[書評]日本教の社会学 - HPO:個人的な意見 ココログ版 (original) (raw)

・「日本教の社会学」(ISBN:4051012611、ISBN:4061458159) by 山本七平さん、小室直樹さん (以下、敬称略) *1

本書は、これまでの山本七平の日本人論を、小室直樹らとの対談の中で、いかに一般に使えるような「ツール」とするかの試みであり、また山本七平の日本人論の集大成である。非常に示唆に富む、また先を読みぬいた内容であったと想う。日本人が日本人でなくなる日まで、読み継がれるべき本である。ぜひ復刊してほしいものだ。

散漫になってしまうが、私の感じたことを書きたい。この本がいかに貴重な視点を提供しているかを示すために、まず8章、9章の「日本資本主義」の結論部のヴェーバーになぞらえた4つの要素を引用する。

*** 絶対的規範としての勤労のエトス**

*** 町人の合理性とある面の所有原則の確立**

*** 崎門学に基づく下級武士のエトスの一般化**

この部分の前も後も非常に重要な示唆に富むのだが、本書のテーマすべてについて「感想」をまとめることは私の力の範囲外だ。この4つについて自分の理解しえた範囲を「表現」したい。

■機能主義

キリスト教の神議論などに触れるとつくづく感じてしまうのは、日本人ってものすごく現世利益主義だということだ。少々前からカソリックとの対比についてこだわっているのだが、F.NAKAJIMAさんに教えていただいたカソリックのイエズス会の「霊操」は確かに表面的には禅に近いのかもしれないが、あくまでそのそこにあるのは、神の義ということ、神の栄光ということだと想う。

霊操 by イグナチオ・ロヨラ

本書には記載はないが、日本教にメシヤ論というものがあるとすれば、それは来世において人を救いあげるという存在ではなく、いまこの世でどう悩みや問題を解決してくれるかという「機能」なのだろう。現世利益、機能主義という観点から言えば、神でも、仏でも機能を果たしてくれるのなら、メシヤたりうるのだ。はなはだ私の仏教理解は浅薄なのだが、日本においては来世を示す弥勒菩薩への信仰でも、来世を示す仏が存在することによる俗世における救い、とかになるのではないだろうか。現在の苦しみを緩和するものであれば、たとえ地震や雷だのの災害でも日本人にとってメシヤになりうるのではないか。

「神は空名なれども名あれば理あり。理あれば応あり」

この言葉の先に当然、現代日本人も位置しているので、たとえば「風の谷のナウシカ」における「青き衣の人」というのも現世利益だと感じている。が、これはまた別な話だ。

■勤労のエートス

米国の民主主義ですら、成熟期において「生活哲学」という考え方にまで到達した。これは、いかなる政治哲学であっても理念の高さが問題なのではなく、日常の生活にまで根付いた思想になりうるかが一番大事なことであるという考え方だと私は理解している。

[書評]米国の保守とリベラル (HPO)

その成立を追う余力はいまの私にはないが、日本においてかなり早い時期に生活習慣としての「勤労」ということが社会の中にセットされていたのだと想う。それは、哲学や理念としてでなく、多分明確な意味での宗教でもなく、単純な損得という経済概念でもなく、生活そのもののが勤労の習慣であり、勤労の習慣によって生活がなりたっているという信念だ。「あなたは労働する必要はないのじゃないの?」という人まで、就職ということに固執するのは、こうした勤労習慣の反映であるような気がしてならない。ちなみに、何の疑問もなく貴族制や超大金持ちが歴然と存在する欧米において、私が見聞きした限りにおいて、労働する必要もなく必要も感じない層というのが存在するようだ。

小室が本書の別の箇所で、「レーベンス・ヒュールンク」という言葉を使っていたこと、「エートス」を「行動様式」としていたことにとても意味を感じる。

マックス・ヴェーバーの宗教の定義は、レーベンス・ヒュールンク、つまり生きざま、行いの仕方、行動様式---もっとも単なる外面的な行動様式だけではなくて、外面的な行動様式を内面から支えるような心的条件を含めた行動様式(エトス)ですけど---彼の場合は「エトス」という言葉と「宗教」という言葉をほぼ同じ意味に使っているわけです。

