木村忠正の仕事部屋(ブログ版) (original) (raw)

※この記事は、授業で接している学生の皆さんを対象としたものです。また、本記事は、拙稿(「インターネットがもたらした社会変革」、井川充雄・木村忠正編著『入門メディア社会学ミネルヴァ書房、第5章の一部(第5節デジタルネイティブの時代)を元にし、ヴァージョンアップすることを意図しています。予めご承知おきください。

筆者が、拙著「デジタルネイティブの時代」(平凡社)を著したのが2012年のことです。「デジタルネイティブ」とは、幼少期からデジタル技術に本格的に接した世代のことで、およそ1980年前後生まれ以降を指します。1980年前後生まれの世代は、幼少期にコンピュータゲームに触れ、中高生(1990年代半ば)でポケベル、PHSなどの移動体通信を経験し、大学(1990年代後半)でメールアドレスを割り当てられ、就職活動にインターネット利用が不可欠となり始めた世代です。

このように、幼少期から青年期にかけて、デジタル技術、ネットワーク技術の社会的普及とともに育った世代を「デジタルネイティブ」と呼び、それ以前のアナログ世代、アナログ世界で育ち、デジタル世界に移住した「デジタル移民」と対照させる議論が2000年代に入り脚光を浴びました。とくに、高等教育の分野において、「デジタル移民」である教授たちは、「デジタルネイティブ」の行動様式を理解する必要があると主張されたのです。

デジタルネイティブ」論は「世代論」の一種であり、いわゆる「世代論」は、学術的に慎重に議論される必要があります。とくに、「世代論」は、生まれ年で人々を輪切りにし、一定の生まれ年が共有の人々を、均一で、前の世代、後の世代とは質的に異なる人々であると措定するリスクが常につきまといます。

例えば、デジタルネイティブ論であれば、「生まれつきデジタル」な時代の青少年があたかもすべて同様に前世代と異なっている(前世代もまた均一である)かのような議論を展開しますが、「デジタルネイティブ」世代はけして一様ではなく、高度に使いこなす青少年がいる一方、知識・スキルの低い青少年もまた多いことは言うまでもありません。さらに、こうした差異は、社会経済的地位、文化・民族的背景、性別、学科・専門などにより異なる可能性が実証的に示されています。

つまり、デジタルネイティブ論は、こうした多様性、差異、それと結びつく社会的問題を視界から隠してしまうことになるリスクがあるのです。学生の皆さんの話を聞くと、卒業論文の主題で、「Z世代」をキーワードとして考えることも多いように思いますが、「Z世代」という概念には、マーケティングバズワードとしての側面が強く、多様な若者たちを、一つの型に嵌めて捉えてしまうリスクがあること(それは、理論的にも、実証的にも、妥当ではないこと)を、十分認識してほしいと思います。

しかしながら、一部の先進的利用者に焦点をあてるのではなく、情報ネットワーク社会として日本社会を考える場合には、「デジタルネイティブ」という語には学術的に積極的意味があり、重要な戦略的概念だと筆者は考え、調査研究に取り組んできました。世界全体でみると、1980年生以降(=デジタルネイティブ)が、総人口に占める割合は、2010年にすでに過半数を越え、2020年には6割を越えています。人口の年齢中央値(ある集団を最年長から最年少まで順番に並べ、ちょうど真ん中に位置する人の年齢)は、世界全体でみるとようやく30歳、すなわち、地球上の人類の半分は30歳以下で占められており、人類は「若い」のです。ところが、日本社会は、少子高齢化の進展が先進社会の中でも際立っており、1980年生以降は、2000年でわずか2割、2019年でも4割に満ちません。国立社会保障・人口問題研究所の中位推計にもとづけば、日本社会でデジタルネイティブ過半数に達するのは、2030年代を待たなければならないのです。

したがって、日本社会の場合、2000年から2030年代にかけて、デジタルネイティブたちが多数派となっていく過程での社会的変化、デジタルネイティブ内部での分化という観点から、「デジタルネイティブ論」を展開することが、学術的にも、実際的にも重要と考えてきました。

「世代(Generation)」というのは、年齢(Age、ライフサイクル、加齢)、時代(Period、時勢)、コホート(Cohort、出生集団) という3次元(APC)が複合的に組み合わされる概念です。ある「世代」は、出生年が近接している人々(例えば、2000年前半生まれの集団)が、幼少期、中高生、大学生、20代、といったライフサイクルそれぞれで、どのような時代(バブル期、就職氷河期など社会全体の時勢)を経験したかによって形成されるものと捉えることができます。

APC複合体としての「デジタルネイティブ」にアプローチ上で、一つの重要な観点は、デジタル、ネット関係の技術革新による「時勢」により、短期間で変異し、絶えず動的に変化を遂げていく世代と捉える視座です。1980年代以降、ビデオゲーム機、デスクトップパソコン、ノートパソコン、ポケベル、PHS、携帯電話、i-mode、高速ネット接続、無線ブロードバンド、動画共有サイトスマホ、ミクシー、モバゲー、TwitterInstagram、Zoom、ChatGPTなど、情報端末、接続サービス、といった技術、サービスの革新が次々と生起し、社会に瞬く間に普及してきました。さらに、データ定額制といった経済的インセンティブ、小中での「総合的な学習の時間」導入、新型コロナ禍でのソーシャルディスタンス、といった法制度、利用者年齢制限変更、感染症対策行動様式変容など、利用の社会的環境変化も、ライフサイクルとの組み合わせによって、一定のコホート集団に大きな影響を与えます。

