日比野コレコは「ビューティフル」を求めて小説を書き続ける (original) (raw)

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撮影/高田遼(以下、同)

2022年に発表したデビュー作『ビューティフルからビューティフルへ』(河出書房新社)で、安堂ホセ著『ジャクソンひとり』と第59回文藝賞をW受賞し、一気に文壇の寵児となった作家、日比野コレコ。

一方で、当時18歳という年齢の若さ、そしてインパクトの強い独特の文体に注目が集まるあまり、彼女の“本質”の部分はまだあまり触れられてこなかったようにも感じる。『文藝』2023年秋季号(同)でデビュー2作目の小説『モモ100%』を発表したばかりの今、あらためて知りたいのは「日比野コレコは一体、どんなことを考えているのか?」ということだ。

日比野コレコ(ひびの・これこ)

作家。2003年生まれ、大阪府在住の大学1年生。22年に『ビューティフルからビューティフルへ』で第59回文藝賞を受賞。

引用元のことを聞かれることは本意じゃない

――「18歳で文藝賞受賞」という触れ込みなど、現在の日比野さんを語る上では必ず「年齢」や「世代」がついて回りますよね。その点についてどう感じていらっしゃいますか。

日比野コレコ(以下、日比野):確かに世代、属性、そして「19歳の女」などで括られて語られている実感が多く、最初は反発心もありました。でも今は、「19歳の女」で、「松本人志を敬愛」とか、そういうカテゴライズをされることも受け入れていますね(笑)。

そのおかげでメディアに取り上げてもらえることも多いし、それで小説を読んでもらえばわかってもらえるという自信があるから、「そちらがそういうものさしに当てはめたいなら、こっちもそれを武器にします」っていう気持ちになってきたんです。確かに、文藝賞は若い作家が受賞することが多いですし、そこで「また若い女の小説か」と言われたりする。でも、これは私がよく使う比喩なんですけど、それって「最近のアイドルの顔は見分けつかない」と言う人たちと似てるんちゃうかなって。つまり「それってそっちの問題ですよね」と思っています。

ただ実際、私はもうすぐ20歳になるんですが、なんだか怖くて。私は昔から怖がりだから、すべての選択肢が欲しいというか、ひとつも選択肢を狭めたくないんです。なれないものがあるのがいやで。たとえば14歳のときにはあった選択肢も、20歳になるとなくなってしまっていたりする。何かやりたくても、「今からではできない」「もう間に合わない」って、そういう現実が嫌で。

――日比野さんはそれだけやりたいこと、なりたいものが多かったということですか。

日比野:そうですね、小説家以外で「なんにでもなれるよ」と言われたら、バンドマンや芸人や、ライブのときに観客と同時性を持つことができる職業をやってみたい。小説は、文章を書いてから、読者に読んでもらうまでに時間的なズレ、タイムラグがある。私はずっと「小説に、読者との同時性を取り入れたい」と考えているんですけど、それは、ステージの上でそれを体現している人たちへの羨望があるからかもしれません。

『ビューティフルからビューティフルへ』では、「ここは息を止めて読んでほしい」という一節を入れて、同時性をもたせるという試みをしました。言葉を分裂させて、言葉遊びをすることで、読者と同じスピード感が出せるんじゃないかな、と。

――日比野さんに関するこれまでのさまざまなインタビューでは、音楽、映画などカルチャーに関する内容が多いですよね。確かに『ビューティフルからビューティフルへ』に引用されているカルチャーや固有名詞は、日比野さんを表す上で大事な物事です。でも、それらはあくまで要素であって、日比野さんの人間的な部分も伺いたくて。

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日比野:デビュー作の『ビューティフルからビューティフルへ』は、よく「サンプリングの文学」と表現されるんですが、それは自分の意志に反していることでもあるんです。

たとえばクエンティン・タランティーノ監督の映画『パルプ・フィクション』(1994)のことは、誰も最初に「サンプリング映画」とは呼ばないですよね。もちろん「サンプリング文学」と言われるのが絶対にいやだというわけではないけれど、私にとってサンプリングって、自分の表現を落とし込む方法のひとつであるだけで。もともと広く知られている慣用句をねじって文章に入れ込むときのそのねじれがとても魅力的で好きだから文体に取り入れてるだけで、あらゆるサンプリング元もその慣用句と変わらないと思っているので、引用元のことを聞かれたり、話すことが多いのはなんだか本意ではなくて。

お笑い、音楽、映画、短歌、詩、ラップ、広告コピー……私はいろんなものから影響を受けています。すべて好きなものたちなんですけど、それって自分のなかの一部でしかなくて。やっぱり、私にとってもっとも大きいものは小説なんです。それはちゃんと強調しておきたいですね。

