オートファジー1035日目と畑と二本松少年隊と木村銃太郎 (original) (raw)

2024/7/13土曜日

4時に起床。

4時45分に畑へ。

今朝は出掛ける前にウンコをさせて貰えなかった。

わいの排泄はCIAに管理されとる。

恐らく畑で壮大なスカトロショー開催と予測。

畑に到着後、便意

はえーな。

これからまだ色々やる事ある。

牽制を兼ねいきなりのツイート。

と、思ったらパスワード入力画面にハッキングされ、何度uを押してもyと表示される嫌がらせ。

芸が細かいやろ?

CIAの下っ端が朝の5時前から56歳のオバハンに張り付いて嫌がらせしてるんやで。

何が楽しくて56歳のデブなオバハンにストーカーして張り付いてんのか。

金が貰えるからて、やる?

やる奴らがおるんよ(笑)

↑これをツイートしたら取り敢えず入力は正常に行われ、スマホを起動。

犯行を早速ツイート。

これで10分間は止まった。

上に指示仰いでんのかね。

今度は上半身にビリビリと電磁波攻撃。

すかさずツイート。

多分畑そばに設置されているこれから電磁波攻撃と推察。

あ、M16はイギリスの諜報機関

こっちの方がCIAより老舗。

近所にはアメリカ人も住んでるけどイギリス人も住んでるから一応疑ってみる。

この距離なら届くべ。

何せ指向性エネルギー兵器と言う軍事兵器だから。

もうね、ここから10分置きに便意に襲われ、畑仕事にならない。

リアルスカトロショーよ。

早朝開催の。

早起きのあなただけが見れる。

主演56歳オバハン。

主催Deep State

冬瓜の弦が次々伸びてきて行き場を失ってたから支柱の本数を増やしたかったんよ。

作業半ばで6時に畑を後に。

帰宅後、トイレで用を足してから、収穫した野菜を洗浄。

夫に人参小さいね、と言われた。

これは、間引きした人参だからしゃーない。

葉っぱを美味しく頂く予定。

シャワーを浴びたら、洗濯物を干すついでにベランダガーデニング。

育苗中のポットにカビ菌の素を撒かれていた。

昨日は何とも無かった。

雨とか降るとそれにかこつけてやるんよ。

DS派遣の悪魔が。

奴ら色んな菌を所持してる。

冷蔵庫内の塩麹とかにも菌を仕込んでくる。

大体、カビ菌系は奴らの仕込み。

味噌とか醤油にも仕込むけど、うちの味噌と醤油、どんだけ塩使ってるか知っとんの?

分量の30%とか、普通のレシピの2倍近く使うから。

塩、嘗めんなよ。

無理くり撒いてんのバレバレよ。

あ、育苗ポットにはにがり水を振り掛けた。

9時から読書&調べ物。

今日は、紺野庫治著「開戦前夜の少年達」

鳥羽・伏見の戦後、各藩使者の往来や軍需取引、はては藩兵の移動・調練と藩内は慌ただしさを増し、白河戦争に及んで二本松城下も戦場と同様に。

「当月中諸藩の兵隊東西に奔走し、早追う」人馬昼夜を分たず、宿駅是が為に疲弊し在々村々一家に男子三人有るものは三人使はれ五人あるものは五人出す。上の夫卒、往来の徭役一人も隙あるものなし」(6月3日中島黄山日記)