ネット環境は数年単位で急速に変化するため、ライフサイクルと情報メディア環境の変化(時勢)の組み合わせにより、オンライン、オフラインでの行動様式、対人関係、現実認識などが異なるコホート集団もまた数年単位へと短期化すると考えることができます。

青少年におけるインターネット利用に関する調査研究から、筆者は、日本社会のデジタルネイティブを以下のようなサブ世代として捉えることを提案しています。

ここで、ご留意いただきたいのは、第4世代まで(拙著『デジタルネイティブの時代』での議論)は、高校生から社会人の方を対象に、筆者が実施した、長期にわたるフィールド調査をもとにしているのに対して、第5世代、第6世代は、立教大学社会学部で毎年実施しているアンケート調査にもとづくものだという点です。つまり、フィールド調査の制約(比較的規模は大きいとはいえ、調査協力者数148名、地域も東京圏と、異文化間比較のための北米一都市と限定的)はありますが、第4世代までの議論は、調査協力者に対する、長期に渡り、細密な調査にもとづいている一方、第5世代、第6世代は、立教大学社会学部生に見られる傾向であり、東京圏のデジタルネイティブとしても、一般化することは困難です。

但し、日本社会は、文化的同質性が高く、ネット関連技術・社会的変化の時勢と、ライフサイクル(とくに高校生から大学生にかけての年代)が組み合わされることにより、特定の対人関係やコミュニケーション様式に関して、一定の生年集団が特定のベクトルを強める傾向を持つと推論することは可能であるとも考えます。したがって、読者の皆さんには、拙稿の議論を、APC複合体としてデジタルネイティブの動態を捉える上で、限定的な集団を対象にしたものであることに留意しながら、どのようにより一般的に敷衍できるのか、同年代の異なる集団は、いかなる特性を示すことになるのか等を問いながら、読み進めていただければと思います。

さて、こうした留意点を共有した上で、図と表をもとに、日本社会におけるデジタルネイティブを、6サブ世代に分化する動態として検討したいと思います。図は、1980年を起点にし、ネット関連技術・社会的変化と上記6サブ世代のライフサイクルとの関係を模式化したもので、表は、6サブ世代の特徴をまとめたものです。

図 ネット関連技術・社会的変化(時勢)とデジタルネイティブライフサイクル(筆者作成)

図 ネット関連技術・社会的変化(時勢)とデジタルネイティブライフサイクル(筆者作成)

表 デジタルネイティブ6サブ世代の特徴(筆者作成)

デジタルネイティブ6サブ世代の特徴(筆者作成)

第4世代までの詳細は拙著(『デジタルネイティブの時代』、『ハイブリッド・エスノグラフィー』2018、第8章)に譲りますが、1980年~2003年生まれのおよそ四半世紀で、インターネット、取り巻く環境は大きく変化し、それとともに、青少年のコミュニケーション行動、対人関係、社会的現実認識もまた変容を遂げ、数年毎に世代を形成してきました。

筆者の分析からは、第1・2世代と第3・4世代との間に、とくに大きな変化が認められます。第1、第2世代が高校生、大学生の年代において、いまだ、パソコンインターネット、ケータイメールが主であり、既知の社会的関係がネットでも強く、未知のネットだけの関係にはきわめて消極的であったのに対して、第3、第4世代へと下るにつれて、高校生、大学生としての日常に、オンラインでのコミュニケーションが深透し、オンライン、オフラインの区別が曖昧になってきたのです。

高校生からデータ定額でケータイメール、ケータイプロフィールサイトで交流できるようになった第3世代、ケータイプロフ、ブログ、リアルなど複数のサイトを中学から使い分けるようになってきた第4世代と、世代を下るにしたがって、既存の社会的関係も複数のSNSを使い分け、自己呈示の仕方に気を遣う(キャラを作る)とともに、オンラインだけの関係も当たり前となり、オフラインでの知り合いと親密さで区別がなくなってきました。

さらに、高校からスマホソーシャルメディアを活用する第5世代は、「スマホネイティブ」「ソーシャルネイティブ」と言えるでしょう。高校時代からスマホ、ソーシャルにより、ネットワークに接触し、対人関係から流行まで、スマホが支配的役割を果たすようになるこの世代から、「テレビ離れ」が顕著となります。東京大学情報学環の橋元良明を中心とした研究者たちが、5年に1度実施している「日本人の情報行動」調査によると、10代の「1日平均テレビ視聴時間」は、2005年に150分だったものが、2010年に110分、2015年、2020年には70分程度と急減しました(橋元良明編著『日本人の情報行動2020東京大学出版会、「第3章 日本人の情報行動、四半世紀の変遷」)。2015年調査で10代が第5世代以降にあたります。

ここで、新型コロナ禍が、世代形成動態に大きな影響を与えます。大学教員の立場からみると、2019年度までの大学生と、2020年度から22年度に大学に入学した学生たちには、大きな変化を感じるのです。19年度までは、大学1年生で、新入生歓迎イベントやサークル、部活等の新入生勧誘などを経験していました。しかし、20年度入学者から3年間は、キャンパスへの登校、対面活動が制限され、オンライン講義が主要な役割を果たすことで、学生たちにソーシャルディスタンスが浸透し、それまでの学生たちの距離感とは異なる様子が見られます。他方、スマホ、ソーシャルが日常生活に深く侵入し、学生たちの日常を支配する度合いが強まり、オンライン、オフライン問わず、ソーシャルを介した対人関係ネットワークを維持し続けるため、「ソーシャル疲れ」「ソーシャルストレス」が亢進し、「ソーシャル依存」「スマホ依存」「デジタルデトックス」への関心が高まっています。

