ポンコツ山田.com (original) (raw)
5巻が発売された『BLUE GIANT MOMENTUM』。
若手ジャズマンの登竜門であるインターナショナル・ジャズ・コンペティションに参加したダイは無事デモ審査を通過し、二次予選の舞台に立つべく、長距離バスに23時間揺られ、晴れてセントルイスの地を踏みました。
13人の二次予選出場者には、アマチュアながら既に名の売れている者もいれば、父に著名なテナープレイヤーを持つ者もいる。唯一の女性プレイヤーや唯一のラティーノプレイヤー、車椅子のテナーマンなんかもいる。誰も彼もがデモ審査を通過した強者だらけの中で、ダイはどんなプレイを見せるのか、というのが5巻なわけですが、この巻の感想は、「面白い」というより「かっこいい」でした。いずれ劣らぬ若手プレイヤーの中で、堂々と、悠々と、そして傲岸不遜に立つダイの姿が、とてもかっこよかったのです。
思えばこのNY編、というかアメリカ編からこっち、ダイの行程は山と谷で言えば谷ばかり。アメリカの広さ、人の多さ、物価の高さ、そしてジャズシーンの壁の高さと厚さに、さすがのダイといえど参ることもしばしばで、行く先々で出会う人々の心に強烈な印象を残しはするも、アメリカの広大さに比すればそれは、闇夜の砂漠で点々ととろうそくを灯すようなもの。鬱々とした空気をぶちぬいてスカッとさせるところにはなかなかいけません。
でも、ついに掴んだこのIJCのチャンス。ジャズシーンへの参入の意味でも、バンドの財政の意味でも、ここで優勝する影響はあまりにも大きい。逆に言えば、ここで失敗すれば、今後のバンドの活動すら危ぶまれかねないほど。苦しい中で空からたれてきた蜘蛛の糸を掴んで登っていったのに、上まで登り切る前に切れてしまえば落ちたときの衝撃は低いところからのそれとは比べものになりません。たとえダイの心の糸は切れずとも、NYで待っているゾッドやアントニオの糸はどうでしょうか。つかみ損ねたチャンスとお金は、貧しい中で苦闘する人間には、本来以上に眩しく見えてしまいます(ジョーは酒さえあれば誰がどこでどうなっても変わらないでしょうが)。
そんな崖っぷちの中でコンペに挑むダイは、上に書いたように、まるで自分のバンドのライブかのように堂々としていて、他の出場プレイヤーの演奏を楽しめるくらい悠々としていて、なにより、自分が勝つと疑わずに面を上げつつづける姿が傲岸不遜。そんな彼をかっこいいと言わずしてなんと言いましょう。
しかし、そんなダイのかっこよさを際立つのは他の参加者たちがいるからです。
レジェンドテナープレイヤーの息子であり、その重圧を感じた上で自分のプレイを磨いてきたスコット・エリングJr。
男を超えるためにではなく、女性である私が私らしく吹けばいいと胸を張る唯一の女性参加者、ニーナ・ファウラー。
子供の頃の事故で一生車椅子生活を余儀なくされながらもサックスを手に取り、パワフルでいて愛嬌のあるステージを見せたボビー・マクローリン。
アントニオに負けず劣らずの困窮下でずっとサックスを吹いてきた、誰よりも切迫した音を出すラティーノ、ディエゴ・アルバエス。
他のプレイヤーの圧に晒されながらも、それをヒントに直前まで自分に演奏する曲の構成を練り直す、高い技術と臨機応変のアイデアを持つノア・デュベール。
そして、リーダーアルバムこそ出していないものの既に各方面から高評価を得ていて、下馬評でもトップに付けている、実際に審査員も客も他のプレイヤーも唸らせる演奏をしたジーン・ヘイデン。
当然彼や彼女にもこのステージで演奏できるだけの能力があり、このステージに立てるだけの能力を培ってきたバックボーンがある。そのバックボーンを限られたページの中で的確に描くから、彼や彼女のキャラクターが立ってくるし、それらとはまるで違うダイの姿がより際立つのです。
コンペの大本命であるジーンは、登場したそのときから堂々とした姿を見せていました。自分がこの中で一番うまいに違いない。そう確信している、余裕のある姿です。
ダイの堂々とした姿は、ジーンのそれとは少し違います。堂々として悠々としているダイには余裕も見えますが、それもやはりジーンと違うのです。何が違うように見えるのかと言えば、ジーンのそれは彼自身の確信に端を発しているものであり、ダイのそれは、ディエゴの言葉を借りれば、「ずっとずっと前に決まっていた結果」に端を発しているものだということ。
チープな言葉を使えば運命というやつですが、ダイの見せるその堂々として、悠々として、傲岸不遜な姿は、その運命とやらに導かれているかのように、あるいは運命の確信の下にその場にいるかのように、とてもスペシャルなものを感じさせるのです。
