je suis dans la vie (original) (raw)
『ピローマン』あらすじ(公式より)
作家のカトゥリアン(成河)はある日、「ある事件」の容疑者として警察に連行されるが、彼にはまったく身に覚えがない。二人の刑事トゥポルスキ(斉藤直樹)とアリエル(松田慎也)は、その事件の内容とカトゥリアンが書いた作品の内容が酷似していることから、カトゥリアンの犯行を疑っていた。刑事たちはカトゥリアンの愛する兄ミハエル(木村 了)も密かに隣の取調室に連行しており、兄を人質にしてカトゥリアンに自白を迫る。カトゥリアンが無罪を主張する中、ミハエルが犯行を自白してしまう。自白の強要だと疑うカトゥリアンは兄に真相を問いただすが、それはやがて兄弟の凄惨な過去を明らかにしていく......。
プレビュー公演と本公演、二度鑑賞。それぞれの感想と違いなどを。
プレビュー公演(2024年10月4日(金)ソワレ)
プレビュー公演について
プレビュー公演とは「本番と同じだが、本公演前に客を入れてその反応を見て、演出や音響等を調整する。」とのこと。客席が埋まってるゲネプロかな。そのためか関係者っぽい人も多く。あとプレビューだとカフェやってない、パンフやグッズ販売なし、などの注意点もあり。パンフは後日ボックスオフィスで購入可能だけれど、例のコスプレクマさんもいないのでホワイエの雰囲気も少し違うかも。
舞台俳優・成河ここにあり
公演はほぼ完成度が高く、成河さんに関してはこれ以上どこを直すんだ?という、相変わらずの演技フリークっぷり(言い方はあれだが褒めてます)。カトゥリアンのモノローグも多く、一人芝居のような時もあるが、共演者も客席もうまく巻き込む。独りよがりでも、自分のペースにするでもない。台詞まわしの良さや、通りは良いが決して強くなく耳障りのよいその声、少し高くてハスキーな愛嬌のある声ゆえもある。しかしこの作品の持つ独特な世界観に溺れず、小川絵梨子さんの翻訳をひとつひとつ漏らさず伝えようとする力、演出と共演者を信じるという、とても当たり前だが基本的な主役としての気概を感じた。
それだけ信頼できるカンパニー、というのもあるだろう。しかし、近々にあったSNSでの騒動も影響しているかもと思った。正直、マクドナー好きな私でも、彼の出演ならば見送ろうかと思ってたくらいの出来事だった。それでもチケットを取ったのは、マクドナー作品であることと小川演出、そして出演予定だった亀田佳明さんの存在が大きかった。
今回、成河さんは彼の持つ「身軽さ」を抑えめにしていた。とても堅実に、丁寧に、カトゥリアンの生きる現実と物語のあいまいな境目を、ゆらぐことなく境目のままに演じた。カトゥリアンを狂人、あるいは物語世界に生きる夢の人として演じることはせず、生きにくい世界でなんとか生きている姿を形作り、それは私たちと同じ地平に立っていると示した。
舞台と美術と演出
客席対面式の舞台も、たいへんそれに功を奏した。 小川さんが本作を演出するのは二度目*1だそうだが、最初の公演も同じ形式だったという。客席の向こう側にも客席があり、真ん中の舞台でフィクション世界が繰り広げられる。現実と夢が同時に存在する世界観にぴったりの演出だが、演者にとってはたいへん緊張感あったのではと思う。それをコントロールするような尊大な演じ方ではなく、この世界をともに生きよう、というスタンスが劇場から感じられた。
(↑舞台と客席の配置。プレビュー公演の際は写真左手の2列目センター寄りの席で観劇。本公演の際は写真右側奥のバルコニー席にて、写真の右上あたり)
美術(小倉奈穂)も世界観を細かく表現し、演出をより活かしていた。写真のグレーのエリアが現実(取り調べ室とミハエルが収容されている部屋)で、市松模様のエリアはカトゥリアンの物語または過去の残酷な出来事が現れる。そこはカーテン状の布で仕切られていたり、セットが入れ替わる。現実の刑事2人はそのエリアには入らない。演者は取り調べ室のドア、あるいは物語(あるいは過去)のエリアから出入りする。客席と舞台の間には、カトゥリアンの物語にあるアイテムが置かれている。いくつかはみ出て使われていない客席に置かれているものもある。演者は客席に降りてはこないが、繋がりを感じさせる。
物語を物語るということ
『ピローマン』はじめカトゥリアンの作った物語は、たいへん残酷で、彼が精神的に受けた虐待の結果である。弟ミハエルは肉体的に受けた虐待で心身ともに壊れてしまった。彼ら兄弟は理不尽な境遇の中、寄り添いかばいあい、生きてきた。それでも物語を作ることをやめられないカトゥリアンのために悲劇が起こってしまう。
なぜ物語を物語ることをやめられなかったのか。それはマクドナーや作家すべてが、生まれながらに課せられた命題であるという隠喩もあるだろう。しかしこの兄弟においては、そこしかもう逃げ場はなかった。嘘の作られた世界を持つことで、絶望の現世を薄めたい。それは客席にいる私たちにも当てはまる。
ならば明るく楽しく幸せな物語でもいいではないか、という人もいるかもしれない。しかし残酷な出来事で負わされた深い傷は、時により残酷な物語によってしか癒されない。カトゥリアンがトゥポルスキやアリエルの隠す傷に気づいたのは、彼が作家ゆえの観察力があるともいえるが、おそらくは同じようにどうしようもない傷を抱え続ける者同士の共鳴だった。
キャストについて
木村了さん、純粋な心を持ったまま壊れて大人になれなかったミハエルをなんとも愛らしく演じていた。この役はインパクトがあるので、サイコパス的にしたり、常識ではかれない演劇的な役作りがいろいろできそうなキャラだ。が、木村さんは「人間らしい」部分をそこはかとなく感じさせていたのがうまかった。カトゥリアンと二人のシーンがほとんどなので、カトゥリアンの別人格、あるいはカトゥリアンの想像の人物*2というとらえ方もできてしまうが、兄弟はニコイチでありつつ、一定の距離を持つように印象付ける。どちらがどちらを守っていたのか。成河さんの演技と呼応するような、まるでどちらが欠けても飛び立たない双翼のようなコンビネーションがたいへんよかった。
本来のキャストだった亀田さんとはおそらくまったく違う演技プランだったのでは、とも思う。そこをきちんと打ち出し、小川さんも引き出してきたのが感じられる。このコンビでの再演もだが、亀田さん版もいつかぜひ見てみたい。また配役発表前は成河ミハエルもありかなと思ってたので、そのパターンも見てみたい。
本公演(2024年10月23日(水)マチネ)
本公演はバルコニー席から。若干見切れるところもあったが、舞台が中心にあるので、こちらの方が全体を見られる面白さも。
プレビューと比べても演出に大きな変更点は見られなかったので、全体感想としては上記のプレビューと変わらず。
コスプレクマさんとはこちら。新国立劇場はその演目のキャラに扮したクマさんが出没。今回はカトゥリアン(白いシャツ)とミハエル(アランセーター風)の兄弟コンビ。
変化を感じた点
- 成河さんの台詞まわしが流暢すぎて、プレビューだと全体がそれに少し引きずられた印象。斉藤さんはそのせいかどうか分からないが、プレビューの際は幾度か台詞の言い直しがあり、リズムを失うような時があった。本公演ではそれがなく、他の俳優もそれぞれの役割や立ち位置がはっきりしたバランスに。成河さんも緩急や押し引きにより丁寧さがあった。
- 過去パートと物語パートの大滝寛さんと那須佐代子さん、台詞がほぼないのだが、本公演では動きがよりなめらか、というかノリノリで外連味たっぷり楽しそうに演じていた。そこがまた残酷な物語の奥深さを感じさせる効果に。
- 斉藤さんのトゥポルスキはちょっとインテリでスマートすぎる感じもした。プレビューの時はそのためにキャラクターの残虐性があまり感じられなかったが、本公演ではそのスマートさが冷酷さやクールさの印象に。
- アリエルの松田さんはプレビューの感情の爆発がたいへんよかった。本公演ではそのメリハリを意識した演技になっていた。それによって最後のアリエルの取る行動の意味がより際立つ。
- 木村さんはプレビューと変わらぬ安定感。
- 転換のシーンの流れが良くなっていた。音楽のタイミング等も。ここはプレビューをしたことで変化あったのか。
(※ここから重要なネタバレに触れます。注意※)
最後にカトゥリアンがトゥポルスキに銃殺されるシーン。7.75秒の裏切りのシーン。そのショッキングな残酷さに目が奪われてしまうのだが、顛末を知っていたことと俯瞰で見たことであることに気づいた。
カトゥリアンが被せられる目隠しの頭巾、これがピローケースと同じ長方形をしていることに気づく。私の席からはちょうどカトゥリアンが前に、後ろにトゥポルスキが銃をかまえているのか見えた。
そう、まるでピローマンを トゥポルスキが撃ったように見えたのだ。
カトゥリアンはピローマンになって、すべての子供達の悪夢を救おうとしていた。それを トゥポルスキが終わらせた。もうピローマンはどこにもいない。
という残酷な物語の終わり。
そしてアリエルがまたその物語を救い出す、という希望の物語に繋がる。
トゥポルスキは『緑の子豚』の少女が生きていた事を喜んでいなかった。残酷な物語は残酷な現実しか生まない、それが証明されなかった事への落胆。もしくは自分の書いた物語が誰も救わない事を認めたくなかった。だから7.75秒の約束破りをする。
アリエルはまだ救われたいと思っている。そして本能で物語が誰かを救うと思っている。ピローマンの存在を救いだと思う。緑の子豚と同様に。
トゥポルスキは物語を否定し、アリエルは受容する。
どちらが正しいというのではない。物語を必要とするものとそうでないものがいるから。
余談的なおまけ:演劇集団円バージョン(2022年3月公演)との比較
2022年3月に演劇集団円の『ピローマン』を見ている。かなり記憶が曖昧なので、雑感になるが、翻訳が同じでもまったく違う作品のようであった。
円バージョンは俳優座劇場で公演。客席から舞台を見るスタンダードなスタイル。取調室の薄暗い灯り、背景の曇ったガラス窓から入る微かな光、と最初からホラーな怖い雰囲気。さらに俳優座劇場の古い劇場の雰囲気が、その超現実感を増した。
カトゥリアン(渡辺穣)の物語世界と過去は、舞台後方から現れる。取調室の背景の窓ガラスが中心から引き戸のように開いて、奥のセットが見えてくる。陰影が深い照明で、まるで影絵のように幻想的だった(美術・乘峯雅寛)。
劇場や演出全体もプロセニアム的だったが、このまるで「大きな動く絵本を舞台で開いている」かのような美術と演出は、残酷な物語を観客から少し距離を置かせ、怖い大人の童話のようなファンタジー感があった。小川演出の客席や現実と共鳴するような感覚の演出とは違って、よりフィクションを感じさせる演出だった。
俳優の演技もハードボイルドで恐怖や残酷さを強調していた。アリエル(石住昭彦)は年配の男性で、体躯もよく迫力ある唸るような声でカトゥリアンを恫喝する。トゥポルスキ(瑞木健太郎)もこれでもかという冷血っぷりで、二人の対比はギリギリまで誇張されており、カトゥリアンの追い詰められ方が尋常でなかった。
兄ミハエル(玉置祐也)は見た目も口調も幼さを強く感じる演技。これは玉置さんが兄役だが渡辺さんより実際は年下という面もある。狂気の中を生きる残酷なミハエル。寺十吾さんの演出では、ミハエルはカトゥリアンの愛する兄でもあり、カトゥリアンの追い詰められた際の別人格、あるいは物語の中の闇そのもの、という広い捉え方のできるキャラだった。
