うぐいすの音 (original) (raw)
こんにちは。
今日は、以前家族で行った東北旅行の感想を書いていきます!
今年の夏、私の家族は3泊4日で東北に旅行に行ってきました。
全行程はこんな感じ。
2日目:岩手県遠野市(柳田國男『遠野物語』の舞台)→青森県八甲田山資料館(新田次郎『八甲田山死の彷徨』で有名)
3日目:青森県金木町(太宰治生誕の地)→青森県北津軽郡中泊町(太宰『津軽』の舞台)→青森県五所川原市(太宰ゆかりの地)→青森県木造駅(遮光器土偶「しゃこちゃん」がモチーフ)
4日目:青森県弘前市(弘前の市立博物館→旧弘前市立図書館→太宰治の高校時代の下宿先)
有名な観光地などもいきたい気持ちはあったのですが、今回は各々の好みを優先させ、結果的に文学旅に。
そんな東北旅の感想を、長くなるのでそれぞれに分けて記録していきます。
まずは1日目。宮沢賢治を巡る旅から。
新花巻駅到着!
賢治はここで、生誕から中学の寮に入るまでの間、そして高校卒業後は東京と花巻を時々行き来しながら、37歳で没するまでの生涯を過ごしました。
そんな賢治の故郷に行こうとした直接のきっかけは、家族の賢治好き。私の家族、私以外はかなり賢治が好きで、その中でも多分弟が特に好きなのかな?とは言いつつ、「花巻市のルートは弟に作ってもらおうか〜」などと弟を隠れ蓑にしながら、実際のところは両親どちらもかなりの賢治好きです。
私もその中で遅れを取らないために『グスコーブドリの伝記』をはじめとする何編かの賢治作品を読んでから行きました。
ちなみに、このグスコーブドリの伝記、私の中の賢治像が変わるほどに自己犠牲の色が強い作品でした。今までの私の中の賢治は、「青い照明」の印象が強くありました。小六の際に学校で音読した『やまなし』の書き出し「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」の端麗な表現に心を惹かれ、そうした表現の綺麗さに特に心を惹かれていたのですが、『グスコーブドリ』は表現に気なんて配れなかったんです。
でも、個人の感想ではありますが、私はこの自己犠牲を「美しい」とはあまり思えなかったので、その理由を探って行きたいところ。
早朝に長野県を出発し、新幹線で新花巻駅へ。
レンタカーを借りる前に少し駅内を回っていると、大谷翔平の写真が大きく飾られている展示コーナーが。花巻市の高校出身なんですね…。野球に疎いので見つけた時はびっくりしましたが、100年の間に賢治と大谷翔平を輩出している花巻市、観光資源には事欠かなさそうです(笑)
その後レンタカーを無事に借りて、早速花巻市内を散策。
羅須地人協会で一息
一番最初に羅須地人協会を訪問しました。
羅須地人協会とは、賢治が岩手県花巻農学校の教員を退職した後に1年ちょっと一人で暮らした建物です。農業に関する知識を農民に伝えるための私塾として使われていました。
この建物、現在は岩手県立花巻農業高等学校(旧:花巻農学校)の敷地内に賢治像とともに建てられています。玄関に入る前から黒板に書かれた「下ノ畑にニオリマス」を発見し、「おお〜!」と感嘆の声を上げながら建物内を見学。賢治が、長くはない間とはいえ過ごした建物です。移築復元されたため場所は違いますが、穏やかに流れる時間の中で賢治の影を探せるところです。
建物自体は1階しか見学できず、部屋の数も2つのみのためあまり広くはありません。ですが、特に黒板や幾つもの椅子が用意されている教室の役割を果たしていた部屋には解説用の展示物がいくつも並べてありました。
じっくり見れば30分くらいでしょうか。写真も撮る方なら、陽光の差し込む建築がとても美しいのでいくらでもいられると思います。
私は残念ながら後の予定が詰まっていたことや蜂がかなり飛んでいたことから早々に退散。蜂の巣は、農業高校の教員の方にお願いして駆除していただきました。もうちょっと写真撮りたかった…。
街中の賢治ゆかりの地:イギリス海岸、はくちょうの停車場
次に行ったのはイギリス海岸と「はくちょうの停車場」。
イギリス海岸とは、賢治が北上川西岸に名付けた名前。当時は水位が今よりも低く、常に泥岩層が見えていました。これをイギリスのドーバー海峡の白亜の海岸を連想させると言って「イギリス海岸」と賢治が命名。まんま「イギリス海岸」という作品も存在します。
そして、『銀河鉄道の夜』に登場する「白鳥の停車場」。作品内では「プリオシン海岸」への入り口に位置します。それを意識したのか、イギリス海岸のすぐそばに停車場がありました。ちなみに最初はここの存在を知らず、イギリス海岸に行くために道を検索していた時に発見しました。実際に使われているバスの停車場「イギリス海岸」のすぐそばに簡易待合所のような形で造られており、夏の入道雲と相まって賢治作品に入り込んだような錯覚を覚えるほど。
この白鳥の停車場を見た後にイギリス海岸に行ったのですが、あまり川には近づけない上に現在は特に泥岩層も見られないので、言ってしまえば普通の川です。それでも、だだっ広く広がる草原が対岸に見えると、「ああ、これが賢治が見ていた景色なんだな」と感慨深くなったり。
ちなみに、この泥岩層、現在はダム建設などで水位が上がったため滅多に見られないんですが、賢治の命日である9月21日には毎年花巻市が各ダム会社と交渉して水位を下げる努力をしているんだとか。直近では6月にも、好天が続いたため水位が下がって泥岩層出現!とのニュースがありました。
近くにある小舟渡八幡宮にも少し顔を出して、お参りした後に何枚か写真を。
羅須地人協会跡地と賢治自耕の地
そのあと向かったのは羅須地人協会が移築される前に建っていた場所。
今は高村光太郎の書による「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。こちら、1936年に造られたようなのですが、その後賢治の草稿と食い違っていることが発覚し10年後に高村光太郎自身が修正を碑に書き入れています。立派な詩碑なのに所々漢字を書き入れて修正しているので、どこかそのミスマッチ感が微笑ましく思えたり。賢治の遺骨の一部がこの碑の下に埋葬されているそうです。
詩碑の前には木々に囲まれた静かな広場があり、その下には見下ろすような形で畑と北上川、そして遠くに山が広がっています。羅須地人協会の黒板にあった「下の畑」はこの畑。眺望もよく自然が広がる中で時が止まっているように感じられました。
暑い中だったので決死の覚悟で、15分ほど歩き今も残る「賢治 自耕の地」へ。
この場所は一時荒れ果てていたのを、賢治ファンたちが集まって当時の畑を再現しようとしたものだそうです。日差しを遮るものは畑につくまで何もないので、暑い最中に行く方々は本当に気をつけてください。砂利道で細い場所もありますが、車でも行けます。
畑自体は色とりどりで、白菜、トマト、ヒヤシンス、チューリップをはじめとする当時は珍しかった野菜が植っています。これらも全部賢治が実際に育てていたもの。花壇も作られていて、春から夏にかけては色彩豊かな光景を楽しめるんじゃないかな。
すぐ近くには北上川が流れていて、その雄大さには一瞬驚きました。ベンチが用意されているので少し風を感じるのも気持ちいいと思います。この段階ですでに1時近かったため、お昼ご飯のために後ろ髪を引かれながらも退散。
賢治の世界に触れる
お昼ご飯を無事済ませたあとは宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、宮沢賢治イーハトーブ館・ポランの広場の三部作。
宮沢賢治記念館
午前中の予定が押しに押したため(原因は多分白鳥の停車場ではしゃぎすぎたこと?)残り3時間未満でこの三つの建物を回らなければいけないという超強行軍。急がなければ急がなければと思いつつ宮沢賢治記念館の資料の数に圧倒され、かなりの時間滞在しました。こちら、賢治が好きな方はぜひ行ってください。テーマごとに色々な展示物があり、賢治の生涯、思想、影響など様々なことを学べます。私たちは1時間と少しいた程度でしたが、全てじっくり見ようと思えば2-3時間はいられるんじゃないでしょうか…。
私は疲れもあり早々に見終わったのですが、いつもは博物館系はすぐに巡る弟がじーっくりと舐めるように展示を見ていたため、4時半に閉館する宮沢賢治童話村に着いたのが3時45分。やばいです。ちなみに3個目に設定していた宮沢賢治イーハトーブ館・ポランの広場は5時閉館。
宮沢賢治童話村
駆け足で童話村を見よう…としたもののここも展示は素晴らしくて。まず玄関が「銀河ステーション」ですよ?この時点で悪い予感はしました。結局4時半にイーハトーブ館につく予定(一応最終入場時間が4時半なんです)だったのが、出たのは4時40分前とかだったと思います。でも1時間以内に収めた、頑張った!
賢治記念館は対象年齢は少なくとも中学生以上だと思いますが(ただ展示を見るだけなら幼くても楽しめるでしょうが、それなりにしっかりとした内容です)、この童話村は全年齢楽しめるはず。賢治の世界を再現した四つの部屋から始まり、色々なお話のミニチュア模型や、テーマごと(動物、鳥、鉱物、星…)に賢治の作品に出てくるものをさらえる部屋など。
イメージ通りのミニチュアもあれば、「あ、この色にしたんだ!」と少し違った解釈を楽しめるミニチュアも。賢治の世界観を表した部屋は全て綺麗で、特に最初の星空の中にいるような部屋は圧倒されます。もう少しあそこにいて写真を撮りたかった…!!!
下の星の写真はテーマごとに賢治の作品に出てくる星をまとめた部屋にて。
宮沢賢治イーハトーブ館
超絶駆け足で入った宮沢賢治イーハトーブ館(入れました!)はこれまたすごい内容で。
賢治の『春と修羅』に特に焦点を当てた、初版本や草稿、研究論文などがずらっとみやすく展示されています。時間の都合上1階の展示コーナーしか見られませんでしたが、流し見するだけでも新しい発見がいくつもある場所でした。
いくつかパンフレットなども置いてあるので時間がなくてもパンフレットを持って帰れば家で復習ができます!!
グッズについて!
