躍動するリズムの強度、充実した対決の密度、または目の詰まったサイモン・ラトルの音楽 (original) (raw)
サイモン・ラトルはもうすぐ70歳になろうとしているけれど、彼の作る音楽には若い頃から一貫した特徴がある。硬質でありながら柔軟なリズムの弾み方であり、ミクロなレベルでの高い運動性を、マクロなレベルでの音楽の全体的な強度へと昇華させる手腕だ。内側から滔々と湧き上がり、溢れ出す寸前にまで高められたエネルギーは、単純に解放されるのでもなければ、あらかじめ作られた枠のなかに押し込められるのでもない。流動的なエネルギーそれ自体が変形する構造体にも生成変化し、みずからのなかでせめぎ合う。その充実した対決の密度にこそラトルの美質があるように思われる。
リズム処理の巧さは、彼の指揮を見るとよくわかる。指揮棒の動きだけではなく、身ぶりや表情が、いや、それどころか、彼の身体そのものが、音楽の脈動をそのまま体現しているかのようだ。だからラトルの指揮は見ていて愉しい。それ自体がひとつのパントマイムであるかのように。
おそらく20世紀の最後の四半世紀から21世紀初頭のクラシック音楽界を振り返ったとき、ラトルは分水嶺的な存在に見えるのではないだろうか。当時は無名といってよい地方オケであったバーミンガム市交響楽団と20年近くにわたって緊密な関係を築き、オーケストラのレベルを引き上げるとともに、特異なレパートリーを定着させた。ローカルな団体を、マイナーな作品をとおして、グローバルなマーケットで競合できる存在へと成長させていくというモデルは、それまでのクラシック音楽業界には存在しなかったものだろう。
(ラトルのコンサート衣装も、そのような分水嶺に見えるかもしれない。色こそ黒であるものの、彼は伝統的なダークスーツではなく、立ち襟的なものを好んでいるようだ。)
ラトルのプログラミングは、ポスト・ブーレーズ的なもの——20世紀音楽から逆照射されたクラシック音楽——ではあるけれど、同時に、教育的な意図が多分にあるような気がする。たとえば『リービング・ホーム』は、バーンスタインの『答えのない質問』の延長線上にあるドキュメンタリーではあるけれど、ハーバード大学での講義の映像化である後者には衒学的なところがある――バーンスタインはチョムスキーの生成文法を援用しつつ、音楽の普遍性という壮大な主題を語ろうとしている――一方で、ラトルにはそこまで構えたようなところがない。ラトルの音楽にたいする態度はバーンスタインに劣らず知的な部分があると思うけれど、同時に、バーンスタインよりもずっとポップであるように感じる。語り口の違いだろうか。
ラトルがいまバイエルン放送響の首席指揮者だというのは、何となくわかるような気はする。一般大衆に開かれていることが存在理由であるオーケストラと仕事をすることのほうが、いわゆる一流オーケストラと音楽のみに打ち込むことより、ラトルにとって自然なことなのかもしれない。
2024年11月16日のコンサートは、いろいろな意味でラトルらしい。リゲティのアトモスフェールがシームレスにワーグナーのローエングリン一幕への前奏曲へと続き、ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品がシームレスにワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲と愛の死へとつながる。メインプログラムはブルックナーの交響曲9番。
音楽の密度が濃い。それでいて混濁していない。目は詰まっているけれども、見通しは良い。重層性が重層的なままに提示されている。奇をてらったところはない正攻法な音楽作りではあるけれども、丁寧に耳を傾けてみると、それまで気づいていなかったミクロな細部の力に圧倒される(たとえば愛の死のクライマックスをかたちづくる弦のアルペジオ的な刻みの比類ない豊かさ)。それでいてマニアックな些末主義にはなっていない。音楽の密度が濃い。