新型コロナ禍が、世代論的に、どのような中長期的影響をもたらすのかは分かりません。ただ、第6サブ世代を、2001~03年の3年間としたのは、生成AIに高校時代から接する世代(第6サブ世代の次)は、それ以前の世代とは大きく異なる社会的関係性、知識・情報への態度、コミュニケーション様式を発展させるのではないかと考えるからです。

生成AIの中核を担うLLM(大規模言語モデル)、トランスフォーマーは、1980年代から2010年代までを牽引してきた「デジタル+ネットワーク+モバイル」という技術革新とは本質的に異なる側面を持っています。それは、知識、情報の産出、学習の仕組み自体を本質的に変革し、現生人類は、初めて、自分たち以上の知性に遭遇しつつあることを意味しています。

この観点から、「デジタルネイティブ」は、1980年前後~21世紀初頭までで区切りを迎え、「AIネイティブ」は、「デジタルネイティブ」とは「別種」と考える必要があるようにも思います。「AIネイティブ論」が具体的にどのようなものとなるのか、筆者はまだ暗中模索ですが、社会科学にとって、重要な主題になると考える次第です。

今回も、拙稿にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

*本記事は、立教大学社会学部に関心を持つ方々、大学で社会科学的観点からデータサイエンスを学びたい受験生を念頭に置いたものです。また、筆者はコース準備責任者を務めておりますが、本記事は、筆者自身の個人的な「ソーシャルデータサイエンス」への考えをまとめたもので、所属組織としての見解ではありません。予め、ご承知おきください。

本ブログでもすでに紹介しましたように、立教大学社会学部では、2025年度から、SDSコースをスタートさせます。周知のように、「ソーシャルデータサイエンス」は、2023年度に一橋大学が学部、研究科を開設しています。一橋の場合、「ソーシャル・データサイエンス」と、「ソーシャル」と「データサイエンス」の間に「・(なかぐろ)」を入れることで、「社会科学」と「データサイエンス」の融合と、現代社会の課題解決を指向する学術領域であることを示し、そうした課題解決に取り組める人材の育成を掲げています。

この規定に見られるように、「データサイエンス」が革新的に進展することを受け、社会科学とデータサイエンスの融合を、という観点はよく理解できます。あるいは、日本では滋賀大学が2017年度に先鞭をつけた「データサイエンス」学部は、「データサイエンス」学科を含め、多くの大学で設置され、そこでは、文理融合、経済、経営、ビジネスとの連携、社会課題へのデータサイエンスの活用といった観点が強調される傾向を認めることができます。

今回立教社会が開設する「ソーシャルデータサイエンス」は、社会学部の中のコースです。それは、「ソーシャルデータ」の「サイエンス」という意味と、「社会学的」「データサイエンス」の意味を重ねていると、筆者は考えています。「ソーシャルデータ」というと、21世紀、「ソーシャルメディア」が爆発的に成長し、人々の日常生活に深く浸透するに伴い、「ソーシャルメディア上のデータ」を指すようになりましたが、それ以前を考えれば、「社会的関係・言動・現象で生成されるデータ」を「ソーシャルデータ」と規定することができます。

社会学という学術活動は、このような意味での「ソーシャルデータ」を対象とし、19世紀以来、様々なアプローチと理論を展開してきました。しかし、21世紀、人類社会の「ソーシャルデータ」は、質量ともダイナミックに拡張、変容し続けており、社会学自体、そうした拡張・変容に伴う社会的変化を探究するとともに、ソーシャルデータを収集、分析する理論と方法をヴァージョンアップする必要があると考えます。実際、例えば、LLM(大規模言語モデル)の革新とクラウドコンピューティングの発展により、先進的計量テキスト分析の手法(例えば、BERTopic sentence)を、文系学部生でも駆使することが可能となってきました。すると、大量のインタビューデータのトピック分類などが革新的に変化し、分析方法、リサーチデザインを根底的に見直すことが不可避となります。

社会学は、アンケート調査、インタビュー調査などの社会調査方法論を発展させ、統計学と連携しながら、回帰分析、因子分析、構造方程式モデリング、マルチレベル分析など、高度なデータ分析方法を発展させ、多種多様な社会的事象の分析を展開してきました。こう考えると、現在、社会学にとって喫緊の課題は、「ソーシャルデータ」へのアプローチ方法、分析方法をヴァージョンアップし、社会学的「データサイエンス」を発展させることであり、学部生を含め、社会学徒にとって、そうした分析方法、アプローチは、教養の一部となっていくと、筆者は考えています。

それを表したのが、立教社会のSDSコース紹介ウェブページに載せた概念図(右図)となります。つまり、立教社会のSDSは、社会学がこれまで培ってきた、社会学的思考、社会調査方法論を元に、データサイエンスを摂取し、社会学の地平を拡張することを意図しています。そこで、SDSコースは、コース生を別途特定の入試で選抜するのではなく、入学後に選抜することとし、コース生は積極的に、ソーシャルデータサイエンスを修得、実践するとともに、社会学部生全体に開かれた講義科目、演習科目を新設することとしました。

すでに、筆者の研究室をはじめ、立教社会の複数の研究室では、Google Colabなどのコンピューティング資源も利用しながら、つい先日まで、きわめて専門的で高度先端的と考えられたデータサイエンスの方法を、学生自らが利活用し、社会学的思考と組み合わせながら、卒論、修論、博論等に取り組んでいます。このような積み重ねを踏まえ、SDSコースは構想されています。筆者としては、できる限り多くの立教社会生に、ソーシャルデータサイエンスに接し、それぞれの能力、スキルの一部として欲しいと願っています。

最後まで目を通してくださり、ありがとうございました!