そして、よく見る賢治関連のグッズに関してはこのイーハトーブ館が一番オシャレかも。賢治に関する書籍もずらっと並んでいて、ここにいれば賢治の特徴が網羅できるんじゃないかと思うほど。文庫本から新書、全集まで揃っています。グッズはクリアファイルやマスキングテープ、フレークシール、しおりなどの文房具屋さんで売っているようなものが多くありました。マスキングテープは色々なところで今売られているShinji Katoの宮沢賢治幻燈館から。このシリーズかなり好きなので色々な文房具店で探しているのですが、イーハトーブ館ほど品揃えがいいところは見たことがありません。
ちなみに宮沢賢治資料館は正統派で、雨ニモマケズの巻物だったりちょっとした小物だったり、どちらかというと堅いグッズ。賢治資料館のそばにある山猫軒という喫茶兼売店の建物にはTシャツやしおり、コップなどのもう少しバラエティ豊かなグッズが揃っています。
宮沢賢治童話村は2店舗売店があり、時間の都合上1箇所しか覗かなかったのですがそこは山猫軒のようなどちらかというと正統派なグッズ揃え。それだけではなく、地元のテーマに沿ったグッズなどもあったかと思います。多分もう一つの店舗はお菓子などの消え物を扱ってたんじゃないかな。
振り返り
今回は時間がなかったのであまりしっかりとは巡れませんでしたが、最後の三つの建物は大体1時間くらいは短くても見ておいた方がいいと思います。宮沢賢治記念館に関しては、もし賢治が好きなら2時間はいられるかもしれません。
私はあまり賢治に詳しいわけでもなく、一般程度の知識・読書歴しかありません。それでもその世界の美しさ、感性、そんなものに少し触れられた気がします。あと、ちょうど今CanDoで賢治関連のグッズが売り出されていて、住んでいる地域にCanDoがないため花巻で賢治グッズを購入しました!
他の売店で買ったグッズ達の方がそりゃあしっかりしているとは思いますが、違うデザインのものが手に入っただけでも嬉しい!
この日は夕食は岩手名物の冷麺やホルモンを食べて終了。
宿に帰ってぐっすり寝ました。
花巻、とても素敵なところでした!
ということで、最後までお読みくださりありがとうございました。東北旅1日目の感想はこんな感じ。めちゃくちゃ楽しかった…!次はいつか、賢治についてもうちょっと詳しくなった後に行ってみたいです。また違う発見がいっぱいあると思うので。
こんにちは!
今回は、3年前に買ったカメラを楽しんでます!っていう記事を書いていきます。そもそものカメラを買ったきっかけや、撮る写真の傾向が変わってきた話、これからどんな写真を撮っていきたいかなどをまとめていきます!
- 2021年:カメラ購入!
- 2022年:撮るものがだんだんと変わっていって
- 2023年:意識しながら写真を撮るように
- 2024年:悩みながら、さまざまな素晴らしい機会を頂いて
- 「データを触る」レタッチについて、今感じること
書き始める前に!
写真をたくさん載せているため、一応パソコンなどの広い画面のほうが見やすいかと思います。スマホの画面で見ようとしたら、写真が多くてなかなか読み終わらず自分で画面を閉じました…。
そして、私は3年カメラを使い続けましたが、世の中にはカメラを持って数ヶ月で私の撮る写真の何千倍も心を惹きつける写真を撮る方々がごまんといます。そんな中でこうして振り返り記事を書くのは少し気恥ずかしい気持ちもあるのですが、自分はそれなりに楽しくカメラを続けられているので、読んでくださる方々が少しでも「いいな」と思ってくださる写真があることを願って!
2021年:カメラ購入!
私がカメラを買ったのは、今からちょうど3年前、2021年の8月頭(多分2日とか3日)でした。
きっかけは2つ。
1つ目は、7月に富山に旅行した際に訪ねた父親の友人がカメラ好きだったこと。
その方が実際に写真を撮っているところを見たり、その写真を見せてもらったりした際に、画面に映し出された鮮やかな色味に惚れ惚れしてしまい、カメラ熱が高まっていきました。
2つ目は、当時よくSNSで会話していた学校の同級生が同じようにカメラを買おうか迷っていたこと。写真に関する会話を続けていくうちに、「あれ、これは買ってしまうべきか…?」と真剣に考えるように。
そんなこんなで、中古ですが自分のお小遣いからカメラを購入!
12年前の型の古いカメラですし、自分も飽きっぽい性格だと自覚しているので、正直すぐやめるかな〜と思っていました。
ですが、予想を外れ、今現在カメラ熱は高まり続けています。
まずは、写真を始めた当初、2021年に撮っていた写真から振り返っていきます!
カメラを買った直後にISAKという全寮制の高校に入学したため、撮るものは基本的に人。あまり外出もできないような山の中での寮生活。
自然と、被写体は友達や周りの風景になってきます。
当時のカメラを手に取る動機は、「とりあえず買ったから使ってみたい!」。その後に、「この瞬間を記録して後で思い出せるように」。
何か勉強したり、ということはあまりなく、フルサイズだとか、ミラーレスとの違いだとかはよくわからないまま。かろうじてシャッタースピードやF値をいじりながら撮っていました。
その際に撮っていた写真の一部がこちら。(古→新)
パキッとした色を残して、彩度やコントラストは強めにしていました。そもそもあまり編集もしていません。色それぞれの彩度や輝度をいじることもなく、写真全体のライティングを少し変える程度。
2022年:撮るものがだんだんと変わっていって
それが少し変わったのが2022年。
それまでは一辺倒だったレタッチの仕方を写真ごとに変えるようになり、その景色やその雰囲気を伝えることを意識しながら編集するようになりました。
相変わらず人も多くとりましたが、それまでは「イベントの写真を撮る」感覚だったのが、写真部の活動の中などで「写真を撮るために人にいてもらう」ことが出てきました。
また、景色や花を撮ることも増えた感覚。この年の春に友達と一緒に桜を撮ったことに味をしめたのがきっかけ。レトロ風の写真に加え、濃い色の写真も撮っています。写真を撮ることが楽しくなったのはこの年からでした
美術館の内部の写真を撮ることもあり、とても楽しかったのですが、すでに存在している誰かの芸術作品を写真に撮ることの意味とは…?と考えることも。
自分の記憶に残すためと言えばそれまでなのですが、その写真の綺麗さは自分の力ではなく作品の力。
そこに自分の写真の力があると言えるようにするにはどうすれば?なんて考えたり。
2023年:意識しながら写真を撮るように
2023年は学年も上がり忙しくなっていき、写真は片手間になっていきました。
実際、2022年は手当たり次第に写真を撮っていましたが、2023年に撮った写真の数は2022年に比べ数百枚単位で減っています。ただその分、撮影の際に理想像を決め、それに合わせて撮るようにもなったため、お気に入りの写真が多く撮れました。
被写体としては、周りの友達の写真を撮るというよりもどこかに行った際に写真を撮るようになりました。「この景色を撮りたい」から散歩するように。
一月から二月にかけてはISAKの周りを日の出、日没ごろに散歩。忙しない中で一人の空間を作るという意味でも貴重な時間でした。
その後、プロジェクトのために広島に旅行。写真を撮るきっかけの一つにもなったカメラ好きの同級生と一緒だったこともあり、写真の楽しさを再確認できた期間。
夕日だけでなく、海や街並みも他の人の写真を見てこんな雰囲気にしたい!と思いながら撮影。
お雛様の写真なども撮っていますが、ノイズがかなり残っています。今も同じですが、明るさの調整は苦手でした。
広島旅行後、どこかに出かけるときにはカメラを持ち歩くように。
これは学校の歴史の授業の中で訪れた海野宿の写真。編集が「フィルム調」「レトロ」の方向に偏ってきました。
そして、夏休みに茨城旅行と2回目の広島旅行。広島では厳島神社に行った後、祖父母の家に数日間滞在。かなり青みの強い写真に仕上げています。
ただ、同時に白黒写真にしてみるなどレタッチで何ができるのか探ってみるようにもなりました。暗めの雰囲気の写真も多いです。
また、学校のそばで開かれていたフォトフェスティバルでじっくりと写真を撮ったことや、軽井沢ブックフェスティバルに参加した際に久しぶりに陽光の中で写真を撮ったことも、「作風」や「雰囲気」を考える機会となりました。
そんなこんなで写真とレタッチについて色々理解を深め始めた時、秋休みに神田に行ったことが大きな経験となりました。
この時はテンションも上がっていたので、ブログにも写真を多数載せています。割と全部いい写真というか、好きな写真なのでぜひクリックしてみてください!!
その中でもいくつか厳選。落語を見るために末廣亭に行き、夕方〜夜にかけての都会をとった時のワクワク感は今の好みにもつながっています。
また、ここには載せられませんが11月〜12月にかけては学校の友達にモデルをお願いして紅葉をバックに撮影したり、イベントで来場者の撮影をしたり、人を被写体にする機会が多くありました。それまでの人物撮影に比べて陰影をコントロールできるようになり、満足する仕上がりも増えていきました。
2024年:悩みながら、さまざまな素晴らしい機会を頂いて
そして今年、2024年。
かなり好みが細分化されてきたな、と自分では感じています。
今好きな被写体は、都市や空。もちろん花や人物も撮りますが、田舎に住んでいるためいつでも撮れる空の手軽さ、そして逆にあまり機会がないからこそ力を入れたい都市部の光景に惹かれつつあるようです。
この2枚は、元日に横浜で撮った写真。そういえば、色ごとに編集するようになったのはこの頃からでした。写真好きのクラスメイトが授業中に先生の目を盗んで編集していたのを、横目で見ながら学んだ技です笑。
レタッチは、メリハリをつける写真とレトロ調にする写真がはっきりと分かれてきています。コントラストを強くして色を目立たせる写真もあれば、一色をテーマに編集して柔らかい雰囲気にする写真もあって。
この2枚は、どちらも1月の休日に中軽井沢で撮影。
そして、1月はもう一つ大きなイベントが!
学校に落語家の立川志の春さんがいらっしゃり、高座中の写真を撮らせていただきました!!!
