一朴洞日記 (original) (raw)

私ごときが感傷に耽るほど、か弱い連中ではない。

全株の彼岸花が完全に枯れ果てた。余分なエネルギーを使わせるにも及ぶまい。すべての茎を、球根に接続する部分から伐り放つ。
花はいずれも糸屑のようだ。が、茎はまだ青あおとしている。彼らにとっては後始末、いわば後退戦もしくは兵員遺体回収に属する段階に入ったのだろうが、それでも長い茎を立てておくだけでも、なにがしかのエネルギーを要するにはちがいあるまい。いっそのことサッパリさせてやろうとの考えだ。介錯つかまつります、といった気分だ。

しばらくは、通常の草むしり成果である枯草山と一緒にしておく。茎も完全に枯れ尽したら、球根群の周囲にでも埋め戻してやることになろう。成仏させた亡骸は、球根の栄養として返却するのが、わきまえというものだろう。


各球根群からは、葉が吹きだし始めている。段取り着々として、一日たりとも休むことがない。今朝はまだ三センチ五センチといった、いわば葉の先端部が覗いたていどだが、これからは日に五センチ十センチと伸び、後続もひっきりなしに吹きだしてきて、またたく間にリュウノヒゲ・ジャノヒゲのように地表ちかくにモッサリと処を占めてしまう。ただし葉の幅はリュウノヒゲ類よりも広く、ちょっと見にはニラに似ている。

第三球根群は最大所帯で、今秋も最多の花茎を立ててきた。ラッキョウかせいぜいミョウガほどの大きさのバルブがなん十となく、ひねこびた不出来もんを含めればおそらくは百以上が、なかば接着して密集する大球根群である。
たくましいのは結構だが、場所がいけない。通路を確保するための敷石と敷石との間に位置して、人間の往来に邪魔なのである。丈低く地表をモッサリ覆っている季節はまだしも眼こぼしできるけれども、花時にははっきり迷惑だ。往来を妨害せぬ塀ぎわに植替えてやらねばならない。場所の見当もおおよそ付けた。
ことは急を要する。葉は日を追って伸長してくる。葉が茂ってからの植替えはかわいそうだ。今日は朝から肌寒いほどで、作業には向いている。が、二日間にわたる雨で、土も周辺植物も濡れ過ぎている。こんな日に作業しようものなら、着衣も軍手もドロドロになってしまう。
加えて彼岸花の球根には毒性があって、軍手の下にゴム手袋をはめなければならない。着衣も作業後ただちに洗濯袋へ直行させるのが望ましい。つまりは装着支度にも作業行程にも、つねよりは注意を要するのだ。今日の仕事としては、なんとなく気が進まない。
この甘さを後悔することとならねばよいがと、いささかの不安を抱きながら、本日の作業を了える。

雨が続くと、草むしりができない。外出も面倒だ。断捨離が少し進む。

劇作家でもあった川島順平教授が、下級生の初級フランス語をご担当なさった教室に在籍したことがある。見事な白髪痩身で、スマートな老教授だった。外国語の習得には極端に不熱心だった落ちこぼれ学生の私とっては、退屈な授業だった。教授が学窓というよりは劇壇のかただということすら、存じあげなかった。
「ぼくがパリィにいたとき、ちょうどアヌイが~」
リーダー訳読の合間の脱線噺で、パリ大学への留学時代のこぼれ噺になった。
おいおい、この人はジャン・アヌイとじかに会ってきた人かい。噺はおだやかじゃねえなぁと、眼を瞠った。いわゆる、一瞬にして耳がダンボになった、というやつである。じつにじつに不埒ながら、教授のご講義はその場面しか憶えていない。
もしも私が学生諸君を前にして、
「『早稲田文学』のパーティーで受付の下働きをしていたとき、井伏鱒二先生が通りかかられて、近くに立っておられた丹羽文雄先生に~」
なんぞと語ったら、やはりこの爺さん藪から棒になにを云いだすのだと、思われるのだろうか。
『ひばり』や『野生の女』を面白く読みはしたものの、ジャン・アヌイの広さ・巨きさには気づけぬまま、すれ違うことになってしまった。