ダイ自身は、自分が運命に導かれているなんて思ってもいないでしょう。そんな超自然なものではなく、ジーン同様、自分自身を信じて日本からヨーロッパへ、そしてアメリカへと渡ってきたはずです。もちろん私自身、運命なんて三文安い言葉でダイの成功も挫折も語りたくありません。でも、ゾッドが「回り道こそ最強だと言わんばかり」と表現するように、他の人間ならとてもじゃないけど選ばないような道のりを歩き続けるダイの姿には、運命、というより運命的なスペシャルを感じます。これは、そう感じさせる物語なのです。
コンペ二次予選も終わり、いよいよ次巻はコンペ決勝。ダイは優勝して、バンドにチャンスとお金をもたらせるのか。でもそれは、優勝という結果そのものよりも、その過程である決勝ステージでのダイのプレイがもたらすもののように思えてなりません。二次予選の評価が割れたように、決勝のダイのプレイが審査たち員に全肯定されるとは限りませんが、それが良いものであれ悪いものであれ、非常に大きなインパクトを残すに違いありません。そう、とてもスペシャルなやつを。
そんなスペシャルを早く見たくてたまらないぜ。
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ここは作家が集まるネットの通話コミュニティ。プロアマ問わず、作家なら誰もが参加できる通話ルームがいくつもあるけれど、その中の一つに、「キーワード怪談」が流行っている部屋がある。参加者がキーワードを一つずつ挙げ、それらを元に誰かが即興で怪談を作る「キーワード怪談」。即興で生まれた怖さの奥には、語った当人でさえ意識していなかったこころの部屋がある。そこにいったい何があるのか、それが知りたくて今日も誰かは怪談を語るのかもしれない……
ということで、現在ジャンプ+で連載中、雨夜幽歩先生の『こころの一番暗い部屋』のレビューです。現在ジャンプ+で連載中の作品の中で、五指に入るお気に入りの本作。待ちに待った単行本発売です。
本作は冒頭の通り、「キーワード怪談」をネット越しに語り合うという体裁。
ホラーの一ジャンルとしての怪談、すなわち、自他問わず誰かの身に起こった怪奇体験を語るという作品形態なわけですが、キーワード怪談は即興で作るものであり、その意味で、創作であることが初めから明言されているようなものです。でも、創作だから怖くない、実体験じゃないからつまらないなんてことはなく、適切な語り口と想像の枠からはみ出ていくストーリー、そしてそのお話の中で登場人物(怪談の当事者)が何をどう感じているのかということが丁寧に語られれば、お話にどっぷりと入り込んで、えもいわれぬ恐怖を味わうことができます。
たとえば、幼少期に大きな岩に魅入られかけた話。
たとえば、交差点を写す定点カメラで見かけた怪しい女の話。
たとえば、小学校で流行った男子のいたずらがエスカレートしていく話。
たとえば、子供が巣立っていく大家族で最後に残ったものの話。
いずれも、聞く者の心をそっと逆撫でて、波紋を深く残していく話ばかりです。
でも、本作の特色は、怪談が語られたその後です。本作の主人公にして、このトークルームの常連である売れないホラー作家の朱雀奏、通称「かな」や、同じく常連の「なな」が、語れた怪談を聞いた後に話す感想。それこそが、本作をただの怪談漫画から外れたものにしています。
「かな」や「なな」は、語られた話をちゃんと怖がります。その上で、その話の奥にあるものを感じ取ります。キーワードから即興で考え出した誰かの創作怪談の奥にある、怖さ以外のなにかを。
比喩的に言いましょう。
キーワード怪談を語るとき、語り手は聞き手を、恐怖が待つ部屋に案内します。そこには語り手が用意した、聞き手を怖がらせるためのお話が待っています。行ってみればお化け屋敷。聞き手はそこでワーワーキャーキャー怖がります。でも、よくよくその部屋を見れば、まだ奥に通じる扉があるのです。その先は、こころの一番暗い部屋。語り手自身も、そんなところにそんな部屋があるなんて知らなくて、何があるかわかっていません。だってそこは一番暗い部屋だから。何があるのか見えないから。
その扉を見つけた「かな」たちは、部屋の中に感想という名の光を投げかけるのですが、そこで見えてくるものはなんなのでしょう。
たとえば、自分の未来を良くも悪くも狂わせてしまった鮮烈な体験。
たとえば、自分は世界から切り離されているのではないかと苛んでくる強迫的な孤独。
たとえば、あのとき言ってしまった言葉と見つけられなかった言葉の後悔。
たとえば、あたたかなものに憧れて、でも離れていってしまう寂寥。
キーワード怪談を語った人たちは、「かな」たちの感想を聞いたときに、初めてそれらが見えてきた。確かに自分の心の中にあるのに、まるで見えていなかったそれらが。
恐怖とは、未知です。人が何を怖がるかと言えば、自分の知らないもの、自分にわからないもの、自分にはどうにもできないものです。知覚も理解も干渉もできないものに出会ったとき、人はそれに己の意を通ずることができず、恐れ慄くのです。
その意味で、恐怖とは未知の表層に現れたテクスチャー。それを剥がせば下からは、自分の知らないもの、自分にわからないもの、自分にはどうにもできないものが現れてきます。「かな」たちの感想は、テクスチャーに切れ込みを入れるのです。
