2人産んだらお産のナラティブが完結した話 (original) (raw)
つい先日第二子となる子どもを出産した。
完璧な頭部
第一子を経て、お産というものは後に地獄の産褥期をもたらすものだと思っていた私に、第二子は思いがけないものをプレゼントしてくれた。そんな話。
第一子の妊娠と出産のエピソード
第一子の話に少し触れておく。
私は第一子を高度不妊治療によってようやく授かった。一般不妊治療から始まって2年半。2ヶ月半毎日嘔吐した、脱水とのチキンレースの真夏のつわりを経て、出産するころには丸3年を過ぎていた。
第一子は無痛分娩(産科麻酔)のもと経膣で、頭囲37cm(+2.5SD、95パーセンタイルを超えている)、3795gの子どもを産んだ。
分娩は陣痛発来からはじまり、麻酔導入してから微弱陣痛や回旋異常となったため陣痛促進剤を入れてからも10時間以上粘り、結局分娩時間は24時間近くに達した。
しかも上述のように尋常でないサイズの頭を産むために吸引分娩となった。そして、1000mlを超える出血と3度の会陰裂傷(肛門の筋層まで達するもの)を手に入れて帰宅することになった。
記憶を消し去りたくなるほど辛かった産褥生活で、最初の1ヶ月はまず座ることができなかった。その後も1ヶ月ほどはクッションなしで座れなかったし、2ヶ月3ヶ月経って歩くようになった頃にまず感じたのは歩行時の歩容がなにやらおかしいといったことだった。筋力の低下と靭帯の弛みが戻り切っていなかったように思う。
そしてその状態で、退院直後から平日はほとんど24時間ひとりで乳児の世話をしていた。なんなら休日もひとりになることはしばしばあった。
産後は腰椎椎間板ヘルニアが悪化し、産後半年まで鎮痛薬を毎日内服したうえでリハビリに通わざるを得なかった。
我が子はとても可愛いが、とにかく出産に良い思い出がない。
そんな私が第二子に挑戦して、そして経験して、「人を産むというのがこれくらいの負担なら良いな」「こんな分娩なら前向きになれるだろうな」と思った話だ。
第二子の分娩の概要
第二子も、第一子と同様に陣痛発来後(つまり計画出産でない)の無痛分娩を選択した。ちなみに国内の産科麻酔の普及事情から考えると、計画無痛分娩(つまり人工的に誘発して分娩を開始する)ではない麻酔は相当にハードルが高い。常駐の麻酔科医を確保しなければならないからだ。前回より、私のたっての希望により分娩施設は選ばれている。
そして第二子は陣痛ではなく高位破水から分娩がはじまり、破水からは11時間、陣痛の開始から胎盤の娩出までは7時間ほどのお産となった。
第一子の1/3ほどの時間だった。
分娩を振り返りたくなるなんてことは
あるのだろうか。あった。
恨みつらみでなくて、これはまあ良かったのだろうなと思う経過だった。
予定日超過
予定日を呆気なく過ぎて、なんの予兆もなく、私も周囲もはてどうしたものかと過ごした。前駆陣痛と呼ばれる規則的な子宮収縮も、おしるしと呼ばれる粘液質の血性分泌物もない。
40週に入っても、私は修論(今更?とか言ってはいけない)の修正をしており、毎日外にでかけては冷たい飲み物をがぶ飲みしながらパソコンを叩いていた。体を冷やすななんてばかを言ってはいけない。真夏の妊婦は猛烈に汗をかく。つらい。
巨大な腹を抱えると夜の眠りは浅くなる。
そんなこんなで40週1日、第一子を寝かしつけた夜半も日付が変わる頃まで相変わらずパソコンに張り付いていた。そして少し眠る。
さらに深夜、3時過ぎ、前駆陣痛と思しき鈍い痛みで目が覚める。痛みと言っていいのかわからないほどの収縮だが、妊婦は頻尿なのでトイレ通いをする。悲しき性(さが)である。
高位破水と前駆陣痛
おや。
なにやら薄い血性の分泌物がある。今回の妊娠の後期に入ってから初めて見たぞ。
破水はよく尿漏れと区別がつかないらしい。アンモニア臭でもするか、と確認するがよくわからない。というか血性なので破水が疑わしい。しかし少量なので判然としない。
そんなことを繰り返しているとどうにも何度となくトイレに通わなくてはならなくなり、いよいよ破水が疑わしい。前駆陣痛と思しき子宮収縮も僅かずつだが強くなっている。