その先行者ジャン・ジロドゥについては、日生劇場で『オンディーヌ』『永遠の処女』を観て、子ども心に「なんて可愛い女優さんだろう、加賀まりこっていうんだって」と感嘆した記憶があったので、期待して読んだが、そんな甘いもんじゃなかった。ギリシア悲劇や西洋古典についてなにも知らぬ段階では、アヌイもジロドゥも受取りようがなかったのである。
たった一作『トロイ戦争は起らない』だけが、わが愛読古典として残った。ギリシア軍によって完膚なきまでに攻め滅ぼされ焼き払われて、まだ煙をあげるトロイの瓦礫に立った詩人が、
「かくしてトロイは滅んだ。あとはギリシアの詩人たちが語ってくれるであろう」
幕が下りる。下りた幕の向うでは、おそらく詩人はみずから炎のなかへと身を投じたのだろう。トロイの語り部は絶えた。が、その遺言を受取ったかのように、やがて勝利者ギリシア人の立場から、ホメロスが『イリアス』を書いた(語った)という順序になるのだろう、現実には。
歴史ということについても、文学ということについても、私はこの一作から多くを学んだと思っている。だが『トロイ戦争』一作で用が足りるのであれば、世界文学全集その他にも入っている。ジロドゥの戯曲全集が手元にある必要はない。

わが学生時代にはヌーヴォロマン系・アンチテアトル系の文学・演劇を語ることが、一部学生間での流行だった。アルチュール・アダモフはロシア帝国下に産れたアルメニア人だが、一家でフランスへ移住した。有名なサミュエル・ベケットやウジェーヌ・イヨネスコとならぶ不条理劇の代表作家である。もはや再読の機会はあるまい。
イギリスには旧「怒れる若者たち」系と目された、挑戦的で告発的な劇作家が登場してきた。同じく実験的手法を採ってはいても、フランス系の不条理劇とは異なった。日本の学生にも、不条理劇ほどではなかったものの、愛読者は多かった。ハロルド・ピンターアーノルド・ウェスカーは、読まれもし、上演もされた。が、私にはもはや再読の機会は訪れまい。
フランシス・ファーガソン『演劇の理念』はよく読まれた演劇論だ。西欧史の流れにあっては演劇はかように定義されると、はっきりさせてくれる。ジョージ・スタイナー『悲劇の死』とならんで、西欧人にとって芸術とは、抜きがたく(ということは宿命的に)かようなものなのだと気づかせてくれた。わが方の、よろづ人の心を種として言の葉にのせて(古今集の序)とは異なるわいと思い知らされた。


ベルトルト・ブレヒトの好い読者には、ついになれなかった。理念は納得できる。上演された舞台のいくつかは堪能した。が、理念とは異なる点を堪能したのではないかとの、自分自身への疑問が残っている。
乱暴に大別すれば、長い歴史のなかで演劇的感動は二種類しか定義されていない。歌え踊れ、笑って泣いて見せよ。観客を酔わせ歓ばせて共感させるがいい。これがひとつ。面白がらせながらも、それは違うと気づかせよ。観客を眼醒めさせ、考えさせるがいい。これがもうひとつだ。前者がアリストテレス詩学』いらい連綿と続いてきた共感の定義で、いわば同化効果としての感動だ。後者がブレヒト主張するところの覚醒自覚の定義で、いわば異化効果としての感動である。
理屈としては、むろん両方とも納得できる。が、異化効果の感動をついに躰ごと実感するという経験に恵まれなかった。読者として、また鑑賞者としての、才能の限界だったのだろう。
余談ながら、欧米の劇作家や演出家のうちに、日本の能楽に異常なほどの興味を示す少数が現れるのは、能の理念や演能の技法のなかに、同化・異化の境界を超越してみたり往ったり来たりしてみたりする、可能性を垣間見るからだろう。