そして現れたそれは、「かな」の言うところの「肉声のようなもの」。
怖い話って 正直嘘じゃんって思うものも多いじゃん
でも時々 あ この部分『ほんとう』だ、って確信する事があるんだ
実際に起こった事って意味じゃなくて その人の心の中での真実…っていうか
(1巻 p45)
知らないのに、わからないのに、どうにもできないのに、心の一番奥の部屋で鎮座しているもの。
知らないからって、わからないからって、どうにもできないからって無視して放り投げることもせず、見ないようにして心の奥底に置いておかざるを得なかったもの。
それから生じた話を聞いたときに、感受性の鋭い「かな」のような人間は、物理的な感触にも似た手触りがごとき「肉声のようなもの」を感じ取り、それがその人の「ほんとう」なのだと看取するのです。
「かな」や「なな」の感想を聞いた怪談の語り手たちは一様に、まさにその感想がどのように作用して、今し方自分で語った話を生み出すに至ったかの心の機序を自ら辿ります。それはあたかもカウンセリングやセラピー。あることも気づいていなかった扉を開けて、その中に何があるのか、自らの目で見るのです。
未知のものが怖いのは、それが未知だから。同語反復ではありますが、そこから抜け出すのはある意味簡単。知らないから怖いのなら知ればいい。目を逸らしていたものを見てやればいい。暗い部屋に光を当ててやればいい。
でも、その部屋に行くには、まずその部屋の存在を知る必要がある。扉を指してもらう必要がある。たとえばそう、誰かに自分の怖い話を語ることで……
てなもんで、ただ怖いだけにあらず、もう一ひねりして、その怖さがどこから生まれたのかを考えることで人の心の複雑な部分に触れることのできる本作、かなりのおすすめです。
shonenjumpplus.com
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登録者数130万人。同時視聴者数1万人。ネットで彼女の名前を見ない日はなく、ライブをすればチケットは即完売。そんな今をときめく企業所属VTuber草村しげみだが、彼女には零細個人VTuber時代を支えてくれた古参視聴者がいた。その名はナナシノ(ユーザーネーム)。登録者第1号として彼女の成長を見守っていた彼は、今やトップVTuberとなった草村の成功を喜びつつ、古参ぶってうざいファンになってしまわないよう弁えた応援を続けていた。しかし当の草村は、ナナシノとの距離感を個人配信時代から変えず、彼が視聴を始めれば大喜びで挨拶し、コメントにはいちいち反応し、アンケート企画にはチョ●ワやイ●イレもビックリの不正を働いてナナシノの意見を通し、挙げ句の果てにはナナシノのSNSを監視してその動向に一喜一憂する始末。草村とナナシノの明日はどっちだ……
ということで、さかめがね先生の『草村しげみ ~遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話~』のレビューです。
本作はさかめがね先生がTwitter上にアップした単発の話(後の第1話)が反響を呼び、そこから話数を重ねて、気がつけば単行本化というシデレラストーリーまっしぐらの作品。その人気ぶりは、作者本人のTwitter以外には掲載されていないにもかかわらず次に来るマンガ大賞2024web部門で3位入賞、さらには単行本化というエピソードからもうかがえます。
この作品の面白さは、大人気VTuber草村しげみと、その第1号登録者ナナシノの両片思い、と呼ぶにはあまりにも不釣り合いなクソデカ感情すれ違いコメディ。
かたや草村の最初のファンだけどそれを鼻にかけず一視聴者として応援するナナシノ。かたや最初に自分を見つけてくれたナナシノを神と崇めストーカーばりの粘ちゃ……大きな愛情を寄せる草村しげみ。普通逆だろと思う好意と節度のアンバランスが、
他のリスナーからのコメントに反応しながら配信をしていたのに、ナナシノが視聴を初めてコメントをした途端、大喜びして直接彼に向けて挨拶をする草村。犬だったらちぎれそうなしっぽが見える。そんな不公平な態度を心配したナナシノが「視聴者個人をかまうのよくないんじゃない?」と恐る恐るコメントすれば、ショックを受けて一気に落ち込む。落胆した草村の様子に他のリスナーは心得たもので、ナナシノさっさと慰めろとコメントで囃し立てる。悪ノリコメントに耐えられず、ナナシノがフォローのコメントをすれば、草村は再びテンション爆上がり。トランプに振り回される株価でもこんなに乱高下しないぞ。
とにかくナナシノが絡めば脇目も振らず大暴走する草村。アンケート結果を改竄する。他のVTuberのチャンネルに出たときでもナナシノの名を叫ぶ。ナナシノの名を呼ぶボイスを無許可で販売する。バレンタイン企画で明らかにおかしいサイズのチョコを作る等々……やりたい方題するし、そんなナナシノに大暴走する草村が大好きなリスナーたち。そんな幸福な空間がとても楽しいのです。