いや、これ、本当に大きなイベント。一応学校の公開可能なフォルダに入っているのであげてもいいのかな、とは思いつつ、やっぱり顔が写っているのでいくら著名人とはいえど掲載は控えておきます。
この少し前くらいから、橘蓮二さんという演芸カメラマンの方の写真をよく見ていたのですが、落語が大好きで写真も大好きな私からすると憧れのような職業。
いつか、いつかこんな写真が撮りたいと思っていたら機会は予想外に早く訪れました。高校生って最高だな、と思いましたよ。高座中、喋っている間に、ど素人の高校生がそんな性能がいいわけでもないカメラで写真を撮らせていただけるなんて!ちなみに、この数ヶ月後は人間国宝に認定されている方の文楽でおんなじ経験をさせていただいています。
まあ、こんな機会がそうそうあるわけもなく、この後は普通に散歩中に周りの景色を撮るだけにとどまりました。
とは言っても、編集の軸をFUJIFILM調にしよう!と決めながら撮っていたので納得のいく写真も多く撮れた冬〜春でした。
実はこの正月にお年玉を使ってブラックミストフィルター、ホワイトミストフィルター、クローズアップレンズの3つの飛び道具を買っており、より雰囲気の統一された写真を目指すようになっていたこともあります。
下にあげた写真には、いくつかホワイトミストフィルターを使ったものも。この後に出てくる夜景を撮った写真は基本的にブラックミストフィルターを使っています。
また、4枚目の木に氷が張り付いている写真は雨氷という現象を撮ったもの。より被写体に接近して撮影できるクローズアップレンズを使いました。
かなり雰囲気が偏ってきた春先、もう少し硬い写真も撮りたいと思い、下のような写真も撮るように。
そして、春休みに夜の浅草で写真撮影。これもまた浅草演芸場で落語を聞いた帰りでした。撮っている間も編集している間も楽しくて、夜の東京を撮るのが好きになった一番の理由となりました。
お花もいっぱい撮りました。
春休み中は祖父母の家に泊まっていたので庭のあんずを。4月には近場の桜の名所に訪れ桜を。夜桜も撮りました。名所でなくても近くの公園に毎日出かけ、時間帯によっても異なる色々な表情の桜を撮ることを意識。
ただ、この頃気になっていたことが二つ。
一つ目は、撮る写真の中でいい出来のものが基本縦長の写真だったこと。
私は基本Instagramを使って色々な写真を見て、構図だったり色味だったりのレパートリーを増やそうとしています。
それなのに、Instagramで好きになる写真は横長のものが多いのに実際に横長の写真を撮ろうとするとあまりうまくいかない。縦長の方が結局収まりが良くなる。
そんなことが続いたので構図を今一度考え直さなきゃな、と感じていました。
二つ目が、編集に関して。
レタッチは、写真の雰囲気を強め、まとまった印象を与えます。しかし、私が一番最初にカメラを始めた意味でもある「見たものを記憶として残す」こととは相反する部分も。
実際に見たものとは異なる印象を与えることもあるレタッチ。
してもいいことなのか、それともレタッチは抑えた方がいいのか。Fujifilm調の編集を多くし始めて、**Nikonの実際の色味に近いカメラを使っている意味がわからなくなってきたこと**もその悩みの原因の一つでした。
写真を撮るようになると、自分の持っているカメラの古さが気になり始めてより良いカメラを求めるようになります。自分の写真の拙さをカメラの古さに求め言い訳をしている部分もありますが、カメラの性能はやっぱり大きな影響を与えますし、実際にその違いは友達のカメラを借りる際などにも感じてきました。
そんな中で、なんでこんなに編集をするんだろう、編集するならNikonを使って写真を撮る意味は?と考え始め、ドツボにハマり始めたのが4月、5月。
それがちょっとずつ解決していったのが、寮の友達を何人かモデルにして写真を撮るようになってから。卒業前の思い出作りの意味も込めて、仲の良い後輩をモデルに何回か写真を撮りました。
バレエ発表後の瀕死の白鳥の衣装を着た後輩、軽井沢の観光地に新緑豊かな時期に遊びにいった後輩、学校の敷地近くで菜の花を背景にモデルになってくれた後輩。
意識的に人を撮る中で、編集をする意味が「その場所をより綺麗にするため」「雰囲気を強めるため」といったところから「その人を表すため」「写真に見たもの以上の何かを映し出すため」へと変わっていきました。
といっても、別に上手い写真を撮ったわけでもなく素人の写真であることに変わりはないのですが、続けて複数人の写真を編集したことで、気づけばその人個人の雰囲気を表すことが楽しくなっていったことは確かです。
写真は菜の花撮影の時に撮ったもの。
そして、卒業。
卒業前日に学年ほぼ全員で近くの小浅間山に日の出を見にいきました。
その時の写真。彩度も強くしていますが、この時に思ったのは、このレタッチはその時の感動や思ったことをより表現するためのレタッチなんだ、ということ。
カメラの扱いも上手くないので、見たまんまが撮れるわけではありませんから、まずは見たまんまに近づける。その後で、実際の風景から、自分が感じた風景へと近づけていく。
そうした作業がレタッチなんだ、という理由づけ。
卒業後にも、写真は変わらず撮っています。
柔らかい写真。
硬いくっきりした写真。
Nikonっぽいというか、パキッっとした写真。
これは、2022年から毎年行っている、軽井沢の近くのフォトフェスティバルで撮影したもの。
ガラスに反射する世界を撮るのが、この頃の好みです。新しい、そこからつながる 世界を想像させるような、そんな余韻が気持ちよくて。
これも同じ場所で。同じ扉を建物の内と外から撮りました。
ちなみにこれは、それぞれ2023年と2022年にとったほぼ同じ場所の写真。こうして年毎の視点の変化を見るのも楽しいです。
散歩してとった直近の写真はこれら。
8月に入って、家族で3泊4日の東北旅行にいきました。
ここでも写真をばかすかとり、数千枚あったものを頑張って500枚ほどに収めたのが1日前のことです。
森の中、田舎町、都会、橋、海、畑、建築。楽しかった…。
多分、今度また記事で紹介すると思うので、今回載せるのは屋外で撮った写真や記事でそこまで触れないであろう写真たち。じっくり写真を撮れたのは夜の一人散歩だったので夜の写真も多いですが、実際は日中にもいっぱい写真を撮っています!
いつもとは違う景色。それに、ずっとそこでカメラの設定をいじりながら撮影できるわけでもないので納得のいかない明るさのままに一枚とって移動することも何回も。
そんな、少し難しい写真たちを延々と編集、削除していると、時々編集で遊びたくなります。
そして初めて、レタッチについてネットでしっかり調べました。
「データを触る」レタッチについて、今感じること
先ほどもちらっと書きましたが、編集する、レタッチする、といったことに対してある種の悩み?といったようなものはいまだにあります。
今年冬から春にかけてのFujifilm調を目指した写真は、かなり多くの友達から反応があり、褒めてくれた人たちもたくさんいました。
でも、そういった写真に写る空の色は実際の空の色とは異なっていて。
木の色が実際よりも薄くなっていたり、山の色が濃くなっていたり、本当は少し灰がかった白色なはずの雪が青みを帯びていたり。
人の反応ももちろんありがたいですが、まず自分がレタッチが好きなんです。編集を始めたら、自分が好きな写真になるまでパソコンをいじる手は止まりません。
でも、やっぱりレタッチ後の一枚の写真の空の色が、周りに並んだ写真の空の色と違うと、何か引っ掛かるものもありました。
それは、一番最初に写真を始めたきっかけが「目に映るものを記憶として残す」ことだったから。
そんな中でレタッチについて調べ見つけた文章に、救われたような気持ちになりました。
上記の通り、レタッチは撮った写真のデータを触って、自分の目的や好みに合うようにする作業です。
注意点というのは、この
データを触って見た目変更するという行為を
苦手に思う人が一定数いるということ。ぼくはレタッチを料理の味付けのように思っています。
レタッチは”見て感じたことを自分の表現にするため”の手段として考えています。
(ただ、ないものをあるように見せたり、色を真逆に変えたりするのはコラージュの部類に入るかなとは思っています。)
この、「見て感じたことを自分の表現にするため」の手段という言葉が、私がレタッチに求めていたものだな、と感じます。
言われてみれば、それはその通りだろう、とも思えるんですが、なかなかこうやって一文で言い当てた文章って転がってなくて。
その素材を大事にしながらも自分の好みの味付けにするため、
その光景をそのままにせずに、より自分にとって魅力的な光景にするため、
画面に映し出された一枚の画像を自分にとっての表現にするため、
そんなことのために、レタッチはあるし、レタッチをするという行為はあってもいいものなんだ。
写真を続けて編集していく中でじわじわと強まっていたレタッチへの背徳感が解消されたかな、と思います。
レタッチへの背徳感と同時に、レタッチするにしても、そのスタイルが定まらない、という悩みもありました。
私が大好きなフォトグラファーさんたちには、確固としたスタイルがあって、その人のイメージがある程度定まっています。
それに憧れていたことや、スタイルを統一しないと上達しないのではという怖れなどから、だんだんと私の写真はフィルム調というか、どちらかというと柔らかいイメージに統一されていきました。ですが、東京の夜景撮影が好きになり、モノクロ写真を撮るようになり、くっきりした写真も同じように撮るようになって。卒業後に撮った薔薇の写真2枚なんかは、レトロなんていう言葉に掠りすらしません。
そんなバラバラの写真たちを見て、もっと統一したいけど、自分の好きに撮るのはやめたくない、という思いが以前からありました。
そういった中で上記の「味付け」「表現」というレタッチの説明を読んで、スタイルに関するモヤモヤも少し晴れたかな。
私は、同じく表現の手段としてダンスが大好きなんですが、社交ダンス以外習ったことはなく、基礎もなければスタイルもありません。でも、ネットの動画などを参考にhip-hop、アニメーション、コンテンポラリー、ガールズなどなど学校の部活や個人で挑戦してきました。それで自分は楽しいですし、写真と同じように自分にとって欠かせない、自分でいる為の手段の一つだと思っています。
表現と言われる趣味はいくつかありますが、ダンスでは色々なテイストが好きで、文章も諸々のジャンルを読んで、そんな中で写真だけ統一する必要はないでしょう。
写真を好きな理由に表現の手段だから、というのはありました。
でも、レタッチは表現を作り出すための手段だ、という感覚は言語化できていなくて。それは、写真を撮る当初の目的がありのままのものを映し出すことだったからで。
今回このshuさんの文章に出会えたことでそんなモヤモヤが払拭された感じがします。
これからも時折モヤモヤは生まれていくんでしょうが、まずは今、カメラを持ってから3年後に、なんとなく自分の中での写真の位置付けがはっきりとしたので文章にしました。
最後までお読みくださりありがとうございます。いつもと同じくらいの字数のくせに写真まで入れているので、スクロールバーの長さがどんどん短くなって…。ここまで読んでいてくださった方がいたなら、本当に感謝です!自分の中で言語化したかった写真への考えを、ここで表せてよかった!一枚でも、「いい写真だな」「みれてよかった」と思うようなものがあれば幸いなのですが、まだまだ未熟なので、これからも精進していきます。
こんにちは。今日の記事は、メモがわりの記事となります。
なんと、なんと、この夏は家族で太宰治の出生の地、金木町に行くことになりました!!!やったああああああああ!!まだ行く大学が定まっていないこと(詳しくはこちらの記事)もあり、ちょっと直前までどうなるかわからなかったのですが、家族会議の末予定通り行くことに!
