やたらと目が合うマジメ君 (original) (raw)

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■学パロ

■長編

Act.01 やたらと睨むマジメ君

いつもは閑散としている廊下に、今日はたくさんの生徒たちが押し寄せている。
一同の視線が向かっている先は、学校行事や地域のニュースが張り出されている掲示板。
普段は誰も目に留めないはずのこの場所に人が群がっているのは、今年度最後の期末試験の結果が張り出されているからだ。
うちの学校はそれなりの進学校で生徒数も多い。
そんな中で、成績上位50人分の名前だけが掲示板に羅列されている。
その光景を他の生徒たちに紛れながらアタシもぼうっと眺めていた。

いちばん右側に張り出されている紙は学年順位。
全教科の総合得点を合算した結果、上位50人の名前が上から順に並んでいる。
その横には教科別の成績が貼り出されていた。
現代文、数学、英語、政治経済、世界史、日本史、化学、物理、生物といった主要な教科の順位がズラッと並んでいる。

とはいえ、教科別の順位に注目している生徒はあまりいない。
皆が気にしているのは、専ら全体の成績である学年順位だろう。
かく言うアタシも、教科ごとの成績はあまり気にしていなかった。

学年順位表に目を凝らすと、18位の位置に自分の名前を見つけた。
前回とほとんど順位は変わらない。まぁまぁ上々の結果だろう。

アタシは意外に思われることが多いが、それなりに成績はいい方だった。
多分地頭がいいとかそういうことじゃなく、勉強に対する要領がいいだけ。
成績が良くて不都合なことはほとんどない。
周囲からは尊敬のまなざしで見られるし、教師からの覚えも良くなる。
将来の進学先にも困らないだろう。
けれど、アタシには1つだけ成績が良くなることで生じる不都合があった。
すぐ隣で不満げな表情を浮かべながら掲示板を睨んでいる長身の男、タイオンの存在である。

「よかったな、また1位じゃん」
「学年順位はな。教科ごとの1位は取れなかった。君のおかげでな」
「はぁ……」

眼鏡越しにこちらを睨みつけて来るタイオンに、自然とため息がこぼれ落ちる。
彼は同じ学年の優等生で、入学以来ずっと学年で成績1位をキープし続けている。
テストが終わるたびに張り出される成績表で、毎度毎度1位の座に輝いている“タイオン”の名前を知らない同級生はいないだろう。

このアタシも、タイオンとは別のクラスではあるがこうして名前と顔を知っているのは成績表でその存在を知っていたからに過ぎない。
一方的にこちらが認識しているわけではなく、向こうもアタシのことを知っていてこうして話すようになったのは、タイオンから向けられる謎の対抗意識のせいだろう。

ふと、視線を学年順位から教科ごとの順位表へとスライドさせる。
現代文や数学、化学をはじめとするほとんどの教科でもそれぞれ1位を取っているタイオンだったが、唯一1位を逃している教科がある。
ずばり英語である。
英語のみ、彼の順位は2位に落ち着いており、代わりにアタシの名前が1位の座に輝いている。
他の教科はほとんど平均点なアタシが学年順位18位の座に就けているのは、英語の成績だけ断トツでいいせいだろう。

英語だけがこんなに得意なのは、アタシが所謂帰国子女だったから。
小学校1年生の頃に家庭の事情でアメリカに渡り、中学に入学すると同時に帰国した過去がある。
6年間本場アメリカで過ごしてきたお陰で、英語はほとんど勉強せずとも100点に近い点数を取ることが出来る。
この現状に、学年1位の座を誇るこのタイオンは納得できていないらしい。
学年順位では大差がついているにもかかわらず、英語だけが毎回1位を取れずにいるせいでずっと対抗心を燃やされているのだ。

とはいえ、アタシに競っているつもりはない。
向こうが勝手にライバル視して、いつも闘争心をむき出しにしながら挑んてくるだけのこと。
学年順位はそっちがぶっちぎりで勝っているのだからそれで良さそうなものだが、全教科1位を取らなくては納得できないらしい。
頭いい人間の対抗心とプライドは正直理解できない。
英語だけが高成績であるせいでこうまで嫌われている事実は、アタシにとって非常に面倒くさいものだった。

「学年順位も他の教科も全部1位なんだから別によくね?」
「良くない。君に負けている事実が許しがたい」
「アタシは競ってるつもりなんてねぇんだけど?」
「君になくても僕にはある」
「あっそ。じゃあせいぜい来年の中間頑張れよー」

これ以上問答を続けても無駄だろう。
何だか面倒くさくなったアタシは、ムッとしているタイオンに別れを告げその場を去った。
成績表を見て一喜一憂している他の生徒たちの喧騒を背にしながら歩くアタシだったが、やけにジトッとしたタイオンの視線をずっと背中に感じている。
そんなに睨まなくていいだろ別に。
英語でずっと勝っちまってるからっていちいち対抗心を燃やされていたらたまったもんじゃない。

自分の教室に戻ると、ほとんどの生徒が成績表を見に行っているせいか教室内に人はまばらだった。
中央の自分の席に腰掛けると、後ろの扉から走って入室してきたクラスメイトに声をかけられる。

「ユーニ!順位表見たよ!今回も英語1位だったね!」

目をキラキラさせながら詰め寄って来たのは、同じクラスのセナだった。
小柄で人懐っこい彼女とは入学以来ずっと仲が良い。
アタシの机に両手を突いて、英語の成績を自分のことのように喜んでいる彼女にふっと笑みを零すと、アタシは椅子の背もたれに寄りかかり口を開いた。

「みたいだな。けとお陰であのがり勉眼鏡にまた目つけられたっぽいけど」
がり勉眼鏡って、タイオンのこと?」
「そ。さっきも絡まれたし。ったくいい加減にしてほしいよな」

セナはタイオンと同じ高校出身で、それなりに話す仲だったらしい。
セナ曰く、タイオンは高校の頃から高成績で有名だったそうだが、他人に分かりやすく対抗心を燃やすような男ではなかったのだとか。
プライドが高いのは分かるが、ここまでライバル視されるのは正直異常だ。
多分、成績以前にきっとアタシという存在が嫌いだったのだろう。
クラスも違う、委員会や部活も違うアイツに関わる機会などほとんどないのに嫌われる原因が分からないが、人が人を嫌う理由なんてどうせクダラナイものに違いない。

「タイオンとユーニって、いつの間にか仲良くなってたよね」
「いやいやどの辺が仲いいんだよ。会えば100%の確率で睨んでくるような奴だぞ?」
「睨む?タイオンが?」
「すれ違いざまにギロッて睨まれたり、外で体育受けてたら校舎の教室の窓からジーっと睨みつけてきたり、とにかくやたらと目が合っては睨まれてるんだよ」
「そう、なんだ……?タイオンって女の子を睨むようなタイプじゃないと思うんだけどなぁ」

そう言われても、実際睨まれているのだから仕方ない。
あの分厚そうな眼鏡越しに目を細め、じっと睨みつけられるたびに腹が立つのだ。
言いたいことがあるなら言えよ。
嫌うのは勝手だけど、そんなに嫌いなら近付くたびこっち見るなよ。
理由も分からず嫌われているこの状況に、アタシは少々疲れ始めていた。

***

期末試験も終了し、春休みまで残り1週間と迫っている今日この頃。
春が近いとはいえまだまだ寒い日が続く中、昼休みを迎えたアタシはいつも通り購買で菓子パンを購入しようと席を立った。
すると、セナが手を合わせながら声をかけて来る。
彼女は陸上部に所属しているのだが、どうやら今日の昼休みは部活のミーティングが急遽入ってしまったらしい。

“ごめんねユーニ。今日は先に食べてて”
そう言って申し訳なさそうに謝りながら、セナは足早に教室から出て行ってしまった。
購買で買ったパンを持ち帰り、セナと一緒に教室で食べるのがアタシの昼休みの習慣だった。
とはいえ、部活の用事なら仕方ない。
たまには一人で食べるのも悪くないだろう。
そう思い、アタシは財布を片手に1階の購買へと向かった。

「ユーニ?」

パンを買い求めている生徒たちの列に並んでいると、背後から低い声で名前を呼ばれた。
振り返るとそこにいたのは、金色の髪が目立つ整った顔の男子生徒。
同じ中学出身の同級生、ゼオンである。
隣のクラスに所属している彼だが、どうやら同じように購買にパンを買いに来たらしい。

「おー、ゼオンか。久しぶり」
「あぁ。一人か?珍しいな」
「友達が部活のミーティングに出てるんだよ」
「もしかして陸上部か?」
「そうそう。えっ、なんで知ってんの?」
「こっちも同じ理由でカイツが出かけているからな」
「あぁそういうこと」

ゼオンの口から出た“カイツ”という人物も、アタシたちと同じ中学出身の男である。
確かゼオンと同じクラスだったと記憶しているが、そういえばアイツもセナと同じ陸上部だったっけ。
要するに、アタシとゼオンは今日に限っては同じぼっち飯仲間ということだ。

「じゃあさ、一緒に食う?ちょうど一人で食べるの寂しかったし」
「たまにはいいかもな。そうしよう」

ゼオンはクールな奴だったが、アタシにとってはそれなりに気を許せる男友達だった。
真面目で口数は少ないけれど優しいし、頭もそれなりにいい。
真面目過ぎて妙に堅苦しいトコロや、意外にもちょっと抜けているところがあるのは玉にキズだけど、一緒にいて疲れない貴重な存在だ。

アタシはクリームパン。ゼオンはカレーパンとウインナーロールを購入し、一緒に中庭へと向かう。
うちの学校の中庭はそれなりに広くて、一本だけ生えている大きな桜の木を中心に花壇とベンチが並んでいる。
空いているベンチに腰掛け、アタシたちは他愛もない世間話を交えながら昼食を楽しんでいた。

「最近カボチャを植え始めたんだが、肥料が足りなくてな。なんとか予算を上げてもらえないか交渉しないといけないんだ」
「あぁ、例の農民部のハナシか」
「農民部じゃなくてアグリカルチャー部だ」

ベンチに腰掛け、足を組みながらゼオンは訂正した。
ゼオンは農民部、じゃなくてアグリカルチャー部という変わった部活を新設させ、その部長を務めている。
活動内容はずばり畑の運営。
学校の裏庭に設置された専用の小さな畑に好きな野菜や果物の種を植え、季節が巡ってきたら収穫して料理し、そして味わう。
これが農民部の、いやアグリカルチャー部の活動内容である。

うちの学校は活動に参加しているかどうかはともかく、必ずどこかの部活や委員会に籍を置いていなければならない。
正直部活なんて真剣に活動する気がなかったアタシは、部長であるゼオンと交流があったため農民部に、いやアグリカルチャー部に名前だけを置かせてもらっている。
マトモに活動に参加したことはないが、これでも一応アタシは農民部の、じゃなくてアグリカルチャー部の一員というわけだ。

「予算の管理ってどこがやってんだ?」
「生徒会だろう。来年の春から生徒会も一新するから、予算の引き上げを交渉するなら新しい生徒会長に打診しなくてはな」
「新しい生徒会長か……」

うちの学校では、新年度ごとに生徒会のメンバーが一新される。
いずれも前年の10月ごろに行われる選挙で生徒会長が決定されるわけだが、来年度からの生徒会長はアタシたちと同じ新2年生が選出されていた。
うちの学校はそれなりの進学校であるため、新3年生の生徒会立候補は禁止されている。
必然的に生徒会のメンバーは2年生と1年生で構成され、生徒会長もまた、ほとんどの場合2年生が務めることになる。
10月に行われた選挙の結果、4月から生徒会長になる人物はアタシもよく知っている人間だった。

「おーい!」

不意に頭上から声が聞こえる。
2人同時に顔を上げてみると、中庭に面した校舎の2階の窓から見慣れた男がこちらに向かって手を振っていた。
アタシやゼオンと同じ中学出身のランツである。
その隣には、同じく元同級生のノアの姿もある。
アイツらは確か同じクラスだった。顔見知りであるアタシたちの姿を中庭で見つけたから声をかけてきたのだろう。

手を振り返そうとしたその瞬間、ジトッとした嫌な視線を感じて背筋がぶるっと震えた。
この嫌な視線は間違いない。アイツだ。
案の定、手を振っているランツやノアのすぐ隣で、窓際の席に腰掛け何かを食べている様子のタイオンがこちらをじーっと睨みつけている。
あぁやっぱり。

ノアとランツは、あの腹の立つがり勉眼鏡と同じクラスで随分仲良くしているらしい。
校内で2人から声をかけられるたび、その隣に居るタイオンからいつもいつも睨みつけられているのだ。
相変わらずフルスロットルで睨んでくるタイオンに呆れていると、頭上でランツがふざけたことを言い始める。

「なんだよお前らー、一緒に飯食ってんのかー?いつから付き合い始めたんだよ?」
「黙れ。引っ込めランツ」
「あぁん!? んだとゼオンこら!」

アタシが言うのも何だが、ランツはガラが悪い。
あんなのとセナが付き合っている事実が実に信じ難かった。
まぁ、紹介したのはアタシなんだけど。

隣に座っているゼオンと、2階の教室から見下ろしているランツは中学の頃から犬猿の仲だった。
本気で嫌い合っているわけではないのだろうが、会えばいつも口喧嘩ばかり。
相変わらず仲良く喧嘩を始めたランツのたちの様子に、穏やかな性格のノアは笑顔を浮かべている。
だが、そんな彼とは対照的に、すぐ横にいるタイオンは一層負のオーラを発し始めていた。
ただでさえ悪かった目つきが、一層悪くなったような気がする。
なんだよ。何でそんなに睨むんだよ。アタシが何したってんだよ。

「ん?ユーニ、今ノア達と一緒にいるのはもしかして……」
「あぁ。次期生徒会長サマだよ」

顔を近付け、こそっと問いかけて来るゼオンに、アタシは小さな声で耳打ちした。
そう。10月の生徒会総選挙で生徒会長に選出されたのは、他でもないあのガリ勉眼鏡タイオンだった。
例年成績1位の人間が会長を務めることが多いらしく、今年の結果も例に漏れない結果となっただけのこと。
まぁ、妥当な結果だろう。

ゼオンとこそこそ話している間も、タイオンはずっとこちらを睨みつけ続けている。
そんなにアタシが嫌いかよ。次期生徒会長ともあろう人間が、そんな親の仇みたいな目で女子を睨むなよ。

「そうか。さっきからずっとユーニを見つめているようだが、仲いいのか?」
「“見つめてる”んじゃなくて“睨んでる”の間違いだろ。全然仲良くないどころか普通に嫌われてるよ」
「そうなのか。ふぅん」
「それより移動しようぜ。ランツはうるせぇしタイオンは睨んでくるし、落ち着いて飯食えねぇ」
「まぁ構わないが……」

了承したゼオンの手を強引に掴み、アタシはベンチから立ち上がった。
気にするなと言われればそこまでだが、飯を食いながらあんなにも睨まれていてはどうも落ち着かない。
ゼオンの手を引きながら足早に中庭を去るアタシの背中に、タイオンの矢のような視線がずっと突き刺さっていた。

あぁもう。なんでそんなに嫌われてるんだろう。
英語で1位の座を奪ったことがそんなに腹立たしいかねぇ?
別に総合順位は1位なんだから教科ごとの順位なんて気にしなくていいだろ。
ったく腹立つな。
訳も分からず嫌われている事実に、アタシは苛立ちを隠せなかった。

***

Side:タイオン

ゼオンの手を引きながら中庭を去っていくユーニの背を、僕はただただ2階の窓から見つめていた。
やっぱりランツの言う通り、2人は“そういう仲”なのだろうか。
手を繋いでいたし。顔を近付けながらヒソヒソ耳打ちし合っていたし。
同じ中学の同級生というだけで、あんなにも距離感が近くなるものなのだろうか。
窓に寄りかかりながら遠くを見つめ、深くため息を零すと、正面に座っていたノアが苦笑いを見せてきた。

「タイオン、そんな落ち込むなって」
「別に落ち込んでない」

そんなに顔に出ていただろうか。
まずい。真下にいたユーニにも、こっちの心情がバレてしまっていたかもしれない。
内心少し焦っていると、窓から身を乗り出していたランツがようやく席に座り直しながら言ってきた。

「嘘つけ。顔に書いてあるぞ?“ユーニをゼオンに盗られて悔しいっ!”ってな」
「……盗られたも何も、別に僕はユーニと付き合ってるわけでも何でもないし」

僕の呟きを聞くと、ノアとランツは揃ってニヤつきながら“ふぅん”と意味深な視線を向けてきた。
この2人はユーニとの付き合いが長いせいか、僕とユーニの関係性を面白がっている節がある。
実に失礼だ。出来るなら放っておいて欲しいが、この2人の存在が僕とユーニを繋ぐ数少ない繋がりであることは間違いない。
2人は、僕のユーニへの気持ちをよく知っている。
知っているうえで、あぁして校内でユーニを見つけるたび必要以上に声をかけているのだ。

「にしても残念だったなタイオン。また英語負けたんだろ?」
「あぁ。あと3点及ばなかった。次こそは……」
「こう言うのはアレだけど、1教科くらい別にいいんじゃないか?総合順位では勝ってるわけだし」
「いや駄目だ。すべての教科で勝たないと意味がない」

正直、別に全教科1位になりたいと思っているわけじゃない。
成績に関しては自分が納得する順位に居られればそれでいい。すべてにおいて1番で居たい願望など1ミリもなかった。
相手がユーニだから負けられない。ただそれだけのことだった。

あれはまだ入学したての頃のこと。
ユーニが僕の中学の同級生であるセナと廊下で立ち話している光景を見てしまったことがある。
その時の会話の内容が、僕の原動力になっていた。
“ユーニってどんな人が好きなの?”
屈託のないセナからのそんな質問に、ユーニは数秒考え込んだあと言い放ったのだ。
“大人でアタシより頭いい奴かな”と。

大人という条件は同い年である以上同努力しても覆せないが、頭の良さに関しては努力次第でどうにでもなる。
だが困ったことに、ユーニの成績はそれなりに良かった。
制服の赤いスカートを短く折りあげ、耳にはピアスの穴をいくつも空け、メイクを施した顔で毎朝登校してくる見た目の派手さとは対照的に、学力的には優等生そのものである。

なにより厄介だったのは、帰国子女であるがゆえに英語力があまりにも高かったこと。
いくら勉強しても勉強しても、英語でユーニよりいい成績を取れたためしがなかった。

これじゃだめだ。
ユーニの“好きなタイプ”に食い込めない。
全ての教科でユーニに勝ってこそ、自信がつくというもの。
いつかこの気持ちを伝えるときに、不安な気持ちを抱かずに済むだろう。

だが、僕のこの淡い気持ちを成就させるには少々問題が多かった。
ユーニに英語の成績が及ばないと言うだけではない。
明らかにユーニに嫌われているという事実も目を逸らせない。
近くを通るたびにその姿を目で追ってしまうのは必然だったが、その度心底嫌そうな顔をされるのだ。

顔が無意識に綻ばないよう、必死に表情筋に力を込め、目を細めニヤつかないように懸命に耐え忍んでいるつもりなのだが、それでもユーニは何処か冷たい。
そんなに冷たくすることないじゃないか。
そう思いながらも、持ち前の天邪鬼な性格が邪魔をして上手くユーニとの距離を縮められない自分がいた。

Act.02 何故かいじけるマジメ君

桜の花が満開に近付き始めた春の入り口。
3月14日を迎えた校内は、いつも以上に活気づいていた。
今日がホワイトデーということも理由の一つとしてあるだろうが、いちばん大きな要因は三学期後の一日だからという点にあるだろう。
終業式を終えた生徒たちは、まだ午前中のうちに解散となった。
明日からは春休み。この長期休みが明ければ、アタシも晴れて2年生になる。
進学が楽しみというわけではないが、春は出会いの季節というだけあって心が浮ついていた。

来年はどんな一年になるだろう。
セナや仲のいい友人たちとは同じクラスになれるだろうか。
期待と不安を胸に抱きながら、アタシはまっすぐ家に帰るため下駄箱へ向かった。
セナは今日も部活に精を出しているらしく、1年最後のホームルームが終わるとさっさと部活に向かってしまった。
特に用事がないアタシは、荷物を手に下駄箱から靴を取り出した。そんなとき——。

「あっ」
「げっ」

後からやって来たその姿に、アタシは思わず声を挙げる。
たまたまバッティングしてしまったのは、他の誰でもないあのガリ勉眼鏡、タイオン。
向こうもアタシに遭遇してしまったことで機嫌を損ねたらしく、眼鏡の奥の目が一瞬にして細められた。

「何が“げっ”だ。失礼な」
「あぁ口に出てたか。悪かったな、素直な性格なもんで」
「素直?ただ口が悪いだけだろ」
「悪かったな口が悪くて」

相変わらず嫌味な奴。
こんな奴置いてとっとと帰ろう。
下駄箱から靴を取り出し上履きから履き替えていると、背中にあのジトッとした視線が突き刺さる。
振り返るとそこには、あの恨めしい目つきでアタシをじっと睨みつけているタイオンの姿があった。

「……なんだよ」
「いや。随分荷物が多いなと思って」
「あぁこれ?ホワイトデーのお返し」

手に持っているのは3つの紙袋。
中にはクラスの男子たちから渡されたチョコレートやマシュマロの類がたくさん入っていた。

1カ月前のバレンタイン。アタシは同じクラスの男子たちや、他のクラスの顔見知りたちに適当にチョコを配り歩いていた。
目的はただ一つ。今日というホワイトデーにお返しを貰うためである。

アタシは昔から甘いものが好きで、タダでスイーツが大量に手に入るホワイトデーは天国のようなイベントだった。
なるべくたくさんのお返しを貰うため、知り合いの男たちに無差別的にチョコを配り歩いたというわけだ。
このチョコたちは、バレンタインで蒔いた種が無事収穫できた証と言えるだろう。
そんな戦利品たちをじっと見つめながら、タイオンは相変わらずの仏頂面で妙なことを言い始めた。

「……そんなに貰ったということは、1カ月前かなりの人数にチョコを配ったということか」
「まぁな。それなりに親しい間柄のやつには大体配ったかな」
「ふーーーーん」

不自然に語尾を伸ばしながら、タイオンはまた目を細めて来る。
何だその顔。そんな恨めし気な顔で睨まれる覚えはない。
まさかアレか?次期生徒会長として校内のお菓子の持ち込みは見逃せない、的なやつ?
だとしたらいくら何でも真面目過ぎるだろ。

「んだよその顔。文句あんの?取り上げるつもりなら絶対渡さねぇからな?バレンタインの時どんだけ苦労してチョコ配ったと思ってやがる」
「何が苦労だ。どうせ君のことだから、その辺のスーパーやコンビニで売ってるチロルチョコを適当に配り歩いていたんだろ?」
「は?んなわけねぇだろ。全部手作りだわ」

バレンタインの時にアタシが配ったのは、生チョコとトリュフの2種類のチョコレートだった。
チョコレート菓子の中では比較的簡単に作れるものだが、ホワイトデーに大量のお返しを狙っていたアタシは、友チョコも含め約30人分のチョコを生成した。

いくら簡単なメニューとはいえ、それほど大量に作ればかなり時間も労力もかかる。
業者かと見紛う量のチョコレートを溶かして固める作業はものすごく大変だった。
あの努力の報酬として手に入れたこのスイーツたちを、ガリ勉眼鏡に没収されるわけにはいかない。
手作りのチョコを配っていた事実を口にしながら、手元の戦利品を奪われないように必死に抱え込むと、タイオンは少し驚いたような表情を浮かべながら今度は眉を潜めてきた。

「手作り……だと?」
「そう!めちゃくちゃ大変だったんだからな!だからこれはアタシにとって報酬みたいなもんなの。没収は断固拒否するからな!」
「そんなことはどうでもいい!なんで僕には……!」

ん?
何かを言いかけたタイオンは、そのままぐっと言葉を飲み込んだ。
何だか様子がおかしい。何を言いかけたのだろう。
首を傾げて続きの言葉を待っていると、彼は結局その続きを口にすることなく視線を逸らした。

「なに?」
「……なんでもない」

そう言って、タイオンはアタシの横をすり抜けて去って行った。
なんだか妙に不貞腐れた顔をしている。
わざとらしく大きな足音を立て、ぷんすこ怒った様子で校舎の正面玄関から出て行ってしまう。

なんだあれ。なんであんなに怒ってんの?
アタシ今怒らせるようなこと言った?わけわかんねぇ。
とにかく怒った様子のタイオンの心情が理解できないまま、アタシはホワイトデーのお返したちを手に下駄箱を後にした。

***

学校の最寄り駅から電車で3駅。
閑静な住宅街が広がるこの駅に、アタシの家はある。
所謂ベッドタウンであるこの駅には、徒歩5分圏内にタワーマンションがたくさん乱立している。
そのうちの1つ。一番高くて大きい棟の27階がアタシの部屋。
いや、正確に言うと、“アタシの保護者の部屋”だ。

メインエントランスから中に入り、複数あるエレベーターの上ボタンを押し込む。
1分後やって来たエレベーターに乗り込むと、27階のボタンを押して到着を待つ。
ようやく到着したフロアの廊下を進み、一番端の角部屋に鍵を指す。
ほんの少し重たい扉を開けて玄関に入ると、“彼女”が使っているフローラルな芳香剤の香りがほんのわずかに鼻腔をくすぐった。

「ただいまー」
「あぁ、おかえり」

どうやら珍しく家に帰っているらしい。
奥の方から聞こえた声に少しだけ驚きながらリビングへ向かう。
明るいリビングへと入ると、キッチンで何かを作っている“彼女”の姿が視界に入って来た。

「帰ってたんだ、メリア」
「あぁ。今日は早く仕事が終わったからな」

手元に視線を落としたまま、メリアはキッチンでニンジンを切っていた。
コトコトという食材を切る音が心地いい。
多忙なメリアがこんな早い時間に帰宅するのはなかなかに珍しい。
久しぶりに2人で食卓を囲めそうだ。

このタワーマンションの名義人は、目の前で手際よく料理をしている彼女、メリアだ。
彼女はアタシにとって遠縁にあたる人物らしい。その系譜を聞いたことはあったが、なんだか複雑で覚えられなかった。
とにかく、遠い何処かで血がつながっているのは確かなのだとか。

メリアは世界的にも有名な広告代理店の代表を担っていて、いわゆる敏腕女社長というやつだ。
既に亡くなっている彼女の父は有名な代議士で、腹違いの兄も政治家をしているという。
誰がどう見ても名家であるメリアの家と私に血の繋がりがあるなんてにわかには信じがたいが、メリア本人が遠縁だと言っているのだから間違いないのだろう。

小学校1年生の頃からアタシの保護者としてずっとそばにいてくれたメリアという存在は、アタシにとって母でもあり姉でもある。
優しくて淑やかで、それでいて容姿端麗なメリアのことが、アタシは大好きだった。

「アタシも手伝う」
「構わん。料理をするのは久しぶりだからな。私に任せてくれ」
「いやいや。2人でやった方が早く終わるじゃん?アタシ腹減ってるし」
「そうか。なら頼もうか。ジャガイモの皮を剥いてもらえるか?」
「はいよ」

荷物を置き、急いで洗面所で手を洗うと、冷蔵庫からジャガイモを取り出し水道水で土を洗い落とし始める。
料理自体はそれなりに慣れている。
会社の社長であるメリアはいつも多忙で、料理はいつもアタシが担当しているからだ。
だからこそ、こうして一緒に二人並んでキッチンに立つのはかなり久しぶりだ。

中々ゆっくり話せないからこそ、メリアが早く家に帰って来た時は出来るだけ一緒に過ごしたい。
隣同士で食材を切りながら、私はずっと一方的に学校であった出来事を話していた。
そんなアタシの話を、メリアはいつも楽しそうに聞いてくれる。
家族がいないアタシにとって、この時間だけが団欒を感じられる暖かい時間だった。

「うわ。うまっ。味付け天才的だな、メリア」
「それは良かった。少し値の張る岩塩を使ってみたのだが、どうやら正解だったようだな」

穏やかに笑いながら、完成したポトフに口をつける。
二人掛けの食卓に向かい合いながら腰掛けたアタシたちは、久しぶりに夕食を共にした。
今日のメニューはポトフとハンバーグ。
2人で作ったからか、なんだか一層美味く感じる。
あーあ。明日もメリアの仕事が早く終わればいいのに。
そうすれば、こうして2人で過ごせる時間も多くなる。

「あっ、そうだ。今日デザートあるから後で食べようぜ」
「デザート?」
「ほら、ホワイトデーのお返し」

床にまとめて置いていた紙袋を一つ持ち上げると、メリアは納得したように“あぁ”と頷いた。
アタシと同じく、メリアも甘いものが好物だ。
こうしてホワイトデーのお返しをたくさんもらってきたのは、メリアを喜ばせるためでもある。

「そう言えばそうだったな。バレンタインは随分気合を入れていたようだが、お返しが目当てだったか」
「そういうこと」

ゲットしてきたお返しの内容は多岐にわたる。
ノアからはマカロンを貰ったし、ランツからはクッキーを貰った。
ゼオンからは確かガトーショコラだった気がする。
どれもこれも市販のものだが、だからこそハズレはないだろう。
これだけたくさんあれば、3日は甘いものに困らないはず。
予想以上のお返しの数に、アタシは大満足だった。
ホクホク顔で紙袋の中を漁るアタシに、正面に腰掛けるメリアは穏やかに微笑みながら質問を投げかけて来る。

「本命からはちゃんとお返しを貰ったのか?」
「本命?そんなの贈ってねぇって。全部義理チョコだよ」
「そうなのか。好きな人や気になる人はいないのか?」
「いないいない。つーか同い年には興味ねぇし」
「相変わらずだな。そんなに年上が好きか?」
「当たり前だろ?同い年なんて子供にしか見えねぇよ」

そう言い切るアタシに、メリアはふっと笑みを零しながら“そうか”と呟き、再びポトフに口をつけた。
アタシの好きなタイプは、ずばり年上の知的な人。
落ち着きがあって、ダンディな雰囲気があって、包容力がある大人の男がいい。
だからこそ、同い年の男子高生たちには正直全く興味が沸かなかった。
どいつもこいつもガキばっか。
付き合うなら社会人。最低でも大学生がいい。
同い年は絶対に嫌だ。

「初恋がもたらす影響は大きいようだな」

メリアの言葉に、アタシは肯定する代わりにコップのお茶を飲みながら笑いかけた。
メリアの言う通り、アタシのこの年上好きは初恋の影響によるところが大きいだろう。

アタシの初恋は小学校1年生の頃。
一時的にとある家に居候することになった時期があったのだが、その時お世話になった家の父親が初恋の相手でたる。
優しくてカッコよくて面倒見が良くて、とにかくいい人だった。
居候期間が終わるタイミングで、当時ませていたアタシは例の“父親”に気持ちを伝えたんだ。
“およめさんになりたい”と。
すると彼は穏やかに笑って応えてくれた。

“亡くなった妻が今でも大好きだから、お嫁さんは難しいな。もっと大きくなったら、きっと私より素敵な男に出会えるはずだ。その時を楽しみにしていなさい”、と。
小学1年生のたどたどしい愛の告白に対する回答としては、100点満点と言えるだろう。
その回答を聞いて、一層その“父親”のことが大好きになってしまったのは言うまでもない。

あれから10年が経過した今となっては、微笑ましい思い出だ。
流石に今は彼への恋心も懐かしいものとして風化してしまったが、未だに年上好きなのは彼の影響である。

高校生になった今、同級生から告白されることも時々あるけれど、全く心はときめかない。
“同い年”というだけで、アタシの恋愛対象からは自動的に外れてしまうのだ。
いつか社会人になったら、あの人のように知的で優しくてダンディーな大人の男と結婚したい。
そう思っていた。

***

タワーマンションの高層階に位置するこの部屋の間取りは3LDK。
メリアの寝室、仕事部屋、そしてアタシの私室の構成だ。

夕食を終え、シャワーを浴びたアタシはタオルで髪を拭きながら自室へ入る。
もう少しメリアと喋っていたかったけれど、彼女は夜も仕事があるらしく隣の仕事部屋にこもっている。
1年前、高校入学祝の品としてメリアから買ってもらったドレッサーに腰かけ、鏡を見つめながら髪を拭いていると、ふいにサイドチェストの上に置いてあった写真立てに視線が吸い込まれてしまう。

穏やかな両親に肩を抱かれながら笑顔を向けている幼いアタシと弟が映っている。
もうぼんやりとしか記憶に残っていない両親の顔を写真越しに見つめながら、一人つぶやく。

「もう10年か」

メリアがアタシの保護者となってから、そして両親と弟が事故で死んでから、もう10年になる。
小学校に入学した年の梅雨。買い物に行く途中大きな交差点を渡っている最中に、その事故は起きた。
当時弟は2歳になったばかりで、まだまだ母親の抱っこから離れられない年齢だった。

スーパーで大好きなアイスを買ってもらう約束をしていたアタシは、交差点の信号が青に切り替わった瞬間走り出す。
背後から父親の“走ったら危ないぞ”という優しい声が聞こえたけれど、まさかそれが父親の最後の言葉になるとは思わなかった。

背後からものすごい音が聞こえてきたと同時に振り返ったら、つい数秒前まで笑顔で会話していた父親と母親は頭から血を流し道路の真ん中で寝そべっていた。
母親の腕の中にいた弟も、数メートル先にぼろ雑巾のように落ちている。
飲酒運転の末のひき逃げだった。

救護活動など一切せず全速力で逃げ去った犯人は、約1週間後あっけなく捕まったけれど、当然死んだ家族は戻ってくることなどなかった。
あの現実離れした光景は、10年たった今でも忘れられない。

多分あの時、アタシが走って道路を渡っていなければ、アタシも両親や弟と一緒に死んでいた。
走らなきゃよかった。そうすれば、こんな孤独感に苛まれることなんてなかったのに。
そう思っていたアタシに手を差し伸べた大人が二人いた。

