双子座殺人事件 (original) (raw)
グレッグ・アラキの「ティーン・アポカリプス・トリロジー」のうち、このたび公開されたデジタルリマスターかつディレクターズカット版の二作を観賞。
▼「グレッグ・アラキによるヘテロセクシュアル映画」との痛快な皮肉で始まる『ドゥーム・ジェネレーション』(1995)は確かに異性愛セックスが満載だが、やっている(ように表現している)内容も撮り方もちょっとした創意に溢れており楽しく、超クィアに感じられる。以前他の映画の感想で書いたけど、クィアとは「あらかじめ決められている」の真逆だと非当事者の私には見える。
エイズで死にたくないからのPrepare for the apocalypseからのアメリカ国歌と国旗が要点だが、彼と何もかもが違う私には本当のところは分からない。でも分かる…自分にも当時の実感として残っているところがあって、それは狭い範囲が延々と映ることで伝わってくる息苦しさ。そこから出なければ大丈夫と思いきやしつこく追ってくる世界に蹂躙される結末に、見終わって胸が痛くなった。
流れ続ける自分達の音楽は自分達を守るものだが、ジョーダン(ジェームズ・デュヴァル)がX(ジョナサン・シェック)の裸の背中を手で這いながら口ずさむItsy Bitsy Spiderなどの童謡は、自分達の外の世界にかつてあった、あるいはエイミー(ローズ・マッゴーワン)にとってはとりわけそうだったかもしれない、あってほしかった世界への気持ちのようだと思った。
▼『ノーウェア』(1997)冒頭のダーク(ジェームズ・デュヴァル)の駆け巡る性の夢は、母親(ゲスト出演のビヴァリー・ダンジェロ)のいつまでシコってんの?にぶった切られる。親の言動や学校の話題の、アメリカ映画のある種のジャンルをなぞっているような適当さは、それらを遮断して自らを守っていた『ドゥーム・ジェネレーション』と本作とを結局は同じように見せる。あるいは世界のことなんてそこまで気にしなくてもいいと言っているようにも思える。
ここには性暴力とそれによる自死があり、「エイズの特効薬」はなく、愛を求めても手に入れられず、そして宇宙人に拉致される者がいる。これらが同時にあってしまうという非情さは胸に染みる。現実はそんなものと、マジョリティが言うのとマイノリティが言うのとは全く違う。それは先日見た、同じ頃に撮られたドキュメンタリー『新宿ボーイズ』(1995)の中で「おなべ」が字面だけ見たらありふれたことを口にする時の、でもありふれていないと分かる真摯さに似ている。
それにしても本作は2019年に制作企画されたドラマ『ナウ・アポカリプス 夢か現実か!? ユリシーズと世界の終わり』とあまりに似ている。ほぼ同じことが繰り返されている(主人公が自分を撮っているなどの細かいところも。そもそもこのドラマ、若者がまだテレビなんてものを見ている)。四半世紀を経ても変わらなかったということと、それでもある部分は変わったということが分かる。『ナウ・アポカリプス』には『ノーウェア』のような閉塞感がなく、生きていける感がじゅうぶんする。これからのグレッグ・アラキを追いたくなるような旧作上映だった。
難民映画祭のオンライン上映にて観賞。原題The Staging Post、2017年オーストラリア、ジョリオン・ホフ監督作品。
2013年、オーストラリア政府に受け入れ拒否された主にアフガニスタンでのタリバンの迫害から逃れてきたハザラ(民族)の人々が留まるインドネシア、チサルア。UNHCRは難民の組織的な活動を禁じているのだから学校なんて作ったりしたら庇護申請の審査に落ちるのではという恐怖が蔓延する中、アフガニスタンの国連開発計画で働いていた写真家のムザーファは面接まで18か月、先をも知れない暮らしの中ではコミュニティーが必要、とりわけ子どもの教育について考えねばと演説し、18歳の映像作家ハディムら大勢と共に難民による初の学校、チサルア・レフュジー・ラーニングセンターを開設する。その光景にああ、学校だ!と思う。学校を作り運営することが大人達をも繋げる。映画の終わりに出る文章によるとUNHCRも「難民のポシティブな活動」を認めるようになり映画制作時点でインドネシアだけで7つの学校があるという。
