アマテラス降臨す! ~平安貴族の権力闘争を伊勢の地から覗き見る 伊勢・斎宮跡 (original) (raw)

本投稿は前回の投稿の補足みたいな位置づけになっています。

前回の投稿は↓。ご一読いただければ幸いです。読まなくても本投稿をお読みになるうえでとくに問題はありません…けど、も(笑)

aizenmaiden.hatenablog.com

紫式部清少納言藤原道長の時代が活躍した時代では道長の一門の御堂流と彼の兄である道隆の一門の中関白家の間で権力闘争が繰り広げられていましたが、そのなかで道長はかなり陰湿な手口をいろいろと仕掛けてきていたようです。

そのひとつに藤原定子の母親、高階貴子(道隆の妻)へのネガティブキャンペーンがあったらしい。彼女は**高階氏出身、この氏族は「南北朝の狂犬」こと(勝手に命名。ファンの方ごめんなさい!)高師直師泰兄弟(いずれも1351年死去)も輩出していますが、この一族には伊勢の斎宮を勤めていた恬子内親王(やすこないしんのう:848頃-913)が在原業平**との密通によって生んだ子を先祖としているという説(伝説?)があります。

伊勢物語にもこの二人の関係を匂わせる部分が登場しており(69段「君や来し」)、在原業平をモデルにしているとも言われる主人公の男が伊勢を訪れた際に斎宮の女性といい雰囲気になる…というお話。

でもせっかく斎宮が夜に彼のもとに忍んできたのに事に及ぶ前に彼女が帰ってしまい、翌日になって斎宮の方から↓の歌を読んできました。

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

「昨夜あなたがわたしのところにいらっしゃったのか、わたしのほうから訪れたのか、よく覚えていません。そもそもこれは夢なのか現実なのか、寝ている間に見た夢なのか、目覚めているのときに体験したことなのかさえもよくわからないのです」

みたいな意味。

この斎宮に関しては作品中に「文徳天皇の娘、惟喬親王(実際に在原業平と親しい関係にあった)の妹」とはっきりと恬子内親王だとわかる形で素性が明らかにされています。そもそもこの物語作品がどうして「伊勢物語」というタイトルなのか? 詳細は不明なのですが、後世の読者たちがこの逢瀬を非常に重大な(スキャンダラスな?)出来事と見たから名付けられたのだ…という説もあります。

そしてこの逢瀬によって生まれた二人の間の子供は当時の伊勢権守にして斎宮を管理する立場にあった高階氏に引き取られ、その子が後にこの一族の先祖となった…と噂された。

この出来事が本当かどうかはともかく、この伊勢物語によって在原業平と恬子内親王の醜聞(の疑惑)が古典文学に親しんでいた貴族たちの間で広く知られ、まことしやかに語られていたのは間違いないのでしょう。

そして巡り巡って藤原道長の時代においてこの醜聞が政治闘争に利用されるようになった形。

そう、「皇祖神たる伊勢の神の目をかいくぐった密通によって生まれた子の子孫が天皇に即位するなんてとんでもない!」というネガティブキャンペーンに利用されたようなのです。定子と一条天皇の間の子(敦康親王)は母方から「皇祖神である伊勢の神を裏切った女性」の遺伝子を受け継いでいる、という扱い。

この話が浮上した際にはすでに定子は死去していましたが、前回の投稿で触れたように彼女の遺児の敦康親王はライバルの藤原彰子道長の娘)に引き取られており、しかも彰子が彼をかわいがっていたことから彼が即位する可能性もあったらしい。そこでこのいいがかりめいた話が持ち出された。

高階氏の血流に恬子内親王(やすこないしんのう)と在原業平の密通が実際に関わっているかどうかは問題ではない、多くの人に「そう思わせた」段階でネガティブキャンペーンを仕掛けた側の勝ち。

事実かどうかよりも「多くの人がそう受け止めるかどうか」が重視される。この点は現代とあまり変わっていないのかも知れません。

そして「勝者は歴史をつくり、敗者は文学をつくる」とよく言われますが、「伊勢物語」によって広く知られることになった在原業平と恬子内親王の醜聞(ほんとうにあったかどうかもわからない)はいわば「文学が歴史をつくった」形。さらにその醜聞が藤原定子をはじめとした中関白家の一族を歴史上の敗者へと追いやる一因となる。

