有心の百錬、鋼を成す! (original) (raw)

ついに待ちに待ったドラクエⅢのリメイク版が発売になりました。

わたしもアマゾンで予約をしておいたので、発売当日ゲットすることに成功です。

ドラクエⅢは最初にやったドラクエでもありました。まだわたしが小学校の

低学年のときです。しかも、ファミコンで。まだドラクエのシステムや進め方すら

わからない状態だったので、少し年の離れた兄に教えてもらいながら進めた

記憶があります。今でもいい思い出です。

何度かリメイクされていますが、今回はグラフィックが大幅に改善されています。

映像だけでも感動するレベルでした。ドラクエⅢの世界観はそのままに新しい

職業やスキルなどが導入され、何度も遊んだことがある人ですら、楽しめる

使用になっていると思います。

ドラクエはただのゲームではなく、学ぶことも多いのがわたしの好きなポイントです。

過去のブログでも人生はRPGだと言ってきましたが、まさしく自分の人生をゲームの

ように考えるのが大切です。ゲームを進めるためには街の人に話を聞いて

ストーリーの進行を考えたり、困っているなら助けてあげなければいけません。

現実でも他人の話をしっかり聞くことが大事です。自己的ではなく多利的でなくては

相手を幸せにできません。もちろん自分を含めてです。

悩みの多い人間関係においても、ドラクエのように俯瞰してみることが解決の糸口に

なります。仏教では肉体と精神を分離して常に俯瞰してみるのだと言います。

他人からむかつくことを言われても肉体が言われているだけであって、客観的に

「何か言われているな」とくらいにしか思わないそうです。怒りは6秒経てば

理性が抑え込んでくれます。俯瞰して考えるだけで、そのくらいの時間稼ぎくらいに

なることでしょう。昔の人の知恵には感服です。

最後にラスボスの存在です。

ラスボスはつまり旅の目的です。自分の人生で何がしたいのかを明確にしなければ

過酷な旅はできません。それが強敵なら強敵ほど自分のレベルを上げなければ

いけません。もし医者になりたい目標があるならば、敵はゾーマより強力です。

仲間と力を合わせて、頑張ることでしか倒せません。しかし、現実ではレベルを

上げずにボスに挑んだり、急に大魔神が現れてボスを攻撃してくれると妄想している

人が多いことでしょう。倒せない言い訳ばかり考えて、どこかで他力なのです。

たかがゲームと侮るなかれです。ゲームであっても人生の縮図と言っていいほど、

大切なことが散りばめられています。ゲームを楽しむと同時に自分の人生についても

考えるいい機会です。是非まだやったことのない人もチャレンジしてみてください。

人の数だけ楽しみ方があると思いますよ。

夜の気温が下がり、すっかり秋から冬に変わってきました。

寒くなると美味しくなるのが、鍋物ですね。我が家も今夜はおでんにしようと

思っています。出汁の染み込んだ大根に卵、ちくわに餅入り巾着。どれも美味しくて

順位は付けられません。ちなみに餅入り巾着は市販のものは量が少ないので、

揚げに薄切り餅を入れて自作しています。簡単に作れるので、是非試してください。

熱々のおでんをハフハフしながら、食べると体も温まり幸せな気分になります。

鍋が幸せな気分になるのは、美味しかったり、温まるだけではありません。

家族や友人、みんなで食べるから美味しく感じるのです。

ホモサピエンスが誕生したときには、30~50人くらいの群れで狩猟採集の

生活をしていました。狩りは毎回成功するわけではないので、ご馳走に在りつける

機会は少なかったはずです。しかし、狩りに成功すれば、みんなで歌い、踊り

ご馳走を囲って楽しみました。今でもアジアやアフリカの狩猟民族は同じような

生活をしています。映像で見たことがある人もいると思いますが、共通して

いるのは、全員で食べていることです。誰も一人で食べている人はいません。

これを共食といいます。このスタイルが本来のあるべき姿のはずです。

しかし、現代の生活はどうでしょう?