玉置さんのミハエルが、私の持つイメージに一番近い。ただ小川演出のプランだと木村さんのミハエルが最適だと思うので、どの役も演出によってプランが変わる。小川演出は「より人間的に」の印象で、寺十さんの演出は「より物語的に」というベクトルの違いがあったように思う。
シンプルな演出と台詞
セットのない平場に、泣く赤ん坊を抱く女、そして老人(木場勝己)が出会う。老人は女と赤ん坊に少しだけ興味を持つも、うつろな様子。惑う老人にコロスが王冠と職杖を渡し、彼は**リア王(木場勝己)**となる。
セットは背面に大きな地図、その中心に階段状の王座。リアはそこに座る。
戯曲冒頭の貴族らの噂話がカットされているので、それぞれの関係性の前提はここで分からない。わりあいにカットされる部分ではあるが、**エドマンド(章平)**が妾腹であることが強調される箇所なので、今回の演出意図ではあった方がよかった。
すぐに三姉妹の領土分配になるわけだが、ここもすっきりめだった。サクサクとリズミカルに進む。コーディリア(原田真絢)の傍白、彼女がなぜリアに塩対応だったかの理由、がカットされてしまったので、分かりにくくなってしまっているし、コーディリアのキャラが薄まる。「言う事は何もございません」「何もない?」「ございません」*1のやりとり、大事な≪Nothing≫のインパクトが薄まってしまったように感じた。
よかった点は、現代語訳なので冒頭からそれぞれのキャラが分かりやすい。リアが「老後はこの子に面倒を見てもらおうと決めていたのに」*2は、老いた親の図々しくも正直な本音が引き立つ。
あと戯曲にはないが、リアがケント伯(石母田史朗)に呼び捨てにされた時に「俺にため口をきくのか」のような返しがあって、アドリブか上演台本に加えられたかは不明だが、現代語訳公演ではありだなと思ったし、ケントの覚悟が際立つ。
演出もシンプルで、高見で座るリアを中心に周りでただ立つだけの長女ゴネリル(水夏希)、次女リーガン(森尾舞)や、その夫、家臣たちという配置。ゴネリル側は上手に、リーガン側は下手に配置し、上演中も基本的には統一していた。見やすさもあったし、ゴネリルとリーガンが共闘しつつも分断されているのが視覚に刻まれる。後ろの地図も半分になり、ゴネリル領土のシーンは上手側半分の地図が出てきて、リーガン領土の時は下手側のが、と美術の使い方もよい。
また、リア以外の者たちは基本立ったままである(覚えている限りでは、なので記憶違いあればご指摘願います)。死ぬまで立っている。しゃがみこむのはリアとともに追放されたものたち。道化、エドガー、ケント伯。三姉妹は死ぬまで立ち続けていた。
女性配役への試み
女性俳優を重視した演出面も現代的。**エドガー役が土井ケイトさん、道化役はコーディリアと二役で原田真絢**さん。 シェイクスピア劇には女性の役が特に主要な役が少ない。それがために女優が活躍しにくい演目である。今回、女性俳優の機会を増やしたという点ではよいと思う。そして土井さんの雰囲気、存在感と演技力は、国を追われたエドガーが何者でもないトムでもあるという事を意識させ、何者でもないリア王との性別を超えた奥行きを与えた。原田さんの歌唱力は芝居の中で彩りを放ち、耳にも楽しませた。また歌によってリアが癒されて軟化していくようにも見えて、言葉による説得よりも伝わりやすさがあった。
しかし気になる点も多々。土井さんの雰囲気ならば、エドガーを「長女」つまり女性に変えてしまう必要はなかったのでは?「女性だけど長子相続が優先」はリアの三姉妹が遺産相続してる点からもありとして、エドマンドとの嫡子と庶子の関係性が薄れてしまうし、「グロスターと息子たち」と「リアと娘たち」という男女対比も弱まる。またエドガーが剣の達人であるがゆえに暗殺者を返討ちにするくだり、ここも弱くなってしまった。
エドガーを長女にするなら、リアの娘たちとの「女性性」の違いあるいは共通項などをもう少し掘り下げてよかったのでは。戯曲の筋を外れない流れであったため、結果いろいろぼやけてしまった。この設定を生かすなら、少々台詞に変更を加えてもよかったかもしれない。土井さん自体はジェンダーレスな演技が素晴らしかったので、そこを生かすためにも長男のままでよかったのでは。
また最後の言葉をエドガーが言うくだりここは当時の初期の上演ではゴネリルの夫・オールバニ公爵が言う台詞だった。シェイクスピア劇において、最後の台詞は次の為政者になるからである。しかしエドガーが言うようになったのは、当時エドガー役の俳優が人気があった、また「老人から若者への世代交代」の演出意図もあったのではという。ならば今回せっかくエドガーを女性にしたなら、最後は女性の権利や主張に光が当たる未来を示唆した演出を強調したらよかったのでは。ゴネリルとリーガンが果たせなかった女為政者、という因縁も女性性を意識した演出に合うはずだ *3
コーディリアと道化の二役については、シェイクスピアの時代にそのようにしてたのではという説がある。コーディリアがいない間に道化がいて、道化がいつの間にかいなくなってからコーディリアが再登場するので、同じ役者がやっていたのではという推測だ。これは諸説あり、二役だった事実が確認できてないこと、二人が入れ替わるような設定はたまたまそうなだけというのもある。
原田さんによる道化の歌を前面に出したのは河合訳の特色も出てよかった。ただこちらも二役である意図がつかみきれぬまま終わってしまった感はあった。コーディリアが亡くなる時にリアが「阿呆」と呼ぶ*4ので、道化=コーディリアと解釈させるのだが、深読みさせる演出がもう少しあってもよかった。
ここは俳優が、というよりバランスの問題だった気がする。彷徨うエドガー=トムが道化の役割に似てしまっており、なおかつ土井さんをかなりフィーチャーした演出だったので、その分だけ道化の役割が弱くなった。
河合翻訳の詳注に、コーディリアの独善性について書かれている。
「徳高い人間になることが、他より抜きん出ることになるなら、それは他の人たちを見下し、独善的な態度をとることにもなりかねない」 *5
彼女が美徳を守ろうとすることにこだわり、素直に愛情を表現しなかった、という解釈である。彼女の大人気ない頑なさが悲劇を呼び、最後リアと共に死ぬ。リアの頑固さはコーディリアの頑なさにも通じる。しかしコーディリアは愛情がないわけではない。それは傍白によって分かるのだが、前述したように今回それをカットしてしまったので、コーディリアの人としての奥行きが見えにくい。
極道の娘たちと優男
今回、ゴネリルとリーガンは俳優の演技力と存在感の強さで、新たな女性キャラの人物像ができあがった。水夏希さんの立ち姿の凛々しさや台詞の強さは、ゴネリルの長子としてのプライドや判断力、野心などをより強く表現していた。男ならば王としての威厳は充分であったと思わせる。
具体的な長台詞が多くないが、出番ごとに印象を残す演技だった。序盤、コーディリアがリアに塩対応した際も、その発言に「何言ってんのこの子」というような動揺の大きい表情をしていた。ここはコロスも含め全体も緊張感が漂うのだが、一番観客の目を引くゴネリルの演技は重要だった。その後もコーディリアの領土が自分に分配されるという利点よりも、末妹の不在によるリアの暴走を感じ取ってリーガンに連携を申し入れるなど、リーダーとしての資質が伺える演技となっていた。
リアに逆らったがゆえ、リアに「その卑しい体に、決して尊い子宝が授かりませんよう」*6などとすさまじい呪いを吐かれた後の彼女の心中はいかなるものだったか。その後、エドマンドとの不倫関係も、気弱な夫・**オールバニ公爵(二反田雅澄)**への不満だけではなく、若い男の精力、つまり子種を意識してのことではなかったか。
というようなことまで想像させてしまう、たいへん理想的なゴネリル像であった。
またコーディリアが国を去る際にに「せいぜい亭主を大事にするのね」「あんたには素直さが欠けているのよ」*7という台詞も、実はゴネリルがよく妹を見ている的確な意見である。前述の「コーディリアの独善性」解釈にも通じる。今回は他の上演と同じく単なる嫌味な姉の言葉という演出でしかなかったが、ゴネリルのひとつひとつの台詞から成り立つ人物像、というのがたいへんクリアにこちらに伝わった。
リーガン役の森尾舞さんは、台詞まわしの快活さ、水さんとのコンビネーションが本当に素晴らしい。本当の姉妹のようにも見えてしまう。台詞だけでなく、体の動きも目を引く。水さんがただ立っているだけで、その威厳を表現しているなら、森尾さんは軽やかに人の目を引くようにわざと隙間を縫うような動きにて、次女ならではの姑息さあるいは機敏さを表現していた。
森尾さん、初めて見たと思ってたのですが、名取事務所公演パレスチナ演劇上演シリーズ『占領の囚人たち』の配信で見てました。イスラエル在住のパレスチナ人への不当な差別を描いた作品で、森尾さんはただ演者としてではなく、自身の感想やコメントも話す、ドキュメント形式的な公演だったが、台詞というのはただ言葉の羅列ではない、演技というのは技術だけではない、というのを分かってる俳優さんだなと、印象にありましたが、今回実際に目で見てその力を確認しました。
姉二人があまりに存在感が強すぎて、エドマンド役の章平さんが薄まってしまっていた。引き締まった体躯、ちょいチャラ目なルックスは魅力的な色悪キャラにピッタリだったが、二人の女優の演技力と存在感に圧倒されてしまった。それはそれで二人に振り回されるエドマンドという見方になるのだが。いっそのこと上半身裸になったり、視覚的にセクシーさを打ち出して「姉妹がエドマンドの性的魅力に夢中になっている」という演出にしたらエドマンドのキャラも引き立ったのでは。
見終わってから何か既視感があって、モヤってたのだが、今回のゴネリル&リーガン、映画『極道の妻たち』の岩下志麻とかたせ梨乃じゃん!と思いいたる。そうするとエドマンドは世良公則か~。納得。まあそんなつもりがあったかどうかは分からないけど、ってか絶対なかったと思うけど。ただリア王を昭和の極道の跡目相続ドラマとしてとらえたら、すごくはまってしまう。最後のシーンもパート2、パート3を感じさせちゃう。**グロスター公爵の伊原剛志**さんも、ちょっと優男すぎて、グロスターとその息子の造形がぼやけてるとこもあったが、極道幹部ポジとして見ると伊原さんの雰囲気は合うのよな。
姉二人はこの二人ありきの人物像だったので、演出はどの程度影響してたかな、と邪推してしまうけど、キャスティングが特にはまったなと。
女性を意識した演出、というわりにはそこまでではないな、という感じ。ジェンダーを超える演出、ジェンダークロスキャスティングというのは女性らしさを打ち出すことやまたその逆でもないんだと思う。きちんとその役を読み込み、表現すること、男性俳優であろうと女性俳優であろうと。ということを俳優はきちんと分かっているのに、演出が昨今の女性配役の意図を意識しすぎてるのでは?と受け取ってしまいました。
女性俳優に男性の役を配役する、というのは活躍機会を平等に与えるという意味がまずあり。男性演出家はまずはそこをきちんと理解してほしい。女性らしさ、女性ならでは、という陳腐な言葉をまずは頭から削除してほしい。