三鷹 珈琲 松井商店にて
今回は、そんな超楽しみな旅の前に、軽く太宰について復習をしがてら、家族への青森説明会の準備をしていこうと思います。
これから金木に行く予定がある、もしくは行ってみたいと思っている方の中で、「どんな本を読んでから行けばいいの?」「金木のどこに行けばいいの?」「そもそも太宰と金木の関係は?」などと思っている方がいらっしゃれば、少しでもこの記事がお役に立てればな、と思います。
私が太宰にはまった経緯
太宰と青森の関係についてここでまとめる前に、ちょっとだけ自分の太宰愛を。早く本題に入れよ!という方は、お手数ですが、目次から「太宰治と金木」に飛んで下さい!
私は高校に入る前、中学校を卒業した後の6月ごろ(高校は8月入学)に、太宰治の『女生徒』を読みました。ある女生徒の日記をもとに、太宰が少女の1日を描いた短編です。
それまで太宰を全く読んでこなかったわけではなく、『走れメロス』や『人間失格』『斜陽』などの超有名な作品には一応手を出していました。特に『人間失格』は中学一年生の際に読書感想文にも使用したため、ある程度読み込んでいたつもりではありました。
ですが、『女生徒』を読んだ時に太宰の文章の幅の広さに驚かされ、また自分の心にぐっと突き刺さるような心情描写に惹かれ、そこからは太宰作品にのめり込みました。
毎日家にある短編集を読み、ついに『桜桃』に出会います。『桜桃』は、わずか10ページに書かれた家族のお話で、太宰が最後に残した短編小説です。
この作品の雰囲気や内容はもちろん、一つの段落にのみ連続して使われた二つの記号「!」が心に強く残り、その時に「あ、私は太宰が好きなんだ」とはっきり自覚しました。心に残る作品はいくつもありますが、この作品はそんな中でも特に忘れられない作品です。この時書いた感想記事も、途中から言語化ができなくなっていますが、衝撃を受けたことが見て取れます。
その後も着実に太宰作品を読んでいき、何が好きなのかはいまだにうまく言語化できないままにもう3年の月日が経っています。
ISAKに入学する前に親に贈ってもらった本は太宰の言葉をまとめた本でしたし、高校2年生になる前の夏休みでは三鷹市にある太宰のお墓にお参りしました。高校3年生の冬休みには三鷹の太宰治文学サロンをはじめとするゆかりの地を訪ねました。
そして、高校を卒業した後の夏休みである今、太宰の生誕の地、青森に家族で行くことに。
そう思うと、長い付き合いになりつつあります。
今でも一番記憶に残っているのは『桜桃』ですが、そのほかにもいくつも好きな作品が増えていきました。特に、学校の課題で使用した『トカトントン』は、高3になる前の夏休みを使って論文や文献をネットと図書館を活用して読み込んだので、思い出深い作品です。
それでは、太宰治はいつの時期に青森県にいて、どういう関わり方をしてきたのでしょうか。
太宰治と金木:小学校まで
太宰治、本名津島修治は、1909年6月19日に青森県の北津軽郡金木村、現在の五所川原市金木町に生まれました。
1909年は、明治の後期。韓国併合の直前、伊藤博文が暗殺された年でもあります。
太宰の父親は当時県議会議員、太宰が3歳の頃には衆議院議員になるという、地元の名士でした。そんな中、太宰は10番目の子供として生まれます。
今も「斜陽館」として多くの観光客が訪れる津島家の旧住宅は1907年に建てられました。つまり、太宰は斜陽館で生まれた最初の子供。
五所川原市公式ホームページより
その頃太宰の父親は衆議院議員になる直前で慌ただしい生活を送っており、母親もそんな父親につきっきり。兄弟も多くいましたが、すでに県内外の学校に通っているため、特に日中は大きな屋敷の中で乳母や叔母、女中とのやりとりが多かったそうです。
気になって調べてみたところ、津島家は太宰の下に生まれた弟を含めた11人兄弟を擁す大家族。男子7人女子4人ですが、太宰が生まれる前に長男と次男はすでに死去。長女も太宰が3歳の時に亡くなっています。
旧津島家住宅は、3つの蔵や泉水付きの庭園も敷地内にある豪邸。そんななかで叔母や女中に世話をされていた太宰は、自分が本当は叔母の子供なのではないかと真剣に考えていたとか。
太宰が24歳の時に執筆した短編小説『思ひ出』にはこんな文章も。
曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だつた筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにゐたと言つてよい。
もちろん脚色が入っている可能性は否めませんが、その後の作品にも暗い影響を与えていそうな幼年時代です。3歳から小学校に入る6歳までは女中のタケが日中子守を務めていたため、昼はタケと、夜は叔母と過ごす生活。小さい頃から不眠の癖があり、叔母に昔話をしてもらいながら寝ることが多かったようです。
タケは太宰より11歳年上の少女。青森を離れた後も会うなど、太宰ファンにとっては馴染みの深い名前ではないでしょうか。
叔母のキエは1916年冬に五所川原に引っ越し、タエもそれについていきます。太宰も小学校に入学するまでの2ヶ月間はキエとともに五所川原にすみました。この時過ごした家が、現在「太宰治『思ひ出』の蔵」として一般公開されています。
太宰治と金木:高校まで
1916年に入学した小学校で、太宰は優秀な成績をおさめました。小学5年には文学を将来の夢と志すようになり、1923年の中学入学後に上京していた兄からもらった井伏鱒二の『幽閉』(のちに『山椒魚』と改題)に衝撃を受け、同人誌を刊行するようにもなります。1925年、16歳の頃に友人たちと『蜃気楼』を発行。さらに、1926年には三男の津島圭治主催、長男文治(当時28歳、金木町長)出資の元同人雑誌『青んぼ』も発行しました。
ちなみに、中学入学と同時に太宰の生活も少し変わり、下宿生活が始まりました。この際の下宿先は、叔母キエの亡くなった旦那さんの実家でした。また、小学校を卒業した頃に父親が肺癌で鬼籍に入っています。
1927年に入学した高校も実家から離れて暮らしますが、高校の決まりからは少し外れて、津島家の親戚の元(現在の「太宰治まなびの家」)で暮らします。その夏、入れ込んでいた作家である芥川龍之介が「唯ぼんやりとした不安」という言葉を残し自殺。ショックを受け、しばらく閉じこもっていたそう。
その後プロレタリア文学を執筆するようになり、1928年には小山初代と出逢います。1929年1月はじめには、弟の礼治が敗血症で亡くなりました。
この弟について、太宰は『思ひ出』の中でこう語っています。
私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と對するときには、みんな押し隱して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
幼少期は「仲がわる」かったとありますが、『思ひ出』を読んでいると、なかなかどうして、競争心あり、思いやりありの兄弟像が浮かんでくるようです。小学校の頃を一緒に過ごし、中学に入ってからも二人で行動することのあった弟の死は如何なものだったのでしょう。
また、1929年2月には太宰のいた旧制弘前高等学校で校長が公金を流用していたことが発覚。太宰はストライキにこそ散華しなかったものの、この事件をもとにプロレタリア文学を真似て『学生群』という小説を執筆。その頃のことを太宰は『苦悩の年鑑』の中でこのように記しました。
金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民せんみんだけが正しい。私は武装蜂起ほうきに賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
1929年12月には、太宰、初めての自殺未遂。母と1ヶ月ほど温泉で静養しました。この自殺の理由は、上記のような、太宰自身の身分と、当時の彼のイデオロギーとの違いによるものだと考えられています。
小山初代と出逢い、弟が急逝し、左翼運動を目の当たりにし、自殺未遂を起こし…。いっぺんにさまざまなことが起こった1928年から1929年。
そのすぐ後、1930年の春に太宰は東京帝国大学文学部の仏文学科に入学します。ここから、太宰の本拠地は東京となり、実家から除籍されたり、2度目、3度目の自殺未遂を起こしたり…。1930年の秋には、太宰の文学への興味をともに育んでくれた三男の圭治が亡くなりました。
近しい人の死が相次ぐ中で、太宰はどのように精神安定を試みたのか。左翼運動に関わり、着実に政治家への道を歩んでいた兄に諌められる中で、何を優先したのか。
そこいらへんは、また別の物語となるのでしょう。
太宰治と金木:絶縁から、最後の帰省まで
太宰と青森の関係は、実家から除籍されたことで終わったわけではありませんでした。
1930年、兄の文治は、当時左翼運動にも関わっていた太宰と芸者、小山初代との結婚を認めるかわりに、太宰を家から除籍しました。要するに家との縁を切ったわけです。
経済的援助などは受けていたものの、家に顔を出さない年が続いた中、母の病気をきっかけに1941年に10年ぶりに故郷に帰ります。この際世話になったのが、「中畑さん」と「北さん」。呉服商を営んでいた中畑さんは、津島家と懇意にしていたこともあり何かと太宰の面倒を見ていたよう。北さんも品川で洋服屋を営んでおり、太宰の父や兄の洋服を作っていた縁で金銭的にも世話になっていたことが、『帰去来』という小説に書かれています。長男である文治が家にいない間を狙っての強行軍でした。
『帰去来』によると、この日は10時に五所川原駅につき、叔母と再会。その後30分ほどかけて実家に行き、祖母や母、そして次男の英治と言葉を交わし、4時ごろには金木をさっています。3, 4時間の短い帰省だったそうです。
その夜は五所川原にある叔母の家(「太宰治『思ひ出』の蔵」)で母と叔母と三人、遅くまで話をしたのだとか。
その翌年、1942年に母が重体に陥ったため太宰は家族とともに帰省。この際の様子は『故郷』に書かれています。この際は兄とも言葉を交わし、ビクビクしながらもそのまま金木の家に泊まることとなりました。
その後も、1944年に『津軽』執筆のために5月から6月にかけて津軽地方を旅行し、金木周辺での友達との再会や小泊村での女中のタケとの再会を果たしました。小泊には、今も「小説『津軽』の像記念館」があり、観光客を受け入れています。
青森県観光情報サイトより
彼の最後の帰省は、1945年のことでした。