また、この作品は基本的に、現実世界のナナシノが画面の中のVTuber草村を画面上のコメント込みで視聴している、という体裁なのですが、そこで流れている無名の視聴者のコメントがまたよい。普通のコメントに、ネットミームや、オタク文法に則ったオリジナルコメントが混在しているのですが、それらがアレな草むらに対する適切なツッコミになったり、場を盛り上げる囃し立てになったり、ナナシノをけしかける悪ノリになったりと、コメディを成り立たせる要因となっています。「(玉に瑕の)傷が大きすぎてパックマン」すごい好きだったんですけどね、著作権的にアレがコレで、単行本では変わってますね。あと、コメントじゃないけど、VTuber泥猫シフの「ロゼッタストーンみたいな物体を延々とかじってたニャ」も好き。是非話の流れ込みで見てほしい。その手のコメントや台詞の切れ味がたまらない。
1話が短くさくさく読めるのもいい感じ。第1話を読めば関係性が一発でわかるので、まずは是非そちらをどうぞ。
VTuber草村しげみ~遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話~ 第1話 | さかめがね
https://comic.pixiv.net/works/11633
ポップカルチャーの帝王。全米ナンバーワンラジオ局のオーナー。アメリカの選挙戦を一変させた男。カンザス州一の大金持ち。奇想天外なアイデアマン。エネルギッシュな煽動者。
数々の肩書と異名を持つ彼だが、何よりふさわしいのはやはり、もっとも著名な偽医者で稀代の詐欺師。それが「ヤギの睾丸を移植した男」、ジョン・R・ブリンクリーである。
ヤギの睾丸を人間の男性の陰嚢に移植すると、回春、健康増進、不老長命と、あらゆる健康に効果があるのだ!
今を生きる私たちが聞けば、一笑に付すどころか言い出した人間の頭を心配するような話だが、1920年代のアメリカ人にはたいそう魅力的に聞こえたらしい。それを信じ込ませるほどの弁舌、バイタリティ、圧しの強さ、こう言ってよければ、清濁併せた人間的な魅力がこの男、ブリンクリーにはあった。
そんな彼の怪しい魅力と波乱万丈な人生が描かれたドキュメンタリーが本書だ。
1885年に、アメリカ合衆国南東部にあるノースカロライナ州の寒村から始まる彼の人生だが、20歳そこそこで地元を飛び出した彼の経歴は演劇じみた薬売りから始まり、すぐにインチキ医療へと染まっていく。その間にもディプロマミルで学位を取得し、徴兵された軍隊は詐病で解雇され、重婚し、詐欺行為により逮捕・収監されるなど、ある意味華々しく彩られていく。しかしそこで見えてくるのが、己の欲望に忠実に生きる彼の姿だ。お金が欲しい。肩書が欲しい。面倒くさいことはしたくない。パワフルに、ダイナミックに、そして狡賢く、人の弱みや組織の脆い部分につけこみ、我が道をひた走る。
彼が初めて睾丸移植手術に手を出すのが1917年のこと。プラシーボのなせる業か、人を丸め込む流暢な弁舌のせいか、はたまた本当に効果があったのか、回春を謳うこの手術は大変な評判となり、わずか数年でブリンクリーにひと財産と名医の肩書を与えたもうた。
当時のアメリカには、睾丸移植手術のみならず様々なインチキ医学が吹き荒れていたのだが、まっとうに医学を修めた人々も指をくわえて見ていただけではない。インチキ医学を撲滅しようと行動していた人もいて、その筆頭が、本書のもう一人の主人公ともいえる医師フィッシュベインだ。
彼自身も、ただ義憤に燃える正義の医者などというステレオタイプな人間ではなく、偏執的にインチキ医療を憎み、それを滅するために周囲の迷惑も顧みない行動も辞さない、型破りな男だ。
そんな彼にとって、害悪な手術を行って患者を傷つけしかも大金をせしめているブリンクリーは、なににも優先して叩き潰すべき敵だった。フィッシュベインこそ、この本をブリンクリーの波乱万丈な人生の紹介に終わらせず、当時のアメリカにはびこるインチキ医学とそれを許した社会的土壌を教え、さらに、ブリンクリーとの対決というドラマチックな構図を与えた立役者なのだ。
さて、その構図から少し外れたところで、ブリンクリーがただのインチキ医者にとどまらないエピソードに多くの紙幅が割かれている。すなわちブリンクリーは、創生期のラジオ界で一時代を築いた男であり、選挙戦の在りようを変革した男でもあるのだ。
1920年代にアメリカで萌芽しつつあったラジオ放送に一早く目を付けたブリンクリーは、やはり目端が利く男というしかないのだが、当局から許可を取りラジオ局を開設した彼は、得意のさわやかで流暢な弁舌で自身のクリニックの宣伝を行い、リスナーから心身の不調を募ってはそれにラジオで回答し(そして自身が実質的なトップである薬局グループで不当に高額な薬を買うように唆し)、また、リスナーが楽しめる音楽番組も数多く手掛ける。