作中出てくる教師は全員、それこそ15歳からの女性(教師というものが「女性の仕事」なのかもしれないけれど)。ムザーファは自身の妻や義妹を始めとする女性達が先陣を切って教師として学校作りに参加の意を示してくれたと話す。彼の「母国では未婚の男女は一緒にいられないが、ここでは皆『難民』だからね」は私には意味を汲み取るのが少々難しかったが、ハディムが「アフガニスタンやパキスタンの女性についての作品」、題して『コミュニティーの心』につき「難民は常に新たな生き方を模索しており変化を受け入れるのはまず女性」「知る限りアフガニスタンやパキスタンの女性はサッカーをしないがここではしている」と女性ばかりの試合の様子を撮影編集しているのには、胸がいっぱいになるのと同時に何を思っていいのか分からなかった。例えば大戦中に男性の労働力が不足したので女性達が初めて職を手にしたという話に触れた時のような…。
映画の終わり、ムザーファとハディムは第三国定住の許可を得てそれぞれオーストラリアとアメリカへ発つ。出発前の集まりでハディムが涙ながらに自分の母が13歳でいわゆる交換婚を、15歳で出産をさせられ教育も受けられなかったことを語る姿に先の映像作品の根底に流れるものが分かる。彼が冒頭、本当は自分を撮ってほしかったが叶わず友人達を撮ることで自分達の姿を世界に発信していると話していたことも蘇り、本作の意義を思った(作り手との繋がりといえば学校開設の際、現地の部族長の持ち家を借りるのに庇護申請者には行えない契約を監督と制作関係者?の女性が行っているのも印象的だった)。それにしてもこれから10年、皆どうしているだろうと思うのと同時に、ここに描かれている、難民の生はあらゆる類の恐怖と共にあるのに世界の方が難民を怖いと感じているなんて過ちはどれだけ正されたろうかと考えた。
OUTCAST FILM FESTIVALを機にMadeGood.filmsで見られると気付いて観賞、1995年イギリス、キム・ロンジノット監督作品。歌舞伎町の「おなべバー」ニューマリリンで働くガイシュ、カズキ、タツのホスト3人を捉えたドキュメンタリー。
気心の知れているであろう人達とのやりとり、一同に会しての自分達の軽い紹介を経て、店での場面と3人が誰かに対し、あるいはカメラに向かって自分のことを話す場面が交互に挿入される。とりわけインタビューの内容の力強いこと。根底にジェンダー規範があることこそがその時代を真剣に生きていると表している。「女の子は普通(セックスを)やらないじゃん?許してくれるんだからおれのことが好きなんだ、騙されてないんだと思える、精神的に安心できる」なんて、何も考えない受け売りのやつだって言うけれど、真面目に考えている人が言うのは明らかに違う。ちなみに「おれはおれ、男とか女とかじゃない」と語るこのガイシュはお客の女性から「そんなに性格が悪いんじゃ女だったら嫌われ者だよ」と冗談めかして言われているが、今の私の目で、つまり今のジェンダー規範で見ると、全然そうは思えない(そもそも「性格が悪い」ように見えない)。
それにしても1995年。私が上京して三年目、歌舞伎町はある意味、勝手知ったる…と思っていたけれど、優しく丁寧に撮られている、ニューマリリンの入口をくぐるホスト志願者や新人と3人のやりとり、ピンクソーダに勤める「おかま」のクミのステージと恋人のカズキがそれを見る姿(クミさんいわく「分かり合えた上での同居的な感覚、その上に恋愛があるのがいい」)などに何も知らなかったと気付かされる。時代としては、店内に流れるドリカムやガイシュが歌う『WOW WAR TONIGHT』(これこそがこの年の一曲)、タツがデュエットする『夏の終わりのハーモニー』(リリースから10年経っていない!)、冒頭の誕生祝いのテーブルのコージーコーナーのケーキには、当時はデパ地下以外にケーキを買える店が他になかったと思い返した。女性客に「24でしょ?結婚しないの?」、インタビューで「(女の人は)30近くなったら結婚して子ども作らなきゃとか考える」なんて言わせる社会がガイシュに「生まれてこなきゃよかった」と口に出させる。30年後のいまだ全ての人に結婚は平等じゃない。更には20そこそこだった私達の世代がその後、子どもなんて産まないとは予想されなかったんだなと考えが逸れた。