武器の増強や活発になった調練で弾薬が不足。

生産が間に合わず木村道場の門下生が応援に出動。

少年隊員の上田孫三郎氏は「特別の訓練は5月頃より行われ火薬調製は毎日弁当持参で行った」と回想白河城攻防戦に出動した藩の主力は日を追って後退。

棚倉城は落ち守山城は開城。

戦雲が身近に迫ってくるのをひしひしと感じた。

6/29, 河原田で儒者渡辺梅窓新助が戦死したとの報を聞いた少年達はいよいよ身近に戦争が迫ったことを痛感。

白河派兵の未帰還と迫って来た西軍の情勢を知った少年達は出陣を嘆願。

銃太郎の門下生達は銃太郎を通して藩に嘆願。

二本松藩では満二十歳に達すると藩に出仕するのが普通。

但し特別の事情、或は父が特に功績があって死亡し子が幼かった場合は未成年でも当主に。

例えば少年隊員の250石高根源十郎(13歳)・300石丹羽寅次郎(14歳)はその該当者。

しかし、18歳になった時点で二十歳に達した旨を藩に届け出れば藩では成人と見て取り扱うのが藩の慣例。

この事を「入れ年」と言った。

従って17歳以下は戦争に参加出来ない事となるが、父に従って行く場合とか鼓手は例外だった。

両三の嘆願には藩は兵力の不足を補うべく16・17歳の少年の出陣を許可。

各隊に配属した。

大谷与兵衛に配属された小川又市(17歳)山岡房次郎(14歳)但鼓手、松田馬吉(16歳)、

樽井弥五左衛門の岩本清次郎(17歳)中村久次郞(17歳)田中三治(16歳)武藤定助(15歳)但鼓手、

大谷鳴海隊では小山貞治(16歳)松井官治(17歳)但し祖父!に従って。

祖父て。

久保鉄次郎(15歳)らが名簿に見られる。

但し、大谷与兵衛隊の場合は遠くにいたので少年達の戦線への参加については疑問が残る。

鼓手を命ぜられた武藤定助は江戸帰りの小沢幾弥について鼓法を学んだ。

幾弥は江戸で鼓法の免許を得て開戦間近に帰藩。

「6/27, 武藤定助 三番組 鼓手方被命 二人扶持」という辞令が出た。

大谷鳴海隊の名簿には大砲方として久保鉄次郎(15歳)、小山貞治(16歳)の両名が記名されている。

15歳までの出陣許可が出たのは7/26。

27日に15歳の鉄次郎は重傷を負っている。

15歳の出陣許可は入れ年の慣行から13歳までの出陣を黙認。
木滝幸三郎の追想談によると「余は戊辰の当時15歳にて従軍を許されず兄万次郎(20歳)の従軍せるを見て羨ましく藩庁に対して数回嘆願せしに7/27に漸く許可される」

水野進(14歳)の「二本松戊辰少年隊記」には「訓練五ヶ月にして大いに上達す。七月初旬に至り味方の敗報頻りに至る。或は本宮・三春付近までに敵軍の押寄せ来れるを伝ふるものなり。7/26の朝、俄然余等に出陣の命下る。余等の満足例うるに物無し。両親の門出を祝ふ盃などにて早陣頭に立ちたらん心地して夜の眼も合はず、、、、」

と書いてある。

「二本松戊辰少年隊記」は著者の水野進が西崎銀蔵(14歳)と話し合ったことを戦友の五十回忌(大正6年7月)に当たって書き綴ったものを謄写して配布したそうだ。

岡山篤次郎(13歳)は出陣に際し母に自分の戦場への持参品全てに記名を願ったので母のなおがそのわけを聞くと篤次郎は「字が下手だと敵に見られた時に恥ずかしい。それに屍が腐った時にお母さんが僕を探す時に直ぐ判るでしょう」と答えた。母は篤次郎の晴着の衣装の襟や鉢巻にも「二本松藩岡山篤次郎13歳」と書いてやった。

成田才次郎(14歳)の父外記右衛門は出陣する才次郎に「敵を見たら刺せ。切ってはならぬ。突くのだぞ」と訓えた。

徳田鉄吉(13歳)の父は茂承という。

茂承は文久3年に富津在を命ぜられたが病気の為従役出来ない身の不甲斐なさを無念として割腹して果てた。

幼かった鉄吉はこの事を知らずに育った。

いよいよ出陣と決まった夜、母の秀(老人組遠藤段七の娘)は仏壇の前に鉄吉を呼んで「当主佐七郎は出陣していますから、女子ではありますが出陣についての心得を話しましょう」と最後の訓えを語った。

遠い祖先が天正の戦争の時に(伊達政宗二本松城主畠山義継との合戦)君の馬前に戦死したことや夫茂承の最後の事を語り、続けて「お前様は兄上と二人でお父様の分も忠勤を励んで貰わなければなりません。他に遅れを取らぬばかりか他に倍して働くよう」と愉し、夫の遺言状を見せた。