あと今回は結果、女性より男性役の方がぼやけた印象になってしまってたので、不思議なもんだなーと。
かわいいリア王
最後になりましたが、今回とにかく木場勝己ありきでした。完璧。
老いた王のアイデンティティの喪失を巡る悲劇としての解釈はよかった。
近年リア王を認知症として解釈する演出だったり、古くは狂人として、スタンダードなのだと傲慢な王の零落、といろいろ解釈はあれど。木場さんのリアは「人とは老いるもの」という単純なことを見せていた。
それを可愛らしく、どうしようもなく悲しく演じる。しかしリアに同情したり、共感したり、ましてや正当性は感じさせない。老いて弱くなり、人間の醜さが思わず露呈してしまう過程を細やかに。いつか誰もがそうなるんだよ、という示唆すら感じさせる。
藤田俊太郎演出、なにげに初めてのシェイクスピアだそう。細かい点では気になるとこがありましたが、さすがの美術や転換のうまさは見やすく分かりやすい。蜷川オマージュもところどころ(コロスのスローモーション、嵐のシーンの本物の水をつかった演出など)あり。しかし一番よかったのは木場勝己さんのリア像をしっかり伝えた点。今年はリア王当たり年で、いろいろなリアを見る稀有な年でしたが、木場さんのリアは出色でした。
≪あらすじ≫
著名な遺体保存処理の専門家(タナトプラクター)のミレイユ(平栗あつみ)は、母の葬儀ために30年ぶりに故郷ケベック州アルマに戻ってくる。母の遺体の防腐処理をするために。兄・ジュリアン(本多新也)とその妻・シャンタル(一谷真由美)、弟・ドゥニ(玉置祐也)と末弟・エリオット(小栁喬)ら家族とも久しぶりに再会するが、歓迎されていない。
保存処理の作業の最中、交わされる家族との愛憎を含んだ会話。過去と現在の互いの思いが交錯し、やがて母が残した遺言によって、家族の秘密が徐々に明らかになっていく。
現代カナダ演劇を代表する作家ミシェル・マルク・ブシャールの作品。2019年5月にモントリオール テアトル・ヌーヴォー・モントで初演。
2022年にグザヴィエ・ドランによってTVシリーズとして映像化。日本では2023年にBS10スターチャンネルで『ロリエ・ゴドローと、あの夜のこと』の邦題で配信。
日本では、2023年11月にリーディング公演(ITI主催)を経て、今回が初舞台化。
ねじれた家族の会話劇
ミレイユと家族の不和の謎は、家族間の会話によって徐々に明らかになる。謎解きの要素もあり、遺体が常にある状態はサスペンスやホラーの雰囲気もある。
ミレイユは有名人の遺体処理を多くしており、パリマッチ(フランスの有名な週刊誌)にインタビューが載っていたりする。そのため、母親の葬儀に高名な人から花やカードが送られてくるが、兄弟の彼女への態度はそうそう軟化しない。
ジュリアンはアルコール依存のリハビリ中らしく、経済的に次男のドゥ二を頼っている。ドゥニ自身も何らかのストレスを抱えている。成功したミレイユへの妬み、 ルサンチマン的な構造も見える。 それはカナダの田舎の狭いコミュニティゆえでもあるし、自立した女性への偏見もあるだろう。
しかし家族との隔たりがあるのはそれだけが理由ではない。言えない何か、彼らが見たくない何かが、ミレイユの帰還によって掘り返されるのを恐れている。
末弟エリオットはミレイユに比較的好意的だが、何らかのメンタル問題(あるいは知能か)を抱えており施設から出てきたばかり。経済的にはずっと母親に依存していた。
家族劇でミレイユを中心にしているように見えて、ひとりひとりキャラクターがくっきりと描写される。台詞の緻密さはもちろん、構成、翻訳などのバランスが良い演出。
ミレイユが「招かれざる客」となっているのは、過去にあった何か、と母の遺産問題があると思われるが、さらに謎の「ロリエ・ゴードロ(L.G.)」なる人物が、姿は見えないが会話のそこかしこに見え隠れする。
前半と中盤は、家族の会話が緊張感をもちつつ、淡々と進む。血のつながりが持つ親しさと、同じ記憶を共有するきょうだいたちのかすかな情、それがゆえの憎しみや嫌悪。家族ゆえの居心地の悪さと奇妙な馴染み深さが同時に在る。
そこをより強調するのはジュリアンの妻・シャンタル。家族の中での唯一の他人である彼女がやってくると、奇妙な空気が一瞬切り裂かれ、風通しが少しだけできる。それは彼女のもともとの明るく華やかな様、しかしその場にそぐわない非常識な笑い声、スマホの着信音、などで表現される。おそらくは姑ともそれなりにうまくやってきた長男の妻は、なんとかこの空気を乗り切りたいと思っているが、風穴はすぐにふさがってしまう。シャンタルはまるで『熱いトタン屋根の上の猫』のマギーのようだ。
現地の若いタナトプラクターのメガン(徳永夕夏)もまた、この家族の空気を和らげる役割を担う。ミレイユを尊敬し、エリオットと心通わせる。この「自立した優しい現代女性」の存在は、台詞は多くはないが、古びた価値観の街と冷え切った家族関係のカウンターとなっている。シャンタルとメガンの存在は、戯曲の立体感とリズムに彩りを与えている。
ミレイユとメガンが行う遺体保存、いわゆるエンバーミングは、土葬の海外では珍しくない。日本でも、火葬場が空くまで待つために行われたりするが、まだまだ知られていない。事故や病などで傷んだ遺体を生前の姿にするなどの機能もある。
戯曲においては、崩壊した家族の形、あるいは葬られた秘密を元の形に戻すというメタファーもあったろうか。
家族というものはだいたいどこかしら歪みを持ち、ねじれていて、そのほころびをだましだましやり過ごしていくしかない。演劇でこれがモチーフになると、それを明らかにし、何かしらの結末を与え、カタルシスを生み出す。今作はその点ではオーソドックスではあるが、家族設定や脇役の配置など飽きさせない。
家族とはいえそれぞれは個人で、一人一人は孤独である。個ではなく、集合体を優先してしまうのがコミュニティだが、それを優先し続けると不幸が起こる。
そんな家族の有り様を、会話の中で浮き彫りにしていく経過が丁寧だがリズムよく面白く、円の劇団としてのチームワーク、そして自由なフットワークの良さを感じた。
ロリエ・ゴードロとは何者なのか?(注:ネタバレあり)
中盤、ミレイユが故郷を出る原因となった事件が明かされる。
10代のミレイユは不眠症で、夜中に他人の家に忍び込んではその家族の隠された姿を盗み見るという悪癖があった。ある時、微かな恋心を抱いていたロリエ・ゴードロ、兄ジュリアンの親友、の部屋に忍び込む。その時ロリエに襲われてしまう。叫び声に駆け付けたジュリアンのおかげで未遂に終わるが、このためにミレイユは家を出ることになる。
ここまでは、家族の不和と現在のそれぞれの人生の立ちゆかなさは、この事件が発端のように見える。ミレイユが悪いわけではないが、狭いコミュニティでの醜聞は、被害者とその家族の肩身を狭くさせるのはよくある。
では家族のミレイユへの態度は逆恨みではないか?なぜこうも歪んでしまったのか?
後半、徐々にもう一つの秘密が明らかにされていく。加害者のロリエ・ゴードロ、彼が事件後どうなったか、「目覚めた」とはどういう意味なのか。そもそもハンサムな好青年、高校の野球部のスターで人気者の彼がなぜそんな事をしたのか?
家族の話ではあるのだが、そのもっと深くにある個人としての大きな秘密が、最後すべてを揺るがす。隠さなければならなかった、どうしても。
TVドラマ版、リーディング版との違い
- グザヴィエ・ドラン監督のTV版
グザヴィエ・ドラン監督ということでおそらくLGBTのテーマを含んでいるのでは、というのは分かってしまうかと思うが、そのあたりは触れないでおきます。
ドラマ版は全5話あり長いため、ドランオリジナルともいえ、一人一人の生活が事細かく描写されて分かりやすい。例えば、ミレイユは暴行未遂事件のためか、独身のまま孤独に過ごしており、性的にも歪みを持っているなどのオリジナルエピソードがある。故郷の街の店に行くと冷たい目で見られたりの具体的な描写も。ジュリアンとシャンタルの夫婦関係にもかなり踏み込んだ描写がある。ドゥニの家庭問題も戯曲では少ししか触れられないが、荒れた部屋や別れて暮らす娘とのスカイプでの交流など、映像ゆえのきめ細かさ。ドランは末弟エリオットを愛らしく演じている。薬やアルコールに依存していること、母親との関係性、メガンとの心温まる交流。情緒的なドランならではの人物像がたいへん魅力的である。音楽がハンス・ジマーで、ドゥニ・ヴィルヌーヴの紹介だそう。ジマーの音の重厚さと深く心理に迫るような表現力は、サスペンス要素を強くしている。
- リーディング公演(ITI主催)
2023年のリーディングも見たのだが、こちらがとても素晴らしく、胸につまる公演であった。その時、ミレイユ役は松熊つる松(劇団青年座)さんで、ミレイユの独白はその孤独の深さと濃さが胸に迫る演出だった。笠松泰洋さんが生ピアノで即興演奏していたのだが、これがまた素晴らしかった。リーディングのリズムに合わせて奏でられるメロディは、BGMというより台詞を歌のように聴かせる。公演後のトークで「松熊さんの独白とのコンビネーションが素晴らしいが、稽古ではどの程度打ち合わせされたのか」とお聞きしたところ「基本的に即興で、その都度互いに合わせている」とのことだった。稽古で松熊さんが笠松さんのピアノに乗りすぎたリーディングになり、演出におさえるようにという指示もあったとか。
その即興が、音楽ライブのような高揚を生み出した。照明も控えめで、幻想的でもあり。会話劇ではあるが、ミレイユにより焦点を当て、彼女の心的世界を見ているような演出にしている。
『L. G.が目覚めた夜』~ロリエ・ゴードロが目覚めた夜~ リーディング公演のご案内 | iti-japan
- 本公演(舞台版)
今回の舞台公演はリーディングと同じ山上優さん演出で、同じく翻訳も担っている。舞台では戯曲に忠実に、動きやセットがあることでより具体的にというのを感じた。
白い壁に囲われた部屋のセットには母親の遺体(客席から見えない配置。おそらく人形)、遺体保存の機械、焼却炉、などリアルに人の死を感じさせ、リーディングの際の幻想的な面をなくす。また葬儀前後に現れるたくさんの花は、冷たい遺体と冷たい家族関係に不似合いな彩りを突然見せる。この演出は戯曲の潮目の変化を思わせ、喪服だらけの暗い舞台上に映え、目に楽しかった。
原作戯曲ではボードレールの『午前一時に((À une heure du mation)』が冒頭に引用され、ミレイユの傍白の基となり、また母の葬儀でミレイユが朗じるというのもあり印象深いが、今回は使われていないようだった。著作権のためなのか、演出的にあえてなのか。ミレイユが詩を朗読する箇所はあるのだが、どうも詩は架空のもののようだった。
しかし実在の事柄を排除してはいない。パリマッチを見ながら「アラン・ドロン老けたわね」という台詞があったり、母親の遺体に着せるアレキサンダー・マックイーンの高額なドレス、というくだりはそのままでドレスも出てきた(本物でないと思うが)。どこを削り、どこを生かすかというのは、リーディングとの違いを際立たせかったのだろうか。
配役の妙、玉置祐也さんの際立つ存在感
