高世仁のジャーナルな日々 (original) (raw)
とんでもないことが起こりそうだ・・・次期トランプ政権の閣僚人事の顔ぶれを見て、こう思ったのは私だけではないだろう。
人間活動による温暖化を「信じない」と公言するトランプ氏はエネルギー長官に油田サービス会社CEOを指名。気候変動対策の国際的枠組み「パリ協定」から再離脱するだろう。厚生長官には反ワクチン活動のケネディ氏だと・・。「二十四時間以内に停戦させる」という**ウクライナや、イスラエルによる掃討作戦を「仕上げるべきだ」とするパレスチナ・ガザ**では、国際人道法が完全に無視される事態も予想される。
ただ同時に実施された各州の住民投票では、10州で中絶の権利を法的に保障する提案が出され、これまで中絶が全面的に禁止されていたミズーリはじめニューヨークやアリゾナなど7州で勝利した。フロリダでは賛成が57%と多数だったが、可決に必要な60%に届かなかったという。個別のイシューではトランプ氏の主張が受け入れられたわけではないようだ。なぜ、トランプが(なぜトラ)をさらに考えてみたい。
・・・・・・
辛光洙(シン・グァンス)は五男二女の末っ子で、兄弟姉妹のうち、北朝鮮に行ったのは彼一人。他はみな韓国に住んでいたのだが、全州刑務所に収容されていたとき、辛光洙が面会に応じるのは段番目の兄、辛チャンス氏だけだった。そこで彼に会おうと、朴春仙(パク・チュンソン)さんと私たちジン・ネットの取材班は、軍事境界線に近く日本海に面した港町、注文津(チュムンジン)に向かった。海へ落ちていく急勾配の斜面にある古い農家にチャンス氏は住んでいた。
辛光洙の家族写真。三男チャンス氏、四男チョルス氏と光洙(NNNドキュメントより)
声をかけると、アポなしで訪れた私たちに会うことをチャンス氏はいやがった。辛光洙事件で一家は大きな傷を負っていたからだ。「北のスパイ」の親族と後ろ指をさされ、就職が取り消された家族もいたという。だが、朴さんが光洙と暮らしたいきさつを話すうち、互いに親戚のように打ち解けてきた。
註文津の急勾配の道を降りていく朴さん
チャンス氏によると、光洙は根っからの共産主義者ではないという。「向うに家族がいるので、言いたいことも言えない」と泣きながら言うのを聞いたという。「非転向」の理由は北に残した家族を守りたいからだとチャンス氏は言う。そう信じたいチャンス氏の願望も交じっているだろうと思いながら話を聞いていた。
チャンス氏に話しかける朴さん
辛光洙は朝鮮戦争で攻め込んできた北朝鮮軍に加わってそのまま北に行ってしまうのだが、光洙のすぐ上の兄、チョルス氏は韓国軍に志願してパイロットとして参戦し、戦死していた。チャンス氏はその死を嘆き、骨を拾えないならせめてチョルス氏の眠る近くにと、軍事境界線まで80キロのこの地に移り住んだのだという。兄弟が敵味方に分かれて戦い、一人は戦死し、一人はスパイで捕まった。話をするうち、感極まったのか、チャンス氏は突っ伏し、床を拳で叩きながら泣き出した。あとで日本語に訳してもらうと、こう嘆いていたそうだ。
「わが一族の運命は、どうしてこんなに険しいのか・・・」
・・・・・・・
辛光洙と朴春仙さんの会話 つづき
朴春仙:じゃあ先生、私が四回も(刑務所に)行ったのに会わなかったのは、そのことを怒ったからなんですか。
(注)朴さんは、全州(チョンジュ)刑務所に収監されていた辛光洙に4回、差し入れをもって面会しに出向いたが、すべて拒否されて会えなかった。辛の「正体」を確認し、兄をなぜ助けてくれなかったかなど、胸につかえていた疑問をぶつけたかったという。
辛光洙:そうだ。民族反逆者なわけだが。(中略)
わが朝鮮民主主義人民共和国を非難するのは民族反逆者だ。もともと日本の親日反逆者が政権を握っているのは、南の政府だ。愛国者が日本の植民地時代に満州で武装を破って戦ったのが抗日遊撃隊だ。抗日遊撃隊が朝鮮民主主義人民共和国のルーツだ。このルーツを否定し、日本の奴ら、米国の奴ら、ここにいる親日派の手先になって、我々を非難する本を書き、文章を書いていること自体が民族反逆者じゃないかね。
朴:先生、じゃあね、いま北朝鮮でたくさんの人が餓死しているのに・・・先生は愛国心に燃えて大変な仕事をしているのに、北朝鮮のやってることはめちゃくちゃだってこと。
辛:そんな話をなぜ私にするんだ。めちゃくちゃであれ、くちゃくちゃであれ、関係ない。なぜそんなことを私に言うんだ。私が誤解しているのか。誰が誤解しているのか、見てみなさい。世界というものは、人間というものは、もともと・・・とにかく、原始社会で人間がサルのように過ごしていました。次第に奴隷社会、封建社会、資本主義社会。
資本主義社会から金持ちは良い暮らしができ、お金がない人はずっと差別を受けなければいけない。民族的な差別、男女差別、人種差別をするから、差別を克服するために、社会主義、共産主義になるんだ。だから、私を説得しようと、(朴さんが持参した衣類など辛へのお土産を指して)これを何のために持ってきたんだ。
朴:娘が買ってくれました。「先生に持ってってやれ」って。これだけでももらってください。
(注)朴さんの3人の子どもも幼いころ辛光洙と一緒に暮したことがある。
辛:嫌だね。
朴:(辛光洙の)お兄さんの写真です、これは。
(注) 1997年4月に朴さんが辛光洙の兄チャンス氏を訪ねた時の写真を見せようと持参した。
辛:いらない。私は徹底して朝鮮民主主義人民共和国の共産主義者なのに、私たちをけなし、世界中にあることないこと話して。
朴:ほんまに先生、分らず屋やね。私が裏切ったん違うのに・・・。
辛:裏切りをしなかったなら、なぜ、今も私の前でこんな風に話して。
朴:先生、私が裏切ったん違う。
辛:頭の中がごちゃごちゃになってしまったけど、人間、礼儀道徳がなくちゃ。
朴:先生を裏切ったのは、先生の仲間でしょ。
辛:いま、ここで私になんと言った? 「いま、共和国では人々が飢え死にして・・・」
朴:飢え死にしている、ほんとうに。
辛:そのような話を監獄で、『朝鮮日報』がそんなことを書いていることを私が知らないとでも思っているのかね? そんなことを私に話してどうしようというんだ。
朴:先生は一生、私を誤解してる。
辛:私に朝鮮を裏切れと言っているのが、それが私を裏切っているのではないか。
朴:それなら先生も裏切ったじゃないの。
辛:裏切った? 朝鮮が私を裏切ったのでもなく、私も朝鮮を裏切らないということだよ。なのに私を民族反逆者にさせようとしているんじゃないか。
朴:違います!
