戦いの城・山城・陣城 (original) (raw)
牧戸城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
岐阜県の北部、白川郷に近い荘川町に土塁囲の金森氏に係わる陣城があるとの情報に接し半信半疑ながら行ってきました。荘川右岸(東)の尾根のピーク(標高約830m/比高荘川水面より80m)の南西角部を利用して築かれていました。
牧戸城は、全周を2m前後の土塁とその外側の空堀に囲まれた主郭思われる郭と、その南一段低い郭と、主郭の西に馬だし郭と思われる三つの郭で。
主郭の西と南東角に平入りの虎口がありどちらも空堀を土橋で渡り南郭、馬だし郭に出るようなっていた。
南の郭は、主郭より広く低土塁に囲まれていて、主郭との間にも空堀が入り込んでいた。南東角が土塁が切れていいるところが虎口か、後世の改変か?南の斜面には外側が土塁状になっている空堀があった。
西の馬だし郭は、西に下がる斜面で西側以外に土塁が残る、南側に空堀、西側は切岸が見られが、北東角が虎口が開いているためか北側は空堀はないか痕跡程度。虎口を入ると石が積まれ左に折れるような桝形状になっているのも興味深い。
以上に様な明確な遺構が整備されて見やすく行って良かったと思いました。
牧戸城について書かれ資料はなく地元では、長専寺とい寺跡、金森氏が築いた街道監視を目的とした砦、帰雲城の内ヶ島氏の家臣で南西約300mの荘川対岸にある川尻氏の向牧戸城を、天正13年に金森氏が攻めた際の陣城(元々川尻氏の枝城を改修?)などの考えがある様ですが、私は湖北で見るような陣城の様な感じを持ちました。
主郭写真
虎口部
空堀南東部
空堀北東部
空堀北西部
南郭写真
南空堀
馬だし郭写真
虎口
- 参考文献
愛知中世城郭研究会 2011年9月 発行
愛城研報告書15号
佐伯哲也氏 飛騨牧戸城跡について
- 城名 切山城
- 所在地 石川県金沢市桐山
切山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
金沢市の北東部、森下川が流れる谷の北側丘陵稜線のピーク(標高約139m/比高 高坂町より約110m)に切山城はあります。
天正12年の佐々成政の加賀侵攻の際に使われた加越国境城塞群は、佐々氏側の一乗寺城、松根城、荒山城等に対して前田氏側の朝日山城、切山城、高峠城等です。切山城は小原越(小原道)で松根城と対峙(直線距離で約4km)しています。
切山城は小原道の北に接していて、最も高いところが土塁に囲まれ主郭と思われ、その東西の虎口の外に張り出しがあり虎口防御の馬出と思われます。
主郭外側は一段低く北が広くなっている削平地があり、東馬の南で通行を遮断するように竪堀が入っていた。西の先端は南北に竪堀があり虎口と思う。さらにその西に尾根を切断するように堀切がある。
東の離れたところに竪堀があるが、道を超えて南のピークまで続ているようだが明確でなかった。
14年前に初めて訪れた切山城は、藪状態で大体の縄張は確認できたが未確認の部分も残った。近年整備が進められ見やすく、前は林道を西から入ったが今回は東から入ったが距離も短く行きやすかった。
主郭写真
同一場所2011年4月撮影
東虎口
東馬出写真
南竪堀
西馬出写真
北郭写真
西虎口写真
西堀切写真
東竪堀写真
- 参考文献
桂 書房 2017年3月30日 発行
佐伯哲也氏著 加賀中世城郭図面集
北陸城郭研究会 平成16年7月 発行
北陸の中世城郭 14号
佐伯 哲也氏
天正12・13年における佐々・前田両氏の抗争について
金沢市ホームページ内 歴史遺産保存の取り組み
(国指定)加越国境城跡群及び道
嵩山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000に
web等高線メーカーで5m等高線を追加)
雨師城縄張図(国土地理院の電子地形図25000に
web等高線メーカーで5m等高線を追加)
北に初瀬川(大和川)南に笠間川が流れる谷に挟まれた桜井市初瀬の岳山(高山・鎌倉岳・城山 標高525.3m/比高約190m)を主峰とする稜線上に二つの城があります。
岳山の山頂に嵩山城、東端近くの雨師集落背後(北)に雨師城があり、いずれも短郭の周囲を空堀が囲む縄張です。なお南西方向約2.5kmの竜谷城(2015年4月5日ブログ)があります。
嵩山城は、三角点のある尾根を空堀で囲み外側は土塁状になっていた。土塁は数か所竪堀のような形で切断されているが、これは横堀内に水が溜まるのを防ぐ目的のものか。東側にある中継局の間は北から谷が回り込んでいるが、城との遮断が充分でないように思えるので何かの形で利用されたのか?