*本記事は、立教大学社会学部に関心を持つ方々、大学で社会科学的観点からデータサイエンスを学びたい受験生を念頭に置いたものです。また、所属組織とは独立した、SDSコースに対する筆者個人の見解も述べております。SDSコースが現在準備中のため、内容が変更になる場合があることも含め、予め、ご承知おきください。

立教大学社会学部では、2025年度から、SDS(ソーシャルデータサイエンス)コースを開設することとなりました。「学部案内2025」(デジタルパンフレットへのリンクはこちら;立教の各学部案内のページはこちら)で告知され、SDSコース概要紹介ページ

sociology.rikkyo.ac.jp

も公開されました。

筆者は、SDSコース準備責任者として、現在、2025年度からの始動に向けて、関係する皆さまと協力しながら、準備を進めております。たまたま広報委員長も務めていることから、学部案内、ウェブページ紹介も、筆者が草案を準備したものです。
SDSコース概要紹介ページにも書きましたが、立教大学社会学部・社会学研究科は、数理社会学、計量社会学、計算社会科学、ソーシャルデータ分析、デジタル人類学などを専門とする教員を擁しており、ソーシャルデータサイエンスの進展に対応した研究展開、授業実践を積み重ねてきています。
筆者は、文化人類学が知的出自ですが、インターネット・サイバースペースをフィールドとしたことから、デジタルデータにどのようにアプローチするかに長年取り組んでおり、2018年には、拙著『ハイブリッド・エスノグラフィー』(新曜社)において、量的/質的という二分法に囚われない研究法の必要性を議論しました。拙著以降、ディープラーニング(深層学習)、大規模言語モデル(ChatGPTなどのLLM)など人工知能分野の革新は目覚ましく、データサイエンスは、研究方法として重要であるだけでなく、ヒト・社会自体を根底から変革する可能性を持つ研究対象と捉える必要も高まっています。
つまり、データサイエンスの発展は、法制度、産業経済、社会文化、それぞれに対応・適応すべき可能性と課題を生み出し、変革するとともに、ヒト・生命のメカニズムを解き明かしながら、ヒト・生命という概念を根底から再考することまで私たちに余儀なくさせるだけの力・重要性を持つに至っていると、筆者は考えております。
したがって、社会科学の観点から、データサイエンスの基礎を学びながら、その方法を積極的に社会的課題、ヒト・社会の分析に活かす知識とスキルを身に着け、データサイエンスが持つ強力な力を理解して、ヒト・社会にとってプラスとなる面を引き出し、発展させる(マイナスとなる面を把握、制御する)ことのできる人材が、これからの日本社会、グローバル社会で不可欠であると筆者は認識し、SDSコースの準備に取り組んでいるところです。
SDSコースは、入試で選抜するのではなく、入学後、1年次の春学期に選抜する形をとります。また、データサイエンスの実習は、少人数で個々に対応する必要があり、コース定員は1学年20名を予定しています。ですが、上述のように、SDSは、文系学生にとっても、21世紀の教養と筆者は考えており、SDSコース設置に伴い、より多くの社会学部生がソーシャルデータサイエンスに接する機会を提供するため、SDS系講義科目、演習科目も設置するよう計画しています。これらの科目を履修することで、情報処理推進機構ITパスポート試験、データサイエンティスト協会データサイエンス検定リテラシーレベル、日本ディープラーニング協会G(ジェネラリスト)検定などに対応した知識、スキルの基礎も修得してもらえるようにする見込みです。
これから、準備が進捗するに伴い、このブログでも、情報提供をしたいと思っています。私たちのこれからを積極的に考え、行動したい学生を一人でも多く輩出することができればと考えていますので、立教大学社会学部SDSコースに関心を持っていただければ幸いです(お知り合いに、関心を持ちそうな方がいらっしゃれば、ご案内をよろしくお願いいたします)。
拙文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事は、日本の高等教育に関心のある方を念頭にしたものです。予めご承知おきください。