■所有原則

ここでは、本書の中とは、違う言葉で説明したい。

所有の原則が認められるというのは、取引の相手を信頼できるかどうか、絶対者が厳然と存在するか対の世界か、という2つの軸によって決定されるように想う。絶対者が存在し、その絶対者を自分が信じ、取引する相手も信じているときに、すべては契約によって執り行われる限りにおいて、自分の所有物と相手の所有物を厳然と分割できるであろう。相対的な相手を信頼できるか、できないかは、相手が同じ絶対者を信じているか以外は関係なくなる。言葉ありき、契約ありき、なので、所有の概念を導出することが可能になる。

逆に絶対者が存在しない場合はどうなるだろうか?この場合、相手を「信頼」できるかどうかにかかる。ほとんどの場合、絶対者を共有しない時点で所有の概念の存在は難しくなる。絶対者である神が産まれてから死ぬまで、いや死んでからさえ保証してくれているので、その信頼できない絶対者に服従するものを殺そうと、略奪しようと、罪の意識を感じることはないだろう。つまりは、所有の概念を導出することは極めて難しい。ややこしいのは、絶対者を共有しないが、相手を信頼することができるという特異な状況だ。

多分、日本がこのケースにあたるのだろう。山本七平と小室は、見事にこの状況を分析している。ただし、私はこの前提としての仮定に相手に絶対者は共有しないまでも、自分と非常に似た性質をもっている等質性の問題があるように想う。これは、あとで複雑ネットワーク関連のパーコレーションのアナロジーにおいて触れたい。

なんというか、「天皇絶対」(空体語)といいながら、「上官絶対」(実体語)だったような人間関係において、「貨幣」という本来絶対的な交換尺度が、自分が大事に想っているものは、相手も大事に想うだろう、ということで成立してしまえる。そして、いつからそうかは知らないが日本の人間関係がムラという非常に閉じたコミュニティーの中で閉じているのであれば、自分の大事、相手の大事、という概念からお互いの大事=所有物を尊重しあい、トラブルを避けるという概念、習慣が形成されうると私は感じた。あまり正確な山本の思想の反映でなくなってきてしまったが、等質性を仮定できれば所有概念は導出しうるのだと想う。

■崎門学(純粋性)

歴史的、文献的な検証はあまりにも私の守備範囲を越えるので、他の山本七平の書籍を参照してほしい。ただ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」での「禁欲」(ストイシズム)に変わるのが、「純粋」という言葉だろうと私は理解した。日本において「純粋」であることがなによりも大事だという概念があるように想われる。これと対極にあるのが中国文明だし、西欧文明だろう。「オーソドックス」とか「シンプル」という言葉が、日本語と西欧語でまったく違う意味を持つというのは偶然ではない。

この純粋さの極地として、たとえば、本書に取り上げられたこんな言葉が私には鳴り響いた。

(2.26事件の若手将校達には)「目的もなければ規範もない、単に純粋性があるだけ。しかもその伝統というのは脈々として新左翼に生きている。」

■個人的な意見

って、ここまで書いてきたものすべてが感想にすぎないのだが...

