【ゲゲゲの鬼太郎】6期が嫌われているポイントを改めて再評価する (original) (raw)

先日の水木プロの一件が一応の沈静化を見せたようで、そんなタイミングでこれを語るというのもいかがなものかと思うが、私の中で放送終了直後にまとまっていなかった評価ポイントを今回の一件で見つめ直す機会だと思い、あえて今回はネット上で散見された6期が嫌われているポイントにスポットを当て、6期が何を描こうとしていたのか、そして私がそれをどのように考え評価しているのか。この際だから言っておくのも悪くないだろう。

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なお、今回再評価をするにあたって、前回こちらの記事(↑)にコメントを送っていただいた方にお礼を言っておきたい。過剰な反応をしているファンに向けての怒りの声明文として書いた所もあるので、私としては攻撃的なコメントが送られることも内心覚悟していたのだけど、節度のあるコメントをしていただき、こうして改めて6期について深く考え直す切っ掛けになった。誠に感謝する。

妖怪の描写に対する不満

5期以前から鬼太郎アニメを見ているファンの多くが批判しているのは6期における妖怪の描写である。

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これは6期放送終了後にも指摘していたポイントであり、過去作に比べて鬼太郎ファミリーをはじめとする妖怪との戦闘描写が大幅に減ったことや、妖怪が人間の心の闇や社会問題を描くための媒体として扱われている点も既に述べている。これに関して放送直後の私はあくまでも他期との差別化を図ったという程度の考えであり、それが良いとか悪いとかは考えておらず、あくまでも好みの問題として左右されるポイント、という程度の考えに過ぎなかった。

それを考え直すことになったのが今回の炎上騒動であり、そこで6期に対する攻撃的な批判もいくつか目にしたのだが、その中で妖怪が殺される描写に嫌悪を抱いたという意見に私は注目した。

今回の騒動で過剰反応してる5期推しの方々が6期を嫌っている理由がようやくわかってきたかも。
6期は最終回間近で妖怪たちが機動隊によって「射殺」されるのだ。これまでの鬼太郎アニメでは妖怪は「祓われ」たり「封じられ」たりするものだったのに、殺すという描き方をした。

— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2024年8月11日

その描写が5期を推す人には「水木先生が描き残した妖怪たちを制作陣が悪趣味にも殺している」という風に感じ、その露悪的な描写に嫌悪を覚えたということみたいだ。
確かに歴代の鬼太郎では見られない直接的な「殺害」であったから、そこで拒絶感を抱いたファンがいたのも頷ける。

— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2024年8月11日

勿論原作でも「電気妖怪」や「妖怪大戦争」といったエピソードでは妖怪が焼き殺されたり絞め殺されるといった直接的な殺しの描写がある。とはいえ基本的に鬼太郎作品における妖怪は封印されるか、別の物質に変えられ無力化されるか、単に懲らしめられるだけという描写がメインで血腥さはほとんどない。当然これは原作が少年誌に掲載されていたからあまり直接的な殺しの描写を入れなかったという配慮もあるだろう。

しかし6期では封印や無力化、懲らしめるという描写はあまりなく、基本的には鬼太郎が指鉄砲で止めをさし、それによって妖怪が魂状態になることで無力化するという独自の設定になっている。まだこれは殺しとしてはマイルドだし、魂状態になった妖怪はいずれ復活すると言及されているのだが、西洋妖怪編では魂状態になった妖怪が魂も握りつぶされ消滅するという描写があったし、最終回では人間によって開発された対妖怪用の銃によって鬼太郎や妖怪たちが「射殺」されるというショッキングな場面も見受けられた。これは客観的に見ても歴代鬼太郎アニメの中でかなり直接的に妖怪の死というものが描かれているし、「おばけは死なない」という水木先生が作詞したOP曲に反する所でもあるから、往年のファンが拒絶感を抱くのも無理はないだろう。それに、95話で殺された妖怪の中には5期のキャラデザをそのまま引用したお歯黒べったりやタンコロリンなどがいたので、5期を推している人が見れば、「こんなことを描くために5期のキャラデザを使うなんて!」と怒りを覚えたのもわかる。

