“昭和99年”語り継ぐ「さらば故郷…永遠に帰らじ」『特攻隊』が出撃前に滞在した宿 家族と最期の面会の場 決意記した手紙も(2024年8月17日) (original) (raw)

関西テレビ

戦争末期、生きて帰ることが許されなかった特攻隊。 大阪・八尾市には、出撃直前に特攻隊が滞在した宿があります。

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■【動画で見る】妊娠の妻を残して特攻「日本は戦争に負けた」ミッドウェー海戦で敗北後 妻に語った本音 生きて帰ることが許されなかった特攻隊

そこに彼らが残した思い。生と死のはざまで揺れる葛藤がありました。

■兵士が家族と最期の面会をした宿「政乃家」

【巽 精造さんのノートより引用】「吾が故郷 大阪の地 短かゞりし滞在なれど 父よ!母!姉妹よ! そしてなつかしき いとしい人よ さらば故郷…永遠に帰らじ」 ふるさと・大阪への思いをこう残し、特攻隊として戦地に散った若者がいました。 与えられるのは片道分の燃料だけ。 自らの命と引きかえに攻撃する特攻。生きて帰ることは許されませんでした。 戦時中は陸軍の飛行場だった、大阪・八尾市にある八尾空港(旧・大正飛行場)。特攻隊を含む多くの兵士が立ち寄り、そして、飛び立っていきました。

その近くに今もある建物は当時、立ち寄った兵士が宿泊した旅館でした。 名前は「政乃家(まさのや)」。1990年前後に廃業しましたが、今も面影を残しています。 (※現在は借家で一般の方が居住。公開はしていません。)

1928年(昭和3年)に開業した政乃家は、戦時中は軍の宿舎に指定され、客のほとんどが兵士。 ひとときの休息。そして戦地へ赴く前に、家族と最期の面会をする場にもなっていました。 当時の話は、世代を超えて語り継がれていました。 長野県で旅館を営む森木幸子さん(56歳)は政乃家の女将の孫。 当時6歳だった母親から、政乃家の思い出を聞いて育ちました。

【「政乃家」女将の孫 森木幸子さん】「(母・敏子は)『よく遊んでもらった』と言っていたと思います、兵隊さんに。折り紙やったか、めんこやったか、物(絵)を描いたのか、『よく遊んでもらった』と言っていた」 母親の敏子さんには、子供心にも、印象に残っていたことがあったそうです。 【「政乃家」女将の孫 森木幸子さん】「兵隊さんの家族が来られた時は、『絶対に行ってはダメ』と言われたと。母はその時、何を意味するのか分からなかったが、言われたことは守って(部屋に)行かなかったと」

■「民間パイロットに」夢抱いた父…出撃した日に生まれた息子

そんな政乃家に宿泊した特攻隊の中に、「国華隊」があります。 20代前半の隊員を中心に集められた国華隊は、沖縄戦さなかの1945年6月11日、沖縄の海へと出撃し、散りました。 その2週間前に政乃家に滞在していた隊員は「辞世の句」を残しています。 「空征かば 雲染む屍 大君の へにこそ死なめ かえりみはせじ」 こう書き残した隊長の渋谷健一さん(当時31歳)は、当時2歳の娘がいて、妻は2人目の子供を妊娠中でした。 そのお腹にいたのが息子の健男さん(79)。渋谷隊長が出撃した6月11日に生まれました。

【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「(写真の)右端が母、隣が父親。『お父さんはおはぎが好きだったよ』と、親父の好物だったと聞いているから、きょうは私の誕生日=親父の命日だから、息子に(おはぎを)買ってきてもらった」

写真でしか会ったことがない父。 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「これ親父」 「(Q.国華隊で写真を撮る機会が多かった?)親父はそういうこと(写真を撮ること)に対して熱心だったみたい。みんなで形を残したいと」 国華隊のマークは、慰問にきた女学生が描いたそうです。矢と桜がモチーフになっています。 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「弓矢は“進む”という意味のマークらしい」 引くに引けない特攻隊。 少年飛行学校の教官だった渋谷隊長が任命されたのには、こんな理由もあったといいます。

