略奪 (original) (raw)

略奪(りゃくだつ)とは、戦争[1]災害に伴う治安の機能停止[2]暴動[3]といった破滅的状況において、また政治的・軍事的勝利の結果として行われる財産強奪行為。本来の表記は掠奪(読みは「りょうだつ」[4]とも)だが、当用漢字制定後は代字を用いて略奪と表記することが一般化した。

2011年のイギリス暴動の際、ロンドン北部の自転車店を略奪する暴徒

フランクフルト・ゲットーの略奪(1614年8月22日)

国際法では、戦時の略奪行為は禁じられ、行った者は戦争犯罪に問われる[5]

戦争

アルバ公率いるスペイン軍によるメヘレン略奪(1572年10月2日)

歴史上、戦争で勝利した軍隊が略奪を行うことは普通だった。歩兵にとっては、略奪は貴重な補給源であり収入源だった[6]古代ローマでは略奪の延長として凱旋式が行われており、チンギス・ハンのように征服した敵から富を奪うことを最大の幸福とみなした人物も珍しくない[7]。 また孫子は古代では交通網が未発達であることを理由に敵国への略奪で兵糧を賄うべきと称している。

そもそも中世には、降伏勧告に応じず抵抗した都市が、陥落後に3日間の略奪を受けることは、勝者側からの一種の罰だった。

古代には、人間も戦利品として略奪され、奴隷にされることが多かった。女性や子供は、勝者の構成者と結婚させられたり養子にされたりして、勝者の社会に取り込まれることもあった[8][9]。前近代社会においては、高い価値のわりに持ち運びやすい貴金属がよく略奪された。下層兵士にとっては、戦争中の略奪は分不相応な宝物を手に入れる数少ない手段の一つだった。18世紀以降は、芸術作品も略奪の対象となった。1930年代から第二次世界大戦にかけて、ナチス・ドイツは大規模かつ組織的な美術品の略奪を行った[10][11]

一般に規律の緩んだ軍隊は略奪に走りやすい傾向があり、略奪を行った兵は戦利品を運ぶために機動力が落ちたり、戦利品を気にして柔軟性を失ったりするため、軍全体の破滅に結び付くことも珍しくない。一方で、第一次サウード王国のカルバラー占領のように、略奪がその後の勝利につながった例もある[12]。戦時に略奪を行うのは勝者だけではない。1915年にはヴィスワ地方から撤退するロシア軍がこの地を略奪しつつ去った[13]。また2003年のイラク戦争中のイラク国立博物館略奪のように、一般市民が混乱に乗じて略奪を働いたこともある[14]。ロシアの作家レフ・トルストイは、小説『戦争と平和』の中で、ナポレオン1世率いるフランス軍が迫るモスクワで市民による略奪が広まった様を描いている。

フランス軍に拘束されたコートジボワール共和国軍の兵士

状況によっては、政治的理由などから政府が略奪を奨励する場合もある。第一次コートジボワール内戦では、フランス軍と対立したコートジボワール政府がフランス人やフランスに関連する施設に対する襲撃や略奪を扇動した。

国際法

慣習国際法でも現代の国際法条約においても、戦争中の略奪行為は禁じられている[5]。古くは南北戦争時のリーバー法、1874年のブリュッセル宣言、オックスフォード・マニュアルに略奪禁止の内容がみられる[5]。1899年及び1907年のハーグ陸戦条約や1954年の武力紛争の際の文化財の保護に関する条約では、軍隊は敵の財産を守るだけでなく、保護をも与えるべきであるとされた[15]国際刑事裁判所ローマ規程の第8条では、「襲撃により占領した場合であるか否かを問わず、都市その他の地域において略奪を行うこと」は戦争犯罪であると規定されている[16]第二次世界大戦後は、数々の略奪行為が戦争犯罪として告発された。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷では、被告人の中には略奪の罪で立件された者もいた[5]