入院の際は、どうしても上の子を置いていけぬ以上病院の前まで連れて行かなければならず、タイミングにひやひやとしていた。
分娩室に直通の番号をかけ、症状を伝える。当然のことながら来院指示である。
真夏の夜明けは早いため、確か5時になるか否かの薄暗いなか、夫が寝ぼけ眼の上の子を抱き上げ、駐車場に急いだ。
入院
病院に着くと、2年半前に第一子で経験したお馴染みの入り口から入る。違うのは陣痛が強くないことと、上の子も見送ってくれたことだ。
かくして病棟の処置室に辿り着く。内診で少し圧迫されるとじゃぶじゃぶと羊水が流れるので、これは破水ですワと言われてすんなりと入院が決まる。万が一帰宅が必要になったときのために上の子を車で待たせていたので、やれやれこれで帰せる、とひといき。
ちなみに上の子の分娩のときは、お産の進みが判然としないために一度帰ってしまった。帰路で既に本陣痛であって、深夜に自宅で1-2時間ほど呻きながらひとり悶えていたのはまだ鮮明な記憶である。
そんなこんなで、気づけば6時ほどになっていた。採血と静脈ルートを確保してもらい、抗生剤を落とす。子宮口の開大はまだまだで、点滴が終わったら少し歩いて陣痛を進めよと指示が入る。
たぶんこの辺りで、第一子のときの麻酔のタイミングを振り返った。一気に子宮口が5cmまで開いたので麻酔を入れてもらったが、その後進みが遅くなってしまい、痛みこそないとはいえ分娩自体が大変なものになったという反省があった。どこまで耐えるべきか。まあ前回と同じくらいまで耐えるか、と担当助産師の方に相談する。やはり陣痛発来後の麻酔導入はそれくらいが目安のようだ。それ以降は、それはそれで分娩に間に合わなくなる恐れがある。
徘徊と陣痛と朝食
気づけば時間は経っていた。7時に院内コンビニが開くので、冷蔵庫使用のためのテレビカードでも買うか、と呑気に降りる。この頃には意外としっかり陣痛がついており、痛い。痛いが歩かざるを得ない。しかもテレビカードは得られず、病棟のフロアにあるという。骨折り損ならぬ陣痛損をしながら歩いて帰る。
8時になると朝食が出るとのこと、まあまだまだだろうから食べてから麻酔でもと言われていたが、しかし痛い。呻き声では済まないのでとりあえず叫んでおく。意外と叫び声は大事で(本当か?)、堪えてしまうと「いきみのがし」というやつができない。ので、些か大袈裟ながら陣痛のたびに叫ぶ。経産婦だからかやけに進展が早く、朝食をここで食べると麻酔を入れられないのではないかと躊躇して結局食事に手をつけられない。あと、食パンに味噌汁はおかしいと思う。なお、このパン+味噌汁の素敵メニューは退院まで堅持された。
そして食パンは、助産師さんによってどさくさまぎれに袋ごと私の鞄に突っ込まれた(のちに夜勤担当の助産師さんに捨てられる運命である)。
朝食に手もつかずひとしきり叫んでいると、「一体誰が叫んでいるのかと」と言いつつ様子を見に来られる。私です。
痛いのなんのと大袈裟なので内診で確認してもらうと、子宮口は早くも4cmまで開大していた。おやおや。
朝食で悩んでいる場合ではなかったが、第一子のことが頭をよぎりもう少し耐えるべきかと逡巡する。が、痛い。だめだ耐えられない。軟弱者なのでやっぱりもう無痛やりますと降参。
助産学生の登場
痛みに降参したあたりで、「助産の学生さんがつくけれどよろしいか?」と請われる。陣痛の間欠時に大事な話待ってこないでくれ。
こちとら非常勤とはいえ教職歴のある看護職だ、受けて立とう。というか、立ち会い分娩の予定のない私は孤独であり、賑やかしが欲しかった。
そして結局、助産学生だけでなく新生児室の新人看護師が新生児の処置にあたり、会陰の縫合は(多分)初期研修医に任されるなど私のわがままボディはあらゆる研鑚に充てられることとなった。なんでもやっちゃってくれたまえ。くるしゅうな…苦しい。
はてさて、指導者たる頼もしい助産師さん(役職つきだった)とまだまだおっかなびっくりの助産学生さんに付き添われて分娩室まで歩く。その間も骨盤が割れるような痛みの波が襲ってくる。第一子より痛い(気がする)!