一人はメリア。両親どちらも一人っ子で、祖父母はみんな亡くなっているか入院している状態だったアタシを唯一引き取ってくれた、遠縁の保護者。
そしてもう一人は、メリアという身元引受人が見つかるまでの間、面倒を見てくれた男。
彼は両親と弟が犠牲になったひき逃げ事件を追う刑事で、当時アメリカを拠点に仕事をしていたメリアがこちらに帰国し、アタシを引き取る算段が付くまでの間、家でアタシの世話をしてくれた。
家族をいっぺんに亡くし、悲嘆に暮れていた子供のアタシを、まるで本当の父親みたいに接してくれた彼に、幼いながら恋心を抱いてしまったんだ。

「今も刑事やってんのかなぁ、イスルギ」

初恋の相手兼、短期間の父親だった彼の名前はイスルギ。
優しくてかっこよくて、それでいて頭のいい人だった。
イスルギおじさんは結婚していたけれど、ずいぶん昔に妻を病気で亡くしていた。

あの頃の記憶は悲しすぎて、正直ほとんど残っていない。
イスルギの家にいた期間は1か月くらいだったはずだが、その間どう過ごしていたのか、何を食べ誰と過ごしていたのか、詳細なことはほぼ忘れてしまっている。

きっと、つらい日々のことは思い出したくないという自分自身の防衛本能が働いているのだろう。
けれど、イスルギのことだけははっきりと覚えていた。
どれだけ良くしてもらったのかとか、どれだけ優しく接してくれていたのかとか、イスルギとの思い出は暖かいものばかり。
きっとイスルギがいなかったら、今でも立ち直れないまま暗い青春を過ごしていたことだろう。
だからこそ、イスルギとメリアには感謝してもしきれなかった。

「また会いたいなぁ……」

今はもう、イスルギと連絡を取り合っていない。
メリアに引き取られた後、すぐにアメリカに渡ったせいだろう。
いつかどこかで再会したら、あの頃たくさん世話になったお礼がしたい。
そして伝えるんだ。あんたのおかげでアタシは“普通の人生”をおくれているよって。
10年前のぼんやりとした日々に思いを馳せながら、アタシは一つあくびを零すのだった。

***

Side:タイオン

帰りの電車に揺られながら、右から左へ流れる景色をぼうっと見つめていた。
あぁ、結局今年も何もできないまま帰ってきてしまった。
後悔の念に苛まれた原因は、30分ほど前のユーニとの会話。
クラスの男子たちから渡されたのであろうお返しの紙袋をたくさん手にぶらさげている彼女に、少しだけ、そう、ほんの少しだけ冷たくしてしまった。

だって仕方ないじゃないか。悔しかったんだ。
1か月前のバレンタイン、ユーニは僕になにもくれなかった。
同じ中学のノアやランツにはあげていたくせに、僕には何もなし。
そのくせ、同じクラスの男子たちには一人残さず全員にチョコレートを配っていたという。
しかも手作りだそうだ。

なんだそれ。どうせ手作りは親しい友人だけで、あとの有象無象にはチロルチョコでも配っているのだろうと思っていた。
なのに全員に手作りを配っていただと。だったら、チロルチョコすらもらえなかった僕の立場はどうなる?
お返し目当てで大量に配っていたというのなら、僕にも寄越してくれてもいいじゃないか。
もしくれていたら、それなりにいいものをお返しに贈ったのに。

「はぁ……」

ため息ばかりがこぼれ出る。
ユーニは“親しい奴には片っ端からあげた”と言っていた。
にも関わらずもらえなかったということは、僕が彼女の“親しい人リスト”に含まれていないということ。
そりゃそうだ。だって僕たちは連絡先すら交換していない。休日一緒に出掛けたこともない。
ただ、廊下で会えばぎゃいぎゃいと言い合うだけの関係。

やっぱり、会うたび口喧嘩しているのが原因だろうか。
嫌われているのかもしれない。
明日からはなるべく優しくしよう。天邪鬼な物言いはやめて、穏やかに笑って話しかけるんだ。
そこまで考えたところで、重要な事実を思い出した。
明日から春休みじゃないか。ここから2週間は学校に行く用事などない。
つまりは、しばらくユーニには会えない。

あぁ、連絡先さえ持っていれば、休みの期間も繋がっていられるのに。
そもそも、部活も委員会もクラスさえも違うこの状況がいけない。
たとえ休み期間じゃなかったとしても、ユーニに会える機会なんて廊下ですれ違う時くらいじゃないか。
あまりにもチャンスが少なすぎる。
せめて同じクラスだったなら、少しは結果も違っていたかもしれないのに。

不毛なタラレバを心で呟きながら、僕は今日も電車に揺られていた。

Act.03 電話を掛けるマジメ君

春休みは夏休みや冬休みに比べて期間が短い。
けれど、進学に伴い宿題が一切出ないことに関してはかなり良心的だ。
お陰で休み期間だったこの2週間、アタシはバイトに専念することが出来た。

高校に進学して以降、駅前にあるカフェでバイトをしている。
メリアはお小遣いをくれると言っているけれど、いつまでも彼女の優しさに頼る気はない。
ちゃんと貯金して、大学入学後は1人暮らしするんだ。
流石に大学の入学金は1人で払える額じゃないけれど、メリア名義で住めているこのタワマンから独立した後は仕送りなしで暮らしていくつもりだ。
そのためにはそれなりの額の貯金が必要。
だからこそ、アタシはこうして学校が長期の休みに突入するたびバイトの日数を増やしていた。

その辺の高校生がおくっているようなキラキラした春休みライフとは程遠い、バイト三昧な春休みはあっという間に過ぎて行った。
桜も散り始めてきた4月初旬。2年生に進学して最初の登校日がやって来た。
駅のホームには真新しい制服に身を包み、スマホで道を確認しながらきょろきょろしている初々しい影がいくつもある。おそらくは新入生だろう。
電車を降り、学校までの道のりを歩いていると、足元には散ったばかりの桜の花びらがまるで絨毯のように敷き詰められていた。

校門をくぐり、正面玄関へ向かうと人だかりが見えて来る。
どうやらクラス表が張り出されているらしい。
今日から1年間、掲示されているクラスの一員としてやっていかなくてはならないのだ。
学校という限られた空間の中で生きているアタシたち学生にとって、クラス割が決まる今日という瞬間はかなり重要になのだ。
人だかりの後ろから背伸びをしてクラス表を覗き込もうとするアタシに、遠くから声がかかる。
手を振りながら駆け寄ってくるその声の正体は、セナだった。

「ユーニ!私たちまた同じクラスだよ!」
「おっ、マジで?」
「うん!しかもランツたちも一緒!」

嬉しそうに軽く跳ねながら笑顔を見せるセナ。
彼女の言葉を確かめるべく遠くに張り出されたクラス表へと目を凝らす。
すると、2年2組の名簿の中に自分の名前を発見できた。
確かに彼女の言う通り、セナやノア、ランツも同じクラスに振り分けられているらしい。
親友だけでなく、幼馴染の2人とも同じクラスとは、随分と楽しくなりそうだ。
今年のクラスはアタリだな。なんて考えていたアタシだったが、同じクラス名簿に見つけてしまったとある名前を見て考えを改めることになる。

「げっ、アイツもいるじゃん」
「アイツ?」
「タイオンだよ。アイツまで一緒のクラスとかツイてねぇなぁ……」

今年度から新生徒会長の座に治まっているタイオンの名前は、アタシのテンションを一気に地の底へと突き落とす。
アイツは何故かアタシに対抗意識を持っている。最近ではすれ違っただけで睨まれることも多いし、勉強面での対抗意識が次第にシンプルな嫌悪感に変わっているように思う。
嫌われていると分かり切っている相手と同じクラスになるなんて。
セナやノアやランツと同じクラスなのはありがたいけれど、タイオンというトラブルの元まで一緒なのは純粋に喜べない。

今までは別のクラスだったからほぼ関わる機会なんてなかったけど、同じクラスになった以上一切関わらないのは流石に無理だろう。
あーあ。また謎に睨まれるんだろうなぁ。
厄介なことにならなければいいけど。

クラス割を確認したアタシは、セナと一緒に校舎へ入り階段を登る。
2年の教室は2階にある。階段を登った先に見える2年2組の新教室に入ると、見慣れない新しいクラスメイト達に紛れて見知った顔が手を振って来た。
廊下側の席に並んで腰かけているノアとランツである。

教室の後ろ扉から入って来たアタシたちに気付き、まず最初に声をかけてきたのはランツだった。
彼と付き合っているセナは、その手を振り返しながらまっすぐ駆け寄っていく。
先に駆け出したセナの後を追うように2人の幼馴染に近付くと、いつも通り穏やかな笑みを浮かべたノアが“おはよう”と挨拶してきた。

「同じクラスだな。中学以来か?」
「だな。てか、席って自由に座っていいわけ?」
「いや、黒板に貼ってある。ユーニの席は窓際の後ろから2番目だったよ」
「マジか。ありがとな、ノア」

どうやらノアはアタシの席を把握してくれていたらしい。
彼から教えてもらった通り窓際の後ろから2番目の席に向かい、鞄を置く。
いちばん最初の席が窓際なのはツイていた。
退屈な時、窓の外の景色を眺めていられるだけこの席は大分快適な席と言えるだろう。

どうやらセナの席はノアやランツたちのすぐ近くだったようで、アタシの席からは少し離れている。
セナたちと近くの席になれなかったのは残念だけど、まぁ仕方ないだろう。
椅子を引き席に腰掛けたと同時に、教室の前扉から見覚えのある人物が入って来るのが見えた。
げっ、タイオンだ。

教室内に入って来たアイツと目が合ってしまった。
案の定アイツは眉間にしわを寄せていつもの不機嫌そうな表情を浮かべ、こちらをじっと睨みつけて来る。
なんだよ全く。アタシだって好きでお前と同じクラスになったわけじゃねぇつーの。

黒板に張り出された座席表を眺め始めたタイオンだったが、暫くするとその場を離れ、廊下側の席に腰掛けているノアやランツ、セナたちと軽い立ち話を始めた。
アイツの席も廊下側なのかな。まぁどうでもいいか。
そんなことを考えながらぼーっとしていると、立ち話を終えたタイオンがまっすぐこちらへと歩み寄って来た。
次第に距離を縮めて来るタイオンに、アタシの動揺は大きくなっていく。
えっ、なんでこっちくんの?
戸惑っていると、タイオンはアタシのすぐ後ろの席の椅子を引き始めた。

「ちょ、え?なんでそこ座るんだよ」
「ここが僕の席だからに決まってるだろ」
「うわマジかよ」
「何だその反応。嫌なのか?」
「べっつに~?」

最悪だ。どうやらアタシの真後ろがタイオンの席だったらしい。
この距離じゃ関わらないとか絶対無理じゃん。
てか、嫌なのはアタシじゃなくてそっちの方だろ?
会うたび睨みつけてくるほどアタシのことが嫌いなくせに。

後ろの席に腰掛けるタイオンの気配を感じ取りながら、アタシは深くため息をつく。
ふと遠くから視線を感じて顔を向けると、そこにはこっちを見ながらやけにニヤついているノアとランツの姿見えた。
なにニヤニヤしてんだよアイツら。

アイツらはタイオンとも仲がいい。どうせアイツがアタシのこと嫌ってるって事実もよく知っているんだろう。
そのうえで面白がっているに違いない。
ったく他人事だからって腹立つな。

やがて、2年2組の教室に担任となる教師が入って来る。
担任の名前はアシェラ。男勝りであっけらかんとした女の体育教師である。
アシェラはなかなかに適当な教師として有名だった。
その適当さが生徒にウケているようで、アタシも割と好きな部類だ。
新学期初日だというのに、アシェラによる初回のHRは驚くほど適当だった。
明日からのスケジュールを口頭で案内し、あとは一言二言自己紹介をしてHRは幕を閉じる。

「じゃあそういうことで、明日から2年生として仲良く頑張ってくれたまえよ、諸君。では解散」

後ろ手を振りながら、担任のアシェラは教室から出て行った。
担任がいなくなったことで、生徒たちはぞろぞろと席を立ち帰り支度を始める。
アタシも荷物をまとめて帰ろうと立ち上がったその時、ランツが黒板前の教壇に立ち、全員に聞こえるような大きな声量で“なぁみんな!”と引き留め始めた。

「クラスLINE組まねぇ?緊急の連絡とかあったら回すの便利だし」
「あっ、賛成。組も組もっ」
「じゃあ誰か招待して~」

ランツの言葉に反対する人は誰もいなかった。
クラスLINEがあれば何かあった時すぐに情報共有が出来て便利だろうし、アタシにも反対する理由はない。
誰かの手によって新設された“2-2クラスLINE”という実にシンプルなトークルームに、クラス全員のアカウントが招待される。
“グループLINEに招待されました。承諾しますか?”というポップアップに“YES”と回答すると、既に半数以上が加入していたクラスLINEのメンバーにアタシの名前も追加された。

「タイオン、ユーニ。良かったらこのみんなでどっか寄らないか?」
「一緒にお昼食べに行こうよ!ランツも行くって言ってるし」

声をかけてきたのはノアとセナだった。
時刻はまだ11時半。新学期初日で早く解散となったおかげで、寄り道してみんなで昼食を食べに行くにはちょうどいい時間帯だった。

「僕は構わないが……」

タイオンがアタシの様子を伺うように視線を向けて来る。
相変わらず眉間にしわを寄せた不機嫌な顔だ。
“こいつも来るなら行きたくない”とでも言いたげな顔だが、言われなくてもこの誘いに乗る気はない。
アタシは今日午後からバイトのシフトを入れている。
最初から昼食はバイト先のまかないで済ます予定だった。

「悪いけどアタシはパス。これからバイトなんだ」
「そっかぁ、残念」
「バイトしてるのか」
「駅前のカフェでな」
「……ふぅん」

タイオンの返答には妙な含みがあった。
うちの高校はバイト禁止でもねぇし別にいいだろ。
荷物をまとめ、“じゃあ”と手を振ると、セナとノアがにこやかに手を振って来た。
教室を出る寸前、視界に入って来たアタシを見るタイオンの顔が妙に不満げに見えたけれど、あまりに気にしないことにした。

***

バイトのシフトは昼過ぎから夜まで続いた。
ようやく仕事が終わったのは21時。
大学生の先輩に後を任せ、アタシは店のエプロンから制服に着替えて店舗を出た。
家に帰るため駅前の道を歩きつつ、スマホをチェックする。
すると、メリアの“何時ごろ帰る予定だ?”というメッセージのほかに1件の不在着信が来ていた。
誰からだろう。

「えっ、なんで……?」

歩いていた足が思わず止まる。
不在着信の主はタイオンだった。
アイツの連絡先なんて確か持っていなかったハズ。なのに何で……。
あ、そうか。クラスLINEを組んだから自動的に友達リストに追加されたのか。
でもなんで急に電話なんかしてきたんだ?

どうしよう。かけなおしたほうがいいよな、たぶん。
緊急の連絡かもしれないし。
自分のこと嫌ってる相手に電話するなんて気が乗らないけど、仕方ない。
道の端に寄ってレンガの壁に寄りかかると、まだ何もやり取りをしたことがないタイオンとのトーク画面を開く。
そして電話ボタンをタップすると、呼び出し音が鳴り響く。
暫く待っていると、ようやくスピーカーの向こうでタイオンが応答した。

『……もしもし?』
「あー、もしもし。アタシ、ユーニ」
『あぁ……。どうした?』
「電話しただろ?なんか用だった?」
『すまない。間違えてかけてしまったんだ。気にしないでくれ』

タイオンからの返答に肩透かしを食らってしまった。
なんだ。文句でも言われるのかと思ったけど、ただの間違いか。
そうと分かればもう特に用はない。
通話を長引かせるような話題もないし、もう切ってしまおう。
そう思い“じゃあ切るぞ”と口にすると、スピーカーの向こうでタイオンが焦りながら引き留めてきた。

『あっ、ちょ、ちょっと待ってくれ!』
「ん?なに?」
『いや、その……』

随分と焦って引き留めたにもかかわらず、いざこっちが聞き返すとタイオンは妙にしどろもどろになりながら言葉を詰まらせてきた。
なんだ?なにか言いたいことでもあるのか?
訳も分からず首を傾げながら待っていると、タイオンは軽く咳払いをした後か細い声で呟いた。

『……バイト、お疲れ様』
「あぁ、うん。ありがとう」
『……』
「えっ、それだけ?」
『それだけだ』
「あぁ……。そう」

なんだそれ。
焦って引き留めたから何かと思ったら、そんなことを言うためだったのか?
よく分かんねぇ奴……。

とりあえず別れを告げると、タイオンは“あぁ”とだけ返してきた。
通話を切り、スマホをブレザーの内ポケットに再び仕舞い込み歩き出す。
タイオンとの初めてのやりとりは、たった30秒足らずの電話で終了した。
けれど、そのたった30秒のやり取りが何故か心に残ってしまう。
アタシのことを嫌っているくせに、わざわざ引き留めてまで“お疲れ”と言ってくるその心境がよく分からない。
嫌な奴だと思ってたけど、案外そうでもないのかも。
そんなことをぼんやり思いながら、アタシは帰路についた。

***

Side:タイオン

クラス割を確認した瞬間、僕は平静を装いつつも歓喜していた。
薄かったユーニとの繋がりが、同じクラスになったことで一瞬にして濃くなった。
その事実が嬉しくてたまらない。
しかも座席もユーニの真後ろ。
遠かったユーニという存在が、一気に距離を詰めて来る。
この1年で心の距離まで詰められたらいいのに、なんて贅沢なことすら考えてしまう。

ノアやセナからの誘いにユーニが乗ってこなかったのは残念だった。
他にも仲間がいるとはいえ、彼女と学校以外の場所で会える最大のチャンスだったのに。
だが、ランツの提案でクラスLINEが組まれたことで、間接的に彼女の連絡先を手に入れることが出来た。
喉から手が出るほど欲しかったが、聞き出す勇気がなくてずっと諦めていた代物だ。
ユーニの連絡先が手に入ったことで、放課後の僕はずっと上機嫌だった。
ランツがセナに僕の気持ちをペラペラとバラしていたことには流石に一瞬だけ腹が立ったが、まぁいい。
今回だけは許してやろう。

ノア達と別れ、家に帰った僕は自室でひたすらスマホとにらみ合っていた。
ディスプレイに表示されているのは、まだ一度もやりとりがないユーニとのトーク画面。
折角連絡先を手に入れたんだ。何かメッセージを送りたい。
けれど、なんと送ればいいか分からない。
そもそも急に連絡なんてしたら不審がられるんじゃないだろうか。
最悪不気味がられるかも。

いやでも、少しでも距離を縮めたい。高校生活は残り2年しか残されていないのだ。
1年の間はただの顔見知り程度の関係から全く進展しなかった。
バレンタインに義理ですらチョコレートを貰えなかったダメージはまだ癒えていない。
今年こそは、付き合うとまではいかずとも、ちゃんと“友達”になりたい。
そのためには、迷っている暇などない。

考え込んでいると、不意にスマホが手から滑り落ちそうになった。
焦って左手で受け止めたその瞬間、親指が通話ボタンに触れてしまう。
まずい。そう思った時にはもう遅かった。
ユーニが応答する前に急いで切断するも、電話をかけてしまった事実は消えることがない。
今自分の画面に表示されているように、きっとユーニの画面にも僕からの着信履歴が残ってしまっているだろう。
失敗した。最悪だ。かけなおしてきたらどうしよう。
そんな不安は見事的中してしまう。

誤って電話をかけてから約1時間半後の21時過ぎ。
ユーニからの着信が入った。
恐らくこちらが電話をかけた時間はまだバイト中だったのだろう。
ようやくバイトを終え、スマホを確認したところ僕からの着信があったのでかけなおしてきたに違いない。

電話に出る瞬間が、ここ最近で一番緊張した。
ユーニとの初めての通話は、たった30秒足らずで終わってしまう。
こちらの間違い電話だと分かった途端すぐに切ろうとするユーニの態度が切なくて、随分としどろもどろな態度をとってしまった。
もう少し話がしたかった。声を聞いていたかった。
いつか、君と気兼ねなく世間話をしながら長電話をする日が来るのだろうか。
お互い切るのを躊躇って、結局2時間も3時間も通話してしまう。そんな夢のような関係になれればいいのに。

Act.04 少し可哀そうなマジメ君

新年度最初の全校集会は、通例通り体育館で行われた。
今回の全校集会で行われたことと言えば2つ。いつも通り特に実のない校長の長話と、生徒会役員任命式である。
前年の生徒会長から託される形で、新生徒会長のタイオンが壇上に登壇する。
うちの学校の生徒は全校合わせて800人前後いるけれど、全校生徒の視線を一身に浴びながらも、タイオンは一切緊張するそぶりなど見せず堂々スピーチをこなして見せた。

結構度胸あるんだな、あいつ。
まぁ、生徒会に立候補するくらいだから度胸くらいあるか。

生徒会役員は会長であるタイオンを含めて5人。副会長、書記、会計、会計補佐の面々である。
メンバーは全員2年生で構成されているものの、タイオン以外に知っている顔はいなかった。
強いて言えば、副会長に任免されたあのニイナという女子生徒は、成績の学年順位はタイオンに次ぐ2位の秀才であるということくらいしか知らない。
生徒会総選挙では、会長の座のみ生徒からの投票によって選ばれるが、それ以外の役職は会長になった人物による指名で決定される。

つまり、生徒会役員のメンバーとしてタイオンの周りを固めている面々は、会長であるタイオンが直々に選んだ精鋭ということになる。
たかが英語で勝っているだけのアタシにはあんなに敵意をむき出しにするくせに、学年順位で次点であるあのニイナは副会長に指名するほど仲がいいというのは少々納得がいかなかった。

春から一新された新しいクラスで、アタシはそれなりに馴染むことが出来ていた。
親友のセナや、幼馴染のノアやランツも同じクラスだったおかげだろう。
とはいえ、相変わらずタイオンとの距離感は険悪なまま。

席は前後だというのに、まともに会話を交わしていない。
前から回って来るプリントを後ろのタイオンに回すその瞬間だけが、アタシとタイオンと視線がかち合う唯一の時だった。
けれど、プリント片手に背後を振り返るアタシを、タイオンは毎回毎回険しい顔で睨みつけて来る。
眼鏡越しに瞳を細め、眉間にしわを寄せて睨まれるたび、苛立ちが募っていく。

なんだよ。毎回毎回親の仇を見るような目で睨みやがって。
そんなにアタシが嫌いかよ。
流石に毎回睨まれたらアタシだって気分が悪い。
こいつの前の席はものすごく居心地が悪いし、早く席替えしてほしい。
授業中も休憩中も、タイオンからの刺すような視線がとにかく気になって仕方がなかった。
流石に我慢の限界が来たのは、新学期に突入して1週間後のこと。
授業の合間の休憩時間に、アタシはおもむろに後ろのタイオンへと振り返った。
すると彼は驚いたように目を見開いたすぐあと、いつも通りのきつい目つきへと表情を変えた。

「……あのさ、前から聞こうと思ってたんだけど、なんで睨むわけ?」
「は?睨む?」
「いっつも睨んで来るだろ。廊下ですれ違う時とかプリント渡すときとか。今もめちゃくちゃ睨んでんじゃん」
「い、いや、睨んでなんていないが……」
「マジで言ってる?めちゃくちゃ睨んでるぞ。ホラ……」

ブレザーの内ポケットからスマホを取り出し、自撮りモードにしてタイオンへと画面を見せつけた。
画面に映し出されたのは、眉間にしわを寄せて険しい顔をしたタイオン自身の顔。
見せつけられた画面を凝視しながら、彼は少し驚いているようだった。
そして、ぎゅうっと寄っている眉間の皺に指を這わせると、動揺したように瞬きの回数を増やしていた。

「……すまん。睨んでいた自覚がなかった」
「なんだそれ」

無意識に睨みつけてたってこと?
アタシの顔を見て反射的に目つきが悪くなるほどアタシを嫌ってるってことだよな、それ。
どんだけこいつに嫌われてるんだよ、アタシ。
スマホを内ポケットに仕舞い、席に座ったまま窓を背に寄りかかると、アタシは足を組みながらタイオンと目が合わないよう遠くを見つめながら提案した。

「そんなに嫌ならさ、誰かと席代わってもらう?」
「え?」
「無意識に睨みつけるほどアタシのこと嫌いなんだろ?だったら席離してもらった方がアンタもいいだろ」
「いや、それはダメだっ」

考える間もなく拒否してきたタイオンに、思わず驚いてしまった。
目を丸くしながらタイオンへと視線を向けると、彼は表情を隠すように眼鏡を押し上げ言葉を続けた。

「自分たちだけ席を変えてもらうなんて不平等だろ。それに、その……」
「何?」
「……別に、嫌ってない。嫌うわけがない」
「はぁ。そうなの?」

口元を手で覆い、顔を逸らしているタイオンはやけに恥ずかしがっているように見える。
耳まで赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
もしかすると、本当はタダの恥ずかしがり屋なだけで、別にアタシのことも睨んでいたのではなくシャイがゆえに顔が強張っていただけだったりして。

「嫌な気持ちにさせたのならすまない。睨んでいるつもりはなかったんだ、ホントに。ごめん」
「いや、別にいいけどさ……」

先ほどまでの不機嫌丸出しな目つきがまるで嘘のように、タイオンはしゅんとしていた。
アタシのことが嫌いなわけじゃないってのは嘘ではないらしい。
全校生徒の前であんなに堂々と話していたのに、こうして対面で話すと顔が赤くなるほど恥ずかしくなるなんて、なかなか面白いギャップじゃん。
案外悪い奴じゃないのかもな、こいつ。

「なんかアタシ、タイオンのこと勘違いしてたわ。意外に可愛い奴だったんだな」
「“意外”は余計だ。“可愛い”もあまり嬉しくない」
「えー、なんだよワガママだなぁ」

笑いかけるアタシとは対照的に、タイオンはやっぱりムッとした表情のまま顔を逸らしていた。
今までだったら嫌われているからかと結論付けていたけれど、こいつの意外な一面を垣間見た今は“ただの照れ隠しだ”と分かる。
この日以来、ほんの少しだけタイオンとの壁が薄くなったような気がした。
気安く話すような仲にはまだなれないけれど、アタシの中でタイオンへの苦手意識はゆっくりと溶けてなくなっていった。

***

新学期が始まって数日。
今までは午前中で終わっていた授業が、明日から昼を挟んで午後まで続くようになった。
1年の頃は毎日購買でパンやおにぎり、弁当を買っていた私だったけれど、高校卒業後の一人暮らしを考えるとそろそろ節約し始めなくちゃいけない。
たかが菓子パン1個だけでも、毎日買っていれば塵も積もれば山となる。
毎日パンを購入するより、前日の夕飯の残りを詰めた弁当を持って行った方がコスパはいいだろう。

いつもより朝早く起きたアタシは、少し前に雑貨屋に寄って買った2段の弁当箱に昨日の残りのオムライスを詰め、隙間に適当に焼いたウインナーや卵焼き、きんぴらを詰めて見栄えをよくする。
料理は正直好きじゃないけれど、両親が亡くなって以降自活しなければいけない状況に身を置いていたおかげで、苦手なりにできなくはない程度に成長した。

とはいえ、性格上あまり細かいことは気にしないタイプなので、調味料の分量とか焼き加減はかなり適当。
不味くはないけれどとびきり美味しいわけでもない。これがアタシの料理だった。

その日、午前中の授業が終わるとすぐにセナが歩み寄って来た。
いつも通り購買で昼食を買いに行くお誘いである。
けれど、今日のアタシは弁当を持ってきている、それを伝えると、セナは大いに驚いていた。

「ユーニがお弁当!? 自分で作ったの!?」
「まぁな。晩飯の残りだけど」
「お前さんが料理とかイメージできねぇ―」

セナの会話に割って入って来たのは、幼馴染のランツだった。
ガタイのいい奴の背後には、ノアの姿もある。
ニヤニヤしながら揶揄ってくるランツに“うるせぇ”と文句を言って軽く蹴ると、ランツは大袈裟なほど痛がり始めた。
オーバーリアクション過ぎるだろ、こいつ。
呆れていると、ふざけているランツの肩に手を乗せたノアがセナににこやかに声をかけてきた。

「もし購買行くなら一緒に行こうか?俺たちもちょうど行くところだから」
「あっ、うん!行く!」
「タイオンも行くだろ?」
「いや、僕は朝コンビニで買ったから」
「そっか。じゃあ俺たちだけで行って来る。あとで戻って来るから」

そう言って、ノアはランツやセナを引き連れて教室から出て行ってしまった。
残されたのは前後の席に座っているアタシとタイオンの2人だけ。
やばい。なんか気まずい。
この状況で前に向き直って自分の席で食べ始めるのはやっぱり感じ悪いよな。
とはいえタイオンと喋ることなんてないしな。
迷っていると、鞄からコンビニの袋を取り出したタイオンが口を開いた。

「いつも弁当を持ってきているのか?」
「え?あぁいや、今年から弁当にしたんだ。1年の頃はアタシも購買で買ってたんだけど、今年からは節約しようと思って」
「なるほど」
「そういうタイオンはコンビニ飯なんだな」
「うちは昼に限らず夜もほとんどそうだから」
「えっ、そうなの?なんで?晩飯作らねぇの?」
「父子家庭だからな」
「ほえー」

知らなかった。タイオンって父子家庭だったんだ。
そういえば、アタシを一時的に面倒を見てくれたあのイスルギも、確か奥さんを早くに亡くしアタシと同い年の息子と2人で暮らしていた。
両親を亡くしたショックであの頃の記憶は曖昧だ。イスルギの息子の名前も顔も全く覚えていないが、すごく大人しい奴だったのは何となく覚えている。
あんまり話した記憶はないけれど、アイツもタイオンと同じように父子家庭で苦労してるんだろうな。
そう思っていると、なんとなく目の前の秀才と記憶の彼方にいるイスルギの息子の影が重なって見えた。

「夕飯もコンビニ飯って大変だな。栄養偏りそう。親父さんもタイオンも料理しないの?」
「父は仕事で忙しいし、僕も料理は得意な方ではないからな」
「ふぅん」

ちらっと目を向けると、タイオンはコンビニの袋から鮭のおにぎりを取り出して封を切り始めた。
袋にはもう1つおにぎりが残されている。そちらは梅のおにぎりのようだ。
毎日こんな食事をしているか。なんだかちょっとだけ可哀そう。
つい先日まで苦手意識を持っていたこの真面目な眼鏡君に同情している自分がいる。
そしてアタシは、いつの間にか自分でも思いもよらない提案をしていた。

「弁当作って来てやろうか?」
「……え?」
「ずっとコンビニ弁当だと体壊すだろ絶対」
「いやあの、作るって、君がか?」
「うん」
「……流石に大変じゃないか?」
「1人分作るのも2人分作るのも変わらねぇから別に」

軽い提案のつもりだった。
けれどタイオンはおにぎり片手に固まり、アタシの言葉に大いに困惑しているようだった。
そりゃそうだろう。そこまで仲良くないクラスメイトの女から、弁当作ってきてやろうか?なんて言われたら驚くに決まってる。
そんなに深刻に考え込まれると、こっちも少し気まずくなってしまう。
もしかすると本当は迷惑で、断る口実を探しているのかもしれない。

「まぁでも、アタシもそこまで料理得意なわけじゃないし、そんなに大したものは作れないと思うけど、それでもいいなら」

実際、タイオンの分まで弁当を作ること自体はそう大変なことではない。
むしろ二人分作ることで、夕飯の残り物を確実に消化できるという利点もある。
とはいえ、タイオンは見るからに気難しい性格だし、他人の作った弁当を毎日食べるなんて嫌かもしれない。
他人の握ったおにぎりを嫌がる潔癖なタイプも今時結構多いだろうから。
暫く考え込んでいたタイオンだったが、口に含んだおにぎりをごくりと飲み込むと、また表情を隠すように眼鏡を押し上げて言った。

「君が迷惑じゃないのなら、是非……」

意外な回答だった。普通に断られると思っていたから。
当然、こっちから言い出したことだし迷惑なんてことはない。
“分かった”と承諾すると、それ以降ノア達が教室に戻ってくるまで2人の間に会話は生まれなかった。

翌日。アタシは昨日と同じ時間に起床して二人分の弁当を作った。
中身は昨日の残りのハンバーグ。
合いびき肉と玉ねぎで作ったごくごく普通のハンバーグだ。
アタシのよりも少しだけ大きな弁当箱に、1つ分多くハンバーグを詰めて、隙間にはウインナーや卵焼き、ほうれんそうのお浸しを配置する。
正直、見栄えはそこまでよくないし味も特別うまいわけじゃないと思う。
タイオンは別にいいと言っていたし、まぁこんなもんだろ。

いつも通り午前の授業が終わり、昼休み開幕のチャイムが鳴り響く。
学食や購買に昼食を買いに行こうとするクラスメイトを横目に、アタシは用意していた二つの弁当箱を鞄から取り出した。

「はい、タイオンの」
「ホントに作ってきてくれたのか」
「そういう約束だったろ?」

大きい方の弁当箱を差し出すと、タイオンはお礼を言いながら受け取ってくれた。
弁当箱を開けると、そこには何の変哲もないハンバーグ。
あらかじめ2本分用意していた弁当用の箸を渡すと、迷うことなくタイオンはハンバーグに箸を入れた。

セナたちは昨日と同じようにノアやランツと購買にパンを買いに行っている。
彼らが帰ってくるまでは、昨日と同じくこの真面目な眼鏡君と2人きりだ。
さて何を話そうかな。そう思いながらハンバーグを一口食べてみると、なんだか塩味が強くて一瞬固まってしまった。
あれっ、昨日作りたてで食べたときはここまで塩味強くなかったんだけどな。
時間が経って味が変わってしまったのか。
あんまり人に食べさせる味じゃねぇな。自分から“作ろうか?”なんて提案しといてタイオンには悪いことをしたかもしれない。

「うまっ」

不意に聞こえてきたたった二文字の感想に、アタシは思わず振り返った。
ハンバーグ弁当を片手に目を丸くしているタイオンと視線が交わる。
すると視線は瞬時に逸らされ、表情を隠すように眼鏡を押し上げる。
深く考えずに口から無意識に漏れだしたのであろうその感想は、あまりにも素直で嬉しくなった。

「マジ?美味い?」
「ん、美味い」
「そっか。良かった」
「本当に美味い。今まで食べたハンバーグの中で1番美味い」
「あははっ、大袈裟だって」

正直、贔屓目に見てもアタシのハンバーグはそこまで褒められる代物ではないと思う。
けど、こうして手放しで褒めてもらえるのはやっぱりうれしい。
と同時に、大したことないハンバーグ弁当片手にちょっと感動しているタイオンに、なんだか同情を覚えてしまう。