それを大成させたのは、30年代前半に彼がメキシコに建設したラジオ局だ。テックスメックスやヒルビリーと呼ばれる、当時まだマイナーだった地方音楽を、100万ワットという当時の地球上で最強の出力でアメリカ中に響かせ、20世紀中盤のカントリーミュージックの興隆に大きく貢献したのだ。その功績から、彼は「ポップカルチャーの帝王」と呼ばれる。
また、実は彼はカンザス州の知事選にも出馬している。本書の冒頭で書かれている、ブリンクリーの医師免許剥奪を決める1930年夏の公開手術の直後(すなわち彼の医師免許が剝奪された直後)、彼は、不当にも自分の医師免許を剥奪したカンザス州の医療委員会を改革するためには知事にならねばならぬと、一念発起したのだ。
選挙がたったの二か月後に迫っている中で、政治家経験が一度もないまま選挙を勝ち抜くためにブリンクリー思いついたこと。それは選挙戦の興業化だった。
それまでは、地域を回っては退屈な演説をするのが常だった遊説活動に、派手な舞台、ミュージシャンによる演奏、芸人による賑やかし、そしてブリンクリーが飛行機で駆けつける目新しさに、地方の有権者たちはいっぺんに飛びついた。当然、彼が持つラジオ放送もフルに使い、毎晩有権者がどこへいようとも、彼らの傍らにあるラジオから自分の名を売り続けた。これまでの政治家が考えもしないようなアピールをしていったのだ。
最終的には、3人の候補者の中での最下位に終わったものの、当選者が約21万7100票、次点が21万6900票、そしてブリンクリーが約18万3000票と、大健闘をしている。しかもこれは、州の選挙委員会が彼の当選を阻止するため、まったく民主的ではない嫌がらせ*1があっての話なのだ。
当選者と次点の者の投票数がこれだけ迫っていれば、次点の者が数えなおしを要求しそうなものだが、再集計により、いったんはスペルミスなどで弾かれていたブリンクリー宛の投票が、まかりまちがって上積みされてはたまらないと素直に結果を受け入れたというのだから、ブリンクリーのポピュリズムがどれだけ恐れられていたかわかろうというものだ。
底を知らぬバイタリティと、前代未聞の発想力で、睾丸移植の偽医者として、薬局グループのトップとして、ラジオ局オーナーとして活躍していた彼は、当然、一代で稼いだ者としては類を見ないほどの大金持ちとなった。テキサス州には、彼が建てた大邸宅が歴史建造物として今なお残っている。
しかし、いくら名声を得ようと、少なくとも医師としての彼は、本質的にインチキいかさま紛い物。奇跡の手術の評判の影には、数え切れないほどの犠牲者がいた。そんな彼に鉄槌を下すべく、牙を研ぎ続けてきたのが我らがフィッシュベイン。1938年にフィッシュベインが、ブリンクリーを手ひどく糾弾する記事を発表したことをきっかけに、名誉棄損で訴えられた。
法廷での二人の対決こそが本書のクライマックスだ。その結末がどうなったかは、ここでは書かない。ただ、4年後の1942年、ブリンクリーは56歳でこの世を去った。その死に際がどのような様子だったかは、ぜひ本書を読んで確かめてほしい。
一人の人間を微に入り細に入り紐解いていけば誰しも、面白い話の一つや二つ出てくるものだろう。だが、ここまで生涯にわたってエピソードが盛りだくさんの人間はそういない。
でたらめ手術で多くの人の体をむやみにいじくり、インチキ薬で害悪をまき散らし、ラジオを通じてポップミュージックを盛り上げ、選挙戦を新しいエンターテイメントに変えた。彼がただの偽医者ではなく、一冊の本の主題に足る人物であるということはまさにこの本を読めばご理解いただけるだろう。
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*1:本来、投票は投票用紙に記載されている候補者の名前に〇をつけるのだが、投票用紙に名前が記載されていない候補者(すなわち他の2名より遅れて立候補を表明したブリンクリー)に投票する場合は、投票者自ら彼の氏名を書かねばならず、しかもスペルミスがあればその投票は無効だとするルールを、投票日のわずか3日前に突然提起した。なお、この嫌がらせに対しブリンクリーは、自身の名前のスペルを覚える歌をラジオから流して対抗した
先日発売しました『ルリドラゴン』3巻。
読むたびに他の作品ではあまりない不思議な感覚を味わっているのですが、それがなんだと考えてふと思い当たったのが、感情表現のあけすけさ、素直さとでも言うべきものなのかなと。
それがどういうことかと言えば、楽しいときには笑い、悲しいときにはべそべそし、怒りたいときには頬を膨らませるように、キャラクターに生じている感情があけすけに表されている、ということです。当然どんな作品だってキャラクターに感情はあり、それが読者に伝わるように描かれているわけですが、その描写に過剰な演出や外連味がなく、さらりと軽やかに描かれていると感じるのです。