では何故6期が今まで以上に「妖怪の死」を強調するような描写を入れたのかという疑問にぶち当たるのだが、私は別に水木先生の描いた妖怪を制作陣が蔑ろにしているとか、大人向けの展開にするためにわざとショッキングな展開にしたという、そんな浅い意図であのような物語になったとはあまり考えていない。この疑問は6期がSNS隆盛の時代であるということに目を向ければ説明がつくのではないだろうか?

6期で描かれているように、現在のSNS隆盛の社会では自分と考えや価値観が違う人を自殺に追い込むレベルで誹謗中傷する。相手がどんな人なのか「見えてない」のに、彼らには「恐れ」がなく、ただ自分が抱く「嫌悪」に従い相手を完全消滅させる勢いで叩き続ける。

— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2024年8月11日

これまでの歴代作品では鬼太郎をはじめとする妖怪と人間との間には一定の距離感があって、何だかんだ人間は妖怪を恐れ(畏れ)ていたし、妖怪の方もそこまで人間界に影響を及ぼすようなことはしていない。八百八狸という例外もあるが、だからと言って妖怪によって社会の流れが大きく変わるということもなく、妖怪がいなくなれば世間は元の日常に戻る、というのが基本パターンだった。

しかし6期を見た方ならご存じの通り、6期は1年目で「名無し」が暗躍したことで妖怪の存在が社会的に認知されるようになり、2年目に至っては人間社会が妖怪がいることを当然のこととして受け入れている。妖怪がテニス選手のコーチになったり、漫画家デビューしたりと、人間と妖怪間の垣根が取っ払われているのだ。

勿論こういった描写は過去の鬼太郎アニメでもあったが、あくまでも部分的にその垣根がなくなったという感じで、人間社会全体が妖怪の存在を認知し、妖怪が社会的・政治的に人間の世界で活躍している状況が長期間にわたって描かれたのは、間違いなく6期が初である。

5期や妖怪を愛する水木作品のファンの中には「鬼太郎アニメは妖怪の怖さを描くべきだろ!」という意見を述べていた人もいたが、正直言って今の時代に何の工夫もなしに妖怪の怖さを描いたとしても、それは時代に即していない、不自然な描写になっていたと思うのだ。

現代は物理的に闇が減ったことで妖怪の気配だけでなく恐怖を感じる機会も大幅に減ったし、CG等の映像技術の発展も相まって、妖怪が現れたくらいで人間は驚かない。むしろ珍しがってスマホで撮影し、SNSに拡散するのが現代人の行動だと示したのが6期1話で迷惑系ユーチューバーが吸血木になるあの下りだ。

そしてこれはインターネット上でのコミュニケーションにも同様のことが言える。SNSが流行する前のインターネットは、会話している相手が何者かわからない匿名の存在であり、ネット上で公開されているプロフィールも本当かどうかわからない。だから個人情報をネット上にアップしてはならないし、ネットで交流している相手と実際に会うなどもってのほか!というネットリテラシーが常識であった。それだけ画面の向こうにいる人物に注意しなければならないという「恐れ」があったのだ。

しかし今となってはオフ会という言葉があるように、ネット上で約束して実際にその相手と会うという行為は全然珍しくないし、マッチングアプリなどを含むSNSが現実社会におけるコミュニケーションの橋渡しになっているくらいだ。むしろSNSがないと新しい出会いすらなく人間関係が広がらない人だっているのだから、20年前と今とではインターネット上でのコミュニケーションもかなり質が変わっていると実感している。