「文学は歴史を作り、敗者をもつくる」

いや~恐ろしいですねぇ。

↓は伊勢の斎宮跡にある史跡とその歴史を紹介した斎宮歴史博物館で撮影してきたものです。

斎宮があった頃の建物を復元したもの

↑現存する日本最古の「いろは歌」が書かれた土器とのこと。

↑なかなかいい雰囲気が漂う「斎宮の森」

斎宮歴史博物館。決して大きな施設ではありませんが、なかなかに充実した内容でした。

このネガティブキャンペーン、現代人の感覚なら「親や先祖は関係ないだろ!」となるわけですが、家柄がすべての当時の宮廷社会ではそうも行かなかったのでしょうねぇ。

さらに想像を広げてみると高師直&師泰の天皇の権威も神仏の威光も恐れないような大胆不敵な態度には自らの高階氏の血筋についてまわるイメージへの反発もあったのでは?という気もします。「俺たちの一族が伊勢の神から疎まれている? それがどうした?何が天皇だ、何が神仏だ!知ったことか!」みたいな。

そして姉との仲もよかったらしい一方でかなり豪快な面を持ち合わせていたらしい定子の同母弟、藤原隆家などは酒に酔ったときに自分の母方の一族を巡るネガティブキャンペーンに対して「在原業平のク◯ッタレ。伊勢物語の作者は誰だ? 地獄に落ちろ!」などと罵声の一つでも発していたのではないか?

なんて妄想もしてみると楽しいです😄。

せっかくなので斎宮歴史博物館にあった歴代斎宮についての紹介の一部を

↑神宮荒祭宮というのは天照大御神の荒御魂を祀った社のことですね。後述するように託宣を受けた彼女の振る舞いがやたらと荒っぽかったのも納得?

もっともインパクトがあるのはある日突然神がかりして狂乱状態に陥った嫥子女王(せんしじょおう)ですが(後述するように泥酔状態だったらしい)、ほかにも帰京した後に田楽にはまって連日楽しんだ挙げ句体調を崩して死んだ「媞子内親王(ていし/やすこ)」、日本史上最初の怨霊との呼び声も高い(?)井上内親王(皇太子時代の桓武天皇と怪しい関係にあった、との風聞もあり。この醜聞が彼女の悲劇の遠因になった可能性も)などもいて相当な顔ぶれ。

この嫥子女王が引き起こした「長元の斎王託宣事件」で彼女が託宣を受けたときに読んだとされる歌↓もすごいですね。

さかづきに さやけき影の みえぬれば

塵のおそりは あらじとをしれ”

「杯に澄んだ月の光が見えた。もはや不逞の輩が重ねた罪は塵で覆われることもなく明らかであると知れ!」

みたいな感じでしょうか。「さかづき(杯)」に「月」をかけている。月には真実を暴き出す賢さがある、で「賢月(さかづき)」みたいな意味もこめられているのでしょうか?

事件が起こったのは長元4年(1031年)、旧暦で6月。藤原道長が死んだのが1027年(ユリウス暦だと1028年)、そして1028年には東国において平忠常の乱が起こっています。

どうも世情がかなり不安定な状況の中で起こった事件のようですね。

この彼女の神がかり状態は雷雨(新暦の7月なので伊勢に台風上陸?)のときに突然起こったらしく、その顛末を記した「通海参詣記」(鎌倉時代に書かれたものですが、著者は当時伊勢神宮に残っていた記録を元に書いたらしい)という書では「斎内親王俄に大音声を出せ給て、叫喚し給ふて」とあります。「叫喚」ですから相当なレベルですよね。

歌で断罪された「不逞の輩」とは当時の斎宮寮頭(斎宮権頭)を勤めていた男性(相通という名前らしい)とその妻(藤原小木古曽子)のこと。彼らはこの託宣による告発によって島流しに遭ってしまうのですが、託宣では朝廷の政治、さらには天皇家を猛批判する内容も含まれていたそうです。

この託宣は表向きでは伊勢の斎宮天照大御神が「降臨」したことを意味する。つまり天照大御神がこの二人の「不逞の輩」を名指しで「島流しにしろ!」と命じ、さらには時の権力者たちを批判する。それも酔っ払って(笑)

想像するだけでも壮絶な光景ですねぇ。

たださすがに周囲の人たちも「これはマズい」と判断したらしく、朝廷へは斎宮寮頭への告発だけを報告して政治批判を含む内容についてはしなかったそうです。宗教においてもしばしば大人の判断が発動する…ということでしょうか。