筆者は、2022年度、23年度と、古巣である駒場キャンパスで、学部後期学生と大学院生向けの「ハイブリッド・エスノグラフィー」に関する演習を担当しました。ソーシャルデータが爆発する中で、文化人類学もまた、オンラインフィールドワークやログデータを用いたヴァーチュアル参与観察など、新たな可能性が広がっており、拙著をもとに、演習を行いました(ちなみに、αシノドスシノドスオープンキャンパス「ネットワーク社会の文化人類学」を寄稿しております。購読者の方はご高覧ください)。
履修者は熱心で、短期(7週間)の演習にもかかわらず、レポートも充実したもので、担当者として嬉しく思いました。他方、11月末から1月にかけて、毎週駒場キャンパスに通ったのですが、駒場の設備の老朽化には、心が痛みました。
駒場キャンパスは、銀杏並木が素晴らしいのですが、清掃費用をあまりかけられないのか、11月末は、並木には、雨風に晒された銀杏の葉が吹きさらしの状態で、風情を感じるどころではなくなっていました。演習を行った建物は、筆者自身が学生のとき(40年ほど前になります)にはすでに建っていたもので、比較的きれいに使われてはいますが、やはり時の経過は否めません。
演習室の机、椅子、プロジェクターは、筆者が教員として在職中(2006~2015)に、2013年頃選定を担当し、納入されたものが、そのまま使われていました。机、椅子はよいとして、プロジェクターはさすがにくたびれていて、演習初日に投影画像がうまく映らなくなりました。そこで、代替プロジェクターをキャンパス全体の教務事務から貸し出してもらったのですが、HDMI端子がなく、D-sub端子でFHD対応のみの小型プロジェクタでした(これも10年以上前に思えました)。
2018年の投稿で、「国立大学が直面している大きな課題の一つは、教育環境の整備だと思います。国立系は概して、施設・設備・システムについて、維持管理、修繕、更新、リノベーションの費用があまり考慮されません。そこで、新規に施設・設備・システムができたときはよいのですが、アップデートや修繕がままならず、新たに予算がつかないと徐々に時代遅れとなっていきます。」「昭和であれば、「ボロは着てても心は錦」でよかったかもしれません。しかし、すでに2020年代になろうとしている時期、国立がグローバルに戦うには、教育設備も先端的であるべきだという認識が醸成されることを私個人としては切望しています。」と書きました。
今回の出来事は、先の投稿から5年以上経過し、事態はよくなるどころか、悪化しているとの認識を強くするものでした。実は、現在の東大駒場キャンパスHPのデザインは、筆者が学部長補佐として関わったものです。archive.orgというグローバルにウェブページを保存するプロジェクトで、過去に遡ると、2012年4月にリニューアルしていることが分かります(例えば、保存されている2012年4月19日現在のサイトをご覧ください)。
筆者は、2010年度・11年度と教養学部学部長補佐を務めていて、HPリニューアル事業を担当しました。業者選定から関わり、サイトの構造、使い勝手について、業者の方とやりとりして、当時としてはなるべく使いやすいものをと努めていました。広報担当事務の方々、ウェブサイト構築業者の方々はいずれも熱心で、大変お世話になったことを思い出します。修正はもちろん行われていますが、12年以上経た今でも、基本的に同じサイト構造というのは、担当した筆者からすると嬉しくもある反面、国立大学が置かれている状況を如実に示すものでもあるように感じます。
先日、慶應義塾大学塾長が国立大学学費を年150万円にするよう提言したことや、東大が学費引き上げを検討していることが報道されました。教育に関わっている立場からは、まず大きな前提として、教育・学習は大きな付加価値を生み出すものであり、そこに価値を認めて投資ができない社会は、衰退せざるをえないと危惧していることを、拙文の読者にお伝えしたいと思います。
筆者は、文化人類学が学術的出自ですが、偶然が重なり、「サイバースペース」というヒトにとって未開拓の時空間をフィールドとする人類学に取り組み、社会科学系の研究者として、「インターネット研究」にその黎明期である1990年代から関わることとなりました。20世紀から2020年代までのネットワーク社会の進展を、技術面から捉えると、デジタル+ネットワーク+モバイル+AIという4つの技術が累積的に発展することで、私たちの生活空間に大きな変革をもたらしてきたと考えることができます。そうした累積的変化と社会への普及、私たちの活動・生活空間・様式の変容を、筆者は、リアルタイムで研究者として観察、経験し、調査分析、理解しようとしてきました。
すると、グローバル社会のここ20年程の変容には、改めて驚かざるを得ません。学術的活動の観点からみると、電子ジャーナルなどの学術出版物は、驚異的スピードで増大しています。図1は、全米科学財団(NSF)の統計資料です。Scopusデータベースにおける科学・工学分野での国際会議発表・査読論文の件数を示していますが、2000年に110万件程度だったものが、2020年には290万件と、年率5%程度ずつ増大してきました。ところが、上記資料によると、2010年から2020年の10年間での、学術発表・論文数上位15カ国を比較すると、年平均増加率上位5カ国は、ロシア(10%)、イラン(9%)、インド(9%)、中国(8%)、ブラジル(5%)に対して、下位5カ国は、米英独(1%)、仏(-0.3%)、日本(-1%)と日本が最下位となっていました。

図1 科学・工学分野国際学会発表・査読論文件数の推移(出展:https://ncses.nsf.gov/pubs/nsb20214/publication-output-by-country-region-or-economy-and-scientific-field