つまり、人間社会が妖怪を恐れなくなった現代、そしてSNSの普及によって画面の向こうの相手に対する警戒心や不信感といった恐れの感情が希薄になった現代において、人間と妖怪はもはや身体構造や能力といった程度の違いしかなく、その両者を区別する定義も境界も曖昧になった時代だというのが6期における妖怪の描写に関係していると私は考えている。5期の場合は妖怪横丁という、妖怪が一箇所にまとまって生活するコミュニティが描かれていた分、人間の住む世界・妖怪の住む世界という棲み分けと分断が描かれたのに対し、6期はそういった明確な境界線みたいなものがなく、23話の「妖怪アパート秘話」や44話の「なりすましのっぺらぼう」といったエピソードを見てもわかるように妖怪が人間社会で生活したり、SNS上で人間と交流を深めるといった描かれ方をしている。ここで描かれた妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。

人間が妖怪を恐れず、妖怪もまた人間への抵抗感がなくなったことで、妖怪が妖怪としてのアイデンティティを失い、人間同士においても「恐れ」の感情が弱まった現代において、ではどうやって恐怖を描くのか?この課題点を6期の制作陣はネット上におけるデマや誹謗中傷といった人間が持つマイナスの感情を主軸に置くことで、今までの鬼太郎アニメになかった「恐怖」を描いている。

特に誹謗中傷に関してはSNSの普及によってその激しさも、それを発信する人も増大している有様だし、私も含めて誰が被害者になっても加害者になってもおかしくない時代である。先ほども述べたように20年前はまだ画面の向こうの相手が何者かわからないという怖さがあったため、攻撃的なコメントを送るのにも抵抗感があったが、今や平気で見ず知らずの人に対してタメ口でコメントを送ったり、よく知りもしないのに自分の一方的な価値観で相手を非難する。こんな光景はSNS上の至る所で見られるから、それだけ私たちがよく知りもしない・見えない相手に恐怖を抱かなくなった。百歩譲って恐怖を抱いたとしても、それに対する嫌悪感の方が強くなっているというのが Twitter を10年以上利用している私の意見である。

そういう訳で、6期における妖怪というのは人間とは価値観が異なるイレギュラーな存在という描かれ方をしており、そんな一部の妖怪が巻き起こした大事件によって人間社会が妖怪を排除し殲滅するという流れを描いている。お祓いや封印ではなく殺すという直接的な描写になったのも、それだけ今の日本人を支配する感情が「恐怖」から「嫌悪」へと移行していることを表していると思うのだ。勿論、恐怖によって得られる快楽・娯楽はあるけれども、それはエンタメ・フィクションという線引きがあるから恐怖を娯楽として堪能出来るのであって、実生活における恐怖など無用であり排除すべきだというのは大多数の人が思うことだから、6期における人間と妖怪間の戦争にも相応の説得力がある。※1

まぁ結論を言えば6期における妖怪の描写や役割は社会風刺やプロパガンダ的な側面が強いので、これまでの鬼太郎アニメの世界観が好きな人が拒絶感を抱いたのも当然の話である。ただ、歴代作品が高度経済成長期やバブル経済といった社会の流れを反映させている以上、6期だけが現代日本のトレンドや社会の流れを無視した鬼太郎物語を描くというのはおかしな話だと思うし、仮に6期で描かれなかったとしても、SNSが普及した現代日本を舞台にした鬼太郎物語は遅かれ早かれ描かれるお題であったと評価している。

それに、そういった社会背景を誤魔化さずに描いたというのも6期の評価すべきポイントだと思うし、そこに従来の鬼太郎アニメにはなかった新奇性を見出して興味を持ってくれた新規のファンがいることを考えれば、水木作品の普及と認知度の上昇に6期が貢献したことを喜ばしく思っても良いのではないだろうか?

