わが散歩 (original) (raw)

年寄りだったらだれもが云う。昨日のことのようだ。アッという間だった。呆気ないもんだ。

レーニングしちゃあいけませんよ。鍛えようなんて考えるのはもってのほかです。どうやって維持するか、温存するか、減退を遅らせるか。考えかたを切替えてくださいね――。厳重な忠告を受けた。
毎日の運動は駄目です。筋肉疲労は回復に三日かかりますから。疲労が取れてから次の運動を。そうねえ、週に二度、一日十分程度。負荷のかかる運動ならその程度から始めてくださいね。

火曜と金曜の早朝、街路から高架改札口へと上る駅の階段を、十分づつ昇り降りした。天気が悪ければ、むろん日をずらした。周囲に人影がなければ、掛声をかけるように数をかぞえた。
我ながら情なかった。心臓に人の手が入った身だ。一度は止まった心臓だ。しかたがないと、自分に云い聞かせた。訓練してはならぬ、強くなろうなんぞと欲を出してはならぬと、反芻した。八年前のことだ。
今ではさらに、エスカレーターもエレベーターをも、使う身となり果てた。


踏切りは、今の場所ではなかった。山手通りが上を通る陸橋の西側にあった。ホームを長くしたために、今は駅の一部となったかの場所にあった。大工事があって、ガード下はひろびろとして明るくなった。有料駐輪場ができ、多目的空地もできた。「ウェストサイド物語」でジェット団とシャーク団とが集団決闘するような空間だ。踏切りは山手通りの東側へと移った。

私が通学路としたのは、西側にあった踏切りだ。わが町には、明治年間に村立小学校として創立されて、長く地元に根付いてきた小学校があった。横浜桜木町から当地へ引越して来てまだ間もない父は、いかなる考えからか、線路向うの隣町に戦後新設された小学校へ、息子を入学させた。新参者の引け目から、伝統的地縁の濃過ぎる環境を避けたかったのだろうか。それとも、たんなる田舎者の尻込みだったろうか。
運動会の大トリを飾る「地区対抗リレー」という花形種目があった。住所により組み分けされた中高学年選手によるリレー競走だ。六年生女子がスタートして、三年男子に、三年女子に、四年男子にとバトンを繋いでいって、六年生男子がアンカーだった。地区を代表して選手に選ばれることは、たいそう晴れがましかった。
その地域別組み分けだが、「一・二丁目」「三丁目南(さんなみ)」「三丁目北(さんきた)」「四丁目南(よんなみ)」「四丁目北(よんきた)」「地区外」の六チームによる対抗競走だった。私は宿命的に、地区外の所属だった。鉢巻きの色は毎年不動で、紅・桃色・水色・緑・紫は地元に取られていて、ことに四北の紫は鮮やかで強そうだった。「地区外」は冴えない肌色で、いかにも弱そうだった。

やがて馴れっこになってしまったが、下級生時分には、なんでボクは地区外なんだろうと、繰返し思った。同級生からは、蔑視だの差別だのといった悪意は微塵もなく、ふつうに「線路向う」と称ばれた。向うから視れば、こっちが向うだから、話は合っている。
六十七年前のことだ。


今日は金剛院さまの山門をくぐるには及ばないという日にも、山門外の不動堂にはお詣りする。道標を兼ねた石地蔵にも、備えつけの柄杓で水をかける。
不動明王は闘う志ある者にのみ、知恵を授けてくださる。闘う気力を失くした者は、火焔に焼かれるのみである。不動堂にて掌を合せるときには、自分は闘っておりますと報告せねばならぬし、まだ闘うつもりでおりますと誓わねばならぬ。
雨の合間を縫って、昨日の散歩だ。