太平洋戦争が激化する中、三鷹に住んでいた太宰は東京大空襲の後、家族とともに命からがら甲府に疎開。しかし、7月上旬に甲府も空襲に遭い津軽へ向かいました。
この際に住んだのが、津島家の離れでした。現在「太宰治疎開の家 旧津島家新座敷」として公開されています。この離れの中で、太宰は23作品を執筆。『パンドラの匣』や『トカトントン』『親友交歓』など有名な作品がいくつも生まれました。
1946年11月14日に太宰と家族は東京に戻り、1年半後の1948年6月13日、太宰は山崎富栄と玉川上水に入水。39回目の誕生日である6月19日に遺体は発見されています。
太宰治と金木:関連作品
その後の太宰の性格への影響を考えてしまうような太宰の幼少期から、家族と離れて過ごした中学時代、出会いや別れを繰り返した高校時代に、距離をとりつつ縁は切れなかった成人後。
「家では虐待されていた」「『道化』を演じていた」。
『人間失格』を読んだ方々は、太宰にそんなイメージを持っているかと思います。もちろんそれも太宰の幼少期の根幹に関わってくる要素です。
でも、太宰と金木の関係はそれだけではありません。大きい家だからこそさまざまな人の想いや考えが絡み合いつつ、親兄弟との関係が築かれていきます。
そんな、太宰と家族との関係性は、どのようにして覗き見ることができるのでしょう。何冊か、太宰の小説を紹介していきます。
その前に、必ずいっておきたいことが一つ。
太宰は自伝的な小説、私小説を主に執筆しました。さまざまな小説が、彼個人の経験と結び付けられて語られていますし実際に彼の経験が入っている箇所も多分にあるのは間違いないはずです。
ですが、それと同時に太宰の作品は「小説」であり、フィクションです。書かれているからといってそれが真実とは限りませんし、実と虚が入り乱れているのが太宰の作品だと思わないと、自然と全てを太宰と結びつけてしまいます。
作品は、一度作者の手を離れれば、もう受け手のものとなります。解釈は人それぞれですし、どう思うかは自由です。それでも、安直に太宰本人とこれらの小説を結びつけることはできませんし、それでなくとも「道化」を何度もテーマにしている太宰治の輪郭を、彼の作品を読んだだけで掴むことはできないでしょう。
だからこそ、私は太宰の生家にいってみたいですし、津軽の像記念館で流されているという、タケさんが生前太宰に関して話した映像をみたいと思っています。
そのための事前準備として、予習として目を通しておいたら面白いだろうな、という作品たちが、以下のものです。
太宰と生家の関係
『思ひ出』:生まれてから中学進学ごろまでの回想。叔母や弟との思い出、生活や恋の悩みなどが書かれている。
『兄たち』:三人の兄について書いた話。特に三男の圭治を中心に書かれている。
『苦悩の年鑑』:太宰にとっての「デモクラシイ」や「プロレタリヤ」が書かれている。彼の思想がどのように変化していったかを書いたもの。
『帰去来』:太宰を支えた人たちによって太宰が10年ぶりに実家に帰った際の小説。
『故郷』:『帰去来』の一年後、母の重体をきっかけに、一家で帰省した際の小説。
『人間失格』:言わずと知れた代表作。特に「第一の手記」は太宰の幼少の頃の経験が多分に書かれているとされている。
太宰治と身の回りの人々
太宰の生家には多くの使用人がおり、使用人も含めると津島家には30人ほどの人が住んでいたと言われます。
そんな中で特に有名なのは、『思ひ出』の中にも登場する女中のタケさんでしょう。
作品『津軽』のクライマックスも、このタケとの再会が描かれています。
小泊町には「津軽」の像としてタケの像が作られているほどです。
タケ以外にも、女中は太宰作品の中にしばしば登場します。
以前紹介した漫画『花もて語れ』でも登場するのは、『黄金風景』の中のお慶という女中。のろまな女中に嫌がらせをし続けた幼い太宰の心に残った「一生覚えております」という言葉。偶然出くわしたお慶とその家族に太宰が焦りに焦りまくるという話です。
他にも、女中ではないですが、太宰がまだ乳飲み子だった頃に病弱の母に変わって世話をした乳母、つるについて書かれた作品があります。1939年出版の、『新樹の言葉』です。
疎開の家で執筆された作品たち
太宰が疎開中に書いた作品も、青森県に行くなら読んでおいて損はないでしょう。
私が特に好きなのは『トカトントン』。復員兵士が彼の悩みを太宰に相談するといった流れの、往復書簡形式をとった短編です。この作品については去年かなーり調べたので、またどこかの機会でまとめられればな。最初に紹介してしまいましたが、疎開先で書いた最後の作品と言われています。
他には、敗戦後、新しい未来に向けた希望が書かれた『パンドラの匣』。
太宰治が東京に出てから津軽へ戻るまでの東京での15年間を振り返った『十五年間』。
一緒に酒を飲んだ小学校時代の「親友」との話、『親友交歓』。
どれも中期から後期への転換期の作品として、有名なものばかりです。一般的に太宰作品は中期が明るく、後期が病的に暗いと言われますが、『トカトントン』などはその狭間の作品だからこその面白みがあると、私は思っています。
金木訪問に向けて!!
というわけで、思ったより長くなりましたが(全ての記事でこの言葉を言っている気がします)、金木町訪問前の太宰下調べでした!
参考資料として、上記で紹介した太宰の作品以外に、以下のものを使用しています。
過去に調べて覚えていた内容を使っているところもあるため、内容の正確性は完全には担保できませんが、間違ったことは書いていないはず…。もし気になる部分や面白いと思った部分などがあれば、ぜひ調べてみてください!
________
新潮日本文学アルバム『太宰治』(1983)
「津軽疎開時代の太宰文学の一側面 -戦後文学と聖書-」(長濱拓磨、2012)
『回想の太宰治』(津島美智子、1978)
________
本当に、楽しみで楽しみでなりません!
実は、今回の金木訪問は一日丸ごと使えるんです!
ずっと青森に行くわけではなく、岩手と青森を数日間かけて回るんですが、私の家族は私以外あまり太宰に情熱があるわけではなく…。
というか、私以外の三人は宮澤賢治が好きなので岩手の花巻に、私は太宰が好きなので青森の金木に行くことになりました。
花巻も一日かけて巡るので、行く前に賢治作品を読んで自習しておかなければ…!!
金木の方は、一日のプランも私が立てて、なんなら間に合わなさそうだったのでその前の日にも1時間ほど親に頼み込んでねじ込んで、準備は完璧です!
行こうと計画している場所は、以下の通り。本当は少し離れた場所にも何箇所か関連施設があるのですが、時間を考えるとこれだけでもちょっと早足での観光になりそう。
_____
金木町:斜陽館、疎開の家(旧津島家新座敷)、雲祥寺(『思ひ出』に登場)、芦野公園
その他:太宰治まなびの家、太宰治「思ひ出」の蔵、小説「津軽」の像記念館
_____
うーん、やっぱり行く前に、もう少し太宰の初期の作品を読み込んでからいきたいな。ここから数日は太宰と賢治漬けになりそうですが、そのことを考えると自然と口角が上がります。あああああ楽しみ!!!
下の写真は我が家にあるニャザイとミニャザワ ~三鷹文学サロンと山梨県立文学館の太宰関連グッズを添えて~ です。
もー興奮が冷めやらぬ日々ですが、家族にひかれないよう、あと、下調べの成果を調子に乗って話しすぎて行く前から家族が疲れる/太宰作品を読まないという最悪の展開を迎えないように頑張っていきます!!
最後までお読みくださりありがとうございました。ここまで太宰に関して語る記事を書いたのは相当久しぶりのことだと思います。楽しかった〜〜!!本題を忘れそうになりますが、これはあくまでも「金木町に行く前の予習記事」です。もし同じ目的の方がいて、「行く前に何読めばいいだろう…」「そもそもどこ行こう?」などと思っている方がいらっしゃったら、少しでもお役に立てば嬉しいです!
*1:太宰の『兄たち』という短編では『青んぼ』創刊は長兄が30歳の時だとされているのですが、調べたところ1926年に創刊号が出ているらしく、1898年生まれの長兄文治は28歳のはずなため、正直よくわかりませんでした…。太宰の父親が亡くなった際の年齢は実年齢と一致しているため、創刊号が出た際の記憶が朧げだったのか、それとも脚色したのか。
こんにちは、うぐいすです!
今日は、落語に関する記事を書いていきます。好きなことに関して書くと前回の卒業記事でも誓ったばかりなので、自分に誠実に!
今日書いていくのは、先日訪れた新宿末廣亭の夜席の感想と、思ったことなど!
6月下旬から7月上旬にかけて、2週間ほど東京にいました。その際に久しぶりに末廣亭に行き、初の神田松鯉の講談を見てきました!!
寄席って何?
さて、まずはこのブログを読んでくださっている方や偶然この記事に辿り着いた方に、落語や講談とは何か、そして神田松鯉とは誰なのかを説明してきます。
松鯉先生なんてとうの昔から知ってるよ!という方々は、目次から末廣亭の感想に飛んでいただければ、感想がずらっと書かれています。興味がおありでしたら是非!
ということで、まずは簡単な説明から。
落語や講談、名前は聞いた事があっても、何なのかは知らない方が多いのではないでしょうか。
落語って何?
落語は、一人の演者が舞台の上で芝居をする、日本の伝統芸能の一つです。
その歴史は江戸時代の中期ごろから始まっており、現在も千人ほどが東京、大阪を中心に落語家として生活しています。
落語は聞いた事がなくても、テレビで『笑点』を見た事はありませんか?
『笑点』で行われているのは落語ではなく、寄席(落語が行われる場所)で余興的に行われていた「大喜利」です。「大喜利」は落語とは異なりますが、出演しているメンバーは落語家のため、笑点から興味を持って落語を聞いた事がある、という人はいるかも。
基本的に落語で語られるのは「滑稽噺」、何か面白いオチのついた笑える話が多いですが、中には泣ける噺、怖い噺、不思議な噺なども。噺の長さも3秒ほどの短い小噺(駄洒落など)から、1~2時間かかる長講まで、バラエティに富んでいます。
寄席は落語を聞くには一番敷居の低い場所で、年中毎日2回ずつ落語やその他の演芸を3時間ほど通して披露しています。寄席は東京、大阪、仙台など限られた都市にしかありませんが、他にも落語会や地方寄席などが全国で定期的に開かれているため、調べてみたら意外と身近に機会は転がっているかもしれません。
かくいう私も、東京を去り長野に来た後、数年間生の落語には触れていなかったのですが、地方寄席のおかげで去年、久しぶりに落語を見る事ができました。
講談、神田松鯉って何?
