旗のない文学――朝鮮 / 「日本語」文学が生まれた場所 (original) (raw)

面白いな。

金達寿ら横須賀在の朝鮮人たちは、解放後すぐに旗を作ろうとして、太極旗の四隅の「卦」がわからなくて、それを覚えている古老を探しまわったのだという。

植民地の民に、旗なんかなかったんだね、朝鮮人の文学も日の丸以外の旗なんか立てようがなかっただね、

で、「そもそも、文学とは「旗」のようなものではなかった」と黒川創は言う。

そして、「緑旗連盟」と題された、実は旗なんかどこにもない植民地の民の小説について黒川創は語りはじめる。

うまいなぁ、この展開。

(その一方で、国家に抗する黒い「怨」の旗を掲げた石牟礼道子を私は思い起こす。それはそれとして、)

旗を立てる文学を強要された時代の書き手、とりわけ植民地の書き手の、

旗を立てたふりをしつつ、実は旗を降ろした文学、という困難な試みがあるわけで……

それは「転向」の問題にもつながる。

例えば、李石薫。

黒川創いわく、

「日本支配に同調したが、彼のなかでは、絶えずもう一つの霊がささやく。李は、その小さな声に耳をふさがず、記録しようとする作家だった」

あからさまに旗が立つ「短歌」のようなジャンルは?

その問いの背景には、小野十三郎、そして金時鐘が徹底的に批判した短歌的抒情がある。

現在ではハイク(俳句)は国境を越えて、アメリカ大陸やヨーロッパのさまざまな言語や生活史をもつ人々に受けとりなおされ、抒情や詩型のありよう自体も変えてきた。同じように、短歌にも転生を遂げる道筋はないのか。(黒川創

大道寺将司の俳句を、ふと思う。

棺一基四顧茫々とと霞みけり
南風や死は員数となりはつる
西日さす腐臭の淀む美し国
生類はなべて没しぬ岩清水

身を捨つる論理貧しく着膨れぬ
いにしへの死を懐かしみ年を越す

斑雪人を助けし死者の辺に
加害者となる被曝地の凍返る
風車幸多き世を生ましめよ

無主物を凍てる山河に撒き散らす
若きらの踏み出すさきの枯野かな

植民地朝鮮の作家たちの早熟と老成を語って、黒川創はこう語る。

ある者は倒れ、ある者は消息を絶ち、ある者は文学を離れ、戦後(朝鮮の解放後)も長く旺盛な創作を持続することできたのは、わずかに、在日朝鮮人作家として日本にとどまり続けた金達寿ひとりなのだ。そのことの意味は、何なのか。

「国」から離れた言葉、「国」から離れた文字のありか。未来に向かう問いとして、これら「旗」のない場所で書かれた作品が、いま私たちの前に置かれている。

解放後に書き始めた金石範もまた、金達寿とともにその文学を語らねばならないようにも思う。在日しながらも、彼の魂は植民地末期と解放直後を共に過ごした朝鮮の友と共に在りつづけたから。