人間臨終図巻Ⅰ/山田風太郎[徳間書店:徳間文庫] (original) (raw)
もうずいぶん前から読んでみたいと思っていた。歴史上の著名人達の、15歳から55歳までのそれぞれの死に方がひたすら並べられているという。それはもう、是非読んでみたい。しかし当時の俺はまだ20代だった。29歳の自分が、29歳で死んだ人達(吉田松陰、高橋お伝、山中貞雄、他)の臨終の様子を追体験するのはなるほど刺激的な体験であるが、年上の人達の死はどうか。29歳の自分が39歳の人達(クレオパトラ、ルイ16世、横川省三、太宰治、力道山、他)の死を読んだところで、それは単なる死でしかない。もう少し待ってみよう。
というわけで長い長い月日が流れ、俺は41歳になっていた。41歳! 何という事だ、全くもう、何も成長せず、何一つ世の中に貢献する事ができず、恥ずかしいだけの41年の生涯であった。その41歳で死んだ人達と言えば、今川義元、河井継之助、カフカ、尾崎放哉、石田吉蔵、川島芳子、アベベ、他、である。その一つ下の40歳で死んだ人達は石田三成、エドガー・アラン・ポー、江藤新平、幸徳秋水、高橋和巳、ジョン・レノン、他、であり、更に下がって35歳で死んだ人達にはモーツァルト、孝明天皇、正岡子規、芥川龍之介、他、がいる。もっと下がって30歳で死んだ人達は木曾義仲、源義経、小林多喜二、中原中也、他、である。
皆死んだのである。そして「この人達はこんなに若くて死んだのか」という暗澹たる感想の裏には、「俺は何も成長せず、何一つ世の中に貢献する事ができず、恥ずかしいだけで、何もないままやがて死んでいくというのに、この人達の名前は永遠に歴史に刻まれているのか」という嫉妬と憎しみがある。と同時に「永遠に歴史に刻まれる代償として早死にしたのだ」「派手に生きた代償として壮絶な死をしたのだ」、つまり自分は平凡な名もなき庶民だから41歳までどうにかこうにか生きてこられたのだ、という安堵もある。41歳で結核で死んだカフカは親友に「僕の最後の願いだ。僕の遺稿の全部、日記、原稿、手紙のたぐいは、一つ残らず、中味を読まずに焼却してくれたまえ」「すでに書物になった作品についても、そんなものがすっかり無くなってしまえばいちばんありがたいのだ」と手紙を書いた。しかしカフカの作品は世界文学史上の傑作として残った。ではもしカフカが41歳で死ななかったら?
というわけで続く42歳、43歳、44歳、45歳、と読み進めていったが、45歳で死んだ人達(井伊直弼、大村益次郎、ラスプーチン、有島武郎、三島由紀夫、梶山季之、江利チエミ、他)の臨終まで読んで、これより先の年齢の人達の死は、単なる死でしかない事に気付いた。暗澹たる気持ち、生前の歴史に残る功績への嫉妬と憎しみが湧いてこない、なぜなら俺はまだ41歳だからか? しかし例えば50歳まで待って、また本書のページを開く事を再開する間に俺は死ぬかもしれない。いや、「平凡な名もなき庶民」でさえいればまだ生きているはずだ。俺以外の人達は死ぬ、俺は死なないのだ。
石田吉蔵(1895~1936)
昭和11年2月、東京市中野区新井町の割烹料理屋吉田屋の主人、石田吉蔵は、その月のはじめから雇った女中お加代と密通した。
お加代は、少女時代から、芸者、妾、娼妓、高等淫売等を繰り返してきた女で、一夜でも男に抱かれないと肌さみしさをおぼえるセックスのかたまりのような女であった。
二人の密通は、石田の妻の知るところとなり、4月23日、二人は店を出て、待合を渡り歩きながら、爛れるような情痴の日夜を送った。
そのうち石田は、性交中に喉を絞めてもらうと気持ちがいいと言い出し、お加代はふざけ半分に腰紐などで石田の頸を絞めるようになった。
石田は一応家に帰らなければならない用事があると言い出し、お加代はイヤイヤを繰り返して泣き、石田もまた泣き、そして何度目かの性交にのめりこんでいった。その真夜中を過ぎて、
「そのうち石田が寝た様子ですから、右手を延ばして枕元にあった私の桃色の腰紐を取り上げて、紐の端を左手で頸の下にさしこみ、頸に二巻き巻いてから紐の両端を握り、少し加減して絞めたところ」
と、お加代は言う。
「石田はパッと眼をあけて『オカヨ』と言いながら少し身体をあげ、私に抱きつくようにしましたから、私は石田の胸に自分の顔をすりつけて『かんべんして』と泣き、紐の両端を力一杯ひき絞めました。石田が『ウーン』と一度うなり、両手をぶるぶる震わせて、やがてグッタリしてしまったので、紐を離しました。私はどうにも身体が震えてなりませんでしたから、卓子の上にあった酒の一杯入っているお銚子を取り上げ、ラッパ飲みに全部飲んで…」
お加代は朝まで、石田の死体に接吻したり、また自分の局部をあてがったりして悶え狂っていたが、やがて例の出刃包丁を取り出して、男の陰茎と睾丸を切り取り、また死体の左腿に、「定」という字を刻み、血で敷布に「定吉二人キリ」と書き、切断したものを紙に包み、更に石田のふんどしに包んで自分の腹に巻きつけ、午前八時頃待合を逃げ出した。
「それは一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば、湯灌をする時、お内儀さんがさわられるに違いないから、誰にもさわらせたくないのと、石田の××があれば石田と一緒のような気がして、寂しくないと思ったからです」
彼女の本名を、阿部定という。