同化、異化、政治的告発、不条理、現代演劇の諸相を分類して代表作を示した『現代世界演劇』シリーズは、啓蒙力抜群の諸巻だったが、今となっては世界全体を知ろうなんぞという野心は、私の内のどこを探してもありはしない。
海外の現代演劇、その一部を、古書肆に出す。

文芸批評がたしかに新たな局面に入った、という気がしたものだ。

『殉教の美学』が出現したとき、文学も芸術思想も左翼・右翼というような表面的仕分けで片づくはずのものではないと考えた、鋭敏な学生は少なくなかったろう。たとえば安部公房は左翼的、三島由紀夫は右翼的というようなレッテル貼りをもってしては、なにを理解したことにもならぬと、学生も理解し始めたのだ。学生を盲目的にさせる魅惑的指標が「革命」から「情念」へと移行する時代が、すぐそこまで来ていた。
同世代の文芸批評家としては、飛びぬけて若くして登場していた江藤淳の、後続がようやく出てきたのだと、私は受取った。果せるかな相前後して、桶谷秀昭・秋山駿ほかの登場によって、文芸批評花盛りの文学世代となった。

『殉教の美学』の内容は三島由紀夫論なのだが、私は鈍感なことにまったく反応できなかった。ややあって『戦後批評歌論』が出たとき、この批評家の立ち位置、そしてこの世代の特色が、はっきり掴めたと感じた。初期著作のいく冊かを熱心に読んだ。どういうわけか今、本が見当らないが。
読むうちに、この人が論を運ぶ技法に、かすかな疑問をおぼえるようになった。とある事象から指標を抽出し、別の事象からも指標を抽出する。その手際は入念でじつに魅力的だ。そして指標同士を絡ませたり対立させたりしながら、論理が進行する。しかし指標はあくまでも観念である。どうしたって論理が人間を離れて、観念同士の格闘めく瞬間が生じてしまう。説得力はあるが、はて、それでよろしいのであろうかとの疑問が、随所に湧くようになってしまった。
私は熱心な磯田光一読者であることから脱落した。おりに触れて、その見識から啓蒙を受けるだけの読者となってしまった。

代表作のおおかたは文庫化されてある。またバラ本で所持していた『著作集』は、どういうわけか第二巻だけ二冊ある。想い出の『戦後批評歌論』と、吉本隆明についての全論考とが収録されてある。吉本隆明についてじつに数多く語った人で、その全部がまとめられてあるのは便利だ。
磯田光一を古書肆に出す。ただしせっかく二冊あることだし、『著作集』第二巻だけは一冊残す。
少し遅れて登場した、在野の批評家梶木剛の著作が二冊あった。これも古書肆に出す。


文芸思潮を眺めわたしてみたいと、しきりに思う時期があった。それには論客による評論に加えて、作家・批評家たちがおりに触れて所見を吐露したエッセイ類や、論争における発言などが、ことに役立ち、面白くもあった。
該博な見識をもつ編者陣の監修による、緒論のアンソロジーが役立った。『現代文學論大系』は分野別に選別整理されてある。モダニズム文学・プロレタリア文学というように。『昭和批評大系』は年代別に選別整理されてある。昭和十年代・二十年代というように。ともにすこぶる行届いたものだ。各人の著作からこれらを拾って読むなどということは、とうてい無理である。
現在でもなお、若き学徒にとっては基礎体力の糧となるにちがいない論述の宝庫であろう。古書肆に出す。