グローバルに学術研究が拡大し、電子ジャーナルなどのデータベース購読料は一層高額となります。さらに、LMS(学習管理システム)はもとより、生成AIも含め、クラウドベースのデータ分析、コンピューティングサービスは、筆者のような文系研究者でも必須となりつつあり、多種多様なサービスを大学は年間契約により導入しなければなりません。つまり、学術教育研究への投資は、グローバルの成長に合わせて(あるいはそれ以上に)拡充する必要があるにも関わらず、周知のように、日本社会では、定常的予算(運営交付金)は減少を続け、競争的資金も、例えば、大学研究者にとって重要な役割を果たす「科研費」は、2010年度2000億円から2020年度2400億円と10年間でわずか2割(年率2%に満たない)増加に留まり、その結果、アウトプットは年々少なくなっているのです。ここに近年の円安が加わり、日本の学術研究が一層大きな打撃を受けつつあります。
拙文の読者であればご存知の方も多いと思いますが、アメリカの著名な高等教育機関は巨額の基金を有しています。例えば、ハーバードの2024年現在での基金は500億ドル(8兆円近く)、年間運用益はわずか3%の利回り(年によって、2割近くからマイナスまで変動は大きい)ですが、15億ドルと、日本の科研費全体に匹敵します。また、英米圏の大学授業料が高騰しており、有名私学は文系学部でも、年間授業料は6万ドル(日本円で1000万円近く)前後です。
筆者は、1990年にニューヨーク州立大バッファロー校大学院に留学しました。正確な数字を覚えてはいないのですが、当時の授業料は、年間5000ドル程度(州外生)だったと思います。TA・RAのアシスタントシップをもらっていたので、自己負担は大きくありませんでしたが、州立の場合、州内学生に比べ、州外学生は高くなります。それが、2024年では、州外生の年間授業料が約2万ドルとなっています。2024年、「34年ぶりの円安水準」と何度も報道されましたが、筆者が留学した年がまさに、その34年前で、平均すると1ドル150円程度だった記憶があります。34年を経て、ドル円はほぼ同じ水準で、ドル建て授業料は4倍になっています。
他方、日本の大学の授業料をみると、1990年、国立大学34万円(+入学金20万円)、私立大学61.5万円(+入学金26.6万円)だったものが、2023年、国立大学53.6万円(+入学金28万円)、私立大学96万円(+入学金26万円)と、30年以上経過しても1.5倍程度です。以前投稿しましたように、立教大学大学院社会学研究科は、志望者が増えており、2023年9月・2024年2月修士入試は、受験者数が合計200名を越えました(定員20人)。留学生の方が7割以上いるのですが、それは、海外からみたとき、日本は治安がよく、生活しやすく、高等教育の質に比べ、安価であることが寄与していると思います。
これは日本全体に言えることだと思いますが、日本社会は自分たちを安く見積もりすぎているように思います。私たちは、価格が上がることに抵抗感を持ちますが、それは、働く人の所得を増やす契機となり、所得が増えることで、消費を拡大することへもつながります。つまり、所得<=>消費の好循環をいかに作り出すかが、大きな課題であり、高等教育を中核とする学術教育研究についても同様です。先の国立大学授業料を巡る報道でも、グローバル社会における学術教育研究という視点で、日本社会の現状とこれからを考えることが不可欠だと思いますが、そうした論点が乏しいと感じ、この拙文を投稿する次第です。
高等教育を受ける教育機会は、個々人の家庭の経済状況に制約されるのではなく、知識に接し、修得する意欲ある個人すべてに開かれるべきものと考えます。また、高等教育の場合、教育を受ける個人の能力を高めるとともに、その個人が社会で活動し、付加価値を生み出すことで、社会総体の富の増大に寄与することになります。したがって、上記のようなグローバル社会の変化を踏まえ、学術教育活動と人材育成に、社会として相応の規模の投資を行うことへの社会的合意が形成されるよう、一大学教員としても、積極的に教育研究に取り組み、その成果を社会に還元できるように努めなければと思います。

今回も、拙文に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

※この記事は、授業で接している学生の皆さんを対象としたものです。予めご承知おきください。

深層学習の父であるGeoffrey Hinton博士(2024年10月追記:2024年ノーベル物理学賞を受賞されましたね)は、長年研究・教育に携わり、深層学習のブレイクスルーにより、グローバル社会でのAI中心の一つとすることに多大な貢献をしたトロント大学で、2023年10月、「デジタル知性は、生物的知性に取って代わるのか?(Will Digital Intelligence Replace Biological Intelligence?)」と題する講演を行いました。ほぼ同じ内容の講演を、2024年2月Oxford大学でも行っていますが、質疑を含め、トロント大講演の方が情報量が多いと思います。
この講演は、日本の多くの若者、大学生に知ってもらいたいと思い、ここで紹介する次第です。なお、ご存知の方も多いと思いますが、Google ChromeApple Safariブラウザへの機能拡張に、”YouTube Summary with ChatGPT & Claude” があり、例えば、上記講演も、英文トランスクリプトを生成し、その要約や翻訳を生成AIに行わせることができます。
Hinton博士は、LLM(大規模言語モデル)を実現した深層学習モデルの言語処理(語概念と統辞(文法)の修得)は、ヒトの言語処理の仕組みと等価であり、語と文を理解していると考えられると述べ、デジタル知性はすでに生物的知性(我々人類)を乗り越えつつあると議論しています。小職は、理論的には、認知人類学を研究者としての基点としており、認知科学、認知意味論、コンピュータサイエンス分野の発展に関心をもってきた立場から、Hinton博士の見解に同意する面が多くあります。
デジタル知性は、いまだ、言語、画像、動作など、領域が限られています(但し、それぞれの領域で、すでにヒトを越える能力を身につけている)が、これらの領域を横断して(マルチモーダルな)経験、学習ができるようになれば、ヒトをはるかに凌駕する超知性(super intelligence)へと進化し、ヒトを相手に顔色を伺いながら、会話を展開し、ヒトを説得することなどいともたやすいでしょう。つまり、現生人類は、人類史上初めて、自分たちよりも高い知性に遭遇しつつあるのです。

