戦いの城・山城・陣城 (original) (raw)
伊賀市の東部、木津川の源流近くの谷にある妙楽地集落の対岸(東)の山(標高約348m/比高約70m)の山頂部が妙楽寺城です。
妙楽寺城の縄張は伊賀ではあまり見ない形で、山頂部を周囲を土塁状に残して掘りこんでいますが、少し不思議なとことは北側に約15m平坦地形を残しています。土塁の外側は3m程度切り落として切岸とし、その根元は空堀が巡っていたと思われ南側と北側の一部が明確に残っていました。
最大の特徴は、西側の土塁の中央が5m四方位張り出していて櫓台ではないかと思い、位置的に麓の谷筋の道を監視しているのではないでしょうか。
麓の道は、伊賀街道が長野峠を下ったところから分岐して坂下の鬼瘤越を経由して妙楽地を経由してやがて丸山城に至るルートです。天正7年の北畠(織田)信雄の伊賀侵攻の際に信雄の重臣である柘植三郎左衛門が討ち死にしたのが鬼瘤越ですが、そのへんに何か関係あるのかもしれない妙楽寺城です。
なお南西麓には伊賀の典型的な方形居館である藪内氏城がある。
郭内部写真
、
櫓台写真
空堀・切岸写真
遠望写真
- 参考文献
三重の中世城館 開発集中地域中世城館分布調査報告書
伊賀中世城館調査会編集・発行 平成9年3月31日 発行
伊賀の中世城館
戎光祥出版株式会社 2018年1月5日 発行
高橋成計氏著
図説 日本の城シリーズ6 織豊系陣城辞典
合同会社アメージング出版 2021年4月26日 発行
高橋成計氏著
織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館
三瀬砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
大台町中心部から西に2.0kmで宮川に大谷川が合流する左岸に三瀬砦があります。
三瀬砦の北から西には直下の細流とその西の大谷川の谷が堀のようになっています。東側は開墾により平地が続きますが三重県教育委員会の資料では堀があったようです。
三瀬砦は、東西南北約40.0m強で最大高さ4.0mの土塁で囲まれた東郭、西に細長い郭が続きますがこちらの土塁は約2.0mで東と比べ低くなっています。現在東郭の南東角に入り口が開いていますが、その南の土塁上面が広くなっているので櫓門の様な虎口かも?西郭の西端も開いていてその北側の土塁が折れているのでこちらも虎口のように私は思います。
三瀬砦の北西1.0kmには大河内城落城後に北畠具教が移った三瀬館があるが何か関係あるのか?すぐ北を熊野街道が通っているので街道監視または宮川の水運監視が目的があったのか、単純に方形居館ではなかったように私は思います。
東郭内部写真
西より
東より
東郭北部土塁写真
東郭北東角土塁写真
東郭虎口写真
東郭虎口南土塁写真
東郭東側土塁写真
西郭写真
遠望写真
- 参考文献
伊藤徳也氏著 2022年2月8日発行
再発見 奥伊勢の城
2024年に堺目(境目)砦の樹木が伐採されました。幸なことに重機等は入っておらず(近くまでは来ていますが)破壊は見られませんでした。ただ今後は藪化は逆らえないように思えます。
樹木がなくなった現在の眺望(標高約550m/比高国道より80m・白山町より480m)は素晴らしく、特に白山方面はかなり遠くまで見渡すことが可能で砦の立地が納得できます。
伊勢と伊賀の境である青山峠には現在国道165号線が通っています。
国道がトンネルで通っている尾根のやや東の標高550mピークに堺目砦はあります。
国道から南方に分岐する道から、林道が城の直下まで入っていますが林道は、
現在2〜3か所崩落しているので歩くしかありません.
堺目砦は30mに満たない単郭の城ですが、全周に土塁が見られ北側東寄りに虎口が開いています。
虎口付近の土塁は厚くなり外側に張り出しています、櫓台かもしれません。
東西の尾根上は空堀があります。
北畠(織田)氏の伊賀進攻の中継点ではないかと私は考えています。
2024年の伐採後の状況
城域東より
城域西より
虎口部
虎口部外側
虎口部土塁
北側張り出し部
西堀切
東堀切
北側県道より遠望
- 参考文献
三重県教育委員会編 1976年 発行
三重県埋蔵文化財調査報告書30
三重の中世城館 開発集中地域中世城館分布調査報告者
伊賀中世城館調査会編集・発行 平成9年3月31日発行
伊賀の中世城館
戎光祥出版株式会社 2018年1月5日 発行
高橋成計氏著
図説 日本の城シリーズ6 織豊系陣城辞典
合同会社アメージング出版 2021年4月26日 発行
高橋成計氏著
織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館
- 城名 楢原(中)城
- 所在地 奈良県御所市大字楢原
楢原(中)城縄張図(国土地理の電子地形図25000)
楢原城全図
奥城主郭から北東方向に約200m、約50m下がった尾根が中城です。ピーク部は奥城と同じく狭小の郭で櫓台の様な機能があるのかも?背後は三重の堀切で尾根を遮断。
ピークの郭の下(東)に4段の郭が続くが郭の南側に土塁が見られ、外側の南斜面には竪堀列(畝堀)、郭の北側は東の郭に続く道がありその北側斜面にも竪堀列(畝堀)が見られる。
東に約80m離れて堀切で分けられた3段の郭があり、西の郭北側には高い土塁がある、東端の郭の下(東)には土塁による横堀がある。
東の郭の谷をはさんで南の尾根にも削平地があり郭と思われる、東の郭の先(東)には面積の大きな削平地が続きます、ここは前城とされているが大系には「左音寺跡」と呼ばれていることが記載されている、現地を歩く限り私には城郭遺構とは思えなく図面にはしていない、奥、中城とも斜面に竪堀を入れ、堀切で尾根筋を遮断して防御しているが前城では見られない、寺跡なのか後世の開墾などの改変の跡なのか?