(つづく)
北朝鮮工作員、**辛光洙(シン・グァンス)は原敕晁(ただあき)さんと地村武志さん・濱本富貴恵さん**を拉致した実行犯である。
そのうち原敕晁さんについては、(韓国ではあるが)法廷で確定した唯一の拉致事件として事実関係が詳細に判明している。
原敕晁さんは大阪の中華料理店で働いていた
工作船で北朝鮮と日本との往復を繰り返していた辛は、日本人の身分を獲得せよとの指令を受けた。工作機関の指導員は辛にこう指示したという。
「大都市の役所の戸籍担当職員を買収して、戸籍処理がなされないで生存者になっている死亡者の戸籍を入手」するか、「日雇い労働者、失業者のなかから戸籍を入手し、その対象者を北朝鮮に拉致」して「成り済ます」こと。
その対象者を物色するにあたっては、「日本人であること、年齢は45歳ないし50歳くらいの(辛と)似た年齢であること、独身者で一家親戚がいない身寄りのない者であること、旅券の発給を受けたことがない者であること」などの条件に留意する必要がある、と。このように別人に成り済ますことを警察用語で「背(はい)乗り」という。語感からして気味が悪い。
辛光洙は「背乗り」拉致にとりかかった。**大阪朝鮮商工会の会長Aに、北朝鮮に「帰国」した二人の息子の写真と手紙を見せて拉致への協力を要請すると、同じ商工会の理事長Bが経営する中華料理店のコックである原さんが拉致対象者の候補に**合っていた。拉致を実行するのは、辛光洙、Bそしてすでに辛の協力者になっていた元大阪朝鮮初級学校の校長、金吉旭(キム・キルウク)の3人と決めた。
1980年6月、中華料理店の店長である商工会理事長が原さんに、よい就職先を斡旋すると高級料亭に誘った。そこではAが架空の貿易会社社長、辛が専務、金吉旭が常務を演じ、「社長」のAは100万円を辛に預けて「これで旅行でもして数日後に別荘で会おう」と言って去った。3人は原さんに酒を飲ませて酔わせたうえ、夜行列車に乗せ、大分県の別府に一泊。翌日**宮崎市に行き、酒宴で酔わせた原さんを青島海岸**に散歩に誘った。原さんは待ち受けていた4人の工作員(戦闘員)によって工作船に乗せられ、辛光洙も同行して北朝鮮の南浦(ナンポ)港へと送られた。
北朝鮮の工作機関の施設で、辛光洙は原さんに成り済ますための学習に取り組む。本人の経歴などの身元事項を暗記することに加え、料理の訓練も受けた。5カ月後の80年11月に辛は宮崎県から密入国し、原さん名義でアパートを借り、戸籍抄本、国民健康保険証、免許証、旅券を取得し、「背乗り」は完成した。
韓国の判決文は産経新聞の1997年10月8日、9日付に掲載されている。
北朝鮮が日本政府に提示した原敕晁さんにかんする説明(2002年9月以降)は以下である。
原敕晁 死亡
朝鮮名:パク・チョルス
入国の経緯:金もうけと歯科治療のため、海外行きを希望していたところ、工作員が本人の戸籍謄本を受け取る見返りとして、100万円と共和国への入国を希望した。これにより1980年6月17日、宮崎県青島海岸から連れてきた。
入国後の生活:1980年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語、現実研究、現実体験をしていた。1984年10月19日、田口八重子さんと結婚。子供はいない。
死亡の経緯:1986年7月19日、黄海北道麟山郡で、肝硬変により死亡。
墓:田口八重子さんと同じ所にあったが、1995年7月の豪雨によりダムが決壊し流された。
遺品:なし
その他:**辛光洙**の関与等については今後法的仕組みができたら提供する。
北朝鮮の説明がまったく信頼できないことは、すでに知られている。田口八重子さんとの結婚もありえない。原敕晁さんが「金もうけと歯科治療のため」に北朝鮮行きを希望したとは、どこから考え付いた嘘なのかと呆れる。ただここに「100万円」という金額が出てくるのにはちょっと引っかかるものがある。
なお、「死亡」した場所が黄海北道麟山郡で、田口八重子さんもこのあとすぐに「死亡」し、麟山郡に埋葬されたことになっている。また、鹿児島から拉致された市川修一さん、増元るみ子さんがやはりここ麟山郡の招待所で暮らし、墓も同地にあることになっている。北朝鮮の説明は全体としてウソなのだが、なぜ麟山郡という場所を出してくるのか、謎である。
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辛光洙と朴春仙(パクチュンソン)さんの会話 つづき
(注)朴春仙さんは雑誌や出版した手記で、「坂本」こと辛光洙との生活を記したが、その中には朴さんから見た辛の工作員(スパイ)としての姿が描かれている。例えば、
坂本は顔を晒すのを極端に嫌い、3年間同居したのに写真一枚残っていない。物干しにも出たがらず、洗濯物の取り込みは子どもにやらせた。朴さんは一緒にデパートに行ったこともない。外出はいつも夜で、家を出る前は朴さんに外をうかがわせ、帰宅前には必ず電話を入れて今家に誰がいるかと聞いた。
坂本は2階の部屋で深夜、よく机に向かってレシーバーでラジオを聞いていた。一度聞かせてくれたことがあったが、女性の声で朝鮮語の数字だけが読み上げられていく。坂本はそれを紙に書き取っていた。北朝鮮からラジオ電波を使って各地に潜伏している工作員に送ってくる暗号放送「A-3」放送である。
坂本はときどき朴さんを誘って富山県などの海岸に出かけることがあった。宮崎の海岸に行ったときは、大きなボストンバック二つを持っていた。中には腕時計やカメラ、計算機やラジオなどが入っていた。夕暮、青島海岸に行き、公園で朴さんを待たせて坂本は海辺の松林に入っていった。朴さんがのぞくと、坂本がしゃがんでレシーバーを耳に当てていた。林から出てくると坂本は朴さんに2時間後に出る列車の切符を渡し、先に帰らせた。上陸してくる工作員(戦闘員)との「接線」(コンタクト)だったと推測される。80年に原敕晁さんを拉致したのはこの海岸である。辛がよく使う接線ポイントだったのだろう。
辛光洙は、かつて辛が日本で協力者にした人々は今も黙ってくれているのに、なぜ朴さんは工作員としての行動を暴露したのかと非難する。