配役による演出もかなり変えていた。リーディングでは様々なところからのキャスティングが、即興的な演出に合い、その場限りのケミストリーの奇跡を感じた。舞台版は演劇集団円の家族的な絆が、家族劇へよく反映されていたと思う。確固としたチームワークの安定感があった。
リーディング公演に引き続き参加したのはシャンタル役の一谷真由美さん。制作も担ったそうで、シャンタルのキャラクター造形をより深くしたのが分かった。フェミニンな服装や所作、シャンタルの持つ明るさや人の好さを表現。その役作りが周りを引き立て、物語も引き締める演技となっていた。
もう一人の続投は玉置祐也さん。リーディングでは末弟エリオットであった。今回は次男のドゥニ。てっきりエリオットだと思ってたら違ったので、あれと思った。しかもドゥニは出番が少し遅い。しかしクライマックスのドゥニの台詞は、すべてを明らかにする。糾弾されるべきは誰なのか、誰が何を隠していたのか。母の遺書の意味は。
ここの玉置さんの台詞の力は大きく、ドゥニ自身が負った傷について語ることも、その謎の解明の大事な糸口であった事をしっかり伝える。台詞だけで過去の情景を説明するので、本当に難しい箇所だが、その瞬間に大きなドアが開いたような爽快さがあった。
玉置祐也さんを初めて見たのは円の『夏の夜の夢』(2021年)のパック役、その後にマクドナーの『ピローマン』での兄ミハエル役でとても引き付けられた。どちらも年齢不詳のあやしさのある個性的な役柄だが、玉置さんのルックス、話し方にぴったりだった。ミハエル役は特にこれ以上のはまり役はないのでは、と他の役者での想像がつかないくらい印象に残っている。
他でも円の『ペリクリーズ』(2023年)、劇団印象『犬と独裁者』(2023年)、『みえないくに』(2024年)では、その演技の堅実さをさらに確信した。
今回もその演技の確かさは信頼感があった。観客にとって、失望しない、裏切られない演技というのはなかなかに難しい。最近はあまり俳優で芝居を選ばないようにしているのだが、玉置さんの出ているものにはずれがないので、今後も注目していきたい。またそのような俳優を擁する円も素晴らしく信頼がおける、とあらためて感じた。
※ネタバレありますので、これから観劇の方はご注意ください。
今回は松本潤さんが出演とのことで、いつもよりさらに注目度が高く。同月にシアターイーストに行った時に、当日券の抽選待ちの人が一階のみならず、イーストとウエストのある地階でひしめき合っていたことからもそれはうかがえた。知人曰く、600人の抽選だった日もあったそう。入場すると、パンフ売り場はいつもよりも並んでいて、あんなにパンフが堆く積まれているの初めて見たかも。紫色の服の人が多いなと思ったら、案の定松本さんのテーマカラーだそうで。
さて今回はロシアの文豪・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がベースになっている。公式HPの毎度お馴染みの野田さんの手書きメッセージに「原作小説長いから読まなくても大丈夫」とあり。もちろん読む気はさらさらありませんでしたが!でも元文学少女の端くれとして、関西のお出汁の色くらいうっすら内容は知ってたのでまあまあ話には入りやすかったかも。
しかし野田地図の場合、元ネタは単なる隠れ蓑になっている。その下に敷き詰められた本来のテーマに至る瞬間に、ドーンと井上尚弥並のパンチをくらう、のが分かってる、ので始まる前はリラックスして頭空っぽにしている。いざという時にはタオル投げ入れられるようにしておくが花なのである。確かに原作は分かってたらさらに楽しめるのではあるのだが。しかしさらにその元ネタよりも、奥底の本質の方をどのくらい分かっているか、というのがこれまた重要になってくる。
客入れBGMは今回はいつもの60年代〜70年代あたりのソウルやフォークでなかった。多分今回は坂本龍一&高橋幸宏追悼だったのだと思う。YMOがあったか気づかなかったが、矢野顕子の「丘を越えて」が聞こえてきてはっとした。
演劇の目に見える部分(物語、美術とか)
<公式からのあらすじ>
この芝居は、父殺しという“事件”を扱ったサスペンス。
舞台は、日本のとある時代。物語はある花火師一家の三兄弟を軸に展開する。
三兄弟は、長男が花火師(松本潤)。次男が物理学者(永山瑛太)。三男は聖職者(長澤まさみ)である。
この長男と父親(竹中直人)が、一人の“女”を巡る三角関係を織り成し、“父親殺し”へと発展する……
『カラマーゾフの兄弟』は『唐松族の兄弟』になる。原作にある「長男・ドミートリィが女・グルーシェンカを巡って父・フョードルを殺した容疑をかけられた裁判」が大枠となる。
長男・唐松富太郎(松本潤)は 父親・唐松兵頭(竹中直人)を殺しているのかいないのか。検察側の証人、弁護側の証人のそれぞれの証言によって殺人までの過程が何度もリピートされるが、それは都度少しずつ違っている。
長男と父が恋する女はグルーシェニカ(長澤まさみ二役)といい、裁判中何度も名前は出てくるが、実在するのか分からない。なぜなら、女の名前は火薬の名前と一致する。花火師の父と長男は、女を巡って争っていたのか?戦時中に貴重な火薬を巡って諍いが起きたのか?
そこに次男・唐松威蕃(いわん/永山瑛太)と三男・唐松在良(ありよし/長澤まさみ二役)、在日本のロシア要人の妻・ウワサスキー夫人(池谷のぶえ)、長男の婚約者・生方莉奈(村岡希美)との関係、 盟神探湯(くがたち)検事(竹中直人二役)と不知火弁護人(野田秀樹)の思惑、唐松家の番頭・呉剛力(くれごうりき/小松和重)の証言、などが絡みながら本質へ繋がっていく。
今回はわりと早くにネタバレがあった。というかそもそも美術の時点で分かりやすい。
舞台には2つの半円のアーチがある橋状のセットが奥にある。要はそれはあの「眼鏡橋」である。舞台下手から上手に向かって少し傾斜があり、橋のブロックの部分に何か収納されている(花火の火薬と後に分かる)。手前に椅子が3つあり、金属棒が正面に2本「X」の形に配置されてるので、それが少し目眩しになっていたが、わりと早くに「舞台は長崎」と気づいてしまう人も多かったろう。
とすればメインモチーフの唐松家の「花火」とは何を指しているか。長崎で過去にあったことを知っていれば、自ずと分かってしまうものである。
もちろん長崎以外にも眼鏡橋はあるのだが、戦中で次男が物理学者、三男が聖職者ときたら、それは長崎のあの事でしょう、としか。
あまりにも分かりやすいので拍子抜けした。そろそろ原爆についてはやるかなと思ってたが、すでに『パンドラの鐘』があるので、今度は広島かなとうっすら思ってたが、やはり野田さん縁の地・長崎であった。
ネタバレ(は英語でspoiler)
花火の火薬とは原爆のウランのことであり、物理学者の次男は日本で原爆開発をしているチームの一員として描かれる。三男は聖職者、つまり浦上天主堂で神に仕えている。そして長男は花火師、原爆の点火装置を作ることのできるキーマンとして描かれる。
岡山にあったウラン鉱床、開発途中であった「落とされなかった日本の原子爆弾」も効果的に描かれる。しかしそれだけではなく、様々な事象、国、そして人が配置され、三角になる関係性が重なりモザイク模様のように最後の瞬間へと導いていく。
三角は3人の兄弟の関係、父と長男と女の三角関係、東京から来た弁護人と地方検事と長崎の事件、といった人間関係やその力関係におけるものからはじまり、日本とアメリカとロシアという三角関係も描く。相対性理論についても三角に関する元ネタがあるんだろうなと調べてたのだが、難しくて断念。誰か教えて。
他にも色々あるかなと調べていたら、長崎原爆資料館のホールの天井のガラスは三角を並べたデザインになっている*1。
あと 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館には「追悼空間」という12本の柱(棚)が立てられているエリア*2があるのだが、劇中でポールを使って、この柱を思わせる演出があった。 柱(棚)には原爆死没者の氏名を記載した名簿が納められており、この名簿棚の方角には原爆落下中心地があるという。舞台は長崎そのものであり、平和祈念館へも通じていた。
ちなみに劇中このポールが並んでいるシーンは『欲望という名の電車』の冒頭シーンを引用するが、これはロンドン公演のためもあるだろう。ポールが模した電車は追悼空間であり、それを抜ける(電車に乗る)と原爆落下中心地へ向かうという意味が含まれている。電車は長崎の路面電車でもある。
参考:
- 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
- 追悼空間の映像。劇中の電車のイメージと重なる。:祈念館紹介動画 - 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
野田地図における俳優の存在感
野田地図はワークショップを経て、さらに俳優陣が能動的に制作に参加している。主演俳優のみならず、脇や群舞においても同じである。
その制作法でも、野田秀樹という大きな軸があるため、主演は光り輝き、主たるメッセージは彼らから放たれる。
今回それは松本潤であり、長澤まさみと永山瑛太である。さすがに華があり、3人とも技巧とは別の、舞台の真ん中に立つ事を許された者が持つ力を遺憾なく発揮していた。
今回は群像劇の面もより強く、脇もいつもより前に出ていたように見えた。村岡希美さん、小松和重さん、竹中直人さん、池谷のぶえさんは技術のみならず、それぞれをフューチャーするシーンが長めだったり演出も凝っている。
村岡さんが相当抑えめの照明の中、着物を脱いで背中を見せるシーンがある。長澤さんがグルーシェニカを役を演じる際は露出多めだが、明るくあっけらかんとさせていて、村岡さんの暗くじっとりとした雰囲気と対照的で印象的に演出されている。小松さんは裁判シーンが多く台詞が多めだったし、竹中さんは今回ラップを駆使して役を越えて本領発揮な面を見せた。
しかし誰よりも印象が強く残ったのは池谷さんだった。
野田秀樹におけるミューズは、大竹しのぶ、深津絵里、近年は松たか子、宮沢りえというところだろう。近年は橋爪功あるいは高橋一生も入るように思う。
このラインナップの共通点は「野田秀樹が自分の分身として配役する」ということではないかと考えている。野田さんの少女性あるいはジェンダーレスな部分を投影する役が多いからか、中性的なイメージがある。
橋爪さんは男性で年配、という違いはあるが、ちょうど野田さんが年を経て見えてきた頃の、老いや広い経験値の表象として適役だったように思う。
今回は池谷さんの存在にそれを感じた。ご本人も当初この役はてっきり野田さんが演じると思っていた、というくらいだったそう。しかし見た後だとこれは池谷さん以外にはありえないとも思わせる。ウワサスキー夫人という個であり、戦時中のロシアそのもののメタファーでもある。大きく複雑な役を、軽やかにコミカルに嵐のようにおおらかに演じていた。ちなみに特に大爆笑だった「猫の名前はケラリーノ・サンドロヴィッチ!」は池谷さんのアドリブから生まれたらしい(パンフの俵万智さん短歌より)。そしてこの観劇の日にケラさん来てたらしい。
戦争という主題の強さ
その濃淡が濃く印象的な俳優たちの演技を見ながらも、最初から最後までずっと演劇のショー的な楽しさやスター俳優による華やかさは控えめに感じた。これはどうしたことだろう?