1Km南に吐田城(2016年2月19日ブログ)があるが、楢原氏と吐田氏の間には争いがあったようだが吐田城も竪堀(畝堀)を多用し背後(西)の尾根を巨大な堀切で分断している、この方面からの何か脅威を感じていたのだろうか?
2段目郭写真
土塁
西堀切写真
南斜面竪堀写真
北斜面竪堀写真
東郭写真
土塁
堀切、先端郭
竪堀
- 参考文献
戎光祥出版株式会社 2014年8月8日 発行
城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅰ
戎光祥出版株式会社 2022年12月8日 発行
図説 日本の城郭シリーズ17 奈良中世城郭辞典
株式会社 新人物往来社 昭和55年8月15日 発行
日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山
浅堀木城概念図(国土地理院の電子地形図25000)
松阪市の東部、伊勢街道が櫛田川を渡るところの南にある低丘陵地地帯の西端の標高40m(比高30m)の丘が浅堀木城がです。
ピークが東西2か所あり鞍部から南に谷状になっていますが土取りの跡か?、ここから東にかけて等高線の30mに沿って(現在の丘の麓から高さ10m前後)約300mにかけて横堀状の地形がみられ、深さ最大1.0mで殆どのところ0.5m前後で道の様に見えます。
この掘?から上に向かいましたが城に関する様な地形は見当たらず、後世の開墾があったとしても郭などの削平地等一切見ることができず不思議な感がします。
浅堀木城について調べましたが分かることが少なく、唯一「徳和住民協議会News VOL.6 平成27年5月20日発行」によると上川町葛岡に城があり堀の跡が残っていて、敵が攻めてきて朝亡んだので「あさぼろけ」との伝承が残り、城は離れた大聖寺という地名にのところにあったとの古老の伝えがあったようです。山を開墾したときに土器が出土したとも(かんべ民俗誌)書かれていました。
広島県にも同じような城、世羅町の「堀の岡城」(2023年1月9日ブログ)があります。こちらのほうも頂上部分から横堀までの間の斜面には城に関するような遺構は見られません、堀の岡城の場合尾根のつながるところは明確に横堀でそれ以外のところでも切岸状になって一周して残っており、部分的に外側に土塁が見られます。
横堀?写真
遠望写真
- 参考文献
伊藤 徳也氏著 2022年2月8日発行
再発見 奥伊勢の城
松阪山城会 令和元年12月1日 発行
松阪の城50選
- 城名 楢原(奥)城
- 所在地 奈良県御所市大字楢原
楢原(奥)城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
葛城山の東に向かって下る尾根の麓にある九品寺から谷筋を進み、北の尾根にあがると大きな削平地が数段あらわれる、これが前城とされている、さらに進むと中城に至り、中城東端の三重堀切の背後で10m下るとその西に約50mの斜面(切岸?)があるこの上(標高約380m/比高約280m)が今回の楢原(奥)城です。
平成の初め頃と記憶しているが、台風が奈良盆地を通って盆地西側の特に東斜面で倒木が激しく、幾つかの城が歩くことも困難な状況になり、楢原城も元々藪山であったうえに倒木で最近まで行く気が起こらなく数年過ぎました。(金剛・葛城山系の北端にある万歳山城は特にひどく、以前は体系の縄張図の遺構を確認できましたが現状は入ることも困難な藪になっています)
尾根のピーク部に、比較的い大きな削平の良い郭が5ヵ所と東に伸びる尾根上に数段の郭があり、西端の最も高いところが10m四方に満たない小郭となっていて櫓台の様な要素があるのか?
葛城山に続く西の尾根の鞍部は堀切、竪堀で厳重に遮断しているが何の脅威があるのだろうか。
北の30m位下がった切岸の根元の緩斜面には、竪堀列(畝堀)がありその上端部は空堀状となっており西側は明確に残っていた。この竪堀列は中城の南の谷を通る道がこの下に通じているのでそれを警戒する目的のものか。
全体的に藪のため良い写真がありません。
郭(中段部)写真
西堀切写真
北斜面竪堀群写真
横堀部
- 参考文献
戎光祥出版株式会社 2014年8月8日 発行
城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅰ
株式会社 新人物往来社 昭和55年8月15日 発行
日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山
- 名称 万足台の猪垣
- 所在地 愛知県岡崎市中金町
南端部写真
岡崎市北部で新城市との境近く(ちなみに古宮城まで直線距離で約8km、ただし200m強の厳しい峠を越えますが)男川の左岸にある40mの低丘陵の西麓に高さ1.0~2.0mの石垣が南北約600mにわたり保存整備されていた。
石垣は、斜面の裾に幅2m前後の通路状(熊野の高津気のシシ垣も同様)を作り、その外側に幅約1mで薄く割った片麻岩を丁寧に積まれていた、圧巻なのは南端部で丸太を組み合わせ上から土を盛った土塁(と言ってどうか?)の上に築かれた鉢巻状の石垣で城の石垣に通じるところがあるのかも。
薄く割った石垣で思い出すのは、真田の松尾山(古)城ですがあちらは片麻岩ではなかった(火成岩の一種?)記憶があります。
南部写真
中央部写真
北部写真
遠景写真
- 参考資料