問題は、こうした特性を持つ日本人の集団である日本という国を、山本七平とできる限り同じ視点に立って考えたときに、どうして行くべきか、私個人はどう行動すべきか、という問題が残る。たとえば、ロシアになってしまったソ連と手を結ぶといったテクニカルな分析(*2)は非常に重要である。あるいは、中国との対し方についてもかなり強力な示唆が本書から得られるであろう。しかし、日本という国の中身自体はどうかわっていくべきなのか、変わらなくてもいいのか?私自身は、この分析手段を得た後にどうこれからの未来を設計し、行動すべきなのか?私は、21世紀の今日になってもこの結論は出てきていないように想う。ただ、もしかすると主体的に変わっていこうとする以前に、ここ述べられてきたような日本人像というもの自体が失われつつあるのかもしれない現代に不気味さを感じる。なんというか、私の所属する世代は本書の延長線上にある現代という時代において、本書の主張を「水」ととらえて批判の術とするか、「空気」ととらえて時代になじむか、迷ってしまうだろう。

この流れにおいて自分なりに本書を受け止めようとする試みとして、私としては、「ネットワーク思考」という視点から再度本書の延長線をひく努力をしたい。

■複雑ネットワーク論からみた日本教、ふたたび

余談だが、最近「生成・死滅」と「複雑ネットワーク」について考える。なんというか、やはり集中が進む、ノードの密度があがる、過度にクラスター係数の高い密度の濃いネットワークが構成されるということは、死滅への道のひとつである。「生成」と「死滅」が多くの現象において見られるということは、現象をネットワーク構成体として捕らえたときに、それぞれの現象が一定の法則を共有しているということの現れであるように感じる。

たとえば、組織を人が作ろう、運営しようとすれば必ず直面する矛盾があるように思う。それは、組織を安定させ、利をむさぼろうとようとすれば、巨大化せざるを得ず、巨大化しようとすれば、内部の矛盾化、弱体化をさけられない。あるいは、ネットワーク固有のカスケード危機といったものを避けることができない。

この「日本教」の分析が明らかにしている処々の日本人に性質というものは、よくもわるくもネットワークにおけるカスケード危機、あるいは「創発」という現象が、日本人の集団において非常に起こりやすいということの帰結だと私には想える(*3)。

先日参加させていただいた「複雑ネットワークの科学」の著者であられる増田先生の講義で、複雑ネットワーク理論と日本人の等質性の問題がつながるように感じた。増田先生のご専門でいえば、パーコレーションの問題としてとらえた疾病の流行とも比較できるかもしれない。疾病の広がりで、例えば病原菌に対する抗体が血液型によって決まるとする。あるA型の人にだけかかる特定の伝染病があっても、A型の人もB型の人もO型の人もAB型の人もいるとすれば、A型の人の周りをA型以外の人でかためるという方法で伝染を抑える方法がとれる。しかし、A型の人しかない集団があったとすれば、あっというまにその集団はこの伝染病が蔓延してしまうだろう。同様にして、日本人の集団というものが他の集団に比べて等質性であり、その等質な性質がなんらかの病なり、経済環境なり、社会的な状況なり、思想なりに「感染」しやすいとすれば、米国などの社会に比べて「蔓延」しやすく、同時期大きな被害を受けやすいということになる。

これらの特徴というのは、なにも現代において明らかになったことではなく、これまでもさまざまな目的のために使われてきたし、これからも利用されることなのだろう。「空気」というものは、戦前も、戦後も、雑誌でも、クラスでも、会社組織でも、お役所でも、TVでも、ネットでも、2chでも、ブログでも、活用されている。ネットワーク分析とはまさにこの空気の支配を客観化、可視化するために使うべきでないか?

もっといってしまえば、もしべき乗則なり、複雑ネットワークなりの研究が進んで口コミや創発の条件があきらかにされたとしたら、それは得に日本において特有な独占や独裁の形を生み出しかねないということだ。まあ、いままでのところ自分が見聞きした限りでは、ネットワークのリンクの密度があがればあがるほど逆にカオス的というか、初期条件の差が大きく結果に影響しやすくなるということが明らかになりつつあるように思う。つまり、そうした複雑系の科学であってもマーケティングや政治的な信条を共通化させることにはつながりにくいということだ。

