「橡」令和6年6月号掲載句の鑑賞 (original) (raw)

夕ざくら白きを抱く比叡かな 山下喜子

夕方比叡山の中腹に白く咲く桜、山桜、が見える。比叡は夕日を浴びて金色に輝いている。その雄大な比叡は桜を、たとえば我が子を抱くように、抱きかかえている。深読みすると、桜は日本、比叡は仏教の象徴と解釈できる。さらに、この句から本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」を想起することが可能かもしれない。宣長の「朝日」がここでは「夕日」である。なお、「夕桜」ではなく「夕ざくら」と表記することにより、「桜」のイメージが強くなることを避けて夕日に浮かぶ比叡を主役とする効果が生まれている。

落花飛花とほく薄るる銃後の日 山下喜子

散る花は「大東亜戦争」で戦死した同世代の若者をふと想起させる。銃後を守ることが当然の義務だったあの頃の日々は遠い昔となってしまい、それと共にその頃の心性が薄れつつあるなあ。興味あるのはなぜ今この句が詠まれたのか、ということである。やはり最近の世界情勢や日本を取り巻く情勢に危うさを感じてのことなのだろうか?ただし、戦後に生まれ戦争を知らない私のような者がこのような解釈をすること自体が僭越の極みのようにも感じる。

おぼろ夜の十歩ほどなる狸橋 山下喜子

狸橋は京都市新門前通と古門前通の間の白川に架かる実際にある橋。知恩院につながる道のある北側から新門前通りから南にある華やかな祇園への入り口。たった十歩で異世界へ入るのだ、という驚き。それが素直に受け取るべき句意かもしれない。しかしそれでは「おぼろ夜」の意味が捕捉できていない。むしろ「おぼろ夜」の措辞は、「狸橋」の実際の橋の意味を離れたそのことば自体の喚起力と合わさって、おぼろ夜の中たった十歩で異世界(ワンダーランド)に迷い込んだようだという幻想的な詩世界を創出している。

四十雀一家来てをり四温の日 羽貫琢良

三寒の後のつかの間の暖かい日に四十雀の一家団欒。体も心も暖かい。

栃の芽の解れそめたる彼岸入 羽貫琢良

栃の芽がほぐれてきたなあと思ったら、ああ丁度彼岸の入りだ。

鶯の夫移り飛ぶ日和かな 羽貫琢良

鶯が忙しく飛び移って幸せな暖かい春の日。ただ、「夫」としたことの意味が気に掛かる。作者の奥様は健在なのだろうか?

油蝉荘に高積む薪いきれ 鳥越やすこ

油蝉の鳴く暑苦しさと薪いきれの呼応。

蒲公英の絮のまったき一揆の地 山下誠子

野原一面の蒲公英の白い絮は一揆で亡くなったおびただしい数の死者の墓標だ。

切々と雲雀のオラショ原城址 山下誠子

雲雀の囀りを普段聞いても「切々とした祈り」とは聞こえないが、原城の跡で聞く揚げひばりの囀りは天に向かっての祈りのように聞こえてしまう。

菜の花や干拓道路海を割り 山下誠子

干拓道路に沿って黄色い菜の花が連なり、その左右に青い海。雄大で美しい景色が見える。

緑立つ法話短き修行僧 布施朋子

新緑の季節の若い修行僧の法話はどことなくぎこちなく短く終わった。別に責める気持ちはない。よく頑張ったね。これからも頑張れ!「新緑」と若い「修行僧」の取り合わせ。

音高く如露に水張る夏隣 布施朋子

如露に水を勢いよくいっぱい入れる。その音が大きい。ああそうだ、たっぷりと水をやらないといけない季節、夏がもうそこに来ている!