福岡 舞台さんぽ (original) (raw)

「となりの田中さん」(劇団HallBrothers) 9月21~22日、福岡市・ぽんプラザホール

「幸せは人それぞれ」。アパートの大家さん(萩原あや)が最後につぶやいた通りなのだろう。ああ、そうだなあと思わず首肯した。背伸びををするでもなく、体面を飾るのでもなく、自らの身丈に合った生活を送る。そんな暮らしの中に幸せを見出せればそれが一番である。とげとげしいストーリーが進行するが、クライマックスはホッとする展開だった。

フリーのプログラマー新興宗教の布教者、ニート、それと普通を自任する大家。4組の夫婦が暮らすアパートが舞台だ。現代日本のある部分を象徴するような人たちの組み合わせで、それぞれ異なる価値観を抱く夫婦たちが無理に近所づきあいをしようとすることから摩擦が起こる。ある時は警察を呼ぶまでの騒動にも発展する。

社会的正義、宗教信条など自身が信じる基準を他人にも押し付けたり、収入減や妊娠などのトピックによって優越感や劣等感を持ったりマウントを取り合ったりするさまは醜くもあるが、翻って自己を省みると多かれ少なかれ似たような感情を抱きつつ日常生活を送っていることに気づかされる。日常に潜む不和の種を鋭敏な感覚で見出し舞台表現にして観客の前にさらけ出す作風。HallBrothersの芝居を見て時に感じるのだが、他人事として舞台を鑑賞しているつもりだったはずが、いつしか我々自身の心を問われているような感覚に襲われる。

この作品を特徴づけるのは、やはり4つの部屋が同時に見えるようにあつらえている舞台セットであり、4組の夫婦の物語が同時進行していく演出だ。他では味わえない演劇ならではの表現手法を効果的に使い、取り繕っている対外的体裁とドメスティックな領域で露わにされる本音の言動がうまく対比される。

2013年初演で翌14年の九州戯曲賞大賞受賞作の再演。アパートに住む4組がすべて田中姓であることをはじめ大筋はもとのままだが、全体的にかなり手を入れているという。今現在を生きる我々の心にストンと響く芝居に仕上がっているのはそのためだろうか。劇団主宰、幸田真洋の作、演出。出演は山中祐里、宮城遼久ら。(臼山誠)

「月ろけっと」(万能グローブガラパゴスダイナモス) 9月13~15日、福岡市・西鉄ホール

寿命と引き換えに欲しいものを手に入れる悪魔の取引をモチーフにした作品。登場する人間たちは、一見親しみを感じさせる笑顔の悪魔集団のあの手この手によって欲望を掻き立てられ寿命をむしり取られていく。笑顔の奥の悪意にコントロールされる人間の姿をコメディーとして描く。考えさせられたのは、本作で表現された悪魔とは一体何かということだ。観劇後、現実に立ち戻ったときにうすら寒いものを感じた観客は多かったのではないかと思う。

舞台上の人間たちは現代社会に生きる私たちをデフォルメした姿であろう。ありとあらゆるものが商品化されスマホを使ったキャッシュレス決済、通販で欲しいものがすぐさま手に入る世界。リアルでもネットでもあふれる情報の誘惑によって常に購買意欲をかきたてられる日々。冷静に考えれば本来必要のないような付加価値やお得情報、ポイント加算などに刺激され、ついつい浪費へと誘われる。人間は常に市場における消費者と位置付けられ経済メカニズムの駒と化す。多くの人々はそのことに違和を感じない。

いかに効率よく利益を上げるか、消費者にお金を使わせるかというテーマに切迫される今日の社会を投射。人間の生活そのものが商業化されてしまった様相を悪魔の取引に類比した作品とみても間違いではないと思う。前作「三途の川のクチコミ」でもそうだったが、作・演出の川口大樹の表現衝動の根幹にはこのような現代社会への強烈な異和があるのではないか。国を挙げて個人に投資を勧める世の中でもある。本作のように寿命を直接縮めるわけではないが、商業・経済活動の一部と化したかのような個々人の生の営みは、実は人間の本来の幸福をむしり取っていくものなのではないか、悪魔の取引のような異様な価値観に侵されたものなのではないかと語りかけてくるのである。