MadeGood.filmsにて観賞、2020年ノルウェー、ベンジャミン・リー監督作品。2015年にオスロのギャラリーで起きた絵画盗難事件を切っ掛けに始まる画家と泥棒の交流を描くドキュメンタリー。
映画の作りが凝っている(ように見える)ため、あんなにも色々なことがあったのに、映画が終わる頃には何も無かったかのような奇妙な感じにおそわれた。それは二人の人間の重みを消すものではなく、男に暴力を振るわれ新たなパートナーと共にチェコから逃げて来た、「商業主義」的ではないため困窮している画家と、酷い子ども時代を送りギャングに入り薬漬けになり、絵を盗んだ時の記憶も持たない泥棒の二人が2015年の後も懸命に生きる姿が心に残った。
映画の前半は「画家」パートで画家バルボラから見た泥棒ベルティルが、「泥棒」パートで泥棒ベルティルから見た画家バルボラが語られる。前者の「危ない目に遭うことが多い、自分でそれを起こす、認めてほしいのだ」との解釈の後、ベルティルが盗難車で事故を起こし「泥棒」パートに入るに至り、構成が見えてくるのと「泥棒」がカメラに向かって語り始めるのとで映画の作り手の存在が突如強まる。映画の後半、例えばベルティルが刑務所から電話しても繋がらずしょんぼりしている時、バルボラが今どうしてるのか教えるなんてことはドキュメンタリーの中ではあり得ないわけで、言い古された疑問だけど、彼女のパートナーのオイスタインが口にする「大事な友人の傷跡を描くだなんて躊躇はないの?」が映画自体に降りかかってくる。しかし手のみの写真を撮らせたベルティルが(私ならあんなこと、躊躇するだろう)「手は人生を語ると気付いた」とバルボラに伝え絵に満足するように、「芸術」とはそういうことを引き受ける人々によって作られる…いや作られるべきと言っておこうか…ものなんだろう。彼女は「美がなければならないというルールがある」と言うが、監督も何かがあると思ったから映画を作ったのだろうか。
冒頭のニュースにおける「泥棒は大抵額ごと盗んでいくが、彼らは短時間で200本もの釘を抜いて絵だけ持ち去った」と中盤のベルティルの「大工をしていたことも話せばよかった(バルボラは人の暗い面ばかりに興味を持つから話せなかったとの含意。出所後にネットで出会った女性にはかつて自分で作った小屋を案内している)」のナレーションが引っ掛かっていたのが、最後に二人して絵を額装するのに釘をうつ場面でいわば収拾がつく。私はそれで終わるのかと思ったけれど…最後に明かされる作品に、芸術家というのは大胆なものだと胸を打たれた。
「獣医の指導のもと安全に撮影しました」との文のあと、予告編にも使われている、ミンサン(ユ・ヘジン)が持ちビルの自宅から出勤する際いつものように犬のうんこを踏む場面で映画が始まる。コメディふうにだけどもまずは犬を飼うことの大変さが描かれる。うんこの話から、歯磨きが必要なこと、何でも食べてしまうこと、安楽死の問題まで。保護施設のプレートに書かれた日付は二週間後の安楽死の予定日だとも。犬の装身具に怪我した箇所を保護する役目もあるとは知らなかった。
ヒョン(イ・ヒョヌ)がカップラーメンを食べ終わり場を離れると引き取った犬のスティングが容器を舐めており、そういや餌をやっていなかったと気付く。食べてないなら言ってくれと思わず口から出てしまうが、犬は人間と話せないのであって、後にミンサンに対して動物病院の院長ジニョン(キム・ソヒョン)が言う「犬の飼い主が一番聞きたい言葉は愛してるじゃなく『苦しいよ』」が大きく響く。話せる人間同士でも、「捨てられた」子どもの心の内を知るのは難しいということも描かれる。
群像劇の形だけども話の柱は明らかにミンサンで、犬嫌いの彼が犬を愛するようになるというありがちな過程に色々なドラマがある。仕事のプレゼンの場で急に話を振られ、ビルの人達とのやりとりから犬と一緒に楽しめる施設の開発をひねり出すのがまず楽しい。考えを変える切っ掛けが「富裕層は海外に行くのだから彼ら向けのリゾートなんて国内には不要」と気付かされてというのも、はっきり言う映画やドラマは見たことがないから面白かった。
考試院に住み宅配のアルバイトに明け暮れるジヌ(タン・ジュンサン)に、著名な建築家のミンソ(ユン・ヨジョン)が「青春時代は貴重なのに、若者が生活のために一日中働かなきゃならないなんて大人として申し訳ない」とチャンスを贈るのが作中最も心に残った。保護犬を引き取るにも限りがある、引き取れない場合もある、でも出来る人が出来ることを、そしてそのことに責任を持たねばという話である。
