天津条約 (1885年6月) (original) (raw)

清朝とフランスとの間の講和条約


天津条約(てんしんじょうやく)は、1885年6月9日清朝フランスの間で結ばれた、清仏戦争講和条約である。

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2021年6月)

概要 通称・略称, 署名 ...

天津条約 (1885年6月)
条約の調印後に撮影された李鴻章とジュール・パトノートル(英語版)の一団
通称・略称 李・パトノートル条約
署名 1885年6月9日
署名場所 天津
締約国 フランスの旗 フランス共和国
主な内容 ベトナムに対する宗主権を放棄し、これに対するフランスの保護権と、中国南部における通商鉄道建設を承認
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清国代表の北洋大臣李鴻章とフランス公使ジュール・パトノートル(英語版)によって締結されたため、「李・パトノートル条約」とも呼ばれる。

清はベトナムに対する宗主権を放棄し、これに対するフランスの保護権と、中国南部における通商鉄道建設を認めた。

概要

トンキン戦争(英語版)講和のため合意された天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)[1]に基づき、1885年6月9日清仏戦争講和のため両国間で天津にて締結された。

癸未条約(英語版)・甲申条約(英語版)にて確立されたベトナム(アンナン及びトンキン)へのフランスの宗主権を認める内容となっており、中国側のベトナムに対する宗主権の放棄が明確となった。この結果、フランスはインドシナ植民地を確定し、植民地帝国を拡大した。

内容

  1. 清はベトナムをフランスの保護国として認知する
  2. ラオカイ(保勝)とランソン以北にそれぞれ通商港を開港する
  3. 清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する
  4. フランスは基隆澎湖島から撤退する

脚注

  1. [1]
    清国代表の北洋大臣李鴻章とフランスの司令官代理フルニエ(François-Ernest Fournier)によって締結されたため、「李・フルニエ協定」とも呼ばれる。

関連項目