『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』 偉大なるスーパーヒーロー (original) (raw)

ジョン・ワッツ監督、トム・ホランド、ジェイク・ギレンホール、サミュエル・L・ジャクソン、ゼンデイヤ、ジェイコブ・バタロン、アンガーリー・ライス、レミー・ハイ、トニー・レヴォロリ、コビー・スマルダーズ、マーティン・スター、J・B・スムーヴ、ヌーマン・アチャル、ジョン・ファヴロー、マリサ・トメイほか出演の『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』。

『ファー・フロム・ホーム』と『アベンジャーズ/エンドゲーム』のネタバレがありますので、ご注意ください。

スーパーヒーローたちのチーム“アベンジャーズ”が全人類の消されていた半数の人々を5年ぶりに元に戻して世界を救ってから8ヵ月後。スパイダーマンことピーター・パーカー(トム・ホランド)とクラスメイトたちは旅行でヨーロッパを訪れていた。早速ヴェネツィアで水の怪物に襲われるが、空を飛ぶ謎のヒーローの活躍で撃退される。彼、“ミステリオ”ことクエンティン・ベック(ジェイク・ギレンホール)によると、怪物の正体は彼がやってきた別の次元の地球を滅ぼした「土、水、火、空気」の要素からなる“エレメンタルズ”だという。ピーターはニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)に命じられて、新たに出現する怪物を倒すためにミステリオと協力しあう。

2D字幕版とIMAXレーザー3D字幕版を鑑賞。

『エンドゲーム』から直接繋がる物語で、2017年の『スパイダーマン:ホームカミング』に続くトム・ホランド主演のMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニヴァース)版「スパイダーマン」シリーズ第2弾。音楽は前作に続いてマイケル・ジアッキーノ。

『エンドゲーム』でアベンジャーズの物語に一区切りついたこともあってMCUともそろそろお別れかな…とも思っていたんですが、『ホームカミング』は好きだったし「フェイズ3」最終作ということで、ともかくこれは観ようと思っていました。

『ホームカミング』は主要登場人物の紹介も兼ねていたからそこそこ単品で観られたんだけど、この続篇はもうがっつり“アベンジャーズ”関連作の1本として作られていて、まず前作『ホームカミング』はもちろん、『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』を観ていなければ、お話の要の部分、主人公ピーターとまるで父親のような存在だったトニー・スターク(=アイアンマン)の関係性、そしてこの映画でピーターが何にそんなに苦しんでいるのかがわからない。

つまりこれは、ピーター=スパイダーマンがアイアンマンのあとを継いでアベンジャーズのリーダー的な存在となっていく過程を描いたもので、それは16歳の少年の大人への成長のことでもあり、『ホームカミング』がそうだったように「スーパーヒーロー物」の形をとった青春映画の一種でもある。

前作はワシントンD.C.、今回はヨーロッパ(イタリア、チェコ、ドイツ、オランダ、イギリス)と、毎度のようにピーターとクラスメイトたちが故郷のニューヨークを離れて移動してるのがなんだか可笑しいですが。

これまでの映画版では長らくスパイディといえばニューヨーク、というイメージだったけど、トムホのスパイディは全然ニューヨークにいないよね^_^;

ちなみに、いかにもニューヨークっ子みたいな感じ(ってよく知らんけど勝手なイメージ)ですが、トム・ホランドはイギリス人。

MCU版のスパイダーマンはサム・ライミやマーク・ウェブの監督作と差別化を図ろうとしているのがとてもよくわかる。たとえば過去のシリーズに登場済みのヴィラン(悪役)を重複させないようにしているし、物語の作り方もこれまでのシリーズで描かれたパターンをあえてひと捻りしていたりする。

過去のシリーズで散々語られてきたベンおじさんやピーターの両親については思いっきり端折って、その代わりトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)を彼の疑似的な父親のように描いたり、メイおばさん(マリサ・トメイ)は大幅に若返って今回はなんと長年トニーに仕えてきたハッピー・ホーガン(ジョン・ファヴロー)とヤッちゃうひと夏のアヴァンチュールを楽しむし、さまざまな肌の色をしたクラスメイトたちは多様性に溢れているし(ムスリム用のヒジャブを被っている女の子もいる)。アジア系のブラッド(レミー・ハイ)がイケメンとして人気があったり、ラティーノであるトニー・レヴォロリ演じるフラッシュは金持ちの家のボンボンだし、これまでのハリウッド映画のステレオタイプなキャスティングを意識的に変えている。