辛光洙:組織的に私の秘密を知っている人は一人も訪ねてこなかった。私が何をしたか、なぜ(お前は)全部しゃべるんだ。「汽車に乗ってどこまで一緒に案内してあげた」、そんなことが全部載っていた。『朝鮮日報』に全部出ていた。それは誰の口から出たんだ。誰も知らないのに。知っているのは当事者しか知らないのに。それは誰がしゃべったんだ。自分がそんなことをしたら、いくら厚かましくても訪ねてこられないはずだよ。人を売り渡して・・・。
朴春仙:訴えたりしてません。
辛:訴えた、訴えてない・・どっちにせよ、私が捕まる前に日本でした行動をいくつか知ってるでしょ、それをなぜ新聞に出し、雑誌に出すんだ。売ると同じことじゃないか。私が捕まったので話せばお金をもらえると思って・・・。
朴:お金をもらってません。
辛:お金をもらっていないのなら、徹底した日本の親日派だ。
朴:あ、そのことですか。私が先生が韓国に来て捕まったときに本当にびっくりしたんですよ。それでうちのオッパ(兄)が銃殺されたって聞いて、びっくりしたんですよ。それで、朝鮮労働党が「申し訳ありません。お金を二千万円持ってくれば、家族全部収容所に入っているので、それ助けるから二千万お金を持ってこい」って言うんですよ。それで、H子に借金をしてから、二千万出して、その時に朝鮮労働党の人が、「申し訳ありませんでした。惜しい人を」・・・って。家族が集団収容所に…9年間。
(注)H子は朴さんの妹で、6人の兄弟姉妹のなかで2人だけが日本に残った。H子は兄の安復(アンボク)が銃殺されたあと収容所送りになっていた兄の妻子を、北朝鮮当局者の要求に従って、二千万円を献金することで救出している。朴さんが、兄の消息を求めて北朝鮮に渡ったとき、労働党の人間が「惜しい人を・・・」と謝罪したという。
朴さんが北朝鮮を批判する立場になり手記を出版して以来、H子は朴さんと絶交している。
朴:先生、聞いてくださいよ。それで先生から預かったお金を妹の友だちに一カ月貸してくれって言ったから、貸したでしょ。そのお金がもらえなくなっちゃったんですよ。その人たちを探して、70万だけ返ってきて、まだ300万円もらってないんですよ。裁判も14年やったんですけど、…私はちょっと誤解したとこがあります。その400万円のお金を返さなかったから、オッパ(兄)に・・・。辛光洙さんに預かってるからって手紙を出したのが・・・。
先生のこと最初から判っていて面倒を見たのにオッパ(兄)を助けてくれへんかったが悔しかったんですよ。
(このあたりは、感情が激してほとんど日本語で話している)
辛:それと私と何の関係がありますか? そこに行って話さなきゃ・・・。それをなぜ日本人に話し、本を出したりしたんだ。それが捏造だ。お兄さんが逮捕され、それをする(釈放)にはお金が必要だなんて、言ったことがない。
朴:私が聞きました。
辛:私がなぜお金がないんだ。私はお金を…国を売った人にそのお金が・・・
日本のお金では、何千万程度じゃないんですよ、何億円という・・・。お金を私は持っていないが、朝鮮民主主義人民共和国で思い通り、大阪、福岡、東京を回りながら手にできるお金を、目黒で一緒にする人がどうこうしたというお金は受け取る考えはせず、羅の金も受け取る考えはせず・・・。
(注)「目黒で一緒に・・」 辛光洙と朴さんは東京都の目黒中町の一軒家を朴さんの日本名「新井春子」の名で借りて暮らしていた。辛が朴さんに預けたお金をめぐって自分には私利私欲はなかったと言いたいらしい。
「何千万」、「何億円という・・」 韓国での裁判記録によれば、辛光洙は北朝鮮工作機関から8万ドルを工作資金として受け取っていたうえ、7千万円もの金を在日朝鮮人の協力者に出させていた。北朝鮮にいる「帰国者」を人質にした強請(ゆすり)と言ってよい。金の一部は韓国の退役将校などの「包摂」(オルグ)のために使われたとされる。
このあたりの会話では辛も興奮して日本語がしばしば出てくる。
辛光洙が朴さんたちと同居した目黒の家(NNNドキュメント20000507)
朴:私は「先生が入ってるからかわいそうだ」というので、羅さんの息子さんに「払ってあげたいから、ください」って言いに行ったら「もう返したから払うことない」って言うから、A子姉さんに会ったら、A子姉さんも「自分が預かったお金だ」って言ってたから「そのお金を少しでも辛光洙おじさんがあそこに入って苦労してるからお金を少しだけください」って言いには一度だけ行きました。それ・・・
辛:A子姉さんの子どもと会ったことがないのに、ここまであなたを誰が連れてきた?
朴:違います。A子姉さんの娘にも会わなかったのに、私は・・
辛:操り人形。とにかく、私がお金がなくて「100万円出せ」とか言う人じゃないってことは知っとるでしょ? 祖国でお金100万が必要なのではなく、100万円どころか、何億円必要だって言ったら、僕は何億円、一カ月待ってくれって言って送った人間なのに。
(注)北朝鮮から「何億円必要」と指示されたら一カ月で調達して送ることができると自慢して、先の裁判記録を裏付けている。この一連のやりとりはほとんど日本語。このあと激しい言い合いに突入する。
(つづく)
11月15日で13歳だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから47年になる。
12日、母親の**横田早紀江さん**は会見し、政府に苦言を呈した。
「言いようのない、いら立ちと本当によくもこんなに長い間、政治とは何なのだろうという思いと、今までの長い間、本気度がなかなか見えないので」
NHKニュースより
石破首相は、拉致被害者家族が会う13人目の総理大臣。これまでと同じ方針では打開できない。拉致問題を膠着させた一つの要因は安倍路線だと私は考えている。経済でアベノミクスからの脱却が必要になっているが、石破首相には拉致問題でも脱安倍路線をやってもらいたい。
一方、拉致被害者で新潟産業大特任教授の**蓮池薫さん**(67)が11日、同市で講演した。蓮池さんは「北朝鮮の主張のうそを暴いて、真実は何かをしっかり押さえることが、ぶれない救出運動につながる」と訴えた。
そのとおりなのだが、同時に拉致問題の進展を妨げている日本政府のうそも暴いていきたい。