父子家庭で毎日コンビニ弁当だって言ってたし、こんな普通のハンバーグにすら感動してしまうほどタイオンは普段マトモなものを食べてないってことなんだろうな。
そう考えるとめちゃくちゃ可哀そうじゃね?
父子家庭で食生活が偏っている状況にもかかわらず、入学以来ずっと成績1位をキープしてるなんて立派じゃん。
立派過ぎて何か泣きそう。

親がいない自分とちょっと重ねてしまうところがある。違うところと言えばアタシなんて比べ物にならないくらい頭が優秀ってところかな。
こんなアタシのそこまで美味くねぇ弁当でも喜んでくれるなら、タイオンにとって支援になるのなら、毎日作り続けるのも悪くないかもしれない。

「明日も作ってやるよ」
「えっ、いいのか?」
「この程度でタイオンの力になれるならお安い御用だって。がんばれよ、タイオン」

同情と応援の気持ちを込めて見つめると、タイオンは目を丸くしながら、首を傾げていた。
以降、タイオンに昼食の弁当を作ってやる日々が始まった。
渡した弁当箱はその日タイオンが持ち帰り、翌日洗った空の弁当箱と交換する形で中身の詰まった弁当と交換する。
これが2人のルーティーンだった。

ただ、毎日弁当を作ってもらうだけじゃ申し訳ないと思ったのか、タイオンは毎日空の弁当箱と一緒にリプトンの紙パックをアタシに奢ってくれるようになった。
弁当を渡す代わりにリプトンを奢ってもらうこの上納金のようなシステムに、アタシ自身も助かっている。

毎日そんなことをしているからか、何度かクラスメイトに“付き合っているのか”と質問されたこともあった。
あまり深くは考えていなかったけど、確かに付き合ってもいないのに弁当を作ってるって変な関係だよな。
でもまぁ、タイオンも嫌がっているわけでもないしアタシも負担はほぼない。
恐らくこの関係は、どちらかが音を上げるまで続くことになるのだろう。
今日もまた、弁当箱とリプトンがトレードされる。
弁当を食べながら控えめに喜んでくれるタイオンの誉め言葉を、いつの間にか楽しみにしている自分がいた。

***

Side:タイオン

「……あのさ、前から聞こうと思ってたんだけど、なんで睨むわけ?」

怪訝な表情でそう問いかけられた瞬間、あまりに予想外な言葉に面食らってしまった。
ユーニを睨んでいた自覚はなかった。
けれど、彼女がそう感じていたのならきっと睨みつけていたのだろう。
ユーニとの物理的距離が近づくと、無意識に視線が寄ってしまう。
顔がだらしなく綻びそうになるから、必死に表情筋を引き締めて眉間にしわを寄せていたのだが、その時の目つきが“睨んでいる”と捉えられてしまっていたらしい。

そんなつもりは微塵もなかった。
謝って誤解を解いたその日から、少しずつユーニとの距離が縮み始めたような気がする。
時々こちらを振り返っては、他愛のない会話を投げかけてくれる。
それだけじゃない。毎日僕のために弁当を作ってくれるようになった。
どういう風の吹き回しか分からないが、夕飯の残りを詰めただけだという弁当をわざわざ僕に差し出してくれるユーニの行動に、歓喜している自分がいた。

一昨日は春巻き。昨日はオムライス。今日は野菜炒めだった。
ユーニは親戚の女性と一緒に暮らしているはず。
夕飯はユーニ自身が担当しているらしいが、それはつまりこの弁当は全てユーニの手作りだということだ。
そう思うと、どの料理もものすごく美味く感じた。
毎日弁当のお礼にリプトンを貢いでいるわけだが、たかが100円しない程度の紙パックの飲み物だけを礼とするのは流石に申し訳ない気がする。
他に何か返せるものはないだろうか。

そんなことを考えながら家でユーニの弁当箱を洗っていると、玄関から扉が開いた音がした。
時刻は夜20時。こんな時間に帰って来るなんて珍しい。
リビングに入って来たのは、疲れ切った様子でネクタイを緩めている父だった。

「ただいま」
「おかえりなさい。早かったですね」
「あぁ。書類仕事が早く終わったのでな」
「夕飯はどうします?」
「すまん、外で食べてきた」

鞄を置き食卓に腰掛けた父は相当疲れているようで、スーツのジャケットを羽織ったまま肩を回している。
父は警察官で、所謂刑事というやつだ。
僕が3歳の頃、母が病気で亡くなって以降も父は仕事に忙殺されていて、こんな早い時間に家に帰ってくることの方が珍しかった。
幼い頃はそんな父に反抗心を抱いた時期もあったようだが、今では国の平和のため命を削っている父を心から尊敬している。
僕も警官を志すほどに、父という存在は僕の中で大きいものだった。

「ん?タイオン、それは何だ?」

キッチンカウンターの上に置かれた弁当箱を見て、父は質問を投げかけてきた。
あれはユーニから渡された弁当箱である。
家にあるはずのない見慣れないデザインの弁当箱に気付くとは、流石刑事の洞察力と行ったところだろうか。

「クラスの女子から預かったものです」
「何故弁当箱を?」
「それはその……。毎日弁当を作ってもらっているので……」

素直にそう伝えると、疲れ切っていたはずの父の表情はぱっと明るくなった。
期待に満ちた表情と声色で“ほう”と呟く父に、なんだか嫌な予感がしてしまう。

「彼女か?」
「い、いえ、違いますっ」
「彼女でもないのに弁当を作ってくれているのか。その子、お前に気があるんじゃないのか?」
「いや流石に……」

ユーニに毎日弁当を作ってやると提案された時は、正直僕もそれなりに期待した。
けれど、たぶん彼女はそんなつもりで作っているわけではない。
ただの同情というか、父子家庭である僕に親のいない自分自身の境遇を重ねて見ているだけなのだと思う。
そこに淡い恋心などはない。
この気持ちは、高校で再会したあの瞬間から今の今までずっと、僕からの一方通行でしかないのだ。

“タイオンっていうんだ?学年1位なんてすごいな”

高校に入学して最初のテストの結果が貼り出されたあの日、掲示板の順位表を見ながら彼女は微笑みかけてきた。
“すごいな”の一言に喜びを覚えるよりも、“久しぶり”の一言が無かった寂しさの方が勝ってしまう。
10年ぶりの再会だったというのに。

父がまたユーニとのことを聞いてくるよりも前に、浴室の方から“お風呂が沸きました”の機会音声が聞こえて来る。
どうやら風呂の用意が出来たらしい。
弁当箱を洗い終わった僕は、濡れた食器や弁当箱を布巾で拭き取りながら父に言った。

「先に入ってきてください。僕は後で入るので」
「そうか?じゃあ遠慮なく……」

食卓から立ち上がった父は、スーツのジャケットを脱いで食卓の椅子の背もたれにかけた。
バスタオルを片手に浴室へと入って行く。
浴室の扉が閉められたその瞬間、椅子に掛けられた父のジャケットがはらりと床に落ちた。
皺になるかもしれない。手を拭いて急いでジャケットを拾い上げると、内ポケットから父の警察手帳が床に落ちた。
顔写真と共にそこに記されていたのは“イスルギ”の文字。父の名前だった。

この警察手帳は、僕が子供の頃から憧れていたものだ。
小さな女の子が一人生き残ったひき逃げ事件の犯人を、執念の捜査で探し出し逮捕に漕ぎつけた父は、被害者の女の子に大いに感謝されていた。
父は覚えているだろうか。あの頃、家に引き取ってまで面倒を見ていたあの少女のことを。
家族を亡くし、当時失意の中にあったあの少女のことを。
たった1カ月間の間だけでも、自分の娘のように可愛がっていたあの少女のことを。
今や僕に毎日弁当を作ってくれる、あのユーニのことを。

Act.05 幼い笑顔のマジメ君

タイオンに弁当を作ってやる日々は、進学後1カ月経った今も続いている。
あいつは相当舌が安いのか、アタシが持ってくる弁当をいつも美味い美味いと完食してくれる。
あまりに美味そうに食うものだから、こっちも作り甲斐がある。
お陰で夕食を無駄に余らすこともなく、勿体ない思いをせずに済む。
タイオンに弁当を持っていくルーティーンは、アタシにとってもかなり助かっていた。

そんな日々が続く中、2年生に進学して最初の中間テスト期間がやってきた。
テスト前1週間は全ての部活や委員会の活動は停止され、みんな勉強に専念するよう促される。
アタシも一応ゼオンが部長を務めるアグリカルチャー部に籍を置いているが、ほとんど活動に参加していないため正直無関係だ。

高校卒業後はメリアの元から独り立ちすると決めているアタシにとっては、バイトでお金を稼ぐことも重要だけど、いい成績を取ることも十分重要だ。
一流とまではいかなくとも、それなりの大学に入って就職し、メリアに負担をかけた分孝行しなくては。

そのためにも、勉強は怠ることは出来なかった。
帰国子女である経歴のおかげで、英語に関しては別に勉強しなくても100点近い点数を取る自信がある。
けれど、そのほかの教科に関してはあまり自信がない。
出来ればそれなりに成績がいい奴に教えて欲しい。
さて誰に教えを請おうかと考えているアタシに、一人の適任者の顔が思い浮かんだ。

「はいタイオン。これ今日の分の弁当な」
「あぁ、すまない。いつもありがとう」

巾着で包んだ弁当をいつも通り後ろの席のタイオンに渡しながら、アタシはニコニコと満面の笑みを浮かべた。
弁当を受け取ろうとするタイオンは巾着を両手で掴んだが、そんな彼の手に弁当を渡すまいとがっしり巾着を掴み続けて放さない。
いつまで経っても弁当を放そうとしないアタシを不審に思ったのか、タイオンは眉を潜めながら“なんだ?”と問いかけてきた。

「タイオンってさぁ、1年の頃ずっと成績学年1位だったよなぁー?」
「……それが何だ?」
「アタシが作った弁当、毎日美味そうに食ってるよなぁー?」
「……」
「アタシさぁ、数学と物理が苦手なんだよねぇー」
「断る」
「はぁ?オイまだ何も言ってねぇだろ!」
「どうせ“教えてくれ”とでも言いたいんだろ?悪いが断る。人の勉強を見てやれるほどの余裕はない」

学年1位のタイオンなら、家庭教師役に適任だ。
いつも弁当で恩を売っている分、きっと快く頼みを聞いてくれるだろうと思っていたが、はっきりと断られてしまった。
なんだよ。毎日弁当作ってやってる人間に随分冷たいじゃねぇか。
ちょっとくらい力になってくれても良くね?

「んだよケチだなぁ。じゃあこの弁当は没収で」
「なぜそうなる。弁当はもらうぞ」
「駄目に決まってんだろ?勉強は教えたくねぇけど弁当は貰うってどんだけ強欲だよお前」
「だから毎日返礼にリプトンを上納してるじゃないか。そんなに言うなら今日は特別に紅茶花伝も追加してやる」
「いらねぇよ。甘ったるい飲み物2つとか、アタシを糖尿にしてぇのかよ」

どうあってもタイオンは首を縦に振ってはくれなかった。
没収しようとした弁当も、結局タイオンに強奪されて食いつくされてしまう。
折角恩を売るための弁当が、全くと言っていいほど役に立たなかった。
残ったのはリプトンと紅茶花伝というアホみたいに甘ったるい2つのミルクティーだけ。
仕方ない。ここは自分一人で何とかするしかない。
諦めたアタシは、その日の放課後一人で勉強するため図書室へと向かった。

図書室は特別棟の4階に位置している。
校内で最も静かな空間であるこの図書室は、テスト期間になるといつもより人の出入りが激しくなる。
中に入ると、並べられている机に生徒たちが行儀良く腰掛け、各々目の前に広げたノートや教科書を並べながら勉強に集中していた。
空いている席を探してうろうろしていたアタシは、端の席に見慣れた人物を見つけて歩み寄る。

「よっ、真面目君。勉強はかどってる?」

白いセーターを纏ったその背中を軽く叩きながら声をかけると、彼は肩をびくりと震わせながら振り返って来た。
どうやら無線イヤホンを耳にはめていたせいで声が聞こえず、必要以上に驚かせてしまったらしい。
耳のイヤホンを外しながら見上げて来るタイオンは、至極迷惑そうな顔をむけてきた。

「ユーニ、何だ急に」
「何の勉強してんの?数学か物理ならアタシに教えてくれてもいいんだぜ?」
「それはもう断っただろ?勉強は1人でするものだ」
「へいへい。んじゃあ言われた通り一人で頑張りますよっと」

やっぱりタイオンはアタシに勉強を教える気はないらしい。
アタシの弁当をしっかり甘受しておいてケチな奴だ。
けどまぁ仕方がない。実際、テスト期間に他人に勉強を教える余裕がある人間なんてそういないだろう。
タイオンは真面目で成績優秀な分、1点の重みがアタシら凡人の非じゃないのかもしれない。
時間を割けないと断られた以上、無理強いは出来ない。

タイオンの傍を離れて再び空いている席を探そうと歩き始めると、少し離れた場所に空いている椅子を見つけた。
あそこに座ろう。そう思い歩み寄ると、空いている席の隣に腰掛けている男子生徒の姿が視界に入り思わず足を止めてしまう。
中学頃からの同級生であるゼオンが1人で勉強している。
空いている彼の隣の椅子を引きながら、アタシはゼオンに声をかけた。

「お疲れ、ゼオン。隣いい?」
「ん?あぁ、ユーニか。どうぞ」

広げていた教科書をまとめながら、ゼオンはスペースを空けてくれた。
そんな彼の隣に腰掛けつつ、鞄から教科書とノートを取り出す。

「そっちも一人で勉強?」
「あぁ。部活が出来ないから暇でな」
「農民部……じゃなくてなんだっけ?アグレッシブカバディ部?」
「アグリカルチャー部だ」

ゼオンは農民部の部長を務めているが、彼自身畑弄りが趣味のようなものである。
部活動が禁止された今、やることが無くて仕方なく勉強をしているらしい。
そうえば、ゼオンも中学の頃はそれなりに成績優秀だった。
高校に進学した今も、学年トップ10には必ず食い込むほどの実力がある。
タイオンには少しだけ劣るかもしれないが、家庭教師役を頼むには十分すぎるほどの逸材なのではないだろうか。

「なぁ、アタシに数学と物理教える気ない?」
「ん?苦手なのか?」
「うん。めちゃくちゃ苦手。ちょっとでいいからさ。報酬はミルクティーでどう?リプトンと紅茶花伝があるぞ?」
「はぁ」

鞄から取り出したのは、弁当の報酬としてタイオンから受け取った二つのミルクティー
ゼオンはあまり食いついてはいなかったけれど、報酬が何もないよりましだろう。

「もし足りないってんなら、テスト期間中だけアタシが弁当作ってやる」
「弁当?」
「そ。結構好評なんだぜ?昼飯代浮くだろうし、ゼオンの好物作ってやる。これでどう?」

ミルクティーに加え、テスト期間中の弁当サブスクまで加えて報酬として差し出した。
アタシの作る料理に価値はそこまでないだろうけど、今日から1週間の昼飯代が浮くと考えると結構な報酬になると思う。
暫く腕を組んで考え込んだゼオンは、“よし”と頷いてくれた。

「分かった。1週間分の昼飯代は大きい。毎日1時間くらいでいいなら教えよう」
「おっ、マジ?超助かる!ありがとな、ゼオン

思わず大き目な声を出してしまい、周囲から迷惑そうな視線を向けられる。
しまった。ちょっと調子に乗り過ぎた。
慌てて口元を抑え、周囲の迷惑にならないようゼオンに顔を近付けながら小声で再びお礼を言った。

これで苦手な数学と物理はなんとかなるだろう。
ゼオンが優しい奴でよかった。どっかの真面目眼鏡とは大違いだな。
そんなことを考えていると、遠くから刺さるような視線を感じて顔を上げた。
少し離れた席から、タイオンが随分とむっとした表情でこちらを睨みつけている。

うわ、また睨んでる。もう睨まないって言ってたのに。
すると、タイオンはすぐに顔を逸らして視線を手元のノートに落とした。

そんなタイオンを横目に、アタシたちの勉強会は始まった。
ゼオンは随分教えるのが上手くて、説明される公式が全て面白いくらいにすんなりと頭に入って来る。
昔からゼオンは女子によくモテていた。
顔がいいからというのも理由の一つだが、一番の要因はこの優しいところにあるだろう。
クールなように見えて、なんだかんだ困った人を見過ごせないのがこのゼオンという男である。

それ以降、ゼオンは約束通り毎日1時間きっかり勉強を教えてくれた。
お陰で数学と物理への不安は日を重ねるごとに薄くなっていく。
ゼオンとの勉強会は毎日放課後の図書室で行われたが、テスト期間中に図書室に通い詰めているのはある程度決まった面々だということが分かった。
昨日も見た顔が、翌日も同じ席に座っているなんてよくあることである。
あのタイオンが毎日同じ席で一人で勉強しているのも、勉強会3日目ともなればもう見慣れた光景になっていた。

ゼオンに勉強を教えてもらっている間、時々周囲からの視線を感じてしまう。
そのほとんどは同じように図書室で勉強している見知らぬ女子たち。
恐らくはアタシじゃなくゼオンに熱視線を送っているのだろう。
モテる男は何もかも注目の的で大変だな。

こちらに注がれている女子たちの熱視線に交じって、鋭く刺すような視線も一部感じていた。
その視線の主は、あのタイオン。
じっとこっちを見ているようだったからこちらも視線を向けると、慌ててすぐに顔を逸らし誤魔化して見せる。
毎日ゼオンに勉強を教えてもらっている1時間の間、5回以上はそんなやり取りを繰り返していた。
いちいちじろじろ見やがって、何なんだよ。

そんなにうるさくしているつもりはないし、何か文句でもあるのか?
翌日以降、教室で会った時になんでじろじろ観察してくるのか聞いてみても、タイオンは“別に”と曖昧に答えるだけで何も理由を教えてはくれなかった。

そんな日々が続き、テストまであと2日と迫った日の昼間のこと。
アタシはいつも通り持ってきた弁当をタイオンに手渡すと、用意していたもう一つの弁当を手に立ち上がった。
“どこ行くんだ?”と問いかけて来るタイオンに、“ゼオンのとこ”と素直に答えると、タイオンは随分と驚いたように目を見開いた。

ゼオンって、隣のクラスのか?」
「そう。弁当渡しに行くんだよ」
「は?ゼオンにも弁当を作っているのか?」
「まぁな。勉強教えてくれてるお礼的な?」

この弁当はボランティアで作っているものではない。
勉強を見てもらっているお礼。要するに報酬だ。
いつもは朝登校する時に隣のクラスに立ち寄り、ゼオンの机に弁当を置いて済ましていたが、今朝は弁当を置いてくるのをすっかり忘れてしまった。
そのせいで昼休みに突入した今、ゼオンの元に届ける羽目になってしまったのだが、そういえばタイオンにはゼオンにも期間限定で弁当を作ってやっている事実を話していなかったっけ。

「……随分気前よく弁当を配っているんだな。弁当屋でも開業するつもりなのか?」
「放っとけよ」
「毎日のようにあの男に勉強を教わっているようだが、そんなに頭がいいのか、あいつは」
「どっかの学年1位さんほどじゃねぇけど、優しさで言えばあっちの方が上かな。頼んだら快く承諾してくれたし」
「悪かったな、優しくなくて。というか、何も僕の前で見せつけるように勉強しなくたっていいだろ……」
「は?見せつける?何の話?」
「……なんでもない。弁当はありがたく受け取っておく」

そう言って、タイオンはそっぽを向きながらアタシの弁当を食べ始めた。
気のせいだろうか、いつも以上に不機嫌なように見える。
けどアタシは別にタイオンの機嫌を損ねるようなことをした記憶はない。
協力できないと断って来たのはタイオンの方だし、別にこいつには関係ないはずだ。
なのに、どうしてそう妙に不貞腐れているんだろう。

変な奴。相変わらずタイオンはイマイチ何を考えているか分からない。
この気難しいトコロさえなければ、もう少し親しくなれたかもしれないのに。

***

今年度最初の中間試験は無事終了した。
不安だった数学と物理の出来は上々。
アタシにしては良く出来た方だろう。
テスト期間最終日。最後の科目が終了したことで、教室内はリラックスした空気が流れていた。
テストで気が立っていたのはみんな同じ。
ようやくこの緊張感から解放されたことで、クラスメイト達の表情にいつもの穏やかさが戻っていた。

「ふあぁ、どうしようユーニ。現文ボロボロだったよォ……」
「そんなに難しかったっけ?」

休憩時間が始まったと同時に、セナが泣きそうな顔でアタシの席に遊びに来た。
今は不在のタイオンの席に腰掛けたセナが、項垂れながら頭を抱えている。
どうやらついさっき終わったばかりの現代文の出来が相当悪かったらしい。
出来の悪さに嘆きながら“あー”での“うー”だの唸っている。

「ねぇねぇ、問4の記述問題なんて書いた?“それ”が指すものを答えよってやつ」
「えっと、確か“薬指にはめた指輪”にしたかな」
「うそーっ!私“牛カルビ弁当”にしちゃった……」
「え?“牛カルビ弁当”なんて話に出てきたか……?」

話を聞いている限り、確かに出来は悪そうだ。
可哀そうに。セナの現代文のテスト結果を聞くのがちょっとした楽しみになってしまった。
ケタケタと笑っていると、すぐ下から複数の男の笑い声が聞こえてくる。
この教室は2階に位置している。どうやら真下のグラウンドで誰かが騒いでいるらしい。
何事かと窓の外を見ると、グラウンドの水道で誰かがふざけているようだ。

「あれランツたちじゃない?」

セナに言われよく見て見ると、確かに水道で騒いでいるうちの一人はランツだった。
ガタイがいい分すぐに分かる。
ランツが水道の水を全開にして、周りにいる2人の男子たちに噴射してゲラゲラと笑っている。

水をかけられている2人の男子のうち、一人は黒い長髪を一つにまとめている特徴的な髪形のせいでこちらもすぐに誰か分かった。ノアである。
制服をびしょびしょに濡らしながら、ノアはランツの隣の蛇口に飛びつき反撃するかのように水道を全開にして噴射させている。
ギャーギャーと絶叫する声と共に、男たちの爆笑する声が響いていた。

「何やってんだアイツら……」
「テスト終わったからはしゃいでるんだねきっと」
「ガキかよ」

水道の水をかけあっているノアとランツ。そんな2人の間で抱腹絶倒しているもう一人の男子がいた。
一瞬誰か分からなかったのは、友人であるノアやランツと一緒にふざけ合っているその姿が、普段見ている真面目で堅物なイメージから遠くかけ離れていたからだろう。
制服を濡らし、腹を抱えて楽しそうに笑顔を浮かべているその青年は、タイオンだった。
2階の教室から見えるその幼い笑顔に、アタシの心は少しだけ騒いでしまう。

タイオンって、あんな風に笑うんだ。
あんな楽しそうな笑顔、初めて見た。
いつも仏頂面で真面目な空気を醸し出しているから、クールでとっつきにくい奴だと思っていた。
けれど、ノアやランツたちと一緒にふざけ合っている今の姿はいつもより幼く見える。
年相応に馬鹿な男子高生にしか見えない。
そんな姿を見て、親近感のようなものを覚えてしまったんだ。

なんかいいな、アイツ。
この妙な感覚を的確に言い表す言葉が見つからないけれど、今のタイオンを見ていると、胸がトクンと暖かな鼓動を打つのだ。
このむずむずした気持ちは、一体何だろう。

「ねー!なにやってるのー?」

隣で見ていたセナが、窓から身を乗り出して真下にいるランツたちに声をかけた。
セナの良く通る声は下の3人にも聞こえたようで、ノア、ランツ、そしてタイオンの3人は同時アタシたちがいる2階の教室の窓を見上げた。
不意にタイオンと目が合ってしまう。
すると、今まで浮かべていた純粋で少し幼い笑顔はすぐに引きつり、焦ったように視線を外しながら眼鏡を押し上げた。
いつの間にかタイオンの表情は、いつもの仏頂面に戻っている。
あーあ、さっきまでの笑顔、ちょっとかわいくて好きだったのに。

「打ち上げだ打ち上げー!お前らも来るかー?一緒に濡れようぜー!」
「ふざけてないでさっさと教室戻れっての—!もうすぐホームルーム始まるぞー?」
「あ、ヤバいぞ2人とも。あと5分で休憩時間終わる」
「マジで?急げ急げ」

ホームルームが始まるまで、あと5分を切っている。
時間を確認して焦った3人は、そそくさと校舎に戻って行った。
水道ひとつであんなにはしゃげるなんて、どこまでガキなんだあいつら。
呆れながらセナと話しているうちに、教室内のスピーカーから予鈴が流れて来る。
真面目なセナは予鈴に従い、腰掛けていたタイオンの席から立ち上がり自分の席へと手を振りながら戻って行った。
やがて、教室内にびしょ濡れの馬鹿男子3人が戻って来る。

白いハンドタオルで髪を拭きながら席に腰掛けるタイオンは、ノアやランツほどではないにしろ制服のズボン裾やワイシャツの袖を濡らしている。
いつも着ている白いセーターを脱ぎ、ワイシャツにネクタイの姿で一生懸命濡れた制服の水気を拭っているタイオンの姿をぼーっと観察しながら、アタシは呆れ笑いを零した。

「びしゃびしゃじゃん」
「ランツが馬鹿なことをやるからだ、全く……」

と言いつつ、タイオンも随分楽しそうにゲラゲラ笑ってじゃないか。
真面目で堅物な奴たけど、なんだかんだそれなりにノリはいいんだろうな。
じゃなきゃあのノアやランツと友達になってはいないだろう。

多分、さっき真下で見た楽しそうに笑う無垢な姿こそが、こいつの本質に違いない。
真面目な仮面が剥がれ、年相応な青年にしか見えないあの顔の方が、アタシは好きだな。
自分の席に座りながら身体ごと後ろを振り返り、タイオンの机の上に頬杖を突きながら、アタシは笑みを浮かべた。

「なんかタイオンって、意外に子供っぽいところあるんだな」

その年相応な幼さが、アタシには眩しく見えた。
そうやって取り繕ってない方が好きだったから。
でもアタシの一言は、タイオンにとってあまりうれしい言葉じゃなかったらしい。
眼鏡の向こうで目を見開くと、顔を真っ赤に染めながらぷりぷり怒って来た。

「なっ、誰が子供だ!アレはランツとノアがふざけていただけで僕は……!」
「あーはいはい。お前も十分楽しそうだったよ。なんかモロ男子高生って感じでさ」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないしてない。青春感があっていいなって思っただけ」
「……幼いと言われているようで嬉しくない」

不貞腐れたように顔を逸らしながら、タイオンはむくれていた。
そのいじけた表情すらも、今はどことなく幼く思える。
こういう気持ちを“親近感”と言うのだろうか。
少し胸を躍らせている自分の存在に、この時のアタシはまだ気付いていなかった。

***

Side:タイオン

勉強を教えて欲しいというユーニからの頼みを断ったのは、僕の実に個人的な事情からだった。
彼女は自分よりも頭がいい男が好きだと言っていた。
ただでさえ英語の成績で負けている僕が、これ以上ユーニの成績が良くなるようアシストするなんて出来るわけがない。

下手に勉強を手伝って、数学や物理の成績まで抜かれたら困るんだ。
ただでさえ眼中に入っていないのに、またユーニが遠のいてしまう。
だからこそユーニの頼みを断ったのだが、それ以降図書室でゼオンに勉強を教えてもらっているユーニの姿を見てすぐに後悔した。
僕に断られたからってすぐに代わりの男を見つけるなんて薄情じゃないか。

隣の席に座って、随分近い距離でコソコソ話しながら楽しそうに勉強を教わっているユーニが気になって仕方ない。
1人で勉強していた僕の視線は、何度も何度もユーニとゼオンの方へと吸い込まれてしまう。
あぁ、あの時ユーニの頼みを断っていなければ、今彼女の隣で勉強を教えていたのは僕だったかもしれないのに。
無駄な仮説を頭に浮かべては、悔しくなってしまう。

いっそ君の成績がもっと悪ければ、気兼ねなく懇切丁寧に勉強を教えられるのに。
ふたりきりで顔を突き合わせながらノートを開き、”教えて?”と首を傾げるユーニに頼られたい。
放課後君と一緒に過ごせる大義名分を自ら手放してしまったなんて、僕は本当に馬鹿だった。

毎日毎日飽きもせず2人きりで勉強をしているユーニとゼオンの姿を横目に、僕は必死で集中した。
お陰でテストはなんとかなった。
それなりにいい点数を取れているはずだ。
テスト期間が終わったということは、ユーニとゼオンが図書室でイチャつく光景ももう見なくて済む。
そう思うと、なんだかホッとしてしまう。

そのせいで、ノアやランツと羽目を外して馬鹿なことをしている光景を、ユーニにバッチリ見られてしまっていた。
最悪だ。案の定ユーニには“子供みたいだ”なんて言われてしまった。

ユーニの好みは、自分より頭が良くて優しい大人の男だ。
同い年である時点で厳しい立場なのに、この上“子供っぽい”などという烙印を押されたら、いよいよ相手にされなくなる。

けれど、自分の子供っぽさはそれなりに自覚していた。
ユーニが他の男と2人で勉強しているだけで悔しくなったり、ユーニが僕だけじゃなくゼオンにまで弁当を作ってやっていると聞いて苛立ったり。
多分、余裕のある大人の男なら、そんなことでいちいち落ち込んだりしない。腹を立てたりしない。

もっとスマートに、余裕をもって接したいのに、ユーニを前にするとどうも幼い心を隠せない。
いちいち全部顔に出て、不貞腐れた態度をとってしまう。
こっちを見てほしくて。構ってほしくて。
その心がまさに子供っぽいというのに、駄々をこねるのをやめられそうになかった。
ユーニの理想に近付くには、僕はまだまだ研鑽が足りないらしい。

Act.06 意外にチョロいマジメ君

中間試験の結果は、いつも通り廊下の掲示板に張り出された。
ゼオンが1週間かけてじっくり教えてくれたおかげで、数学と物理の成績はいつもより良かった。
英語に関しても、今回も学科別順位は見事に1位。
おかげで、またもやタイオンからむすっとした視線を向けられている。

2人の点差は僅か2点。その2点の差が悔しくてたまらないらしく、タイオンは結果が掲示されたその日一日ずっとむくれていた。
どんだけ悔しいんだよ。こっちは別に勝負しているつもりはないが、タイオンはどうあってもアタシに勝ちたいらしい。
“次は絶対勝つ”と宣戦布告されたが、“ハイハイ”と流しておいた。

中間試験の結果が掲示された翌日。
いつも通り学校へ登校すると、昇降口で見知らぬ女子生徒たちがはたはたと駆け寄って来た。
上履きの色から察するに、後輩の1年生だろう。
4人の女の子が、互いに遠慮し合いながらもじもじしている。
何の用なのか全く分からなかったから、“なに?”と少し強めに聞くと、輪の中にいた一番気の強そうな女子が口を開いた。

「ユーニ先輩ですよね?ちょっと聞きたいことがあって」
「なに?」
ゼオン先輩と付き合ってるって聞いたんですけど、本当ですか?」
「は?」

予想外過ぎる質問に、思わず聞き返してしまった。
ゼオンと付き合ってる?アタシが?
いやいやあり得ない。
ゼオンとはそれなりに親しいけれど、それはただ単に同じ中学出身で同じ物活だからというだけのこと。
ゼオンはアタシにとって、友達以外の何物でもない。

「テスト期間中ずっと図書室で一緒に勉強してたんですよね?付き合ってるんじゃないかって噂になってますよ」
「なんだそれ……。付き合ってねぇよ。あり得ねぇって」
「本当ですか?ホントのホントですか?」
「そこで嘘ついてどうするんだよ」

ハッキリと疑惑を否定すると、1年の女子たちは安心したように去って行った。
恐らく彼女たちは、ゼオンに想いを寄せるファンのような存在なのだろう。

アイツは顔がいい分あぁいう女子たちに好かれやすい。
アタシとゼオンの噂を聞いて、真偽を確かめようと突撃してきたのだろう。
まさか、図書室で一緒に勉強していただけで付き合っているなんて妙な噂が生まれるなんて思っても見なかった。
勉強中見知らぬ女子たちからの痛い視線はビシビシ感じていた。
あの時見ていた女子の誰かが、拡大解釈で変な噂を広めたのだろう。
全く面倒なことを。

上履きに履き替えて校舎にあがり、階段を登って教室へ向かう。
扉を開けて中に入ると、クラスメイト達の視線が一斉にこちらへと向いた。
何でこんなに注目されてんだ?
ゼオンとの噂がそれほど広がっているということだろうか。
窓際の席に腰掛けるタイオンと一瞬だけ視線が合った。
彼は昨日と同じように不機嫌な表情を浮かべたまま、顔ごと視線を逸らす。
何だあれ。感じ悪いな。

タイオンの態度にムッとしていると、廊下側の席からセナが駆け寄って来た。
彼女も登校早々例の噂を聞いたのだろう。
妙に切羽詰まった様子でアタシの腕を掴むと、ものすごい勢いで質問を投げかけてきた。

「ねぇユーニ!ゼオンって人と付き合ってるってホント?」
「あぁもうだから付き合ってねぇって!ただテスト期間中一緒に勉強してただけ!」
「そうなの?すごい噂になってるからてっきり……」
「ったく誰が広めたのか知らねぇけど迷惑だっつーの。適当なこと言いふらしやがって……」

どうやら例の噂は学年間問わず広がっているらしい。
こういうくだらないスキャンダルはその真偽を問わず広がるのが早い。
多分本気で噂を信じている層もいるのだろう。
この噂が消え去るまで、たぶんアタシは校内で“ゼオンの彼女だ”と認識され続けることになるんだろうな。
めんどくせ。

やがて担任のアシェラが教室に入って来たことで、クラスメイト達は各々自分の席に戻り始める。
アタシも急いでタイオンの前の席に腰掛け、荷物を置いた。
背後から感じる鋭い視線は、きっと昨日の英語の順位を未だに根に持っているからなのだろう。
そんなに睨むなよな、この粘着質男。