核家族化が進み、家族の生活スタイルも様々です。仕事で夜遅かったり、

塾や部活で、みんな食べる時間が違ってきます。スマホやテレビを見ながら食べている

方が多いのではないでしょうか。さみしさを紛らわすためではあるかもしれませんが、

これでは折角のご飯が味気なくなります。何を食べているのかもわからず、

ただ空腹を満たすだけ。共食の対になるのが孤食です。今の世の中は孤独が

慢性化して、食べ物の有難みが薄れてきた気がします。それが過剰生産や飽食の

問題へと繋がっていきます。

食べるときは命の恵みを頂いていることを再認識して、できれば生産者や

運送の人、スーパーの人など食べ物を届けてくれる人にも感謝をしましょう。

命を考えると我々は決して一人で生きているのではないことがわかります。

他の命に支えられて、そしてたくさんの細菌や微生物と共生することによって

生きているのです。

毎日が無理な家庭は休みの日だけでも結構です。みんなで食卓を囲み、テレビを

消して会話を楽しみながら、食に没頭しましょう。集中して食べると米も毎日

同じでないと気付くはずです。新米か古米でも違いますし、水の量や気温でも変わって

きます。毎日が同じではなく、毎日が特別であり、それに気付くことが人生を

豊かにします。会話に困っても、食に関することだけで話のネタになるはずです。

いずれにしても、家族が揃ってご飯を食べることが大切です。家族一緒に過ごせる

時間は当たり前だと思ってはいけません。

友人の子供が勉強嫌いで、勉強をしないといけなくなると寝てしまうそうです。

学校の勉強についていけず、高校にも進学しないと言い張っています。親にとっては

深刻な問題であり、改善するのは難しいと思います。これは完全に現実逃避であり、

社会を拒絶しているのです。

なぜ若者の多くは現実逃避してしまうのでしょうか?

ひとつは自分を否定されるのを非常に恐れているからです。

テストで悪い点数を取ると親にも教師にも叱責されて自分を否定されてしまう。

間違えたら周りから非難されて孤立してしまう。最悪の事態を考えてしまうため

極力人との接触を避けようとします。これはネットやSNSの普及による弊害でしょう。

自己肯定ができないため、「他人の評価」=「自分の評価」に繋がります。

つまり、他人が拒絶すれば、自分が価値がない人間だと思ってしまうのです。

最近の子が電話ができないのは、この原理と一緒で電話で断られることが

怖いからです。予約しようとしても、いっぱいで断られるかもしれないと思うと

恐怖で遠ざけてしまうとのことです。

もうひとつは周りに頼れる、信頼のできる大人がいないことです。

今では大問題ですが、昔は親や教師からも怒られたり、叩かれたりしたものです。

しかし、それだけ真剣に向き合ってくれていたと今では感じます。

現代は腫物に触るように、親や教師も過剰に干渉してきません。

何かあれば非行や訴訟など子供も親も知識を持ってしまったため、大人は自分の身を

守るのに必死なのです。

子供が意を決して相談をしても、当たり障りのない回答しか得られません。

自分のことをしっかり考えてくれているかどうか、子供なりに分かります。

非情な大人の社会に嫌気がさして、現実から逃避してしまうのです。

これは現代の闇とも言っていいほど根深く、この子たちが大人になったときの

社会が心配です。これを解決するためには、大人や教師の協力が必要です。

今こそ子供としっかり向き合うときなのです。子供の主張は馬鹿げていたり、

突拍子もないことを言います。しかし、それは子供なりに真剣に考えた結果なのです。

絶対に親の価値観で、それを否定しないでください。

もし自分の子供がアイドルになりたいと言い出したら、多くの親は頭ごなしに

それを否定して、勉強していい大学に進みなさいと進言するはずです。

それは価値観の押し付けであり、子供を否定し、親の言いなりにする悪手です。

もしもそう言われたら、まずは「素敵な夢だね」と褒めてあげましょう。

その次に「なんでアイドルになりたいのか?」や「どうやったらなれるのか?」など

子供なりの意見を聞きましょう。大事なことは対話をし続けることです。

否定せず、しっかり子供の意見を聞いて、質問をして子供なりに

考えてもらうのです。話しているうちに無理なら諦めるかもしれませんし、

足りないものがあるなら努力してスキルを身に着けるかもしれません。

その対話によって子供の自尊心が育ち、自己肯定感が増してきます。

誰もが認められるのを待ち望んでいます。その繰り返しによって信頼関係が築き

あげられ、子供は親や教師を信頼し始めます。最初から信頼関係などあり得ない

のです。子供は自然に飛び立ちます。でも、最初だけ恐怖心があるため、そっと

背中を押してくれる存在を待っています。大人の役割は飛ぶ方向を定めて

傍に寄り添い、必要な時に背中を押してあげることです。それを間違えては

いけません。

長続きせず、三日坊主に終わった経験ありませんか?

