ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー (original) (raw)

ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(John Frederick Charles Fuller、1878年9月1日 - 1966年2月10日)は、イギリス陸軍軍人軍事学者ファシズム活動家。陸軍戦術の研究と、機甲戦という戦闘教義の開発で電撃戦の理論を初めて構築した。

概要 ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー John Frederick Charles Fuller, 生誕 ...

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1878年にイングランドチチェスターで生まれ、サンドハースト王立士官学校を卒業する。1898年に少尉に任官し、オックスフォードシャー軽歩兵第1大隊に配属された。この頃にアレイスター・クロウリーの弟子となっている。ボーア戦争に従軍するが健康上の理由から戦闘には参加しておらず、戦争末期に情報将校として働き、偵察部隊を編成した。

1905年に大尉に昇進して参謀大学校で研究を行うと共に、クロウリーの事績を紹介する「The Star in The West」を執筆。1907年に出版した。第一次世界大戦においては参謀将校として勤務し、少佐に昇進する。この頃から指揮官教育課程の体系化と指導に実績を残し、イギリス陸軍の陸軍大学校の基礎に貢献した。彼の1916年に当時まだ秘密だった戦車部隊の作戦将校に配属され、その戦車に関する教範類の作成に携わり、戦車を用いた作戦計画の立案に関わる。1917年のカンブレーの戦いで戦車部隊を主力部隊とした攻勢作戦を計画した。また第一次世界大戦においてフラーは「戦いの原則」を検証しており、1916年に戦いの原則についての論文を匿名で提出し、1921年に野外要務令としてまとめた。

戦後フラーは陸軍省に勤務して戦車の戦闘教義についての研究活動に取り組み、1926年に帝国参謀本部軍事顧問として多くの論文を発表して戦車戦術の開発を行った。しかしこれらの多くは戦後の軍縮気運と保守主義によって反発にあい、多くが実現せず、陸軍内でも煙たがられることがあった。実際に1922年にフラーが陸軍大学校の主任教官だったときに装甲実験部隊が大学で立ち上がったときにもフラーは遠ざけられ、別の歩兵将校が責任者となった。また1927年に歩兵部隊の指揮官に任官され、インドのボンベイ軍管区司令官に任命されたが、フラーはそれを左遷と考えて任命を拒否し、1933年まで俸給半減の処分を受け、辞職した。

その後は軍事問題と哲学魔術について数多くの著作を残す一方、オズワルド・モズレー英国ファシスト連盟に参加、1935年には出馬もしているが落選した。1939年4月にはアドルフ・ヒトラーの50歳の誕生日パレードに招かれている。1966年に死去した。彼の機甲戦の理論は電撃戦の理論としてのちにドイツ軍で開花することとなる。

1931年、ミハイル・トゥハチェフスキーは、フラーについて次のように書いている[1]

イギリス軍とアメリカ軍との戦争がカナダ国境に沿って勃発した場合を想定してみよう。両軍はともによく機械化されており、その兵力を仮に、イギリス軍はフラーの教え子たちの指揮する18個師団、対するアメリカ軍は180個師団とする。前者は5000輌の戦車と3000機の航空機を装備し、後者は50000輌の戦車と30000機の航空機を装備している。少数のイギリス軍は単純に粉砕されるだろう。大規模戦争における、小規模だが機動的な機械化部隊。そんなものが世迷い言に過ぎないことはすでに明らかではないだろうか。真剣に受け取るのは軽薄な人々だけだ。

原著

日本語訳


  1. Jacob W. Kipp (2005), “The Origins of Soviet Operational Art, 1917–1936”, in Michael D. Krause; R. Cody Phillips, Historical Perspectives of the Operational Art, Washington, D.C.: United States Army Center of Military History, p. 237