とくに、ヒトは、知識・情報の伝達を、個体間で直接転移することはできず、別個体は、教師となる個体からの教示を自らのシステムに改めて組み込む必要がありますが、デジタル知性は、他のデジタル知性が学んだことを直接転移し、互いにその知識を共有することが可能です。この「学習方法」の違いは、決定的になる可能性もあります。(緑字部分は、2024年10月加筆)

Hinton博士は、こうした未来像はSFではもはやなく、一つの脅威となるシナリオは、独裁者がデジタル知性を支配の道具とすることであり、さらに、「自己保存(self-preservation)」の意識を超知性が持つことで、超知性同士の競争が起きるシナリオへの懸念を表明しています。ただ、大きな課題の一つは、消費電力の問題で、ヒトは、これだけ優れたコンピューティング能力を持ちながら、その消費電力はわずかですが、現状のLLMは膨大な電力が必要です。小職が別途調べると、ヒトは、20ワット程度、1日500ワット時(Wh)(=0.5kWh(キロワット時))に対して、ChatGPT3.5は、1日あたり50万kWhと、ヒトの100万倍以上に達します(さらに、学習トレーニングには10GWh(ギガワット時)(=1000万kWh)かかったといいます)。ただ、1日に処理するプロンプトは2億以上ということで、ヒトが100万人がかりで回答すると考えると同じ程度かもしれません。
Hinton博士の講演を見ると、LLMが、私たちヒトの認知の仕組みを理解する上で、重要な役割を果たすとともに、デジタル知性を生み出し、ヒトにとって、パンドラの箱を開けることにつながる可能性も空想の世界ではないと改めて感じます。文系の学生さんたちにとっては、やや難しい面もありますが、アクセスして、理解を試みてもらえればと強く思います。例え、理解が不十分に終わったとしても、そこで議論されている、多様な論点の手がかりが、これから、10年、20年後に生きてくる可能性があるのです。
最後まで、目を通してくださり、ありがとうございました。

※この記事は、授業で接している学生の皆さんを対象としたものです。予めご承知おきください。

自民党の政治資金問題が拡大し、派閥解散が報じられた際、自民党派閥のメンバー数と「ダンバー数(Dunbar‘s number)」との関連を興味深いと感じた方も多いでしょう。霊長類は、たまたま居合わせた個体たちが群れを作るのではなく、相互に認識し、自集団(の個体)と他集団(の個体)を区別する集団を構成し、その集団内で、資源を巡り様々に競合しつつ、社会的知性(「マキャベリ的知性」(Byrne and Whiten 1989)とも呼ばれる)を駆使して、複雑な社会的関係性を織りなし生活しています。人類学者であるDunbarは、霊長類の大脳皮質(の発展)が、集団内における社会的関係性に関する認知処理能力と関連し、集団は、個体数が多い方が、捕食者への対応、他集団との競合で有利である一方、集団内競合関係と認知処理能力の制約から、一定数以上になると集団を維持することができず、分裂すると議論しました(Dunbar 1998)。

そして、Dunbarは、大脳新皮質を除いた脳容量に対する、新皮質の比率と、霊長類の様々な種における社会集団の平均個体数(3個体程度~60個体程度)とに強い相関関係があることを見出し、私たち現生人類の場合、150個体程度が、階層的組織を形成せず集団を構成できる平均個体数と推計しました。個体の観点からみると、互いに顔見知りになり、日常的に交流することで、集団を構成できる人数の上限が150人程度ということです。この150が「ダンバー数」と言われます。

自民党の派閥解消が話題となると、歴代最多の田中派が140名超だったことや、安倍派が100名を越えると分裂が危惧されていたといったことから、自民党の派閥のメンバー数は、ダンバー数制約の具体例と考えることができ、「自民党 派閥 ダンバー数」でググれば、関連する投稿が見られました。

ここで、筆者がこの記事を投稿しようと考えたのは、「ダンバー数」という言葉だけが一人歩きしており、Dunbarの議論が、「ダンバー階層(Dunbar layers)」という形で展開されていることが看過されているように感じるからです。ダンバーは、個体の対人関係ネットワークは、5人(最も親密)、15人(親しい友人)、50人(友人まで含む)、150人(知人まで含む)と、親密度により階層化される同心円で表されると議論します。ここで興味深いのは、親密度の高い階層から次の階層へと、およそ3倍の個体数に拡がることです。(なお、Dunbarは参照していないのですが、同様の同心円的対人ネットワークの概念は、社会人類学者Boissevainが1970年代にすでに定式化していたものと考えることができます(Boissevain 1974)。Boissevainの主著は邦訳もあり、現在から読んでも興味深いものです。)

ダンバー階層からみると、2023年時点での自民党各派閥は、麻生派、茂木派、岸田派、二階派がそれぞれ50前後となっており、50がまず大きな基準値であるように思われます。おそらく、権力を巡り、文字通りマキャベリ的知性を駆使した権謀術数が渦巻く集団では、100や150までメンバーが増えることは容易ではないのでしょう。その意味では、最盛期の田中派や安倍派がいかに強力かが伺えると思います。

中等教育の1クラスの人数(40~50程度)も、互いに顔見知りとなり、教員が個々を認識して対応できる閾値と考えられ、アイドル論に通じている方には、周知のことかもしれませんが、アイドルグループの「48」という数もまた、おそらく、こうしたクラスの規模感、さらに、自民党派閥の基準値と通じる部分をもつように思います。