わたしは思い立ったらすぐ行動して、挫折して終わることを繰り返しております。

脳は怠惰にできているし、習慣にしないと長続きしないことはわかっています。

しかし、長続きしないのは、完璧を求めすぎているからなのです。

仕事や勉強、趣味でもそうですが、キリのいいところまでやろうとしていませんか?

実はキリのいいところまでやってしまうと、達成感を味わってしまい、脳は

この仕事は終わったと勘違いしてしまいます。逆にキリの悪いところでやめると

脳が緊張状態を強いられ、早く続きをやりたくなります。連続ドラマもキリの

悪いところで終わると、続きが気になって早く見たいと思うでしょう。

小説家の村上春樹さんは次の一行を思いついているところで筆を置くそうです。

そうでないと、毎日文章を書き続けることはできないのです。

この心理効果を「ザイガルニック効果」と言います。

これを巧みに利用しているのがテレビです。

番組への関心が高まってきたところで「続きはCMのあとで」とブレークを

入れると、視聴者の脳をリフレッシュすると同時に、CM中に他のチャンネルに

変えられてしまうことを防ぐ効果があるとされています。

多くの人は完璧を求めます。

陶芸教室に行って作品を作っても、プロが作った作品と比べてしまうため

挫折して諦めてしまいます。最初はみんなそうなのです。土を触る楽しさや

出来上がっていく過程を楽しめなければならないのに、それを忘れています。

プロでさえ、最初は下手でした。でも、諦めずに続けたため一流になれたのです。

自分に厳しい評価を下しがちですが、50点くらい取れれば御の字と思って

暮らせば、肩の力が抜けて人生楽しめるのではないでしょうか。

最後は続けるためのモチベーションを上げる方法です。

それは仕事などの本職だけでなく、副業や趣味での活動です。

仕事一筋など私生活を顧みず、頑張っている人もいますが、仕事で成果が出るのは

毎日ではありません。下手したら何ヵ月もかかることもあります。そんなときは

副業や趣味を頑張るのです。それは気分転換だけではありません。仕事で達成感を

得られないときでも、副業や趣味で進捗や成果があれば、脳は幸福感を得て

仕事のモチベーションを維持できるという実験結果があります。

アインシュタインも研究が行き詰まると、趣味のバイオリンを弾いて英気を

養っていたそうです。

「継続は力なり」という諺がある通り、続けることは一流への近道です。

そのためには自分を甘く評価して、キリのいいところまでやらない。

多趣味に手を出し、人生を楽しむことです。結局のところ頑張り過ぎないことですね。

「毎日やろう」とか過酷な目標を立てるから挫折するのです。

仏教の中庸のように真ん中の道を行くのが、継続のコツです。

「哲学」と聞くと恐怖で逃げ出す人もいるかもしれません。

すごくお堅い学問だと認識している人も多いでしょうし、「我思う、ゆえに我あり

などと意味不明な迷言をいっていた哲学者もいるため、はっきり言ってよくわからない

学問です。

しかし、ここで宣言しておきたいと思います。

わたしは「子供に哲学を勉強してほしい」と。

妻に言えば気が狂っているのかと罵倒されそうですが、実は哲学とは人間が

人間らしく生きるために必要なものだからです。

あまり哲学に実感のない人もいるでしょうが、実はわたしたちの身の回りに

たくさん溢れています。たとえば、仏教やキリスト教と言った宗教も哲学の