上崎鉄蔵(16歳)の家は四人扶持と小身の為裕福でなかった。

父の織衛が出陣したあとには戦陣で斬り合いに用いられるような大刀は無かった。

せめて武士の魂の太刀だけは恥ずかしくないものを持って出陣したいと考えていた鉄蔵は浮かない顔をしていたので母に詰問され本心を語った。

母は外出し暫くして風呂敷包みの大刀を持って帰ってきた。

母のすまは実家斎藤弥治兵衛家に行き事情を語って一振り(相州ものという)の大刀を貰って来た。

出陣の朝、祖母と母が玄関で「いってらっしゃい」と言うと鉄蔵は「いってらっしゃいではないでしょう。僕は行くだけです。帰ってきません。今日は行け、とだけでいいのです」

遊佐辰弥(13歳)も、兄昇之進は与力として出陣。

家庭も裕福ではないので叔父の家老丹羽一学から大刀を借りて出陣した。

久保豊三郎(12歳)は友人の高橋辰治(13歳)が出陣すると聞き母に自分も出陣したいとせがんだ。

そこで母は下僕を付けて大檀口に行かせた。

見たら直ぐ帰ってくるよう言ったが下僕だけが帰って来た。

隊長木村銃太郎の軍装は、緋色の袴、

白く龍雲を描いた陣羽織、(二本松)明珍の具足。

二本松兵の共通は肩章のみ。

7/26, 27に少年達に出陣の通知。

木村銃太郎門下生のみ丹羽右近の一団の大砲方として大檀口の防戦に当たることに。27日午後五時、北条谷の道場に集合。

28日は午前七時に道場に集合。

学館前に引率されている。

藩校敬学館前に集合しライフル大砲壱挺、小銃元込と二口バンド軍用金壱両三分を渡され総勢25名、木村銃太郎隊長に従い大壇口向かって右に着陣。

学館前で少年達は副隊長二階堂衛守(33歳)を紹介された。

出陣の際は大砲が重いので大八車に載せて運んだ。

松坂門を出ると下りの坂道。

急な坂道で大八車を制御できず桑畑の中へ突っ込んだ。

大砲に損傷は無かった。

大檀口守備隊は八番組組頭丹羽右近を隊長とする三個小隊で西軍の屯集する本宮に対する要職である。

銃太郎の率いる少年達23名はその配下に。

大檀口の右手は多くは畑地。

杉の木の中間に大砲を据え置いた。身を隠蔽する所無きゆえ枠木を打ち込み横に丸太を渡し之に畳を2枚ずつ並列し縄を以て括り附く。

相原秀郎著「少年隊・木村銃太郎戦死」

慶應4年(1868年)7月29日未明、二本松城下への入口である大檀は白い霧に覆われていた。

この戊辰の年は閏四月があるので現在の暦では9/15に相当する。

藩主丹羽家の菩提寺である大隣寺の二十六世高松先魁學師が三年間の托鉢で得た浄財を基本として有志と謀り昭和6年10月に着工。

竣工式は二本松落城の日に当る9/15に本山から導師を招いて開眼式を行っている。「二本松少年隊」の呼称も大正6年7月29日に営まれた戊辰戦争戦死者の五十回忌の法要の際に配られた「二本松戊辰少年隊記」が最初である。

著者は水野好之、戊辰戦争当時14歳で大檀口へ出陣し生き残った水野進である。

昭和元年12/29に発行された「二本松藩史」では第二篇「戊辰史」に「少年隊勇戦附老人組の奮戦」の章があり17歳以下で各戦場に配備され戦った51名の少年の記録が記載されている。

慶應4年5/6に奥羽列藩同盟が締結され白河城を巡る東軍と西軍の戦いが始まった。
この白河戦争は7/15・16日の浅川戦まで約2ヶ月半の間に10回の戦いが行われている。

