ひとこと (original) (raw)
建安20年は3月に曹操が漢中攻めを始めたわけだが、その前年に劉備が蜀を平定し、孫権との間に紛争状態が起こっているのか。
曹操はそれを狙ったわけでもないとは思うのだが、すぐに漢中を落とせたのは劉備がそちらに中々動けなかったという事情もあったのかもしれないな。
で、張魯が巴に逃げたと知ると孫権と和睦して張魯に兵を差し向けたが間に合わなかった、と。
『三国志』劉曄伝では漢中平定後に蜀攻めの提案があったとしているが、劉備が孫権に掛かり切りだった時期なら成立するかもしれない話なんだろうな。
だが孫権とは和睦してすぐこちらに向かおうとしていたから、数日後にはもう間に合わない、という話となったのかな。
このあたり、曹操・劉備・孫権の判断次第では情勢は大きく変わっていたかもしれないな。
曹操がうっかり蜀に侵入していたら迎撃されて酷い目に遭ったかもしれない。
劉備が孫権への強硬姿勢を崩さなかったら曹操に蜀攻めの機会を与えていたかもしれない。
孫権が劉備への強硬姿勢を崩さなかったら、得られる領土は増えていたかもしれないが荊州と劉備の反発が強まり、むしろ被害が増えていたかもしれない。
なかなかのバランスでああなったのかも。