書架でそれらの近くに、私なんぞが理解できたものやらできなかったものやら、今となっては分明でないバラ本が立っていた。羽仁五郎家永三郎三枝博音高坂正顕の著作で、私のような読者にとっては「偉い人の高級な論述」である。なかで家永三郎『太平洋戦争』にはたいそう教えられた記憶があるが、さて、なにをどう教わったものか、思い出せない。
いずれも古書肆に出す気になったのだったが、写真に撮ってから気が変った。三枝博音『日本の唯物論者』一冊のみは残す。

拙宅玄関番のネズミモチを剪定した。紅葉したり落葉したりする樹種ではないから、本人の意向は窺い知れないけれども、当方としては、徒長枝が見苦しいというばかりではなく、冬越しを控えて身軽にしてやり、余計な水分・養分の手配を節約してやる善意の鋏である。

実を食べた鳥の糞の仕業と思われるが、かつて敷地内に五株のネズミモチが着床し、芽吹き、成長した。幼木のうちは雑草同様の扱いで、放置されたり、たまに伐りとったりされた。草ではないからと甘やかされて、草むしりの眼こぼしに与る年月も長かった。敷地内に灌木があるのもよろしいではないかとの、成行きまかせというか、当方の甘さが災いだった。
増長して、明らかな樹木となってしまった。そうなると、噺は別である。玄関脇のひと株は邪魔にもならぬから放置され、隣接する駐車場との塀ぎわのふた株は眼隠しの役目を果すから、これも放置された。通路の邪魔になるふた株との闘争というか、イタチごっこが始まった。
切株に毒薬を注入するというような荒療治は避けたかった。が、その手ぬるさ甘さが仇となって、闘争は存外長引いた。地上部よりも地中の根張りの発達は、はるかに頑強だったのである。それでも相手は若木だ。手間ひまかけて、四方に伸びた根をあらかた掘り上げるか切断するかにいたった。

塀ぎわのふた株は、順調すぎる伸長を見せ始めた。横枝が塀を越えて張りだし、駐車場にご迷惑を及ぼす。季節ごとの剪定では追いつけぬ事態となった。やむなく伐り倒すほかなかったが、当方の身の丈の倍近くにも成長した樹木である。切株からは盛んにひこばえを出すし。一年で繁茂の状態となる。もはや根っこごと掘りあげるなんぞは不可能な状態となっていた。スコップで周囲を掘っておもな根を露わにしては、ノコで切断してゆく。建屋の土台下へもぐり込んで、スコップやノコが使えぬ根もあって、闘争は泥沼状態となっていった。切株からひこばえが吹かなくなるまでに、さてなん年かかったのだったか。
一部の残存根から、思いも寄らぬ場所に新芽が吹いたことがいく度かあったが、当方もだいぶ自覚的に(闘争的に)なっていたから、幼木のうちに地中部分ごと処理するように心がけた。
かくして塀ぎわのふた株とは、この一年は停戦状態となっている。このまま戦闘再開されずに、いつの日か枯れ果てて軽くなった切株が、ゴゾッと掘りあげられる結末にでもなれば幸いだ。
で、着床五株のうち、玄関脇のひと株だけが、現在も徒長枝を伸ばし続けている。


彼岸花は第三から第六まで、すべての球根群にて花時を了えた。無残な姿も、あえて撮影しておく。
第一と第二球根群は、とうとう花芽を立ちあげなかった。もと最大球根群だったのを二分割に断ち割って、別の場所に植え替えたから、今年は生命温存を優先して、繁殖活動を自粛したのだろう。球根に腐蝕はないようだし、春先までは冬越しの葉を茂らせていたところをみると、死んではいないようだ。