【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「お前の教え子が行くから、『お前がそのトップで行け』と命令されたみたい」 「うちの親父は、まさか自分が特攻隊で行くなんて夢にも思っていなかった。(昭和17=1942年に)日本がミッドウェー海戦でぼろ負けしたでしょ。負けた一週間後に、妻であるおふくろにしゃべっているわけ、『日本は戦争に負けた』と、はっきり」 「『行きたくない』という気持ちはあったと思うよ。親父はパイロットになって、民間の飛行機乗りになりたいという夢があった。そういう夢が特攻になったので全部ご破算に」 Q.特攻とはどういうものと捉えている? 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「全く無意味な話。無駄なこと。ただ人間を“消耗した”というだけ」

■飛び立つまでの揺れる思い 遺書には覚悟の言葉

「日本は戦争に勝てない」。同じように感じていた隊員が国華隊にいました。 大阪府吹田市出身で、関西大学を卒業後に陸軍に入った、巽 精造さん(当時24歳)。 家族にこう話していたそうです。 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「『兄貴(精造さん)は最後に家に帰ってきた時に、この戦争は負けると言って出て行った』と(父は)言っていたので、本人は負けると分かっていたのでしょうね」 「そして最後、この(家の)上を旋回して行ったと」

特攻隊に任命されてから、飛び立つまでの2カ月間。家族に宛てた手紙からは、複雑な心の動きが読み取れます。 【巽 精造さんの4月2日の手紙から引用】「御両親様 愈々(いよいよ)晴れて特攻の家出となりました為 今更何も申し上げる事は御座居ません 只々 自己の任務に向って迈進(まいしん)あるのみです」 任命されたことを報告した手紙には、勇敢な言葉。

一方、およそ3週間後に妹に宛てた手紙では…。 【巽 精造さんの4月24日の手紙から引用】「お前達には恐らく俺等の気持は解るまいが もう生きて居る事が面倒くさくなったよ 隊長殿以下 三途の川へ行ったら何か商売でもスベエかと考へて居る」 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「計り知れないですよね。生きている私たちには。その時の2カ月間くらい、飛び立つまでの心の動きというか。『さぁ行くぞ』というのもあれば、『死にたくない』というのもあるだろうし。どう奮い立たせて飛行機に乗ったんやろうと思いますね」

そんな揺れ動く心情の中、巽さんは「政乃家」で、家族と最後の面会をしたのです。 その際、飛行場で父親を乗せて、ふるさとの空を遊覧飛行した巽さん。 その後に書かれた遺書では、迷いのない、決死の言葉がつづられていました。 【巽 精造さんの6月5日の遺書から引用】「愈々(いよいよ)出撃と決りました 今更何も申すことも有りません 只々 一生懸命自分の任務完遂に努力致して参ります 思えば最後の故郷の三日間 精造にとってはどれだけ幸福な事だったでせう」

して、家族へのあふれる想いも…。 【巽 精造さんの6月5日の遺書から引用】「父上様 今になって本当にいい“オトウサン”だったと何故もっともっと孝養つくさなかったのかと悔ひても、もうおそくなりました。どうかお身体を大切に どうかどうか長生きして下さい」 「母上様 やさしいやさしい母上様 いよいよ最後の別れが参りました。オカアサンの顔はいつまでもいつまでもいつまでも瞼の裏に描かれて居ます 元気で征きます 御両親様の写真をしっかりと胸にいだいて行きます。“オカアーチャン”サヨウーナラ」

【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「どんな思いやったんやろうと思ったら、ごめんなさい…」 声を詰まらせ、涙を拭うくるみさん。 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「私が今聞いても胸に来るものがあって、(当時の)おじいちゃんやおばあちゃん、きょうだいはどんな思いだったのかなと思いますね」

大阪府吹田市には巽さんの墓があります。遺骨はありません。 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「すごい時代に生きてこられたのだなと、平和でずっといてもらいたいですね」 【巽 精造さんのめい 北口郁子さん】「それの一言やね。戦争のない世の中になってほしい」 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「でも、その戦争があったという事実というか歴史は忘れてもらいたくない。いい、悪いは別にして、そういうことがあったということを、後世の人に知ってもらいたいなと思います」 (関西テレビ「newsランナー」 2024年8月15日放送)