれないと、怖れてしまっていた。それは他ならない、あまね様自身が、お館様の衰弱によって意気が削がれてしまっていて、かつ、自分でそうと気がついていないために、鬼殺隊士側に意気阻喪があるかもしれないと、投射して考えてしまっていた。悲鳴嶼さんはその様を心眼で見抜いて、あまね様を遠回しに叱咤する言葉を付け加えたのだ。

ここで悲鳴嶼さんが添えた言葉には、鬼及び鬼舞辻を滅殺するため死力を尽くして戦う姿勢に、お館様の状態は何ら関わりがない、というビジョンが込められている。すべての隊士を子として扱う、親代わりのお館様(蛇足だが、お館様は親方様でもある。)が衰弱し死んでしまうからといって、鬼殺の誓いは1ミリも傷つかず、意気が削がれることなどないと、原作では柱たちは即座にはっきりと態度で示していた。それなのにアニメ版では柱たちの嘆息が入ったことで、お館様の不在はわずかに隊士の意気を削ぐ、という誤ったメッセージを伝える結果になってしまっている。この誤りは、命を踏みにじる鬼を、命を懸けて滅殺するため戦う鬼滅の刃というお話の根幹を揺るがすもので、個人的には到底受け入れられない。鬼を殺すために全身全霊を捧げているはずの隊士たちが、実は、同胞が死ぬたびに一瞬気を緩めてしまう組織なのだとしたら、やはり鬼舞辻を滅殺できるはずがないのである。

確かに、身近な人が死んだなら、心の強い人でも一瞬は嘆息するだろう。でもそれは、普通の人でしかない。いみじくも、鬼舞辻が鬼殺隊を「異常者の集団」と表現する場面があるが、これは正しい。身近な人が死んでも、一瞬たりとも鬼殺から考えを離さないのは、真っ当な人間とは呼べず、冷酷とすら言っていいだろう。柱たちが嘆息するなら、視聴者はそこにわずかな人間性を見ることができる。しかし異常者たちが、累々と死者を出しながら代るがわる繰り返し攻撃するからこそ、鬼の王を倒せるという結末に説得力が出るのであって、普通の人々が倒せてしまうようなら、それは普通の鬼だったからのような気がしてくる。要するに、嘆息するカットが入ったアニメ版の鬼滅の刃の柱は鬼舞辻に勝てない。柱たちには、強い心をもった異常者として、鬼舞辻に勝ってほしい。

異世界系物語が何番煎じか分からない使い古されたモチーフを多用して作話をラクにしていても、空想上の生き物や、現実の物理を無視した魔法を扱っている限りは、ファンタジーと呼べない、ということはない。ただ、「本格」ファンタジーと呼べないだけだ。異世界系作品がゲーム経験に基づく擬ヨーロッパ世界観をベースに物語を展開しているからといって、ファンタジーでないとはいえない。やはり「本格」ファンタジーと呼べないだけだ。そもそも異世界系はファンタジーという形式を間借りしているだけであって、「本格」ファンタジーを目指していない。

転スラのように、徒党の長となり、配下に慕われながら勢力を拡大していくという夢、または、無職転生のように、生まれ持った高い才能を磨き、周囲のために働き、たくさんの家族や仲間に囲まれながら死ぬという夢は、現実には夢とも言い出せないほど荒唐無稽な内容だが、異世界系の形式のファンタジーでは、そのような内容を展開することが比較的容易だった。なぜかといえば、ゲーム経験というモチーフを、一定以上の世代が等しく持っていて、共感を得やすかったためである。これまでずっと、ある種程度の低い、「無双」物語は求められてきたものの、適切なプラットフォームがなかっただけで、それが見出された今では、無数の異世界が生まれて、無双が物語られている。

水戸黄門暴れん坊将軍といった時代劇は、今で言う「無双」であるし、仁義なき戦いのようなヤクザ物も、現実にはできないような暴力や犯罪によって、人や世の中を思い通りにしたい欲望が色濃く反映されている。

ゲームの場合、ゲーム世界において思い通りに行動し、「無双」することによってクリアに至るものであるから、ゲーム的経験をベースとした形式は、無双的な物語との親和性がある。ただこのとき注意したいのは、何が思い通りであるかを決めるのは、プレイヤーではなく、ゲーム製作者およびプログラムであるということだ。ゲームのプレイヤーは、ゲームのルールとステージにおいて無双するのだが、やはり自身で決めた事ではないから、本当には思い通りにならない。隅々まで思い通りにしようと思ったら、ゲームを作る側になるしかないのだが、ゲーム製作者であっても、プログラムの制約は受けるのであって、自由度としてはプレイヤーと大差がないともいえる。プログラムに依らずにゲーム的ルールとステージを用意しようとすると、それは小説になる。小説の作者は、ゲームの場合のゲーム製作者およびプログラムの位置に収まることになる。小説において、ルールとステージは「世界観」と呼ばれ、その深さや密度が取り沙汰される。

異世界系に対して世界観の浅さを問題とするとき、「本格」ファンタジーと比較することは的外れである
。「本格」ファンタジーは、ファンタジーだから世界観がよく練られているのではない。世界観をよく練るというゲームへの適応を高めたファンタジーだから「本格」ファンタジーなのである。そして異世界系は、世界観を練るというゲームを相対化した上で、別のゲームを志向するファンタジーであって、「本格」ファンタジーとは文字通り次元が異なる。

ここで、ゲーム製作者/異世界系物語作者のことを、「ブックメーカー」と総称する。ブックメーカーはまずプレイヤーを想定する。異世界系物語における主人公は、ブックメーカーによってプレイの全体を操作される対象として存在し、常にブックメーカーによって物語世界の任意の位置に飛ばされたり、世界の外につまみ出される可能性がある。これを「神の見えざる手」と呼称する。

近現代の小説家の中上健次は私的経験をベースに重厚な紀州サーガを築いたと言われる。「吹きこぼれるように」作品を書きたいと、作品のあとがきに書いている。サーガを、人間の一生(正確には血族)をはじめから終わりまで記録する試みだとすると、ブックメーカーによって構築されたステージ上で、プレイヤーのプレイングを描くことは、始めと終わりが存在する人間存在そのものを、ダイレクトに表現しようとするものだと考える。これまでの小説は、あくまで小説というゲームのルールのなかで展開するのみだったが、異世界系物語登場後は、メタ的な視点を獲得したブックメーカーが、小説という形式をゲームとして相対化し、異世界系物語という形式も、取りうる選択肢の一つ、というところまで次元を押し下げながら、異世界系物語自身を、物語の及ぶ領域として拡張している。

このような異世界系物語は、中上が言う「吹きこぼれる」ような作話を目指さない。どこまでも相対化しうる物語の視点をルールの中に押さえつけるように、合理的な世界観の中に収まるように作話をすることになる。異世界系物語の限界はこのあたりにありそうである。異世界系物語に対して批判を試みようとするなら、「神の見えざる手」が、プレイヤーにとって余計なお世話であることをブックメーカーは意識しながらも、ゲームとして完成させることを目的に、人間の一側面である激情の表現に踏み込めない、窮屈さがあるね、といったところかと思う。つまり、ゲーム的経験をベースとした異世界系物語は、受け手書き手双方で通じる世界観が過剰にありすぎるということだ。