1949年のジュネーヴ第4条約でも、明確に戦争中の文民に対する略奪が禁じられている[5][17]

考古学調査

英語のルーティング(looting)という言葉は、考古学調査で発掘された物品が、出土した国から発掘者の国へ持ち去られてしまう事例に対しても用いられる。この形態の「略奪」は、王家の谷を中心とした古代エジプトの遺跡で出土したものが、今日数多く大英博物館を始めとするヨーロッパ各地の博物館に展示されているという例が特に知られている[18]アメンホテプ2世オベリスクはイギリス・ダラム大学のオリエンタル博物館に、フィラエ神殿プトレマイオス9世のオベリスクは同じくイギリス・ドーセットのウィンボーンに現在置かれている。この状況についてエジプト側から「略奪」という非難がある一方で、ヨーロッパ人は、自分たちが調査隊を組織し、位置を特定し、発掘調査を行わなかったら、そもそも宝物のほとんどは出土すらしなかったはずだと主張している。ただ最近は、ヨーロッパ各地からエジプトの元あった場所への出土品返還が進んでいる。

産業の略奪

第二次世界大戦直後、ソビエト連邦軍はドイツのソ連占領地域(後にポーランドに譲渡される予定だったいわゆる回復領も含む)で組織的な略奪を行った。彼らは工場やインフラ設備から有用な部品や設備を奪い、ソ連本国へ輸送した[19][20]

災害によって警察や軍が機能停止して治安が失われると、略奪が起こっても十分に取り締まれなかったり、地域によっては交通が寸断されて鎮圧にも向かえない事態が発生しうる。特に甚大な自然災害が発生して救援が間に合わなくなると、人々は自分が生き残るために周囲から物資をかき集めようとする場合がある。こうした例が略奪にあたるのか、それとも物資を漁っているだけなのかという線引きは難しいところであり、政府の災害処理の悩みどころとなることが多い[21]

征服者・軍人による略奪

ネフェルティティの胸像は、1912年のテル・エル・アマルナ発掘時にドイツ人が不法に「略奪した」美術品であると指摘されることもある[22][23]

イシン遺跡の略奪者

2023年のハマスによるイスラエル攻撃にて商店で略奪するパレスチナ人武装集団

アイゼンハワー将軍ブラッドレー将軍パットン中将が、ナチスによって盗まれ、ドイツの塩鉱山に隠されていた美術品を視察(1945年)

非軍人による略奪


  1. Hsi-sheng Chi, Warlord politics in China, 1916–1928, Stanford University Press, 1976, ISBN 0-8047-0894-0, str. 93
  2. John K. Thorton, African Background in American Colonization, in The Cambridge economic history of the United States, Stanley L. Engerman, Robert E. Gallman (ed.), Cambridge University Press, 1996, ISBN 0-521-39442-2, p. 87. "African states waged war to acquire slaves [...] raids that appear to have been more concerned with obtaining loot (including slaves) than other objectives."
  3. Sir John Bagot Glubb, The Empire of the Arabs, Hodder and Stoughton, 1963, p.283. "...thousand Christian captives formed part of the loot and were subsequently sold as slaves in the markets of Syria".
  4. (ポーランド語) J. R. Kudelski, Tajemnice nazistowskiej grabieży polskich zbiorów sztuki, Warszawa 2004.
  5. (ポーランド語) Andrzej Garlicki, Z dziejów Drugiej Rzeczypospolitej, Wydawnictwa Szkolne i Pedagogiczne, 1986, ISBN 83-02-02245-4, p. 147
  6. Will Nefertiti Return to Egypt for a Brief Visit? Egypt Asks Germany for a Majestic Loan by Stan Parchin (June 17, 2006) about.com
  7. Hevia, James Louis (2003). English Lessons: The Pedagogy of Imperialism in Nineteenth-Century China. Durham; Hong Kong: Duke University Press; Hong Kong University Press. ISBN 0-8223-3151-9.