「さぁて諸君。来週は待ちに待った林間学校だな。当日の流れを書いた資料を配るから、後ろに回してくれたまえ」

何故かいつもよりテンションが高いアシェラは、手に持っていたプリントの束を各列の先頭に座っている生徒に手渡した。
アシェラの口から出た“林間学校”という単語に、教室内から“えー”というブーイングに似た声が上がる。
無理もない。
アタシたちにとって林間学校とは決して楽しいとは言えない行事なのだから。

林間学校は、毎年1年生と2年生の合同で行われている行事である。
山に入りテントを張って過ごす1泊2日のイベントだが、これがぶっちゃけ面倒でしかない。

1日目は山でのごみ拾いに費やされ、飯盒炊飯でカレーを作り、虫がうじゃうじゃいる夜の山にテントを張って寝袋で寝るのだ。
キャンプと言えば聞こえはいいが、ほとんど学校主体の強制的な社会奉仕活動旅行である。
去年既に経験済みだが、ただただ面倒だった記憶しか残っていないのだ。
そんな林間学校が、いつの間にか1週間後に迫っているらしい。
ゼオンとの噂といい、面倒なことというのは連続して続いてしまうものなんだな。

前から回って来たプリントを受け取り、自分の分を一枚とって後ろに回す。
振り返り、プリントを後ろの席のタイオンに渡そうとした瞬間、また目が合った。
眼鏡越しに見える褐色の瞳が、なんだかいつもより怒っているように見える。
まるでアタシを責めているかのような、そんな目だった。

そしてすぐに視線を逸らされる。不機嫌な様子を隠さないタイオンに、アタシはため息をつきたくなった。
なんだよ。なんでそんなに機嫌悪いんだよ。
英語で負けたくらいで不貞腐れるなんて、ホントに子供じゃねぇか。

苛立ちながらも、何故そんなに怒っているのか聞くことはなく、その日はほとんどタイオンと会話をしなかった。

***

「ユーニ、ちょっと」

昼休み。いつも通り持ってきた弁当をタイオンに渡した直後のことだった。
教室の外から名前が呼ばれた。視線を向けた先にいたのは、噂上でアタシの“彼氏”とされている男、ゼオンだった。
教室の入り口から手招きしているゼオンの姿は、明らかに目立っている。
クラスメイト達の疑惑の視線が突き刺さる中、堂々とアタシを呼び出してきたゼオンに、アタシは焦りを覚えてしまう。

遠巻きに見ているクラスメイト達は勿論、すぐ後ろの席でその様子を見ていたタイオンですら、含みのある視線を向けてきている。
その視線たちに居心地の悪さを感じつつ、速足でゼオンの元へと駆け寄った。

「何?つか堂々と呼ぶなよ。噂に拍車がかかるだろ」
「噂?何の話だ?」

アタシの言葉に、ゼオンは怪訝な表情を浮かべながら首を傾げていた。
まさか、噂になってること知らないのか?
アタシとゼオンの仲を疑って噂を広めているのは、恐らくゼオンに気がある女子たちだろう。
そういう奴らには、ゼオン本人に噂の真偽を確かめるような勇気はないらしい。
誰からも噂について聞かれることがなかったゼオンは、噂されていることすら知らないのだ。
じゃなきゃ普通、これ以上噂がひどくならないように相手を避けるはずだ。

「そんなことより、今日の放課後、部活に顔を出してくれないか?」
「は?なんで?」
「今日は収穫日なんだ。人手がいるからユーニにも参加してもらいたい」
「えーダリィ」

農民部、もといアグリカルチャー部では、様々な野菜や果物を育てている。
面倒を見ている農作物は、折を見て収穫作業を行っているのだが、今日はどうやらその収穫日らしい。

収穫した野菜や果物は、その日のうちに料理部へと献上され、彼らがその食材を使って料理やスイーツを作ってくれる。
収穫物を料理部が仕上げてくれた上で、美味しく頂けるのがアグリカルチャー部の数少ない楽しみである。

とはいえ、収穫の為にはそれなりに労力がかかる。
1人2人の力でこなせるものではない。
だからこそ部長のゼオンは、幽霊部員であるアタシにも声をかけたのだろう。
テスト期間が終わって暇とはいえ、流石に好きでもない畑仕事をこなすのは面倒だった。

「数学と物理、1週間教えてやったろ?」
「それはそうだけど、それは弁当作ったことでお礼したじゃん」
「断るのはいいが、それでいいのか?今日の収穫物は苺だぞ?」
「えっ」
「料理部に話しは通してある。苺大福を作ってくれるそうだ」
「……」
「収穫を手伝ってくれないなら、苺大福はお預けだな」

くそっ、その誘い方ズルすぎるだろ。
苺大福とかめちゃくちゃ美味そうじゃん。
いちご狩りだと思って参加すれば、案外楽しいかもしれないな。
確かにゼオンにはテスト期間中世話になったし、無下にするのはちょっと礼儀が無さすぎる気がする。
ここはゼオンの顔を立てると思って、協力してやろうか。

「しゃーねぇな。参加してやるよ」
「よし。じゃあ放課後、裏庭の畑で待ってるぞ」
「へいへい」

部活参加への要請を受け入れると、ゼオンは満足したように微笑みながら去って行った。
その背を見送り、アタシも席に戻る。
すると、先ほど渡した弁当を自席で食べていたタイオンがアタシをじっと見つめてきた。
その目は何か言いたそうだ。

「なに?」
「……別に」

視線を逸らし、弁当を食べ続けるタイオン。
今日のこいつはいつも以上に機嫌が悪いように見える。
少しは距離が縮まったと思ったが、なんだか勘違いだったみたいだ。

***

放課後、アタシは約束通り裏庭の畑に向かった。
既にそこには農民部、じゃなくてアグリカルチャー部の部員たちが集まっていちご狩りに興じていた。
かなり久しぶりに部活に参加したけれど、意外に人が多い。
見たところ、1年生の女子がやたらとたくさん入部したらしい。
恐らく、部長のゼオン目当てなんだろうな。

裏庭に設けられた畑はそれなりに広く、いろいろな野菜やら果物が土の中で眠っている。
その中で、苺が育っているスペースは畑の一番端の方だった。

他の部員たちに交じっていちごを収穫し、バスケットに集めて料理部に献上する。
料理部では既に苺大福を作る作業が始まっていて、あとはもちもちの大福に餡子と苺を詰めるだけだった。

この作業には、農民部のみんなも手伝うことになった。
料理部と農民部の連携によって、真っ赤な苺が埋め込まれた非常に可愛らしい苺大福が完成する。

新入部員である農民部の1年生女子たちにとっては、これが初めての“収穫”である。
可愛らしく完成した苺大福を前に、全員きゃっきゃ騒ぎながらスマホを構え始めていた。
アタシたちが1年生だった去年まで、立ち上がったばかりのこの農民部はハッキリ言って廃部寸前のマイナー部だった。
それが、部長のゼオンのビジュアルに釣られて今やたくさんの後輩たちが入部してくれている。
この現状に、鈍感極まりない部長のゼオンは満足そうにしていた。

「みんな楽しそうにしているな。農業に興味がある後輩がこんなにたくさんいるのは嬉しいことだ」
「興味があるのは農業じゃなくてお前の方だと思うけど……」
「ん?何か言ったか?」
「いや、別に」

ゼオンは頭はいいが、どこか抜けているというか天然の節がある。
自分の顔の良さを自覚していないらしく、農民部に入部してきた1年の女子たちも、単純に自分と同じように農業に興味があるから来てくれたのだと思い込んでいるらしい。
ハッピーな思考の持ち主だなホント。

呆れていると、ゼオンは完成した苺大福が盛られている皿を1つ持ち上げ、アタシに押し付けて来る。
何だ急に。首を傾げていると、ゼオンはまた面倒なことを言いだした。

「これ、生徒会長に届けてくれないか?」
「は?生徒会長って、タイオンに?なんで?」
「思いのほかたくさんの入部希望者がいたから、部の予算が明らかに足りないんだ。予算を上げるよう交渉してきてほしい。この大福は手土産みたいなものだ」
「なんでアタシが?お前が行けばよくね?」
「俺は会長と面識がないからな。ユーニは彼と同じクラスだろ。俺が行くよりは首を縦に振ってくれる可能性が高いだろう」
「いやそんなことはねぇと思うけど……」

どうやらゼオンは部の予算交渉に今日の苺大福を賄賂として使おうとしているらしい。
なるほど。アタシを半ば強引に今日の部活に参加させたのは、その交渉役をやらせるためだったのか。

部費の予算割を担当しているのは生徒会だ。
その会長であるタイオンに部費の交渉をするのは分かるけど、アタシが適任とは思えない。
確かにアタシはタイオンと面識があるけれど、アタシの交渉で簡単に靡くほどタイオンはチョロくない。
むしろ、最近のアイツはやけに不機嫌でとっつきにくい。
苺大福片手にアタシが交渉しに行っても、どうせ突っぱねられるのがオチだ。

「ユーニ、うちの部活の未来はお前にかかっている。何としても生徒会長をオトすんだ」
「いやいや。農民部、じゃなくてアングリーカルト部の未来なんて幽霊部員のアタシには荷が重すぎるって」
「アグリカルチャー部だ。もし会長を口説き落とせたら、次の期末試験も無償で勉強を教える。これでどうだ?」
「えっ、ホントに?」
「ホントに」

その交換条件はアタシにとってそれなりに都合が良かった。
今回好成績を収めることが出来たとはいえ、数学と物理が苦手な事実は変わらない。
期末試験も無償でゼオンから勉強を教えてもらえるならかなり助かる。
タイオンをいいように丸め込む自信はないが、この取引をモノにするためにトライしてみる価値はある。

仕方なく承諾すると、アタシはゼオンから押し付けられた苺大福の皿を受け取った。
皿の上に乗っているのは白いもちもち生地に真っ赤な苺が包まれた可愛らしい苺大福。
この賄賂を持って、アタシは苺大福の試食会が行われている調理実習室を出た。
向かう先は特別棟の1階にある生徒会室。
会長であるタイオンは、いつも放課後そこで生徒会の仕事をこなしているはず。
そこを訪ねるのは初めてのことだった。

生徒会室と書かれた扉をノックすると、中から“どうぞ”の声が聞こえてきた。
タイオンの声である。
ゆっくりと中に入ると、広い生徒会室にはタイオンだけがいた。
いちばん奥に設置されている生徒会長専用の席に腰掛け、何やら書類に目を通して考え込んでいるタイオンは、室内に入って来たアタシに目を向ける。
その瞬間、眼鏡の向こうで褐色の瞳が見開かれた。

「ユーニ……?」
「よっ、元気?差し入れしに来たぜ」
「差し入れ?」

生徒会室へと足を踏み入れ、ニコニコと笑みを浮かべながら背中に隠した苺大福の皿を差し出した。
タイオンが腰掛ける生徒会長専用の机の上に皿を乗せると、突然現れた可愛らしい苺大福に、タイオンの視線は釘付けとなる。
ぱちくりと瞬きを繰り返し、ペンを右手に持ったまま“これは…?”と問いかけてきた。

「今日収穫した苺で作った苺大福。結構美味いからお裾分け」
「君が作ったのか?」
「え?あー、まぁ、うん」
「僕のために?」
「そうそう。タイオンのために」

嘘だった。
この苺大福を作ったのは料理部の連中だ。アタシはほとんど見ていただけで作ってはいない。
しかもタイオンのために作ったというわけでもない。
けど、そう言った方がこの後の交渉がスムーズにいくような気がして適当なことを言ってしまった。
嘘も方便という奴だ。

アタシが差し出した苺大福に視線を落とし、タイオンがごくりと生唾を飲んだ。
この反応、間違いない。
こいつ、甘いものが好きなんだ。
弁当の返礼に毎日甘いミルクティーを献上してくるくらいだし、たぶん甘党なんだろうなとは思っていたけれど、まさにその通りだったらしい。
食べてみるよう促すと、タイオンは遠慮がちに苺大福を手に取って一口かぶりついた。
すると、いつもの仏頂面がふっと緩み、口元に笑みが浮かぶ。

「どう?美味い?」
「あぁ、すごく。わざわざ届けに来てくれたんだな。その、ありがとう。僕のために……」

苺大福をえらく気に入ったらしい。
こちらを見つめながら微笑んでいる彼はいつも以上に機嫌がいいように見える。
よしよし。これなら交渉も上手くいくかもしれない。
苺大福を手に満足げにしているタイオンに、アタシは意を決して本題に入ることにした。

「全然いいって。それよりさ、タイオンに頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「農民部ってあるじゃん?ゼオンが部長のやつ。あそこの予算もう少し上げてくんない?」

本題に踏み込んだ瞬間、柔らかかったタイオンの表情がスンッと真顔になった。
その豹変ぶりがなんだか少し怖い。
吐き捨てるようにため息を吐くと、彼は食べかけの苺大福を皿の上へと戻し、机に前のめりになりながら俯いた。
そして、低くどすの利いた声で囁き始める。

「……なるほど、これは賄賂か。何が“タイオンのために作った”だ」
「い、いやいや。賄賂なんて人聞きの悪い。その苺大福はアタシの善意だよ。善意!」
「こんなものを用意するほど部の予算を上げてほしいということか?随分と必死だな。ゼオンの……彼氏ためにそこまでするか」
「は?彼氏?」
「付き合ってるんだろ?彼氏のために何とかしようとするなんて、随分と健気なんだな君は」

語気を強めながら、タイオンは背もたれに寄りかかりつつ腕を組む。
どうやらタイオンも、最近校内に蔓延しているあのクダラナイ噂を真に受けているらしい。

タイオンの目から見れば、アタシは彼氏が部長を務める部活の予算を上げるために交渉に来た健気な女にしか見えないのだろう。
けれど、残念ながらアタシはそんな可愛らしいことをするタイプじゃない。
そもそもゼオンとは付き合ってないし、アタシがこうして交渉に来たのはゼオンの為でも部の為でもない。
単に自分の成績を保証するための打算的行動である。

「その噂お前も信じてるのかよ」
「デマだというのか?」
「当たり前だろ。ただ図書室で一緒に勉強してだけ。付き合ってなんかねぇよ」
「……本当か?」
「嘘ついてどうするよ」
ゼオンのことが好きとか、そういうことでもないのか?」
「好きでもねぇって。そもそもアタシ、同い年に興味ねぇし」

ゼオンとのことをことごとく否定してみせると、タイオンは“そうか…”と呟き目を伏せた。
こんなどうでもいい噂を勝手に信じられて対応を変えられるのはたまったもんじゃない。
私情で頼んでいるわけじゃないことを説明した後も、タイオンは予算上げを渋っていた。
そう簡単に許可できることではないのだろう。
とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
ゼオンに勉強を教えてもらうという褒章を得るため、そう簡単には諦められない。

「なぁ、頼むよタイオン。予想より多く入部希望者が来てやりくりが大変みたいなんだ。ちょっとでいいから。な?だめ?お願いっ」

生徒会長専用の机の前に膝を折り、席に腰掛けているタイオンの顔を覗き込むように手を合わせる。
無い可愛げをなるべく振り撒き、頼み込む。
すると、腕を組みながら黙りこくっていたタイオンは息を詰めながら顔をそむけた。
そして、かすれた声で独り言をつぶやく。

「そういう頼み方、卑怯だろ……」

卑怯?そんなにズルい頼み方をしただろうか。
タイオンの呟きの意味が分からず眉間にしわを寄せていると、彼は諦めたように深いため息を零した。

「分かった分かった。人数に応じた額に引き上げてやる」
「おっ、マジで?」
「あぁ。その代わりもう賄賂のようなやり方はやめろ。同じ手口で交渉しに来ても、もう乗らないからな」
「おーっ、ありがとなタイオン!意外に優しいじゃん!このこのォっ」
「ちょ、い、イキナリやめろっ」

タイオンは渋々ながらも予算の引き上げに承諾してくれた。
正直、可能性は低いと思っていたから素直に嬉しい。
これで期末試験の数学と物理の成績も保証されたも同然。
思惑通りに頷いてくれたタイオンに嬉しくなって、アタシは思わずアイツのもじゃもじゃ頭をわしゃわしゃと撫でまわしてしまった。
流石に頭を撫でまわされて迷惑だったらしい。
タイオンは顔を真っ赤にしながら抵抗してきた。

「いやぁホントありがとな!すげぇ助かった。流石生徒会長サマ。見直したよ、タイオン」
「お、大袈裟だ。君にはいつも、昼食の弁当のことで世話になってるし……」
「そういえばそっか。恩売っといてよかった。ゼオンも喜ぶよ。じゃあアタシもう行くな?お疲れっ」

とりあえず早いとこゼオンに交渉の結果を伝えてやろう。
そして期末試験の勉強を見てもらう約束を確約しておかないと。
そう思い、手を軽く挙げて生徒会長室から出て行こうとすると、タイオンは急に立ち上がってアタシの腕を掴んできた。
突然引き留められたことに驚き振り向くと、ほんの少し赤い顔をしたタイオンの顔が視界に入って来る。

「しつこいようだが、本当にゼオンとは付き合ってないんだな?噂はタダのデマなんだな?」
「えっ、あ、あぁ。付き合ってないけど……」
「……そうか。ならいい。引き留めて悪かった」

そう言って、タイオンは掴んでいたアタシの手を放し、ゆっくりと席に座り直した。
視線を逸らしているが、何故そんなにアタシとゼオンのことを気にかけているのだろう。
なんだか、まるでアタシのことが好きみたいな言動だ。

いや、流石に考えすぎか。好かれる理由もきっかけも思い当たらないし。
むしろ苦手意識を持たれていると言われた方がしっくりくる。
それくらいタイオンはいつも素っ気ないし。
きっと気のせいだ。朝突撃を仕掛けてきた1年生の女子たちと同じように、ただの好奇心で聞いてきただけのことだろう。
そう結論付け、アタシはゼオンに報告するために生徒会長室を出るのだった。

***

Side:タイオン

テスト期間が終了した直後、校内に蔓延し始めた噂に、僕は動揺を禁じ得なかった。
あのユーニが、隣のクラスのゼオンと付き合っている。
何を根拠にそんな噂が立ったのかは知らないが、あり得ないとは言い切れなかった。

実際、ユーニがゼオンと一緒にいる光景は何度か目にしている。
中学の同級生ということだったが、1年の頃から一緒に昼食を食べていたり、中間試験の時に毎日図書室で一緒に勉強していたり、それらしい行動をとっているのは確かだ。

ユーニのタイプは年上の男だったはず。
なのに、同い年のゼオンと付き合うなんて。
なんでそいつなんだ。僕じゃダメなのか。
確かに顔は整っているが、僕の方が成績は上じゃないか。
向こうの方が大人びているから、敵わなかったのだろうか。

正直、かなり落ち込んでいた。
やりきれなくて、ユーニに冷たくあたってしまった。
そのたび後悔して、下がってしまったかもしれない好感度を取り戻そうと試みるもやっぱり冷たくしてしまう。
そんな子どものような自分の嫉妬心にうんざりしていた。
ユーニ本人から“付き合っていない”とハッキリ明言されるまでは。

ただの噂でしかなかったらしい。
2人は付き合っていないうえ、ユーニもゼオンのことが好きなわけではないという。
その事実を聞いた瞬間、無性に安堵した。

そうか、付き合ってないのか。良かった。
彼女が持ってきた苺大福が、僕のために用意されたものではなくただの賄賂だった事実は気に入らないが、2人が付き合っていないという情報を得られただけで収穫は上々だ。

それだけじゃない。彼女は去り際、大胆にも僕の頭を撫でまわしてきた。
突然すぎるその行動に戸惑ってしまったが、心臓の高鳴りは止まらない。
ユーニが出て行ったあと、僕は暫く高鳴る胸を抑えながらずっと俯いていた。
多分今、死ぬほど顔が赤くなっているに違いない。

ふと、机に置かれた食べかけの苺大福が視界に入る。
僕のために用意されたものではない。
けれど、ユーニが僕に届けるためにわざわざ持ってきてくれたものであることは事実。
それだけで、心が浮き上がるほど嬉しかった。

半分ほど残った苺大福を口内に押し込むと、餡子の甘さと苺の酸味が同時に舌の上に広がった。
この甘酸っぱい感覚を、僕をユーニに恋をして以降ずっと味わってきた。
彼女に初めて会った日から今日まで、約10年間。この甘酸っぱさを忘れた日は一度も無い。

Act.07 急に近付くマジメ君

明日行われる林間学校は、1泊2日を予定している。
ほとんど学校指定のジャージを着用するため、着替えで荷物が膨れることはないが、それでも一応荷造りは念入りにしておきたい。
クローゼットの奥から旅行用の大き目の鞄を引っ張り出し、下着やインナー、学校のジャージなどを詰めていく。
一応はイベント事ではあるが、ほとんどの時間をゴミ拾いなどの奉仕活動で費やされるため正直楽しみとは言えなかった。

ようやく荷造りが終了したタイミングで、シャワーを浴びていたメリアが浴室から出てきた。
長い髪をタオルで乾かしながらリビングにやって来たメリアは、荷物が詰まった鞄のチャックを閉めているアタシを見て首を傾げている。

「その荷物は?」
「言わなかったっけ?明日林間学校なんだよ」
「あぁそういえばそうだったな。山にキャンプに行く行事か。楽しいだろうな」
「どこがだよ。全然楽しみじゃねぇし……」

1日目はゴミ拾いと山の散策、そして飯盒炊飯で費やされる。
夜は班ごとにテントを張って寒い中寝袋で眠り、2日目はまたゴミ拾いをして解散。
林間学校というよりただのゴミ拾い旅行である。
そんな退屈なイベントを楽しめと言う方が無理がある。

「そういう行事は積極的に参加しておくといい。大人ってからいい思い出になるからな」
「そういうもんかねぇ……。あっ!」

ふとメリアの方へと視線を向けた瞬間、彼女の手元を見てアタシは声を挙げた。
食卓に腰掛けたメリアは、テーブルの上に置いてあった読みかけの文庫本を開いていた。
その文庫本から引き抜かれたしおりには見覚えがある。
アタシの私物だ。
急いで食卓のメリアへと駆け寄り、しおりを取り上げる。

「ちょ、勝手に使うなって」
「ん?あぁすまない。しおりが他になくてな。そんなに大事なものだったのか?」
「当たり前だろ?前に言ったじゃん。イスルギから貰ったアネモネで作ったしおりだって」
「それがそうだったのか。ユーニの宝物というわけだな」

そのしおりは、白いアネモネの押し花で作ったものだった。
これは幼い頃、両親が事故で死んで泣いていたアタシを励ますため、イスルギがくれたものである。
当時イスルギ宅の花壇に生えていたアネモネをもぎってアタシにプレゼントしてくれたのだ。

泣いているアタシは、差し出されたそのアネモネに喜んで、涙を引っ込めた。
貰ったアネモネをずっと大切に持っていられるよう、イスルギそれを押し花にしてしおりとして改めてアタシにくれたんだ。
イスルギから贈られた、最初で最後のプレゼント。
このしおりはアタシにとって、初恋の人から貰った宝物だった。

幼いながらイスルギに淡い恋心を抱いたのは、あのアネモネがきっかけだったように思う。
思い入れの強いこのしおりを、今でもアタシは使い続けている。
いつかイスルギに再会したとき、これを見せてお礼を言いたいから。

***

翌日。いつも通りの時間に起床したアタシは、制服ではなく学校指定のジャージに身を包み、林間学校用の荷物を持って家を出た。
集合場所は学校のグラウンド。
そこでクラスごとに分かれた大型バスに乗って、宿泊先となる山岳地帯へと向かうのだ。

学校に到着すると、既に大型バスが何台も並んでいて、その周りには荷物を持った生徒たちがたくさんいた。
アタシのクラス、2年2組を乗せる予定のバスへと近づくと、担任のアシェラがバスの添乗員と立ち話をしていた。
どうやらほとんどのクラスメイトが既にバスに乗り込んでいるらしい。
すぐに乗り込むよう促されたアタシは、アシェラの言葉に従い大型バスへと乗り込む。

既に車内は席を確保したクラスメイト達で溢れていた。
空いている席を探していると、後ろの方の席に腰掛けていたセナが座席の間から手を振っているのが見える。

「ユーニおはよー!ここ空いてるよー!」

どうやらセナが席を確保してくれていたらしい。ありがたい。
速足でセナの元へと近づくと、彼女の隣にはランツが我が物顔で座っていた。
その前の座席にはノアと別のクラスメイト。
あれ。空いてないじゃん。

荷物を手にキョトンとしていると、ランツがすぐ後ろの席を指さして“後ろ後ろ”とニヤついている。
なんだか嫌な予感がした。
セナとランツが座っている席のすぐ後ろを覗き込むと、窓際の席に腕を組んだタイオンが腰掛けている。
その隣、通路側の席が空席だった。
“空いてる”って、タイオンの隣の席かよ。
戸惑っていると、アタシの様子に気付いたタイオンがムッとしながら見上げてきた。

「なんだその顔は。嫌なら別の席に行ってくれていいんだぞ?」
「別に嫌なんて言ってねぇだろ?その代わり、アタシ車酔いしやすいから窓際譲ってもらっていい?」
「……仕方ないな」

渋々立ち上がったタイオンは、アタシに窓際の席を譲ってくれた。
奥の席に腰掛けたアタシのすぐ隣に、タイオンが座り直す。
前の席に並んで腰かけているランツとセナのカップルが、何故かこっちを振り返りながらニヤニヤと笑みを向けてきた。
なんでそんなニヤついてるんだ。
タイオンもタイオンで、さっきからそっぽを向いたまま何も喋らない。
なんだか変な空気だ。正直居心地はあまりよくない。

そんな中、バスはようやく発車する。
林間学校の舞台となる山岳地帯を目指し、バスは数台列をなして街中を走行している。
見慣れた街を抜け、暫く走った先で少し懐かしい景色が流れ始めた。
昔、両親が死ぬ前に住んでいた街である。
窓の外に流れる街路樹も、歩道橋も、商店街も、どこか見覚えがある。
その景色を横目に見ながら、予感がよぎってしまう。

まずい。この道は嫌だ。
このまま真っ直ぐ進んだ先には、あの交差点がある。
両親がひき逃げに遭った、あの交差点が。

例の事件があって以降、あの交差点には何度か行ったことがある。
事故の現場検証という形で、警察と一緒に行ったこともある。
その度あの瞬間のことが脳裏によぎって、気分が悪くなる。
手足が震える。冷や汗が出る。吐き気に襲われる。
こうなると分かっているからこそ、それなりに成長して以降はこの交差点に近付こうとはしなかった。
まさか、バスがこのルートを通るなんて。

交差点が近づくにつれ、手が震え始めた。
どうしよう。気持ち悪い。正気を保っていられない。
けれど、アタシは両親をこの交差点で亡くしている事実を誰にも話していない。
同じ中学出身のノアやランツにも、親友のセナにさえ、誰にも言わなかった。
同情されたくなくて、かわいそうな孤児だと思われたくなくて、ひた隠しにしてきた。
バレたくない。でも、恐怖心を隠せない。

なるべく窓の外の景色が視界に入らないように俯き、膝の上に置いた手元に視線を落とすアタシだったけれど、それでも視界の端に交差点の様子が僅かに見えてしまう。
今は信号待ちをしていてバスは停車しているけれど、このまま信号が青になって走り出せば、例の交差点を突っ切る羽目になる。
怖い。通りたくない。見たくない。
どうしよう、どうしよう。

手の震えがピークに達する。
そしてついに信号が青に切り替わり、バスは発進する。
アタシを乗せたバスは、ゆっくりと両親が死んだあの忌々しい交差点に近付いていく。

だめだ。耐えられない。
肩をすくませ、襲い来る恐怖心に耐えようと身体を固くしたその瞬間だった。
隣から手が伸びて来る。
その手はアタシの頭を包み込むように回され、大きくて褐色の手がアタシの目元を覆った。
突然遮られた視界に戸惑う。
えっ、なに?何が起きた?
急に目を隠されたことに戸惑っていると、左隣からタイオンの声が聞こえてきた。

「交差点を通り過ぎたら教えるから」
「えっ……」

アタシの視界を遮るように目を覆ってきたのはタイオンだった。
右手を延ばし、抱き込むように目を塞ぐタイオンの気配が、驚くほど近くに感じる。
なんで?どうしてアタシがこの交差点にトラウマがあるって知ってるんだ?
塞がれた手の間からちらっとタイオンを盗み見ると、アタシの目元を覆いながらアイツは少し赤い顔をしていた。
ふいっと視線を逸らしつつも、アタシの視界を覆う手の力を緩めようとしない。
なんだか、守られているみたいだった。

分からない。
タイオンがアタシのトラウマを知っている理由も、庇うみたいに優しくする背景も、こんなことをしながら顔を赤くしている理由も、何もかもが不明瞭だ。
分かっているのは、タイオンが優しいという事実だけ。
アタシの目元を覆うタイオンの手はやけに温かくて、むしろ熱いくらいだった。
この温もりを肌で感じながら、胸がぎゅっと締め付けられる。
どうしよう。今のアタシ、たぶん今カッコ悪いくらい顔が赤くなっている。

「……もう通り過ぎたぞ」
「あ、ありがと……」

交差点を無事通過したことで、タイオンはアタシの目元から手を放した。
離れていくタイオンの気配に惜しくなって、密かにがっかりしている自分がいた。
隣に座っているタイオンの方を見ることが出来ない。
左半身に感じるタイオンの気配に、いつの間にか緊張してしまっていた。

あれっ、アタシ、もしかしてタイオンのこと——。

そこまで考えて、ふるふると頭を横に振った。
ちょっと優しくされただけでドキッとするとか、どんだけ単純なんだよアタシ。
違う違う。そんなんじゃない。
珍しく優しくされてびっくりしただけ。ただそれだけのことだ。
そう言い聞かせていたアタシだったけれど、心臓の高鳴りが治まることはなかった。

***

林間学校の舞台となる山は、普段登山客が多く訪れる人気の山でもあるらしい。
人の入山が多いせいか、その分落ちているごみの量も多かった。

山について早々、アタシたち生徒は班ごとに分かれてゴミ拾いをさせられた。
トングとゴミ袋片手に、落ち葉がたくさん落ちている山の中を練り歩く。
アタシが所属している班は、ノア、ランツ、セナ、そしてタイオンで構成される5人の班だった。
まぁそれなりに仲のいいメンバーで組めたのはいいけれど、だからと言ってこの退屈なゴミ拾いが楽しくなるわけでもなかった。

山中だというのに、落ちているゴミの種類はかなり豊富だった。
ペットボトルや缶はもちろん、お菓子の袋やパンの袋。
しまいには何故か自転車やブラウン管のテレビといった大物まで捨ててある。
どういう状況になったら山に家電を捨てようなんて発想に至るんだよ。
“そのうち死体でも見つけちまったりして”なんて言うランツの尻に一発蹴りをお見舞いしてやった。
当たり前だが死体なんて見つかるわけもなく、陽が傾いてきたところでゴミ拾いは終了となった。

次に行われたのは、これまた班ごとに分かれての飯盒炊爨。
作るメニューはベタにカレーである。
まぁゴミ拾いよりは楽しめるだろう。
問題は、班員のアホな男子たち。主にランツがふざけて変なものを入れないかどうかにかかっている。
行きのバスの中で、チョコボール片手に“これカレーに入れようぜ”なんで馬鹿なことを言っていたくらいだから目が離せない。

食材を任せるのが怖かったので、ランツにはセナと一緒に米炊き係を任命した。
残ったアタシとノア、タイオンは、カレーの食材を各々人数分切っていく。
食事は用意ができた班から順に食べるため、あまり手間取ると食事の時間が無くなってしまう。
ここは班員同士の連携と効率的な動きにかかっていた。

料理に関してはそこまで上手くはないが、慣れてはいると思う。
メリアの帰りが遅いときはいつもアタシが作っているし、美味いかどうかは置いといて、たいていの家庭料理は作ることができる。
カレーも例外ではなかった。
配られた調理用のナイフを使い、アタシは手早く玉ねぎを切り刻む。
ちょっと目が染みるけどここは我慢だ。

右隣ではノアがニンジンの皮をむいていた。
こいつも料理はそこまで縁がないようだが、元来器用な奴だからか意外にも手際はいい。
問題は、左隣でジャガイモを切っているタイオンだ。

マジメで堅物なこの眼鏡は、さっきから人数分のジャガイモと睨み合いながらゆっくりゆっくり包丁を入れている。
正直言って、その手際はクソほど悪かった。
ジャガイモ一つ切り終わるのに5分は流石に時間がかかりすぎだ。
よく観察してみると、包丁を握るその手つきがあまりにもたどたどしく、あまりにも危なっかしい。
まるで幼稚園児が初めて果物を切る瞬間に立ち会っているかのようだった。

タイオンは父子家庭で毎日晩飯はコンビニ飯だと言っていた。
恐らく、父親もタイオン自身も全く料理をしないのだろう。
不安になるほど危なっかしい手つきが、その事実を物語っていた。

ダメだ。このままこいつに包丁係を任せていたら、いつか野菜と一緒に自分の手も切り落としかねない。
ノアが担当しているピーラーでの皮むきならけがをする心配もあまりないし、役割を交代させた方がいいかもしれない。
そう思ったアタシは、一生懸命ジャガイモに包丁を入れているタイオンに横から声をかけた。

「なぁタイオン」
「え?痛っ!」

不意にタイオンが彼らしからぬ大声をあげた。
アタシが横から急に話しかけたせいで気が散り、包丁で指を切ってしまったらしい。
指先に負った切り傷から、ぽたぽたと血が流れている。
あぁまずい。集中している人間に急に声なんてかけるもんじゃなかったな。

「ちょ、大丈夫?」
「あ、あぁ、平気だ。気にするな」
「いやめちゃくちゃ血出てるじゃん。結構痛いヤツじゃん」
「これくらい平気だ、ホントに」

血がこぼれる左手の指先をぎゅっと握りこみながら、タイオンは何故かやせ我慢している。
傷は軽症だが、包丁で切った傷を甘く見てはいけない。
それに、流血している人間に再び食材を触らせるのは衛生的によくない。
早急に手当てする必要があるだろう。