開高健「闇三部作」の最後『花終る闇』は男女関係の噺で、「闇」シリーズはベトナム戦争での従軍記者経験に基く作品とのみ思いこんだ読者には、鼻白む作品だったことだろう。だが戦争だけが闇だなどとは、開高自身は云っていない。戦争も闇だったが、これだって闇だと云ってみただけのことだ。
大阪大空襲は惨禍の徹底性において東京大空襲以上だったとも云われる。十四歳の開高少年は、視晴かす丸焼けの大阪を眺めた。鮮烈な記憶は永く残ったろうが、矢弾の飛び交う戦場体験ではなかった。なにを確かめたかったのだろうか。朝日新聞社に志願して、というか直訴して、ベトナム戦争の従軍特派員となったのだ。
そこで感じた闇も、別のあそこで感じた闇も、ともに人生の闇だと云いたかったのだろうか。男女関係を描きながら、花終ることは「闇」だと捉えた作家があったということだ。


拙宅玄関番の横顔は、だいぶスッキリした。省エネ季節の準備いちおうの完了としておく。

鳥たちはどれほど実を食い、どれだけ敷地内に糞をたれたもんだろうか。うちで五粒の種子だけが着床し芽吹いた。私にとっては厄介でも迷惑でもあった数字だが、じつは想像もつかぬほど低い確率のなかでの五粒だったことだろう。しかも僥倖のごとき五株のなかで、さらに人間と共生できたのは、たったのひと株のみである。
移封だの移住だの、移民だの共生だのということは、人間が言葉にするほど容易ではないと、深刻に考え込まざるをえない。

ロリンズとクリフォードに視おろされながら BLTサンドイッチ。うん。

出番は午後二時からだ。不案内の老人が会場まで間違いなくやって来るもんだろうか、主催者さまがご心配なさってはいけない。午前中に、一度顔見せだけしておかねば。担当者さまと同僚さまへ挨拶に参上。
会場(本日の舞台)を見せていただく。視聴覚室と名付けられた、小劇場だ。これほど真新しくきれいな小劇場や試写室を、私は視たことがない。

いったん退出して駅前へと戻り、前回も訪れた喫茶店に入る。BGM にジャズが流れる店で、名盤のレコードジャケットが額装されて壁を飾っている。ことに惹かれた一画があったが、その前の席には先客がいらっしゃったので自由に近づけなかった。さいわい今日は空いている。まずは荷物を置き、席を確保してから、注文カウンターへ戻る。
「アップルパイ、美味いんだよねえ。このあいだいただいてビックリしちゃった」
「復活したメニューなんです」
店員の女性が、誇らしげに云って、今日もアップルパイですかという顔をなさった。
「おなか空いてるので、BLTサンドイッチをください。あとでもう一度、お邪魔するかもしれません。その時には」
嘘ではなかった。軽い朝食を摂ってから出てきはしたものの、仕事前になにか腹に入れておきたい気分だったし、仕事が済んでから、もう一度寄ってもいいかとも思っていた。


雨に煙る南大沢駅前ロータリー。前回は残暑の日だった。
今日の催しに向けての軽い打合せのために、二週間ほど前に初めてこの駅に下車し、駅周辺を歩いた。ニュータウン形成に合せて全面的にリニューアルされたような駅ビルであり、駅前ビル群であり、バスやタクシーが出入りする駅前ロータリーだった。ビル群のデザインはいずれも斬新で、未来都市のようだった。
マックとスタバとサイゼリアとが見え、松屋と銀だこの看板が見える。間に花屋が一軒ある。あっちのビルにもこっちのビルにも、どってっぱらにはフィットネス・ジムや歯科クリニックのネオン看板が光っている。ビル内に踏み入ってみれば、衣類・雑貨・家電、不自由なく完備されてあるのだろう。なんでもひと通り揃った、典型的なニュータウンという印象だ。