そんな落語と同じような場所で言及されることも多い講談。
講談とは、簡単に言ってしまえば歴史上のお話を一人で演じる芸のことです。落語は会話文をメインにして聞かせますが、講談は目の前で起こっていることをそのまま実況するかのように話します。江戸時代から、過去の歴史や出来事を面白おかしく、庶民にもわかりやすく伝える芸として親しまれてきました。
また、釈台と言われる小さな木机を張り扇で叩き、調子をとりながらリズミカルに話すことも特徴の一つです。
冒頭で言及した「神田松鯉」という方は、この講談を演じる講談師です。神田松鯉という名跡があり、当代の松鯉は三代目。現在の日本講談教会名誉会長を務められています。2019年に人間国宝に認定されていることでも知られています。
成金メンバーについて
現在、落語・講談界隈で人気を博している人たちの中に、もともと「成金」というグループに入っていた人たちが多く見られます。この「成金」は、当時二つ目(落語家の階級の一つで、三つある階級のうち真ん中のもの)だった落語協会所属の落語家・講談師が集まって結成したグループ。
今は全員真打(落語家の階級のうち一番上のもの)に上がっているため年に一回ほどしか集まりは見られませんが、このグループにいた人たちは本当に今注目の的となっていて…。もう、ぶらっと訪れてのんびりと聞くはずの寄席に人が殺到して開演前から並んでも席が取れないなんてこともあるくらい。
私が末廣亭に行ったのは7月5日だったのですが、この日も成金出身のメンバーが多くいました。末廣亭は普通の椅子席のみならず、桟敷席、そして普段は閉められている2階席があります。
私はこの日、初めて、桟敷席も立ち見も全てが埋まり、2階席もほとんどが埋まった末廣亭を体験しました。
東京に住んでいた際はあまりに混みそうな日は行かないようにしていたのですが、地方在住となるとそうも言っていられません。金曜日の夜、もちろん混むだろうと覚悟はしていましたがやはり驚きましたね…!
出演していた成金メンバーは三人。桂伸衛門さん、神田伯山さん、そして春風亭柳雀さん。神田伯山さんは、先ほど言及した神田松鯉師匠のお弟子さんで、メインパーソナリティをしている「問わず語りの神田伯山」というラジオ番組も大人気です。
他にもこの日は伯山の姉弟子である神田阿久鯉さんや三遊亭遊雀さん、それに雷門小助六さんなど、聞きたい!!と思っていた人たちがずらっと勢揃い。始まる前から期待が鰻登りの番組でした。
7月5日新宿末廣亭の感想!
ということで、期待と客席の混み具合への驚きから始まった夜席。
一言で言うと、やっぱり寄席って最高…。
一人、もしくは少人数の芸をじっくり味わう落語会も好きなんですが、もともと私は寄席の雰囲気に幼い頃から惹かれていたので、やはり寄席が一番落ち着きますし楽しめます。目まぐるしく演目が変わっていく中で、客席もだんだんと一体となりトリの松鯉先生をお迎えするような感覚。あの、仕切りのない空間で感覚が溶け合っていくような、どこか麻痺していくような、そんな非日常感あふれる時間が大好きです。
と言うことで、それぞれの方の芸の感想を言っていってはキリがないので、今回は記憶に特に残った部分だけをピックアップ。
ちなみに、この日は寄席の前に神保町で友達と楽しみすぎて、結局寄席についた時は三人目の演者さんからでした…。前座さんから聞いていたいので、これは反省、次はちゃんと時間に気をつけます。多分私が最後の桟敷席だったのかな?次に入ってきた人から2階席に案内されていたので、ちょっと羨ましいとか思いつつ。
①ねづっち、桂優々、桂伸衛門、ぴろき
入った際に演じていたのはお馴染みねづっち。安定の面白さと、安定の回答の速さでした。出番が先の方だったこともあり客席がまだ温まってはいないような感触でしたが、「整いました」から始まる謎かけの際は、我先にと手をあげる方々の熱量に釣られてどんどん周りが引き込まれていくのを感じました。
その次は桂優々さん。この人は初めて!上方落語も久方ぶりに聞きましたが、聞いていて明るくなるというか、知らない間にこちらの脳内を上方訛りにしてくるような感覚(笑)。演目は「池田の牛ほめ」。楽しかったです。
その後、先ほども紹介した成金メンバーのうちの一人桂伸衛門さんが登場。
私、伸衛門さんは生で聞くのが3度目なんですが、多分今回は2度目の「辻占の独楽」…な気がする。動画で見ていても同じなんですが、伸衛門さんの落語って、毎回聞いていてよくわからない感覚に襲われる気がします。淡々と、実直な語りをするなって思った瞬間に想像していた以上に柔らかい雰囲気になったりだとか。魅力を言語化できるほど聞けていないので、もうちょっと、画面上だけじゃなくて生で見たいなあ。
その後に出てきたのはウクレレ漫談ぴろきさん。名前は知っているものの、見るのは初めて!ただ、正直マイクの音が小さい&私の席がかなり後方だったためあまり聞き取れず。もうちょっとちゃんと聞けていたら、とは思いますが、こういう運による左右があるからこそ「寄席通い」が楽しくなるんでしょうね。
②雷門小助六、神田阿久鯉、山上兄弟、神田伯山
漫談、落語、落語、漫談ときて、次もまたまた落語。
雷門小助六さんの「しらみ茶屋」。天下一品。
小助六さんは、まだ東京に住んでいた時に拝見したことはあるものの、あまり覚えておらず。高座(落語を一席やること)の後に寄席踊りを入れる噺家さん、と言う知識のみでいきました。「しらみ茶屋」は、大店の旦那がシラミをたくさん用意し、芸者さんたちに内緒でシラミを彼女らにどんどんつけていくという、平たく言えば汚い噺。
なかなかにどぎつい内容の話ではあると思うのですが、小助六さんのしらみ茶屋は絶品でした。うまい具合にその汚さを所作のコミカルさで中和していき、最後は十八番の踊りに持っていくことで嫌な感情を払拭しながら終わらせるという。
もう一回聞けないかな〜、と今から出演情報をチェックしています。
小助六さんの後に、一回は聞いておきたかった神田阿久鯉さんの講談。神田伯山のYouTubeチャンネル「神田伯山ティービー」視聴者からすると阿久鯉姉さんと呼んでしまいたくなるような方。
子供の頃、地域寄席で神田織音さんの講談をよく聞いていました。それ以来女性講談師さんを聞くのは初めてで、講談自体も伯山さん以外ほとんど生で聞いていなかったものですから、少しドキドキしながら迎えた「水戸黄門記 火吹竹のいさめ」。
楽しかった〜〜!!!
金曜日の夜ということもあり、あとは神田伯山・松鯉が出るということもあり、かなりライト層の多い寄席だったと思うんですよね。(もちろん私もそのうちの一人なんですが。)だからか、阿久鯉さんに限らず、割ととっつきやすい噺の多い印象でした。水戸黄門記も、子供にもわかりやすいですから幼い時に何回か聞いた覚えがあります。
そんなことも考えながら聞いた講談。声に深みがあって、真っ直ぐに聴き手に情景を伝えるような印象を受けました。ハリがあって、知らず知らずのうちにその迫力に息を呑んでしまうような。
動画は、この日の演目ではありませんがYouTubeに上がっているもの。
小助六さん、阿久鯉さんと立て続けにどっと沸いた客席で、次に来たのが山上兄弟。ずっと前から活躍されている奇術師のお二人で、実の兄弟。落語芸術協会に所属したのが2017年のことらしいので、私が寄席に頻繁に通えなくなった頃からでしょうか。多分初めてな気がする…。
マジック漫談は楽しいです。マジックってだけでも、毎回ワクワクしながら、たまにハラハラしながら見るのですが、そこに山上兄弟のように漫談もかなりの配分を振ってしまったらもう、五感全てを使って楽しんでいるような、そんな感覚に陥ります。あと、単純にツボなネタも何個かあり。またみたい!
十分に客席が沸いたところで、お待ちかねの神田伯山先生。伯山は、いろいろな媒体に出演するたびに「今最もチケットが取れない講談師」と紹介されており、講談ブームの火付け役とも言われている超人気者。長野の片田舎でも、知り合いの知り合いが神田伯山を聴きに東京まで車を飛ばしたなんて話を聞きました。
私も伯山のYouTubeで流れている連続物を見てからよく聞くようになり、実際に生で見れたのも5回目とか…?ちなみにこの数字、多くないようにも見えますが、長野住まいの高校生にしては頑張ってる数字です!密かに伯山の出演日を調べながら東京に遊びにいく日を決めたりしています。
この日読んだのは、出世浄瑠璃。
秋の碓氷峠が舞台の話なので、碓氷峠の近くに住んでいる私は地味に沸いてました。
安心安全の伯山先生、今回も十分に客を沸かせ、満足感が半端なかったです。
私が伯山さんの講談を聞いていて特に惹き込まれる点は主に二つあり、一つ目が張り扇のタイミング。
どうしても、人間の集中なんてすぐに切れてしまう物です。一番高い集中力が続くのは3分、ある程度集中できるのは20分までと言われる中で、数時間の寄席に集中するなんて到底無理な話です。だからこそ色物を落語の間に挟んだり、落語そのものも全員演じる内容が被らないようにしたりするわけなんですが、講談では場面転換や重要なシーンなどで張り扇を叩き、緩急をつけていきます。
伯山さんの講談でももちろんこの張り扇を叩いて、クライマックスに向けて盛り上がりを作っていきます。
ですが、その張り扇のなるタイミングや強弱、間の取り方に叩いたあとの話し出し方。そういった一つ一つの要素が特に客の集中を惹きつけている。伯山の講談を聞いていると、周りの人の身じろぎが全く気にならなくなりますし、聞いている情景が一気に頭の中で映像として浮かび上がってくるようで。
そんな張り扇の使い方の他に、初めて聞いた時にびっくりしたのがその聞きやすさ。
どうしても、昔の出来事をそのまま読むのですから言い回しも言葉遣いも現代とは異なります。
それでも、うまい具合に枕や、時には話の途中でも、少し突っかかるような言葉を解説してサラッと本題に戻っていく。そんな誰にでも門戸を開く喋り方が好きになりました。
どうしても、講談を聞いていると落語を聞いている時より一瞬考える時間が多くなります。例えば、この人物は誰だったっけ、だったり、この言い回しはどこから来たんだっけ、だったり。そんな一瞬の突っかかりをうまい具合に解消してくれるのが、伯山さんの講談です。
この人の講談はどれを聞いてもその世界に入り込めるので、ぜひスキマ時間に見てみてください!