昨年の「ひとんちで騒ぐな」に続いて過去作の再演。ガラパに限らず近年、再演に力点を置くカンパニーが増えている印象がある。再演の意義とは何だろうか。初演時に表現しようとした衝動の基盤にあるものを俯瞰的に再確認し、今日までの思索や活動の蓄積のうえにたって更なる血肉を加え、より厚い訴求力のある表現として再構築。自分たちの立ち位置を自覚するとともに現在の自己のありようや社会の潮流と対峙する表現として提示する作業である気がしている。

今回は毒のあるコメディーで大変楽しく、瞬く間に2時間が過ぎた。ファンタスティックだった悪魔集団の悪意が次第に露呈していく様が出色で芝居全体の毒々しさを濃くした。それと共に主演の横山祐香里のテンションを激しく変化させる演技が作品と観客のテンションをけん引したのが印象深い。杉山英美、千代田佑季、富永真由らが好演。(臼山誠)

「正三角関係」(NODA・MAP) 9月5~11日、北九州芸術劇場

長崎原爆と対峙した野田秀樹渾身の作品。長崎原爆をモチーフにした野田演劇には「パンドラの鐘」(1999年)もあるが、「正三角関係」はさらに二十余年の思索を蓄積し、深くかつ直接的に原爆と人間について掘り下げたものだ。10年余り前に取材で野田にインタビューした際、「パンドラの鐘」制作のきっかけは大英博物館に展示してあった中国製の釣り鐘を見たとき、その形から長崎に投下された原子爆弾の形が連想されてならなかったことだとしたうえで、「英国の友人から『それは、ヒデキが日本人、しかも長崎出身だからだ』と言われた。人間はプライベートな『私』から逃れられない。長崎に生まれたという事実は、自分の核心だと意識している」と語っていた。今作では、長崎への原爆投下という歴史的事実を直視することから、人間を大量に虐殺する兵器の開発へとかき立てた「合理的精神」の狂気を表現しようとした。

芝居自体は「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにして戦時中の長崎に舞台を移し、裁判劇として進む。原作同様、3兄弟と父親その他の周囲の人物を巡る物語なのだが、徐々に、日本の軍部や対ロシア(ソ連)外交の大きな物語が浸潤してきて、原爆で長崎が壊滅し人々が死ぬ場面で終わる。色鮮やかなボールを使った量子力学研究のダンスシーン、半透明の大きな幕を使ったきのこ雲など演劇的表現に見るべきものも多い。だがそれ以上に、ドストエフスキーの原作にある「神のいない世界ではなんでも許される」との趣旨のセリフをキーにして、神への信仰や道徳などが科学的には余計なものとして排除された世界の狂気を問う主題がストレートに浮き上がってくる。主演で長男役の松本潤が怒りを露わにして長崎の焼け野原に立つラストシーン、その背後に有名な写真「焼き場に立つ少年」を想起させる役者が死んだ幼い弟に見立てた人形を背負ってそっと現れる。胸を衝く終幕だった。

物理学者で神を信じぬ次男(永山瑛太)が狂気の世界を体現した。数式に囲まれて生きる彼は軍部の指導のもと他の研究者たちと共に原子爆弾の研究にまい進する。目指しているのは、アメリカより早く、科学の力の限り大規模な破壊力を有する原子爆弾を完成させること。なんの躊躇も良心の呵責もなく開発にいそしむ。殺戮されるであろう膨大な数の人間などは彼らにとって数字や記号に過ぎない。ただひたすら科学的目的遂行のために必要な合理的思考を突き詰める。その世界には道徳心や信仰心に基づく博愛などの感情や知性など研究の邪魔になるものは存在すらしない。