ラストに近づき、花火の音が原爆が長崎に落ちた音として使われる。これは想定内すぎた。しかしもしリアルに再現した時の衝撃の大きさ、毎日劇場でこの惨劇が再現されることを考えると、これ以外の演出はないともいえる。
爆撃の後、濃いグレーの大きな薄布でフワリと覆い、瓦礫と焼けた死体を表現する。布を使った野田地図の特徴的な演出がピタリと合う。
そして岡山に行っていて生き残った長男が、弟たちの死体の上を歩く。
ここで長台詞があったが、私はもう涙でつらくて大半を忘れてしまった。それでも松本潤の存在感は大きく、彼のスター性がかろうじて焼き尽くされた街で取り残された生者の悲しい叫びと祈りを伝えてはいた。言葉、ではなく微かな存在感として。時を越え、79年前の光、そこにいた人の気配が今そこにやっと届いたかのように感じた。
エンターテイメントと切っても切れない関係の演劇や映画という表現は、戦争という主題の重さに耐えきれない。調和はなかなか難しいのだと思った。特に原爆については。
この辺は井上ひさしがかなりうまかったと思う。
かといって野田さんができてないのではなく、かなり分かりやすかったし、スター配役する事で今まで戦争劇に縁がなかった層を呼び込む効果があった。
こまつ座だと年齢層高めだし、ある程度戦争や原爆の理解度が高いので創作しやすかったろうが、分かりやすさやとっつきやすさから離れる面もあったのではと思う。
松本さんファンの中にはキラキラした彼を見たかった方も少なくなかったと思うが、今回これだけ自身の最大の魅力を使わず、しかしその培った求心力を必要最小限だけは用いて、戦争演劇という主題に集中して身を投じたのは大変すばらしかった。アイドルとしての自分を殺したのではなく、そこを必要な分だけ取り出した独自の技術ともいえないか。アイドルらしからぬ体型やヒゲについてのコメントも見受けられたが、そんな事は瑣末なことである。
唯一キラキラ松潤らしい、思ったとこがあって、ソファを乗り越える時に足だけで軽くジャンプするのだが、あれは『花より男子』でやってたやつだー!と思いました。
今回は全体的にも、戦争を単なる素材として消費することは徹底して避け、演劇特有の表現でアピールするのもかなり注意してシンプルにしようとしていたと思う。それが俳優陣の強い個性をいくらか抑えたのかもしれない。
それは「演劇」という枠に留まらず、その奥にあった事実、今もある現実を提示することになる。過去も現在も未来も繋がっている、と伝えようとしていた。それが強すぎたら、もはやそれは演劇とは言えないかもしれない、が野田秀樹はそれを超えたいと思っているのかもしれない。
美術セットで今回、プロセニアムアーチ的なブルーグリーンの幕が下手と上手と上部にあった。唯一フィクションを強調した美術だった気がする。
リアルに寄せない美術や音声、しかし反して俳優はより事実に近づいていくような、ある種異化効果の演出のようでもあった。
海外公演を意識した演出
今回、台詞が思ったより野田秀樹的な言葉遊びが多くない気もした。もしかしたら海外公演の時の英訳を見越してか、もしくはすでにか英訳があるのか。猫の名前はどうするのだろう。
あと日本とロシアとアメリカの関係性の中に、イギリス批判はなかった。そもそも大戦の中でイギリスが関係ないことなんてないのだが。これはロンドン公演のためか、あえてなのか。
日本への原爆投下を一種のジェノサイドと表現した時に、欧州において今のガザの惨状は確実に想起される。劇中で手のひら返したロシアは今ならどこに当てはまるだろうか。
野田さんに広島を描いてほしい気もするが、今回長崎にした効果は「教会」というキーワードが大きい。カソリックの教会に原爆を落としたことの意味、イギリスでどのように受け止められるか気になる。イタリアだったらもっと問題になるが、カソリックを排除した国でどういう反応が起こるか。
余談という名の雑文
先日、卓球の早田ひな選手が「 鹿児島の特攻資料館に行きたい」という発言が話題になった時、保守とリベラルの間でコメントが案の定二分したのが記憶に新しく。
早田選手は鹿児島の出身なのかな、と思ったら福岡ということ。同じ九州だからとも思ったが、ちょうど昨年末にラノベ原作の特攻をテーマにした映画が話題になったからもしかしたらそれを見たのでは?
という話を家人にしたら早速配信で見はじめたので、私は全く興味なかったのですが横で他のことしつつ斜め見。戦争をネタにした若者デート映画と思ってたのですが(まあその要素は大いにあり)、俳優陣の演技がかなりしっかりしており思ったよりはしっかり見せる感じではありました。脇の松坂慶子とか中島朋子はもちろん、警官役の津田寛治さんなんかちょっとしか出ないのに「この非国民があっ!」とよくある戦争ヒール役をしっかり演じてて。なんなん、この無駄にいい演技見せる演出(褒めてねえぞ)。
戦争をエンタメ的に消費させた時点で、映画としては全然駄目だしありえないけど、若者のとっつきやすさはすごくあるのかも。
他にきちんと戦争を描いてる映画はたくさんあるけど、難しい、重苦しいと敬遠されてしまう。では戦争を知らない層に見てもらうためには?という事を万が一考えてたなら、マーケティングとしては成功なんでしょうけど…。
私は家人が広島生まれで、その親戚も広島に多くいるのでここ20年くらいはかなり近い土地となりました。それより前は、高校の修学旅行は広島と長崎で、がっつり平和教育する学校だったし、小学校も公立だけどわりと保守的なとこだったのと、世代的に戦争の話は授業でたくさん出てきた方。東京なので大空襲の話もその頃はドラマや授業でよくあったかと。教師側に戦争体験者が多かったというのもあるでしょう。
でも今は若い人にとっては細かいところが伝わりにくく、解像度が低いのかも?
と思ったのは、芝居で「竹やりで敵の戦闘機に向かっていく訓練」を演じるシーンがあったのですが、これ実際にあったことだと知ってる人がもしかしたら少ない?演出の流れで確かに笑いを誘うシーンになってて、あえてその意図(おかしなことをしているという皮肉)があったとは思うけど、けっこうしっかり笑ってる人が多くてびっくりしたんですよね。私はよく映画とかで見たシーンなので虚しくなってしまったのだけど。
でもこの芝居を見て、戦争について考える機会になって、長崎という土地で何があったか知って、さらに訪れてもらえたらそれはそれでいいのかもなあ、とか思ったり。
別に若い人に限らずなんだけど、保守でもリベラルでも色々意識高く語る人に「じゃああなたは広島、長崎、鹿児島、沖縄など行って、戦争の傷跡を見たことがあるのか」と問うたらどのくらいの人が実際に訪れたことがあるのかな。ちなみに私は前述のとこは全部行きました。って行ったからえらいわけでもないし、煽るつもりもないけど、行ってこそ知ること分かることがあるんじゃないかなあ?ないかなあ?演劇や映画だけでは分かったことにはならないんじやないかなあ。もちろん演劇で深まる事はある。そこは否定してません。
ただ演劇とか映画って「オチ」があるために、そこで終わり、区切りになって満足しちゃうきらいがある。最悪、その作品の持つ偏った視点やプロパガンダなどを鵜呑みにしてしまう。
その土地に能動的に行くことは、その時点で自分で動き考えている。そしてそれは必ずしも近づき理解をすることにはならない。さらに分からなくて、直視できない自分の小ささに絶望もすることもある。なぜなら予定調和的に導かれる「オチ」がないから。でもそれによって深まる事もある。という事もこの芝居は内包してたと思うのです。だからこそ、現地に行って見てほしい。博物館だけでなく、街の中を歩くだけでも感じるものはきっとあると思うのです。
野田さんが「劇場を出る時には世界が少しばかり違って見えるようになる」と言ったことは、現地を訪れるという行動にも当てはまるのではと思うのです。
『正三角関係』の英語タイトルは「Love in Action」だそうで、言葉を駆使した野田さんの芝居とは真逆ともいえる。行動こそ愛、とはなんぞや。
ちなみにラノベ映画の舞台になったのは鹿児島でなくて、茨城県の 予科練平和記念館だそうです。広島長崎沖縄鹿児島遠いなあと思う方はどうでしょう。
もちろんそういう現地の資料館に、映画のような偏りやある特定の意図を誘う展示がないとは言えないのですが。ただ広島の平和記念資料館なんかは近年大幅に展示の仕方を変え、外国人にも分かるようになどの理解しやすさを目指しているように思えます。私は高校の時に見たかなりショッキングな展示もそれはそれで見て良かったと思ってますが。
別に意識高く持たなくて全然いいので、広島行ったらお好み焼きと牡蠣と穴子と汁なし担々麺食べて、カープの試合見に行ったりして、長崎ならカステラとちゃんぽん食べて、眼鏡橋でデートして、沖縄ならリゾートして沖縄そば食べて、鹿児島なら天文館でしろくま食べて焼酎飲んで桜島見て。あちこち観光したついでに歴史に関係した資料館などに行ってほしいな〜と、思いました、まる。
あらすじ
裏寂れた旅館に訪れる警察官・田神(安井順平)と検視官・宮地(盛隆二)。旅館に長逗留している訳ありな雰囲気の作家・黒澤(浜田信也)。三人はふとしたことで怪談話を百物語のごとく始めることに。
八雲の怪談と演劇、その境界が混じる時
その語られる話は八雲の怪談から。五つの話:
これらを劇中劇として、オムニバス形式で演じる。
劇中劇はさらに舞台を分けるのでなく、俳優たちがそれまでの役からパッと切り替わって怪談のキャラクターを演じる。旅館の女将(松岡依都美)、仲居四人(生越千晴、平井珠生、大窪人衛、森下創)も入れ替わり立ち替わり。旅館のセットもうまく劇中劇に利用される。
そしてそのフィクションとしての劇中劇(怪談)に、作家・黒澤とその妻の話、そして警察官と検視官が追っている奇怪な事件がからんでいく。作家と妻の話は『お貞の話』をベースに、他の話も少しずつエッセンスを含む。
そのからめかたが見事で、あの世とこの世の境界を曖昧にし、うっすらと繋がっている不気味さを表現していた。
演出や美術もはっきりと怪談としての違和感や奇妙さを示す。すり足で出入りする旅館の人々は明らかに生者(警察官と検視官)とは異なっており、旅館の中庭は枯山水のように整然としているが、結界があるかのように生者が過ごすスペースからは分つものが感じられる。そして作家・黒澤もまた外から来た客人だが、浜田さんが演じていることから明らかに「人ならざるもの」なのではと思わせる。
芝居の始まる前からそれは顕著で、中庭に天井から一筋の砂が細い照明とともに暗闇から落ちてくる。サラサラというか音が微かに聞こえる。効果音ではなさそうだった。ほこり鎮めの意図もあろうが、その細い筋の先の小さな穴を想像させて、そこから何か違うものが侵入してきているようにも思わせた演出ではないか。芝居が始まるとそれは止まるのは、異世界との接続が成された合図だったかもしれない。
そして会場はひどく寒かった。お盆前の東京は(というか全国的に)この酷暑だからとも思ったがそれにしても。行く前にこれを見てて、その時はふーんと思ったが、やはり意図的に寒くしてるのだろう。
【奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話】
・上演時間 一幕 約2時間(休憩なし)を予定しています。
・劇場内の温度は、外との温度差で寒く感じられることがございます。
ご来場には、長袖など羽織るものをお持ちいただくことをお勧めします。 pic.twitter.com/Ol6vgDcQGp— イキウメ/カタルシツ (@ikiume_kataru) 2024年8月1日
劇中劇の外側で語られる物語は、イキウメとしての演劇である。それは前川知大の描く世界だが、八雲の怪談の再話でもある。八雲の怪談は妻から聞いた日本の民話を編纂しているので、それ自体も再話である。再話の再話、二次創作とも言えるかもしれない。
しかし、もとは果たしてどのような話であったか、オリジナルは存在していたのか。ということを考えながら見ていると、そもそもこの話はどこから来てどこへ辿り着くのか、ふわふわと手応えがない。その手応えのなさこそ、怪談の醍醐味であり、恐怖の正体であると気づくと、観客の我々もすでにそこに取り込まれていたという不思議な体験となる。それに気づかず見終わって楽しんでいたなら、なおのことそれは幸福であろう。
うすくらがりの劇場の中、もそもそと退場していく観客ははたして全員生きたものであったろうか。入場者と退場者の数は一致していたろうか。ぜひ一度確認してもらいたいものである。
イキウメとしての再話、再話としての俳優
本作、そもそも初演は2009年7月、世田パブ主催公演としてだったという。仲村トオルさん、池田成志さんとメインキャストも外部から。初演を見たSさん曰く「成志目当てで見たのに全くそのことを忘れてた」というのは、時間経過もあるとは思うがこの作品が持つ「オリジナリティの喪失」感ゆえなのではないかと思う。また幽霊を素材としている現実感のなさともいえる。
今回の上演がどのくらい初演と違うのかは私からは分からないが、劇団上演となったことでさらにその曖昧さは強くなり、境界を狭める演出となったのではないか。
それはなんとはなしにイキウメの俳優の演技に見え隠れした。警察官役の安井さんの軽快なツッコミは実は八雲の怪談の方に描かれている。『破られた約束』の終わりに語り手(八雲)が言う「復讐を受けるべきは夫の方」という感想を警察官が言う。あまりの軽妙さに安井さんのアドリブかと思わせたがそうではなかった。八雲の言葉をあたかも自分の言葉のように語る俳優、それを演出する前田知大という仕組みは、二人羽織ならぬ三人羽織の体のようにも見えるし、俳優が「操られている」というけれんみもうっすら感じる。それは技術というより、再話という仕組みに引き寄せられ魅入られたような怪しさもある。
作家役の浜田さんは当て書きかと思うほどのハマり役だったが、見終わってみればそう特徴的な演技をしていたわけではない。着物の着流しや所作は前作『人魂を届けに』での佇まいを思わせ、その時に共演した篠井英介さんの気配を感じなくもないが、とりたてて強調もされない。もしくはそれだけ自分のものとしているのかもしれないが、芸としての型を強く感じさせるものでもない。協力クレジットに花組芝居があったが、それもそういえばそうかという印象だ。
浜田さんの芝居は、もともと「演劇という器の中で物語を口承するツールとしての役者」というスタイルを感じる。今回は再話(八雲の怪談)の再話(前田知大の奇ッ怪)をさらに口承する(再話する)というマトリョーシカの構造があり、当て書きというより彼のスタイルに大変合っていたのではないか。
再話とは何か
今更だが、再話とは 「昔話・伝説、世界の名作文学などを、子供向けにわかりやすく書き直したもの。」とされる。
八雲の怪談は妻から聞いた日本各地の口承文学を編纂したものである。
日本だけでなく、もちろん世界各地にあり、以前に『シンデレラ』についてのセミナーをうけたのだが、これも欧州のみならず世界各地に伝わっている。グリム兄弟のが有名だが、その前にシャルル・ペローの『サンドリヨン(仏: Cendrillon)』があり、グリムのや欧州に伝承されているのはペローの影響が大きい。そしてペローのもさらに元ネタがある。*2
またシェイクスピアの各作品にも元ネタがあり、特に有名な『ロミオとジュリエット』も種本が数種あるとされる*3
シェイクスピアは今では翻案(アダプテーション)とも言われるが、古くは再話の一種だったとも言えないだろうか。
余談〜そういえば再話
はいここから余談。
大学の時に、小泉八雲a.k.aラフカテディオ・ハーンの研究をされていたアダム・カバット教授のゼミを取ったことがあります。
当時カバット先生はお若く、英米文学学科担当の助教だったので、仏文の私は接点なかったのですが、先生の比較文化をテーマにしたゼミが他の学科の生徒も取れる枠だったのです。小泉八雲、うっすら知ってる〜怪談はいくつか分かる〜、くらいの感じではありましたが、他にも東西の比較文化をテーマにしたゼミをいくつか取ってたこともあり、日英の比較研究をしている先生の授業は当時の私にたいへん貴重でした。
流石に四半世紀前の授業を覚えてはないのですが、その時に今思えばあれは「再話」を再現したのかもということがありまして。
それは『破られた約束』のさわりだけを提示して、それぞれその先を創作する、という作業でした。(作品がそれだったかは記憶が曖昧なのですが、「私以外の人と再婚しないで、と言った妻の遺体」という設定をうっすら覚えてたのでおそらく)
で自分は「死んだはずの妻が起き上がり、自分と一緒に死んでくれと守り刀を夫に向ける、がしかしそれは夫の見た夢」という創作をしたのでした。
でみんなの作品をコピーして読んで〜みたいな時間があったのですが、あれも再話だったな、と。
なんでそんなことしたのかあんまりよく覚えてないけど、面白かったので印象に残ってる。多分、人によって感じ方や表現がどのくらい違うかという実践を通しての比較文化だったんだと思います。
ちなみに何作かが良作として授業で取り上げてもらい、その中に私のもありました。えっへへへ。
その自分が授業で書いたものを、前述した八雲の 「復讐を受けるべきは新しい妻ではなく夫の方」という台詞を聞いて思い出した次第なのですが、やっぱり今回見て新しい妻が殺されちゃうのモヤモヤしました。でもあのラストだから日本的ホラーとなるのかなとも思い。
シンデレラもグリム版は残酷な描写が書き加えられており、日本の民話や童話もしかり。
八雲の再話もコンプラやフェミニズムを意識させるような視点もあったり、視点の違いや変化が楽しめる。そういや2025年に妻と小泉八雲の話が朝ドラになるそうですが、そこもまた再話がどのように映像化されるのか、現代における表現が楽しみ。
酷暑の和室で見る夏夢
公演のあったアトリエは一軒家。一階フロアの会場30人ほど収容で、ギチギチではないが、さすがの酷暑。エアコンの音はするが、あー涼しいともいえず。この暑さでは仕方ない。とはいえ暗幕で囲われ、ライティングもかなりおさえめな演出だったので、汗をかくほどの熱気にはならなかった。
その状態が功を奏した部分もあった。
四角い平場の会場で、座席は二面を使う。音声、照明のスタッフエリアもそこの一部にある。残り二面が舞台背景として使われる。片面に床の間を模した小さめの平台が置かれ、もう片面には障子が置かれる。床にはランダムに畳が置かれている。
そのような和のセットだったのと、暑くも涼しくもない、ある種自然に近い気温が、夏夢の森の中のイメージに近かかった。エアコンの音はどうしても聞こえてしまうのが仕方ないが、それも芝居が始まれば台詞や音響の音量にすぐまぎれた。
オーベロン&ティターニア、シーシアス&ヒポリタは同じ俳優が演じる(高島領也、名越未央)。人間の時は洋装で、着物の羽織で妖精の時は和装に切り替える。
パック(渡辺可奈子)はおかっぱ頭で裾の短い絣の着物にはんてん。見てすぐに「座敷童」と分かる。
和風のセットはシーシアス公爵の邸宅という設定だそうで、和室にいついて悪戯をする妖怪・座敷童がしっくりくる。パックは元ネタがイギリス伝承のロビン・グッドフェローという悪戯好きの妖精なので、座敷童と重なる。
狭い会場で暗めの照明の森の中、音響は電子音楽系でカラフルな衣装を纏った俳優たちが蠢くとクラブのようである。ときおりパックや俳優たちが夏の虫や動物の鳴き声を模倣すると、一瞬で暗い夜の森になる。会場のコンパクトさをうまく利用していた。
座敷童パックとダメ上司オーベロン
座敷童なので、仕草や振る舞いが子供のそれである。駄々をこね、愚図り、オーベロンに叱られても自分は悪くない、とすっとぼけるのもなんだか愛らしい。惚れ薬の植物(小道具はサングラス)を拾ってきて、全部オーベロンが取り上げるとムッとして愚図るのは玩具を取り上げられた子供のようだ。
怒られてすっとぼけるところも「そもそもオーベロンの指示が曖昧だから取り違えが起こった」という、「オーベロンはダメ上司」説を強く打ち出しててよい。 子供が大人に理不尽に怒られてる時の「なんでやねん」な感じになっている。あそこはパックがおっちょこちょいだからという演出になりがちだが、そもそもオーベロンはモラハラパワハラだし嫁に見捨てられそうだし、実は全てにおいてダメダメなのだ。それを子供に見抜かれている、という演出がうまくはまる。
ヘレナを軸にした4人の恋模様
恋人4人は洋装。ハーミア(松永明子)は薄いラベンダー色のワンピース、ヘレナ(喜多京香)はグリーンのシャツとスカート、ディミートリアス(宮﨑圭祐)と**ライサンダー(鍵山大和)**はオレンジ系のシャツとパンツ。どれも現代的、夏の洋装。
夏夢は4人の男女の恋模様、女同士のバトルが見どころでもあるが、今回かなりヘレナがヤンデレ拗らせまくりを強く出してるのがポイント。惚れ薬取り違えが混乱のもとだが「ハーミアとライサンダーの駆け落ちをヘレナがなぜか邪魔する」のも大きなきっかけである。邪魔しなければ2人は結ばれて、ディミートリアスは諦めるしかない。なのに ディミートリアスにわざわざ駆け落ちを教えて、混乱に陥るのはヘレナが恋心を拗らせすぎたせいである、という演出に説得力があった。
ヘレナとハーミアはもともと仲良し幼馴染みだが、互いにコンプレックスがあった所に男関係が入っていらぬ火種ができる。ここをシスターフッド演出にするパターン、2人の内在する同性愛的表現のパターンなどを見たことがあり、それは現代的だ。
今回はシンプルにそれぞれが恋の病に狂う様を打ち出し、その中でも特にヘレナを軸に分かりやすくなっていた。ハーミアは男2人を手玉に取ってるのにすっとぼけてるいけすかない女、 ディミートリアスは美人だが情の重いヘレナと父親のコネの強いハーミアを天秤にかけてるクズ男、ライサンダーは金なしコネなしイケメンチャラ男、な設定は人間味があった。そこに同情もしたくなくなるほど拗らせたヘレナというクレイジーガール!4人誰にも共感できないし友達にもなりたくない、が実際にありそうな恋模様の混乱がリアルで楽しかった。
サングラスの効果と惚れ薬のジレンマ