今回のお話はスパイダーマンのシリーズでお馴染みの「普通の人が実験の失敗や薬物の影響で怪人化する」といったパターンからは大きくハズれたもので(スーパーヒーローに恨みを持つ者たちが敵、ということは共通しているが)、それはベックの「人は見たいものを信じる」という言葉通り、作品自体が僕たち観客が“スーパーヒーロー映画”に期待するものへのメタ的な言及にもなっている。

ヴェネツィアで人々を救ったミステリオ=ベックは、ピーターに自分は多元宇宙の別の世界からやってきたのだと告げる。そこで彼は家族をエレメンタルズに殺されたのだ、と。

やはり多元宇宙(マルチヴァース)のさまざまなスパイダーマンたちが一堂に会するアニメ映画『スパイダーマン:スパイダーバース』や、『エンドゲーム』で宇宙からやってきたサノスとの壮絶な戦いを観たばかりの僕たちは、ピーター同様にあの戦いがなんらかの影響を与えてこの世界と別の宇宙が繋がってしまったのだろうか、と想像する。事実、そういう展開になってもおかしくないほど、もはやMCUの世界は「なんでもあり」になってきているし。

だから、その期待を逆手にとった『ファー・フロム・ホーム』のストーリーには、なかなか「してやられた感」がありましたね。

ただ、ぶっちゃけ正直なところ通常のサイズのスクリーンで2Dで最初に観た時には、僕はかなり肩すかしな印象を受けてしまったんです。

だって、見かけ上の敵は過去に『スパイダーマン3』に登場した自在に姿を変えるサンドマンみたいなあまり面白味を感じないモンスターたちだし、結局のところ今回スパイダーマンが直接戦っていたのはトニー・スタークの会社が作った大量のドローンたちだったわけで、すべての元凶はトニーじゃん、と。

ピーターが恋敵だと思っていたブラッドを撃ち殺そうとしたのも、欧州の街を次々と破壊しまくって人々を危険な目に遭わせたのもトニーが作った武器だ。そもそも彼があのような恐ろしいものを作ってそれをピーターに託したりしなければベックの計画は成り立たなかったんだし、あんな大事にもならなかった。

トニーはかつて『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で地球の防衛のために作った人工知能が人類に反乱を起こしてアベンジャーズがそれと戦う羽目になったんだけど、あの時とまったく同じ過ちを犯していることになる。

この『ファー・フロム・ホーム』でトニー・スタークは「偉大なスーパーヒーロー」として讃えられているけど、それは違うんじゃないか。彼がベックを生み出し、人々にとっての脅威を作り出したのだ。これこそ「まやかし」ではないのか。僕らは「スーパーヒーローとヴィランの戦い」という茶番を延々と見せられているのだ。

前作の敵・ヴァルチャー誕生にもトニーが大きくかかわっていた。ヴァルチャー=トゥームス(マイケル・キートン)もまたトニー・スタークに仕事を奪われ、アベンジャーズが戦った宇宙からの敵チタウリのテクノロジーを使った武器で犯罪を重ね暴れていた。

敵が生まれる背景にはいつもトニーがいる。

だからまともにストーリーを追ってると、どんどん首を傾げたくなるんですよね。

いやいや、実はトニー・スタークこそが最大のヴィランじゃないのか?と。

そんな調子で映画を観終わってもモヤモヤが拭えなくて、でもすでにIMAXのチケットは買っちゃってたんで(本当はその日の1本目は邦画の『新聞記者』を観ようと思っていたんだけど、劇場行ったら完売だったので急遽スパイダーマンを2回観ることに)、「しまった、こんなんだったら1本は『アラジン』*にしておけばよかった」と後悔すらしてしまったほど。