現実の歴史では戦争末期に日本陸海軍の二つの原爆開発計画は頓挫した。しかし、もしアメリカより早く完成していたとすれば、戦局転換を果たそうとアメリカのどこかへ投下したのだろうか。少なくともその動機はあっただろう。戦後、日本は唯一の戦争被爆国として平和国家を自任し核廃絶を訴え続けてきてきた。しかし、原爆を相手国へ投下することを目的に開発を進めた当時の軍部や研究者の精神は米国の当事者と少しも変わらないのではなかったか。大量破壊兵器で敵国民に甚大な被害をもたらすことへの痛痒が日本の側にだけあったと果たして言えるだろうか。原爆を巡っても加害国と被害国は表裏一体であったのであり結果に過ぎなかったことを野田は改めて突き付ける。近年、政治的にも社会的にも核兵器を容認する風潮が広がる様相に大きな憤りをもって警鐘を鳴らしているのでもあろう。

タイトルの「正三角関係」とは、一人の女性を巡る長男と父親の関係や三兄弟の関係などであるだけでなく、当時の日本とアメリカ、ロシアの国家関係に変移していく。破滅的な戦争を続ける日本とアメリカ。両者にいい顔をしつつ最後には勝ち馬にのって対日戦争を始めたロシア。それぞれが自国の利益と勝利のためにゲーム理論的な思考に基づいた行動をすることは変わらない。笑いながら原爆を投下する機中の米兵、原爆が投下されることを事前に知りつつ長崎市民を見殺しにするロシア領事夫人、戦局転換のために核開発への情熱を絶やさぬ日本人研究者。人道の尊厳への敬意など彼らは共通して持っていない。劇中でソ連ではなくロシアと表現されるのは、ウクライナ侵攻を続ける現代ロシアへの批判もあるのだろうか。

芝居は作、演出の野田らしい遊び心に満ちたエンタメ要素がふんだんに盛り込まれ、楽しくて時間があっという間に過ぎていく。検事役の竹中直人の存在感が大きく、弁護士役の野田とのはちゃめちゃなやりとりが大変面白かった。そして、妖艶な女性と純朴な青年を手品のような早着替えで演じ分ける長澤まさみの演技には華があり魅入った。松本は舞台俳優としても今後飛躍するのかもしれない。可能ならばリピートしたい作品だった。今月後半から11月初めにかけて、大阪、ロンドンでも公演する。(臼山誠)

「今ここでデウス・エクス・マキナ」(あなピグモ捕獲団) 8月2~4日、福岡市・ぽんプラザホール

夢オチである。地球から飛び出した宇宙船の中で物語が進行する。冷凍睡眠から目覚めた人々は、ワープ、地球への帰還、空腹の訴え、なぜか無くなっている操縦桿探しなど、てんでバラバラに荒唐無稽にも思える自己の主張を言い合うだけで収拾がつかない。混乱を極めたところで突如、神の啓示よろしく一つの方向へ導かれるように事態が収束する。そこで少女が目覚め、それらは夢だったことが分かる。ただし、目覚めても宇宙船の中にいることは変わらない……、地球でなんらかの大きな災難が起こったことだけは確かなのだろう。

ここで考えるべきは、不条理な世界を哲学的思索で表現してきた創設25年超のこの劇団が、そして主宰で作・演出の福永郁央が、なぜ今あえてこの手法の作品を提示したのかということかもしれない。大げさに聞こえるかもしれないが、宇宙船の中を現実のメタファーと捉えてみると、芝居の根底にあるのは現代の人間社会への絶望に近い感情であったのではなかろうか。私たちは、人間の無数の利己的欲望が複雑に絡み合った中で起こっている多数の深刻な問題を目の当たりにしている。市場主義のなれの果ての姿と言っていい超富裕層の享楽の対極にある大量の飢餓の構造化と永続化、平和や防衛の名のもとでの権益保持のための軍事侵略と殺戮などなど。解決しなければならない問題はそこかしこに確実に存在するのに、ますます加速するデジタル化、IT化が問題の複雑さに輪をかけており、錯綜する利害のためにもはや人為ではいかんとも解決しがたく思えてしまう物事のいかに多いことか。

それならばいっそのこと、本作のタイトルで示唆しているように、人知を超えた神の采配ですべてを収束させられないか、という願望によるデウス・エクス・マキナの演出手法なのであろうか。だがその解決策は芝居であればこそであり現実はそういうわけにはいかない。