お仲間です。簡単に言えば、人間は「どう生きるべきか」を教えるのが

宗教です。人間関係に悩んだり、どんな生き方をすればいいのか迷ったときの

道標のようなものだと思ってください。今や宗教はお金や欲望の巣窟になっている

イメージですが、本来はしっかりとした教育機関なのです。

また哲学の重要なことは「疑問を持つ」ということです。

現代は情報に溢れて、良い情報も悪い情報も自分が望まなくても入ってきます。

悪く言えば、自分で考えることもなく、ただ情報に踊らされているのが現代なの

でしょう。かつての哲学者たちは、まだ世界がわからないことばかりだったため、

必死に疑問を投げかけ、答えを探していました。

「宇宙とはなんだ?」

「世界はどうなっているのか?」

コロンブスは大西洋の果てに何があるかを疑問に思いアメリカ大陸を発見しました。

アインシュタインニュートンの物理法則に疑問を持ち、相対性理論を確立しました。

世の常識だと思っていたことも数年先には非常識になる可能性もあります。

疑う姿勢を持つことで物事の本質を見極める力が付くことでしょう。

目の前のテーブルにりんごがあったとします。

あなたはそれをみて「美味しそう」と思います。

しかし、あなたが見ているのはりんごの一部分でしかありません。

もしかしたら、裏側が虫に食べられたり、腐っている可能性もあります。

または、小さい肉食エイリアンがあなたが近づくのを待っているかもしれません。

疑問を持たないとは、りんごの一部だけをみてりんご全体を把握したと勘違い

することなのです。本当のことは疑い、自分の目で全体を見てみるしかありません。

哲学とは難しい学問ではなく、単純なことに疑問を持ち、いろいろな角度から

物事を観察する習慣をつけることなのです。ひとつのことを見て、2つ以上の

見方ができれば、あなたは立派な哲学者です。

それはこの混沌とした世の中を自分らしく、正しさを持って生きるために

必要なことではないでしょうか。そんな人間に子供もなってほしいと願っています。

地球上には歌や音楽が溢れています。

醤油を使ったり、狩りをしたり、十字架に祈ったり と多種多彩な文化が花開き、

それぞれ特徴的で違ったとしても、歌や音楽だけは世界共通であります。

人類はなぜ歌うでしょうか?

人類は数万年前、言語を獲得し仲間とコミュニケーションを取ることが可能になり

言葉に意味付けをして、複雑なやり取りができるようになりました。人間と同じように

声によるコミュニケーションをしている動物も多く見られます。

実例として挙げられることが多いのが、ベルベットモンキーが捕食者に会ったときに

発する警戒音です。ヒョウが近づいてきた時は大声で鳴き続け、ワシが来ると

キキッと短い声で鳴きます。ヘビをみると、チチチチと知らせます。それを聞いた

仲間はワシなら空をみて、ヘビなら下を確認して逃げます。このようにどの動物にも

食料の在処や天敵の情報を声によって共有するシステムがあります。

しかし、人間の言語はさらに細かい情報までも知らせることができます。

「ワシだぞ」「ヘビだぞ」だけではなく、「この方向から何匹のワシが来ている。

木の幹や岩の間に隠れるんだ」といった具合です。

本格的な言語を使えるのは、やはり人間だけのようです。

言語を使いこなすには、喉の筋肉が重要になってきます。

ここで簡単な実験をしてもらいたいのですが、息を止めることはできますか?