鬼太郎のベトナム戦記(トクマコミックス)

というか、そもそもの話、水木先生は鬼太郎作品で社会風刺モノを既に描いているのだ。それが「鬼太郎のベトナム戦記」と呼ばれるシリーズで、このシリーズは目玉おやじの親戚筋にあたる毛目玉の要請によって、鬼太郎ファミリーが ベトナム戦争 に介入するという物語である。妖怪が人間の戦争に介入するのだから内容もかなり大人向けで政治的要素が強いし、こういう作品がある以上、6期の社会風刺的な作風を「水木先生が描いてきた鬼太郎や妖怪を侮辱している」と批判するのは、(感情面では理解出来るが)客観的な批評としては余りにも的外れが過ぎるというものであろう。

※1:これに関しては昨年放送された「アンデッドガール・マーダーファルス」1話でも、怪物がエンタメとして消費される一方で排除すべき存在であることが描写されている。

チーム〈鳥籠使い〉結成!【アンデッドガール・マーダーファルス #01】 - タリホーです。

制作陣に対する不信感や嫌悪感

6期が嫌われる原因としてもう一つ考えられるのは、作品そのものではなく制作陣の言動による所も大きいのではないかと考えられる。

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特にその問題が表沙汰になったのは2021年度のゲゲゲ忌における悪魔くんスペシャルデーでのこと。詳細は上に載せた記事を参照してもらいたいが、令和版の悪魔くんが80年代に放送されていた悪魔くんと地続きの世界観であるにもかかわらず、その設定や描写に齟齬があったこと、またそれを制作しているスタッフの言動から作品に対するリスペクトが感じられないどころか、作品を軽んじているとしか思えない発言が飛び出たことが往年の悪魔くんのファンの心証をかなり悪くしている。

この出来事は以前私の耳にも入っていた情報だが、私は原作を含めて悪魔くんの知識がほとんどないのでこの問題については有識者の判断に任せるという形で静観を決め込んでいたのだが、今回の水木プロの炎上騒動がこの令和版悪魔くんにおける制作陣の言動が尾を引いたものであるとわかったので改めて悪魔くんスペシャルデーで明らかになった問題点を読み返した。

私が上記のまとめ記事を読んだ印象としては設定の齟齬がメインの問題点ではなく、制作スタッフの言動や態度が問題点の要という印象を受けた。特に永富大地プロデューサーとシリーズ構成の大野木寛氏の言動にファンの嫌悪が集中しているという感じがした。

永富氏も大野木氏も6期の制作に関わっていたので、今回の水木プロの炎上もこの両氏が遠因として絡んでいると考えられるが、まず先に言っておくと大野木氏の一件に関しては論外だ。

性犯罪の報道に対してダチョウ倶楽部のあのネタを思い浮かべてしまうのは、まぁ不謹慎とはいえ仕方がない。不謹慎なことを思いついてしまうこと自体は誰にでもあるのだから。問題なのは、それを何の考えもなしにSNS上で垂れ流していることの方である!仮にも6期でSNS上の問題を物語に取り入れて私たち視聴者に問題提起しておきながら、肝心の自分がロクにSNSでリスク回避もせずにこのような昭和親父のハラスメント的ギャグ(しかも性犯罪の報道を茶化すように!)を世界中のユーザーに発信しているこの愚かさにファンは幻滅しているのである。正に紺屋の白袴、アホの極みである。ちなみに問題のツイートは2024年8月現在も削除されていないので、多分大野木氏本人にファンの批判は届いていないし、他のスタッフも気づいていないか、気づいていたとしてもスルーしているかのどちらかだろう。

そしてプロデューサーの永富氏に関しては、令和版悪魔くんにおける言動の評価は私には難しいので、6期鬼太郎の時はどうだったのか、鬼太郎を軽んじるようなことがあったのか振り返ってみようと思うが、それを検証する上で6期鬼太郎のDVDボックス第4巻のブックレットに掲載されているインタビューを抜粋したい。このインタビューでは永富氏に加えてシリーズディレクターの小川孝治氏と水木プロの原口夫妻の発言も掲載されているので、今回の炎上騒動に終止符を打つためにも、載せるべきだと考えた。

(前略)