そこに近代資本主義の行き着いた現実社会の混迷に立ちすくんでしまう一個の人間の叫びださんばかりの悲痛な心情が潜在する。現代社会の潮流から身を脱すること。その潮流に対峙しうる思索や哲学を支えに人間にとってより幸福な別の潮流を生み出せないものか。人間が人間であるというただそれだけの理由で尊厳が保たれる社会をなぜ人類は実現できないのか。などとといった思いや感情が伏流しているように感じる。

地球を離れた宇宙船はそういう心性から放たれた希望だったのだろうか。現実社会ではその希望が実現できないとのあきらめなのだろうか。単純な夢オチと片付けてしまってはもったいない。いろいろな解釈で深読みできる作品だった。思索の基点を変えると、古代ギリシア演劇の手法であったデウス・エクス・マキナをここでは、AIの指示に従う思考停止となった人類の将来像の隠喩とみなすことも可能かもしれない。中島絢子、古賀今日子らが客演。(臼山誠)

「-79歳、ある少女たちの未来図-」(甘棠館Shouw劇場) 7月28~29日、福岡市・甘棠館Show劇場

福岡の「劇団ショーマンシップ」座長の仲谷仁志と、沖縄の音楽ユニット「アイモコ」のモコによる二人芝居。ショーマンシップが拠点にしている唐人町の小劇場「甘棠館Shouw劇場」のプロデュース作品のかたちをとっている。仲谷のベテランの味わいと、おおらかなおばあを演じるモコとの掛け合いが楽しい。そしてモコが明るく元気に歌う沖縄民謡が舞台をぐっと彩り豊かにした。

たっぷりのユーモアで包んだ芝居だが、テーマは重い。終戦の年に生まれ、それぞれ福岡と沖縄で年齢を重ねてきた女性2人の会話で進行する。終戦から79年目の今夏、福岡から観光旅行で沖縄を訪れた姫子(仲谷)がたまたま立ち寄った食堂で、店を切り盛りする同い年の美代子(モコ)と出会う。沖縄ことばと標準語のすれ違い、本土と沖縄の文化の違いが自然なかたちで織り込まれ、歴史的に異なる文化を育んできた沖縄と本土の関係史を日常的に意識しない本土人にその気づきを促す。

芝居のキーは美代子が折に触れて口にする「フェンスの向こうとこちら」だった。すぐに連想されるのは沖縄の住民の生活圏と米軍基地を区切るフェンスだが、芝居ではそれ以上に沖縄と本土の人間の間にある見えないフェンスを意味させた。どんなに親しくなっても、普段は意識することがなくても、「海の向こうとこちら」の人間の間には超えることが困難なフェンスがあるという。そして「フェンスのあちらとこちらでは見える風景が違う」と語られる。長崎の離島出身で沖縄在住のモコ、芝居を企画した仲谷、そして作・演出の中嶋さと(FOURTEEN PLUS 14+)は、沖縄と真摯に向き合おうとしたときに生じるこの認識を本土人として共有しようとしているように思える。

芝居の後半、「姫子」の独白が印象深く演じられる。戸籍上の誤字にからめつつ、戦後に沖縄抜きで独立した本土人の意識のありように対する忸怩たる思いが隠喩的に語られる。そして本土と沖縄の比喩としての少女2人がともに一緒に歩んでいこうとする前向きな空気感で終わる。

決して沖縄の人々に本土人の歩調へ合わさせるのではない。本土人の立場で一個の人間として沖縄と本土の関係史を見つめようとする際に、まじめであればあるほど生じる苦い意識を正面から受け止めるとき、ようやく沖縄の人と共に歩んでいく一歩を始められるのではないかと感じている。8月3、4日には那覇でも公演する。(臼山誠)

「スイッチ」(まちあわせ) 7月5~7日、福岡市・ぽんプラザホール

公演の告知を機に100日限定で活動する福岡の女性アイドルグループ「NEWing!」の存在を知った。4月結成だからまもなく解散を迎える彼女たち5人が主演。アイドル公演というから最初はファン向けのきゃぴきゃぴした内容をイメージしたが、作・演出が田坂哲郎(非・売れ線系ビーナス)であったので観に行ってみた。結果、物語世界に没入できる面白い作品だった。