簡単過ぎますよね。内科で胸部レントゲン撮るときも息を止めます。

しかし、息を止めることのできる生物は人間以外に鳥とクジラだけなのです。

喉の筋肉を動かせるからこそ、息を止めることができます。この構造がある故に

私たちは本格的な言語を話したり、歌を歌うことができるのです。

「鳥が歌う」という言葉があります。「クジラが歌う」これも想像できるでしょう。

しかし、犬が歌うや牛が歌うは聞きません。

なぜこの三種のみが歌えるようになったかは定かではありませんが、

人類が最初に話した言葉は歌だった可能性があります。

ジュウシマツは7種類の音でできた3つの単語を並べて歌っています。

しかも、この並べ方には規則性、つまり文法があることがわかったのです。

ただし、ジュウシマツは求愛にしか歌を歌うことがなく、それ以外のメッセージは

送りません。ヒナはこの歌を聴いて、それを単語に切り分けて覚えているのが

最近の研究でわかってきました。それは人間にも当てはまるのではないかと

岡ノ谷一夫東大名誉教授は考えます。

人間の赤ちゃんは未熟の状態で生まれてくるので、主に母親は付きっ切りで面倒を

見ます。大声で泣けば「お腹はすいているのか」「おしっこがでたのか」と

甲斐甲斐しく世話をします。そのとき、多くの母親は他の大人と話すよりも

高い調子で、ゆっくり、抑揚をつけて話します。これはマザリーズと言われる

独特の言語で、母音が多かったり、繰り返しが多いのが特徴です。

マザリーズはmothereseとつづり、japaneseと一緒で、いわば「お母さん語」です。

赤ちゃんはもちろん言葉の意味はわかりませんが、自分に向けられている音を

気持ちよく感じ、自分でも発するようになります。マザリーズはまさに歌のような

感じで、それが洗練されていくと子守歌になるのではないかと考えられています。

歌を聴くことによって、感情をコントロールしたり、絆を深めたりと歌と人類は

切っても切れない縁にあるのかもしれません。声は化石には残らないので、想像する

しかありませんが、ホモサピエンスネアンデルタール人も動物の骨で楽器を

作っていた化石は残っています。

骨笛

その当時に思いを馳せると、自然の中で、歌によってコミュニケーションを取り

現代の我々と遜色ない生活が営まれていたという感慨深い事実があります。

なぜ我々は歌うのか?それは人類誕生から数万年の歴史を次の世代に語り継ぐため

ではないでしょうか。

この連休を使って奈良に家族旅行に行ってきました。

紅葉にはまだ早かったですが、流石世界の観光地。色んな国の人たちが

集まって賑わっていました。

中学生になった我が子は外に出掛けるのも面倒になり、東京やアウトレットに

買い物に行くなら付いてくるが、ハイキングや山登りには付いてきてくれなく

なり残念に思っていました。年頃の娘は難しいですよね。

最初は乗り気でなかったのですが、いざ奈良の大仏など教科書で見たことのある

名所を目の当たりにすると壮大なスケールに驚きを隠せていませんでした。

日頃から子供に「何を残せてあげられるのか?」「何をしてあげるべきなのか?」を

考えていますが、一番は思い出や経験ではないでしょうか?

いくら親が頑張って勉強を教えても、本人にやる気がなかったら意味がないし、

生活態度の改善を望んでも、自覚がなければ無駄に終わってしまうでしょう。

本人が変わるきっかけは他人が与えるものではなく、自分の失敗や経験から

「変わらなきゃ」という自発的な気持ちです。

つまり、変わるも変わらないも本人の気持ち次第ということです。

わたしは子供に勉強は一切教えていませんが、塾に通い頑張って上位の成績をキープ

しています。親が言わなくても自分がしたいから頑張っているのでしょう。

これから言えることは、親の価値観に誘導することではなく

本人が少し困るような小さな問題を与えてあげることです。

たとえば、洗濯した服もたたんでクローゼットにしまってしまえば、本人は何も

困らないので、自分ができなくても問題にしません。逆に、取り込んだ服をそのまま

部屋に置いておけば、自分で片付けるしかありません。自分なりにたたみ方を

学んだり、しまい方を工夫したりするでしょう。

これこそが子供の成長にとても大事なことだと思っています。

最近は過保護な親が増えていますが、大事に育て過ぎるのは本人の個性を殺して

しまいます。平均的な平凡な凡人の出来上がりです。

外を歩くのに道の小石をどかしたり、靴を履かせてあげるをつい手伝ってしまい

がちです。しかし、それでは子供の自主性がなくなり、自分で考える力が付きません。

手伝いを頼むのもいいです。その際はお願いはしても、やり方を教えてはいけません。

自分の頭で考えたり、手を動かすことで考える力がついてきます。また考えても

わからない場合には、聞いてくるでしょう。それも大事なことです。

自分が困れば、これからも他人に聞くことができるはずです。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」といいますが、わかる人に聞くのが

一番効率がよく理解しやすいのです。そのことを知っているだけでも、

人生を楽に生きることができることでしょう。

子供が興味なくても、あちらこちらに旅行に連れていき、自分の五感で

感じ取ってもらえば、かけがえのない財産になるはずです。

たくさん撮った写真が、何よりも心を温めてくれることでしょう。

月末には紅葉を楽しみにまた京都へ出掛けます。「また出掛けるの?」と口では

言いつつも、顔がにやけている娘の顔が目に浮かびます。出掛けるのは面倒でも

友達には自慢できるとのことです。きっかけは何でもいいから、一歩先に

踏み出す手助けこそが、親の存在価値なのではないでしょうか。