「とにかくこっち来て。ノア、ちょっとここ頼んでいい?タイオン手当てしてくる」
「あぁわかった。後はやっとくよ」
「すまない」

後のことはノアに任せ、アタシは負傷したタイオンの腕を引っ張ってその場を離れた。
向かった先は、少し離れた食事スペース。
丸太を並べて作られた机と椅子が設置してあるその場所に、生徒たちは荷物を置いていた。
タイオンを椅子に座らせると、自分の荷物を漁ってポーチを取り出す。
痛み止めや絆創膏なんかが入っているエチケットポーチである。
その中から絆創膏を取り出すと、負傷した指を抑えながらタイオンは目を丸くした。

「そんなものいつも持ち歩いてるのか」
「まぁこれでも一応女子なもんで」
「人は見かけによらないな」
「喧嘩売ってる?」

せっかく手当てしてやろうと思ったのに生意気な奴。
少しムッとしながらアタシは負傷しているタイオンの左手を握った。
指先がぱっくり切れている。結構痛そう。
切れた傷から、血がぷっくりと溢れてきた。
このまま絆創膏を貼ってもすぐに剥がれてしまうかもしれない。
血を拭わなくちゃ。

反射的にタイオンの指を咥えようとしたアタシだったけれど、口を開けた瞬間タイオンがピクッと手を引きかけたことに気付いてやめた。
流石に指を咥えられるのは嫌だったかな。
ポケットからハンカチを取り出してタイオンの指をぎゅっと抑え込み、止血する。
すると、空いている右手で眼鏡を押し上げたタイオンが視線を泳がせながら口を開いた。

「……ハンカチ、汚れるぞ」
「ハンカチは汚すためのもんだろ」

十分止血したところで手に持った絆創膏をタイオンの指先に丁寧に巻き付けていく。
隙間があると黴菌が入り込むから、なるべく空気が入らないようにきつく巻く。
触れているタイオンの褐色の手は、アタシのよりも少しだけ大きくて骨ばっていた。
がり勉の優男だと思っていたけど、意外に手はちゃんと男らしいんだな。

「ハイ、応急処置終わり。あとで消毒しておけよ?」
「あ、ありがとう……」
「てか、学年1位の秀才君にも苦手なことってあるんだな」
「失礼な。別に苦手なわけじゃない。経験がないだけだ。僕だってその気になれば料理くらい……」
「まぁいいんじゃね?料理なんて出来なくても。料理好きな女と結婚して作ってもらえばいいじゃん」
「……君は料理、好きなのか?」
「いや全然。だからアタシも料理上手い奴と結婚したいわ」

苦手ではないけれど、料理は正直言って好きでもなかった。
可能ならなるべくやりたくない。
だから将来は料理ができる男と結婚して、毎晩美味いものを作ってもらいたい。
そんなささやかな願望があった。
料理が好きじゃない事実を素直に吐露したアタシに、タイオンは顔をそらし何故か少しだけ悔しそうな顔でか細く呟く。

「……じゃあダメじゃないか」

え?ダメ?何が?
呟かれた言葉の意味を理解するよりも前に、タイオンは椅子から立ち上がってしまった。
“ありがとう”と小さくお礼を言うと、そそくさと調理場へと戻っていく。
何だったんだろうか、今のは。
気のせいだよな、なんか今、すごい思わせぶりなことを言われたような気がする。

え?マジで?そういうことなの?タイオンってそうなの?
アタシは残念ながら、少女漫画に出てくるような鈍感でかわいらしい性格の女じゃない。
どちらかというと勘が鋭い方だし、察しもいい方だ。
だからこそ疑惑を抱いてしまう。タイオンに好かれているのではないかという疑惑を。

けれど、勘がいいからと言ってすべての仮説が正解とは限らない。
もし違ったら、めちゃくちゃ痛い勘違い女になってしまう。
“タイオンってアタシのこと好きなの?”
そう問いかけた結果、眼鏡越しのあの冷たい目で“何言ってるんだ?勘違いも甚だしいぞ”なんて吐き捨てられたら、きっと羞恥心で死にたくなるに違いない。

どうしよう困った。
タイオンに好かれているかもしれない。でもそう思い込んで勘違い女になりたくはない。
こういう時、どんな行動をとればいいんだろう。
アタシの好みは、自分よりも頭がよくて優しい年上の男。そう、イスルギみたいな男だ。
タイオンは確かにアタシより頭もいいし、優しさも不器用ながら感じられるけれど、残念ながら同い年だ。
アタシのセンサーには引っかからない。

なら別にどうでもいいじゃないか。
好かれていないならそれで全然かまわないし、もし告白されてしまったのなら断ればいい。
アタシから何か行動する必要も、タイオンのことを必要以上に意識する必要もない。
放っておけばいい。なのに、どうしてだろう。
去っていくタイオンの背中を見ているだけで、心臓がうるさくて仕方ない。
今日のアタシは、なんだかちょっと変だ。

***

Side:タイオン

10年前のあの日、ユーニに出会った日のことは今でも昨日のことのように思い出せる。
小学校に上がったばかりの6月。
母を早くに亡くしていた僕は、父が多忙だったこともあり家で一人きりで留守番していることがほとんどだった。
その日、珍しく早く帰ってきた父は、見知らぬ女の子の手を握っていた。
警戒するようなあの大きくて青い目は、今でも忘れられない。

父は言っていた。
家族がみんな交通事故で死んでしまったから、引き取り手が見つかるまでしばらく預かることになった、と。
さらにこうも言っていた。
家族が車に轢かれる瞬間を、彼女は目の前で目撃してしまったのだと。
だからあんなにくすんだ眼をしているのか。

彼女、ユーニは、僕と同い年だった。
明るくてちょっと男勝りで、“穏やか”とか“おとなしい”とか、そういう言葉とは対極の位置にいる子だった。
彼女はいつも騒がしかったけれど、そんな彼女のやかましさがカラ元気だったという事実に、幼いながら僕は気づいていた。

父の目があるところでは元気で馬鹿なふりを装い、父の目が届かないところで彼女はいつも泣いていた。
けれど、彼女だって泣きたくて泣いているわけではないのだろう。
いつも歯を食いしばりながら般若のような顔でボロボロ泣いているさまは、涙を流すまいと我慢している表情だったに違いない。

他人に対して、“かわいそうだ”という感情を抱いたのはあれが初めてだった。
僕も母がいない。けれど亡くなったのは物心つく前の話で、当時の悲しみなんてこれっぽっちも覚えていない。
けれど、ユーニは違う。いつも通りの日常を送っていたら急に家族が全員いなくなったのだ。しかも目の前で。
泣かない方がおかしいだろう。

かなり不細工な顔で涙をこらえているユーニに、僕は言った。“かわいそうだ”と。
その瞬間、思い切り頭を平手ではたかれた。
スパーンッと小気味のいい音と共に頭に走った衝撃に、僕はあっけに取られてしまう。
当時は何故叩かれたのか分からなかったが、今ならわかる。無神経だったと。

影で涙をこらえていたユーニを何とか元気づけたくて、幼いながらに知恵を絞る。
とにかく喜ばせたくて、僕は当時自分が一番大切にしていたものを贈ることにした。

あの頃、僕は蛹の飼育にハマっていた。
芋虫が蛹に代わり、そして美しい蝶となって羽ばたいていく一連の様子が非常に神秘的で、知的好奇心を刺激させられる。
今まで大切に育ててきた蛹たちが入った虫かごを、僕はユーニにプレゼントした。

が、どうやらユーニの好みとは違っていたらしい。
虫かごを差し出した途端、絶叫と共に平手で今度は頬をぶたれた。
後にも先にも、他人にあんなに全力でビンタされたのはあれが初めてだった。

2度も女の子にしばかれた僕は、もうどうしていいか分からなかった。
けれど、何故かどうしてもユーニを放ってはおけない。
どうにかしてユーニを慰めたくて、喜んでほしくて、笑ってほしくて、最終手段に出た。

家の裏庭に並んでいた花壇に植えられていたアネモネを一輪もぎ取って、ユーニに差し出したのだ。
その花が、亡くなった母が生前大事に育てていたものだと聞いたのは事後のことである。
お陰で、今回はユーニではなく父にこっぴどく叱られた。
だが、肝心のユーニは僕の差し出した白いアネモネを手に嬉しそうに笑ってくれていた。
それだけで満足だった。

花を気に入ってくれた様子のユーニに、父は気を利かせてその花を押し花にすると、しおりとして改めてユーニに贈っていた。
可愛らしいしおりに姿を変えた僕のアネモネを手に、ユーニは満面の笑みで“ありがとう”と口にする。
その時の笑顔を見て、心が跳ねた。
そして気付いたのだ。幼い僕の胸に、恋心が芽生え始めていることを。

それから数年後。
入学した先の高校でユーニと再会できたのは奇跡的な偶然だった。
入学式でその姿を見たとき、一目であの時の少女だと気が付いた。
けれど、真正面からすれ違ってもユーニは僕に気付かないどころか、初めて話した時、まるで初対面化のような対応をされた。
恐らく、あの頃一緒に過ごした少年が僕であると認識されていないのだろう。

ということは、名前も顔も忘れられているということだ。
こっちは10年近く忘れられずにいたのに、向こうはあっさり忘れているなんて悲しすぎる。
でも、僕があの時の少年だと打ち明けようとは思わなかった。
あの頃、ユーニは辛い思いをしていただろうし、僕のことを思い出すと芋づる式にあの頃の辛い記憶が呼び起こされるかもしれない。
だったら忘れたままの方がいいだろう。

けれど、この心に沁み込んだユーニへの恋心は忘れられそうになかった。
現に、ユーニに応急手当をしてもらっただけで浮かれてしまっている自分がいる。
手を握り、至近距離で向かい合っているだけで心臓が破裂しそうになるくらい、僕は彼女が好きだった。
ユーニに彼氏がいないことは分かっている。でも、ユーニの眼中に僕が入っていないことも分かっている。
ユーニを僕だけのモノにしたいけれど、その夢はまだまだ叶いそうにない。

Act.08 よく分からないマジメ君

カレー作りは実にうまくいった。
まぁ作った料理がカレーという初心者でも簡単に作れるメニューだったわけだし、失敗する方がおかしいけど。
中辛のカレーを食べ終えたアタシたちは、予定通り班ごとにテントを張り始める。
班ごととは言え、流石に男女は別のテントで寝ることになる。
アタシはセナと2人、同じテントで寝ることになった。

こうして山の中でテントを張って寝袋の中で寝るのは初めての経験である。
テントの中は意外にも温かくて、学校側から支給されたランタンの明かりだけが優しく揺らめいていた。
就寝時間まではそれなりに余裕がある。
まだ眠気に苛まれていなかったアタシたちは、薄暗いテントの中で世間話に花を咲かせていたけれど、不意にセナが妙なことを言い出した。

「ねぇねぇユーニ。ランツたちのテントにちょっと遊びに行かない?」

セナの言葉に、アタシは少しだけ驚いた。
日が暮れてからのテント間の移動は禁止されている。
当然、異性のテントに遊びに行くなんてご法度だ。
バレたら確実に怒られるどころか反省文を書かされる可能性もある。
そのリスクを忘れるほど、セナは愚かではないはず。
どうやら彼女は、昼間のカレー作りの時にランツと約束していたらしい。
“夜になったらユーニと遊びに行く”と。
さりげなく自分も巻き込まれていることに呆れてしまう。

ランツとセナは去年から付き合っている。
筋トレ仲間として元々親しい友人同士だった2人が、互いに好意を抱き合うのは自然の流れと言えるだろう。
彼氏彼女の関係に発展した2人は、誰がどう見ても仲睦まじいカップルだ。
規則を破ってでも会いに行きたがる程度に、2人の熱量は高いのだろう。

カップルかよこいつら。
そんな呆れを抱きながらも断る気になれなかったのは何故だろう。
ランツと同じテントには、他にも2人の男子がいるはず。
同じ班のノア、そしてタイオンの2人である。
ランツのテントに遊びに行けば、タイオンとも顔を合わせることになる。
この事実が頭の片隅に存在していたからかもしれない。

ランタンの明かりを灯したまま、アタシとセナはテントから抜け出した。
暗いキャンプ場を姿勢を低くした状態でいそいそ移動し、男子のテントが連なっているエリアへと足を運ぶ。
幸い、見回りの先生とエンカウントすることはなかった。
テントの入り口には、クラスと班番号が記載されたワッペンが縫い付けられている。
スマホの明かりを頼りに、アタシたちはランツたちのテントを探し当てることに成功した。

「ランツー、きたよー」
「おう。早く入れっ」

外からヒソヒソ声でセナが彼氏の名前を呼ぶと、中からランツの声がした。
どうやらこのテントで間違いないようだ。
セナと顔を見合わせると、二人一緒にテントの中に潜り込む。
3人用のテントを使っているお陰か、アタシやセナの2人用テントより少しだけ広かった。
ランタンの明かりが灯されたテント内は明るくて、3人分の寝袋が下に敷かれている。
テントの中には腰を下ろしたノアとランツの姿があったが、タイオンだけが見当たらない。

「よぉ、センコーに見つからなかったか?」
「うん。誰にも見られてないよ」
「ったく泥棒の気分だったぜ。てか、あと一人は?」
「タイオンならもう寝てるよ。多分疲れたんだろ。起こさないようにしないとな」

ノアが指さした先に、一つだけ膨らんでいる寝袋があった。
どうやらタイオンが一足早く眠っているらしい。
彼は生徒会長として、この林間学校中も随分と忙しそうにしていた。
きっと疲れが溜まったのだろう。

寝袋の中で眠っているタイオンの顔を何となく覗き込んでみると、そこにはいつもの彼からは想像もできないほど幼い寝顔が転がっていた。
それなりに身長が高いはずなのに、寝袋の中で小さく丸まっている彼はまるで大型犬のよう。
外した眼鏡は枕元に置かれており、すやすやと寝息を立てているタイオンは眼鏡をしていないせいか知らない男に見えた。
いつも仏頂面で真面目な空気を纏っているくせに、寝顔は随分と幼いんだな。

何故か、眠っているタイオンの寝顔から目が離せなくなっていた。
僅かに肩を上下させながら規則正しい寝息を立てているタイオンを見ていると、なんだか胸の奥が温かくなってくる。
そして、妙な感覚に襲われた。
昔、この寝顔を見たことがある気がする。
同じように眠っているこの顔をすぐ近くで見つめていて、一緒にすやすや眠っていたような、そんなおぼろげな記憶が薄っすら存在するのだ。

デジャヴというやつかな。
タイオンの寝顔なんて一度も見たことがないはずなのに、どうしてこんな感覚に陥るのだろう。
不思議に思いながら見つめていると、硬く閉ざされていたタイオンの瞼がピクリと動く。
あ、やばい。
そう思った瞬間、タイオンの目がゆっくりと開いた。
そして焦点の合わない褐色の瞳と、アタシの視線が交差する。

じっと見つめ合い、3秒が経過した。
ようやく我に帰ったらしく、タイオンは勢いよく寝袋から起き上がると後ろに飛びのいた。
そしてその瞬間、テントの骨組み部分に頭を強打してしまう。
ゴンッと鈍い音が響いたことで、テントの中にいた一同の視線は一斉にタイオンへと向いた。
後頭部を押さえ、痛みに耐えながらもタイオンは戸惑った目でアタシとセナを交互に見つめていた。

「な、なんで君たちがここに……」
「ランツたちに誘われて遊びに来たの」
「遊びにって、テント間の移動は禁止されてるだろ。しかも男子のテントに来るなんて、見つかったらどうなるか分からないぞ」
「ったくお前さんは相変わらず真面目だな。別にいいじゃねぇか。せっかくのイベント事なんだし大勢の方が楽しくね?なぁ?」

規則だのルールだのをまったく気にしないランツは、楽観的に笑いながら隣に腰掛けるセナへと同意を求めた。
そんな彼氏の様子に、セナは迷うことなく満面の笑みで頷いている。
恋愛というものは人を盲目にするものだ。
あの真面目なセナでさえ、彼氏であるランツに影響を受けてちょっとした規則違反くらいなら気にしなくなっている。
ノアに関しても、不真面目な性格ではないが楽しいことは遠慮なく甘受するタイプだ。
アタシとセナの来訪に迷惑しているようには見えない。
この中で不満そうにしているのは、タイオンただ一人だけだった。

「まぁ、迷惑だってんならアタシだけでも帰るけど?」
「い、いや、別に迷惑だとは思ってない。バレなければいいんじゃないか?」

タイオンの視線は少しだけ泳いでいた。
枕元に置いた眼鏡をかけなおし、アタシの隣に腰を落ち着かせる。
“バレなければいい”、か。真面目な生徒会長さんらしくない言葉だ。
その横顔をじっと見つめていると、タイオンは逃げるように顔を逸らす。
彼の顔がほんの少しだけ赤くなっているように見えたのは、気のせいだろうか。

「よし。じゃあ何する?トランプ?それともUNO?」

荷物を漁り、ノアは2つのカードゲームを取り出した。
随分と用意がいいものだ。
呆れていると、遠くの方から地面の砂利を踏む足音が聞こえてきた。
ざくざくと音を立てながら近づいてくるその気配に、5人は同時に気が付いた。
これは間違いない。見回りの先生だ。
5人の焦りを滲ませた視線は同時に交差する。

「やべっ、もしかしてもう消灯時間か?」
「明かり消そう」
「寝たふりするぞ、早くっ」

ランツが急いでランタンの明かりを消すと、5人はそれぞれ慌ただしく寝袋や散乱している毛布の中に飛び込んだ。
消灯時間を過ぎて起きていると知られたら面倒なことになる。
しかもアタシやセナがこのテントに来ているとバレたりしたら、きっと大目玉だ。
何としてもバレるわけにはいかない。

焦って毛布の中に潜り込むと、同じ毛布の中に自分以外の誰かが入っていることに気が付いた。
恐る恐る顔を上げてその正体を確認すると、すぐ目の前に驚いた表情を浮かべているタイオンの姿があった。
ほんの少し背筋を伸ばせば、鼻と鼻が触れ合ってしまいそうなほどすぐ近くに接近している。
焦った結果、タイオンと同じ毛布に潜り込んでしまったらしい。

あぁやばい。この状況、少女漫画でよくあるやつだ。
そんなことを冷静に考えながらも、アタシの心臓は情けないほどバクバクと高鳴っていた。
あれ、やばい。どうしよう。こんな笑ってしまうくらいベタな展開にときめくほど、アタシは乙女な性格じゃないはず。
しかも相手はあのタイオンだ。馬鹿みたいに真面目で堅物で、アタシの好みからは大きく外れているはずなのに。
なのになんで?どうして?こんなに心がざわめくんだろう。

これ以上タイオンの顔を直視できない。
視線を逸らし、俯くと、頭上でタイオンが息を詰める気配がした。
接近している胸板から、ドクドクと心臓の音が聞こえて来る。
この状況に、タイオンもドキドキしているんだろうか。アタシと同じように。

「はいはいB班の男子諸君、ちゃんと寝てるかい?」

外から聞こえてきたのは、担任のアシェラの声だった。
いつも通りの軽い口調で外から様子を伺ってくる彼女の声に、ランツが代表して答えた。

「熟睡してまーす」
「あっはっは!寝てないねぇ。明日に備えてとっとと寝てくれたまえ」

そう言って、アシェラは上機嫌に去って行った。
砂利を踏む音が遠のいていく。
その気配を感じ取り、5人はほぼ同時に起き上がり深く安堵の息を吐いた。
危なかった。アシェラがテントの中にまで入ってきたらおしまいだった。
とはいえ、あぁして見回りのためにテントの外から声をかけまわっているのなら、アタシたちのテントが空になっている状況もいずれバレてしまう。
そうなる前に、早く帰った方がいい。
そう判断したアタシは、間髪入れずにセナの手を取った。

「帰るぞセナ」
「えっ、ちょ、ユーニ!?」
「じゃあアタシら自分のテントに戻るから。お前らもさっさと寝ろよ?」
「えー、もう行くのかよ」

残念そうにしているランツの声を無視しながら、アタシはセナを連れ強引にテントを出た。
テントの外へ出る直前、一瞬だけ振り返ったアタシの視界に、何か言いたげな表情でこちらを見ているタイオンの姿が飛び込んでくる。
けれど、そんな彼の様子に構うことなく自分とテント目指してそそくさと歩き出す。

アタシに手を引かれているセナが、“どうしたの?”としきりに問いかけて来る。
その質問に答えている余裕はなかった。
今、真っ赤な顔をしているんだろうな、アタシ。
心臓が高鳴って、心が浮ついて、頭が上手く回らない。
熱に浮かされて、面倒な事実に気付いてしまった。
やっぱりアタシ、タイオンのことが——。

***

テントで迎えた朝はあまり気分のいいものではなかった。
普段ふかふかなベッドと枕で寝ている分、慣れないテントでの睡眠は結構寝苦しい。
寝袋の中で寝ているとはいえ、砂利の上にテントを張っているせいでごつごしてよく眠れなかったし、テントの隙間から入り込んできたらしい蚊が耳元で一生飛び回っていたせいでストレスが溜まった。

あぁ、早くメリアがいる家に帰りたい。
寝不足でぐったりしているアタシとは対照的に、セナは随分と元気だった。
朝のストレッチをしながら満面の笑みで“おはよう!”と微笑みかけて来るその笑顔が眩しい。
なるほど、ランツはセナのこういう底抜けに明るいところが気に入ったのか。なんとなくわかる気がする。

林間学校2日目の朝は、ラジオ体操で幕を開けた。
普通のラジオ体操ならまだしも、何故かスピーカーから流れてきた音楽はマツケンサンバ
朝っぱらから聞くにはあまりにもやかましいこのサンバを聞きながら、生徒たちは先生に促されだらだらと踊り始める。

なんでマツケンサンバなんだ。普通にラジオ体操第一でいいだろ。
林間学校に参加した生徒たちの9割が同じことを考えていた。当然ユーニも同じ気持ちである。
寝起きのだらけた姿勢のまま百人以上の生徒がマツケンサンバをだらだら踊っている光景は異様に見えるらしい。
近くを通った一般のキャンプ民が怪訝な表情でこちらを見ながら通り過ぎていく。
この世でこんなにもノリが悪いマツケンサバは見たことがない。
地獄のような空気の中、“オレッ!”のフレーズを最後にラジオ体操はようやく終幕した。

ラジオ体操の後は、班ごとに分かれてのハイキングが予定されている。
ハイキングと言ってもコースは事前に決まっている舗装された山道をただ歩くだけ。
腰にクマ避けの鈴をじゃらじゃらつけた状態で、アタシたちはコースをめぐるためキャンプ場を後にする。

一緒に山道を歩く班員は、昨日のカレー作りと同じメンバー。つまり、セナやランツ、ノアにそしてタイオンの5人である。
全員がクマ避けの鈴をそれぞれ3つずつ装着しているため、5人が歩くたび計15個の鈴がけたたましく鳴り響き非常にやかましかった。

「これマジでうるせぇな。取っていいかな」
「バレたら怒られるかもしれないぞ?」
「ちぇー」

ノアに同意を求めたが、やんわりと制止されてしまった。
こんなにうるさいのだからアタシ一人が鈴を外しても十分クマ避けの効果は発揮されると思うのだが。

ふと、右隣を歩くタイオンが手に持っているラミネートされたマップを覗き見た。
どうやらハイキングコースはこのまま暫く上り坂が続くらしい。
なかなかの急こう配で結構しんどい。
だが、この坂道をもろともせず、ランツとセナのカップルは元気いっぱい数メートル先を楽しそうに歩いていた。

あいつら多分80代になっても足腰丈夫なまま元気な老いぼれになるんだろうな。
そんなことを考えていると、すぐ隣から乱れた息遣いが聞こえてきた。
ふと右側に視線を向けると、タイオンがうつろな目でゼェハァ肩で息をしている。
ゾンビ映画に出てくる最初の感染者みたいな顔だった。

「なんだよタイオン。もう疲れたのかよ?」
「……疲れてない」
「嘘つけよ。目が死んだ魚みてぇだぞ」
「失礼な……っ」
「大丈夫か?少し休憩するか?」
「い、いや構わない。気を遣わないでくれ。全然大丈夫だから」

ノアの言葉にそう返しつつも、タイオンの息は完全に上がっていた。
無理もない。きちんと舗装されているとはいえ、出発してからずっと急な上り坂を歩いてきた。
元気そうにしているランツやセナが体力お化けなだけで、アタシやノアも実は結構疲れてる。

ハイキングなのに息が上がるほど疲れるのもおかしな話だし、この辺で休憩できるところがあるなら立ち寄りたい。
薄っすらそう思い始めていたアタシだったが、突然どこからともなく漂ってきた甘い香りに鼻腔がくすぐられた。

何だろうこの匂い。花の匂いか?
ぴたりと立ち止まると、両脇を歩いていたノアとタイオンがつられて立ち止まる。
“どうした?”と問いかけて来るノアの声が聞こえたのか、前を歩いていたランツとセナもその場で足を止め、こちらを振り返っていた。

「なんか甘い匂いしない?」
「甘い匂い?」
「花みたいな匂い。こっちだ!」
「お、おいユーニ!?」

匂いがする方向へと駆け出すと、ノアやタイオンたちもアタシの名前を呼びながら後を追ってきた。
舗装されている道から外れ、林道を突っ切るように駆ける。
どうやらこっちは定められたハイキングコースではないらしく、タイオンが背後から戻るよう促してきた。
けれど、なんとなくこの匂いの出所が気になって仕方なかったアタシは、そんなタイオンの言葉を無視しつつ走り続けた。
木々を抜け、やがて開けた場所に出る。
眼下に広がる光景を前に、アタシは思わず息を呑んだ。

「うわっ」
「すごい、なにここ……!」

アタシの後を追ってきた4人もまた、目の前に広がる光景に感動を覚えているようだった。
地平線の彼方まで広がっていたのは、色とりどりの花たち。
赤や紫、黄色にピンク。たくさんの色を持った花たちが競い合うように咲き乱れているそこは、天然の花畑だった。
なるほど、あの甘い香りはこの花畑から漂って来ていたのか。
こんなに沢山咲いているのなら、あんなに離れたところからでも匂いを感じ取れたのも頷ける。

「こんなところあったんだな。穴場だろこれ」
「だな。ユーニ、お手柄だな」
「ねぇねぇ!せっかくだし写真撮ろうよ!」
「おっ、いいな。並べ並べ!」

美しい花畑を背景に、セナがスマホを構え始めた。
確かにこの光景は思い出になること間違いなしだろう。
自撮りモードに切り替えたセナの背後に並ぶと、すぐ隣に立っていたタイオンと顔が接近してしまう。
狭いスマホの画格に治まるため、くっつくのは自然なことだ。別に意識するようなことじゃない。

けれど、なんとなく横にいるタイオンのことが気になってちらっと視線を向けると、同時にこちらを見ていたタイオンと視線がかち合った。
あ、やばい。
ほぼ同時に視線を逸らし、セナが構えているスマホのカメラへと目を向ける。
セナの合図とともにシャッターが切られ、思い出の一ページが切り取られた。

写真を撮り終わった後も、アタシたちは暫くこの花畑に見とれていた。
ランツとセナは少し離れた場所ではしゃぎながら花と写真を撮っている。
そんな光景を横目に見つめながら、アタシはノアやタイオンと共に小高い丘の上から花畑を眺めていた。
恐らくこの花畑には管理者がいないのだろう。
案内の看板も建っていなければ、花と道を隔てる柵やロープも設置されていない。
まさに穴場と言えるこの花畑を眺めながら、ノアは口を開いた。

「すごいところ見つけたな、ユーニ」
「だな。アタシもこんな広大な花畑があるとは思わなかった」
「これ、何の花なんだろうな」
アネモネだ」

ノアの素朴な疑問にいち早く答えたのはタイオンだった。
迷わず即答したタイオンに、アタシとノアの視線が集中する。
意外だった。タイオンが花に詳しいなんて。

「よく分かったな」
「昔家の庭に生えてたんだ。だから見ればわかる」
「へぇ、タイオンの家、花育ててるのか」
「もうとっくに枯れてしまったがな」

ノアとタイオンの会話を聞きながらアタシはその場に腰を下ろし、生えている花をよく観察してみた。
確かにアネモネだ。昔イスルギに貰ったアネモネの押し花で作ったしおりと花弁が全く同じ形をしている。

確かあれは、イスルギの家の庭に生えていたアネモネで作ってもらったものだ。
タイオンの家にもアネモネが生えているということは、この花は家庭栽培しやすいメジャーな花なのだろう。
アタシは花のことには詳しくないけれど、このアネモネという花には強い思い入れがあった。
初恋の人が、アタシを励ますためにくれた花だから。

「アタシさぁ、花のことはよく知らないけど、アネモネは好きなんだよね」
「へぇ。どうして?」
「昔初恋の人に貰った花だから」
「えっ……」

ノアの問いかけに答えていると、反対隣からタイオンの戸惑った声が聞こえてきた。
タイオンの前でこの話をするのはどうなのだろう。
一瞬躊躇ったけれど、反応が気になってしまった。
アタシの初恋に関するエピソードを聞いて、こいつが、タイオンがどう感じるのか、この目で確かめてみたくなったんだ。
驚いた様子を見せるタイオンに気付かないふりをしたまま、アタシは反対側に立っているノアを見上げながら話を続ける。

「落ち込んでた時にさ、庭先に生えてた白いアネモネをそっと差し出してくれたんだよ。そんで、ずっと持っていられるように押し花にしてしおりを作ってくれた」
「優しい人だったんだな」
「うん。すっげぇ優しかった。アタシの恩人だよ、イスルギは」
「イスルギ?それがユーニの初恋の人の名前?」
「そう。アタシはまだ当時子供だったけど、イスルギは大人で知的で品があって優しくて、とにかくかっこよかった。アネモネを見ると、今でもイスルギのことを思い出すよ」

嘘偽りのない本心だった。
アタシの中で、イスルギという恩人の存在は未だに大きくて、理想の男と言えばいつもイスルギの顔を思い浮かべてしまう。
年上で、知的で、品があって、優しい大人の男。それがアタシの理想。

けど、理想と現実は必ずしも一致するわけではないということを、つい昨日実感してしまった。
理想の男を指す条件に半分も一致していないのに、この心を騒がせる存在がいる。
騒がせている本人はきっと気付いていないのだろう。
アタシがその態度や視線、言葉や仕草ひとつひとつに気を取られてしまっている事実に。

まだアタシたちは、“友達”と呼んでいいかもわからない物凄く微妙な距離を保っている。
この距離を測り間違えたら、きっと大怪我をしてしまうだろう。
意外にも“繊細なタイプ”であるアタシは、怪我も火傷もしたくはなかった。
だからこそ、こうして距離感を適切に図るため、相手の反応を伺う必要がある。
初恋のエピソードをさりげなく話したのは、そのための作戦だった。

どう思っているんだろう。
どんな反応を見せるんだろう。
何を感じるんだろう。
興味と関心と好奇心を孕ませながらそっと反対側に視線を向けると、タイオンは遠くを見つめながら眼鏡を押し上げていた。

「そろそろ行こう。集合時間に遅れてしまう」
「えっ」
「なんだ?」
「あ、いや、別に」

あまりにも素っ気ない反応に、思わず脱力してしまいそうになった。
遠くではしゃいでいるランツとセナを大きな声で呼ぶと、タイオンはそそくさと来た道を歩き出してしまう。
その背を追って、残されたアタシたちも歩き出す。
“楽しかったね”なんて言いながら彼氏であるランツと笑い合っているセナの声を背中で聴きながら、アタシは前を歩くタイオンばかりを見つめていた。

最初は嫌われていると思っていた。
ずっと睨んでくるし、対抗意識をむき出しにしてくるし。
けど、同じクラスになって席も前後になって、物理的な距離が縮まったおかけでタイオンという人間の本質を少しだけ垣間見ることが出来た。
真面目で堅物。でも完璧じゃな無くて、不器用なところもあるし、年相応に子供っぽい一面もある。
少しずつ分かって来たつもりだった。でも、ここにきてまた分からなくなった。

もしかしたら好かれてるのかも?なんて思うこともあった。
だってそれっぽい態度と言葉を何度か垣間見てきたし。
でも、急にスッと距離をとってくることもある。今みたいなのがいい例だ。
嫉妬するわけでも興味を示すわけでもなく、ただただ無関心な様子で視線を逸らす。
そんなつれない態度が、不愛想な態度が、冷たい態度が、心に刺さる。
ちょっと前まで、こういう態度を取られても何も気にならなかったのに。

タイオンのことが分からない。
どんなに手を伸ばしてもその心は雲のように指の間からこぼれてしまい、一向に掴めそうにない。
アタシは自分のことを、乙女チックとは程遠い冷めた人間だと思って生きてきた。
けど、どうやらその自己評価は間違っていたらしい。

あとちょっとでいい。ほんの1ミリでいいから、タイオンの心に近付きたい。
そんなことを考えてしまっているアタシは、自分が思うよりもずっと乙女なのかもしれない。

***

Side:タイオン

行きはよいよい帰りは怖い、という言葉がある。
僕は今まさにその言葉の通りの心情だった。
行きは行きで急な坂道に苦しみはしたものの、ユーニたちと一緒に野山を歩けること自体はそれなりに楽しかった。
だが、つい先ほどユーニが語った初恋のエピソードは、僕の心を残酷なまでに抉った。

違うぞユーニ。
アネモネを贈ったのは父じゃない。僕だ。
ユーニは当時両親を失ったばかりで精神的に不安定だったハズ。
だからこそ、当時の辛い記憶が再び呼び起こされないよう自己防衛の本能が働いているのだろう。
その結果、あの頃の記憶が混濁していても無理はない。
僕が彼女を励ますために白いアネモネを贈った事実が、いつの間にか父の功績にすり替わり、ユーニが父に恋心を抱く結果になっていたとしても、それは仕方のない事なのだ。
でも、それでも、悔しいものは悔しい。
まさかユーニの初恋の相手が、自分の父親だったなんて。

正直言ってしまいたい。
僕は君の初恋の相手であるイスルギの息子で、あの頃一緒に同じ家で過ごしていたはずなんだと。
白いアネモネを贈ったのは父じゃなくこの僕なんだと。