この白河戦争に二本松藩は藩の正規軍を次々と繰り出し参戦。

が、東軍に利あらず、領内最南端の笹川宿等に駐屯していた。

このように正規軍を白河戦争に繰り出していた二本松藩は7/3, 領内警備の手薄を補う為農兵を組織。

二本松藩は領内支配に際し十ヶ村位で組を作りそれぞれに代官を配置。

農兵もこの制度に拠っている。

安積郡の場合、片平組100人、郡山組100人、大槻組100人、唯一の町宿の郡山町宿200人の計500人、他に猟師20人。

猟師には鉄砲預証文により現在にいうところの有害鳥獣駆除の為弾目三匁五分の火縄銃が貸与されていた。

これらの農兵達は六尺棒や鎌を持ち武器らしいものは猟師の火縄銃くらいである。

それでも寺の境内で訓練を行い火縄銃の銃声が聞こえていたという。

白河での戦いが始まり5月に入ると砲術の各道場で白河の前線へ送る弾丸作りが大忙しに。

硝石、硫黄、木炭を薬研で極微細な粉末に仕上げそれを竹筒に入れて金棒で突き固め七、八寸の蝋燭状のものを作った。

そして、火薬は火薬製造所で作られ御鍛冶屋で作られた鉛の玉を用いて小銃弾を門弟達が作った。

親指大で五寸位の棒があり棒の端が凹んでいた。これに紙を巻き棒を外した後、火薬と玉を詰めて完成。これが「ハトロン」と呼ぶ小銃弾。

1日1人300発作った。

火薬製作所では6月頃に火薬の破裂事故が発生。←DS悪魔による仕業。

職人2人と役員が犠牲に。

出陣前の少年達は各々の道場でこの作業を行った。

二本松戦後の9/26, 二本松宿陣参謀局に引き渡した武器には

一、西洋小銃457挺但ハトロン12,500発分

10/9福島参謀局に引き渡した武器には

一、西洋小銃441挺此内

一、ミニヘール筒400挺

一、ゲベル筒23挺

一、ハトロン32,500発分

此内

一、ミニヘール玉28,885発

一、ゲベル玉3,675発

(西洋小銃とハトロンのみ抜粋)

の数字があり特に和小銃の数や和小銃用のハトロンの数や他の武器の数が双方の文中に記載されている。

このような中で一部の少年達に出陣が許可され各部隊に配属されている。

7/27の本宮戦までに大谷鳴海隊の大砲方として久保鉄次郎(15)小山貞治(16)、

大谷志摩隊の大砲方として根来梶之助(16)上崎鉄蔵(16)高根三右衛門隊には鼓手として西崎銀蔵(14)

樽井弥五衛門隊には鼓手として武藤定助(15)

大谷与兵衛隊には鼓手として山崎房次郎(14)松田馬吉(16)が配属されていた。

鼓手は少年鼓手で技能者であり少年も出陣が認められていた。

開戦直前にこの事を知って鼓法を習う者が増えたという。

教えたのは江戸詰め藩士の子、小沢幾弥(17歳)

小沢は慶應三年11月に江戸で蘭式鼓法の免許を得ていた。

太鼓は立派な武器として扱われており10/9, 福島参謀局に以下のように引き渡している。

一、太鼓 二箇 四膳

少年鼓手であっても正式な隊の一員であり出陣に際し藩から正式に銃が渡され戦闘要員の一員であった。

幕末、二本松藩は兵制を銃隊編制に。

士分は銃士、足軽は銃卒とし、銃士は二つバンドのミニエー銃、銃卒はゲーベル銃とした。

ミニエー銃にはオランダ製とアメリカ製があるが二つバンドがあるのはアメリカ製のみ。

オランダ製には無い。
二つバンドな三つバンドに比べ口径は14.5ミリと同じ。

が、銃の長さが120センチと20センチ短く重さも3.6キロと0.5キロ軽く出来ている。
ゲーベル銃はオランダ製で口径17.5ミリ。銃の長さが150センチ、重さ4.8キロ。