ここまで思考を進めて、トンデモと言われることを恐れずに現代日本に「社会学」を当てはめるといくつかのことに気づく。

ひとつは、実体語としての日本の資本主義の実力が十分についている限りは日本人の謙虚さなどによらずとも空体語としての日本人論は、「だめだめ日本人」を向くということだ。逆に、昨今「普通の国日本」というか、「強い日本」論が今後取り沙汰されるのだとすれば、それは実体語としての日本経済がいよいよ行き詰まったということ示すのだろう。中国人は多分これを交渉のテクニックとして意識的に行うが、日本教徒の日本人は集団的にこれを意識にのぼらせずに暗黙のうちに行う。

あと、ひとつ恐れるのは、敗戦であれ、安保であれ、山本七平が記述した時代には、「空気」が呼吸できないほど悪くなり(あるいは「空体語」があまりに重くなり)、空体語と実体語の天秤を「ひっくり返す」事件が必ずあった。しかし、こんにちのバブルといわれた経済の隆盛な時代がおわってから、天秤がひっくりかえらないまま時代がつながってしまっているような気がしてならない。天秤がひっくりかえらないまま、時代の「空気」があまりに呼吸しずらくなっているように感じる。この結果が、なんらかの日本人でない日本人、夏目漱石の「草枕」の冒頭の「人でなしの国」につながらないことを祈る。

あ、でも読み返してみるとなにもこの結論にたっするのに、ネットワーク理論を持ち出すことなかったかな。あはは。

■注

*1

本書は、ずいぶん以前から廃刊になっていて、いまでは、古本か図書館をさがすしかないらしい。

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著作情報

私も、前田慶次郎さんにコメントで背中を押していただき、ようやく落札できた貴重な一冊だ。

*2

ちなみに、本書において山本と小室はすでにソ連の崩壊の予想をし、ソ連が脅威たりえないことを「空気」に「水」をさしながら、分析している。81年の時点でだ。

また、余談だが山本の「空気」とか「水」とか、式目などに代表される「通達」行政など四半世紀がすぎても、日本の体制のあまりのかわらなさに涙が出る。しかし、人は変わらなくとも法律と役人(外郭含む)は増えた気がする。誠にこの世は住みにくい。本気で「人でなし」の世に逃げなければならないかもしれない。

*3

SYNC」を読んでから、「結合振動子」のモデルがあたまから離れない。自分でもシュミレーションなどを作ってみたのだが、あまり理解できているわけでない。ただ、同期現象がおこるためには、集団全体に対して送られる「シグナル」が通常必要なのだということは理解できた。振動するノードが複数あるとして、それぞれ周期がある程度ちがってもやはり全体に対して同期信号が送られていると全体で調整が行われる系というのが存在するようだ。

ただ、このモデルでは日本人において創発現象、同期現象が起りやすいと断言する根拠とはならない。ノードの等質性ということから、もう一歩踏み込むことが必要なのだが、まだ私にはわかっていない。なんとはなしに、単なるシグナルでなく、価値の交換、効用の交換というものがからんで始めてなんらかの社会的な同期現象が生じるのではないかという感じがしている。

■参照リンク
山本七平読者連絡会
山本七平と天皇制をめぐる議論 @ asyura
『日本教の社会学』読書記録 by j_taiyaki さん @ 「浮かんでは消えてゆく思考のかけら」
[書評]日本教について (HPO)
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
「はてなブックマークのコメント欄が酷いのは許せない」と批判する人がいるのは日本教という宗教に反しているからだ。と解釈できそう by otuneさん

■追記 翌日

うわっ!梅田さんが本書の復刊リクエスト記事をだしていらっしゃる!!!ちなみに、私は7500円で落札しました....

[読書] 山本七平、小室直樹

「圏外からのひとこと」のessaさんからも...感動!!!

「日本教の社会学」復刊リクエスト投票

こりゃ、もう最高の誕生日プレゼントですね。ヒデキ、カンゲキ!

■追記2

恥ずかしいので、あえてリンクを貼らせていただかなかったのだが、最初に山本七平を読み直そうと思ったのは極東ブログのfinalventさんの2つの記事だった。

[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2

深く深く感謝もうしあげたい。