【天太玉命神社】曽我遺跡に近く高取川との合流点に鎮座する意味【曽我川 流域(2)】 (original) (raw)
まとめ
橿原市 #忌部町 #天太玉命神社。南約1キロ #玉作工房 #曽我遺跡 とともに #出雲の忌部氏 の拠点であったようです。#高取城 跡 に源を発する #高取川 と #曽我川 の合流点に鎮座しており、高取城主 #越智氏 の説話も伝えられています
目次
本文
天太玉命神社(あめのふとだまのみこと、橿原市忌部町)
橿原市忌部町は曽我川橋の近く、ちょうど、曽我川と高取川が合流するところに鎮座しています(地図の矢印は川の流れ。さらに北上して大和川と合流)
静かな境内ですが、格式が高い式内社(平安時代に作成された官製の延喜式神明帳に記載された神社)で、現在地名(忌部町)が示すように、ヤマト忌部氏拠点のこん跡として、古代史的にもたいへん重要な神社です。
天太玉命神社 鳥居
御祭神:天太玉命(あめのふとたまのみこと)、大宮売命(おおみやのめのみこと)、豊石窓命(とよいわまどのみこと)、櫛石窓命(くしいわまどのみこと)
古代氏族・忌部氏(いんべうじ)の橿原における氏神で、太玉命(ふとだまのみこと)は忌部氏の祖先神。
出雲系?玉作の忌部氏の氏神
天太玉命は、天岩戸(あまのいわと)神話にも登場する、つまり古代王朝に属した一族で、玉造(玉作)に従事した品部(しなべ、職業集団)の一族でした。
忌部氏は(元をたどれば同祖と考えられるものの)『玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐など』と紹介されているように(Wiki)、時代が下るとともに広域に存在するようになり、このうち、天太玉命神社の一族は出雲系と推理されます。
(なお、出雲の玉作は、古代の日本海交易を通じてヒスイ加工もしていましたが、地元・玉造温泉(島根県松江市)近くの花仙山(かせんざん)メノウが主でした)
天太玉命神社 本殿
曽我遺跡(大和高田バイパスが忌部川を越えるあたり)
天太玉命神社から南約1キロで発掘調査が行われた曽我遺跡(工房遺跡)の玉類出土物の年代が、西暦500年代前後であることから、この地域での忌部氏の最盛期(また集団移住期)は古墳時代だと考えられます(曽我遺跡については別の記事で紹介します)
天太玉命神社 本殿扁額
大和・越智氏との由縁
ずっと時代が下りますが、南北朝時代に吉野方につき、活躍した越智氏(高取城)は戦国時代まで続きましたが、その数代目の親家(ちかいえ)が「忌部神社(式内天太玉命神社)に九頭大明神を奉祀した」という説話が残っています(越智氏系図)。
越智氏の出自には複数ありますが、ひとつに伊予説もあり、忌部氏と何らかのつながりがあるのでしょうか。
高取城を源とした高取川と曽我川の合流点に鎮座するのは、越智氏と忌部氏とのつながりを暗示しているのかも知れませんね。
古代史を調べていますと、戦国時代につながることを示唆する話がありますが、これはそのひとつです。
天太玉命神社 本殿
天太玉命神社 本殿
天太玉命神社 境内