今回、惚れ薬をサングラスで表現していた。ティターニア、ライサンダー、 ディミートリアスは、寝てる間にサングラスをかけられ、起きて目が合うと恋に落ちる。その瞬間は音響と照明でさらに強調される。またかけてる間は魔法がかかっている、という視覚でずっと認識できる効果もあった。しかしそうすると ディミートリアスはずっとサングラスかけっぱなしなのか?と気になっていた。原作戯曲ではパックはライサンダーにだけ惚れ薬の解毒剤を塗る。今までほとんどの演出は ディミートリアスだけ魔法がかかったままでいる(ヘレナを好きでい続ける)事で丸く収まるパターンだ。しかし、それだと彼だけ夢から醒めないというジレンマがあった。
どうするのかな、と見てたら、4人が目覚める直前、森の喧騒が終わる最後にそっとディミートリアスのサングラスは外された(誰が外したか忘れてしまったがパック?妖精側だったか)。
これは、森を抜けて夏の夜が見せた夢から醒めることで、4人は人間世界のしがらみ、自分たちを縛るコンプレックスや思い込みから解放される、というベースをきちんと見せている演出なのかなと思った。サングラスの魔法はあくまで夢世界のメタファーの一つでしかないと。
それでも理屈として辻褄が合う感じはないのだが、恋なんてそんなもの、とも思うし、そもそもカオスな話なのでこの演出は新しい発見があっていいなと思った。
ボトムの頭とセクシー夏夢
サングラスの惚れ薬とは逆に、ボトム(藍葉悠気)のロバ頭はちょっとひねった演出だった。ボトムが変身する時は、パックが背中に乗って手でボトムの頭にロバの耳を作る。それを障子越しの影絵で見せて変身を表現するが、その後は人間の姿のままで演じ続ける。そのかわりに床の間にロバの顔の絵を飾る事で変身中を表す。
これは劇団特有の身体表現や間接的な表現の妙もあるが、ロバの頭を被せないことで俳優の表情の演技がきちんと見える効果もある。それならロバの耳だけつけるのでもいいかなと思ったが、直截的な方法で簡単にしない良さもある。
ティターニアとボトムのシーンはかなりアダルトで、ティターニアの衣装がセクシーなのもあり、見応えがあった。戯曲の台詞で婉曲的ではあるが、2人(妖精とロバだけど)の間に肉体交渉があったのは明らかである。さすがにその事のあからさまな演技はないが、その前段階を思わせるシークエンスがあり、裏にはけてから最中の声が会場に響くのは、かなり踏み込んでて、しかし軽やかな流れで表現してて見事だった。子供が鑑賞してた時はどうしてたのかな、とちょっと思ったがダンスのような軽やかな流れで直截的なエロスにはギリ感じない。
オーベロンとティターニアのシークエンスでも、オーベロンの執着を見せており、こちらも夫婦の拗れた愛情関係をさりげなく丁寧に表現していた。シーシアスとヒポリタの関係は深く掘り下げてはないが、劇中劇を見た後に二人の距離が近くなるところなど変化の演出はあった。
台詞だけでなく、劇団特有の身体表現がかなり効いていたのだと思うが、かなり久しぶりに見たのでその辺りを汲み取る余裕がこちらになかった。それでもかなり観客へ寄り添う演出だった。
男と女とパック
海外演出の夏夢はLGBTQのテーマを取り入れる事がある。夏夢は恋愛がメインの筋で、妖精というのも取り入れやすさもあるのだろう。
今回は各カップルの男女組み合わせに変化はない。
ただし、男性俳優に偏りがちな配役を少し変えている。職人劇団はボトムとクインス(有村友花)だけで、クインスを女性にした。2人は同じユニフォームでエプロンをして、コーヒーショップの店員同士という設定。上司と部下でもなく、イーヴンな関係のようだ。クインスはボトムにほのかな恋愛感情を抱き、ボトムもまんざらではなさそう。ここも男女の恋愛がちょっとだけ展開する演出。
4人の男女が愛憎ドロドロ四角関係だし、熟年夫婦は拗らせすぎ、因縁のある新婚中年夫婦もひとくせありそうなので、このカップルのかわいい感じは一服の清涼剤になった。恋にちょっと奥手なクインスが、自分の思いを劇中劇の『ピラマスとシスビー』に託しているのも微笑ましい。クインスがかわいくて、応援したくなる!
その男女のカップルだらけの中、子供のパックの位置が浮いて、際立ってよい。男とか女とかよくわかってない生物パックが「人間も妖精も何やってんのかな」と冷めた距離感がよい。
夏夢と真夏
昔は『真夏の夜の夢』だったが、最近は『夏の夜の夢』に定着しつつあり。これは原題のmidsummer が真夏ではなく、夏至の意味なので、6月の初夏を意味するから。
映画『ミッドサマー』のヒットもあり、最近になって定着した感はあるが、松岡和子先生のセミナーに行った時に「最初にこれを指摘したのは 福田恆存さん」だそう。
余談
山の手事情社公演、久しぶりだー、と思ったらほぼ20年ぶり。今年は40周年だそうでおめでとうございます!渡辺美里さんとほぼ同じではないですか、と思うとすごいな…。
池上アトリエ初めてだったのだけど、空間作りがさすが。会場案内や観客の雰囲気も良い。とにかく暑かった日なので、他の季節はどうなのか気になる。そしてすぐ近所の喫茶店が美味しくて、犬がかわいかったのでまた行きたいです。
参考
- 稽古場日誌より公演の写真。衣装、小物等。👉『夏の夜の夢』初日があけました。 | 劇団山の手事情社
- ヘレナ役の喜多さんの稽古場日誌。ヘレナ役の解釈が深まる。👉あぁ、嫉妬されている | 劇団山の手事情社
- ハーミア役の松永さんのブログより。絵画に描かれた夏夢。👉【絵画に描かれた『夏の夜の夢』】|松永明子/Meiko Matsunaga
横田さんお帰りなさい!
横田栄司さん、復帰後初舞台。
チケット発売前から文学座がかつてないほどあちこちで宣伝しており、劇団の熱と意気込みがすごい本公演。もちろんこちらの期待もMAX!
舞台セットと演出について
ビニール状の幕が舞台の両袖に簾のように吊るされ、奥の壁全面にも張られている。そこに照明や映像が映されると、光が反射して、不規則で柔らかな動きになり、幻想的でイマーシヴな雰囲気を見せる。
舞台の後方に変形の平台があり、その中心に四角い箱がある。小さな部屋くらいの大きさ。箱といっても枠組だけで四方から中は丸見え。対の2面は観音開きの戸の形で、もう一対の2面は網目状にゴムひもが張られている。箱への出入りはゴム紐が伸びるのでそこからもできるようになっているが、基本的には戸の開閉で出入りする。
一幕目は箱の中に鮮やかな紅い布をかけた椅子がある。箱は人力によって回転する。
出演者は主に手前のエリアで演技をするが、客席や劇場全体を縦横無尽に駆け回る。ブラバンショー(高橋ひろし)が最初に出てきたシーンだけ、2階も利用してた。
透明な幕はプロセニアム・アーチ方式(額縁舞台)を思わせ、さらに中に箱を置くことで二重構造となるようだ。箱は入れ子構造としての要素も感じる。しかし俳優は第四の壁を初っ端から破り、客席でも演技をし観客を巻き込む。美術、演出はもちろん、俳優のパワーと技術が合致しなければ生きない構造だった。
愛らしくおバカな横田オセロー
横田栄司さん演じるオセローは、見た目からして雄々しく力強さを感じる。いくらか肌の色は褐色だが、よく日焼けしてるように見えるくらいの濃さ。きれいにたくわえたヒゲと鍛えた体によく合っていた。
横田オセロー、なんといってもおとぼけで愛らしい!デズデモーナ(sara)にメロメロ、いやメッロメロのメロであった。人目も憚らずいちゃこらしくさってコラー!とつっこみたくなる。駅でチューしてる高校生か。波瀾万丈な人生を生き抜いてきた誰よりも強い武人が、素直で真っ正直で純真な面を隠さず見せてくれたら、デズデモーナもそりゃあ好きになっちゃうねと思わせる。父ブラバンショーが「許さん!縁切りじゃー!」ってなるのが、オセローへの偏見だけでなく、あまりに娘が夢中になってる事への嫉妬なのかなという感じも。
そしてこのイチャコラ場面、父だけでなく周りがドン引きしてるのも印象的。ああ、ここでこんな事したから、余計にいらぬ不幸を招き寄せたんだよ!オセローのバカ!
デズデモーナはなんといっても若いし、育ちが良すぎて人の悪意を感じ取れない。でもオセロー、あんたいい大人なんだから、いくら幸せでも周りにそんなにアピールしたらヤバいとハラハラさせられる。
2人は現代で言うと、インスタやFacebookに自撮り写真を載せまくり、いいねを稼ぎまくる人気カップルYouTuberみたいな感じ。なんなら調子こいてTikTokで踊っている。空気を読まず、アンチに気づかず、度を越すと炎上するのは昔からの定番だったか。
イアーゴーの妬み嫉みの正体
イアーゴー(浅野雅博)がなぜあれほどにオセローを憎み騙すのか?
イアーゴーの台詞の上での動機としては
- ムーア人オセローへの露骨な人種差別。
- 自分でなくキャシオーが副官になったこと。自分は旗手に、という仕事上の逆恨み。
- 妻のエミリアとオセローが浮気した疑惑による嫉妬。(オセローは他の女性とも浮名を流しているが、あくまで噂だけのよう)
というのが台詞で分かる主な理由だが、どれも根拠としては弱い。あそこまでオセローを追い詰める事に、果たしてイアーゴー自身に得があったとは思えない。最後に動機を問い詰められてもイアーゴーは話さない。
一番しっくりくるのは、別の公演の時にも記したが「オセローは大谷翔平」なのである。
深淵にのみこまれる境界〜『OTHELLO』滋企画@こまばアゴラ。 - je suis dans la vie
公演前に早稲田であった鵜山仁さんのセミナーでも触れられており、鵜山さん曰く
「みんな大谷翔平の活躍見てて楽しいと思ってる人ばかりじゃないでしょ。なんだかいけすかないと思ってるはず。イアーゴーは民衆の気持ちを代弁している」
という言葉でした。それは決して大谷さんを批判しているのではなく、
「多様性と民主主義は対立するものではない。しかし特別なものを引き摺り下ろしたいという気持ちは民主主義的な嫉妬。そういう思いは民衆にあり、イアーゴーはその代表である」
というのが鵜山さんの解釈で、とても腑に落ちました。
確かに、天才とか金持ちとか有名人とか、「けっなんやねん!こちとら一般ピーポーじゃ」という気持ちがないこともない、というかある。
まだ手の届かない場所にいる相手なら、その気持ちは日常に薄まる。しかし、イアーゴーのように近くで見ざるえないポジションにいたらどうだろう?
若くして三冠王を取り国内リーグで「村神様」ともてはやされたヤクルトの村上選手が、WBCで初めて大谷翔平選手と一緒にプレーして、その差に愕然としたという話があるが、相当な才能や力を目の前にした時に、人は対象の力に感嘆するよりも、己の非力さに向き合うはめになることがほとんどなのではなかろうか。
イアーゴーの場合は、武人としてどの程度実力があったのかよく分からない。オセローは彼を評価して信用していた(だからこそ信じた)ようだが、イアーゴーの自己評価が低かったのか、オセローへの嫌悪が上回っていたか。そして何より、そこそこ賢くてずるくて、言葉で人を操るのがうまかったのことがこの悲劇の始まり(言葉を操るというキーワードはかの通訳のIPPEIに通じる)。
自分の中の誰かへの悪意を一旦認めてしまう。そして開き直ってその妬み嫉みを解放するために動き出したら、なんと気持ちいいことか!