なお、この記録には「清浄の酒を召す(中略)度々相加えて十七度聞食して託宣給ふ」とありますから、もうベロンベロンで手が付けられない状態だったのでしょう。

これって17杯ってこと!?🍺🍷

「泣く子と酔っぱらいには勝てぬ」ってやつですか。つきあわされる方はたまったものじゃなかったでしょうが。

↓は彼女のWikiページ。託宣事件についても少し触れられています。

ja.wikipedia.org

どうも斎宮では朝廷の目が届かない環境で風紀が乱れていた様子がうかがえますね。そもそも朝廷も決して褒められた状態ではなかったわけですけど。

こうしてみると恬子内親王在原業平の伝説が本当にあったことなのかどうかはわかりませんが、実際にあってもおかしくないような環境だったのでは? という気もしてきます。

ネガティブキャンペーンを仕掛けられた高階貴子の孫(藤原定子の甥)が斎宮を巡る色恋沙汰のトラブルに巻きこれてしまう(当子内親王)のエピソードもトホホな感じですねぇ。

なお、この託宣事件と同時代に相模(998-1061)という歌人がいます。源頼光の養女としても知られている人ですが、彼女は↓のような歌を詠んでいます。

いづくにか 思ふことをも 忍ぶべき

くまなく見ゆる 秋の夜の月”

「わたしのこの秘められた想いをどこに隠せばよいのでしょう。闇をくまなく照らし出すような澄み渡った秋の月夜のもとで」

みたいな意味。

嫥子女王が託宣の際に歌った「さかづきに さやけき影の~」にしろ、この歌にしろ、「月が隠された(秘められた)真実を暴き出す」というコンセプトを土台にしています。どうやらこの時代にこうした月への見方がちょっとしたトレンドになっていたようですねぇ。

神の託宣も流行の影響を受ける!

じつに奥が深い…いや、浅いのか?

もうひとつ、前回の投稿で藤原定子の辞世の句とも見られている↓の歌を紹介しました。

なき床に 枕とまらば 誰か見て

積もらむ塵を 打ちもはらはむ”

意味については諸説あって定まっていないのですが(この点については前回の投稿をご参照ください)、この「積もらむ塵を 打ちもはらはむ」の部分は嫥子女王の託宣の歌の後半部分「塵のおそりは あらじとをしれ」を少し連想させます

どちらも「塵」を重要な事実・真実を覆い隠すものの象徴と見ているのでしょう。

こうして見ると当時は京都の流行や動向などが伊勢の斎宮のもとにかなり伝わっていた様子がうかがえますね。となるとこの託宣事件も京都の朝廷の状況と何らかの形で関わっていた可能性も…

先述のように嫥子女王は朝廷や天皇家を糾弾するような託宣もしています。そして当時の天皇は数えで8歳で即位して9歳年上の奥さんを持たされたうえに世継ぎの男子を得られないまま29歳で死んだ後一条天皇。朝廷内もちょっと不安定だったようですね。

彼女はおそらくこの状況も知っていたのでしょう。

…話はまだ終わりません。この託宣事件の少し後に藤原道長ネガティブキャンペーンと託宣事件が結びつくような出来事が起こります。

上記のようにあまり健康ではなかったらしい後一条天皇が1036年に死去したのちに同母弟の後朱雀天皇(1009-1045)が即位するのですが、彼は敦康親王の娘、つまり藤原定子の孫の「藤原嫄子(もとこ/げんし)」を中宮とするのですが、その後伊勢の地で次々と災難が発生します。

伊勢神宮の外宮が台風で倒壊、人事を巡る権力闘争、さらには伊勢神人たちが強訴を敢行。さらに人智を超えた怪異も多数。

そんな状況を知った人たちは「これは天皇高階氏の女性を中宮に迎えたことによる伊勢の神の神罰である」と噂したのだった…

そして 藤原嫄子は二人目の娘を産んだときに死去、享年は藤原定子よりも1歳若い、数えで24歳でした。

これによって高階氏の「伊勢の神に嫌われた一族」というイメージはおそらく決定的になったのでしょう。それが巡り巡って南北朝時代における高階氏出身の高師直&師泰兄弟の天皇の権威など知ったこっちゃないような南朝への容赦ない攻撃をもたらしたのではないか? と考えてもそれほど無茶な話ではないように思えます。

怖いですねぇ。

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