後ろを歩くユーニへと視線を向ける。
彼女は隣を歩くノアと会話に花を咲かせていて、僕の視線には一切気付いていない。

ユーニは記憶を混濁させるほど辛い思いをしていた。
あの頃、彼女が陰で泣いていた事実を僕はよく知っている。
自分の正体を彼女に打ち明けるのは簡単だ。
でもそれをしてしまったら、彼女は僕のことをきちんと思い出すために当時の記憶を引っ張り出そうとするだろう。
そうなれば、忘れたがっていた記憶すら呼び起こさせてしまう。
もう二度と、ユーニに両親を失った痛みを思い出してほしくなかった。

だめだ。やっぱり言わない方がいい。
僕のことは思い出さなくていい。
ユーニの中で、アネモネを贈ったのが父であるという認識のままでも構わない。
自然な成り行きでユーニとの距離を近付けたい。

けれど現状、虚しいほどに相手にされていない。
僕という存在は、君の眼中にはない。
どうしたら君の気を惹けるだろう。君との距離を縮められるだろう。君の心奪えるだろう。
天邪鬼で慎重な僕には、いくら考えても答えが出なかった。

Act.09 運命の相手はマジメ君

ベッドから起き上がると、目覚まし時計はいつも起きている時間よりも30分ほど速い時刻を表示していた。
アラームに頼らず自力で早起きできた朝は達成感がすごい。
歯磨きと洗顔を済ませ、意気揚々とキッチンに立ったアタシは、早速弁当の用意を始めた。
昨日の残り物の焼き魚を弁当に詰め、冷凍のカップグラタンやきんぴらごぼうでスペースを埋める。
タイオンに渡すための弁当を上から見下ろしながら、アタシは眉間にしわを寄せた。

なんか、しょぼいな。
肉が足りない気がする。時間もあるし食材も残ってる。
よし、何か作ろう。
そう決意したアタシは、冷蔵庫から鶏もも肉を取り出した。
引き出しを開けてみると、揚げ物用の油が1回分残っていた。
朝から揚げ物をする時間なんて普通はないけれど、今日は珍しく早起きできたから時間的余裕は十分にあった。
袋に鶏もも肉を投入し、醤油をはじめとする調味料を豪快に加えていく。
揉みこんでいる間に油の用意。
適温に達する前に調味料に漬け込んだ鶏もも肉を取り出し、片栗粉を丁寧にまぶしていく。
やがて適温に到達した揚げ油の中に片栗粉まみれの鶏もも肉を投入すると、じゅうじゅうと軽やかな音を立てながら肉が揚がり始める。

「竜田揚げか」
「うおっ」

突然真横から聞こえてきた声に驚き、菜箸を持ったままのけぞってしまった。
いつの間にかメリアが起きてきたらしい。
肉が投入されている揚げ物用の鍋を覗き込みながら、育ての親でもあるメリアは不思議そうに目を丸くしていた。

「朝からこんな脂っこいものを食べるのか?」
「違う違う。弁当用に作ってんの」
「ほう。わざわざ弁当の為だけに作ったのか」

カウンターに並べられている二つの弁当箱を見比べながら、メリアは含みのある笑みを向けてきた。
何かを察したようなその笑顔がなんだかむかつく。
でも悔しいことに、たぶんメリアが思い描いていることは、まぎれもなく正解そのものなんだと思う。
小学校1年生の時に引き取られて以来、メリアとは家族として一緒に過ごしてきた。
そのおかげか、メリアには隠し事が出来たためしがない。
今回もきっと、この胸にしっかり仕舞い込んだ淡い感情を見事に見抜かれているのだろう。
そう思うと、ちょっとだけ悔しかった。

やがて、丹精込めて作った竜田揚げは無事完成した。
弁当の空いているスペースに詰め込むと、美味しそうな竜田揚げと焼き魚の弁当が出来上がる。
よっしゃ、完璧だ。これは絶対美味いはず。
出来上がった弁当を見つめながらニヤニヤしていると、横でその様子を観察していたメリアが苦笑いを零しながらリビングの壁掛け時計を指さした。

「満足げにニヤついているところ悪いが、そろそろ出ないとまずいのではないか?」
「えっ、うわっ!やっべぇ!」

時間に余裕があると思って随分のんびりしてしまったらしい。
いつの間にか、いつも家を出ている時間が迫っていた。
まずい。まだ制服に着替えてすらいない。
メリアに指摘され、アタシは慌ただしく弁当の蓋を包んで巾着に包んだ。
急いで制服に着替え、鞄と弁当の巾着を持って風のように家を出る。
玄関を出た時間は、いつもの時間よりも20分近く遅い。

とにかく全力で走り、飛び込むように電車に乗る。
駅に到着してからも、風でスカートがめくれることを気にする余裕もなく全速力で駆け抜けた。
正門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えて階段を登る。
教室に飛び込むと、どうやらまだ担任のアシェラは教室に来ていないようで助かった。
セーフ。時間的には余裕で遅刻だけど、担任が時間にルーズな性格だったおかげでなんとかなった。

「だぁー……、疲れたぁ……」
「朝から慌ただしいな君は。寝坊か?」

家から学校まで急いで走ったせいでものすごく疲れた。
自分の席に脱力するように腰掛けると、後ろの席で文庫本に視線を落としていたタイオンがため息交じりに問いかけてくる。

「ちげぇよ。むしろ早起きしたっての」
「じゃあ何故遅刻を?」
「それは……」

言えるわけがなかった。
タイオンの弁当に詰めるために竜田揚げ作ってた、なんて。
だってそんな健気な行動、アタシらしくないじゃん。
なんだか恥ずかしいし。
“なんでもいいだろ”と突っぱねようとしたアタシだったが、不意にタイオンがふっと笑みを零したことに気が付いた。

「……なんだよ」
「寝ぐせついてるぞ」
「え?マジ?どこ?」

タイオンの前で寝ぐせが着いた姿を晒すことに恥ずかしさを覚えたアタシは、急いで自分の髪を撫でながらはねている場所を探した。
けれど、どこをどう撫でても寝ぐせは見つからない。
ん?んん?と首を傾げていると、タイオンはまた柔らかく微笑みながら手を伸ばしてきた。

「ここだ、ほら」

そう言って、タイオンはアタシの髪を一束手に取った。
しなやかなタイオンの指がアタシの髪に触れた瞬間、心臓がトクンと脈打つ。
あぁ、これやばいかも。
顔にどんどん熱がこもっていく感覚を覚え、どんどん頭の中が白く染まっていく。
どうしよう。落ち着かない。
タイオンに触られているという事実だけで、馬鹿みたいに動揺している自分がいる。

はねた髪をなおすように髪を撫でていたタイオンだったが、アタシがお礼も言わずに黙っていることに違和感を感じたらしい。
“あっ”と小さく声を漏らすと、髪に触れていた手をパッと素早く放した。

「すまない。嫌だったか」
「いや、別に……」

違う。嫌だったんじゃない。
ただちょっと、照れくさかっただけ。
タイオンに指一本触れられただけで、この幼い心は敏感に反応してしまう。
自分にこんな乙女チックな一面があるなんて、全然知らなかった。

そうこうしている間に、ようやく担任のアシェラが教室に入って来た。
“いやぁ遅くなってすまないね”なんて快活に笑っているアシェラの言葉を聞きながら、前を向き直ったアタシは勢いよく自らの両頬を手のひらで叩いた。
しっかりしろアタシ。赤くなるな。顔を綻ばせるな。
懸命に自分を律してみるけれど、この心のざわめきが治まることは一向になかった。

***

午前中の授業は滞りなく終了し、今日もまたお昼の時間がやって来る。
購買にパンを買いに行ったセナたちを見送った後、アタシはいつも通り鞄から二つの弁当箱を取り出し片方をタイオンへと手渡す。
“ありがとう”と呟きながら弁当箱を受け取るタイオンを、アタシは固唾を飲んで見守っていた。

今日はそれなりに気合を入れて弁当を作ってみた。
いつもは夕飯の残りを適当に詰めるだけだけど、今回はわざわざ早く起きて作った竜田揚げを突いたしたのだ。
美味しいと言ってもらえないと困る。

弁当箱を開けて箸を入れようとしているタイオンをジーっと見つめていると、その視線が本人に気付かれてしまった。
困った様子で“なんだ……?”と問いかけてきたけれど、“なんでもない”と返して自分の弁当箱を開ける。
首を傾げたタイオンは、そのまままっすぐ竜田揚げを箸で摘まみ上げた。
彼が竜田揚げを一口食べた瞬間、サクッと小気味よい音が鳴り響く。
そして、ごくりと飲み込んだ彼は弁当を丸い目で見下ろしながら嬉しい一言を呟いた。

「美味いな」
「えっ、ホント?」
「あぁ。衣がサクサクで美味い。味付けも好みだ」
「マジか。よかったぁ。早起きして作った甲斐があったぜ」
「え?」
「あっ」

無意識に口からこぼれ落ちてしまった言葉に、アタシは冷や汗をかいた。
けれど、一度はいた言葉はなかったことになど出来ない。
聡いタイオンがアタシの失言を見逃すわけもなく、目ざとく突っ込んできた。

「弁当は夕飯の残りを適当に詰めていると言っていなかったか?」
「いや、えっと……」
「もしかして、これを作っていたから遅刻しそうになったのか?」
「……違う」
「いやそうだろ」
「違うし」
「そうなんだろ」
「は?ちげーし」

タイオンの指摘は腹が立つほどに大正解だった。
けれど、天邪鬼で素直さに欠けるアタシは咄嗟に嘘をついてしまう。
“そうだろ”、“違う”の攻防を繰り返しているうちに、このやりとりの不毛さに気付いてなんだか笑いがこみ上げてきた。
子供のような対抗意識が馬鹿馬鹿しく思えて、アタシは思わず吹き出しながら笑ってしまった。
そんなアタシに釣られるように、タイオンも柔らかく笑う。
その笑顔を横目に、また心がトクンと疼き始める。
いつもは仏頂面で堅苦しいタイオンが見せる少しだけ幼い笑顔は、アタシの心をくすぐるのだった。

***

時の流れは早いもので、いつのまにやら季節は梅雨に移り変わっていた。
制服は冬服から夏服に切り替わり、ブレザーを羽織っていたクラスメイト達はワイシャツに黒のベストを重ねて着こなしている。
アタシもベストは持っているが、なんとなく邪魔でいつも着ていない。
ワイシャツに一枚に首元のリボンを緩め、寒くなったら腰に巻いているセーターを羽織る。
それがアタシなりの夏服の着こなしだった。

当然、夏服に切り替わったのはタイオンも同じ。
去年も見ているはずの恰好なのに、今こうして夏服姿のアイツを見ているとなんだか胸が高鳴った。
黒いベストを来ている彼は、いつもかっちり締めているネクタイをほんの少し緩めている。たぶん蒸し暑いせいだろう。
そこから見える鎖骨に視線がいって胸がきゅうっと締め付けられたり、捲り上げられたワイシャツの袖から見える褐色の腕に心臓が高鳴ったり、腕時計を着けた骨張った手に心がざわめいたり。
そんな些細なことでアタシの気持ちは高揚して、いちいちどぎまぎしてしまう。
こういうのを、ときめきと言うのだろう。
アタシにはちょっと似合わない言葉だ。

毎年、雨が続く梅雨の時期は気分が落ち込んでしまうけれど、例年より心が軽くいられたのはきっとタイオンのおかげだろう。
別にアイツが何か特別なことをしてくれたわけじゃない。
いつも通り後ろの席に座って、アタシが作った弁当を食べて、お礼にリプトンを手渡してくる。
代わり映えのない生活を送っているだけなのに、タイオンがそこにいると言うだけでアタシの心は晴れ渡るのだ。

降り続いた雨が、ある日突然晴天に変わった日があった。
6月の下旬。交通事故で死んだ両親と弟の命日だ。
いつもこの日は雨が降っていて、メリアと傘を差しながら墓参りするのが毎年の恒例である。
けれど、今日はこの季節にそぐわぬ青天。珍しく晴れた空を仰ぎながら、アタシは放課後の学校を出た。

毎年の墓参りとは違う点が、もう一つだけある。
それは、いつも一緒にいるはずのメリアがいないという点だ。
どうやらどうしても抜けられない重要な会議が入ってしまったらしく、墓参りは後日行くことにしたと連絡を貰った。
何度も謝られたけれど、仕方ない。
たまには一人きりで家族に会いに行くのもいいだろう。
下校しながら最寄りの花屋に立ち寄り、墓参り用の花を買う。
備えるための花を片手に霊園を訪れると、両親と弟が眠っている墓へと迷わず向かった。

「あれ……?」

家族の墓の前で、一人の男が膝を折り拝んでいるのが見えた。
背を向けているため顔は分からない。
命日に墓を参っているということは、両親の知人か何かだろうか。
花を抱えながらその背に“あのぉ……”と声をかけると、拝んでいたその男は顔を上げて振り返る。
その男の顔を見た瞬間、幼い頃の記憶が一気に引き寄せられた。

「えっ、イスルギおじさん……?」
「もしかして、ユーニか?」

問いかけて来る声も、優しい目も、あの頃のまま。
間違いない。メリアに引き取られる前に世話をしてくれた、アタシの初恋の相手、イスルギだ。
その場で立ち上がり、“久しぶりだな”と笑いかけて来るイスルギの姿に、感情の波が激しく押し寄せて来る。
ずっと会いたいと思っていた。
もう二度と会えないのではと諦めかけていたというのに、まさかこんなところで再会できるなんて。
勢いに任せてイスルギの胸に飛び込み抱き着くと、イスルギは“おぉよしよし”とあの頃と変わらない優しい笑顔で抱きしめ返してくれた。
約10年ぶりの再会だったけれど、この10年間、イスルギのこの温もりを忘れたことは一度も無かった。

「イスルギおじさん、アタシのことちゃんと覚えててくれたんだな」
「当然だ。娘のように思っていたからな。それより、大きくなったなユーニ」

慈しむような優しい目を向けて来るイスルギに喜びが隠せない。
目頭が熱くなる感覚に襲われながら元気良く頷くと、イスルギはアタシの頭を優しく撫でてくれた。
そういえばあの頃も、アタシが寂しい時こうして頭を撫でてくれたっけ。
あの頃と驚くほどに変わっていないイスルギとの再会は、アタシを童心に戻してくれていた。

***

車で墓参りに訪れていたイスルギの誘いで、アタシは久しぶりにあの家へとお邪魔することになった。
あれから10年経過しているというのに、イスルギの家はあの頃のまま何も変わらない。
しいて変わった点を挙げるなら、庭にあった花壇が無くなっていることくらいだろうか。
イスルギに促されるまま玄関に上がると、懐かしいにおいがふわりと香ってくる。

玄関に飾ってあったよくわからない現代アートの絵画も、廊下の壁についた小さな傷も、リビングの家具の配置も、あの頃と同じ。
あの頃は大きく感じたリビングのソファも、大きくなった今腰かけてみると意外に小さく感じた。
ソファに腰を落ち着けたまま興奮気味にあたりを見回しているアタシに、イスルギはコーヒーを淹れてくれた。
斜めの位置に設置してある一人掛けソファに腰かけるイスルギは、コーヒーカップ片手にリラックスした様子で足を組む。

「それにしても本当に久しぶりだな。何年ぶりだ?」
「アタシが小1の頃以来だから、10年ぶりだな」
「10年か。年を取るわけだな」
「けどイスルギ、全然変わってなくて吃驚した。もっと老けておっさんになってるかと思ってたのに」
「あの頃も今もおっさんだがな」

この家の風体もさることながら、家主であるイスルギも10年の時の流れを感じさせないほどにあの頃のままだった。
年齢はすでに40歳を超えているはず。
にも関わらず“おっさん”という言葉が全く似合わない。

足を組み、目を伏せ、優雅にコーヒーをすするイスルギからは、知性と品性がにじみ出ている。
流石はアタシの初恋の相手。何年たってもかっこいい。
一人で感傷に浸っていると、アタシへ視線を向けていたイスルギがコーヒーカップを目の前のローテーブルに置きながら話題を変えてきた。

「そういえばその制服、西高校に通っているのか?」
「そうそう。よく分かったな。まぁ近所だし流石に知ってるか」
「それもあるが、息子が同じ高校に通っているからな」
「えっ、マジで?」

どうやらイスルギの息子もアタシと同じ高校に通っているらしい。
確かあいつはアタシと同い年だったはずだから、つまりは同級生か。
ふと、背後のローチェストへと視線を向ける。
チェストの上にはいくつか写真立てが並んでいて、亡くなった奥さんやアタシが映っている写真もある。
その中の一つ。イスルギと息子であるあいつのツーショット写真に目がいった。
小学校の入学式で撮影されたものなのだろう。
ランドセルを背負っている幼い少年と、今よりほんの少し若いイスルギが柔らかく微笑んでいる。

この家に預けられていたころは、両親と弟を一遍に亡くしたショックで記憶が混濁している。
イスルギの息子とも1か月間同じ家で過ごしていたはずだけど、正直あいつとの思い出は少ない。
名前は完全に忘れているし、顔も写真を見た今ようやく思い出したくらいだ。
写真越しに久しぶりに見たあいつの顔に、懐かしさがこみあげてくる。
あの顔には既視感がある。記憶の彼方に忘れ去られてしまったと思っていたが、なんだかんだ写真で顔を見たら思い出すものなんだな。
そんなことを考えつつ、アタシはなつかしさに口元を緩ませた。

「懐かしいなぁ、アイツ元気してる?」
「あぁ、もちろん。同じ高校なら交流があるんじゃないか?」
「どうだろ。正直顔も覚えてないしなぁ」

同じ高校に在籍している同級生とはいえ、うちの高校は生徒数がそれなりに多くクラス数も10以上あるため、同じ学年といえど全く面識のない人間は多い。
こっちは今の今まで顔すら忘れていたわけだし、あれから10年も経っているわけだからお互い顔だちも変わっているだろう。
きっと廊下ですれ違っていたとしても、気付かないまま生活をしているに違いない。

「そうか。だが、アイツ方は覚えているんじゃないか?記憶力がいい方だからな」
「だとしても、アタシには関わってこないと思う。子供の頃アタシ嫌われてたみたいだから」

そう言うと、イスルギは不思議そうに目を丸くした。
そして、なにやら興味深げに前のめりになりながら問いかけてくる。

「何故そう思うんだ?」
「だってアイツ、アタシに“可哀そう”って嫌味言ってきたり、嫌がってるのに無理やり芋虫大量に入った虫かご押し付けてきたんだぜ?」

イスルギの息子との思い出が少ないのは、さほど親しく話した記憶がないからだろう。
アタシは家族を失ってふさぎ込んでいたし、相手も遠くからじっと見つめ来るだけで積極的に話しかけてくることはなかった。
遠くから観察されているかのようなあいつの目が好きになれなくて、いつも避けるようにしていたのは覚えている。
両親を亡くしたばかりで、まだ心が幼かったアタシには、あいつの目が必要以上にアタシを憐れむ好奇の目に見えたんだ。
けど、今思えばただ人見知りだっただけで、話しかける機会を伺っていただけだったのかもしれない。

けれど、当時のアタシはあいつが苦手だった。
何度か冷たく接した記憶もある。
そのせいか、あいつはアタシに妙な嫌がらせをしてきたことがある。
大嫌いな芋虫がぎっしり入った虫かごを、嬉々として押し付けられたのだ。
そんなの、当時小学校1年生だった女児が喜ぶわけがない。
絶叫と共にぶん殴って以降、あいつとアタシの溝は決定的なものになったのだ。

「めちゃくちゃ泣かされた記憶あるし。絶対嫌ってただろ」
「それはどうだろうな」
「ん?」

含みのある言い方をするイスルギに、今度はアタシが目を丸くした。
なんだか楽しそうに口元に笑みを浮かべながら、イスルギはソファに腰かけた自分の膝の上に肘をつき、アタシに思い出話を振ってきた。

「覚えてないか?アイツが庭に生えていた妻の花を、君に贈っていたことを」
「えっ」

忘れるわけがない。
だってあの花は、アタシがイスルギに初恋をしたきっかけのようなものだから。

「君があまりにも喜ぶものだから、あの花を使ってしおりを作ったな。そうしたら君は飛び跳ねながら喜んでいて……」
「ちょ、ちょっと待って!え?あの花くれたのってイスルギじゃなかったっけ?」
「いや、贈ったのは息子の方だ。落ち込んでいる君を慰めようとしてな」

あの花が贈られた瞬間のことは、今でもちゃんと覚えている。つもりだった。
なのに、イスルギの言葉にはアタシの記憶との明らかな矛盾があった。
アタシの記憶においては、花を贈ってくれたのはイスルギだったはず。
なのにイスルギは、息子であるあいつが花を贈ったと口にしていた。
おかしい。そんなはずない。だってイスルギはあの花がずっと枯れないようにとしおりを作ってくれて、それをアタシは喜んで受け取って……。

そこまで回想し、違和感に気が付いた。
そういえば、記憶の中にある思い出はいつもイスルギからしおりを渡される場面だけ。
その前に存在していたはずの、花を渡されるシーンが一向に再生されない。
あの頃のアタシは事故のショックで記憶が曖昧になっている。
ただ、思い出の一部のピースがかけているだけだと思っていた。
でも違っていたらしい。
記憶が混濁した結果、正しいはずの思い出に歪が生まれ、偽りの記憶を正しい思い出として思い込んでいたのだ。

あの花を差し出してきたのは、アタシに“元気を出してほしい”とか細くつぶやきながら優しさを贈ってくれたのは、イスルギじゃない。あいつだ
イスルギはアタシを引き取って以降、ずっと娘のようにかわいがってくれていた。
そんな暖かい思い出があるからこそ、都合よく記憶を捻じ曲げてしまったのだろう。

そうか、勘違いしてたのか。
花を贈られたとき、すごくうれしくて泣きそうだった。
心の奥底から感情が沸き上がって、胸がきゅうきゅうと締め付けられたあの感覚は、今でも不思議と覚えている。
あの瞬間、アタシは確かに初めて恋を知った。
つまりアタシの初恋の相手は、イスルギじゃなくあいつだったってことになる。
初恋を引きずり続け、大人の男にあこがれを抱いていたアタシにとって、今更思い知らされるその事実はあまりにも衝撃的だった。

ローテーブルに置かれたアタシのコーヒーカップは、ミルクをたっぷり入れているせいでコーヒーの黒がミルクの白に負けつつある。
交じり合う記憶と現実に困惑しながらコーヒーカップを見つめていると、イスルギはそんなアタシに追撃をかけてくる。

「アイツはきっと、ユーニのことがすごく好きだったんだと思う。君がメリアに引き取られると決まった夜、珍しく泣きながら駄々をこねてな。“ユーニとサヨナラしたくない。うちで一緒に暮らしたい”と」
「そうなの?意外……」
「あいつは子供の頃から口下手だったからな。君を喜ばせようと試行錯誤した結果、いろいろと誤解を与えてしまったのだろう」

知らなかった。
あいつがそんなにアタシをよく思ってくれていただなんて。
この家を出ていく当日、アタシはイスルギとの別れを惜しんでわんわん泣いていた。
自分の気持ちを発散させることに精いっぱいで、あいつがどんな顔をしていたかなんて気にも留めなかった。
あの時のあいつは、一体どんな顔をしていたのだろう。
今更知りたくなっても、もう仕方のないことだ。

ローテーブルの上に置かれたカップに手を伸ばし、イスルギが淹れてくれたコーヒーに初めて口をつける。
子供のころは、コーヒーなんてとてもじゃないけど飲めなかった。
だって苦いし、おいしくない。
でも今は、飲めなくはない程度に飲めるようになった。

とはいえ、こんなにたくさんミルクを入れているにも関わらずまだ苦く感じてしまう。
形だけ繕って大人ぶってみても、本質はまだまだ子供のままなのかもしれない。
だって、初恋のエピソードをまだ“懐かしい”の一言で片づけられそうにないから。
なんで忘れていたんだろう。
あんなにうれしかったのに。
この家を出るとき、あいつにちゃんと言えばよかった。“ありがとう”って。
初恋の人の正体が10年越しに分かったというのに、もはや過去は過去。後の祭り。
相手は同じ高校に通う同級生らしいけれど、イスルギの言う通り向こうもアタシを好きだったとして、それはもう過去の話。
きっと今更再会しても、“あぁどうも”くらいしか言葉を交わせないだろう。
それにアタシにも、すでに心に居座っている奴がいる。
今10年前の初恋に思いをはせたとしても、意味なんてない。

少しだけ苦く感じるコーヒーを飲み干すようにカップを傾けるアタシに、イスルギは相変わらず優しい微笑みを向けてくれている。
そして、その優しい微笑みのまま、この場を混沌の渦に突き落とす協力な一撃を言い放つのだった。

「ユーニはタイオンにとって、初恋の相手だったのかもしれないな」

思いがけない名前がイスルギの口から飛び出したことで、アタシはコーヒーをのどに詰まらせた。
コーヒーが器官に入り、ゲホゲホと派手にせき込んでしまうアタシを、イスルギは心配そうに見つめてきた。
今の一言、空耳か?
ものすごく耳なじみのある名前が聞こえた気がする。
何とか落ち着きを取り戻したアタシは、苦しさで顔を赤くしながら改めて問いかけた。

「い、今なんて言った?タイオンって言った?」
「あぁ、言ったが……?」
「それって、アイツの、息子の名前?」
「そうだが……。流石に10年も会っていないわけだし、名前を忘れていても無理ないか」

少し寂しそうに笑うイスルギは、再び自分のカップに手を伸ばす。
どうやら聞き間違いでも言い間違いでもないらしい。
“タイオン”という名前はなかなかに珍しく、偶然の一致が重なっているとは思えない。
まさか、そんな。

頭が現状を理解するよりも早く、イスルギ宅の玄関が明く音が聞こえてきた。
誰かが返ってきたらしい。
その“誰か”がいったい誰なのかは、考えなくてもわかる。
イスルギは、たった一人の息子と一緒にこの家に住んでいる。
イスルギが再婚でもしていない限り、この家に帰ってくる人間はこの世に一人しかいないのだ。

やがて、リビングの扉がゆっくりと開かれる。
中に入ってきたのは、いつもアタシの後ろの席に座っているクラスメイト、タイオンだった。
リビングでくつろいでいるアタシを視界に入れた瞬間、眼鏡越しのタイオンの目が大きく見開かれる。
“なんでここに”
そう言いたげな目をしていたけれど、戸惑っているのはアタシも同じだった。
まさかイスルギの息子が、アタシの初恋の相手がタイオンだったなんて。
息子の帰宅を“おかえり”とにこやかに迎え入れるイスルギだけが、この混沌とした状況を理解していなかった。

Act.10 やたらと照れるマジメ君

どんなに衝撃的な出来事があった日でも、朝は変わりなく訪れる。
いつも通り身支度を整えて家を出て、電車に乗り学校へ向かう。
正門をくぐって下駄箱で靴を履き替えていると、ちょうど頭の中を支配していた張本人と出くわした。
登校してきたばかりのタイオンは、アタシの姿を見つけて“あっ”と小さく声を漏らす。
ちょうどよかった。きちんと話そうと思っていたから。

「ちょっと話そ?」
「あぁ、わかった」

上履きに履き替えたアタシたちは、教室へは向かわず反対方向へ歩き出した。
たどり着いた先は1階の階段裏。
人であふれている校内で他人の目を気にせず話せる場所なんて限られている。
けれど、この階段裏をわざわざを覗き込む奴は滅多にいないだろうから、大事な話をするにはうってつけの場所だった。

昨日、アタシはイスルギと再会した。
イスルギの家で思い出話に花を咲かせた末に、信じがたい事実が判明したのだ。
アタシの初恋の相手はイスルギじゃなく、アイツの息子だったということ。
そしてその息子こそが、目の前にいるこのやたらと目が合うマジメ君だったということ。

正直、もう心がこんがらがりまくってよく分からなくなっていた。
初恋の相手がイスルギじゃなかったってだけでアタシとしては大きなことなのに、まさか本当の相手がタイオンだったなんて。
どういう感情を抱くのが正解なのか、イマイチ分からない。
とにかく、タイオンに問いただしたいことは山ほどあった。

「気付いてたの?」
「あぁ」
「いつから?」
「入学式から」
「最初からかよ」

アタシはタイオンの正体に全く気付かなかった。
だって子供の頃は眼鏡なんてかけてなかったし、あの頃はアタシよりも身長が小さかった。
今やアタシよりも20センチ近く背が高いこの男が、あの大人しくて無口で小さい少年と同一人物だとは思わないだろ。

でも、タイオンはアタシのことをちゃんと認識していたらしい。
入学式からアタシの存在に気付いてたと言うなら、最初から声をかけてくれればよかったのに。
“ユーニ、久しぶりだな”って。
イスルギの息子だと名乗ってくれていれば、きっとすぐに思い出したのに。

「なんで言ってくんなかったんだよ?」
「初めて声をかけたとき、君は僕の名前すら覚えていないようだったから」
「それは……ごめん。けど、ちゃんとイスルギの息子だって言ってくれればアタシだって……」
「それを言えば、君は僕のことを思い出すために当時の記憶を遡ることになるだろ。辛い記憶を」

腕を組み、壁に寄りかかって遠くを見つめるタイオンに、アタシは言葉を失った。
え、なにそれ。
アタシが昔のことを必要以上に思い出さないように、あえて名乗らなかったってこと?