※ニック・フューリーに命じられてピーターたちをバスでプラハまで送るコワモテのディミトリ役のヌーマン・アチャルは、『アラジン』で国王に仕える衛兵の隊長ハキームを演じている。

…でも、そこが“アベンジャーズの法則”で、また2回目にはフツーに楽しめちゃうかも、と気を取り直してエグゼクティヴ・シートの真ん中近くのすごくいい席で観たところ──

めっちゃ楽しめてしまったのでした(学習しない男)w

いえちょっと、言い訳させてくださいよ^_^;

この映画は大きなスクリーンで鮮明な映像をド迫力の音響とともに観るほど、それが映画の内容とマッチしてより入り込みやすく面白がりやすくなっているんです。

だって、今回の悪役は人々=観客の目を欺いてまるで「本物のような作り物の映像」を見せるのだから。それってつまり「映画」のことですよね。

ベックが彼の技術スタッフたちに指示を出して「ミステリオ」と「エレメンタルズ」の戦いの“幻影”を迫力満点なものに仕上げようとしているシーンは、そのまま映画監督がVFX(視覚効果)の場面の手直しをしている姿を彷彿とさせるし、明らかに作り手は意図的にそのように演出している。

僕は原作コミックは読んでいないけれど、でも原作のミステリオは本職が特殊効果マンという設定だそうだし。

なので、スクリーンの映像が迫力あって真に迫っていればいるほど、ベックの言った「人は見たいものを信じる」という台詞の説得力が増していくんですね。「映画」というのは、そうやって観客を作品に没入させて「信じ込ませる」ものなのだから。

すでにご覧になったかたたちが皆さん指摘されているように、この映画はこれまでマーヴェルが作ってきたMCU作品それ自体への自己言及、自己批判にもなっていて、どんどん肥大化していく作品世界とその規模、そして観客の期待などがそのまま劇中の登場人物たちの言動やストーリー展開に反映されている。

そして、僕が1回目に観た時に感じた疑問(トニー・スタークは本当にスーパーヒーローなのか?)も、IMAXで観た2回目でよりハッキリ意識させられました。逆に、それもすべてが計算の内なのではないか、と。

ベックは最初はまるでトニーに代わってピーターを導いてくれる父か兄的な頼りがいのある人物として登場するし(無精ヒゲを生やしてサングラスをかけたジェイク・ギレンホールの顔がトニー役のロバート・ダウニー・Jr.のそれを思わせる)、そのベック=ミステリオが実はトニーに恨みを持つ、まるで裏トニー、裏アイアンマンのようなキャラクターだったことは、「スーパーヒーロー」というのがいかに危うい存在なのか示唆してもいる。トニーのあとを継いで「スーパーヒーロー」になることに躊躇し続けるピーターにとって、ベックは彼の怖れが実体化したようなキャラクターだ。

ヘンな話、僕はこうやって劇中でみんなから持て囃されている「今はなき偉大なるトニー・スターク」が、いつかスパイダーマンの前になんらかの形で“敵”として現われるんじゃないか、と夢想してしまったほどなんですよね。これまでの「トニー上げ」はそのための前振りなんじゃないかとすら思えてきて(後半でベックがピーターに見せたボロボロにミイラ化したアイアンマンの幻影は、ちょっとそれっぽいが)。

スパイダーマン=ピーター・パーカーにとっての「乗り越えるべき存在」アイアンマン=トニー・スタークが最大の敵だった、というのは、それこそ『エンドゲーム』の感動さえも吹き飛ばしてしまうほどの禁じ手の「どんでん返し」でありながらも、若者がそれまで絶対視していた師を乗り越えるための通過儀礼、人の「成長」のメタファーとしてはもっとも効果的な展開だと思う。そういう物語は古今東西数多くありますし。

1回目と2回目でこんなにも観終わったあとの印象が異なるというのは、1回でその面白さが理解できないほど僕が鈍いのか(その可能性が高いが…)、それともこれは2回ぐらい観ないとそのよさがわからないような作品なのか。いちいちお金かかってしかたないんですが(´ε`;)