雨師城は、雨師集落背後の尾根のピーク(標高約445m/比高約120m)にあり全周を空堀で囲まれ、内側の東に明確な土塁があり北と南にも痕跡程度のものが見られます。全長30mに満たない規模で周辺にある、五津城、平間城、内原城等の中でもきわめて小さいものです。
嵩山城写真
雨師城写真
- 参考文献
奈良県中近世城館調査報告書 第2分冊
上赤坂城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
入り口の駐車場が使えなくなって以降行っていませんが、以前の図面に不備があつたので修正しました。以前城の駐車場で会った方は城を経由して金剛山へ行かれる言われていましたが、このことを踏まえるとこの城はこのルートを警戒、監視を目的にしたものか?
ツイッターで上赤坂城が伐採されたとする新聞記事が流れていたので行ってきました。
整備がされたと思ったが実際は、二の丸(北のピークを二の丸、西のピークを本丸とするのは城郭大系に従います)の一部で、植林が目的でないかと思いました。
現状は、2008年(写真は殆ど2008年ものです)と比べると、樹木が大きくなり見通しが悪くなり、本丸は藪がきつくなっていました。
上赤坂城は千早赤阪村中心より南へ約2km、金剛山の尾根の標高344.2m(比高約220m/赤阪村中心部)ピークに位置します。
上赤坂城で注目の箇所は、主郭の南から西にかけて掘られた空堀で、幅4m、深さ最大で3mの規模で約60m続き直角に東に折れて北の先端の郭の下まで続いていました。北端の郭の先は堀切であったように見えましたが確認できていません。
二の丸の東斜面は急傾斜にもかからず、上下の2段の空堀が見られ、上段は明確ではありませんが私は空堀と見ました。北の尾根は規模の大きい2重の堀切で遮断されています。
以上の様な上赤阪城の縄張りは、南北朝期の楠氏に関連したものでは無いと私は思います。
本丸北先端写真
本丸南空堀写真
二の丸東下空堀写真
二の丸東上空堀写真
二の丸北堀切
二の丸先端竪堀写真
遠景写真
- 参考文献
株式会社 新人人物往来社 昭和56年3月15日 発行
日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫
戎光祥出版株式会社 2016年3月1日 発行
城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅲ
伊賀市の東部、木津川の源流近くの谷にある妙楽地集落の対岸(東)の山(標高約348m/比高約70m)の山頂部が妙楽寺城です。
妙楽寺城の縄張は伊賀ではあまり見ない形で、山頂部を周囲を土塁状に残して掘りこんでいますが、少し不思議なとことは北側に約15m平坦地形を残しています。土塁の外側は3m程度切り落として切岸とし、その根元は空堀が巡っていたと思われ南側と北側の一部が明確に残っていました。
最大の特徴は、西側の土塁の中央が5m四方位張り出していて櫓台ではないかと思い、位置的に麓の谷筋の道を監視しているのではないでしょうか。
麓の道は、伊賀街道が長野峠を下ったところから分岐して坂下の鬼瘤越を経由して妙楽地を経由してやがて丸山城に至るルートです。天正7年の北畠(織田)信雄の伊賀侵攻の際に信雄の重臣である柘植三郎左衛門が討ち死にしたのが鬼瘤越ですが、そのへんに何か関係あるのかもしれない妙楽寺城です。
なお北西麓には伊賀の典型的な方形居館である藪内氏城がある。
郭内部写真
、
櫓台写真
空堀・切岸写真
遠望写真
- 参考文献