体格の良いオランダ人用で小柄な日本人には不向きな銃であった。
150センチて、当時普通に成人男性にこの身長の人居たやろ。

ミニエー銃、ゲーベル銃共に銃の先から玉を込める先込銃で雷管を使用する雷管銃。

後年、生き残りの少年隊士がミニエー銃について「後でアメリ南北戦争に使った古物とわかった」と述べている様に時代遅れと言える物だった。

中古品を新規品扱いで買わされたんか?DS武器商人は笑いが止まらんな。

一つの銃で2度代金貰うのだから。

流石の商売人よ。

後に二本松少年隊長と呼ばれる木村銃太郎は、宗領無足四人口(部屋住四人扶持)の身。

当主の父賢治は大砲方として白河戦に出陣。

銃太郎は門弟の指導を行っていた。

木村銃太郎貞信は曾祖父が和算、最上流の開祖会田安明の高弟で門下四天王の一人だった渡辺一(東岳

渡辺東岳は土湯出身。

土湯で会田安明に出会い会田に才能を認められ22歳で江戸へ。

会田の門弟となり31歳で帰郷。

文政2年に65石で二本松藩に仕え、文政7年に起きた山崩れで元岳温泉が埋まり多大な死傷者を出した後、復興の為6キロ下った塩沢村に十文字岳温泉を作る際、温泉を引くための木管を通すルートの測量設計を行い一年足らずで温泉は完成している。