陣痛のたびに骨盤をぎゅっと締めるような支えられ方をすると、楽になる。なるほどこれが助産術か、さすがソクラテスの母。とかいらんことを考える余裕はない。
そして助産学生さんよ、嬉しいのだが、さするのは背中ではないのだ(気持ちはよくわかるので構わない)。そんなことを伝える余裕もない。
麻酔導入
命からがら分娩台に到着すると、麻酔の準備の整った部屋の時計は9時である。ようこそ日直の麻酔科医。ヘヘッ朝からすみませんな。
麻酔の介助担当(…かどうかわからないので多分助っ人)のイケイケ助産師さんが出迎えてくれる。「先生、(麻酔を)10時までに入れてや、私外来(助産外来)あるから」めっちゃタメ口。憎めない愛嬌ではある。関西圏ではややヤンキーノリの看護職がバリバリ仕事をするのである(地方だとどこでもそうかもしれない)。
そして麻酔のための側臥位をとるが、もうこの時点でなかなか限界である。間欠時に呼吸を整えるのもかなり意識しないと難しい。
そんな中で局所麻酔をされる、が、陣痛が痛いので一切痛みは感じない。しかも陣痛の間欠ではなく陣痛時に本番の腰椎を穿刺される。私は構わないが、痛くて体位とりきれないぞ。ズレるぞ。
そして案の定ズレる。麻酔が若干効いておらず、陣痛はあまり落ち着かない。冷温覚もはっきり残っている。これこのまま分娩コースなのだろうか、と諦めていたらなんとやり直すのだという。麻酔が効かないのはよく聞く話だったがそこは仕事をやり遂げてくれるらしい。感謝である。バリバリと剥がされる背中の固定テープでついでに脱毛が完了する。痛い。
今度こそ陣痛の間欠を待ってもらい刺入、暫くすると割れるような痛みは落ち着いてくる。やれやれ正気が帰ってきた。
麻酔の入れ直しの前後で子宮口は既に7-8cmまで開大していた。さすが経産婦。
そして、4cmの時点で麻酔導入を促してくれた助産師さんの慧眼に感謝である。助産師様と呼ばせてください。
結局麻酔の処置が完了する頃には10時半になっていた。イケイケの助産師さんは外来に間に合ったのであろうか。
そんな心配はさておき、余裕が出てきた経産婦は暇である。物品の準備などせかせかと動く学生さんの手が止まるたびに話しかける(やめてやれ)。私は助産専攻にはとんと詳しくないのだが、実習ではお産を10例取り上げるまで帰れま10(てん)らしい。昔聞いた事があるような気がする。
ちなみに分娩後、私は何例目だったのかと問うと、なんと栄えある(?)2例目だったらしい。なんとも貴重である。
しかもこの分娩件数、カウントは「実習時間内に児を取り上げること」が基準のようで、ならば日勤帯で終わらせてやると宣言する経産婦。言うだけならタダ。そして結局実現した。
娩出まで
昼過ぎ、なんだか児頭が斜めになっており下降してこないらしいと通達。またこのパターンか、促進剤が準備されるぞ、と同意書などいそいそ書く(いま?)。
が、与薬の準備をしている間に児頭が整ったようで再び陣痛が強くなる。おやおや促進剤もいらないようである。
そんなわけで、あれよあれよというまに助産師さんたちに囲まれる。一番足元にいるのは不慣れな学生さんで、指導者がしっかり隣についている。私はそういう風景に慣れているのでまったく不安はないが、これを断りたくなる産婦は多いことだろう。しかし誰にでも「初めて」と不慣れな時期はあるものである。
そんなことはさておき、体勢を指示され、握るものを握って陣痛計を見ながら何回かいきむ。助産師さんに囲まれているのだが、みんなやんややんやと誉めそやしてくれる。なんだか嬉しい。練習した覚えはないのだが。
時折麻酔の調整を確認しにくる麻酔科医以外はすべて助産師さんたちの主導のもと、何回かいきむ。
息吸って!いきんで!
1回息吐いてもう1回いきんで!
上手〜!!!