確かに、当時の出来事は正直思い出したくもないくらい辛いものだった。
実際、防衛本能が働いているせいかあの頃の記憶はひどく曖昧だったし。
タイオンが名乗ってくれていたら、その存在を思い出すために自動的に記憶が掘り起こされることになるだろう。

けど、そこまで嫌になるほどのことじゃない。
そんな些細なことに遠慮するなんて、やっぱりタイオンは優しい。
分かりにくい優しさを積み重ねて、アタシがようやく気付く頃にはてっぺんが見えなくなるほど積み上がっている。
あの頃差し出してくれた白いアネモネは、タイオンから贈られた最初の優しさだったのかもしれない。

「それにあの頃はあの頃。今は今だろ。今こうして話す仲になれたんだから、思い出さなくてもいいと思っていた」
「お前は良くても、アタシは嫌なんだよ」

壁に寄りかかるタイオンのすぐ隣に寄りかかり、足元に視線を落とす。
隣に並んでいると、身長差がよく分かる。
足のサイズも、手の大きさも全然違う。
いつの間にか大人の男に成長しているタイオンに、アタシの胸は簡単に高鳴ってしまうのだ。

「アタシだけ何も知らないとか寂しいじゃん。せっかくまた会えたのにさ……」

もっと早く知っていれば、この淡い気持ちにもう少し早く出会えていたかもしれない。
タイオンのことを誤解して、嫌な奴だと勘違いしていた1年の時間があまりにも勿体ない。
アタシの呟きを黙って聞いていたタイオンは、すぐ隣で静かに息を吐いた。

「……実のところ、少し怖かったんだ。名乗ったところで完全に忘れられているのかもしれない。もしそうだったら立ち直れそうになかったから」

見上げた先にいたタイオンは、随分と寂しそうな顔をしていた。
すぐ近くに居ながらなにも思い出さないアタシの態度に、きっとタイオンは傷付いたハズ。
本当はきちんと名乗りたかったに違いない。
アタシの傍にいながらずっと口を噤み続けたタイオンの辛さは計り知れない。

「……ゴメン。正直、顔も名前もあんまり憶えてなかった」
「まぁそうだろうな。仕方ないことだ」
「けど、また会えてうれしかった。ずっと会いたいと思ってたから」

“初恋の相手”にずっと会いたかったんだ。
勘違いし続けていたけれど、また会えたこと自体は嬉しくてたまらない。
それを素直に口にすると、タイオンは一瞬驚いた後、少しだけ赤くなった顔を隠すように眼鏡を押し上げた。

「あぁ。僕も君と再会できた時はすごく、その、嬉しかったよ」

視線を逸らすタイオンの赤面した姿がなんだか可愛く見える。
不思議だ。ついこの前まで冷たい奴だと思っていたのに、自分の気持ちを自覚して以降、タイオンのぶっきらぼうな仕草や表情にいちいち心をくすぐられている自分がいた。
今も昔も、タイオンはただ単に照れ屋なだけだったんだ。

このマジメ君に気持ちを伝えたらどんな顔をするだろう。
タイオンは過去は過去、今は今だと言っていたけれど、アタシにとっては今も昔も変わらない。
子供の頃も、それなりに成長した今も、タイオンが好きなんだ。
そう言ったら、タイオンは何て返事をしてくれるのだろう。

そのあと、アタシたちは暫く立ち話をしていたが、朝の予鈴がスピーカーから聞こえてきたことで急いで教室に戻った。
いつも通り窓際の席に腰掛けると、間もなく担任のアシェラが入って来る。
出席確認を取り、今日の連絡事項を全て告げ終わると、最後にトンデモナイことを言いだした。

「諸君もずっと同じ席じゃ退屈するだろう。そろそろ席替えをしようと思う」

その言葉を聞いた瞬間、アタシは思わず“えっ”と小さな声を漏らしてしまった。
席替えはいつもなら楽しいイベントである。
けれど、今のアタシにとっては正直楽しくもなんともない。
タイオンと前後の席でいられるこの場所を手放したくはない。
どんなに運が良くても、タイオンとこれ以上近い席になれる確率は明らかに低い。
このタイミングで物理的距離が広がるのは嫌だった。

ただ、他のクラスメイト達はアシェラの提案に大賛成のようで、ほぼ全員喜んでいる。
反対意見を出す空気じゃない。
今しなくても、席替えのタイミングはいずれやって来る。
1年間ずっとこの席でいられるわけがないのだ。

その日のHRにて、席替えは粛々と行われた。
各番号が書かれているくじが人数分布袋に入れられ、順番にくじを引いて席を決めていく。
この実に公平な決め方によって、新しい席は決定した。

アタシの席は窓側の一番前。斜め後ろの席にはノアが、その後ろの席にはセナがいる。
ノアたちがすぐ近くの席になったのは嬉しかったけれど、問題はタイオンとの距離だ。
アイツの席は廊下側の列から2番目の一番後ろの席。
物凄く遠い場所に飛ばされてしまった。

タイオンの隣の席にはランツがいる。アイツに席を代わってもらおうかと一瞬思ってしまうほど悔しかった。
こんなに離れるくらいなら、もっとたくさん話しておけばよかった。

席替え以降、アタシとタイオンの会話は目に見えて減った。
前まではすぐ後ろにいてくれたおかげで気軽に話しかけやすかったけど、今はわざわざ席を移動しないと話せない。
唯一自然に話せる機会と言えば、昼に弁当を届ける時くらいだった。
離れているとはいえたかが5メートル。同じ教室内にいるというのに、そのたった5メートルがものすごく遠く感じてしまう。

電話やLINEで個別に連絡を取ろうかとも思った。
けれど、わざわざ個別にメッセージを送るほどの用は特にない。
“どうした?”ときかれても、“別に”以外返せる言葉がないのだ。

せっかく同じクラスになったのに、折角初恋の相手だと分かったのに、こんなものなのか。
席が離れただけで、こんなに話さなくなるものなのか。
あーあ。タイオンと話したい。またクダラナイことで言い合いして、揶揄って、笑い合いたい。
この小さな望みを叶えるための勇気が、アタシにはまだなかった。

***

その日、アタシは珍しく自主的に農民部、じゃなくてアグリカルチャー部の活動に参加した。
特に理由はない。
その日はバイトも入ってなくて、誰かと遊ぶ予定もなかったし、帰ろうと廊下を歩いていたところにたまたまゼオンと遭遇したから、なんとなく行く気になっただけのこと。
活動場所である畑に連れていかれて、何が植えてあるのかよく分からない畑を適当に耕し、肥料を撒いたり水やりを手伝ったりした。

ゼオンは随分と楽しそうに作業してたいたけれど、アタシはこの畑作業がそこまで好きになれそうにない。
地味に力仕事だし、腰痛くなるし、服も汚れる。
収穫物を食べるのは楽しいけれど、やっぱり作ることも込みとなると話は別だ。
活動に参加して1時間足らずで、アタシは早速顔を出したことを後悔し始めていた。

結局、ゼオンから解放されたのは19時近い時間だった。
校舎の窓から見える外の景色はもうとっくに暗くなっている。
ずっと腰をかがめて作業していたからか、さっきから腰が痛くて仕方ない。
さっさと帰って風呂入って寝よう。

教室に戻り、席に置いていた荷物をまとめていると、アタシ以外誰もいなかった教室の扉がガラッと開いた。
見回りの先生か?
反射的に顔を上げた瞬間、心臓が飛び出そうなほど高鳴った。

「ユーニ。まだ帰ってなかったのか」

扉を開けて教室内に入って来たのは、他の誰でもないあのタイオンだった。
予期していない好きな人の到来に、アタシは見るからに動揺してしまう。

「えっ、あ、あぁ。部活行ってたから」
「アグリカルチャー部か。珍しいな、君が真面目に参加するなんて」
「たまには顔出してやろうと思って。そっちは?生徒会?」
「あぁ、まぁな」

タイオンも生徒会が今終わったところらしい。
自分の席で荷物をまとめている。
あれ、もしかしてこれって、一緒に帰るチャンスなのでは?
そんなアタシの企みを知ってか知らずか、荷物を持って席を離れようとしたアタシと同じタイミングでタイオンも席を離れた。

なんとなく流れで一緒に廊下を歩き、下駄箱で席を履き替え、正門を出る。
タイオンはアタシと同じく電車通学だ。
このまま一緒に駅まで歩くことになるだろう。
薄暗くなった駅までの道のりを、アタシたちは取り留めのない会話を交わしながら歩いていた。
席が離れてしまった今、こうしてタイオンと2人きりで話す機会は貴重だ。
時々生まれる笑顔の瞬間は、アタシの心を嬉しくさせた。

「なんかさ、こうやって話すの久々じゃね?」
「そうだな。席が離れてしまったからな」
「アタシが遠くなって寂しくなってたりして」
「まさか。君こそ僕という話し相手がいなくなって退屈してるんじゃないか?」
「まぁ退屈だな。揶揄い甲斐のあるチョロい奴がいなくなっちまったから」
「誰がチョロい奴だ。失礼な……」

相変わらずタイオンと一緒にいるのは楽しい。
アタシがちょっと揶揄うといつもぷりぷり怒る癖に、最後にはなんだかんだ優しく許してくれるところが好き。
こうして同じ歩幅で、同じ方向を向きながら隣を歩いていると、タイオンと時間を共有している実感が出来る。
空は暗いのに、好きな人と一緒にいるアタシの心はどこまでも明るかった。

あまり実のない会話をしながら笑い合っていると、いつの間にか駅のロータリーに到着していた。
学校から駅までの距離は徒歩約10分ほど。
1人でいるときは長く感じるこの距離も、タイオンと一緒だと不思議と短く感じてしまう。

タイオンの家はアタシの家がある最寄り駅とは反対の方向だ。
改札を通れば、反対の線路を走る電車が迎えに来てアタシたちの楽しい時間は終了してしまう。
あーあ。もう少し話していたかったな。

交通系ICを使って改札を通り、いつものホームへと上がる。
1番線がアタシの乗る電車、反対の2番線がタイオンが乗る電車が来る路線だ。
先に来たのは2番線の電車だった。
この電車に乗れば、明日までタイオンには会えない。
電車が停止し扉が開いたことで、“じゃあな”と手を振ろうとしたアタシだったけれど、タイオンはその電車に一向に乗ろうとはしなかった。
なんで乗らないんだろう。不思議に思っていると、タイオンは口元を片手で覆いながら顔を逸らし、照れた様子で口を開いた。

「もう遅いし、家まで送る」
「えっ」
「あぁ、もちろん迷惑じゃなければだが」

迷惑なわけがない。
だってこんなに喜んでいる自分がいる。
家までのたった15分、タイオンとの時間が増えるだけで喜んでしまう程度に、アタシは単純な女なんだ。

「しゃーねぇな。送らせてやるよ」
「何だその上から目線……」
「へへへっ」

タイオンを乗せるはずだった電車は口を閉じ、走り去っていく。
入れ違う形でホームに入って来た1番線の電車に、アタシたちは揃って乗車した。
夜の電車はそれなりに混んでいて、空いている座席は一つもない。
二人並んで吊革につかまり、過ぎ行く景色を見つめながらまた取り留めのない会話を繰り返す。
やがて3駅ほど走行した電車は、アタシの家の最寄り駅へと到着した。

うちの最寄り駅周辺には、同じようなタワマンがいくつも建っている。
改札を出て駅から一歩離れると、タケノコの如く生えているタワマンたちの中の1つを指差し、“あそこがうち”と呟く。
タイオンは“駅から随分近いな”と言っていたけれど、建物が大きいから近く見えるだけで、実際は徒歩5分ほどかかる。
駅から家までの距離を歩きながら、アタシたちはまた他愛ない世間話に花を咲かせていた。

「てかさぁ、子供の頃芋虫いっぱい入った虫かご押し付けてきたよな?あれ何?嫌がらせ?」
「違うっ!そんなわけないだろ。あれは君を喜ばせようとして……」
「虫もらって喜ぶ変わった女児なんて多分この世にいねぇって」
「あの頃はそんな常識知らなかったんだ。今ならもっとマトモなものを贈る」
「例えば?」
「……アゲハ蝶とか」
「結局虫じゃん」

ケタケタと笑うと、隣のタイオンも柔らかく笑みを見せてくれる。
こんな風に2人で笑い合う時間が好きだった。
この時間がもっと長く続けばいいのに。
そんな考えがよぎったその瞬間、妙なことに気付いてしまう。
さっきよりタイオンの歩く速度が随分遅い気がする。
気のせいだろうか。わざとゆっくり歩いているように思える。

ゆっくりゆっくり、歩いているのか止まっているのか分からないくらいの鈍足さで歩くアタシたちは、徒歩5分の道のりを倍の10分かけてしまった。
家のタワマンのメインエントランス前に到着したことで、アタシたち2人の時間は終了してしまう。

「送ってくれてありがと」
「あぁ」
「帰り、気を付けて」
「……あぁ」
「……」
「……」
「じゃあ、また明日」

エントランスに入る前に、この場で少しだけ立ち話でもしようかと思ったけれど、タイオンは何故かここにきて急に無口になってしまった。
視線を落とし、何か言いたげな様子を見せているけれど、いくら待っても何も言ってこない。
これ以上黙って立ち尽くしていても仕方ない。
惜しみつつ、軽く手を振って中に入ろうとしたアタシだったけれど、急に引き留められるように腕を掴まれる。
突然のことに驚き振り返ると、彼は随分と赤い顔をしながら見つめてきた。

「に、肉まんとあんまん、どっちが好きだ?」
「……は?」

急に投げかけられた二択に、思わず力の抜けた声が出てしまった。
何の話か分からずキョトンとしていると、タイオンは赤い顔のまま後ろを指さし始める。
タイオンが指さす先にあったのは、うちのタワマンの1階に入っているコンビニ。
そのすぐそばに立っているのぼり旗には、“肉まん&あんまんセール中”と大きく書かれていた。

「あー……。肉まんかなぁ」
「肉まんだな。よし、ちょっと待っててくれ」
「えっ、おい」

引き留めていたアタシの手を放すと、タイオンはそそくさとコンビニの中に入って行ってしまった。
“ちょっと待っててくれ”の一言に従い暫くエントランス前で待っていると、数分後袋を手にぶらさげたタイオンが戻って来た。
どうやら何か買ってきたらしい。
袋の中から1つの紙袋を取り出したタイオンは、それをアタシに押し付けるように手渡してきた。
紙袋の中身は確認しなくても分かる。恐らくほかほかの肉まんだろう。

「奢り?」
「奢りだ」
「ありがと。でもなんで?」
「今ならマトモなものを贈れると言っただろ?」
「芋虫地獄でアタシを泣かせたお詫びってこと?」
「まぁ、そんなところだ」

照れくさそうに視線を外しながら肉まんを渡してきたタイオンの行動に、心の中で花が咲く。
コンビニで売っている数百円程度の肉まんでも、好きな奴に貰うとこんなに嬉しいんだな。
タイオンが手に持っているビニール袋には、まだ何か入っているらしい。
おそらく自分の分の肉まんかあんまんだろう。
その袋に注がれた視線をそっと逸らすと、道路を挟んだ向こう側にちょっとした公園が見える。
昼間は近所の子供たちであふれているその公園も、日が暮れた今は誰もいない。

「ここで食べるのもアレだし、座って食べない?」

誰もいない公園を指差し提案するアタシに、タイオンは控えめに頷いた。
肉まんなんてどうせすぐに食べ終わる。
コンビニの前で立ち食いしてもいいし、家に帰ってからじっくり食べてもいい。
あえて公園に立ち寄る提案をしたのは、ベンチに座ってしまえばその後も暫く話していられるからというちょっとした下心があった。

暗くなった公園は凄く静かで、ベンチの傍に建っている街灯の明かりだけがあたりを照らしていた。
腰掛ける前に、タイオンがさりげなくベンチの砂ぼこりを手で払ってくれる。
その気遣いにお礼を言いながら腰を落ち着かせると、タイオンもほんの少し距離を取りながら横に腰掛けてきた。
アタシが肉まんにかぶりつく横で、タイオンはあんまんを食べ始める。

「なんか、成長したタイオンとこんな風に並んで肉まん食う日が来るとは思わなかったわ」
「君は随分僕を嫌っていたようだったしな」
「それはお前だろ?目が合うたびに睨まれるし」
「だからそれは誤解だと言ったじゃないか」
「けどまぁ、タイオンがイスルギの息子だってもっと早く知ってたら、もう少し早くこんな風になれてたかもしれないな」

肉まんをもぐもぐ頬張りながら言ってみたけれど、直後にほんの少し後悔した。
タイオンはアタシのことを気遣ってわざわざ名乗らずにいてくれたのだ。
今の発言は、タイオンの気遣いを無下にするようなもの。言うべきじゃなかった。
急いで発言を撤回しようと口を開いたと同時に、タイオンは視線を落としながら“そうだな”と口にした。

「すぐに名乗っていれば、もっと早く距離を縮められていたかもしれない。バレンタインの時だって……」
「バレンタイン?」
「親しい友人たちに片っ端から渡していたくせに、僕にだけくれなかっただろ」

バレンタインなんて、もう4カ月以上前のことだ。
よく覚えていないけれど、確かにタイオンには渡していなかった。
あの頃はタイオンに嫌われていると思っていたし、渡したところで嫌な顔をされると思い込んでいたから。
そんなアタシの考えとは裏腹に、隣に座るタイオンは妙に不貞腐れたような顔であんまんを食べている。
不満たらたらな様子のタイオンの横顔に、アタシは恐る恐る問いかけた。

「えっ、もしかして、チョコ欲しかった……?」
「……当たり前だろ」

顔を逸らしながら呟かれたタイオンのあまりにも素直な言葉は、アタシの心を勢いよく貫いた。
いつもいつもぶっきらぼうで不愛想なタイオンが、ほんの少し恥ずかしそうに、それでいて不満げに向けられた本音は威力満点だ。
欲しかったんだ……。アタシからのチョコ、欲しかったんだ……。
打ち明けられた事実を前に、アタシの顔はどんどん熱を帯びていく。
やばい。どうしよう。心臓がバクバクしてる。何を言えばいいのか分からなくなってる。

肉まん片手に何も言えずに固まっていると、タイオンは手元に半分ほど残ったあんまんを急にガツガツと口に詰め込み始めた。
勢いよく食べたせいか喉につまり、ゴホゴホと咳き込んでしまっている。
何度か咳払いした後ようやく落ち着きを取り戻したタイオンは、勢いよく立ち上がった。

「……じゃ、じゃあ、僕はもう帰る」
「えっ、ちょっと!?」

耳まで赤く染め上げたタイオンは、振り返ることなく速足で去っていく。
止める間もなく去っていくその背中を見送るアタシの心臓は、未だ高鳴っている。
そして同時に思い出してしまった。
ホワイトデートの時、もらったお返しが詰まった紙袋片手に下校しようとしたところでタイオンと遭遇した。
あの時のタイオン、今思えばいつも以上に機嫌が悪かった。
あれってもしかして、アタシからチョコ貰えなかったから拗ねてたのか?
たくさんお返し貰ってる姿を見てヤキモチ妬いてたのか?

ただの都合のいい解釈かもしれない。
けれど、可能性は拭いきれない。
やばい。もしそうだったなら、めちゃくちゃ嬉しいんだけど。

手元に残った肉まんを完食したアタシは、まっすぐ家に帰ることなく、先ほどタイオンが肉まんを買ったコンビニへと入店した。
真っすぐ向かう先はお菓子コーナー。
手に取った商品は、数枚の板チョコだった。

***

翌朝。アタシはいつも通りタイオンに渡すための弁当を持って登校した。
いつもよりほんの少し心臓がうるさいのは、きっと緊張しているせいだろう。
学校に到着したのは比較的早い時間だった。
続々登校してくる同じ学校の生徒たちを横目に観察しながら、下駄箱に寄りかかりつつ目当てのアイツを待っている。
待ち始めて10分後。ようやくアイツがやって来た。
下駄箱の前で待っていたアタシの姿を見つけた瞬間、アイツは、タイオンは眼鏡の奥で目をほんの少し大きく見開いた。

「おはよ」
「あ、あぁ。おはよう。何してるんだ?こんなところで」
「タイオン待ってた」
「へ?」

キョトンとしているタイオンに、アタシは手に持っていたいつもの巾着を手渡した。
朝早く起きて作った、ぶりの照り焼きが詰められている本日の弁当である。

「これ、今日の分の弁当」
「ありがとう。これを渡すために待ってたのか?だったらいつも通り昼休みに渡してくれれば……」
「あとこれ」
「ん?」

押し付けるように手渡したのは、小さな紙袋。
朝早く学校に来てタイオンを待っていたのは、これを渡すためだった。
中身はガトーショコラ。
昨日、コンビニで買った板チョコを使って作ったものである。
何でこんなものを作ったのか、理由は簡単。
タイオンがアタシからのチョコが欲しかったと言ったからだ。
タイオンに喜んでもらうため、ただそれだけのために、昨晩手間を惜しんで作ってみた。
ちなみに味の保証はない。

「これは……?」
「遅くなったけど、欲しかったって言ってたから」
「えっ」
「じゃあそういうことでっ」
「ゆ、ユーニ!?」

ガトーショコラを渡すというミッションを無事完遂したアタシは、タイオンからの反応も確かめず脱兎のごとくその場から逃げ出した。

言いたいことだけ言って逃げるなんて、昨日のタイオンと同じことしてるな、アタシ。
けど、どうしても逃げずにはいられなかった。
照れくさくて、心がむずむずして、どうにも冷静でいられない。
やっぱりこんなの、ガラじゃなかったかな。
変に思われたかな。
嫌じゃなかったかな。
不安と期待が同居するこの胸は、昨日からずっと暴れっぱなしだった。

***

Side:タイオン

“今朝のアレ、本命か?それとも義理か?”

そこまで打ち込んで、悩んだ末にメッセージを削除する。
学校から家に帰って以降、メッセージを打ち込んでは削除するこの一連の流れをもう8回は繰り返している。
送信ボタンを押せば済む話なのに、どうしてもあと一歩の勇気が出なかった。

今朝、学校に到着してずぐ弁当と一緒に押し付けるように渡された紙袋の中身は、ガトーショコラだった。
渡されたときに言われた内容から察するに、恐らく昨晩話していたバレンタインのチョコの代わりとして渡されたのだろう。

昨晩の僕は素直になり過ぎた。
勢いでバレンタインのことまで話してしまって、まるで駄々をこねる子供のようだったかもしれない。
最後は逃げるように背を向けてしまったし、情けない。
そんな中渡されたユーニのガトーショコラは、僕の心をどうしようもなく歓喜させた。

見たところ市販ではなさそうだ。
僕が欲しいと言ったから、あの後すぐに作ってくれたというのか。
なんだそれ。嬉しい。嬉しすぎる。
あのユーニが僕のために、僕だけのためにこれを作ってくれたのだと思うと、心が浮かれる。

家に帰ってきて早々、僕はユーニのガトーショコラをゆっくり大事に食べた。
程よい甘さと苦さが共存しているその味は、僕がユーニに向けている感情によく似ている。
今まで食べたチョコレート菓子の中で、一番美味かった。

ガトーショコラを食べ終えた後、僕はすぐにスマホでユーニに連絡を取ることにした。
聞きたいことがあったのだ。
このガトーショコラが本当にバレンタインのチョコの代わりなのだとしたら、本命か義理、どちらなのだろう。

どうしても気になったこの疑問をぶつけようとスマホを構えた僕だったが、一向にメッセージを送れないでいる。
もしこれで、“義理”だよと返されたらきっと立ち直れない。
結局勇気が出なかった僕は、可も不可もない無難なメッセージを送ることにした。

“ガトーショコラ、ありがとう。美味かった”

送った瞬間、小さな後悔に苛まれた。
しまった。“すごく美味しかった”と送ればよかった。
とはいえ、今更送り直すのも格好がつかない。このまま返事を待とう。
スマホをベッドに置き、そのまま風呂へと向かった。

入浴後、スマホをチェックしてみるけれどまだ返事はない。
皿洗いを終えた後も、読書の最中も返事はない。
メッセージを送ってから2時間ほど経過しているが、既読もつかないこの状況にそわそわし始めていた。
今、ユーニは何をしているんだろう。
誰かと一緒にいるのだろうか。それともバイト中か?

気になって、スマホの画面をチェックする頻度がどんどん高くなっていく。
5分に一度画面に目を向けて、メッセージが来ていないことに落胆し、また気になってチェックしてしまう。
この悪循環を3時間ほど繰り返したところで、ようやく僕のスマホはメッセージの到着を告げる通知音を奏で始めた。

その音を聞いた瞬間、即座にスマホを手に取ってメッセージを確認した。
相手はやはりユーニ。送られてきたメッセージに、僕は口元を緩ませた。

“よかった。遅くまで頑張って作った甲斐があったわ”

遅くまで作っていてくれたのか、僕のために。
頑張ってくれたのか、僕のために。
浮かれる心のままに、僕の指はメッセージを打ち込み始める。

“お返しを用意しなくちゃな。何がいい?”

すぐに送信ボタンをタップしようとして、踏みとどまった。
即レスはよくない。こういう時は少し時間を置かなくては。
3分ほど待ったところで、僕は打ち込んでいたメッセージを送信した。
すると、わざと返事を遅らせた僕とは裏腹に、ユーニからのメッセージは僅か数十秒後に到着した。

“別にいいよ!この前肉まん奢ってもらったし”

遠慮されてしまった。
いやでも、やっぱりお返しはちゃんと用意したい。
お返しを用意すれば、またユーニと話す口実が出来る。
席替えで物理的な距離が離れてしまった以上、こういった小さなチャンスも逃すわけにはいかないのだ。

“いやちゃんとお返ししたい。作るのは無理だが市販で用意するから受け取って欲しい”

食い下がるように再度メッセージを送ってみる。
先ほどは1分と経たずすぐに返事が来たというのに、今度は数分待っても既読すらつかなかった。
あれ?どうしたんだ?さっきはあんなに早く返事が来たのに。

またユーニからの返事を気にする時間がやって来てしまう。
5分経ってはスマホをみて、また5分経ってはスマホを見る。
やがて僕がメッセージを送った約1時間後に、ようやくユーニからの返事が届いた。

“返事遅くなって悪い。風呂入ってた。了解!なんでもいいからな”

「風呂……」

メッセージを呼んだ瞬間、あらぬ想像が頭を過ってしまう。
湯船につかり、白い肌を桃色に紅潮させ、濡れた髪を撫でながら目を伏せるユーニの姿を。
やめろ。変な想像するな。そんな邪な妄想でユーニを汚すな。
頭をふるふる振って邪念をかき消すと、スマホで早速調べ始める。

“ホワイトデー 喜ばれる”
そう検索して出てきた記事を片っ端から読んでいると、気になる記事を発見した。
“ホワイトデーのお返しの意味、ご存じですか?”
そんなタイトルに惹かれてアクセスしてみると、その記事ではホワイトデーのお返しとして用いられる菓子にそれぞれ意味が含まれているということを解説していた。

渡す菓子にも花言葉のようにいちいち意味があるとは驚きだ。
クッキーは“あなたは友達”。
マシュマロは“あなたが嫌い”。
マドレーヌは“もっと仲良くなりたい”。
意外にチョコレートには特筆する深い意味はないらしい。
その中でも、この記事がホワイトデーのお返しとして一番お勧めしているものは、ずばり“キャンディー”だった。
キャンディーをお返しに渡す意味が記載された一文を見て、息を呑む。

明日は土曜で学校が休みだ。
この休みの間に、キャンディーを買いに行こう。
そしてお返しとして渡すのだ。キャンデーに含まれた甘酸っぱい意味と一緒に。

Act.11 遠回りなマジメ君

土日明けの月曜日。
アタシはいつも通りの時間に登校した。
教室に到着し、席替えしたばかりの新しい席に自分の荷物を置くと、近くの席に座っていたセナがトコトコと近づいてくる。
空いているアタシの隣の席に腰を下ろすと、取り留めのない世間話を振って来た。
セナのあまりオチのないハナシに笑いながら相槌を打っていると、遠くの方でランツの声が聞こえてきた。

「よー、はよーっすタイオン」

聞こえてきたその名前に、反射的に視線が向かってしまう。
ランツに挨拶されていたアタシの好きな人は、ついさっき登校してきたばかりらしい。
自席に荷物を置きながら、近くの席のランツと一言二言言葉をかわしていた。
セナの話を薄っすら聞きながら横目でタイオンを観察していると、不意に目が合ってしまう。
あ、やばい。見てたのバレたかな。
そう思った瞬間、アタシが視線を逸らすよりも前に、タイオンが足早にこっちに歩み寄って来た。
えっ、なに?なになに?
驚くアタシをジーっと真っすぐ見つめつつ、すぐ目の前で立ち止まる。

「すまないセナ。ユーニ、借りていいか?」
「え?あ、あぁうん。全然いいよ」
「そうか。ユーニ、ちょっと来てくれ。話がある」
「は、話し……?今すればいいんじゃね?」
「ここじゃちょっと……。2人で話したい」

周りに聞こえないよう、小声でしゃべりかけて来るタイオンに、妙な期待を抱いてしまう。
ふと彼を見上げると、少しだけ気恥ずかしそうに頬を搔きながら視線を逸らしていた。
その照れた顔が、一層アタシの心を躍らせる。
2人で話したい?なにそれ。わざわざ呼び出すなんて、なんか告白みたいじゃん。
いやいや、流石にそれは……。違うよな?違うよ。流石に違うって。
変に期待すんなアタシ。絶対違うから。

「わ、分かった」

そっと立ち上がると、タイオンは“じゃあ屋上で……”と一言告げて歩き出す。
その背に続いて歩き出そうとするアタシの視界に、セナのやけにニヤニヤした顔が飛び込んできた。
やめろその含みのある顔。そういうのじゃないから。
セナの視線から逃げるように速足で教室を出ると、前を歩くタイオンの背に着いて行く。
階段を上がって、最上階に位置する鉄製の扉を開ける。
こんな朝っぱらから屋上に来る生徒など一人もいないらしく、青空が見える広い空間にはアタシたちしかいなかった。

やべぇ。マジで2人きりじゃん。
今さら緊張してしまう。
風のない屋上は気持ちいい気候に包まれている。
ずっと背中を向けていたタイオンは振り返り、手に持っていた小さな紙袋を差し出してきた。

「これ、この前のお返しだ」
「えっ、マジで?もう用意してくれたんだ」
「あぁ、まぁ。流石に貰いっぱなしは申し訳ないしな」

差し出された紙袋の中を覗き込んでみると、手のひらサイズの瓶がひとつ入っていた。
瓶の中に詰められていたのは、色とりどりの小さなキャンディーたち。
そのあまりにも可愛らしいビジュアルに、ユーニは思わず目を丸くした。

「うわっ、なにこれ超かわいい!キャンディー?」
「あぁ。気に入ってもらえるといいが」
「気に入らないわけなくね?アタシキャンデイー好きだし。何味があるの?」
「えっと、苺とブドウとリンゴとレモンだな」

様々な色のキャンディーが詰まった瓶を何気なく空に掲げてみると、日の光がキャンディーの透き通ったパステル色に反射してきらきらと輝いていた。
こんなにセンスのいいお返しを貰えるなんて思わなかった。
お世辞抜きに嬉しい。
目を輝かせてはしゃいでいると、タイオンは“こほん”とひとつ咳ばらいをしてアタシの注意を惹きつけた。

「それと、もうひとつ話があって」

ほんの少し赤らんだ顔で真剣な表情を浮かべているタイオンの様子に、心臓が跳ねる。
何この空気。やっぱり大事な話って、告白だったりする?
えっ、マジ?やばいどうしよう。
そりゃあ告られたら嬉しい、断る理由なんてないけど、まだ心の準備が出来てない。
貰ったキャンディーの瓶を胸に握りしめながら“な、なに…?”と問いかけると、タイオンは緊張した面持ちで深呼吸を始めた。

いや、告るやつじゃん。
緊張した感じの深呼吸は告る直前にやるやつじゃん。
もうこうなったら覚悟決めてやる。
“好きだ”と言われたら“アタシも”と、“付き合ってくれ”と言われたら“いいよ”と返事をしてやる。
よし来い。いつでも来い。
タイオンからの高威力の告白を受け止めるため、真剣な顔で見つめ返すアタシに、あいつは意を決した様子で口を開いた。

「次のテスト、英語で僕が勝ったら告白させてくれ」
「いいよ!!!!」

力み過ぎたのだろうか、思ったよりも大きな声が出てしまった。
仕方ない。嬉しい告白の台詞を、タイオンが言ってくれたのだから。

「……ん?」

ちょっと待て。なんか今、おかしかったぞ?
“ずっと前から君が好きでした”とか、“僕と付き合ってください”とか、そういうありきたりな台詞じゃなかった。
“英語で僕が勝ったら告白させてくれ”?
えっ、ちょっと待って。なにそれ。

「いや、え?なにそれ」
「今まで英語で君に勝てたことがなかっただろ。だから、今回こそは僕が勝つ」
「そんなことどうでもいいって。勝ったら告白って言った?」
「あぁ。だからその、そういうことで」
「はぁ?ちょっ……」

アタシが引き留める間もなく、タイオンはそそくさと屋上から去って行ってしまった。
晴れやかな空の下、残されたのはアタシと手元に残った綺麗なキャンディーの瓶だけ。
去り際、タイオンの耳が今まで見たことがないくらい赤く染まっていたことを見逃さなかった。
なにあれ。何今の。
英語で勝ったら告白させてくれって、それ自体がもはや告白みたいなもんじゃん。
えぇ?アイツ馬鹿なの?頭いい癖にアホなの?

呆然としながら教室に戻ると、タイオンは自分の席でかりかりと勉強に励んでいた。
あいつが英語の成績でアタシに勝ったことはない。
にも関わらず、勝ったら告白するなんて遠回りなことをせず、あの場で告れば迷わず首を縦に振っていたのに。
言ってやろう。わざわざそんな困難なことにぶつかりに行かなくても、手を伸ばしてくれさえすればそれでいいんだって。
意を決し、タイオンの席へと歩み寄る。

「あのさ、タイオ……」

話しかけるため口を開いた瞬間、机の上に広げられたタイオンの教科書とノートが視界に入って来る。
どうやら英語の勉強をしているらしい。
英単語や文法がびっしりと書き連ねられているノートを目にして、アタシは言葉を飲み込んだ。
元々真面目な優等生君だったけれど、こんなに努力しているのか。
そんなにアタシに勝ちたいの?
そこまで努力するのは、アタシに告白するため?
そんなに、それほどまでに、アタシが好きなの?