換言すれば、キャラクターに渦巻く感情を最低限度にしか整えずに描いている、ともなります。感情に理由はあっても理屈はいらない、とでも言いましょうか。
感情の理屈、理路、機序、因果。そういったものは存在しているにせよ、そこを言葉できれいに整理しすぎては生々しさが減ってしまうので、十全な理解や解決を見いだせるような言葉にしない。あえて高校生らしい未熟さ、感情に振り回される不安定さを残す。未完成にしておく。余地を残す。そんな、まだ未来に向けて変化が開かれているような未整理の状態。それを感じます。
3巻収録の21話では、陰口や面と向かっての悪罵をしてきた蒲田への意趣返しのため、ルリが自らの角を折る、なんてことをしていますが、これなんか本当に、後先を大して考えていない稚気溢れる仕返しです。創作物で見られる、洗練されたぐうの音も出ない報復ではなく、いきあたりばったりでとりあえずやってみっか精神による仕返し。すごく整ってないですよね、いい意味で。
やはり3巻収録の16話にはこんなコマがありました。
(3巻 23p)
ここに書かれている言葉のとおり、まさに人間の感情は「一本の線で繋がって」いるような筋の通ったものではなく、「同時に色んな感情が共存して そうやってアンバランスなまま繋がって」いる、いびつですっきりしないものなのです。
これは、本作と同日に最終巻が発売された『正反対な君と僕』が、キャラクターの感情の動きや内心を非常に丁寧に言語化しているのと比較すると対照的でしょう。
主人公の鈴木や、裏主人公ともいえるほどに内心が描かれていた平は、自分の感情や他人への思いを自問し、自答し、読者にも理解しやすい筋の通った理屈で内心を言葉にしています。それこそ、高校生がそんなに言語化をうまくできるものなのか? とビビってしまうほどに巧み。
軽やかさというより重厚さ。素直さというより複雑さ。『正反対な君と僕』は、まるで細密画のように細かく感情の理路を追っています。
その比喩で言うと、『ルリドラゴン』の感情の筆致はとても無垢。思うが儘に撫でつけた筆がキャンバスで踊るよう。無論、本当に無垢ではありません。思うが儘ではありません。もしその通りだとしたら、作品は人に伝わりません。伝えられません。最低限、伝わるように整理している。筆のラインを調整している。でも、それを丁寧にはしすぎないようにしている。「同時に色んな感情が共存して」「アンバランスなまま」を保っている。
この整いすぎない感情表現は、カトウハルアキ先生の『ヒャッコ』でも感じたことのあるものでした。
yamada10-07.hateblo.jp
この記事では笑いの構造という点を書きましたが、読み手を第三者に置かない(=同じ作品世界に参与する者としてみなす)ように「笑い」を描くという日常性の演出には、現実に人間は感情をそう上手く整理して言葉にしないという意味で、『ルリドラゴン』にも通じる感情表現の素直さを覚えますね。そう、『ルリドラゴン』にも、(ドラゴンがいるくせに)読者の世界の延長にあるような日常性が備わっているように思います。
日常系と称される漫画やアニメのカテゴリーがありますが、それは日常的な出来事を淡々と描く作品群が属するとされます。『ルリドラゴン』も、人とドラゴンのハーフであるルリが生きる日常という意味で日常系(彼女は火や雷や毒を出しますが、そういう人間が生きている日常)と言えるかもしれませんが、それ以上に、キャラクターやその感情の表れ方が日常的、すなわち読者の日常の延長にあるような自然さを有しているという点でこそ、「日常系」なのかもしれません。
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推し。
いつの頃からか私たちの生活に入り込んできたこの言葉。アニメ、漫画、ゲームといった二次元のキャラクター。アイドルやスポーツ選手といった三次元だけど遠くにいる人。果てはお店のスタッフや友人でといった身近な人まで、人は誰しも一人は「推し」を持っているのではないでしょうか。
推しがいるだけで人生が豊かになる。推しがいれば嫌なことがあっても忘れられる。推しはまだガンには効かないがそのうち効くようになる。
そう、人は無条件で愛するものがいると、それだけでQOLを爆上がりさせられるます。
本作『推しをカタチにする仕事』は、アニメや漫画などのキャラグッズを企画する会社で、推しを愛しすぎるあまり理性のブレーキを取り払ってしまった奇人たちが、人類を愛で救うべく大暴走したあげくになんとかギリ常識の範疇に収まるグッズを作り上げる推し活応援コメディなのです。
主人公は企画営業部で新入社員の津家若葉(つけわかば)と、その指導社員の度越大好(どこしだいき)。
(1巻 7p)
この2コマを見れば先輩社員の度越がクレイジーな後輩の津家に苦労しているだろうなというのがわかりますが、もちろんグッズ製作会社に勤めている度越もまともであろうはずもありません。
(1巻 12p)
お、やべえやつだな?