前作に続いてもはやお馴染みとなった主要キャラたちとまた会えるのは嬉しいし、なおかつシリーズ物のルーティンを避けてスーパーヒーロー映画の新しい可能性を探っていこうとしている作り手の姿勢にも頼もしさを感じる。

ピーターの親友のネッド(ジェイコブ・バタロン)が飛行機の中で隣の席になったベティ(アンガーリー・ライス)と即行で付き合いだして、旅行が終わる頃にはもう別れてる、というのも、メイおばさんとハッピーの件もご都合主義そのものだけど、それらはコメディ演出だし、MJことミシェル(ゼンデイヤ)とピーターのキュートな恋とともにそのたわいなさが微笑ましくもあり、だからこそこの映画は深刻にならずに楽しめる。

しかし…ピーターよ、前作ではリズ(ローラ・ハリアー)に気があったんじゃないのか?彼女が引っ越したらあっという間にMJに鞍替えか?^_^;

MJを演じるゼンデイヤはサム・ライミ版のキルステン・ダンストのようにピーターを振り回したりはしないし、アメスパのエマ・ストーンみたいに顔の表情の変化が豊かではなくてクールな雰囲気なんだけど、そんな彼女がたまに見せる笑顔が魅力的だったり(普段のちょっと眠そうな目が可愛いw)、最後のささやかなキスがとても爽やかな印象を残す。

スパイダーマンに抱えられてビルの谷間を飛ぶ時の、まるでジェットコースターに乗ってるようなリアルな絶叫顔が最高(^o^)

ゼンデイヤご本人は『グレイテスト・ショーマン』でアクロバティックなロープの曲芸を自分自身でやってたぐらいで、なんなら彼女もスーパーヒロインを演じられるほどの運動神経抜群の人だからスパイディのスウィングだってほんとは全然平気なんだろうけど。

エンドクレジットのあと、この映画に登場したニック・フューリーとマリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)が、実は『キャプテン・マーベル』に出てきたシェイプシフターのスクラル人・タロス(ベン・メンデルソーン)とその妻ソレン(シャロン・ブリン)が変身した姿だったことが判明。

ベックにまんまと騙されていたのはタロスだったということで(なんだかんだ言って、今回の騒動はすべてこいつのせい)、ニック・フューリーの面目は保たれたわけですねw

本物の彼は宇宙でスクラルたちを指揮していた。そして「フェイズ4」に続く、と。

また、サム・ライミ版スパイダーマンで新聞社のジェイムソン編集長役だったJ・K・シモンズ(今回は思いっきりハゲとるやないかいっ)が同じキャラクターで本篇終了後にワンシーン出演、スパイダーマンをベックの殺害とドローンによる攻撃の真犯人として告発する。そしてピーターの名前がバラされて、全世界に知れ渡ってしまう。トニー・スタークの「私がアイアンマンだ」とまったく同じ状況。

ジェイムソン編集長の登場はちょっとしたお遊びだったのか、それともさらなる続篇にも彼は出てくるんでしょうか。

スーパーヒーローは本名を隠す、という「お約束」さえも師匠に倣って破ってしまったスパイディ。MJにもとっくの昔にバレてたし。

それにしても、同じ1本の作品の中でこんなにコスチュームをとっかえひっかえするスーパーヒーローもなかなかいないんじゃないだろうか。『エンドゲーム』の時のメタリックな表面のものからサム・ライミ版のようなオーソドックスなデザインや真っ黒な「ナイト・モンキー」仕様(笑)のものまでさまざま。

でも、どれも“スパイダーマン”なんだよね。これもまた多くの作品のすべてのヴァージョンを「全部、スパイダーマン」と宣言してるようで。

1回目観た時には「スパイダーマンの映画を観るのも今回限りかなぁ」なんて思ったんだけど、2回目鑑賞後は「次も、観るかも…」に変わっていた^_^; まぁ、勝手にすれば、って感じですが。

なかなか卒業できそうにないな(;^_^A

関連記事

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』【ネタバレなし】

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』【ネタバレあり】

『2分の1の魔法』

『ナイトクローラー』

『ブラック・ウィドウ』

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