文化防衛論/三島由紀夫(その10) 行動 (original) (raw)

三島のこととなると、私は、ほとんどまともな評価というものを読んだり聞いたりしたことがない。例えば、野坂昭如は「赫奕たる逆光」(文献7)という本の中で、次のようなエピソードを紹介している。

野坂は、三島の推薦を受け「エロ事師たち」という作品で、文壇にデビューした。事件は、昭和41年の秋に起こる。中央公論が、三島と野坂の対談を企画したのだった。三島に恩義を感じていた野坂が、その申し出を断れるはずはなかった。野坂が約束の時間に指定された料理屋へ入ると、既に三島が座っていた。そして、野坂にこう言ったのである。

「今日あなたと、国家とエロチシズムについて、しゃべってみたいと考えています。昨夜少し勉強してきました。」

それを聞いた野坂は、正気を失った。野坂はその時の感想を「エエ? ウッソー」と記している。頭の中がはてなマークで溢れたに違いない。誰だって、突然、国家とエロチシズムについて話せと言われれば、それは気が動転するだろう。それって一体、何か関係があるの? 私だってそう思う。それはあたかもタワシとカカシの関係について述べよと言われるのに等しい。当然のことながら、対談を通して、野坂はまともなことを何一つ述べることができなかった。

帰り道、ヤケを起こした野坂は、六本木で弱そうなヒッピー風の男に喧嘩を売った。そして、右手の小指を骨折したという。

余談だが、この時の対談は三島由紀夫全集の第39巻に「エロチシズムと国家権力」として収録されている。

上に記した野坂の体験とコメントは、正直で大変結構だ。しかしながら、当時の大御所とも言える知識人の発言となると、話は別である。

そもそも、三島は自衛隊の市谷駐屯地で何を主張したのか。バルコニーに立ち、肉声でがなり立てる音声も残っているが、それは罵声と騒音にかき消されていて、細部まで聞き取ることはできない。しかし、三島が自衛隊員に配布した檄文というものがあり、その内容はネットで確認することができる。

三島由紀夫 檄文 全文

https://naniwoyomu.com/3834/

三島が非難しているのは、自己の保身、権力欲、偽善に陥った政治家とそのような政治家を支持する日本人なのである。そして、本来は国軍として位置付けられるべき自衛隊が、憲法9条によって否定されるというパラドックスに陥っている。そこで、三島は自衛隊員に対し、武士として共に決起しようと呼びかけているのだ。また、武士として決起するということは、すなわち死を意味している。三島は「共に起って義のために共に死ぬのだ」と主張したが、賛同する自衛隊員はいなかった。三島はバルコニーで最後に「天皇陛下万歳」と三唱し、その直後、総監室に戻り、割腹自殺を遂げた。

これが事実であるが、当時、江藤淳小林秀雄が次のように発言している。(昭和46年『諸君!』7月号に掲載、出典は文献6)

江藤・・・僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどとは思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。

小林・・・いえ、ぜんぜんそうではない。三島は、ずいぶん希望したでしょう。松陰もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。三島の場合はあのとき、よしッと、みな立ったかも知れません。そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。それはわかりません。

まず江藤が、リアリティが感じられないと言っているのは、三島に死ななければいけない必然性があったのか、という問題提起だと思う。大義と言い換えても良い。吉田松陰には大義があったが、三島にはない。そう言いたいのだろう。松陰は別にして、少なくとも大塩平八郎西郷隆盛には、その必然性があった。彼らは、大義のために死んだのである。三島には、どうしても死ななければならない必然性や理由はなかったと思う。この点は、私も同感なのだ。全ては芝居のようで、自衛隊という場も、楯も会も舞台道具に過ぎなかったのではないか。しかし、そこから導かれる結論が、私と江藤では正反対なのである。ソクラテスの場合を考えてみれば良いのだ。ソクラテスの死も、回避不能ではなかったのである。逃げることだって可能だった。しかし、ソクラテスは逃げず、自ら進んで毒杯を煽ったのである。三島も同じだと思う。大義のために死んだ人々は立派だ。しかし、そうではなくて、自ら死んでみせるという人間の悲劇的な選択にこそ、人々の魂は激しく揺さぶられるのである。

また、江藤は「いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね」と発言しているが、三島はそんなことのために死んだのではない。三島は「文化には改良も進歩も不可能であ」ると述べており(本文献:P. 47)、そのような文化の中で、自らの命を絶ったのだ。江藤の頭の中は、せいぜい夏目漱石で止まっていたのではないか。

一方、小林は江藤の発言に対して、三島を庇おうとしたのかも知れない。つまり、全てが計算されていた訳ではない、自衛隊員が誰も三島に同意しなかったから、止むを得ず三島は自決したのだ、三島には大義があった、と言いたかったのだろう。実際、小林は早くから三島の才能を高く評価し、激励していたのである。しかし、ここには重大な事実誤認がある。三島は自衛隊員に対し、決起をしてクーデターを起こそうと呼びかけたのではない。共に、大義のために死のうと言ったのだ。仮に、みんなが決起していれば、その全員で腹を切っていたことになる。

次に、吉本隆明は次のように書いている。1971年2月号の「試行」32号に掲載されたものである。

- 三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その〈死〉の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない。(文献6:P. 14)-

当時、吉本のこの発言がきっかけとなったのだと思うが、三島の死が政治上の死なのか、文学上の死なのか、議論が巻き起こった。

こうしてみると、確かに三島の主張には、憲法9条(特に2項)に反対するという政治的な意味合いが込められているし、何しろ、三島が選んだ場所は自衛隊という国家権力を象徴するような場所なのだ。しかし、三島の行動を政治的であるとするのは、矮小化である。三島の主張には、現実の政治では把握仕切れない広がりがある。

では、文学的な死なのか。そう言ってしまうと、それも同様に矮小化することになると思う。確かに、檄文の表現は文学的に完成されたものであって、それは倫理を超えた美の域に達していると思うが、三島の死は現実の世界における出来事なのである。

加えて、三島が死に惹かれていたのも事実である。生前、三島は英雄的な死、死の美学に取り憑かれていたのであって、それは三島が持つ強烈な自我に起因している。

すなわち、三島の行動、その死とは、政治的であり、文学的でもあり、かつ、その根っこには三島の自我があると見るべきだというのが、私の意見である。むしろ、それらの領域が重なる究極の結節点、それが三島の行動の位置であると思う。

三島由紀夫という人間は、巨大なスケールを持っている。もちろん本業は作家だった訳だが、それと同時に彼は武士であり、思想家でもあった。従って、その全体像を掴むのは確かに困難であるが、当時の文壇が彼に激しく嫉妬したであろうことは、想像に難くない。三島の業績を率直に評価してしまうと、並み居る作家や評論家たちのメッキが、いとも簡単に剥がれ落ちてしまうからだ。そう考えると、三島が痛切に感じていたであろう孤独感の一端を垣間見るような気がする。

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年