ちょーっと書きすぎちゃった気もしていますが、ここまでが夜席の前半。伯山の後は中入りで、15分ほど?の休憩になりました。
③宮田陽・昇、春風亭柳雀、三遊亭遊雀、ボンボンブラザーズ、神田松鯉
この後は、もうどっしりとした看板が並んでます。
漫才の宮田陽・昇は本当に面白い。
中入りの後って、リラックスした分波に乗りやすいんですが、同時にしらっとした雰囲気になることも。そんな中、陽・昇が出てきてからの爆発力は圧倒的でした。息を呑むような瞬間はもちろんいっぱいありましたが、突発的な笑いという意味ではこの日一番だったのではないでしょうか。
久しぶりに見た芸人さんでしたが、とっても楽しかったです…!
そして、春風亭柳雀さんが「青菜」というお話を。柳雀さんは時々生でも聞いていますが、落ち着いた落語をする人なのかな、と思いきやこの人も爆発する人でした。「青菜」はもともとひょうきんな話ですが、そのおかしさがより際立っていました。自然と笑顔になれる高座です。
最後に近づいてきました、三遊亭遊雀師匠の「電話の遊び」。遊雀さんの落語好きなんですよね。落語がわかりいいのはもちろん、声の使い方や仕草、表情が秀逸で。伯山さんの講談は、聞いていてこちらがどんどん鮮明に想像できるのですが、遊雀さんの落語はこちらがイメージを作っていく前にすでに型取りされてしまうような。高座を聞いていて、目が離せません。この人のトリが見てみたい。トリでないと、どうしても長い噺や滑稽噺以外のものが聞けないんですよね。「電話の遊び」は多分珍しい方の話で、貴重な体験だったとは思うのですが、ここまで陽の話で惹きつけられると、今度は陰の話も聞いてみたくなります。
独演会とかいきたくても、やっぱり地方だとどうしても、歯痒いです…。神田伯山のYouTubeに出てくる遊雀さんの一席を垣間見て、心を落ち着かせる今日この頃。でも、やっぱり動画より現地で聴きたい。
トリの前の出番のことを「ひざ代わり」と言います。客を飽きさせずにトリにまで持っていく難しい出番、大抵はベテランの芸人が演じます。
あ、ちなみにひざ代わりの前の演者(基本落語家)をヒザ前と言ったり、中入りの後の演者をくいつきと言ったり、ここら辺の言い回しは気持ちが良いです。
この日はボンボンブラザーズという、超ベテランの太神楽曲芸の演技。めちゃくちゃベテラン、もう60年以上はコンビでやっているはずです。私も一番寄席に通っていた小学校中学年の頃によく拝見していましたが、観客巻き込み型の芸に参加できた時などは心が輝いていました!
そんな、小学生の時は親に連れられて昼席で見ていたボンボンブラザーズを、今度は新宿末廣亭で見る。じんわりとした安心感というか、変わらないものに対する喜びを感じました。もちろん変わらないものなんてないですが、いつまでも元気でいてほしいです。
この日はなんと、いつものように観客巻き込み型の演技をしていく中で、ハプニングが。投げた帽子を観客の一人に被ってもらうという芸ですが、観客の方の頭のサイズが大きかったのかなかなか成功せず。でも、芸人さんの方も一回始めてしまった手前やめようということはできません。観客全員が拍手で応援をしながら、流石にそろそろトリの出番に影響するんじゃ…?と思うような長い時間が流れた後、ようやく成功!あの時の一気に空気がほぐれるような時間は全員に共通していたのではないでしょうか。
まさかこんなに長く私が感想を書いていくとは思っていませんでした。
最後を飾るのは主任、神田松鯉。
やっと見られた…。
講談といえば、私が知っていたのは数年前に亡くなられた6代目一龍斎貞水と、この神田松鯉の二人。どちらも人間国宝です。勢いに任せる高座が多くなった、人情物ができる人が少なくなったと昔を知る人はよく言いますが、淡々と、それでもじっくりと講談をかけるこの人の高座は絶対に見た方がいいと、何人もの方に言われました。
私はこの日、夜席ではなく昼席に行こうかかなり迷っていたのですが、最終的に夜席に行こうと決めたのも自分の祖父が神田松鯉は見ておいた方がいいと薦めてくれたおかげ。
夏の夜席ということで、演目は「お岩誕生」。怪談物です。
私はまだ講談も落語も言語化できるほどの語彙力がありませんが、松鯉さんの講談を聞いた後は背筋がゾワゾワし続けると言いますか。小一時間は興奮が冷めない状態でした。
怪談のため、少し特殊な演出も含まれています。もし、そういった演出を全く知りたくない、という方はまとめの項目まで飛ばしていただければありがたいです。伯山のYouTubeや落語家のTwitterを見ている、もしくは「幽大」という言葉をすでに知っている方は、すでに知っているネタかと思われます!
松鯉さんは、とても落ち着いた、柔らかい声を持っていると思います。どっしりとしていながらも、聞く人の心の中にスッと入ってくるような。
ですが、講談を読む中でその声がガラッと変わるんです。登場人物によって異なるのはもちろん、恐怖や悲哀が直接訴えかけてくる、感情がそのまま伝わってくる声になります。
お岩誕生は怪談ものですから、もちろん人の生死が関わってきます。
平穏な日常、普通の一コマの中で、突然ポタリと赤い血が滴り落ちる時。
そんな急転直下を、声と表情、仕草で存分に見るものの脳内に送り込んでくるような。
トリは基本40分以上は一つの演目を務めます。その間、固唾を飲んで次の言葉を待つ、次の身振りを見守る。客もその場に縛り付けられたような空気が漂っていました。
そして、最後の最後には寄席が暗転。いきなり暗くなり、その中からぼうっと浮かび上がる松鯉先生の顔。息を止めるように耳を傾けていると、突然うわああああああっと声が上がります。
怪談もので、稀に、「幽大(ゆうた)」と呼ばれる役職が登場します。これは、演者以外の誰かが少人数で客席に入り、高座中に周りの客を驚かせる人たちのことを指します。松鯉先生の「お岩誕生」、暗い寄席の中で言葉を聞き漏らさぬようじっとしていた客席に、突然二人のお面をつけた幽大が現れ、叫びながら客席を驚かしはじめました。
これは、度肝を抜かれたというかなんというか…。
大袈裟だと思うかもしれませんが、人間国宝の語る人殺しの世界にどっぷり浸かっている真っ最中のこれは、震えが止まりません。客もたまらず叫び出します。
年齢的にも今まで夜席に通うことってあまりなくて、基本昼席だったんです。やっと夜席に行けるようになったと思ったら、夜席の魅力をたっぷりと食らってしまいました。最高。
しかも、この日は幽大の一人が先ほど「電話の遊び」を演じた三遊亭遊雀。基本幽大は前座(落語家の階級の中で一番下)や見習いがやるものなんですが、まさかそんなベテランが?!と客席もざわめきました。もう一人は伯山さんのお弟子さんの若之丞さんでした。伯山さんのラジオで時々エピソードは聞くものの、まだ高座を見たことはないのでいつか機会があれば!
まとめ
驚いたことに、すでに8000字超。あれ、3000くらいの短い記事にする予定だったんだけど…。好きなことについて話していると、止まりません。
自分のためのブログなので、それでもこのまま突っ走ります!
ということで、この日の新宿末廣亭は大盛り上がり。
熱気も凄まじく、知らない人同士でも感想を言い合って。
やっぱり、寄席が好きだな、と感じます。その空間自体がとても好きですし、確かな歴史と技術に裏付けされた、心地よい居場所です。落語ブームが少しずつ起こっているとはいっても、私は身近の同年代で落語を聞いている人にほとんど会ったことがありません。落語という物自体は知っている、子供の頃に聞いたことがある、という人はいても、今でも時々聞くよ、といってくれる人は全くいなくて。
だから、友達を誘って寄席に連れて行ったことも何回かあります。
一緒に来てくれた人たちはその空間を好きだといってくれました。また一緒に行く約束をした人もいます。話を聞いて、自分も行ってみたいといってくれた友達もいます。
一回階段を登ってしまえば、全くハードルなんて感じない場所ですし、演者は客一人一人に噺を届けてくれます。
私が好きな場所を、もっと知ってほしいな、広まって行ってほしいな。
自分が宣伝できそうな時は宣伝することで、「え、落語なんて聞くの?」「若いのに珍しいね」と言われることが少しずつ減っていけばいいのですが…。年齢なんて関係なく、誰でも楽しめるのが落語ですから。
もちろんわかりにくい言葉はありますし、一定の想像力は必要となります。それでも、今の落語家さんたちが現代にそぐわない言葉を言い換えているように、芸能の世界も変わっているんです。もしここまでこんな長い記事を読んでくれた方がいたのなら、機会を見つけて、一回寄席に行ってみませんか?
楽しくないと感じたら、もしくは、寄席に行くのは面倒くさいと思うなら、YouTubeで色々な落語や講談の動画をながら見してみてください。あなたを楽しませる動画が必ずあるはずです。
最後までお読みくださりありがとうございました。寄席に集まる落語や講談などの日本の文化、日本の言葉、お笑い、芸能に、少しでも興味を持っていただければ嬉しいです!
こんにちは、日に日にどんどん暑くなってきていて、車に乗ってお出かけする時も窓を全開にするようになってきました。長野の日差しは標高が高い分東京よりもきついです(笑)
前置き
今日は、1つの節目となる記事を。
もう2ヶ月前になってしまいましたが、高校を卒業しました!やったーーー!!
ということで、この3年間を振り返っていこうと思います!