他方、直接的に、互いに集団メンバーとして識別し、交流できる上限は150ですが、Dunbarは、ヒトの場合、言語(方言)や風習の共有や、階層的組織を形成することで、150の約3倍の500、1500、5000といった個体数も、社会集団サイズとして、機能する単位(ダンバー階層)を構成すると議論します。ちなみに、立教大学社会学部は、社会、現代文化、メディア社会の3学科あるのですが、定員は、1学年1学科170人、1学年3学科で510人となり、各学年、それぞれの学科で、なんとなく顔見知りになるようですし、立教大学11学部で1学年5000人が定員です。

ダンバー数」が広く知られていますが、「ダンバー階層」も、身の回りの様々な集団や、皆さん一人一人の対人ネットワークを考える上で有用な概念だと思います。聞いたことがなかった方にとって、参考になれば幸いです。

最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

<参照文献>

Boissevain, J. 1974, Friends of Friends: Networks, Manipulators and Coalitions. Oxford: Basil Blackwell.
Byrne R, and Whiten A. 1989 Machiavellian intelligence: social expertise and the evolution of intellect in monkeys, apes, and humans. Oxford, UK: Oxford University Press.
Dunbar, R.I.M. (1998) The social brain hypothesis. Evolutionary Anthropology, 6, 178–190.
<関連邦訳文献>
ボワセベン, J. 1986, 友達の友達: ネットワーク,操作者,コアリッション. 未来社
バーン, R., ホワイトゥン, A., 2004, マキャベリ的知性と心の理論の進化論. ナカニシヤ出版
ダンバー, R., 2011, 友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学. インターシフト

ちょうど5年前となる2018年6月のエントリーで、「「キュレーション型剽窃」の悪質さ~若手研究者研究倫理の現状~」を投稿しました。

そのエントリーのきっかけとなったのは、ある公益財団法人が主催する大学(院)生を対象とした顕彰論文事業なのですが、今年度、新たに興味深い応募論文がありました。

図1は、その論文に類似性判定ソフトをかけた結果です(文章自体はわからないような画像処理をしました)。異なる色は、異なるウェブ情報源であることを示しており、ところどころ、ハイライトされた部分の先頭で、文章のちょっと上にある濃い色の塊(実際には四角で数字が白抜きになっている)は、該当する具体的なウェブ上のページにとんで確認できるようになっています。

ご覧いただければわかるように、見事な「キュレーション」(ウェブ情報のつまみ食い)です。この論文は興味深い試みで、投稿者は、論文の3分の2ほど進めたところで、「実は、ここまでの論文は、ChatGPTに書かせてみました」とネタばらしをきちんとしてくれました。

図1 「ネタばらし」までの文章・類似性判定結果

早速、こうした論文が、顕彰論文の応募論文として投稿されるのだと、感心したのですが、ここでさらに興味深い知見が得られました。

図2は、応募者がネタばらしをした後、論文の主題について、改めて議論を展開した部分です。ネタばらし後ですから、初めは、ここから、応募者自身が、自分で考えたことを議論しているのだと思いながら読みました。しかし、類似性判定の結果をみると、図1と同様のキュレーションであることがわかりました。

図2 「ネタばらし」以降の文章・類似性判定結果

キュレーションの巧みさ(多数のウェブ情報を巧みに組み合わせている様子)から、おそらく、応募者は、ネタばらし以降も、ChatGPTの回答を貼り付けたと思われます。実際、当ブログ主自身、ChatGPTに、図2にあたる部分の主題を、うまく回答を引き出すようにたずねると、論文と同様の回答を得ることができました。

これは、応募者のブラックユーモアとも考えられますが、意図は定かではありません。ただ、自らChatGPT利用を申告してくれて、ネタばらししたあと、自分の文章のように見せていることで、自然実験となってくれています。そこで、この自然実験から分かるのは、ChatGPTを利用したか否かは、類似性判定により、かなりの精度で推定できそうだということです。

ChatGPTを学生が利用するようになり、この春学期、当ブログ主を始め、周囲の大学教員たちは、レポート課題をどうするか、頭を悩ませています。類似性判定ソフト開発会社は、AI生成の文章かどうかの判定アルゴリズムの開発と実装も積極的に取り組んでいるようです。

ただ、今回、顕彰論文への応募論文から分かったのは、ChatGPTは、ウェブ情報を大量に飲み込んで、それを組み合わせて吐き出している以上、類似性判定で、そのキュレーションする姿が露わになるのではないか、ということです。

面白いことに、実際の学生が、自分の頭で書いた文章を類似性判定すると、こんなにきれいなキュレーションにはなりえないのです。これは、大学教員にとって、朗報かもしれませんし、ヒトの言葉の紡ぎだし方は、AIの確率論的文章生成とは異なるロジックに基づいていることも示しているように思います。

大学教員の方は、是非、レポート課題については、類似性判定で、華麗にウェブ情報を掬い上げて再構成しているかどうかを、確かめてもらえればと思います。また、学生の皆さん、ChatGPTをそのまま使うと、その見事なキュレーション具合で判断されてしまう可能性が高いです。そこから、自分の頭で考え、調べて、よりよいレポートを書いてもらうことで、皆さんの思考力、文章力が高まると思います。

もっとも、これは、ChatGPT3.5の段階のことで、4.0以降、さらに進化した場合にどうなるか、自分でも試して行きたいと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。