永富大地(以下永):1番最初にお伺いしたのは、2016年12月です。企画書も無く、ご挨拶という段階でした。その後、フジテレビプロデューサーの狩野雄太さんと第6期の鬼太郎はどうあるべきかという話を詰めて……。その内容を水木プロさんにお持ちしたのが、2017年の春先ですかね。

原口尚子(以下尚):水木は「漫画は自分のオリジナルだけど、映像作品については自分の手を離れるものだから、余程のことが無い限りは自由にやって良いです」という考えを持っていました。ですから、こちらからの要望はあまりしていません。

原口智裕(以下智):原作をそのまま同じ形でリメイクしても新しいものにはなりませんからね。しいて言えば、低年齢向けに絞らず、大人も楽しめるような作品にしていただきたいというお願いをしました。

(中略)

――第6期の『鬼太郎』は子供達にも人気があるようですね。

:『鬼太郎』のイベントで、小さな女の子がねこ娘や鬼太郎のコスプレをしていたのはびっくりしましたね。年齢も男女も問わず鬼太郎が好きなんだなと感じて、嬉しかったです。シナリオを難しめに作っているのに子供が観てくれているのは、『鬼太郎』というコンテンツ自体の力が強いと思っています。水木しげる先生が生み出したゲゲゲの鬼太郎という世界、鬼太郎達のキャラクターそのものに、根源的に子供達の魂をつかんで離さない部分があるんですよ。そうじゃないと、第6期の『鬼太郎』に、こんなに子どものファンがついていないだろうなと考えています。我々は、水木しげる先生の手のひらの上で遊ばせていただいているんですよ。

:水木のマンガやエッセイを読んで勉強されて、水木の描いてきた本質的な部分をきちんと理解していただいていますよね。ですから、それが伝わるような作品になっているんだろうなと思います。

(注:アンダーラインは筆者である私が「ここは特に読んでほしい」と思った部分に注目してもらうため引いた)

炎上騒ぎになった方のインタビュー記事では5期が引き合いに出されたこともあって5期を推すファンの怒りを買う結果になってしまったが、DVDボックス付属のインタビューを読めば5期を「子供向け」だと軽視して6期を大人向けにした訳ではないことがわかるし、その要望にしても「しいて言えば」という程度のものだったのだから、このインタビューに目を通していた人ならば、あのインタビュー記事に目くじらを立てることもなかっただろう。鬼太郎を大人向けにして子供を排除しようとしているという懸念・批判が全くの杞憂であることも、これでわかったのではないだろうか?

(「このインタビューは過去のものだから新しい方のインタビュー記事の原口夫妻の発言の方が本音だろ?」と言うのはナシですよ?それは最早言いがかりというものです)

以上も含めて永富氏をはじめとする6期の制作陣に鬼太郎を軽視するような姿勢・発言はなかったと私は判断しているが、ただ永富氏が悪魔くんのファンからマイナスの感情を抱かれることになった一因みたいなものは、実を言うと6期鬼太郎の時点でちょっと表れていたと私は考えている。

悪魔くんスペシャルデーにおいて、当初の台本にナガトミーというオリジナルの悪魔を登場させようとして結局カットしたと永富氏自身が述べていたそうだが、これがファンからは「公式のアニメなのに内輪ノリでサークル活動みたいなことをしようとしていた」と批判されている。これは鬼太郎6期の時にも同様のことがあって、6期では永富氏や大野木氏といった制作陣の名前がしれっと本編の中に会社名やモブの登場人物の名前といった形で仕込まれている。その中でも特に顕著なのが1話に登場して以降、名無しの回やぬけ首の回、そして最終回にも登場したチャラトミという迷惑系ユーチューバーである。これはどう考えても永富氏の名前がモデルになっているのは明白だし、一回だけでなく何度も登場している点を見てもチャラトミが永富氏のアバター的存在だと解釈してもおかしくはないはずだ。