東岳は砲術にも関心があり「炮器製作算法」という本を著している。

東岳の長男は土湯村の家を継ぎ第二子未文が藩士としての渡辺家を継ぎ砲術家に。

未文に貫と貫治の2子がおり貫治は木村左司馬の養子になり木村賢治貞次となった。

渡辺貫は若いうちに江戸へ出て幕臣渡辺庄左衛門から砲術を学び天保三年江戸音羽町の角場で行われた砲術競技で日本一と称えられた。

渡辺貫と木村賢治の兄弟は共に武衛流砲術師範として藩に出仕。

銃太郎は木村賢治とセン(平山氏)の子。サラブレッドや。

銃太郎は身長172〜175センチと高く百匁銃を片手で持ち上げる腕力から坂上田村麻呂の再来と評判に。

元治元年(1864年)18歳の銃太郎は藩命により江戸へ西洋砲術の修行に。

その半ばで鳥羽・伏見の戦いが勃発。

帰藩命令が下された。

二本松に戻った銃太郎は西洋砲術師範として父の道場で父の門弟と自分の門弟の指導にあたった。

7/27早朝、出陣の命令が下り木村道場に門弟20余名が集合。

銃太郎の引率で藩校敬学館へ。

程なく藩から二つバンドのミニエー銃と軍用金、4斤半砲一門が渡された。

少年達は銃太郎と二階堂衛守(33歳)に引率され大壇へ。

二階堂衛守白河口の戦いで猛将と称えられた番頭大谷鳴海の弟。

大壇の丘には既に関門が。

関門と言っても木の柵。

少年達も杭を打ち横に丸木を渡し畳を2枚ずつ括り付け胸壁とした。

27日に本宮戦で敗れた二本松藩兵は城へ戻れた。

が、本宮戦に間に合わなかった白河勢は西軍の本宮占領に伴い大きく西に迂回して二本松を目指した。

横森(郡山市和田町)から西へ折れ山道を辿り二本松を目指したが二本松戦に間に合わなかった。

藩は戻った兵の20小隊を要所に配置。

応援の会津藩兵5小隊と仙台藩兵は3小隊で西軍に備えた。

大壇には27日夜に帰藩した丹羽右近が3小隊を率い布陣。

「藩史」によると、

城南大壇関門 3個小隊

銃士隊長 丹羽右近兵庫

銃卒隊長 土谷甚右衛門

同 丹羽傅十郎

軍監 原兵太夫

とある。

銃士隊1小隊と銃卒隊2小隊の配備。

木村銃太郎隊はこの部隊の大砲方として配備。

少年達は一番西側に大砲と共に配された。

大壇の前方に尼子台。

藩の兵学師範小川平助隊が布陣。

7/29, 朝霧の中、二本松戦開始。

午前七時、城の北東部供中口での砲撃戦が最初。

供中口、高田口を見下ろす愛宕山には砲術師範朝河八太夫が門弟の小沢幾弥と共に陣取り西軍を砲撃。

砲弾を打ち尽くすと三森町口から愛宕山に攻め上がる西軍を銃撃。

太夫が瀕死の重傷。

幾弥も負傷。

幾弥は大砲の目釘を抜き八太夫を背負って愛宕山から退却。

午前9時、大壇口で戦闘開始。

銃太郎は緋色(赤)の袴に白地に雲龍を描いた陣羽織という目立つ服装。

著者はもしかしたら銃太郎は自分が目立つ事で少年達の犠牲を減らそうとしたのでは、と推察。

銃太郎は門下生最古参の岡山篤次郎(13歳)と成田虎治(14歳)を砲手に大砲を指揮。

西軍が隊伍を組んだまま正法寺村の東端に姿を現すと狙いを定め、その先頭集団に3発早打ちで砲撃した。

玉は先頭集団の頭上で破裂。

馬上の隊長らしい西軍兵がもんどり打って落馬するのが見えた。

西軍兵は散開し民家に隠れて撃ってきた。

西軍兵が隠れている民家を砲撃すると見事に命中。

西軍は兵を3手に分け大壇の丘を包囲するように攻めてきた。畳で作った胸塁は敵の銃弾が貫通。

倒木等を楯に銃を打った。

大檀口の最初の負傷者は高橋辰治(13歳)で敵弾が顔面を擦った傷。

高根隊に属し髙田口に居た奥田午之助(15)は供中口が敗れたあと大檀口に駆け付け戦っていたが敵弾に当たり戦死。

大檀口での少年隊士の戦死者は奥田だけであった。

負傷者は他に久保豊三郎(12)久保鉄次郎(15)小川安次郎(13)三浦行蔵(16)高根源十郎(13)成田才次郎(14)である。

本人等の申し出が無いので少ない。

敵弾は木村銃太郎の左の二の腕を貫通。

退却の用意に大砲の火門に釘を打ち集合合図の太鼓を打たせ集まった少年達に話そうとした時腰を撃ち抜かれ倒れた。←DS悪魔による仕業。

その場に倒れた銃太郎は「この傷では城に入っても足手まといになるだけ。首を打て」と首をさし伸ばした。

二階堂衛守介錯

二太刀目で落とした。

享年22歳。

哀悼。

既に部隊長丹羽右近から帰城命令が下され、城を目指すも若宮町の入口にある椚(くぬぎ)門が既に占領されていた為、貴船・大隣寺に出た。

そこで西軍に銃撃され二階堂衛守は戦死。

岡山篤次郎は重傷を負い西軍の手で野戦病院となっていた称念寺に収容。その日のうちに没した。哀悼。

岡山篤次郎、享年13歳。

13歳だが木村銃太郎門下生最古参の砲手。字の上手な母親に持ち物全てに記名をしてもらった子や。

二階堂衛守戦死後、銃太郎の首級は成田才次郎が持っていたが重くてどうにもならず桑畑の畝に埋めた。

銃太郎と衛守の両指揮官を失った少年達は散り散りとなり城下で白兵戦。

成田才次郎は郭内一ノ丁の通りで指揮を執る長州藩白井小四郎と出会い、父の教え通り二本松伝統の「突き」で仕留めた後、敵弾に倒れ戦死。

享年14歳。

丹羽長重重臣ながら非業の死を遂げた成田道徳の子孫よ。

自らも負傷し瀕死の重傷の朝河八太夫を背負って愛宕山から退いた鼓法師範の小沢幾弥は坂下門内に倒れ、既に視力を失っていた。

通りがかった西軍兵に「敵か味方か」と尋ね哀れに思った西軍兵が「味方」と答えると介錯を願った。

享年17歳。哀悼。

本宮戦で負傷し大檀口戦でも負傷した久保鉄次郎(15)は同じく大檀口戦で足を負傷した弟久保豊三郎(12)と共に西軍野戦病院の玉ノ井村玉泉寺に収容。弟豊三郎は11/1に、兄鉄次郎は12/6に没した。哀悼。

二本松少年隊士62名のうち戦死者14名、負傷者7名。負傷者が異様に少ないのは申出をしなかった為か。

今日はここまで。

12時昨夜以来の食事。

ヤロー共にはペペロンチーノを調理。

自分は納豆と玄米ご飯、味噌汁、鮭でお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

ポークシチュー、ガーリックトースト、竹輪サラダ、チーズonクラッカー、ウォッカ梅酒ロック。

今日も蒸し蒸ししていたのでウォッカ梅酒ロックをお替り。

美味しく頂いた。

お皿を洗ったら営業終了。

歩数計は7261。

充実した一日だった。