八王子市の生涯学習センターによる市民サービス(教育?)の催しで、市民有志にわがお喋りを聴いていただく日だ。私にしてみれば、相手が学生諸君であれ成人市民がたであれ、シャベクリの興行である点に変りはない。
演目は「安部公房生誕百年に寄せて」で、主催者からのご註文だ。最先端の研究情勢などについて私は皆目不案内だが、これから読もうかとお考えの読書人にも動機付けになるような入門編の噺をとのご所望だったので、お引受けしたのだった。たしかに安部公房は一九二四年生れで、企画者の着眼は悪くない。同年生れには、吉行淳之介吉本隆明とがある。三人のなかでは、安部公房がもっとも語りやすいかもしれない。
安部公房となれば、どうしたって話題は、文学技法の実験やら芸術前衛にあい渉らざるをえない。その発祥の歴史的背景として、二十世紀初頭のヨーロッパの芸術状況なんぞに、だらしなく噺が拡がりかねない。アンドレ・ブルトンシュールレアリズム宣言』の発表もたしか一九二四年で、百年目なのだ。しかしたいして知りもしないことに深入りは禁物だ。だいいち与えられた二時間では収まり切らなくなる。口が滑らぬように用心せねばならない。
ご来場者にお配りいただく手筈となっているレジュメの原紙を取出して、噺をどこで切るか、いかに刈込むか、もう一度確認して、用心々々と自分に念を押した。BLTサンドも美味かった。


ご来場の顔ぶれのなかに、齢下の友人鎌田君の顔があった。かつて社会人学生の一人として、第二文学部の私の教室に在籍した。三十代だった彼も、来年はご定年だという。ハネた後、そこいらで珈琲でもという運びとなった。
駅改札口に隣接するビルの三階にある、目当ての上島珈琲店は、あいにく満席だった。隣は行列のできる大江戸食堂である。やむなく往来へ降り、隣のビルのマクドナルドを覗いてみた。やはり満席だった。土曜の午後、しかも屋外歩きに不向きな雨天とあって、たいした繁盛だった。ロータリーを半周する恰好でサイゼリアまで歩き、ようやく席に着くことができた。

興行が上首尾だったか不出来だったかなんぞは、自分では判らない。主催者のかたがたはねぎらいの言葉をおかけくださるけれども、肝心のご来場者がたがどう受取られたかが伝わってくるのはこれからだ。加えて、不遜にも無責任にも聞えてしまいそうで気が引けるが、上手に語ろうとする野心が、近年めっきり減退した。だからやり遂げた満足感もやり損なった心残りも、ほとんどない。
ただ、上島珈琲店への本日二度目の入店が叶わず、アップルパイを食い損ねたのだけが、残念と云えば残念だ。

動作も物言いも、慌てず騒がずといった風格だった。なにをなさっても、山が動くという形容がピッタリだった。

「第一次戦後派と云ったって、せんじ詰めれば野間宏椎名麟三の二人だけだろう」
文芸界の名編集長のお一人である寺田博さんが、あるときおっしゃった。気楽な酒場トークのなかでである。カウンターの隅っこで耳をそばだてていた私は、わが意を得てひそかに安堵した。日ごろさよう思いながらも、私ごとき雑魚が口にできる事柄ではなかったのである。「そうですよね、寺田さん」と、胸の裡でつぶやくしかなかった。

矛盾や不合理がいく重にも絡みあって、容易には解きほぐせぬ錯雑さに身動きとれぬ日本近現代史を、あるいは近現代の日本人を、余すところなく描きとろうとすれば、必然的に「全体小説」を志向せねばならぬと、野間宏は提唱した。全体小説とは、大河小説という意味ではない。どこどこまでも描き切る巨篇という意味ではなかった。
人物を描くにも事象を描くにも、心理・生理・社会の少なくとも三方向から描かねばならぬとした。それもここまでは心理描写、ここからが社会告発といった並列ではない。登場人物の性的欲望が抜きがたい心理の動きを暗示しており、同時に彼を取巻く社会的現実とも対応しているというような、三位一体の様相と眺められる視点を創出して、とある描写が重層的表現たりうるように描けというのである。
どうしたって作品は長く巨きくなっていった。しかも、慌てず騒がずの風格である。野間宏と聴けば、いつ終るものか見当もつかぬ大長篇を悠々と描き続けている作家、という印象が世に定着した。
志を継承した作家としては、小田実高橋和巳李恢成が思い浮ぶ。他にもあることだろうが、私は知らない。