「なんだ?」
「……いや、なんでも」

今すぐ告白すればいいじゃん。
喉元まで出かかったその言葉は、タイオンの熱心さを前に容易に飲み込んでしまう。
だって、アタシに告白するためにこんなに一生懸命になってるタイオン相手に、そんな軽いこと言えそうにない。
それに、本当は凄く嬉しいんだ。
タイオンがそこまでしてアタシに想いを告げようとしてくれていることが。
そんなに好きなんだ。そんなに伝えたいんだ。
もっと必死になって。もっともっと本気になって。これ以上ないってくらい懸命に努力して、アタシを求めてみてよ。
タイオンがアタシのために頑張っている姿を見ていると、心がくすぐったくなる。
自分にこんなワガママで独りよがりで、それでいて乙女な一面があるとは思わなかった。

その場を去ろうとしたアタシだったけれど、すぐに思いとどまって足を止める。
そして、タイオンの机の目の前でしゃがみ込み、両腕を机の上についてタイオンの顔を覗き込む。
ノートに向かっていたアイツの顔と、覗き込むアタシの顔が今までにないくらい接近して、2人の視線が絡み合う。
驚いたように大きく見開かれたタイオンの褐色の瞳を見つめながらアタシはまじないをかけるようい囁いた。

「アタシ手加減しないから。本気でやれよ?」
「あ、あぁ……」
「ちゃんと勝ってくんなきゃキレるからな、マジで」
「え、それはつまり……」

タイオンの瞳が、期待の色に染まり始める。
言いかけた言葉を全て吐き出す前に、教室に扉が開いて担任のアシェラが入って来る。
彼女の登場により、アタシとタイオンの間に生まれていた淡い空気も終わりを告げた。
去り際、タイオンからの熱を帯びた視線を背中に感じつつも、アタシはあえて何も言わず自分の席に戻った。

思わせぶりな態度をとりすぎているのかもしれない。
けれど、相手に淡い感情を抱いているのはアタシだって同じだ。
そんなにアタシが好きなら、ちゃんと勝って、まっすぐ好意をぶつけてくれるタイオンの気持ちを受け止めたい。
タイオンを試すようなアタシの行動は、きっと罪深い。

家に帰り、早速タイオンに貰ったキャンディーを味わってたアタシは、なんとなくキャンディーの作り方について調べていた。
へぇ、こんな風に作られてるんだァ。
動画と共に解説してくれている記事を見ていると、関連記事の欄に気になるものを見つけた。
“ホワイトデーにキャンディーを贈るべき理由”というタイトルの記事に惹かれリンクを踏んでみると、そこには甘酸っぱい事実が羅列されていた。

ホワイトデーの贈り物にはそれぞれ意味が含まれている。
中でも本命に贈るべきお菓子として最適なのはキャンディーだ。
何故なら、キャンディーをホワイトデーに贈ることは、“あなたが好き”という意味が含まれているからである。

記載された事実に、アタシの心臓は止まりそうになった。
なんだそれ。そんな意味があるのか。
タイオンは知っててキャンディーを贈って来たのかな。
いや流石にないか。そういうの疎そうだし。

だが、記事には続きがあった。
どうやら同じキャンディーと言えど、味にも細かく意味が含まれているらしい。
中でも好意的な意味が含まれている味は、苺、ブドウ、リンゴ、レモンの4種類。
まさにタイオンから贈られた味と合致していた。

マジかよアイツ。
流石に味までぴったり合ってるとなると、知ったうえで贈って来たとしか思えないじゃん。
てことは、告白するってはなし、きっと本気だ。本気以外の何物でもない。
キャンディーに気持ちを込めて手渡してくるなんて、意外に可愛いことするじゃん。
照れた様子でこのキャンディーを手渡してきたあいつの顔を思い浮かべながら、アタシはリンゴのキャンディーを一粒つまんで口内に入れるのだった。

***

学期末のテストまで残り1週間。
中間テストの時と同じように、テストが間近に迫ったこの期間は全ての部活動が活動休止を余儀なくされる。
授業終了後、すぐに家に帰ろうとする同級生たちとは裏腹に、タイオンは毎日のように遅くまで学校に残って勉強しているようだった。
きっと中間の時のように図書室で黙々と集中しているのだろう。
正直声をかけたかったけれど、アタシのために頑張っているタイオンの集中力を挫きたくはなかった。

そんなある日、隣のクラスのゼオンに声をかけられた。
時間があるときに勉強を見てくれるという。
そういえば、前にそんな約束をしたような気がする。
律義に約束を守ろうとしてくれるゼオンの申し出はありがたかったけれど、遠慮することにした。
2人で図書室通いを始めて、また妙な噂がたったら面倒だ。
それに、図書室にはきっとタイオンの姿もある。
ゼオンと2人でいるところを見られて勘違いさせたくはなかった。

タイオンのことばかり心配していたアタシだけど、自分の勉強を怠るわけにはいかない。
英語はいつも通り勉強せずとも高得点を狙えるだろう。
タイオンからの告白を望んでいるからと言って、露骨に手を抜いたりしたらアイツはきっと怒るはず。
宣言した通り、当日は一切手を抜かず本気で解いてやるつもりだ。
問題は元々苦手だった数学や物理。
ゼオンからの援助を受けられない以上、自分自身の力で何とか頑張るしかない。
テストまでの毎日、アタシはまっすぐ家に帰って机に向かう健全な学生生活を送っていた。

分からない問題にぶち当たるたび、タイオンの顔が思い浮かぶ。
今ここでアイツに電話して、教えて欲しいと甘えたらどんな反応が返って来るだろう。
話したい。声が聴きたい。けど駄目だ。アタシが邪魔をするわけにはいかない。
何度もスマホに手を伸ばしそうになる欲求を押さえ込み、アタシは苦手な公式を片っ端から頭に叩き込んだ。

テスト当日。
1週間に及ぶテスト期間は地獄のようだったけれど、なんとか無事終えることが出来た。
手ごたえはそれなりにある。苦手だった数学や物理は勿論、英語に関してもそこまで難しい問題は出なかった。
きっといつも通り高得点だろう。
問題は、タイオンがアタシ以上に好成績を残せているのかどうか。
“手は抜かない”と宣言していたにもかかわらず、問題を解いている間わざと外してやろうかという考えが何度も頭をよぎった。
けれど、結局宣言通り手を抜くことなく完璧な回答を提出したアタシは、少々不安に駆られている。

タイオンを信じていないわけじゃない。
でも、今までずっと惜しくも2位の位置についていたわけだし、確率的にはまたアタシが勝ってしまう可能性の方が高い。
あーあ。やっぱり手を抜いたほうが良かったかな。
分からない程度に数問だけ外して、ぎりぎりタイオンが勝つくらいの点数に調整しておけばよかったかも。
そんな舐めた考えをしていたアタシだったけれど、すぐに恥ずかしい思いをすることになる。

それは、夏休みが目前に迫った終業式前日。英語のテストが返却された日のことだった。
他の教科の解答用紙は既に全て返却され、タイオンは全ての教科で学年1位の座に輝いている。
やっぱり流石だ。とはいえ、一番重要な英語はまだ結果を確認できていない。
英語担当の教師、シドウによって一人ひとり名前が呼ばれ、テスト用紙が返却されていく。
用紙を受け取りがっかりするランツやセナ、あまり表情を変えないノアを見送り、とうとうタイオンの名前が呼ばれる。
回答用紙を受け取るため席から立ち上がり、シドウが立っている教卓へと歩み寄るタイオンの表情はこわばっていた。

明らかに緊張しているのが分かる。
その様子を遠くから見守りながら、アタシも緊張していた。
タイオンが1位でありますように。
そんな願いを込めて両手を握りしめる。
やがてシドウは、柔く微笑みながら回答用紙をタイオンに手渡し、そして言った。

「流石ですね、タイオン。96点。学年1位の成績です」
「えっ」

そう告げられた瞬間、教室内から“おぉ~”と感嘆する声が響き渡る。
驚き、呆然と回答用紙を見つめているタイオンとは対照的に、アタシは静かにガッツポーズを決めていた。
よっしゃ。これで告白されることが確定した。
流石タイオン。アタシのためにたくさん勉強して努力したんだろうな。
よしよし。これでアタシが2位の成績を収めていればすべてが完璧だ。
喜びを噛みしめていると、最後にアタシの名前が呼ばれる。
タイオンが1位と分かった以上、もはやアタシの点数なんてどうでもいい。
それなりに取れていれば満足だ。
意気揚々と用紙を受け取りに行ったアタシに、シドウは残念そうに眉を潜めながら驚くべき事実を口にした。

「迂闊でしたね。32点です」
「えっ!?」

告げられた数字に驚き、思わず大きな声を挙げてしまう。
まさか。他の教科ならともかく、英語でそんな点数とったことない。
何かの間違いなんじゃ……。
即座に受け取った用紙に視線を落とすと、右端に赤ペンで大きく32点と記載されている。
この点数で間違いないらしい。
何でだ?完璧に近い形で回答できたはずなのに。
テスト用紙を手に呆然としているアタシに、シドウはこの点数をつけるに至った原因を教えてくれた。

「残念でしたね、ユーニ。解答欄が一部ズレていたようです。この1問のズレがなければ、98点であなたが学年1位でした」
「へ……」

よく見ると、確かに序盤の問題で1問分空欄がある。
そこを起点に回答が1問ずつズレているようだった。
しかも記載してあった回答は全て正解。
このズレさえなければ、96点のタイオンを抜いてアタシが学年1位だった。
ホッとしたような、悲しいような。
いや、流石に32点は結構傷付く。
赤点は免れたとはいえ、ギリギリの点数だ。たった1問のズレがこんなにも大きな原点に繋がるなんて。
肩を落としながら席に着いたアタシに、斜め後ろの席に座っているノアが“どんまい”と声をかけてきた。

とはいえ、タイオンが学年1位になった事実は変わらない。
これだけでも良しとしておこう。
そう思わないとやっていけない。
32点という有史以来最低の点数をたたき出してしまったことは、この瞬間以降忘れることにした。

今日という一日は、テストの返却だけで費やされた。
放課後になり、クラスメイト達は続々と教室を後にする。
明日は終業式。1学期最後の登校日を前に、夏休みを控えたクラスメイト達はみんな心躍らせているようだった。
けれど、今のアタシにとっては夏休みなんて正直どうでもいい。
見事アタシから英語1位の座を奪い取ったタイオンと、一刻も早く話さなければ。
帰りのHRが終了し、荷物をまとめて席を立ったアタシはすぐにタイオンの席へと視線を向けた。

「あれっ」

タイオンがいない。
荷物を背負って駆け寄ると、アイツの席は既にもぬけの殻になっていた。
近くの席で他のクラスメイトと話しているランツにタイオンの居場所を聞くと、“もう帰ったんじゃね?”というものすごく薄情な返答をされた。
はぁ?帰った?なんでだよ。アタシに告白するんじゃなかったのかよ。
急いで廊下に出てみるも、タイオンの姿はどこにもない。
HRが終わったのはついさっき出し、急げば間に合うかも。
すれ違う先生に注意されながら廊下を走り、階段を駆け下り、下駄箱へと向かう。
すると数十メートル先に、学校の正門から歩いて出ようとしているタイオンの背中を発見した。

逃がすかあの野郎。
慌ただしく靴に履き替え、全速力でタイオンの背中めがけて走る。
ようやく追いついたと同時に勢いよく背中を押すと、タイオンは“うおっ”と驚いた声を嗅げながらよろめいた。
振り返ってアタシの姿を確認した瞬間、いかにも気まずそうな顔をしている。
その顔、絶対自覚したうえで先に帰ろうとしてやがったな。

「なに勝手に帰ってんだよ」
「一緒に帰る約束なんてしてたか?」
「……してねぇけど」
「なら別にいいだろ。付き合ってるわけでもあるまいし」

そう吐き捨てると、タイオンはふいっと顔を逸らしてまた歩き始めた。
はあぁぁ?何だよソレ。確かに付き合ってなんかないけどさ、今からそれっぽい関係になろうとしてる最中じゃねぇの?
知り合ったばかりの頃のようにやたらとツンケンしているタイオンの態度がよく分からない。
けれど、ここでめげる選択肢はなかった。
むっと口元を“へ”の字に曲げながら、アタシは足早に歩くタイオンの背中に着いて行く。

「ついてこないでくれ」
「駅まで帰り道一緒じゃん」
「わざわざ隣を歩く必要ないだろ」
「なんでよ。嫌なわけ?」
「……別に」

明らかに冷たい態度を取り続けるタイオンは、歩く速度を落とすことなく速足で歩き続ける。
そもそも足の長さが違うから、そんな速度で歩かれたら追いつけない。
時々小走りで並走しながら必死についていくも、やっぱりタイオンが歩く速度を緩めてくれることはなかった。
なんでこんなに冷たいの?意味が分からない。
このテスト期間中、タイオンに嫌われるようなこと何かしたっけ。
タイオンの心が全くつかめない。すぐ隣を歩いているはずなのに、心はどこか遠いところにあるみたいだった。

随分速足で歩いたせいで、いつもより数分早く駅に到着してしまった。
アタシとタイオンの家は路線上反対側にあるから、本来はここでサヨナラだ。
けれど、まだアタシはタイオンに約束を果たしてもらっていない。
“勝ったら告白させてくれ”というその約束が果たされるまで、タイオンを逃がすわけにはいかなかった。
先にホームに入って来たのはタイオンが乗るはずの電車。
“また明日”も言わずにさっさと電車に乗ろうとしているタイオンをの腕を掴み、強引に引き留めた。

「な、なにしてる?」
「おくって!」
「は?」
「暗くて怖いからおくって!」
「いや、まだ全然明るいじゃないか……」

時刻はまだ16時。夏前のこの時間は日暮れとは程遠い。
苦しい言い分だってことは分かってた。けどこうでも言わなくちゃタイオンは言ってしまう。
無理矢理腕を振り払って電車に乗ろうとしているタイオンを逃がすまいと、アタシはアイツの背中に抱きつくような形で後ろから両腕を回した。

「ちょ、ゆ、ユーニ!?」
「おくって!」
「なんで僕が!」
「いいからおくって!」
「無理だ!帰らせろ!」
「おくれ!おくれよォ!」
「なんなんだ君はさっきからもう!」

駅のホームにいる他の乗客たちが、アタシたちを怪訝な表情で見つめている。
端から見れば、アホな高校生カップルの痴話げんかにしか見えないのだろう。
正直恥ずかしい。でもやめなかったのは、きっとタイオンも恥ずかしさに耐えがたくなって音を上げるだろうと予想していたから。
案の定、強引に電車に乗ろうとしていたタイオンの身体からは力が抜け、深いため息とともに真っ赤な顔で振り返って来た。

「あぁもうわかった。分かったから離れてくれ……」
「っしゃ」

見たか。大声駄々こね作戦大成功だ。
やがてタイオンが乗るはずだった電車は扉がしまり、ゆっくりと発進していく。
逃げられないことを確認したことで、ようやくアタシはタイオンの身体を開放した。
アタシが乗る電車が来るまでの間、2人は黙って白線の内側で並んで待っていた。
ふと隣のタイオンを見上げると、視線を背けている彼の顔はまだ少し赤らんでいる。
その赤面の原因は、周りにじろじろ見られたから?
それとも、アタシが後ろから抱き着いたから?
質問するよりも前に、電車がホームにやって来た。

電車に乗り込んだ後も、アタシたちは黙ったままだった。
吊革につかまっている隣のタイオンが今何を考えているのか、簡単に予想できたならもっと楽だったのに。
やがて、電車はアタシの家の最寄り駅に到着する。
ここから家までは徒歩5分。前みたいに出来るだけゆっくり歩いてタイオンとの時間を楽しみたかったのに、あいつはまた速足で歩きだしてしまう。
なんだよその態度。まるでアタシとの時間が煩わしいみたいじゃん。
もっと一緒にいたいと思っているのはアタシだけなの?
沢山話して、笑い合って、時々喧嘩して、近い距離感で居続けたいと思っているのもアタシだけ?
この淡い感情を抱いているのも、アタシだけ?

「ねぇ!」

前を歩くタイオンが、アタシのタワマンの前に到着する。
と同時に、少し後方で立ち止まったアタシは乱れた息を整えながら声をあげた。
エントランスの前で立ち止まったタイオンは、アタシを振り返る。
真面目で堅物なその瞳が、眼鏡越しにアタシを捉えている。
その視線が逸らされてしまう前に、心にため込んだ不満をぶつけてやることした。

「アタシなんかした?」
「え?」
「なんでそんなに冷たくすんの?ワケわかんねぇ」
「……別に、冷たくしているつもりは」
「してんじゃん!」

アタシの甲高い叫びが、静かなタワマン街に響く。
あーあ。こんな風に感情に任せて怒るつもりなかったのに。
メンドクサイな、アタシ。
でも止められそうにない。
タイオンのことになると、心が途端に幼くなって、ワガママになってしまうんだ。

「……告白、してくれるんじゃなかったのかよ」
「……」
「気が変わったのならそう言えよ!好きじゃなくなったからあの約束は忘れてくれって!じゃなきゃいつまでも期待して待ってるこっちが惨めじゃねぇか!」
「……期待してくれていたのか」

当たり前なこと聞き返すなよ。
こっちのはその約束を突きつけられた時からずっと期待してたんだ。
タイオンから気持ちを告げられるその瞬間を。
“当たり前だろ”とかすれた声で返答すると、タイオンはまた黙り込んだ。
恐る恐るあいつの顔を見ると、相変わらず赤い顔。
その顔がアタシを無駄に期待させているってこと、分かってないのかな。
数メートル離れた場所で立っていたタイオンが、ゆっくりとアタシに歩み寄って来る。
そして、目の前で立ち止まると“ユーニ”とあの聞き慣れた声で名前が呼ばれた。

「すまない。約束を果たせなくて」
「“果たす気がない”の間違いだろ」
「そんなことない!全力だったに決まってるだろ。でも、やっぱり君には敵わなかった。1位になれなかった以上気持ちを伝える権利なんて、僕にはない」
「……ん?」

あれ。なんかおかしい。
“1位になれなかった”?
タイオンは何を言ってるんだ?
さっきシドウから回答用紙を貰った時、はっきりと“1位だ”って言われてたじゃん。
耳おかしくなったのか?

「いや、え?1位じゃん。さっきシドウがそう言ってたじゃん」
「確かに点数的には1位かもしれないが、本当の1位は君だろ」
「いやいや、アタシ32点だし」
「解答欄がズレていたんだろ?それが無ければ98点。実質1位じゃないか。僕のは繰り上げ1位に過ぎないだろ」

えぇ……?
あの約束に“実質”だの“繰り上げ”だの、そういうシステムって有効だったの?
確かに解答欄にズレが生じていなかったらアタシが1位だったかもしれないけど、実際に記載された点数は32点。
1位どころか学年で下から数えたほうが早い順位に落ち着いてしまっている。
こんな点数で“実質1位は君だ”と言われても嫌味でしかないだろ。

「1位になる約束を果たせなかったのが不甲斐なくて、わざと距離を取ろうと思ったんだ。諦めるために」
「なに、それ……」

1位を逃してしまったと思い込んだタイオンは、アタシとの約束を果たせなかったと結論付け、今までツンケンした態度をとっていたらしい。
自己完結にもほどがある。
誰がどう見てもタイオンはちゃんと1位の座を獲得しているし、そもそもアタシは“英語で1位を取ったら”なんて遠回しな条件を付けくわえなくてもタイオンと付き合う気満々だった。
アタシの気持ちなんて関係なく独り相撲を繰り返している真面目過ぎなこの眼鏡に、アタシは呆れて肩を落としてしまう。

「確かに実質アタシの方が点数高いけど、正式な点は点数はタイオンの方が上なんだからお前が1位でいいだろ……」
「それじゃダメだろ。文句なしに“君より出来る”と証明しなくちゃ意味がない」
「てか、前から気になってたけど、なんでそんなに英語の成績にこだわってんの?そんなに全教科1位にないたいわけ?」
「別に英語にこだわっているわけでも、全教科で1位になりたいわけでもない。すべての教科で君より上の順位を取りたいだけだ」
「はぁ?なにそれ。なんで?」
「そ、それは……」

タイオンはずっと、全教科学年1位の座を目指しているのかと思っていた。
だから、唯一障壁となっているアタシに対抗意識を燃やしているのだと。
けれど、どうやらこの認識は間違っていたらしい。
タイオンがこだわっていたのは全教科1位の座じゃなく、アタシに勝つことだったらしい。
けどなんで?理由が分からない。
問いかけると、タイオンは少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らした後、たどたどしく教えてくれた。

「君は、自分より頭がいい年上の男が好きなんだろ……?」
「え?」
「年齢はどうにもならい。だったら“自分よりも頭がいい”という条件だけは満たしたかった。だから……」
「だから、アタシに英語で負けるたびに悔しそうにしてたの?」

赤くなった顔を逸らし控えめに頷くタイオンに、アタシの心臓は急速に締め付けられていく。
え、えぇ、ええぇぇぇっ、なにそれ。アタシの好きな男のタイプ聞いて、必死にそのラインに食い込もうとしてたわけ?
そんで毎回うまくいかず悔しかったから対抗意識燃やしてたってこと?
英語で1位になることを告白の条件にしたのも、達成すれば同時に“アタシの好みの男”に近付けるから?
すべての辻褄が合致して、心臓がバクバクと鼓動する。

馬鹿だなぁホント。真面目過ぎて極端なんだよ、タイオンは。
確かにアタシの好きなタイプは、“年上でアタシより頭がいい知性と品性に溢れた男”だった。
でもそれは、イスルギを初恋の相手だったと思い込んでいたからこその発言。
本当の初恋の相手が誰なのか分かった今は、“年上の男”にも、“自分より頭のいい男”にも興味はない。

「それ、イスルギおじさんが初恋の相手だって思い込んでたからそう言ったんだよ」
「今は違うというのか」
「当たり前だろ?あの人が初恋の相手じゃなかったんだから」
「じゃあ、君の初恋って……」

ポケットから取り出したのは、手帳型のスマホに挟み込んだ小さなしおり。
白いアネモネの押し花によって作られたそれは、アタシの“初恋の人”から贈られた初めてのプレゼントだった。

「アタシの初恋は、これをくれた人。今目の前にいる」

頭上でタイオンが息を詰める気配がした。
見上げれば、瞳を揺らしながらまっすぐアタシを見つめてくれているタイオンの視線に貫かれる。
驚きと喜びが滲むその目を見て、ようやくタイオンの心が掴めたような気がした。

「だから、最初からアタシにテストで勝つ必要なんてなかったんだよ。アタシは今のままのタイオンのことが——」
「ちょ、ちょっと待ってくれっ」

切羽詰まった声と共に、突然タイオンがアタシの両肩を掴んでくる。
驚き、肩を震わせて言葉を飲み込むと、タイオンは至極真剣なまなざしのまま言葉を続けた。

「僕から言わせてほしい」

その申し出が、たまらなく嬉しかった。
また心がきゅっと締め付けられる。
タイオンから貰ったキャンディーのように甘酸っぱい空気を感じ取り、アタシは黙って頷いた。
咳ばらいをしたタイオンが、アタシの肩からそっと手を放し、落ち着かない様子で視線を逸らした後、ようやく言葉を絞り出してくれた。

「君のことが、ずっと前から好きでした。僕と付き合ってください」

ビックリするくらいストレートな告白だった。
誤魔化しもかっこつけもないその言葉と共に、タイオンの褐色の右手が差し出される。
何の捻りもない告白だったけれど、今のアタシには十分だ。
爆発しそうになる喜びを必死に抑えながら、差し出された右手をきつく握り返す。

「しゃーねぇな。付き合ってやるよ」

目と目が合う。
自然と笑顔が零れて、2人同時に照れ笑いを零した。
そして繋がれていた手をそっと解くと、タイオンは遠慮がちに両腕を広げてきた。

「嫌じゃなかったら……」

たった今彼氏になったタイオンからの予想外の行動に、ほんの少し戸惑ってしまう。
嫌じゃない。ただ少し、ほんの少し恥ずかしいだけ。
アタシもゆっくりと両腕を広げてタイオンの胸の中に身を預けると、背中に優しく腕が回った。
うわ、やばい。死ぬほど心臓バクバクしている。
真正面からこうやって抱き合うのって、こんなにドキドキするもんなんだな。
頬を寄せた胸板から、タイオンの心臓の音も聞こえて来る。
同じようにドキドキと高鳴っているその鼓動を聞いて、安心した。
良かった。タイオンもアタシと同じなんだ。

数秒間抱き合っていたアタシたちの身体は、タイオンがもぞもぞと動いたことでようやく離れた。
また2人の視線が絡み合う。
至近距離で見つめる眼鏡越しのタイオンの目は、やけに熱っぽかった。
やがて、吸い込まれるようにタイオンの顔が近づいてくる。
あぁ、これは。
意を決して目を瞑ったその時だった。唇に柔らかな感触が触れるよりも前に、すぐ近くで急に大声が挙がった。

「あー!チューしてるゥー!」

遠慮もないその一言に、アタシたちは肩をビクつかせて固まった。
視線を向けた先にいたのは、道を挟んだ向かい側の公園で遊んでいた子供たち。
サッカーボールを小脇に抱え、こっちを指さしながら大声で揶揄ってくる。
お陰で周囲の子供たちも気が付いたのか、公園で遊んでいた男児たちが“ひゅーひゅー”と煽って来た。
こんな空気の中、気にせず距離を縮めていられるほどアタシは豪胆じゃない。
慌ててタイオンから距離を取ると、顔を真っ赤にしながら道路の向こうにいる子供たちに叫び散らした。

「うるせー!散れー!ガキどもーっ!」
「あっ!鬼だ!」
「ウワーッ!殺されるー!」

アタシが怒鳴ると、子供たちは蜘蛛の子を散らしたように走り去っていってしまった。
ったく人聞きの悪い。誰が鬼だ。
いちいち大袈裟なガキどもに腹を立てていると、背後から“ふっ”と息を吐くように笑みを零すタイオンの気配がした。

「もう少し場所をわきまえるべきだったな」
「そ、そうだな」
「そろそろ日も暮れるし、今日は帰ろう。また連絡するから」
「うん……」

この時間、学校帰りの小学生や買い物帰りの主婦が多く歩いているこの辺りは、付き合ったばかりの男女がイチャつくには不相応の場所だったらしい。
今日は大人しく解散したほうがいい。
それはアタシも分かっていたけれど、なんとなく惜しくなってしまう。
あと少しだったのに。

“それじゃあまた明日”と軽く手を振って来るタイオンに、途端に寂しくなってしまう。
去り行くタイオンの手を握って引き留めてしまったのは、咄嗟の行動だった。
振り返った彼氏の顔めがけて、そっと背伸びをする。
異性にこんな積極的なことをするのは初めてだった。
初めてだったからこそ、慣れない行為に失敗してしまった。
唇に触れるはずだった感触は的を外れ、タイオンの頬にぶつかってしまう。
あ、やべ。狙いが外れた。

焦って背伸びをやめ、タイオンの顔を見つめる。
アタシから口付けられた左頬を片手で押さえ、彼は真っ赤な顔をしている。
つい先ほどまで積極的にキスをしようとして来た男と同一人物だとは思えないくらい、タイオンは狼狽えていた。

「えっと、じゃあ、あの、また明日っ」
「ゆ、ユーニ!?」

がらにもなく乙女みたいなことをしてしまった恥ずかしさと、不意打ちのキスに失敗してしまった不甲斐なさにいたたまれなくなって、アタシはダッシュで自宅のメインエントランスへと駆け込んだ。
ポケットの鍵をセンサーで感知したオートロックのドアが開き、脱兎のごとくエレベーターに飛び乗る。
あぁもう。慣れないことするもんじゃねぇなマジで。
バクバクする心臓を押さえながらエレベーターに乗っていたアタシだったが、不意に懐のスマホが震えた。
どうやらメッセージが届いたらしい。送り主は案の定タイオンだった。

“さっきのは1位になったご褒美として受け取っておく。明日からはクラスメイトではなく彼女として弁当を作って欲しい”

そのメッセージは嬉しかったけど、タイオンは感じなことを忘れている。
明日は終業式で、午前中で授業が終わる。
つまり、弁当を作る必要はないのだ。
“明日は午前中で終わるじゃん”と送るとすぐに既読が付き、返信が届く。

“確かに”

たった一言だけ送られてきたメッセージを見た瞬間、“ぷっ”と吹き出してしまった。
こいつ、意外に抜けてるところあるんだよな。
そう言うところが可愛いというか。でもきっと、タイオンはアタシが“可愛い”なんて言ったらぷりぷり怒るんだろうな。
だからここは愛おしいと言っておこう。

ニヤニヤする口元が抑えられない。
アタシ、あのタイオンの彼女になったんだ。
なんだかまだ実感がわかない。
明日、セナやノアやランツに死ぬほど自慢してやろっと。
やがてエレベーターは目的の階に到着する。
踊る心に従い、軽くなった足取りでアタシは自宅へと帰るのだった。

17歳の初夏、アタシは人生で初めての彼が出来た。
相手はあの、やたらと目が合うマジメ君である。

Act.12 恋をしているマジメ君

Side:タイオン

この地球上には、約80億人もの人間が生きているという。
その中で心から好きだと思える相手と両想いなれるのは、控えめに言って奇跡としか言いようがない。
そんな安いJPOPの歌いだしのようなポエミーな気持ちになってしまうほど、僕は浮かれていた。
だってこんなの奇跡じゃないか。
子供の頃好きだった女の子と高校で偶然再会できたうえに、そんな彼女と両想いになり、そして交際に発展できたのだから。
僕と同じ状況に陥れば、どんなに感情を欠落させた男であれ浮かれるに違いない。
この浮かれようは僕のせいじゃない。
あり得ない奇跡を凝縮させたこの状況が悪いのだ。
そう、ユーニとのLINEでいちいちニヤニヤしてしまうことも、毎晩電話で声を聞くたび心がきゅっとなってしまうのも、寝る前にユーニの顔を思い浮かべて妙な気持ちになるのも全て、この甘酸っぱい状況が悪いのだ。

本来僕はもっとクールな性格で、ニヤニヤすることもなければ赤面することもドキドキすることもない。
そんな真面目で冷静沈着な男なのだ。
ユーニの前でだけ、その仮面にひびが入ってしまうだけのこと。
だらしなく頬が緩むのは、ユーニがいちいち“会いたい”とか“話したい”とか、可愛らしい我儘をぶつけて来るせいだ。
僕のせいじゃない。

ユーニと交際が始まって約2週間。
夏休みに突入し、カレンダーはいつの間にか7月から8月に切り替わっている。
外の気温が35度を超える猛暑日が続く中、僕たちは初めて初めてデートの約束を交わした。
夏休みが明けるまでユーニに会えないのは寂しい。そう思っていたタイミングで彼女から“会いたい”と言われたので、あくまでユーニが会いたがったからというテイで約束を取り付けた。
とはいえ、外の気温は相変わらず命の危険すら感じるほどの熱さに包まれており、以前のように公園のベンチで並んで話そうにも30分と経たずどちらかが音を上げるだろう。

きっと今、駅前に停まっている車のボンネットに生卵を落とせばあっという間に目玉焼きが出来てしまうに違いない。
こんな猛暑日に外で会うわけにもいかないが、暑さをしのげる場所に遠出するほどの金もない。
話し合った結果、ユーニがうちに遊びにくる形で決着がついた。
我が家はユーニにとっても思い入れが深い場所だ。以前父に連れられ遊びに来たことがあるし、きっと断られないだろう。
僕のそんな予想通り、ユーニは迷わず“行く”と返事を返してきた。

「おじゃましまーす」

かつては自分の家だったというのに、玄関からあがりこむユーニは随分と遠慮深かった。
キョロキョロしながら奥へ進むユーニは、恐らく父のことを気にしているのだろう。
ユーニが僕が少し嫉妬してしまうほど、父に懐いていた。きっと会いたかったのだろうが、残念ながら今日も父は仕事で家を空けている。
その事実を伝えると、彼女は彼女は視線を逸らしながら“ふーん”と返してきた。

迷った末、僕の部屋ではなくリビングへと通した。
こっちの方が広いし、僕の部屋にはベッドがある。
そんな空間で2人きりになるのは、なんとなくまだ早い気がした。

ローテブルを前にカーペットが敷かれた床に座るユーニ。
そんな彼女に差し出したのは、冷たいアイスティーだった。
お礼を言いながら早速一口アイスティーを飲んだ彼女は、“よし”と気合を入れ、僕を真っすぐ見つめながら言ってきた。

「じゃあやるか」
「そう……だな」

気合を入れたユーニは、持参した肩掛けの鞄から数冊のテキストを取り出した。
筆記用具と一緒にローテブルにそれを広げると、髪をハーフアップにまとめ始める。
広げられたテキストは数学の教科書。
ユーニが最も苦手とする教科である。
公式がぎっしり書いてあるテキストとにらみ合いながら真剣な表情を浮かべるユーニの横顔を見つめながら、僕は複雑な感情に苛まれてしまった。

この家に彼女を誘う時、妙な下心があると思われたくなくてそれらしい理由をアドリブで伝えてしまった。
“一緒に勉強会でもしようか。苦手な教科を教えるから”
あくまで健全に、嫌がられないように慎重に言葉を選んだつもりだった。
結果、ユーニは警戒することなく色よい返事をくれて、今ここに至る。

家について早々、黙々と勉強を始めるユーニに合わせるように僕もテキストを開く。
2人きりの空間で、隣に腰掛けながら黙ってノートに向き合うこの時間がもどかしい。
勉強会を理由にユーニを誘ったのは僕だ。
彼女はよく僕を真面目だと揶揄うけれど、真面目とはいえ僕だってちゃんと男だ。
必死に隠したけれど下心だってある。
付き合いたての彼女が隣に居るのに、一日中健全に勉強会に励む気は到底なかった。

気持ちを伝えたあの日、ユーニにキスしそこなったことを今でも引きずっている。
ユーニから頬にキスを贈ってもらったけれど、頬じゃダメなんだ。ちゃんと唇じゃなきゃ。
キスがしたい。せめて抱きしめたい。いや、手をつなぐだけでもいい。
とにかくユーニに触れたかった。
けれど、彼女との距離をスマートに縮める方法なんて、僕にはわからない。
どう取り繕ってもたどたどしくなるだろうし、下心がはみ出してしまう気がする。
そんな不格好な僕でも、ユーニは受け入れてくれるのだろうか。

そんな漠然とした不安に駆られ、ノートに落としていた視線をそっとユーニに向ける。
すると彼女は、シャーペンの頭で自らのこめかみを突きながら険しい顔をしていた。
じっとテキストを睨みつけ、“うーん”と悩まし気な声を漏らしている。
何か分からない問題でもあったのだろうか。

「どうかしたか?」
「この問題わかんない」
「どれだ?」
「これなんだけどさぁ……」

そう言って、ユーニはテキストを引き寄せながら僕との物理的な距離を詰めてきた。
ユーニの肩と僕の肩が触れ合った瞬間、心臓が跳ね上がる。
ハーフアップにまとめられたユーニの髪から、信じられないくらいいい匂いがした。
花のような、ほんのり甘くて綺麗な匂いだ。
異性を感じるその匂いのせいで、僕の心は一気に動揺してしまう。

「あ、あぁ、これか。こういう問題は前のページの公式を使って……」
「うんうん」

まずい。どんどん顔が赤くなっていく。
ちょっと距離を詰めただけでこんなにも落ち着かなくなる。
照れていることを悟られたくなくて、必死で平静を装い公式を教えていく。
軽く解説すると、ユーニは納得したように笑顔を見せ、“なるほどな、ありがと”と笑いかけてきた。
その笑顔がたまらなく可愛い。もっとスマートな態度で接したいのに、“うん”しか言えなくなる。

そうして何度かユーニの質問に答えているうちに、30分が経過した。
互いのコップに注がれていたアイスティーが空になった頃合いで、ユーニがようやくシャーペンをテーブルに置きぐっと背筋を伸ばし始める。

「ふーっ、とりあえずひと段落着いたァ」
「そうか。よし、じゃあ休憩するか」
「えっ、もう?まだ30分しかやってねぇけど?」
「勉強にはこまめな集中が大事なんだ。休憩を怠ると集中力が衰えるぞ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ」

腑に落ちないようではあったが、ユーニはなんとか納得してくれた。
“じゃあ休む”と呟くと、開いていたテキストを閉じてローテーブルを片付け始める。
シャーペンをペンケースに戻したユーニにの白い手を握ると、彼女は不思議そうに目を丸くしながら僕を見つめてきた。
ノートに独占されていたユーニの視線が、ようやく僕に向く。やっと僕を見てくれた。
握った手を引き寄せ、反対の手で肩を抱き寄せる。
華奢なユーニの身体は僕の腕の中に簡単に収まって、髪から香るフローラルなユーニの香りが僕の鼻腔をくすぐった。
突然抱き寄せられたことに戸惑っているのか、ユーニが僕の耳元で“タイオン…?”とか細く名前を呼んでくる。

「疲れた。少しの間、こうしていたい」
「……学年成績トップなのに、たった30分で疲れるんだ?」
「悪いか」
「いや、全然」

嫌がられたどうしようかと思ったが、ユーニは僕の腕の中で全く抵抗することなく大人しく収まってくれている。
僕の胸板に体重をかけてくれているユーニが愛おしくて、一生放したくなくなってしまう。
自分にこんな情熱的な一面があるとは思わなかった。
ユーニと再会してからというもの、自分の新しい一面を何度も発見している。
自分自身が分からなくなってしまうほど、ユーニに惚れているということなのだろうか。

不意に、こちらを見上げているユーニと視線が絡み合う。
映画やドラマで見たキスシーンは、必ずと言っていいほど男女が見つめ合った末に発生する。
例えば今の僕たちのように。
高鳴る心臓の音だけを聞きながら、僕たちはどちらからともなく唇を合わせた。
唇に柔らかい感触が触れる。これがキスなのか。
目を開けると、頬を赤らめたユーニの顔が目の前にある。きっと僕の顔も負けないくらい赤くなっているに違いない。
そして何度か瞬きをした後、いつもの男勝りな性格からは想像もできないくらいか細く可愛らしい声でユーニは言った。

「何か照れる」
「……そうだな。でも早く慣れてほしい。これからたくさんすることになるんだから」

僕の言葉に一層顔を赤くしたユーニは、視線を逸らしながら控えめに頷く。
そんな彼女の白い頬に手を添え、少しだけ強引に顔をこちらに向けさせると、2度目のキスを落とす。
まだまだ僕たちのキスはたどたどしかった。
唇を合わせるだけの幼いキス。
本当はもっと艶やかな重ね方があるのだろが、今の僕たちにはこれで十分だ。
ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップを立てながら、僕たちは何度も何度も口付ける。
その日、結局僕たちが再びノートに向かうことは一切なかった。

END