なんだかイッキコールのようなテンションで誉めそやされて、排臨から発露まで進んだようである。
「頭出てるよ、触ってみる?」
と予想だにしていなかった声がかかる。
マジで?触れるんですか?てか手届くっけ?
などなど悩んでいる暇もなく、手の位置を定めてもらう。おやおや、ぶよぶよした頭に触れた。無痛ならではの余裕かもしれない。
さらに1-2回いきむとずるずると首まで恐らく出てきて、肩の回旋を学生さんがあれこれ指示をされつつ補助している。がんばれ学生さん。最早、分娩を頑張っているのは自分なのか学生さんなのかわからなくなってくる。
PPE(個人防護具)の下でびっしょり汗をかきながら取り上げてくれると、臍帯のクランプも指示されている。児を傷つけないように、手を持ち替えて、と上の子のときには流れるように言語化もされなかった手技が聞こえてなんだかワクワクしてしまう。普通の人は不安になる気がする。
かくして新生児は無事に産声をあげ、インファントウォーマーに連れていかれる。そこで待ち受けているのはこれまた不慣れな(恐らくNICUかGCU担当の)看護師さんで、あれやこれやと指示を受けつつ吸引をする。まごついていると早速排尿をする我が子。「軽くなっちゃったねえ」と言われる、まあ確かに。
推定体重は38週の3000g超以降はわからずだった第二子だが、思いの外重く、3550gとのことだった。
そして幸いにも私の出血量は前回より大幅に少なく、400-500g程度かと見込まれていたようだが、この後胎盤の剥落にやや時間がかかり出血量が増える。
結局800gを超える出血となったが、それでも第一子と比較すると随分少ない。 無事に分娩第三期は終了である。この時点で14時半。
産科の研修医(初期か後期かは結局よくわからなかったが)が上級医監督のもと丁寧に裂傷を縫合してくれる。
カンガルーケアとディスポ臓器
第一子と異なり促進剤も吸引分娩も要さなかった第二子はやけに元気に泣いており、カンガルーケアも随分長く時間をとれた。
そしてしばらくすると、助産師さんは私のたっての希望であった胎盤を見せにきてくれる。いやあ素敵なディスポーザブル臓器である。聞こえが悪いが、こんなに贅沢に使い捨てできる臓器は人体において他にない。10ヶ月頑張ってくれた立役者として労っておいた。食べたくなる気持ちもわからなくは…いやわからない。全然食べたくない。
分娩第四期は2時間の待ち時間である。この間に多量の出血がないかなど諸々の状態を観察して、問題なければ無事に帰室することができる。16時半である。
学生さんや、これで記録は書けそうかね。やはり手書きかね。かわいそうに。書けるあいだに書くんだぞ。経産婦の余計な声かけにやや苦笑されるが、手間を省いて睡眠を確保するのは看護職学生の悲願である。
しかし私のささやかな(そしてはた迷惑な)気遣いも虚しく、多分時間内には記録に触れていないと思う。
かくして最後に会陰の傷を労う麻酔が追加されたあと、腰椎の麻酔は撤去される。前回多分なかったな。前回こそ欲しかった。
などなど思いつつ、ベッドごと移送されて大部屋に移される。出血量が多いため輸液がガンガン入る。また浮腫に苦しむ羽目になるが仕方ない。
分娩のおわり
そんなわけで残りは後日談になる。こんなに分娩とはスムーズなものなのか、と驚いた。
書いてみたものの、この驚きは誰かに伝わるものだろうか。第一子がこうならよかったと何度となく思ったが、しかしそれなりに大きな第二子を難なく出産できたのは恐らく巨大な頭の第一子が無事に産まれたからである。ちなみに彼の頭は今なお成長曲線上限を突っ走っている。
時系列に書いただけなので特に終わりはないのだが、第一子のときにとにかく苦しんだ産褥期も今のところかなり落ち着いた状態で1ヶ月が過ぎようとしている。
気合いが入り過ぎた私は産後2日目で研究ミーティングをし、その後も途切れることなく研究活動を千切っては投げ千切っては投げしている。第一子がこうなら以下略。
しかし忘れられない第一子との思い出があってこそ第二子のナラティブがこうしてよいものとして綴じられていくわけで、やはり第一子とその分娩経過にも感謝せねばなるまい。
以上で私の2人分をまとめた書きなぐりの分娩の話は終わりである。
ではまたごきげんよう。
あばよ。とでも言いたげなハンドサイン