仏説ツァラトゥストラはかく語りき (original) (raw)

これ、経典として読めばいいんじゃないか。

仏典にも修行僧が旅をして、出会った人たちと対話しながら「真理とは何か」を極めていくお経があるけど、あの雰囲気ですね。 他者との対話に見せながら、実際のところは自分の中にある「影」との話し合いになっている。

相手を批判しているときでも、それは自分自身の思い込みとの闘いであり、答えを得ると言うよりは、いろいろな角度から真理に迫ろうとする試みになっています。

ツァラトゥストラ

第四部は付録なので、第三部までを要約すると、これは「仏教」だと思いました。ペシミストのための経典です。 「この世の一切に意味はない。あるのは苦しみだけだ」と思い悩む同病者に向けて、ニーチェが「そこをどう生きていくか」を説こうとしている。

そもそも生きていて幸せな人は相手にしてません。 「生きていて幸せ」だなんて不幸なことだと思ってます。キリスト教を「ルサンチマンのかたまり」みたいにいうくせに、ニーチェ自身がルサンチマンの権化であって、しかもそのことを自覚している。

批判が全部ブーメランになって返ってくる。 物言えば、唇寒し、秋の風。

解脱か輪廻か

構造的には三角関係に集約できます。ツァラさんは二人の女神に恋をしています。 一人は「生=ビオス」という美少女で、もう一人は「知=ソフィア」という熟女です。

ビオスは進歩思想です。 進化を信じ、世の中はだんだんと明るい方へ向かっている。 生命には自分自身を乗り越えようとする「力への意志」がある。 西洋の近代を支えている「右肩上がりの未来」。 そうした時間感覚があります。

こちらを考えていけば、やがて「超人」に行き着くだろう。 今いる人間たちは没落し、地上の支配権を「超人」に譲ることになります。

ソフィアは永遠の真理です。 真理は「今ここ」にあり、古代にも真理を体得した哲人たちはいました。 人はすでに真理の中に生まれながら、ただ気づかずにいるだけ。

季節に春夏秋冬があるように、時間もまた循環している。 もし生まれ変わりがあるとしても、同じような人生を繰り返す。 そうした永遠回帰がソフィア側の主張です。

仏教風に言えば「解脱か輪廻か」。 お釈迦様なら解脱を取るのでしょうけど、ニーチェはもっと俗物です。 どちらも捨てがたい。 それでコロコロ意見を変えます。

そもそも哲学とは「フィロソフィア」。 「ソフィアを愛するもの」という意味です。 みんな知の女神が大好き。ツァラさんに付き添うワシとヘビもソフィア推しです。

よく考えてみると当たり前で、動物たちは自然と一体化して暮らしているのだから、進歩思想なんて持ってません。 進歩思想は人間のエゴです。 動物たちは超人なんて目指さなくても、真理の懐に抱かれて生きています。

あるがまま

では人間は、輪廻の何が不満というのでしょう。

「そうなったところ」を「それは自分が望んだこと」として捉え直す。フロイトの「Wo es war, soll Ich werden」はニーチェからの借用と見ねばなりません。 人生をあるがままに肯定する道。 それが「フィロソフィア」である、と。

注意しないといけないのは、「ありのまま」と「あるがまま」の区別です。 「ありのまま」は「自分」の変化を認めようとしない。 「本当の自分」とか言って「自分」を固定してしまう。アイデンティティに囚われています。 イメージの奴隷になっている。

対して「あるがまま」は、まず状況が変化し続けます。 生々流転にある。 その状況を生きる「自分」も流動的に移り変わります。 それをそのまま肯定するのが「あるがまま」です。 これが永遠回帰の「人生にYesと言う」態度。

実はプラトンが描く死後の世界では、しばらくイデア界で骨休みした後、それぞれの魂はくじ引きで順番を決め「次の人生」を選ぶことができます。 しかも、動物を選んでもいい。 後になると残り物ばかりでカエルかサカナかの選択になるかもしれないけど、でも好きな方を選べます。 つまり、輪廻思想なのです。

物語の初めのころは「超人」を目指していたツァラさんも、第三部の終わりには「永遠回帰」に心が惹かれ出す。

ダメダメなこの人生だけど、この人生と向き合って生きることは愉しい。 たとえ「生」と別れることになっても、人生を確かにつかんだ感触があれば、その瞬間は「永遠」を生きることになる。 それがプラトンの言う「観照的生=テオリア」なのだろう。

あれだけ、プラトンイデア界を嫌っていたツァラさんも、最後にはプラトンの軍門に降ります。プラトニックになってしまいます。 反哲学を標榜してもやっぱり哲学。

究極の「あるがまま」がプラトンだから仕方ありません。

まとめ

いま第四部の解説を読んでいるところです。

「同情」が繰り返し出てくる。 同情に潜む、人の心にずかずかと踏み込む無神経さを嫌うツァラさんですが、根が涙脆いので、すぐ人に同情します。

この「同情」は何を描いてるのだろうか。