修行の仏教と救いの仏教の2つがあるかもしれない話 (original) (raw)
伝統仏教宗教2世を自認する私ですが、仏教が嫌いなわけではありません。
むしろ大好きで、今まで数々の逆境をしのいでこれたのもお釈迦様の教えに従ったからだと思っています。
とはいえ、
これまでは、親の影響からいささかかたよった仏教解釈をしていたので、いろいろなことに区切りの付いた今日この頃、
「お釈迦様の本当の本意はどうなんだ?」と一念発起して、というか念願かなって仏教を学び直しています。
※宗派に囚われず仏教を学ぶことを子どもの頃からやりたかったんです。
で、どんな風に学んでいるかというと、図書館に置いてある仏教書(原典に近いもの)やYouTube、それから直接お経本から学んでいます。
とにかく、一般的な読解(深読みしない・ひとりよがりにならない・偏った読み方をしない)を心に決めて、古今東西の幅広い意見に触れながら、共通する読解を見つけようとしています。
おかげで、なかなか贅沢な毎日を過ごしています。
あぁ、こういうことしたかったんだぁ。子どもの頃から。
と、小春日和の日中、一人読書(読経?)を愉しむ私なのでした。
さてそこで、
今のところの仮説を記したいと思います。それは、
お釈迦様が亡くなってそんなに年月が経ってない頃に編纂された原始経典を拠り所とする原始仏教は、自己研鑽のための教え。自力で悟りを開くための教え。
一方、お釈迦様が亡くなって数百年頃に編纂された仏典を拠り所とする大乗仏教は、救済の教え。
のようだ。
です。
これを救済目線で説明すると、
自力で自分を救済するスキルの教科書が原始仏典。
他力で自分を救済する祈りの教科書が大乗仏典。
そんな感じです。
自然災害や戦争、飢饉、社会情勢など、自分の力ではどうにもならない災厄の中で暮らさざるを得ない人々は、他力にすがるのもうなずけます。
自分を守ってくれる人・存在を希求するのは自然ななりゆきです。
何があっても見捨てず慈愛のまなざしで見つめ優しく抱えてくれる存在を渇仰するのですね。
日本仏教のほとんどは、この大乗だそうです。
それは、
日本仏教は救済が中心だということ。
ここから、
仏教を受け入れた日本の土壌が推測されます。
平穏からはほど遠いひどい状況だったのでしょう。
だから仏教にすがる。
必死にすがる。
そしてそれは、救いの希望とともに残念ながら宗教虐待を生む土壌を作ることになった。そう思えてなりません。