私はこのチャラトミに関しては6期のクズ人間のうちの一人という程度の認識しかなかったし、別に本編の流れを邪魔するような目障りなキャラでもなかったかな~と思っているのでこういう形でプロデューサーが物語の世界に関わるのはまぁ別にどっちでも良いというスタンスなのだが、見る人によっては「プロデューサーが鬼太郎作品を私物化している」という否定的な評価も出来る訳であって、特に永富氏は2018年以降ゲゲゲ忌のMCを務めているという点も合わせると、「この人ってタレントでもないくせに、な~んか前に出ようとしたり・目立とうとしてないか?」という疑念も生じると思う。司会・進行なんて他の人に任せても良いのに自分がやるってことは、やはり目立ちたがり屋だからではないのか?という理屈だ。

まぁプロデューサーが目立ちたがり屋かどうかなど作品の良し悪しに関係ないしあくまでも憶測の域を出ない話だからこれくらいにしておくが、では結局令和版悪魔くんでの発言は何だったのかという話になる。鬼太郎はリスペクトを以て制作したけど、悪魔くんはどうしてあのように過去のアニメを軽んじるような発言になったのか?

これはあくまで私の勝手な意見であり根拠のないものとして聞いてもらいたいが、永富氏の発言を弁護的に解釈するなら、あれはファンに対する認識の甘さと油断から来る失言だったというのが私なりの解釈である。

水木先生の作品は鬼太郎にしても悪魔くんにしても基本中の基本となる設定以外はかなりゆる~く融通がきくような作りになっていて、例えば猫娘は原作だと他の妖怪に比べてキャラデザインが全く定まらず3期が放送された時期にようやく今ほとんどの人が知っているデザインに固まったという感じだし、アニメに至っては5期で萌えキャラ化したと思ったら6期で高身長のお姉さん肌の女性に変化するなど、期によって見た目が全然違っている。

3期で映像化された鬼太郎の地獄編というエピソードでは鬼太郎の母が人間という設定になっているが、これは地獄編だけの設定であって原点である「鬼太郎の誕生」では鬼太郎の母も幽霊族として設定されている。他にも以前は味方だった妖怪が敵に回ったり、前のエピソードで封印されたはずの妖怪が別のエピソードでしれっと登場していたりと、こんな具合にゲゲゲの鬼太郎」は他の漫画作品ではあり得ないレベルで前後の時系列と辻褄が合わない描写がいくつもある※2のだ。これは他の作品なら低評価になる所だが鬼太郎の場合は人間ではなく妖怪がメインなので「まぁ同じ顔の個体が複数いるのだろうな」と割り切って受け入れられる部分だし、この設定のユルさが水木作品ならではの魅力でもあると私は考えている。

これは水木作品を数多く読んでいるマニアなら知っていて当然の知識であり、永富氏も水木先生のファンならばこの設定の自由さ・ユルさにも気づいていたはずだ。

とはいえ、いくら水木先生のファンだからと言って何でも改変に寛容という訳ではないし、「ここは絶対に変えたらダメ!」という不可侵の聖域とでも呼ぶべき設定だってある。私の場合悪魔は妖怪と別格の存在であり、原作の「悪魔ブエル」では妖怪は悪魔より下等なものとして定義されていたから、6期の悪魔ベリアルとブエルの描き方にはかなり憤慨したし、西洋妖怪編の終盤における**バックベアードの人間態**にしても「ベアードはあの丸い形が良いのに、何でわざわざ人間態にするんだよ…」とキャラデザインのセンスの悪さにガッカリさせられたものだ。

そういう訳で、制作側はファンにとっての不可侵の聖域を見極めた上で改変を行わないといけなかったのに、悪魔くんの場合はそれが不十分だったこと、そして「水木先生のファンなら改変にも寛容だよね~」という甘い認識でトークをしたらそれが悉く不用意な発言、過去のアニメに対するリスペクトのなさという形でファンに届いてしまったのではないだろうか?

