芹沢銈介 :: 東文研アーカイブデータベース (original) (raw)
芹沢銈介
国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、文化功労者の型絵染作家芹沢銈介は、4月5日午前1時4分、心不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年88。
略年譜
明治28(1895)年5月13日、静岡県静岡市の呉服太物卸小売商大石角次郎の次男として生まれた。
明治41(1908)年 静岡県立静岡中学校に入学。中学時代、すでに美術好きの少年で、水彩画家山本正雄のよき指導を得ていた。
大正3(1914)年 東京高等工業学校図案科入学。印刷図案を専攻。翌年、図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得した。この頃、雑誌「白樺」「フューザン」の挿画を通して西欧美術に感動、国内では梅原龍三郎、安井曽太郎、特に岸田劉生と中川一政に傾倒、また富本憲吉、バーナード・リーチの作品に惹かれた。
大正5(1916)年 東京高等工業学校図案科卒業、静岡市の生家に帰る。
大正6(1917)年 2月、静岡市の芹沢たよと結婚、友人太田三男と文金図案社を始め、店舗の装飾、広告、祭の花車等の依頼を受け、大工玩具の考案製造もした。
11月からは、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行う。この年長女規恵出生。
大正8(1919)年 小絵馬の収集始める。10月長男長介出生。
大正10(1921)年 大阪府立商工奨励館募集のポスター図案に入賞、福助足袋屋のポスターで朝日新聞ポスター図案に入賞、等各府県、新聞広告の懸賞に入賞多数。このころ、子供の乗物、絵本を作り、劉生風の油絵を描き、自分の子供たちの衣服もデザイン、布染めして工夫して着せるなどした。大正11(1922)年 この年から近隣の子女を集めて「このはな会」と名付け、手芸の図案を与えて、絞り染めや刺繍、編物等の製作をさせた。この年の主婦之友全国家庭手芸展に出品させ、最高賞を受けた。このころ、雑誌「白樺」に柳宗悦の東洋美術紹介があったのに感銘を受け、特に「李朝の陶磁器号」に感動する。11月に次女和喜出生。
大正13(1924)年 芹沢家は、親戚のための請判が原因で土地、家屋、山林、田畑のすべてを失い、借家住いとなる。この頃から蝋染を始める。
昭和2(1927)年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが静岡市鷹匠町の宅へ来訪、収蔵の李朝陶器等に賛成する。4月、東京鳩居堂の第1回日本民芸展で古民芸の系列に接す。6月、柳宗悦編「雑器の美」(民芸叢書第一編、工政会出版部)の装幀をする(以後柳宗悦著述本の装幀多数)。この年、朝鮮京城の民族美術館、慶州佛国寺を訪れる。往路、船中で雑誌「大調和」(昭和2年4月創刊)に連載中の柳宗悦の論文「工芸の道」に感銘をうけ、生涯の転機となる。
昭和3(1928)年 上野公園の大禮記念国産振興博覧会で、静岡県茶業組合連合会の展示を行う。この博覧会特設館の日本民芸館で初めて見る沖縄の紅型に瞠目する。前後して開かれた啓明会その他の沖縄工芸の展示を見て紅型への思慕を深めた。
昭和4(1929)年 3月、京都大毎会館の日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等出品、また國画会展には<手描蝋伏せ杓子菜文藍絹紬地壁掛>を初出品、N氏賞受賞。
昭和6(1931)年 雑誌「工芸」創刊され、表紙を1ケ年受け持つ。その型染布表紙は装幀の仕事への端緒となる。
この年、三女とし出産。
昭和8(1933)年 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊。倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける。
昭和9(1934)年 東京市蒲田区蒲田町に移る。柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する。
昭和14(1939)年 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う。同地壷屋の生地を取り寄せて赤絵を試み、また沖縄の景物を素材とした染絵を多く作り、これらを高島屋の沖縄展に出品。
昭和20(1945)年 戦災で工房と全家具・家財を失う。山本正三の発案で型染カレンダーを創始する。
昭和30(1955)年 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する。
昭和31(1956)年 型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
昭和33(1958)年 倉敷の大原美術館工芸館のために、倉庫群の配置換え及びその内外装、展示用家具の設計をする。
昭和36(1961)年 大原美術館工芸館第1期工事により陶磁館落成。この年、柳宗悦死去。
昭和38(1963)年 大原美術館工芸館第2期工事により棟方志功、芹沢銈介の両館完成。
昭和41(1966)年 スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊。この年、紫綬褒章を受章。
昭和43(1968)年 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作、米国サンディエゴ州立大学の夏期セミナーに招請され、同地及びロスアンゼルス、カナダのバンクーバーで個展開催。
昭和45(1970)年 大原美術館工芸館の第三期工事で東洋館完成。大阪大丸百貨店の濱田庄司、棟方志功との「巨匠三人展」に出品。この年、勲四等瑞宝章を受章。
昭和46(1971)年 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催。「このはな会」寄贈によるケネディ記念館のための屏風「四季曼荼羅」を完成。パリ国立近代美術館長ジャン・レマリー氏来日、同館における芹沢銈介展の開催を要請する。
昭和48(1973)年 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催。
昭和49(1974)年 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作。岡山天満屋百貨店での展覧会「型絵染の巨匠芹沢銈介の五十年-作品と身辺の品々-」を開催。
昭和51(1976)年 文化功労者となる。パリ国立グラン・パレにおいて「芹沢銈介展」を開催。
昭和52(1977)年 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する。
昭和53(1978)年 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催。国会図書館での「本の装幀展」に特別出品。静岡・西武百貨店で「芹沢銈介小品展-のれん・装幀とその下絵・挿絵-」を開催。静岡市民ホールの緞帳図案「静岡市歌」制作。横浜市港北公会堂緞帳図案「陽に萠ゆる丘」制作。大原美術館で「芹沢銈介の蒐集-もうひとつの創造-展」を開催する。
昭和54(1979)年 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催。米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催。
昭和55(1980)年 東京国立近代美術館の「日本の型染-伝統と現代-展」に出品。中央公論社より『芹沢銈介全集』の刊行を開始する。
昭和56(1981)年 静岡市立芹沢美術館が開館。
昭和57(1982)年 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催。天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作。大原美術館で「芹沢銈介作釈迦十大弟子尊像展」開催。紫紅社より『歩 芹沢銈介の創作と蒐集』刊行。
昭和58(1983)年 フランス芸術文化功労勲章を授与される。新宿京王百貨店で「88歳記念芹沢銈介展」開催。4月19日に妻たよ死去。8月病に倒れる。
昭和59(1984)年 4月5日午前1時4分心不全のため死去。4月26日、日本民芸館にて日本民芸館葬。正四位に叙せられ、勲二等瑞宝章を受ける。
出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(244-356頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「芹沢銈介」『日本美術年鑑』昭和60年版(244-356頁)
例)「芹沢銈介 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9815.html(閲覧日 2024-11-15)
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