メロン再生 / 伊勢神宮と太陽の塔 (original) (raw)
7月15日付けの本ブログで、メロンが枯れたコトを書いた。
根が腐ってダメになったワケなんだけど、伸びた枝葉がもったいない。駄目で元々と……、苗木ポッドに土を入れて差し、毎日お水をあたえていた。
するとメロンはがんばった。
根を蓄え、葉を大きくさせ、ツルを伸ばし、新たな葉を幾重とつけた。
植物の面白みというか、頑強というか、ともあれ再生しつつある姿が、イイ。
こういう展開になると、もうメロンの実りを期待しているワケじゃない。
揚揚と復活しつつある、その姿にこちらは惹かれ、
「どこまで育つのかな?」
小さなポッドから10号鉢2つに移し替え、メダマをやや細めて眺めている次第。
一方で、雨傘ケン日傘を差したミニ・トマトは生育が止まり、枯渇した。
時に放っておいても良く育つコトもあれば、過保護ぎみで育てた結果ダメになるとか……、むずかしいもんだ。
ま~、だからこそ「園芸」が面白いワケでもあろうけど。
スイカは写真の通り2つ出来ただけで終わったけど、スケールを間違えた模型のような小さいのも、育成不良かと思いきや、スイカ特有の芳香に満ちて熟し、驚くほど瑞々しくて甘かった。来期はでっかい大玉にチャレンジしよう。
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自室のテーブル横手に「太陽の塔」の模型が鎮座して、2年近くが過ぎる。
すぐそばにあるので、刻々に、否応もなく眼に入る。
よって、この塔のカタチの根源は何かと思ったりするコト多し。
近頃、着目しているのは伊勢神宮だな。
共通点があるんだ。
天皇家に直結し、太陽神たる天照大神(アマテラスノオオミカミ)を祀る神社界における最高峰、社格を越えた神域。神社の中の神社。
けども、アンガイと知られていないコトもある。
伊勢神宮はアマテラスを祀ると同時に、内宮(イチバン大事な場所)に、荒祭宮(アラマツリノミヤ)という社を置いている。
ただ置いてるんじゃなく、アマテラスと同列に扱い、日々早朝に神官多数が詣でては御料(供え物)が置かれ、祝詞を奉じている。20年に1度のいわゆる式年遷宮では正殿と共にこちらも建て替えられている。
子供の頃に行った以後、伊勢を訪ねたコトはないけれど、この事実はすこぶる興味深い。
アラマツリはアマテラスのB面だ。
伊勢神宮ではアマテラスのA面を和御魂(みぎみたま)と云い、B面を荒御魂(あらみたま)と云って、その両方を敬う。
荒ぶれた弟のスサオノを祀っているのじゃない。
太陽神アマテラスは稲穂を実らせ豊穣をもたらす一方で、時に荒れ、水害をもたらしたり日照りをもたらす。そのために命をおとすニンゲンも多々ある。
そんな災害をもたらす最高神の暗い部分も伊勢神宮は受け入れて、あえて奉っているんだから、西洋的な感覚とはまったく異なっていて、そこがとんでもなく、スゴイ。
神と悪魔の、イエスかノーかの、やり返すだけの徹底対立の二者択一ではなく、両者ともどもに1つとしてみなしているのが、スゴイ。
和ごやかな部分と荒ぶる部分、双方の調和を思い描いて奉っているんだから、素晴ら
しい。
太陽の塔もまた、明暗両方、A面とB面で構成されているワケで、
「さすがだなぁ、岡本太郎」
と、感嘆するんだった。
溝口睦子著『アマテラスの誕生』(岩波新書)を読むに、アマテラスという名は7世紀末につけられたもので、本来は「ヒルメ」あるいは「オオヒルメ」という伊勢地方の神さんだったそうな。
民俗学の折口信夫が全盛の頃は、日神に仕える「日の妻(メ)」、巫女(ふじょ)を意味するというコトだったけど、この説は誤りで、「ヒルメ」の「ル」は助詞で、日、すなわち太陽を擬人化した「メ」(女性)、「太陽の女神」を意味するというのが最新の説であるらしく、「オオヒルメ」を現在風の言葉で置き換えるなら、
「日のおばさん」
という親しみある神さんだったという。
その親しみある存在をより神格化してアマテラスという1つの記号として抽象化していったコトが本書では解明されてるんだけど、ま~、そこのところはさておいて……、太陽神アマテラスのA面とB面を同列に扱っている伊勢神宮の特異性と、岡本太郎の創作の近似と同一に、あらためて感心させられている今日この頃なのだった。
で、1970年に建立された「太陽の塔」は、いまや観光ポイントではあるけれど、他の観光的建造物とは一線を画して神格を帯びつつあって、その風貌ゆえにか、実際、昨年10月に出向いたさいは、塔の前でキャピキャピ記念撮影したあとに手をあわせて一礼している女の子グループがいて、当方は、
「えっ!?」
小さく驚いたもんだ。
一方で、密かに手をあわせたくなる気分も判らなくもなく、しかし、はたして、それでイイのかしら? とも思うんだった。
要は、いまだ「太陽の塔」は未定義の存在であって、「モナ・リザ」の不可解なスマイルと同じく、神聖が帯電しているワケだ。
とはいえ、ルーブルのあの絵の前で手を合わせるヒトはいない。そこが、陽光の下で明と暗を抱え込んで立ち続けている「太陽の塔」の特異点だ。
A面としての明とB面としての暗を核にしたこの創作物には……、いきおい飛躍するけど、宇宙空間とダークマター(暗黒物質)の関係みたいな、アインシュタイン以後の超大統一理論確立への暗示があるような感じがなくはない。
またあるいは、ジュネーブ郊外の巨大なLHC衝突加速器で2つの陽子を光速度でぶつけ、宇宙誕生の鍵となるビッグス粒子の目映い誕生を観測出来たように、明と暗の衝突エネルギーがてっぺんの黄金の顔を輝かせる……、という風に見ることも出来なくはない。
陽子衝突でビッグス粒子が生じたシュミレーション画像
そんな突飛であられないアレコレな解釈が出来ようとも、常に見上げるしかない「太陽の塔」は、だから模型とても見下げる位置に置いちゃ~いけない。
なので我が部屋の模型もいささか高い場所に鎮座させているワケだ。
塔の複数の顔は当方を見下ろしているワケでなく、はるか遠方を見遣って、ゆるぎない。寄せつけるようでいて、拒みもしているような、その堂々の毅然っぷりがイイのだ。
筋肉トレーニングをキントレとしたり、シュワルツェネッガーをシュワちゃんとよんだりと、日本人はなんでもかんでも縮めたり愛称化しちゃうのが好きだけど、「太陽の塔」はいまだヘンテコなキャラクター化からも逃れている。
模型であれ、「太陽の塔」は太陽の塔のままでいるのが、いいんだ。
試しにこっそり、「日のおばさん」と呼んでみたけど、そぐうようでそぐわないのが、「太陽の塔」だ、ね。