裏筑波は裏じゃない (original) (raw)

卒業4年後の西中体育祭

半日開催なこともあってか、一目見てもずいぶんあっさりしている印象を受けた。

今年のスローガンは『不撓不屈〜創りだそう 新たな絆 新たな繋がり〜』らしい。控えめな掲示だがなかなか良いものだ。

半日開催なので屋台もハチャメチャにしょぼい。かき氷クレープ数字合わせって、焼きそばすらないとは。これだけでも体育祭の衰退を感じる。

そしてスコアボードと全員リレーを見て気づいたことがある。1年生に3組がない。西中は遂に1学年3クラス体制が崩れてしまった。私が中学の頃1年3組だったので余計にさみしく感じる。

全員リレーも2クラスなので3クラスよりは見栄えが落ちているし、西中もここまで来たかと落胆の色を隠せない。

健心館下の駐輪場も私の頃は1年生が使っていたが、今は使われていないらしい。坂を下ったところに水が溜まりやすく冬はスケートリンクのようになっていたので、誰も避けられないトラップのような状態だったがそれもまた思い出。

ここで私が2年生だった令和元年度体育祭を思い出してみよう。ちょうどコロナ禍に入る前年、フル開催できていた最後の年だ。

グラウンドを本部や生徒待機、各地区子ども会のテントが囲み、学内だけでなく地域全体に見守られながら勝ちに突き進む。リレーも全員リレーに加えて選抜リレーもあり、ガチな戦いだった。西中のウリであるマーチングを生かして部分パレードをしたり、PTA種目もやったりと盛りだくさんだった。

これを味わってからでは、今年の体育祭が物足りなく感じられて仕方ない。

これでは『地域の一大イベント体育祭』というより、『学級対抗レクリエーション(保護者にも公開)』だ。同じだろと言われても全く文句言えないが、個人的にはこういった感想になった。

体育祭という名前だけは存続しても、本物の体育祭はコロナ禍を乗り越えられなかった。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=474278554

小林三郎氏の『稲田御影石材史』52ページに「加波山石の輸送を英国人技師の指導で**加波山から岩瀬駅まで8kmの軽便軌道**(トロッコ)によって実施していた(のちに輸送費がかさみ休止)」という記述がある。1889年の水戸線開通直後の話であり、本当なら大変すごいことだ。

関東鉄道70年史には「明治32年に石材採掘会社が樺穂村桜井から岩瀬間に人を乗せる専用の軽便人車軌道の敷設を計画したこともあった」という記述もあるようで、計画倒れだった心配もある。ただ、別物であろうと思われる証拠は、後者には「人を乗せる専用の」とある点だ。石材軌道の前者と大きく異なる。

そして実在したと思われる理由がもう一つ。岩瀬駅側に終点疑定地があるという点だ。

岩瀬駅西側の真壁街道踏切を渡ってすぐ。長い安全側線が伸びている脇に、ホームにちょうどいい高さの土地が続いている。ここが加波山から伸びる軌道と水戸線の石材受け渡し場所であったというのだ。

これは「このように説明している人がいる」と私が説明を受けただけであり、私自身が確証を持って伝えているわけではない。資料が見つかれば更新するつもりだ。

黎明期の水戸線に接続する長大軌道線なんて、ロマンの塊だ。

羽黒駅出て右側にある駐車場。奥には石材組合の事務所がある。

左 昭和22年航空写真
http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/mito/mito/haguro.html より

現在は駐車場となっているこの場所だが、昔は2本の側線と石材積み出しの貨物ホームがあり、ここから全国各地へ良質な御影石が発送されていた。

そして、この羽黒駅と石材切り出し場を結ぶトロッコ線もあった。これが羽黒石材人車軌道だ。

羽黒・北那珂地区の企業的な石材開発が明治35年(1902)ごろから始まると、明治37年には石材積み出し用の貨物駅として羽黒駅が開業し加速度的に開発が進んだ。

大貫亀吉氏(羽黒石材組合史より)
大貫石材社長。10代東那珂村長、羽黒駅設置・旅客営業開始に尽力

石材組合の本には、明治37(もしくは38)年に大貫亀吉ら率いる大貫石材が羽黒駅から池亀山へ、飯村丈三郎(県議、水戸鉄道取締役、茨城新聞社長)率いる帝国石材が羽黒駅から山口山へ軌道を敷いたとある。

1905年(明治38年)測量の地形図には、羽黒駅から西小塙、小ノ池、小塩を通り池亀山に至る路線が記されている。これが最初期の人車軌道のルート取りなのだろう。

1915年の地形図になると一気に充実する。小ノ池を通る路線は消え、各路線共に稲地区を通るルートになっている。大貫石材の路線の線形の良さが目を引く。

その後大貫石材が山口山にも軌道を延ばしたといった記述はあるものの、具体的な時期や動きは知ることができない。

1925年の地図には、山口山へ向かっていたはずの帝国石材線が小塩から先を廃止し、黄色線に向かうよう書き換えられている。

1940年の様子を見ると、稲地区あたりで大貫石材の線路が旧帝国石材の線路に乗り入れ、さらに小塩で山口方面と池亀方面の分岐があるという訳の分からないキメラ状態になっている。合理化の動きがあったのかもしれない。

岩瀬町合併50周年誌より

こうして石材輸送を続けた人車軌道だが、戦後に入りトラック輸送が盛んになるとトロッコを用いた輸送は時代遅れとなり、昭和30年ごろには全廃されている。

昭和42年には水戸線電化に伴い羽黒駅の貨物ホームが廃止され、羽黒駅からの石材輸送は終わりを告げた。

人車軌道は間違いなく石の街羽黒、岩瀬を創り上げた功労者だった。