三重の中世城館 開発集中地域中世城館分布調査報告書
伊賀中世城館調査会編集・発行 平成9年3月31日 発行
伊賀の中世城館
戎光祥出版株式会社 2018年1月5日 発行
高橋成計氏著
図説 日本の城シリーズ6 織豊系陣城辞典
合同会社アメージング出版 2021年4月26日 発行
高橋成計氏著
織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館
三瀬砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
大台町中心部から西に2.0kmで宮川に大谷川が合流する左岸に三瀬砦があります。
三瀬砦の北から西には直下の細流とその西の大谷川の谷が堀のようになっています。東側は開墾により平地が続きますが三重県教育委員会の資料では堀があったようです。
三瀬砦は、東西南北約40.0m強で最大高さ4.0mの土塁で囲まれた東郭、西に細長い郭が続きますがこちらの土塁は約2.0mで東と比べ低くなっています。現在東郭の南東角に入り口が開いていますが、その南の土塁上面が広くなっているので櫓門の様な虎口かも?西郭の西端も開いていてその北側の土塁が折れているのでこちらも虎口のように私は思います。
三瀬砦の北西1.0kmには大河内城落城後に北畠具教が移った三瀬館があるが何か関係あるのか?すぐ北を熊野街道が通っているので街道監視または宮川の水運監視が目的があったのか、単純に方形居館ではなかったように私は思います。
東郭内部写真
西より
東より
東郭北部土塁写真
東郭北東角土塁写真
東郭虎口写真
東郭虎口南土塁写真
東郭東側土塁写真
西郭写真
遠望写真
- 参考文献
伊藤徳也氏著 2022年2月8日発行
再発見 奥伊勢の城
2024年に堺目(境目)砦の樹木が伐採されました。幸なことに重機等は入っておらず(近くまでは来ていますが)破壊は見られませんでした。ただ今後は藪化は逆らえないように思えます。
樹木がなくなった現在の眺望(標高約550m/比高国道より80m・白山町より480m)は素晴らしく、特に白山方面はかなり遠くまで見渡すことが可能で砦の立地が納得できます。
伊勢と伊賀の境である青山峠には現在国道165号線が通っています。
国道がトンネルで通っている尾根のやや東の標高550mピークに堺目砦はあります。
国道から南方に分岐する道から、林道が城の直下まで入っていますが林道は、
現在2〜3か所崩落しているので歩くしかありません.
堺目砦は30mに満たない単郭の城ですが、全周に土塁が見られ北側東寄りに虎口が開いています。
虎口付近の土塁は厚くなり外側に張り出しています、櫓台かもしれません。
東西の尾根上は空堀があります。
北畠(織田)氏の伊賀進攻の中継点ではないかと私は考えています。
2024年の伐採後の状況
城域東より
城域西より
虎口部
虎口部外側
虎口部土塁
北側張り出し部
西堀切
東堀切
北側県道より遠望
- 参考文献
三重県教育委員会編 1976年 発行
三重県埋蔵文化財調査報告書30
三重の中世城館 開発集中地域中世城館分布調査報告者
伊賀中世城館調査会編集・発行 平成9年3月31日発行
伊賀の中世城館
戎光祥出版株式会社 2018年1月5日 発行
高橋成計氏著
図説 日本の城シリーズ6 織豊系陣城辞典
合同会社アメージング出版 2021年4月26日 発行
高橋成計氏著
織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館