『真空地帯』は不合理渦巻く旧陸軍内務班にあって、人間としての正義を防衛しようとする強靭な知性をもった兵士の物語。『さいころの空』は兜町を舞台に、株式や商品取引の前線で命を削る、経済と人間性とを重ね合せた物語。『わが塔はそこに立つ』は京都の仏教教団を舞台に、自分の成長と教団との相剋に悩む青年の物語だ。いずれも岩波書店版『全集』の一巻丸ごとを占める長篇。そして『青年の環』は大阪を舞台に、同和問題を扱った巨大長篇である。
いずれも長いだけでなく、こってりした内容で、若き日に夏休みを費やして読むべき小説だ。私はとうとう『青年の環』を読了できなかった。これからも無理だろう。

野間宏の長篇類と評論類とを、古書肆に出す。
ただし初期短篇は、この作家を知るにことのほか重要で、それらのみでも野間宏文学がいかなるものかは十分に窺える。筑摩書房版『作品集』第一巻を残す。短篇代表作の『暗い繪』『顔のなかの赤い月』『崩解感覚』がすべて収録されてある。また別の関心から『歎異抄』一冊を残す。


野間宏『真空地帯』が喝采されていたとき、異を唱え、強烈な批判の狼煙を揚げたのが大西巨人だった。軍隊内部というものは、信じがたいほど規律厳しく息苦しいもので、人間性がねじ曲げられ圧殺される実態は、悲惨を通り越して滑稽ですらある非現実性に満ちていた。知的判断を駆使して内部批判するなんぞという噺は、実状とかけ離れた絵空事に過ぎないとの主張だった。
大西巨人は猛然たる闘志を燃やして『神聖喜劇』を書き始め、区切れ目ごとに発表しながら二十五年をかけて完結させた。マルクス主義を信奉し、公言してもいた大西には既存の文芸出版社に舞台はなく、娯楽小説を土俵としていた出版社で、いわゆるノベルズの体裁で刊行されていった。そして完結後に、箱入りの上製本として出し直された。

世に隠れた小説家に、林順という人がある。若き日には、古山高麗雄安岡章太郎と仲間だった人だ。出征経験のある世代だ。
私にとっては高校時代に現代国語科目をご担当いただいた恩師であり、後に同人雑誌仲間にもさせていただいた人だ。この人に、『真空地帯』vs.『神聖喜劇』問題をどう考えるかと、お訊ねしたことがある。
「野間が所属したのは陸軍歩兵部隊といっても、砲兵中隊だ。砲を扱うし弾道計算ほか数学も駆使するから、インテリが集る傾向がある。大西の軍隊経験とは、だいぶ事情が異なったんじゃあないかなあ」
とのご意見だった。

余談だが「先生ご自身の軍隊内の環境はいかがでしたか?」とお訊ねもしてみた。
「ちっともイジメられなかった。殴られた経験はほとんどない。学徒兵や学卒の新兵が入ってくるとね、古年次兵としては、コイツらはアッという間に自分らを抜いて上官になっちまうヤツらだ。今のうちに殴っちまえ、となるわけ。ところがぼくは、肺病の病みあがりだし、ヒョロヒョロだしフラフラだし、どう観たって出世しない新兵だ。やがてはいつまでも昇進できずに内務班に居続けるクズ兵隊、つまり自分たちと同類の仲間だと、ひと目で判るわけ。そうなると、殴られないね」
従軍体験、軍隊経験と云ったって、いろいろなんだなあと教えられたひと幕だった。