北朝鮮工作員の**辛光洙(シン・グアンス)は、1978年に福井県小浜市から地村保志さんと濱本富貴恵さんを拉致した。また80年に大阪から原敕晁さんを宮崎県の海岸に誘って拉致し、原さんに成りすましていた**。
辛光洙は**横田めぐみさんの拉致にも関与しているとの説がある。この出元は曽我ひとみさん**の証言だった。北朝鮮に拉致されていったあと、めぐみさんとひとみさんは同居した時期があった。その時の教育係が辛光洙で、二人に朝鮮語や文化、思想、さらには日本語で数学や理科も教えていた。辛はひとみさんと二人になったとき、「あの子(めぐみさん)を連れてきたのは私だ」と言ったという。ただ、ひとみさんによれば、辛光洙がはじめて二人が暮らす招待所に来た時、めぐみさんは初対面の感じだったとも語っている。辛光洙が横田めぐみさん拉致の実行犯かどうか、いまだ真偽は不明である。
・・・・・・
辛光洙と朴春仙さんの会話(00年1月9日ソウルにて)のつづき
(注)この一連の会話では朴春仙さんの兄が登場する。朴さんの兄弟姉妹6人のうち、彼女と妹だけが日本に残り、4人が北朝鮮に渡っていた。
次兄の安復(アンボク)は在日朝鮮中央芸術団(のちの金剛山歌劇団)のスタートして活躍していた。北朝鮮では芸術団の活動が評価されたのか、平壌放送の日本向け放送のアナウンサーに抜擢されている。朴さんはラジオで兄の声を聞くのが楽しみだったという。
ところが、1978年秋に北朝鮮から「盧」という変名で辛光洙からの手紙が届いたことから、朴さんと兄の運命が変わる。「盧」は、過去に預けたお金を横浜のある人に渡すよう朴さんに指示。そのお金を知人に持ち逃げされ、一文無しだった朴さんは、兄の安復に「盧」の住所を訪ねて、お金がない事情を説明してくれるよう頼んだ。兄からは「留守で会えなかった」との手紙が来たが、しばらくすると、兄の声がラジオから流れなくなり、連絡もつかなくなった。安復は政治犯収容所に入れられ、85年2月に辛光洙が韓国で逮捕されたあと、同年8月、「スパイ」容疑で銃殺されていたことが後に判明する。朴さんは自分が辛光洙と関わったことが兄の死を招いたと嘆くのだった。
朴さんの兄、安復さん(北朝鮮に渡る前、20歳代)背が高く、彫りの深い顔立ちで芸術団のスターだった兄を朴さんは誇らしく思っていた。
辛光洙:死んだらそこに言わなきゃ。なぜ私に手紙を書き、・・・私とは関係ないでしょ。お兄さんと私は知り合いかね?私は知らないよ。
朴春仙:会いませんでした?北朝鮮に私が行ってきました。
辛:行ってきてもお兄さんと私は関係ないよ。
朴:私が手紙を出しました、兄に。
辛:お兄さんが死んだなら。・・・死ぬはずがないじゃないか。しかも自分が・・。日本の内閣に内閣情報室というものがあるみたいだが・・・。ここに「帰国者」たちに一部、日本のスパイ業務を与えて送り込ませたということを我々は知った。
朴:私の兄じゃないでしょ。
辛:それは分からない。それは分からないが、とにかくスパイ活動をして北の軍事施設だとか、朝鮮民主主義人民共和国の秘密を日本に渡し、発覚したのだろう。日本からやってくる観光者、商工人に手渡したとか、またはそこで無線を打っただとか。
朴:私の兄がそこでそんなことをしたというのですか?違うでしょ。
辛:それは分からない。私も日本で重要なことは日本で無線を打ったよ。だから、私は捕まり次第、死刑にされる。だが、南にいる人の大多数が反対するから圧力によって死刑執行ができなかった。お兄さんがそこで死刑になったとしましょう。私はここで死刑にされそうになったが、・・・ここでは民主人士という。「ミンガヒョプ」だとか民主人士が死刑をさせなかったから、生き残れたのだ。ここの学生たちがみんな民主人士だ。
(注)朴さんに同行取材し、ともに「出会いの家」に入った千田ディレクターによれば、ここは非転向政治囚の支援団体の寮のようなところで、同居する高齢者たちがおり、直接話した二人は「非転向政治囚」だった。学生たちも出入りしていたという。
辛:私も同じスパイ活動をしたから、私も死に、あなたのお兄さんも死にそうになったが、私は生き残れたのだ。私はここの人々のおかげで生き残れたわけだが、死のうとしたら、ここで死んだら南に来て逮捕され、日本の警視庁、安企部が苦しめて私が死んだということになる。ここで私を追いかけまわしている連中はカカシで、操り人形みたいなもので、誰が操りをしているか私は知っているということだ。私が死ねば、操り人形も使用価値がなくなって、送らなくなるだろうし。72歳まで生きたが、私は死のうとしたけれど、(韓国の当局が)死なせず、この家まで来たが、死ぬしかない。私が死んでしまえば再びやってこないだろう。
朴:いいえ、先生。
辛:何を言う。一番重要な祖国をけなし・・・。(お前に)文章を上手く書く能力がありますか。それは日本の有名な文筆家を雇って分厚い本を書かせたんだ。本は自分が書かなきゃいけない。立教大学の人が書いてどうする。良心的に書かなきゃ。他人が読み上げたものを書いて・・・。
朴:私が書いたのではありません。
辛:ここに名前が・・誰になってる?
(注)辛光洙は黄色い韓国語の本を手にして話している。この本が何かは不明。朴春仙さんの著書の韓国語訳か、あるいは辛と朴さんの関係に触れた別の本なのかもしれない。
辛:世の中すべてに。平壌だけでなく、辛光洙だけの問題ではない。朝鮮総連にいる人はみんな騙された。「私も兄も朝鮮総連にいたのに、北朝鮮に行ってみたらスパイに追いやられて殺された」(と)朝鮮総連にいる人を民団に切り替えさせる重要な役割をした本を。北朝鮮だけでなく、南にいる学生たちをはじめ、世界にいる良心的な人々は歯ぎしりをして悔しがっているよ。この人々のおかげで私が生き延びたんだが・・・。
なぜこんなにしつこく追いかけまわすんだ。人間、機転が利かなくちゃ。本当に私を擁護する人々はじっと息を潜めている。私が合法的に外交官、貿易商として日本に行けないのを知っているから。
もう歳で、日本に行けないが、カツラだとか、顔を隠して、(もし日本に行ったら)日本をよく知っているから・・・、そのとき「自分に会ってくれるだろう」と待ち望んでいる人が大勢いる。お金はもとより手紙一枚送らないのに。反共産主義の理論を広め、反共産主義の本を出し、お前の後ろにいるのは誰だ?