TIFF/NFAJクラシックスの映画監督吉田喜重特集にて、愛知県が企画したビデオ作品二本を観賞。制作は1992年・1993年。
愛知県各地に存続する祭事を記録したドキュメンタリーなんだけど、始まって数分で、これらは全て「作り物」なんじゃないかとの思いが湧き上がってきて、映画ってそういうものだよなと面白かった。素朴な精霊信仰がやがて芸能へ…といった解説も内容に関係なく嘘のように聞こえ、自分の脳内の記憶から遠いものほど準備された光景に見える。聖なる水を一人汲みに行く花太夫の男性が祭りの翌朝、妻に一人ぶん淹れてもらったお茶を飲む、喉がごくりと鳴る音が幾度も響くのが何とも異様だった。
私が幼少時から毎年行っていた祭りも取り上げられているが、かき氷を食べて花火を見る子どもや参道からちょっと移動すれば存在した90年代らしい街並みが映るわけでもなく、いつの世も同じ祭りの「本体」(この言葉、こうして使えばいいのかという気付きを得た)だけが残されている。最初と最後に挿入される光景は、徒歩圏内の祭りなのに私の与り知らない場所で、確かに川辺の葦という、祭りの本質に関わる部分なんだけど、人はもうそこから離れているし、これが彼の映画なんだなと改めて思った。
それもまた「本質」を残すためなのだろうか、「観客」には女も少し映されるが本当にどこもかしこも男ばかりだな、スタッフも名前からの推測だけど全員男だなと見ていたら、祭りにおける剣の舞は普段虐げられている農民が唯一刀を手にできる機会であったとのナレーションが入り、そうしたことはなかなか女のところまで降りてこないものだなと考えた。実際にその時を生きる者にとっては本当に歩みが遅い。だから昨年訪れた祖母の故郷の村上大祭で、唯一女性が「上」に乗っていた屋台が嬉しく手を振って写真を撮ったんだった。
東京国際映画祭にて観賞。2024年スペイン/オランダ/フランス/台湾/ギリシャ/アフガニスタン(撮影はギリシャで行われたそう)、ロヤ・サダト脚本監督作品。
1978年のアフガニスタン、「革命の犠牲者」の娘として裕福に暮らす共産主義者のスラヤ(モジュデー・ジャマルザダー)とその家の使用人の娘でムスリムのシマ(ニルファル・クーカニ)。スラヤが受ける「キューバの国際法」の講義を受け持つ女性教授は「世には二つの階級が必ず存在する」と言うがその場に労働者階級の学生は一人しかおらず、家族や村人達が政府に殺されたから調べてほしいという彼女の頼みを受け入れないスラヤはシマの父に本当のことだと進言される。立場によって見えないものがあるから互いは互いを補い合わねばならない。スラヤとシマが車の前の座席に並んで大学へ向かう画はそのことを表しているように思われた。
見終わって、何て現実的な映画だろうと驚愕させられる。描写がリアルというのではない。例えばシマとワハブの婚約を知ったスラヤが言うことには「音楽を続けるの、今はよくてもそのうち許してくれなくなるかもよ、彼は厳格なイスラム教徒だし、男には仲間内でのプレッシャーがある」。結婚したシマが言うことには「前はこのお屋敷で料理してたけど今は夫のためにしてる、同じようなもの」。女性の権利を考える上でよくよく出てくるこれらの問題に、この映画は辿り着かない(念のために!言っておくけれど、そうした問題を軽んじているように見えるわけでは決してない)。最後にスラヤがシマを車の隣の席に乗せるのは彼女と夫をレジスタンスの潜む山まで送り届けるためだ。「私のスーフィズムは政治と関係ない、愛なんだから」と言っていたシマが「100年前のイギリスの銃」を手にとることになる。
スラヤが車を尾行されながら政府筋のアルカの元を訪ねると彼女は出国の準備をしている。「家族皆で国を捨てるの?」「死んだら元も子もない」。しかし国を出て行ける者とそうでない者がいる。このあたりからの展開や撮り方に韓国映画を思い出していたら…尤も韓国のこのような映画に出てくるのはほぼ男性だけども…後で映画祭の公式サイトを見たところ監督は韓国で映画を学んだのだそうだ。「政府が国民を殺す国」なんてセリフや、今現在をも強く訴えるだけでなくいかに多くの国がアフガニスタンを蹂躙してきたかが描かれているところもまた韓国の映画やドラマを思わせた。