勿論これはあくまでも推測の話なので、どう考えるかは個人の自由だし、永富氏は東映アニメーションを退社しているからこれ以上彼を叩いた所で何の得もない。それだったら「ああ、あのプロデューサーはファンに対する認識が甘かったし、色々勉強不足な面もあったな~」で終わらせた方が、まだマシだろう。

※2:昭和55年の「月刊少年ボビー」誌で連載された「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎では何と、鬼太郎に実の妹・雪姫がいるという衝撃の展開があるが、当然これは幽霊族の最後の生き残りという鬼太郎の設定と齟齬を来している。

さいごに(公式とファンの距離感を考え直すべき時期かも)

以上が6期の再評価になるが、こうして改めて振り返ると6期はこれまでの鬼太郎アニメのみならず原作においても触れられなかった領域にも果敢に挑んだ作品だったような気がする。鬼太郎の父が死ぬ直前の姿は包帯を巻いたミイラ姿の大男だったことは知られているけど、では全盛期の健康な姿の時はどうだったのか?という点に関しては水木先生が描いていない以上、触れてはならない聖域として扱われていたが、その禁忌を破って14話の枕返しの回でビジュアル化したことが「ゲ謎」のゲゲ郎が生まれた第一歩となった訳だし、6期終盤の人間と妖怪による第二次妖怪大戦争にしても、原作を含めてこれまでの鬼太郎アニメでは当時の人間社会が妖怪の横暴に対して予防措置をとるといった対策が行われてこなかったのだから、そこも禁忌を破ったポイントとして挙げられるだろう。

こういったアニメスタッフによる試行錯誤は6期に限らず昔から行われていた話であり、3期だとユメコちゃんという人間のレギュラーメンバーが登場したし、5期の妖怪横丁という設定だって、様々な種類の妖怪が一箇所に集まって人間と同じ商売や営みをしているというコミュニティが形成された点に関しては原作からかなりかけ離れた世界観だったと思う。今回は6期が槍玉にあがったけれども、既に鬼太郎アニメは長い年月をかけて様々な掟破りを試みていたし、その都度ファンの間で色々揉めたこともあったようなので、あまり深刻に捉えない方が良いのかもしれない。

最近のニュースを見ていても、とあるアイドルグループがアジアへライブツアーをすると発表したら「日本のファンを大事にしていない」とか「韓国には〇〇のファンが大勢いるから〇〇が媚びを売るためにアジア進出を後押しした」だの、まぁ~ファン同士が争いあって大変なことになっていたから、どこの界隈でもこういう揉め事だったり、公式に対して攻撃的な批判をするファンがいるのだなと、思わず同情したくらいだ。

こういう現状を見ていると、私は公式もファンもお互いに距離感を見つめ直す時期ではないかと提案したくなる。公式は「ファンだから好意的に読み取ってくれるよね~?」などと油断せずに出来るだけ誤解を生まない表現で見解を述べたり情報を発信しないといけないし、ファンの方も「私は推しや公式のことを何でも知っているんだぞ!」なんて思わず、「Aという考え方もあるし、Bという考え方もある」くらいの視野が必要となるだろう。

そういった精進・心がけがないと、排他的なファンばかりが増えて、公式や推しに対しても過度の要求をしたり、攻撃的な不平不満を述べる厄介なオタクでその界隈は殺伐とした空気になるだろう。そうなってはこれ以上ファンも増えることはないし、公式が供給するサービスも縮小していく。そして公式とファン双方が共倒れになってそのジャンルの人気は廃れるという最悪の結末を迎えるだろうね。まぁ流石にそこまで行き着くような事態になるほどまだ人間は愚かになっていないと思うので、何はともあれファンと公式との間には溝があるということ、そしてお互いに相手のことを決めつけずに節度をわきまえた言動をとることを肝に銘じて、健康で文化的な推し活をしていこうと主張したいタリホーでした。