どっちにせよ、(お前は)今は共産主義者ではないでしょ。共産主義者じゃないのになぜ、このようにして共産主義者を訪ねてくるんだ。それは変質させようと訪ねてくるのではないかね。
私は共産主義者として働き、・・私も人間だから、利己主義が多かったが、政府が「共産主義者ともあろうものが」と言って死刑を言い渡せば、私は死にますよ。清い共産主義者を資本家に変えようと追いかけまわすの? 冗談じゃない。
朴:違います。先生、誤解をたくさんしている。
(つづく)
寺越武志さんの近影が届いた。
10月に届いた動画(朝日新聞)
6年前の友枝さんと武志さん
1963年に能登半島沖へ漁に出た3人が行方不明となり、北朝鮮に拉致された疑いが指摘されている「寺越事件」で、同国で生存が確認されている寺越武志さん(75)の写真と動画が10月22日、家族の元に届いた。金沢市内に住む妹(71)によると、近影を確認できたのは、2018年に母の友枝さんが北朝鮮を訪れたときの写真以来約6年ぶり。「やせて疲れた顔をしとる」と話す。武志さんは白髪が増え、やせたように見える。
動画では、武志さんが「私は本当に、生活費、受け取りました」と話す。妹は9月末、武志さんへの生活費を知人に託しており、写真と動画が届いたという。
武志さんに会うため、訪朝を繰り返してきた友枝さんは今年2月25日に92歳で亡くなった。妹は「死に目に会えとらんからね。親に苦労や心配をかけたことを考えたら心も痛いと思う」と兄の胸中をおもんぱかる。(朝日新聞)
これは「封印された拉致事件」である。
寺越友枝さんは、一時期、「家族会」に入り、武志さんの拉致認定を政府に求めたこともあった。私たちジン・ネットは、武志さんの戸籍を復活させる手続きを手伝ったりもして友枝さんを支援した。しかし、武志さんから「母ちゃん、やめてくれ」と言われ、友枝さんは運動から抜けて、北朝鮮に息子との面会に通うようになった。
このケースは100%拉致なのだが、日朝間では拉致ではないとして扱われている。北朝鮮の「成功例」であり、2002年に5人の拉致被害者の生存を認め、日本に「一時帰国」を認めた時点では、北朝鮮は、この寺越ケースのように、5人の拉致被害者は北朝鮮公民として留まり、日本から親族が通う形をめざしていた。
漁に出た船が嵐にあって漂流していたところを北朝鮮の船に救助され、その後は共和国の暖かい懐に抱かれて幸せに暮らしてきた。武志さんはこの作り話のうえで、最高指導者に感謝しながら生きざるを得ないのである。この人生を読者はどう思うだろうか。
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前回のつづき。
辛:私が捕まったのも、私と数年間一緒にいた人間(のせいだ)。その人に店を構えさせてやった。その人は働くためには店が必要だと言った。どんな店が必要かと尋ねたらキャバレー、ナイトクラブを構えさせてくれと言った。
それでどうするかと尋ねたら、「後で南に行ったり来たりする人を相手にする韓国人ナイトクラブにする」と言った。だから、身体を惜しまず、・・・私が煙草を吸うかね?酒を飲むかね?身体を惜しまず金を稼ぎ、節約し、お金をくれって言えないから店を構えさせ、家族を食べさせ、子どもたちを学校にまで通わせてやったのに、その人間は私を売り渡したじゃないか。
(注)朴さんは高から「辛が済州島出身の韓国人女性に、韓国クラブを開かせ、その女性との間に子どもをもうけた」という話を聞いた。辛光洙が「私を売った」というのはその女性を指すと思われる。これとは別に、辛光洙は朴さんの妹が五反田でやっていた韓国クラブで1980年から会計係として働きマネジャーにまでなったことがある。なお、辛とともに韓国で逮捕された方元正も、池袋を拠点に韓国クラブ(店の住所は原敕晁名義の免許証にある「豊島区東池袋」に隣接していた)を経営していた。「南に行ったり来たりする人を相手にする」韓国クラブが対南工作に利用されていたのだろう。
朴:私が売ったのですか。
辛:私は日本に知ってる人が多い。私を売り渡した人間がいるかと言えば…(お前は)私の本名も知らなかったじゃないか。本名を知ったらそれで終えなくちゃ。訪ねてくるなら、密かにしなきゃ。世の中すべての新聞、ラジオに出て。私は外交官じゃないだろう。
朴:私が売り渡したのではありません。
辛:売り渡したと同じだ。安企部に売り渡した人間は別にいる。言わないけど、分かる。安企部に売り渡した人間は、隠れて別途に活動しており、(お前は)どうみても安企部につながっている。
朴:違います。
辛:とにかく、私を売り渡した人間や、朝鮮民主主義人民共和国に害を与える本を書いて、『アエラ』にある本を書いたと紹介し、『アエラ』の記者を連れてきて。(本を)出しても誰も信じないよ。主人公は辛光洙なのに「辛光洙が認めた言葉は一言もないから信頼性がない」。それを得るために刑務所に来たのだ。
私が生きているから、・・私は72歳だが、生きていてどうする。わが朝鮮は哀れな民族だ。二つに分かれ、日本の奴らにくっつき、アメリカの奴らにくっつき、いったい何だ。私がそうするんだったら、出て来なかった(?)。
私は留学までし、大学まで出たので、科学を研究し、科学者としていくらでも働ける。命とすべてを犠牲にし、南北統一のために出てきたのに、なぜ私はそうするか?日本で生まれ「朝鮮人」呼ばわりされ、いじめられたとき、私は何と言ったか?父は3歳のときに亡くなり、母のスカートの裾をつかみ、言葉も「オンマ(お母さん)」という言葉しか知らなかった。同じ人間として生まれ、鼻の高さ、耳、背丈も同じだから、日本人、韓国人の区別はつかない。なのになんでお母さんは朝鮮人に生まれ、僕が「朝鮮人」という言葉を聞き続けなければならないのか。なぜお母さんは私を朝鮮人につくったのか。
(注)辛光洙は1929年(昭和4年)に静岡県現・湖西市で、五男二女の五男で末っ子として生まれた。日本名は「立山富蔵」(たてやまとみぞう)。父は土木作業員で早くに亡くなり、母は女手一つで7人の子を育てた。
兵庫県尼崎市へ移住して立花第一尋常小学校に入学。小学3年時に富山県高岡市へ移り高岡市立下関国民学校に転校。国民学校から高等国民学校に進み、卒業後の1943年に高岡工芸学校(現在の高岡工芸高校)機械科に入学。
高岡の国民学校時代は成績抜群の優等生で面倒見がよく、仲間に慕われていたという。ある同級生は「梅干ししか弁当に入ってないおれに、立山が卵焼きを『食え』と分けてくれた」ことを懐かしそうに回顧していた。経済的には比較的余裕があったようで、工芸学校まで進学している。
同窓会名簿にある「立山富蔵」の名前
1945年秋、辛が工芸高校愛学中に一家は朝鮮半島に戻った。
日本が敗戦すると45年秋、一家で日本を去って慶尚北道の浦項中学校に編入。50年に朝鮮戦争の勃発で北朝鮮義勇軍に志願入隊して戦闘に参加。北朝鮮に渡ると52年に朝鮮労働党に入党し53年に勲功メダルを授与されて留学というエリートコースを歩む。
54年にルーマニアに留学しブカレスト工科大学予科へ入学、60年に機械工学部を卒業して北朝鮮に帰国。日本語、英語、朝鮮語、ロシア語の4か国語を話す。エンジニアとして朝鮮科学院で研究生活を送り、71年に朝鮮労働党の命令で工作員となった。