ともあれ、戦後文学史上の問題作、大西巨人神聖喜劇』およびそれを原作としたシナリオを、古書肆に出す。

文芸批評家としての入江隆則に、注意を払っていた時期があった。

第一評論集『幻想のかなたに』に広津柳浪論の力篇が収録されてあったのに驚いた。かような入口から登場する批評家もあるのか、という感じだった。以後の批評文にも教えられた。『新井白石 闘いの肖像』からはありがたい啓蒙をいだだいた。D・H・ロレンスについてもだ。
だが批評文のなかには、これなら江藤淳でいいや、あるいは桶谷秀昭のほうがと感じさせられるものもあって、この世代の批評家のお一人なのだなと記憶した。

ふたたび入江隆則に刮目させられたのは『敗者の戦後』が出たときである。敗戦後の日独比較よりは、第二次大戦敗戦後日本と第一次大戦敗戦後のドイツとを比較検討すべきだとの提言に、眼を開かされた。説明されてみればごもっともながら、私の幼稚な固定観念にとっては、意表を突く立論だった。比較文化、比較文明、文化人類学的な考察にさいしては、時間のカーソルを平行移動させながら考察するという技法を学んだのである。
余談ながら、「世紀末的」なんぞというときにも、日本と西欧の十九世紀末同士を較べても駄目で、西欧近代文学・芸術にとっては十八世紀世紀末こそ重要だと、吉田健一『ヨオロッパの世紀末』から教わったときにも、似た想いがしたもんだ。

『敗者の戦後』以降の入江隆則は文芸批評家を廃業して、文明史家に転職したかの様相を呈した。『文明の生態私感』以下の梅棹忠夫を読むように、当方の頭にある平べったい世界地図が立体的に立ちあがってくる悦びは感じたものの、私にとっては高尚な教養に属する世界となった。ましてや保守派の有力イデオローグと目される教授に対しては、私ごときは読者の資格すらないように思えた。
生立ちから自己形成期を赤裸々に語った『告白』だけは残そうかとも考えたが、それに教えられて今から心を入換えたところで、手遅れと断念した。


柄谷行人の良い読者だったことは、一度もない。初期の夏目漱石論ほかの文芸評論には、おおいに教えられた。が、幅広い知識と鋭い舌鋒とに、私はほどなく置いてけぼりを食う羽目に陥った。
問題は私にあって、ある時期から文体も論理も、言葉にまつわる一切は人間味の表現であって、思弁の正しさが究極ではないと考えるにいたってしまった。文章を科学的に分析しない悪癖に染まってしまったとも云える。空理空論を見破って退ける経験は磨いたが、厳密な論考に着き従ってゆく忍耐力を失ってしまった。要するに怠け者読者になり下ったのである。

たまたま読んだ柄谷行人著作には、つねに感心させられ、いつも教えられた。が、あァ面白かったと読了した記憶が、ほとんどない。私にとっては分不相応な諸作なのだろう。
対談集『思考のパラドックス』だけは手元に残そうかとも思った。数ある対談相手のなかに、森敦と田川建三の名があるからだ。森敦『意味の変容』は私にとっても重要な本で、一見とっつきにくいこの本の刊行時に、いち早く値打ちを感知して強く推奨したのが柄谷行人だったとは、はっきり記憶している。また田川建三『イエスという男』『書物としての聖書』ほかも私には重要な本で、読解ができるうちにもう一度くらいは再読したい本だ。
しかし森敦に対しても田川建三に対しても、柄谷行人はしょせん私なんぞの理解及ばぬ関心を寄せているのかもしれない。だいいち、せっかく逸話・うら噺・こぼれ噺が聴けるかもしれぬ対談集に『思考のパラドックス』という、なんとまあ大仰なタイトルを振るセンスに、私はとうていついて行けそうもない。

ともに著作を通しての学恩ある論客ながら、私は不肖の読者だった。わが知性の貧弱さを気付かせてくれた、恩ある著作群とも云える。
入江隆則柄谷行人とを、古書肆に出す。