11. 追悼 西田敏行 (original) (raw)
本日(2024年10月17日)、職場の休み時間に家内から知らせがあって、俳優の西田敏行氏(1947-2014)の訃報を知った。10月8日の『劇場版ドクターX」の完成報告会見にも出席していたそうで、まだ76歳だったとのこと。親戚でも知り合いでもないが、少しくショックを受けた。
亡くなって何時間も経っていないのに、浅田美代子、石田えり、岸本加世子、北野武、堺正章、佐藤浩市、柴俊夫、武田鉄矢、倍賞千恵子、米倉涼子といった人々が次々と追悼コメントを出したが、帰りの電車の中でそれを読んで私も涙していた。
このブログの開設時に記したように、私の歴史好きは西田が豊臣秀吉を演じた大河ドラマの『おんな太閤記』(1983)に由来する。当時、秀吉がねね(北政所)(佐久間良子)を呼ぶ「おかか!」は流行語になった。大河ドラマの常連は主役、脇役を含め、石坂浩二、江守徹、三田佳子など数多くの俳優が挙げられるだろうが、西田は主役も脇役も実に多くのシリーズに登場している。思い付くだけでも、上記秀吉の他、『翔ぶが如く』の西郷隆盛(1990)、『八代将軍吉宗』の徳川吉宗(1995)、『葵 徳川三代』の徳川秀忠(2000)、最近では『鎌倉殿の13人』の後白河法皇(2022)など出演回数は最多ではないだろうか。
徳川家の歴史が好きな私にとって、『八代将軍吉宗』のジェームズ三木(1935-)の脚本は実に感心し、おもしろかった作品だが、西田の吉宗の起用が大きい。『八代将軍吉宗』の5年後、同じくジェームズ三木の脚本による『葵 徳川三代』も名作だった。前半は津川雅彦(1940-2018)の徳川家康が主役だが、後半の主役でもある西田の徳川秀忠とのコンビがあってこその名作であった。
家康、秀忠、家光を比べ、秀忠は初代家康と三代家光を繋ぐただの中継ぎ将軍と見られることが多いであろうが、天下を統一した家康の後、家康と同輩の戦国大名が数多く居残る中、厳しい状況を舵取りした秀忠の力量はもっと評価されて然るべきである。我々が江戸幕府初期の政策ですぐ思い浮かぶ武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定、弟松平忠輝の改易、福島正則の改易などの厳しい政策は実は秀忠の手によるものである。西田はその秀忠と「幕府中興の英主」である吉宗を見事に演じていた。*1
私が初めて西田を見たのは名作『西遊記』(1978-1979)の猪八戒であろうと思う。*2上岡龍太郎の後を受け、『探偵』の涙脆い第2代局長も務めた(2001-2019)。
西田は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988-2009)の浜ちゃん、山田洋次監督の『学校』(1993)の黒井先生を含め、コミカルな役、涙脆い役ばかりが思い浮かぶかもしれないが、*3映画『植村直己物語』(1986)の植村直己、高校の文化鑑賞会で文化会館の大画面で観た井上靖原作『敦煌』(1988)の朱王礼、大河ドラマ『武田信玄』(1988)の山本勘助など、実にシリアスな役も演じていた。桶狭間の危機が迫っていることを今川義元(中村勘九郎、後の中村勘三郎)に暗に伝えるものの、「その方も苦労症になったの」と流され、義元が見えない場所で「今川義元様、さらばでござりまする」と辞去を述べる。
『池中玄太80キロ』の主題歌『もしもピアノが弾けたなら』(1981)も心に残る。*4歌は盛り上がりの前を歌うことが難しい。『釣りバカ日誌』第1作(1988)で、スーさん(鈴木一之助)(三國連太郎)に、釣りしか取り柄がない浜崎伝助(西田敏行)とどうして結婚したのかを尋ねられた妻のみち子(石田えり)が、「ぼくはあなたを幸せにする自信はありません。しかし、ぼくが幸せになる自信は絶対あるって」とプロポーズされたことを笑顔で答える。
第1作 釣りバカ日誌 | 松竹映画『釣りバカ日誌』公式サイト
このセリフが空々しくなく、また、浜ちゃんが自分勝手な男に映らないのはこの映画全編を通しての西田の演技ゆえだと思う。*5
我々を小さい頃から楽しませてくれた西田敏行さんのご冥福を心からお祈りしたい。