妻の李元求(リ・ウォング)との間に一男三女をもうけた。なお辛光洙の兄によると、この妻は金正日の親戚だという。
辛:その後次第に覚醒し、・・・ダメだ。誰よりも早く帰国して。出てきてみたらこうなった。私も、悪いやつで「計算高く日本で楽に商売をしながら暮らそう」と考えたのならば、出てこなければいい。私が出てこなければ、うちの家族も出てこない。在日同胞として暮らせた。私は末っ子で、母と兄弟を説得する自信がなくて、私が先に出てきた。出て、このような運動をしている。
このような地下事業をするためには偽装をしなければいけない。隠さなきゃいけない。ホテルにも入ったりしたが、ホテルに入り難くなって後にあちこち回るようになった。私の性格を知り、私を助けたいと思うのなら、そのようなことはしちゃいけない。(お前の)お兄さんが(境遇が)悪くなっても、私と関係ないでしょ。
なぜ私の名前を出して朝鮮民主主義人民共和国・・また、私に忠告しようとしても・・・私が(お前のお兄さんを)殺したの?死んだのか、死んでないのか、私が確認してみよう。
朴:死にました。
(注)辛光洙のこれほど詳細な独白はおそらく他にはないだろう。判決文などにも書かれていない活動のディテールが語られるとともに、朝鮮人としての、また工作員としての人生観、社会観も吐露されている。朴さんを「民族反逆者」と罵りながらも、ながく夫婦同然の暮らしをした彼女の前では、抑えていた鬱屈を吐き出してしまったのか。
(つづく)
北朝鮮工作員の辛光洙(シン・グァンス)は、1978年に地村保志さんと現在妻の富貴恵さんを拉致、1980年に原敕晁を拉致して成り済まし、「原敕晁」名義の旅券で韓国に入国して工作活動中の85年に韓国で国家保安法、反共法違反容疑で逮捕された。
辛光洙(80年代)
いったんは転向を表明し自供したが、死刑判決が出ると転向を撤回。88年末に無期懲役に減刑され、全州(チョンジュ)刑務所に収監された。
99年12月31日に**金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放され、釈放後はソウルにあるキリスト教系団体の「良心囚後援会」が運営する「出会いの家」で他の元政治犯と共同生活を送った。2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された**。北朝鮮では、英雄として処遇され、辛の記念切手が販売されている。
「ジン・ネット」時代、私たちは辛光洙の取材を何度も試みた。
全州刑務所にも、釈放後の「出会いの家」にも取材班を送り、北朝鮮に送還されたときも取材した。また原敕晁さん拉致の共犯、金吉旭(キム・キルウク)を済州島に3回直撃を試みている。1997年には日本海に面した注文津(チュムンジン)という港町に辛光洙の兄、辛チャンスさんを訪ねている。
私たちはこれらの取材の多くを朴春仙(パク・チュンソン)さんという在日女性とともに行った。
彼女は1973年、**「坂本」と名乗る辛光洙**と知り合い、彼がスパイであることを知らずに、夫婦同然の同居生活を送ることになる。そして辛光洙が85年に韓国で逮捕された直後、朴さんの兄が北朝鮮で射殺されるという悲劇に見舞われたのである。
ちょっと入り組んだ話だが、ざっと説明すると—1973年から同居をはじめた辛光洙は200万円を生活費にと朴さんに渡し76年に数年留守にすると家を出て北朝鮮に戻っている。朴さんは200万円を元手に利殖をして400万円にまで増やすが、これが焦げ付いて回収不能になった。
しばらくして坂本の上司らしい男が接触してきて預けていた金を請求した。「共和国(北朝鮮)にいる家族がどうなってもいいのか」とすごまれ、無理して100万円を作って渡した。朴さんには「帰国事業」で北朝鮮に渡った兄弟姉妹が4人いた。。79年、北朝鮮の「盧」という男から手紙が届く。坂本の筆跡だった。預けたお金を横浜のある人に渡してほしいという。朴さんは当時一文無しで、平壌にいる最も親しく尊敬する兄の朴安復(パク・アンボク)に手紙を出し、「盧」の住所を訪ねてお金を返せない事情を説明してくれと頼んだ。兄からは留守で会えなかったとの返事が来た。直後から兄は尾行され、しばらくして音信不通に。政治犯収容所に送られたことが後でわかった。「盧」の住所は普通の人が訪ねてよい場所ではなかったのだ。
80年末、「坂本」は再び朴さんの元へ現れたが、そのときは「坂本」から「原敕晁」に名前が変わっていた。後に、85年の辛光洙の逮捕発表の2カ月後に朴さんの兄、安復が「スパイ」として銃殺されたことが分かり、朴さんは悲嘆にくれる。安復が韓国当局に通報して辛光洙が逮捕されたとの濡れ衣を着せられたのではと推測される。
朴さんは、同居して優しかったころの辛光洙しか知らない。会って話をしたい、とくに兄が殺されることになった事情を質したいとの思いで、全州刑務所には4回も面会に行ったが、「そんな女は知らない」と面会を拒絶され、差し入れも返された。
釈放されてソウルの「出会いの家」にいる辛光洙を私たちは何度か取材を試みた。「出会いの家」から外に出るタイミングを待って直撃するが支援者に阻まれたり、辛に逃げられたりしてうまくいかなかった。
2000年1月9日、朴春仙さんとジン・ネット取材班(D千田真)が「出会いの家」のベルを鳴らした。辛光洙は留守だったが、「日本で辛光洙先生を世話した人」と朴さんを紹介すると事情を知らない同居人が中に通してくれ、辛光洙の帰りを待った。帰ってきた辛光洙は朴さんと会うのをいやがったが、同居人が説得して朴さんと二人きりならとの条件で面会がかなった。私たちは隠しカメラで二人の会話を撮影することに成功した。今となっては、辛光洙の肉声が収められた貴重な資料である。
かつてジン・ネットのウェブサイトには二人の会話のテープ起こしの翻訳を資料として掲載していたのだが、今は見ることができない。辛光洙については今も関心が高く、問い合わせもあるので、本ブログで公開することにした。
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18年ぶりの再会だった。
「先生、しばらく」と辛光洙のいる部屋に入っていった朴さんを、辛光洙は恐ろしい顔でにらみつけ、いきなり罵りはじめた。
「わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、南北統一を妨害し、日本、米国の奴らの手先になった民族反逆者!」
朴さんは手記『北朝鮮よ、銃殺された兄をかえせ!』(ザ・マサダ刊)を出版し、兄を殺した北朝鮮を糾弾するとともに、スパイ辛光洙との同棲生活を公表していた。辛光洙はこれに激しく怒っていたのだ。(画像はNNNドキュメント2000年5月7日放送より)
なお、会話はときどき日本語でのやりとりになるが、ここでは朝鮮語、日本語区別せずに記す。
朴:先生、ごくろうさまと言おうとしているのに、なんでそういう態度をとるの?
辛:『アエラ』に出てるのを見たよ。わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、全世界に雑誌を出し、朝鮮民主主義人民共和国に罪を犯しておいて。その本を書かなかったかね?