――どんな小説に影響を受けてきましたか。

日比野:5歳くらいのときにロアルド・ダールの『マチルダは小さな大天才』(1988年)を読んで小説が好きになって、中学ではアンドレ・ブルトンの『ナジャ』(1928年)を読み、シュルレアリスムにのめり込みました。そのあとはコルタサルやセリーヌやミラーにハマって、最近では大江健三郎が特に好きです。

――以前、ほかのインタビューで、そういう「圧倒的」な小説を書きたいとおっしゃっていましたよね。

日比野:今のところ、私の考える圧倒的というのは、新しくて、切実で、そこになければならなかったもの。それであれば、面白い小説だと私は思っているから、自分もそういうものを書きたい。だから、もっともっと勉強して成長しないといけないと思います。

――日比野さんにとって小説とは。

日比野:私にとっての小説とは、“言葉のタンク”であり、肺や肝臓といったような、自分の器官のひとつでもある。それは私が小説という手段を選んで、それを信じているからでもあるけど、音楽や映画やほかの手法と比べても、小説がもっとも自由な表現手段だと思っていて。小説は、どんな人のことも受け止めることができるし、すべてのことを実現できると信じています。もしできないことがあるとしたら、それは私の実力不足でしかないなって。

たとえば、音楽やお笑い、においなんかを小説で表すことだって、先人の作家たちがとてもうまくやってのけています。

――日比野さんが、小説をそこまで信じられる理由は。

日比野:理由はいろいろあるんですが、「なぜ小説を書くようになったのか」の話につながるかもしれません。誰も、私の話を聞いてくれなかったんですよね。幼少期から、今では段ボール箱がいっぱいになるくらいある無印ノートに小説を書いていたんですが、家族なんかにに「読んで」と言っても誰も見向きもしてくれなくて。口で何かを伝えるのが苦手だったから「小説でやろう」という意識があるのかもしれません。

めっちゃデカい逆張り

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――ちなみに、日比野さんは作家として「売れたい」と考えることってありますか。

日比野:どちらかと言われたら「売れたい」という側だと思います。その気持ちは、「自分のことをわからせてやりたい」につながっているんです。「わかるやつだけ、わかればいい」ではダメで。わからせるためには、やっぱり売れなきゃいけない。「わかってもらわなきゃ意味がないやろ」って思います。

たとえば、松本人志さんは「わかるやつだけ、わかればいい」のスタンスのように見えたけど、その過程で結局「わかられた」。そういうところで、松本さんを理想に思う部分はあるかも。

ただ私にとって、昔から小説がいちばんで唯一の話し相手だったから、売れても売れなくても、何があっても書き続けると思います。もし1人で無人島に行っても書き続けるし、それは全然、当たり前のことなんです。かんぺきに幸せになったらもう書かないかっていったら、そんなことはないだろうし。

――作家やアーティストには、「幸せになると素晴らしい作品は作れない」という言説もありますよね。

日比野:不幸の渦中にいないと作品が作れないなんて、きっと誰も認めたくはないはずです。でも、やっぱりある程度、それはあると思う。ただ、そこで止まってたらだめなんです。

だから「細く長く」か「太く短く」のどっちかしかないんじゃなくて、「太く長く」生きることができ、その過程ですばらしい作品を作り続けることは可能だと、作家さんでも芸人さんでも、カッコいい人たちには全員、それを証明してほしいなと思います。そうでなければ、私がやるしかないですよね。

――『ビューティフルからビューティフルへ』からも、絶望と死のにおいを感じました。でも、今日の取材で、日比野さんはずっと笑っていらっしゃいますよね。

日比野:それは全然気づかなかった(笑)。でも、町田康さんが『ビューティフルからビューティフルへ』を「反転するエネルギー」とおっしゃってくださったんです。死について引っ張られるパワーが大きいぶんだけ、反転しているものが絶対あるから。だから私って、たぶん“めっちゃデカい逆張り”なんですよね。

私は人間にとっての“ゴール”って、死ではなく美しさだと思っているんです。小説でも同じで、そもそも「ビューティフルからビューティフルへ」は自分の人生の標語にするくらい好きな言葉だったし、自分の“ゴール”は「美しさ」という言葉にもう決まっているから。だから私、明らかに矛盾しているんです(笑)。だからこそ、無理やり反転させる必要があるんだと思うし、その過程をたどって書く小説はきっとおもしろいものになるはずです。

――最後に、日比野さんが「美しい」と思うものって、なんですか。

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日比野:アンドレ・ブルトンが『ナジャ』の最後の一文で、「美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう」と書いています。美を定義するのは難しいことだけど、でも、それは私にとっていちばん納得できるものでした。2作目の小説『モモ100%』も、ゴールは「美」にしようと考えて書きました。私にとっての最後は必ずそうでありたいんです。

田辺ユウキ(関西在住ライター)

最終更新:2023/08/29 14:00

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