ここで後方の箱のセットが意味を成す。箱は主にイアーゴーによって回転させられ、オセローはそこに入れられる。くるくると回されて目を回しふらふらになる。イアーゴーの嘘に物理的な回転が相まって、その舌禍は視覚化される。
箱を止める足元にあるストッパーについて三谷幸喜さんが記している*1。確かに浅野さんの所作はかっこよかった。もちろん演出を正確に、また横田さんを怪我しないように気をつけているというのも見えたが、コントロールフリークの得意げな雰囲気も纏っていた。
二幕においては2面だけだった箱にかけられた網は全ての面にかけられて、オセローが完全に疑惑に捉えられた事を示す。
さらに二幕で箱の中には紫色のカバーがかけられたベッドが置いてある。私たちシェイクスピア好きな観客は、この後オセローがそこで何をするかすでに知っている。
箱はイアーゴーが作ったオセローへのもう一つの舞台。 箱はオセローの疑惑の心のメタファーでもあり、イアーゴーの罠のメタファーでもある。
近年、額縁演出を好む鵜山演出、今回は箱を使って、もう1人の演出家イアーゴーを作り出した。私たちはその異化効果でいつのまにかその片棒を担がされる。オセローが面白おかしく操られていくのを心ゆくまで楽しんでいる。
そうイアーゴーは楽しんでいる。もう目的と手段は逆転している。動機はすでにない、いやないからこそ残虐を純粋に楽しむ。倫理から解き放たれた人のなんと生き生きとしたことか。「オセロー、その罠にハマったお前が悪い」とでも言うかのように。
しかしそのイアーゴーを全面的に肯定しない鵜山演出と浅野演技の妙。箱を使った演出のために、私たちはこれが嘘だと安心して悲劇の中の喜劇を楽しんでしまう。
第四の壁を飛び出してくる俳優たち。それは鵜山さんの「観客もイアーゴーの素養がある」と突きつける部分もあったのではないか。
「お前もイアーゴーにしてやろうか、ふはははは」と、文学座という「霧の立ちこむ森の奥深く」に誘われてしまった観客たち。 聖飢魔IIの悪魔デフォルメイメージは恐怖というより、ケレン味たっぷりのコミカルさやパロディもあり、そこが魅力である。今回のオセローにも、それと同じでおかしみというベースに恐怖と悲しみが混在した魅力があった。
M-1優勝候補コンビ爆誕!
浅野さんと横田さんでM-1出たら優勝間違いなし!なくらいに2人のシーンはまるでボケとツッコミのような絶妙な間合いがたまらない。
お二人は文学座同期とのこと。しかし活動のエリアが違ってか、共演はなかなかなかったとのことだが、別のバンドでやっていたベテラン2人が、共演したらあら意外と音もリズム合うじゃないみたいな。スーパーギタリスト速弾き合戦、もしくはギタリストとボーカルの華やかパフォーマンス。
横田さんの喜劇と悲劇の狭間を激しく揺れ動く演技、こちらの情緒を激しく揺さぶる熱情のオセローに熱くなり。そして浅野さんのクールでドライで、全てをコントロールしようとする俯瞰のイアーゴー。2人の丁々発止の台詞の応酬にツボ押しされて関節が緩んで、オセローをともに騙しているかのような共犯関係は、かつてない新鮮さ。オセローも騙されていることを楽しんでいるかのよう。
浅野さんはロダリーゴ(石橋徹郎)とのかけ合いも絶妙。「財布に金を入れとけよ」連発のくだり*2は大笑い。石橋ロダリーゴのだらしないけど人情味ある感じも、イアーゴーの言葉の巧さを引き立て、他の兵士たちと違う位置付けが見えてきて、物語におけるキャラの多様性についての広がりを感じました。
横田さんもクライマックスまでは、とにかく笑わせにきて。嫉妬に狂う姿がおかしくて。のたうちまわり、台詞にこぶしが回りまくる(これはさい芸仕込みか。本家本元の吉田鋼太郎を思い出してください)。それでも詩を朗々とうたうような素晴らしい台詞回しにうっとり。
俳優さんは客席にバンバン降りてくるのだが、唯一客いじりするところがあり。オセローがイアーゴーとキャシオー(上川路啓志)が会話しているのを盗み聞きするシーン。キャシオーは情婦のビアンカ(千田美智子)について話しているが、オセローはデズデモーナと勘違いする(イアーゴーの策略)。横田さんが客席におりて、舞台の2人を見ながら、観客に確かめるように話しかけるのですが、私ちょうど通路側の席でして、通路挟んで隣の人が横田さんに話しかけられていた。あら残念というより、おっきい背中を目の前で独り占めできて、わーいラッキーでしたよ。話しかけられた人は「わぁっ!」ってなっててむしろ大変だったのでは。
瑞々しいデズデモーナとエミリアとのシスターフッド
saraさんの初々しく、しかし強く立ち上がるデズデモーナ。
saraさんはゆうめいの『ハートランド』で歌が重要な役を演じていたが、今回もその歌声がポイントになった。最後の夜を迎える前に歌う「柳の歌」。シェイクスピアはミュージカルではないので、歌心のある俳優さんが必ずしも演じるわけではない。今回はsaraさんの表現力によって、ここは戯曲以上にデズデモーナの輪郭をはっきりとさせた。
父や公爵にオセローへの想いや決心を勇気を持って伝えながらも、たどたどしさが隠せない、瑞々しい少女のようなデズデモーナ。
自分の若さや未熟さへの不安を、はっきり自覚は出来ず、ましてや言語化もできず、それがゆえにオセローの気持ちも理解できない(しかしそれはデズデモーナの責任では決してない)。それでもなんとなく母親の侍女のことを思い出して、侍女が歌っていた歌を口ずさむ。それはこの後起きることへの予兆だが、デズデモーナが唯一自分に起きている事を感じ取って表現した瞬間ではなかろうか。人を愛することは、よろこびだけではないと気づく瞬間を、見事に歌声で凝縮させたことで、彼女がただの被害者だけにはならない印象を残す。
前述の『ハートランド』でのsaraさんは、中盤まで台詞があまりなく、最後の方で全てに喝を入れるようなパンチ力のある歌唱に度肝を抜かれた。現在ミュージカルで活躍の注目の若手とのこと、納得。今回文学座としては初舞台とのことだが、確かに周りの熟練にのまれそうな瞬間もあれど、そこも含めての配役だったろう。
もしデズデモーナがもう少し人生の辛酸を知り、夫の不安を即座に汲み取り先回りできるような経験値があれば結果は変わっていただろうか。
と、デズデモーナ自身が歌いながら思っていたのでは?だからこそ、殺される直前にオセローを庇うかのような
「だれでもない、この私よ。さようなら。」*3
という言葉を言ったのではないか。
この台詞はDVを受けた人間が、加害者ではなく自分が悪かったからと自責的になるのに似ており、読んだ時はデズデモーナが弱いだけという印象の台詞だった。しかし彼女のそれまでの行動力、その賢さを顧み、そしてsaraさんの歌の表現力から、その言葉は愛する人を最後まで信じようとした、デズデモーナの意志の強さからゆえと解釈した。デズデモーナといえば、「殺すなら明日にして、今夜は許して!」*4も大変素晴らしい台詞だが、今回はこちらの方がデズデモーナの強さを貫く姿勢を感じる台詞となった。
そしてそのデズデモーナを側で支え、真っ正直に命さえも賭けるエミリア(増岡裕子)の姿には、愚かで学ばない男性社会への痛烈なカウンターにも思えた。もちろん、彼女が拾ってしまった苺柄のハンカチのために惨劇が起こるのだが、ここの演出をエミリアが最後まで気づかなかったというのをはっきり見せ、イアーゴーの悪事を明らかにするラストのパワーは素晴らしかった。
デズデモーナとエミリアのシスターフッドは、その悲劇ゆえに表現しにくい部分もあるが、ここは演出がすごく分かりやすかった。
夫とはいえ許せないエミリア、夫のことを信じるデズデモーナ。たとい世界をもらっても不貞はしないデズデモーナ、世界をもらえるなら夫のために不貞をするというエミリア。馴れ合いと体面と虚飾でガチガチになった男同士と、立場や考えが違っても互いの違いを認め尊重し助け合う、自分にも他人にも正直な女性同士の関係との対比にもなっており、台詞の際立ちもたいへん印象的だった。
シャイロックとオセロー
差別を描いたシェイクスピア作品として『ヴェニスの商人』を思い出した。オセローは正式な題名が『ヴェニスのムーア人 オセローの悲劇』だという。
同じ差別を描きながら、なぜオセローは悲劇なのか。オセローが同情的に描かれているからか。イアーゴーはポジション的にはシャイロックになるのでは?
シャイロックとオセローの共通点
- 名前ではなくそれぞれ「ユダヤ人」、「ムーア人」と蔑視を込めて呼ばれる。
- シャイロックの「ユダヤ人には目がないか?」*5に始まる差別への怒りが爆発する台詞。そしてオセローの最後の 「私は国家に多少の功績があり、それは政府もご存じのはず」*6に始まる、自分がどれだけにキリスト教社会に尽くしたかという切なる悲嘆の台詞。この二つはニュアンスや意味合いは多少違えど、決して自分を認めようとしないマジョリティへの強い訴えとして共通する。
シャイロックとオセローの相違点
- ルサンチマンを持つシャイロック、オセローはルサンチマンを受ける側としての違いがある。
- シャイロックはキリスト教社会のルールの中で、金の力や知恵で自分の考えを貫く。侮蔑に屈しない。むしろ侮蔑や差別を自ら明らかにして揚げ足を取り、自分の怒りを隠さない。マウント合戦で煽るスタイル。ラップミュージック的。
- オセローは武士としての能力で白人社会に認められようと努力し、改宗までして、名誉白人として馴染もうとしている。侮蔑には耐えてきたかスルーしていた。これだけ白人に尽くしているから信用を得ていると錯覚していた。情に訴える系。
シャイロックは「ほかのことがあんたらと同じなら、この点でもあんたらの真似をしてやる」とは自分は差別する側と同じ人間であり、実は当たり前に傷つくことを訴えている。シャイロックもオセローも差別によって奪われ傷ついているが、向き合い方が違っている。
シャイロックは勧善懲悪の中の悪役として描いたが、オセローではヒーローを差別側に置き、別な角度で描きたかったのかも、とちょっと深読みしたくなる。
『オセロー』におけるブラックフェイス
今回、『オセロー』におけるブラックフェイス表象の問題をクリアしてるとは言い難い。しかし、今回は「オセロー=アフリカ系黒人」というステレオタイプではなく、とちらかというと史実のアフリカから来たイスラム系の「ムーア人」のイメージに近くしたという印象。演出側と観客のリテラシーがある程度一致している事が日本人が演じる上での前提条件になるやも。
例えばこれが大箱・スタータレント主演・客層も普段演劇を観ない層ありとなると違ってくる。日本人は、黒人の中でも肌色の濃さで差別があるとか、欧州の中東への差別問題、長きにある欧州の宗教問題など馴染みがないので、結局「黒人」という分かりやすさで理解してしまうので、時代背景や差別の歴史と現代の状況などを踏まえて見ることが重要になる。
※オセローの台詞引用部分を小田島訳に変更しました(2024/10/3)。