(注)朴さんが最初に辛との関係を明らかにしたのは雑誌『サピオ』だった。
辛:『アエラ』に出ているのを見たよ。「北朝鮮がお兄さんを殺した」と・・。 『アエラ』は朝日新聞の週刊誌だよ。全州(チョンジュ)刑務所に『アエラ』の記者と一緒に来て、私に会おうとしたが、私が会わずにいたら、全州刑務所だけ撮って日本に行ってドキュメンタリーの映画を作って韓国に輸出し・・・そんなことをしたでしょう。
(注)朴さんは、全州刑務所に収監されている辛に4回会いに行った。面会はかなわなかったがジン・ネットは朴さんに同行取材している。テレビ朝日の番組用の取材だったので、辛はこれを朝日新聞や『アエラ』の取材と誤解しているようだ。
辛:全州刑務所に来て、私が最後まで会わずにいたら、その次に、お金を取り戻さなくちゃいけないので委任状を書いてくれって言って。
朴:私そんなことしてません。何を言ってるんですか。そんな必要はありません。
辛:ずっと日本の『アエラ』が来て、警視庁、産経の記者が来て。ソウルから段ボールの包みが刑務所に来たけど、開けずに返送した。ソウルの名前になっていた。私を擁護し考えてくれる人は、一人もやってこないよ。わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、南北統一を妨害し、日本・米国の奴等の手先になり、そんな文章を書いた人がなぜ私を尋ねて来るんだ。南北統一を望み、わが朝鮮人を思う人なら、訪ねて来られないよ。そのような人は一人も訪ねて来なかった。
正直言って、私が日本にいるときは(私にかかわった)多くの日本人がいた。みな息を潜めて生きている。私がその家に行ってご飯も食べ、寝、お金を得た人は、じっとしている。むしろ、私が預けておいたお金もみな使い、預けたお金を取り戻そうと私に委任状を書いてくれって言って。お金を取り戻そうと、その人の娘まで連れてきて。覚えてないかね。
朴:私そんなことしていません。
辛:何を言う。
朴:高さんは8月に亡くなりました。
辛:高さんじゃなくて。羅さんが使ったお金を私が他の人に預けた。するとお前(朴さんのこと)は、その人の娘を連れて、お金を取り戻すために私の委任状が必要だと言って(訪ねて来た)。そのお姉さんが亡くなり、そのお姉さんの娘をつれてきたけど。その委任状は私がお姉さんに渡してきた。
(注)「高」は朴さんの兄の朴安復さんの友人で、辛光洙を朴さんに引き合わせた。「羅」は高の友人で、辛との間で金のトラブル(辛が預けた工作資金を使い込むなど)があった。
朴:そのお姉さんは亡くなりました。
辛:そのお姉さんの娘を連れてきて、そのお姐さんが持っているお金を取り戻すために、あっちにいる私のお金を使った人が羅さんがお金を渡さないみたいだ。だから、委任状を書いてくれった私にメモを送ったじゃないですか。私が接見、面会に出ないから。私がそのメモを破り捨てました。委任状も何もいらない。私は会わないと。
なぜ、私を訪ね歩いている。私を本当に思うのなら、探し回ったりしちゃいけない。私がどんな人間か知ってるでしょ。私が正式な外交官かね?正式な貿易商かね?私という人はできるだけ隠してあげなければならない人なのに、私という人を「知っていました」と新聞に公開し、「お兄さんが帰国船に乗って行ったのに、結局スパイに関係して銃殺された」と書くなんて。(お前に)そんな文章を書く実力もないでしょ。そのような文学的な大きい本を。本の名前は覚えてないけど、「北で同じ同胞をこんなにして殺した」と言って。
私の話が何かといえば、「赤十字を通じて帰国同胞として行ったけど、行って幸せに暮らしていると言って面会に行ってみたら、お兄さんは死んで、お兄さんの家族はみんな政治犯収容所にいる」という内容が書かれている。このくらいの大きさの『アエラ』という有名な週刊誌だよ。その雑誌の片側に新刊図書に関する紹介だといって出てた。この雑誌を通して知ったよ。その本自体は知らなかったが。
その後、私に送られてきた小包はみな返送し、また郵便で来た本は見てもいない。私がただ見たのは全州刑務所でA子姉さんが亡くなってその娘を連れてきたが、そのお金を取り返すためには私の委任状がいるから書いてくれと言われ、破り捨てたことしかない。
(注)A子姉さんは羅と辛の共通の知人。辛は羅に預けていた工作資金の回収をA子姉さんに依頼していたことがうかがえる。工作ネットワークの中でもお金の使い込みなどトラブルが絶えないようだ。
辛:とにかく、私を思うのならそのような行動をしてはいけない。私を思うのなら、私のことを考えなくてはいけない。あつかましいよ。何でそういうことをするんだ。私が生きているから・・。
お前(朴さん)個人がそのようなことをしているのではないと、私は考えている。後ろで誰かが操っている。誰が操っているか。ここの安企部、日本の警視庁が操っている。また、操られるなら、私の個人問題ではないですか。私の問題を引き続き取り上げるのならば、私は死ぬしかない。だから死ぬ覚悟をしましたよ。
刑務所で死んだら法務省長官、刑務所長の首が飛び、このことが新聞に載れば国際的に日朝間の国交関係になり、問題が大きくなる。だから夜には私の部屋の前で人々が監視していたし・・。
なぜ私がここに来たと思う。臨時的に行き場所がなくてここに来たのに、移らなければならん。移るために家を見に行ってきたのに、引っ越しをしたら誰にもしゃべれない。私について知っている人は数人しかいない。朝、ドアを開けてくれた人も、いまドアを開けてくれた人も知らない。知らないから(朴さんにドアを)開けてくれたんだが、私はもう誰も信じられない。
(つづく)
まさかとは思っていたが、下馬評どおり、トランプが勝った。
6日夜、半世紀前に一緒にアメリカに滞在していた友人と渋谷の「のんべえ横丁」の小さな飲み屋で飲んでいた。テレビで早々とトランプ当確が出て、これからが思いやられるとやけ酒になる。
夜の渋谷。何事もなかったように人が通り過ぎる。
私はウィスコンシン州ミルウォーキーの高校に通っていたころ、The Young Demicratsという民主党青年部みたいなところで活動したこともあって、かつては民主党が強かったウィスコンシン州まで共和党に取られてショックだった。
アメリカ大統領選については識者がいろいろ語るだろうが、とりとめのない雑感を。
パックンことパトリック・ハーランは、16年に大接戦の末、トランプ氏が民主党のヒラリー・クリントン候補を破った大統領選を回想。「前々回ヒラリーが負けた時が想定外で、すごいショックを受けて。そのショックが8年、今朝まで続いていた」と打ち明けた。そのため、「そのショックを避けるために、今回はどっちになってもおかしくない。トランプが勝ちそうな気がしますと、周りにも言いふらし、自分にも言い聞かせていた」という。しかし、結果はトランプ氏の勝利が確実視される流れ。「いざふたを開けてみると、やっぱりショックです。8年、10年…死ぬまで続くショックだと思います」と話した。
「4年間、思い出して下さい。2回も弾劾されているんですよ?金正恩とラブレターを交換しているんですよ?プーチンともラブラブな状態になっているんですよ?権力を乱用しているんですよ?グローバルサウスを“クソダメ国家”と言っているんですよ?その人の未知数が今、知られているんです。グレーのところが白黒はっきりに見えているんです。僕から見れば真っ黒なんです」と思いをぶちまけ、「その真っ黒な人が、過半数の人に選ばれたことになりそうですね」と皮肉も込めた。(略)「この権限を持って、今回、らち外れているトランプが何をするのか、非常に心配です」と懸念を示した。
(6日、BS-TBS「報道1930」)
https://news.yahoo.co.jp/articles/b012bc975d145ca8ef5f034699526ca5d07e0b24