まあ指導相手である津家がこの調子なんですから、やばい人間でないと相手もできないでしょう。
(1巻 10p)
輪をかけてやべえやつだな。
試し読みできる第1話はこの津家発案「鉄アクスタ」をいかにグッズ化するのかという話。正気か? もちろん正気じゃないんですが、津家にしろ度越にしろ万事この調子で推しへの愛がほとばしり、濁流となって理性を飲み込み、やべえアイデアをやべえと気づけず、気づけてもその代案がまた別方向でやべえことにまた気づけず、あらぬ方向へ突っ走ります。
愛は盲目とは言いますが、向こう見ずに暴走したあげくのアイデアが内輪の外に受け入れられることはそうそうなく、社内のデザイン部や企画生産部などの他部署、キャラグッズの許可をくれる版権元、実際にそれを作る制作会社たちに正論という名の冷や水をぶっかけられるまでがワンセット。ああ、人は何かを愛しすぎるとここまで周りが見えなくなるのだなと、過剰なまでに教えてくれるのです。
とはいっても、たまにその暴走アイデアが外で認められることがあるから始末に負えない。万に一つの成功体験が悲しきラブモンスターたちの心をむしばみ、今度はいけるか?と見え見えの崖に向かって今日もフルスロットルで突っ込んでいくのです。
美少女チャンバラ用高速回転フィギュア。
子供が泣き叫ぶレベルのキャラなりきりパーカー。
15mアクスタ。
サッカー漫画のキャラ生首ボール等々。
これが......愛…………?
彼らはアイデアの屍でできた山がいつか天に届くと信じているのでしょうか。
と言いながらも実は、意外に作中でカタチになっているアイデアも多いのです。やべえのは会社もだったようだな。まあこんなやつらが勤めている会社だしな。
こんな具合で、特級呪物レベルの推しキャラグッズを軸に、1ページの中にボケとツッコミがこれでもかとつめこまれて、ツッコミ自体にもまた別のツッコミがかぶせられてくるのものだから満足感がひどい、いやすごい。
(1巻 7p)
(1巻 10p)
(1巻 14p)
ほらひどい。
もちろんひどくてやべえのはこの二人だけじゃなく、強く言われるとすぐに流されるデザイン部の押切康(おしきりやすし)、どんなアイデアでもGOサインを出すけど巧みに責任から逃れる課長の花鳥取次(かちょうとりつぐ)、好きなお嬢様キャラになりきることで激務を乗り切る企画生産部の桐花絵令(きりかえれい)と、ほかにもやべえやつが目白押し。昭和の少年漫画レベルのネーミングセンス、ほっとしますよね。これぞ少年少女向けギャグ漫画。親御さんも安心してみせられますね。そうか?