二つの異なるストーリーが交互に進行する。一つは、まだ知名度の低い地下アイドルグループをめぐる人間模様、もう一つは精神病棟の患者や看護師、医師たちによるドタバタ。前者は小さな劇場から抜け出て大舞台へ飛翔することを夢見ており、後者は閉ざされた病棟からの脱出(退院)を願う。いずれも狭い場所から広い世界へはばたこうとする類似点に根差したストーリーが進行するうちに、関係がないはずだった二つの物語世界が錯綜していく。「NEWing!」を「入院」にかけた言葉遊びもあったのかは分からないが、自分をアイドルだと思い込んでいる入院中で二重人格?の少女の妄想がキーになっており、どこまでが妄想でどこからがリアルなのか、少女が退院したラストシーンも本当に現実なのか否か。現実と妄想の世界がごちゃまぜに混線していき観劇している我々もこんがらかる。芝居の構造自体はそう珍しいわけではないが、いく様にも解釈できて観劇後も何度も芝居を反芻することが楽しかった。

NEWing!のメンバーは演劇や映画、ドラマなどへの出演経験も結構あるようで演技もしっかりしていた。とくに芝居の華になっていたのがアイドルとしての彼女たちの歌唱シーン。アイドルらしからぬ少々おかしな歌詞も面白く、客席にいて気持ちが盛り上がった。作詞・作曲も田坂でこの芝居のためのオリジナルだったようだ。他の出演は大谷豪、平田向日葵ら。演劇ユニットまちあわせのプロデュース作品。(臼山誠)

「家中の栗」(劇団HallBrothers) 6月28~30日、福岡市・ぽんプラザホール

今年が劇団創設25周年で「25周年記念公演ラッシュ」と銘打った企画の第2弾。2014年に初演した作品のリメイクだ。初演時はある家のある1日の朝・昼・夕の出来事を綴った短編3作の連なりだったが、今回はその1年後を描いたもう一話を追加し4話構成にしたそうだ。

劇団主宰で作・演出の幸田真洋が得意とする会話劇である。複数の価値観の衝突を経て、高みにある和合へと導こうとする。真摯な思索に支えられなければ安易な結末に陥りかねない手法だが、なかなか面白い芝居に仕上がっていた。

舞台は田舎の旧家。今なお親族のつながりが強く、従兄弟や又従兄弟、その子どもたちが親族会議のために集まってくる。親族会議そのものは描かれず、会議を前にした各時間帯ごとの異なる登場人物たちの異なった視点の会話で構成される。各話とも、穏やかな会話→意見の相違の表面化→対立→沸騰から(一応の)落ち着きへ、といった流れで描かれる。

家族にまつわるいろんな意見が登場するのだが、大きな対立軸になっていたのは、家族は家族だという理由だけで無条件に支え合わなければならないのか否か、という点だ。

問題の発端は、家業の後継ぎを次男に押し付け再三の借金などで親族に迷惑をかけ放蕩を続けてきた本家の長男が、またもや借金を背負って帰ってきて身ごもった妻ともども居候を続けていること。堪忍袋の緒が切れて絶縁しようとする次男夫婦、家族なのだからあくまでも助け合うべきだとする従姉妹、家族でも社会の常識的付き合いや礼儀が必要だとする義理の兄弟、その他保守的思考や現代的価値観なども入り乱れ、時には怒鳴り合いの末に一定の結論へと向かっていく。

HallBrothersの作品には、市場原理に基づく現代社会の価値観への批判的視線が伏流する。今作でもそれは変わらず社会的セーフティーネットの必要性も語られる。そして、家族のあり方に関して対立する論理・主張の根幹に、親子や兄弟の深い情があるのか否かによって我々の判断が揺れ動くさまが印象づけられる。人間の情を尊重しなくなった社会では、親子も兄弟姉妹も合理的でドライな関係と化してしまうがそれでいいのか。本作はそのように訴えているように感じられた。

出演は唐島経祐、萩原あやら。常人とは感覚がずれた役回りの水野翠の演技も面白かった。(臼山誠)