まったく同感。
喜んでるのはプーチン、ネタニヤフなどならず者のリーダーたちだ。
「ロシアの**プーチン大統領**は7日、米大統領選で勝利したドナルド・トランプ前大統領と対話の用意があるとの考えを示した。トランプ氏はロシアによるウクライナ侵略の終結に意欲を示しており、プーチン氏は対話に応じる姿勢を見せることで、将来の和平交渉での主導権を握る狙いがあるとみられる。トランプ氏について「ロシアとの関係を修復し、ウクライナ危機を終結させたいという思いは、少なくとも注目に値する」と語った。(読売新聞)
トランプとプーチンはずっと裏で連絡を取り合ってたことが暴露されている。つるんだ二人がどんなことをするのか注意。
心配なのはウクライナだ。
「ウクライナのゼレンスキー大統領は7日、ブダペストで開かれた欧州政治共同体の首脳会議に出席し、ウクライナにロシアへの抗戦をやめるよう促す論調について記者会見で「無責任で、とても危険だ」と怒りをあらわにした。米大統領選で当選を確実にしたトランプ氏と親交が深く、「まずは停戦だ」と主張したハンガリーのオルバン首相に真っ向から反論した。
ゼレンスキー氏は、「停戦という美辞麗句ではなく、ウクライナの独立性が保証されなければ、戦争を終えることは考えられない」と強く主張した。「停戦しても、ロシアの侵攻を先送りするだけで、その後のことを考えればあり得ない」とも述べた。(朝日新聞)
ウクライナといえば、来日中のUNDP(国連開発計画)ウクライナ事務所の幹部が、「UNDPにとって日本は、復旧、復興、改革における最大のパートナーだ」とコメント。実は日本は金額でいうと第4位のウクライナ支援国で、トランプのアメリカが「支援を止める」というなか、より大事な役割を期待されている。
日本への期待は大きい(NHK国際報道)
日本は地雷除去、がれきリサイクルなど多様な支援をおこなっている。
私は民間で支援しているが、ますますがんばらないと。
「本当に在日米軍を撤退させるつもりなんて1ミリもないです。でも、それを匂わせるだけで日本に対して効果てきめんであることをよく理解しているのです」とはジャーナリストの布施悠仁さん。
https://x.com/yujinfuse/status/1854337070036406726
トランプはお金のdeal(ディール=取引)、損得でモノを言って、金をもっと出さないと日本から米軍基地を撤退させるぞと脅しをかけてくるかも。石破首相はすり寄るだけしかできないだろう。
では中国には・・
「トランプ氏は対中強硬姿勢を取ることを約束する一方で、中国の**習近平国家主席**が「鉄拳」で統治していることを「素晴らしい」と評価した。また中国が領有権を主張する台湾に対し、米国に防衛費を支払うべきだと述べた」 https://youtu.be/77YWoJgjftw
対中強硬路線と言いながら、独裁者は好きなんだな。むちゃくちゃ。
イスラエルの新聞が軒並み載せてる記事。”Initial exit polls show Harris earning 79% of nationwide Jewish vote”
「出口調査で、ハリス候補が全米のユダヤ人票の79%を獲得」。これにはちょっと驚いた。アメリカのイスラエル・ロビーの強大な力についての報道を見ているので、ユダヤ人は、ネタニヤフにどんどんやれ!とけしかけるトランプを支持しているかと思いきや、逆だという。ちゃんとした民主制度や法治システムの価値をアメリカのユダヤ人は分っているのか。
最後に**内田樹氏**のXより
「ハリスが敗けることはオレにはわかっていたぜ」って威張る人って、なんか感じ悪いですね。それって「人間の道義性や知性を低く見積もることができる人間がリアリストなんだ」と言ってるように聞こえるんですよ。そんなこと言ってて人生楽しいですか。😥
https://x.com/levinassien/status/1854272937760887081
アメリカ大統領選投票日が近づく中、ハリスが失速してトランプが優勢になってきたとの報道。混沌のなかにあるアメリカでトランプが支持されるわけを知りたいと思う。
30日のNHK『国際報道』で、**アメリカでメディアへの信頼度が過去最低にまで落ち込んでいる**ことを特集していた。「リベラル」と「保守」の分断が深刻になりマスメディアもそれに巻き込まれる傾向にある。これがフェイクニュース拡散の温床にもなっているという。
目を疑うアメリカメディアの凋落ぶり(国際報道30日)
トランプ政権時代に大きな変化があった。深刻なのは支持党派によって極端な違いになっていること。
「今のCNNはトランプ批判ばかりで、私の時代だったら、記者を呼び出して『やめろ』と言ったでしょう」と報道の変わりようを語るのは、元CNNワシントン支局長でホワイトハウスや国防総省を取材したジョン・トーリス氏だ。
国際報道30日より
かつてはCNNは抑制的な報道につとめたものだが、今は記者やアンカーがしばしば自分自身の意見を語り、ニュースの内容が挑発的になっているという。また視聴者もそういう内容の番組を好むようになっている。
深刻なのは、事実関係ですら一致しない状況になっていることだ。例えば先日の巨大ハリケーンの被害で、ワシントンタイムズ(統一協会系の日刊紙)には「十分な支援が届かないのはバイデン政権が資金を不法移民の支援に流用したため」と報道。これをNBCニュースが「トランプ陣営の虚偽の主張だ」と反論している。
こうしたなかアメリカでのメディアの信頼度はここ数年で急落している。とくにトランプ政権時代は共和党支持者の不信感が募り、近年は民主党支持者のあいだでも信頼度が低下している。インターネットの台頭で人々は自分自身のメディア、自分だけの小さな世界を見つけ、それで大手メディアを無視したいと思うようになったという。
メディア不信に対して、市民からの寄付で運営する非営利の報道機関が存在感を増している。「調査報道センターCIR」(Center for Investigative Reporting)では調査報道を地道に行っている。デビッド・コーン支局長はCIRのポリシーを「重要なのは中立性でも客観性でもなく、正確であることです」と語る。「立場」ではなく、確信できるまで調べ上げて明らかにした真実を伝えたいという。
大手メディアからも信頼回復をめざす動きがある。アメリカを代表する『ニューヨークタイムズ』紙はトランプに対して厳しい論調で知られている。自らを反省するのはマイケル・シアー記者だ。
今こそ信頼を回復しなければというシアー記者
過去の選挙でトランプ氏について多くの報道を行ってきたが、「人々の中で何が起こっていたのか、トランプ氏が人々の擁護者となり人々の声を聞く人物だと考えられていた事実を私たちが十分に理解していたとは思えません」と語り、今回はできるだけ両候補を公平に調査、報道するよう心掛けているという。
2016年の大統領選挙で、圧倒的な数の新聞がクリントン支持を打ち出したのにもかかわらずトランプが勝ったときを思い出している。
メディアが信頼されなくなれば、民主主義の基盤が揺らぐ。アメリカの地方紙がどんどんつぶれていくが、地元に新聞が無くなったところでは投票率が低下し、汚職が増えるなどの現象がすぐに表れるという。
メディアが立場でなく、取材を尽くした上での真実に拠ることで信頼を回復するしかないだろう。
ただトランプを批判するのではなく、なぜトランプを人々が支持するのかを掘り下げることがメディアに求められているのだろう。
この姿勢はメディアだけでなく、日本の政治を見る上でも重要だと思う。ただ嫌いな政党、政治家を批判するのではなく、なぜその嫌な党や政治家は支持され、好きな政党や政治家は支持されなかったのか。その冷静な分析から本当の再生がはじまる。