溢れねじ曲がった推しへの愛と、ボケとツッコミの怒濤の応酬が万人に開かれているかは正直自信がないですか、上のコマでクスリときてしまった方は是非下の第1話の試し読みを、そして単行本を。今なら2巻が出たばかりなのですぐに追いつけるぞ!
jumpsq.shueisha.co.jp
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本作『深淵のテレパス』は、いわばホラーとミステリのポップなマリアージュ。特に主人公ら視点の際の文章の軽妙な語り口と、それとは裏腹の、ホラー部分の嫌なものが忍び寄ってくる恐ろしさ。そして、ストーリーの中でさりげなく登場している小物や設定が終盤になって途端に意味を持って立ち上がってくる謎解き要素の快感。それらが絶妙に混ざり合ったエンターテイメント作品です。
物語は、怪現象の被害者となる高山カレンが、会社の後輩に誘われて大学で行われた怪談イベントに参加するところから始まります。あまり変わり映えしない怪談に、彼女だけでなく他の参加者も飽きだす中、桐山楓という学生が語った、怪談というにはだいぶ風変わりな話。起承転結があるわけでもなく、具体的な恐怖体験が描写されるわけでもなく、私があなたになんだか不気味な話を淡々と語りかけるというスタイルで、それがなぜか、カレンの目をじっと見ながら語られました。
ここでちょっと脱線しますけど、この桐山楓の怪談とも言えない怪談の語りが実にいい塩梅。意味が通るような通らないような、でもなんか嫌な感じだけはひしひしと伝わってくる文章が秀逸で、これを読んだときの気味悪さは、この本を読み進めようという決意を固めてくれます。
さて脱線修正。
そしてその日以降、カレンの身の回りで起きる不可思議な現象。濡れた何かが落ちる音がする、どぶのような異臭がする、足跡の形で床が濡れている……。初めは気のせいか何かだったと思っていた彼女も、現象が頻繁になるにつれ、そんなことは言っていられなくなりました。
思い返せば、怪現象が起きるのは彼女のマンションの暗いところでばかり。明かるいところで変なことは起こらない。それに気づいた彼女は、リビングから寝室からキッチンから、果てには靴箱にライトスタンドをつっこんで、あらゆるところを光で満たそうとするのですが、はたと気づくのです。今のこの状況は、怪談で桐山楓が語った内容とあまりにも符合していると。
いよいよエスカレートする怪現象に、藁にもすがる思いで彼女が頼ったのが、「あしや超常現象調査」を名乗る、芦谷晴子と越野草太の二人組。YouTubeで同名のチャンネルを運営する二人は、実際に何かおかしな現象が起こっているのならば、その原因を突き止めて、あるいは突き止められずとも現象が起こらないようにしようという、科学的な調査と現実的な対処を目的として、広くオカルトの相談に乗っています。
カレンから調査を依頼された芦谷らは快諾、すぐに彼女のマンションに行き、怪現象の調査をするのですが……と話は進んでいきます。
調査が進むにつれ、カレン以外にも、桐山の怪談をきいて怪現象に見舞われていた人間がいることが発覚、そしてその人たちは皆、一か月ほどで失踪してしまっているのです。不穏なタイムリミットを突然切られてしまった芦谷らは焦ります。行方が杳として知れない桐山楓を探せば、この現象は止まるのか。それとも彼女とは無関係に、別の何かが被害者たちを襲っていたのか。探偵やエスパーという癖のある協力者も募って、彼女らは謎を追っていきます。
迫りくる怪現象の恐怖だけでなく、なぜそれが起こるのかという謎解きが合わさり、その両者がページをめくる手を止めてくれないのです。
ホラー面をもう少し掘り下げれば、現に起きている不可解な現象は、理性的な人間の目や科学的調査をとおして描かれることで、乾いた空気を持ちながら、それゆえに「なぜそんなことが?」という当然の気味悪さを喚起し、理由があったとしても理屈が合わない嫌な感じをさせてくれます。
また、暗闇の中でだけ起こる怪現象という視覚的想像だけでなく、濡れた何かが落ちる音や、どぶのような臭いといった聴覚や嗅覚にも訴えかける表現が使われ、読み手の恐怖を重層的にかきたてます。ホラー部分以外でも、空間的な狭さや息苦しさなど、読者の体感全てに訴えかけてくるような感覚が随所にあり、没入感を生んでいるのです。
ミステリ面を言えば、各登場人物や小物や設定などが、ストーリーが進んだある瞬間にかちりとはまりこみ、物語の展開をブーストします。
あの人は実はああだったのか。あの品物はそういうことだったのか。表から見ていたものの裏側が見えたことで物語の流れが変わったり、なんでもなく登場したものに突如重要な意味が宿ったり。
巧みに配置された伏線が、あれはそういうことだったのかと気持ちよく膝を打たせてくれるのです。
そしてその二つが絶妙に混ざり合い、軽妙に快調に語られるスピーディーな展開。タイムリミットが切られたことで生まれる切迫感。特に後半に入ってからの一気呵成に読ませる力はたまりません。ホラーがあまり得意でない方でも、ぐいぐい引き込まれてしまうでしょう。
単行本で約250pと比較的お手軽なボリュームなので、ライトなホラー入門としてもおすすめ。
そして、読み終わったらぜひタイトルをもう一度見直してください。ははーんなるほどね、とニヤリとできるでしょう。
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