エグベルト・ジスモンチとは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

エグベルト・ジスモンチEgberto Gismonti
1980年、アルゼンチンで撮影
基本情報
出生名 Egberto Amin Gismonti
生誕 (1947-12-05) 1947年12月5日(74歳)
出身地 ブラジル リオデジャネイロ州カルモ
ジャンル プログレッシブ・ロックフォークロックジャズブラジル音楽ノルデスチ
職業 ミュージシャン、ソングライター
担当楽器 ギターピアノカリンバ、インディアン・オルガン
活動期間 1969年 -
レーベル ECMEMI
共同作業者 ヤン・ガルバレクチャーリー・ヘイデンナナ・ヴァスコンセロス

エグベルト・ジスモンチEgberto Gismonti1947年12月5日 - )は、ブラジルリオデジャネイロ州カルモ (Carmo) 出身のマルチ楽器奏者作曲家編曲家音楽プロデューサー。高い演奏技術を持つとともに、彼の作るリリカルな曲は様々なミュージシャンにもカバーされている。

略歴

生い立ち

1944年ブラジルリオデジャネイロ州の田舎町カルモ (Carmo) にて、レバノン人の父とイタリア人の母との間に生まれる。彼の家族は祖父と叔父がバンドを率いている音楽一家で、彼自身も5歳の時、クラシカルピアノフルートクラリネットそして音楽理論のレッスンを開始する。10歳の時セレナータが好きな母のために独学でギターを始め、後にカスタムメイドの10弦、12弦、14弦の多弦ギターや両手タッピング奏法をマスターする。

8歳の時から15年間、彼はピアノを学ぶために、ジャック・クライン (en:Jacques Klein) とアウレーリオ・シウヴェイラ (Aurélio Silveira) に師事した。1964年、彼はクラシックをウィーンで学ぶための奨学金を獲得したが、ポピュラー音楽を専攻したいと考えるようになり辞退した。

歌謡曲の作曲家として

1968年、彼が作曲した100人編成のオーケストラを従えた歌曲「O Sonho」がリオデジャネイロのテレビ局Globo主催の第3回国際歌謡祭で高い評価を得た。

1969年、彼はフランスへ渡り、歌手のマリー・ラフォレ指揮者編曲者として1年半働くとともに、ジャン・バラケナディア・ブーランジェ両名にインストゥルメンタルの師事を受けた。また、彼はファースト・アルバム『エグベルト・ジスモンチ』(Elenco) をリリースした。

1970年、フランスから2枚のシングル、ブラジル、イタリアドイツからそれぞれ1枚ずつアルバムを発表する。また、「Mercador de Serpentes」が第5回国際歌謡祭で発表される。

インストへの傾倒

1971年、ブラジルに復帰。1973年までにEMI/Odeonを通じてリリースされた3枚のアルバムが、その後、彼がインストに傾倒するターニングポイントとなる。しかし、ブラジルの経済は次第に悪化していく。彼の最後の作品になるのではないかと憂慮され、当時贅沢なシンセサイザーとオーケストラを駆使して制作されたアルバムはブラジルのゴールデンレコードを受賞した。このアルバムはどのジャンルにも含まれない斬新なものであった。結局、彼はEMI/Odeonから1991年までに19枚のアルバムをリリースした。

ECMへ参加

1974年ベルリンのジャズ・フェスティバルに参加した彼は、エルメート・パスコアールパーカッション奏者とのナナ・ヴァスコンセロスらと共演する。その後、ECMマンフレート・アイヒャーと出合う。1975年レーベルへの参加を請われ、1976年、ECMのメンバーに加わった。当初、ECMに入ることを躊躇していたのは、ジスモンチ自身がECMのことをあまりよく知らなかったためである。

ジスモンチはECMでブラジルの著名なミュージシャンによるアルバムを構想していたが、ブラジル軍事政権が国外に出るブラジル人に対し高額の課金をしていたため、彼らをECMのスタジオがあるノルウェーに連れ出すことが困難であった。そこで彼はソロ・アルバム制作に方針を変更してノルウェーに向かった。当地でアマゾン近くで育ってきたという共通の経歴を持つナナ・ヴァスコンセロスと再会し、アルバムへの参加を要請。1976年こうして完成したアルバム『輝く水』(ECM) は20万枚を売り上げるとともに、イギリスではポップの、アメリカではフォルクローレの、ドイツではクラシックと様々なジャンルの賞を受けることになる。このアルバムを機に、ヴァスコンセロスは世界的なミュージシャンとして各国を飛び回るようになるとともに、ジスモンチはアマゾンのフォクルローレの研究に没頭するようになる。そして、2年間、アマゾンで現地の人と生活を共にする。

1978年サックス奏者ヤン・ガルバレクマルチ楽器奏者コリン・ウォルコットラルフ・タウナーらとアルバム『輝く陽』(ECM) を、1980年にヤン・ガルバレク、チャーリー・ヘイデンとアルバム『マジコ』(ECM) をリリース。また、1979年にリリースしたソロ・アルバム『ソロ』(ECM) はアメリカで10万枚以上を売り上げるヒットとなった。それ以降もコンスタントにアルバムを発表し続けている。

レーベルのオーナーとして

ジスモンチはブラジルのレーベル「Carmo」のオーナーでもある。CarmoはECMと幾つかのジョイントベンチャーを果たしており、Carmoのタイトルをブラジル国外でECMを通じて販売をしている。また、彼はEMI/Odeonの持つ、彼の全タイトルのブラジル以外の地域の販売権を買い取ることにも成功している。

その他

2007年、15年ぶりに来日を果たした。

カバーしているアーティスト

ディスコグラフィ

アルバム

関連項目

出典

  1. ^Egberto Gismonti é destaque na série "Discos Fundamentais"” (ポルトガル語). OlhoVivo (2012年11月13日). 2012年11月13日閲覧。

参考文献

外部リンク