その前に、私の通っている学校について簡単な紹介を。
UWC ISAK Japanは、長野県軽井沢に位置する全寮制のインターナショナル高校です。IB(国際バカロレア)のカリキュラムを採用しており、IBと日本の卒業資格の2つが取れる稀有な学校としても知られています。特徴の一つに、日本人生徒の少なさが。コロナ時は変動もありましたが、基本日本人が3~4割、トータルで80ヶ国ほどから生徒が集まるかなり国際的な学校です。
1年生(Grade 10)の時は1学年40名、2年生で新たに40名が入ってきて、80名になります。全体の生徒数は、40、80、80を合計した200人ほどです。
そんな学校で私は3年間を過ごしたわけですが、まあ、学校の特性もあり、濃度の高い時間でした。それぞれの学年に分けて、振り返っていきます。
G10: 高校1年生
コロナの中からスタートした高校1年生。ISAKは全寮制の学校で、合計10個ほどのハウスが用意されており、大体一つのハウスに15~30人ほど住んでいます。私が入ったハウスは収容人数17人。ですが、コロナで新しい海外生が来れない関係で13人からスタートしました。最初は2週間、全生徒がそれぞれのハウスの中で閉じこもり集団感染の予防に努めたことを覚えています。
今でも鮮明に覚えているのは、入って2、3日後の夜のこと。先輩2人と同級生1人、そして私で夜遅くまで会話をしていたのですが、英語が全くわからないんです。ある程度覚悟はしていたのですが、特にアメリカ出身の生徒のスピードのついていけず、会話がわかってもそこに入っていけない。それが毎日続くので、ちょっと泣きましたね…。
私の学年はコロナのため、3月ごろまで学年40人のうち20人ほどしか学校に来ることができませんでした。他の新入生たちは水際対策のためオンラインで各国から授業に参加。
つまり、同級生はほとんどが日本語が話せる/日本にルーツがある人たちだったんです。「多様性」に惹かれてISAKに応募した分残念でもありましたが、その反面英語がわからないのが自分だけではなく、ゆっくりと環境に馴染むことができたと思います。
この1年間で体感したことは、大きく分けて2つでしょうか。
1つ目は、人間関係の難しさ。
まあこれは、正直ISAKでなくても経験することだとは思うんですが、人間と付き合うのって難しい…と言うことを感じました。公立高校であれば、部活に入っていたとしても朝の7時ごろから夜の7時ごろまで?の12時間、短ければ朝8時から夕方5時ごろまでの9時間ほど同級生と過ごす時間がありますが、ISAKでは言葉通り一日中一緒なわけです。しかも学年の人数が20人ほどと少ないので、尚更人間関係は濃くなっていきます。
私はもともと人と話すのが得意と言うわけではなく、かなり受動的だと自覚してます。口でのコミュニケーションも苦手で、文字を通してやりとりするほうが性にはあっています。だからこそ、周りと比較して自分はなんで…と落ち込むことは多かったです。特に大きな騒動に関わった時や、友達が寮から家に帰ってしまった時などは、色々と考えてしまいました。12月上旬に、親に電話して、その週末のみ家に帰ったことを覚えています。
ISAKに入学するときには、多様な環境から来た人たちだからカルチャーショックが大きいだろうと覚悟していましたが、実際は出身国など関係なく、単純に人間関係が難しかったですね。先輩にも、「高校1年は勉強が簡単な分、他(人間関係)が一番大変だから」と言われました。
この時期に書いた記事はこの2つでしょうか。
色々と大変なことはありましたが、結局は大好きな人たちです。
そうなっていったきっかけが、2つ目の大きな学び。
それは、一緒に何かを頑張ってくれる人の存在。
先輩、特にハウスの先輩たちはもちろん、同級生も含めて、ISAKという環境に楽しさを見出せるようになったのはこの人たちのおかげでした。
実は、高校一年生の冬ごろ、ISAKを辞めたいという気持ちがかなり強まっていました。人間関係が理由ではなく、授業の杜撰さや学校の教育機関としての体制の杜撰さがその原因です。教員にも左右される部分は大きいですが、ほとんど学んだことはなかったと今でも思うような授業もありました。学校に対しても、それは教育機関としてやってはいけないことだろう、と思うような、限りなく黒に近い灰色な対応を間近で見せられると、失望を通り越して呆れるようなことも。
そんな中で、私だけがその疑問を持っているわけではないと気付いたのも冬の終わり頃。
周りの人たちと、学校を変えるためにはどうすればいいか話し込んだり、自分たちは何ができるのか考え合ったり、お互いを慰め合ったり。それに、勉強だけではなく他の趣味に打ち込んだり好きなことについて語り合ったりする時間もこの時期から増えていきました。
G10の頃に仲が良かった人たちと今でも仲が良いかと言われると、そうではない人たちもいます。それは今思い返すと少し悲しいですが、でも移ろいゆくものですし、しょうがない。まあ、多分勘違いやすれ違いも多かったのでしょうが、その分いろんな学びもありました。
G10が終わったときに書いた記事が、こちら。愛に溢れてます。
あと、一応学んだ内容に関して以下の記事を書きましたが、私たちの次の代からG10の学習内容はかなり変化しているよう(教科も変動あり)なので、あまり参考にはならないかもしれません。
G11: 高校2年生
G11は、ISAKで使われているカリキュラム、国際バカロレア(IB)が始まる年。二年間かけて学ぶカリキュラムで、学ぶ内容は違えど日本の高校卒業資格と同じようなものです。
また、G11はもともと40人だった学年に新たに40人(ほとんど外国籍)が入り、80人になります。人間関係も授業内容も変わっていく一年と言えるでしょう。
この学年で自分が一番変わったところは、勉強に対する態度でした。
学校での勉強ではなく、自分の興味を広げていき、自分についての分析を進めていく時間を増やした、と言えるかと。G11になる前の夏休みで行ったインターンで、色々な人に出会いました。そのときに出会った人たちに影響されて、論文を読んだり学術的興味を育んだりする機会を意識的に増やすように。
具体的にいうと、毎日一つは論文を読むようにしたり、読んだ本の記録をつけていくようにしたり。あとは、G10の最後の方からですが博物館にもよく足を運ぶようになりました。
また、IBの授業をやっていく中での変化として、知識を今まで以上に重視するようになりました。私の中の大きな幹として、「知識がないことに関して話さない」というものがあります。これは、多分G10の頃の一部の先生の発言が根拠のないものだったことも大きな理由なのですが、IBはディスカッション形式の授業も多いので、知らないことに関して知識もないのに自分の意見を構築することの危険性に気づいたことが直接の原因でした。
授業中はディスカッションをする時間を取るからこそ、よくイメージされる日本の公立高校の授業に比べて知識を勉強する時間は比較的短くなります。つまり、信頼性の低い情報を鵜呑みにしたり、十分な知識がないまま主張する可能性も出てくるということ。
少なくとも自分はそういったことがないように、英語力の無さを知識で補えるように、より知識の吸収に重きを置きました。気づき始めたのは高校1年の終わり頃からですが、実際に実践に移せたのは高2からでしたね…。
授業が専門的になったことも相待って、自分の好みも明確になってきました。数学や化学などの理系科目よりも、英語力は要求されるのに圧倒的に歴史の方が楽しくて。
自分が歴史や言葉が好きなことを実感したのはG11からでした。この学年の授業で作った日本語の詩は今でも時々思い出します。「言葉」そのものについて考えるようにもなりました。
そんなこんなあって、高校2年生も無事に終わり。
高2の夏休み(進級前)に課外活動で大きな失敗があり、それは今の活動にもある程度影響しています。高2の終わりを飾るには苦い思い出ですが、今の私を構成する大事な経験でもあるので、詳しくは言及していないもののこの記事を貼っておきます。
G12: 高校2年生
さて、ついに高2、G12!
高3は、波のように押し寄せてくる課題とプロジェクトからのスタートでした。冬の間に参加した大きなプロジェクトは2つ。軽井沢ブックフェスティバルと、本日和。今読んでも、ブックフェスの感想はよく書けてる。
この2つのイベントを通して、読書や言葉に対する興味がまた増していきました。また、神保町にも通い始めました。神保町には小学生の時に一回行ったのがうっすら記憶にある程度。久しぶりに1人で訪れてみましたが、そのお宝の豊富さといったら。
あそこの真価がわかるようになるにはまだ何十年もかかるのでしょうが、この浅学な高校生でも余裕で1日楽しめます。こういう時、東京から長野に越してきた事実が悔やまれてなりません。
文化に触れられる場所、
過去に触れられる場所、
知識に触れられる場所、
未来に触れられる場所。全てが詰まってます。
春以降は、もう勉強のオンパレードでした。IB、伊達に「世界の中でも難しい」と言われていません。
もう、勉強に次ぐ勉強でしたね…。
とは言いつつも、私はダンス部や写真、時々読書にも時間を割いていたので、今思い返せばもう少し勉強できたのかな。当時はそれが精一杯でした。
そして、色々とあり、最終的には無事に卒業。
最後まで掻き乱された学校生活ともいえますが、その分苦楽を共にした友達との縁は強まったのかもしれません。
一つ嬉しかったことは、学校生活の終わりの日、卒業式の1日前に、同級生3人と話せたこと。
私は口下手なことを理由に、コミュニケーションを自分から取ろうとしない悪癖があります。三年間過ごした中で、三人、最後に話しておきたいと思っていた人たちがいました。2人は元ルームメイト、1人は元友達。誤解や勘違い、すれ違いが重なって、最後の一年ほどは「話したい」と思う気持ちが生まれなかった人たちです。
その人たちに手紙を書き、結果的にはお互い腹を割って話すことができました。正直、「仲直りしたい」という純粋な気持ちだけではなく、自分が傷ついた、その事実を相手に知ってほしいという欲もありました。仲直りが目的だったというよりは、自分から行動を起こすことで自分の後悔をなくすことが目的だったんです。
そんな汚い気持ちもありましたが、3人とも話しかけてきてくれて、ほぼ1年ぶりにしっかりと言葉を交わすことができました。
遺恨が全て消え去ったというわけではないかもしれませんし、自分も相手も、傷ついた記憶は消えないでしょう。でも、少なくとも今は気軽にメッセージも送ることができるし、通知が来た時に身構えずにメッセージを開ける。そんな関係性になることができて本当によかった。
ISAKでの嬉しい思い出は数えきれない程ありますし、ずっと隣にいてくれた大好きな友達との日々はかけがえのないものです。
でも、必ずしも長い時間一緒にはいなかった人たちとの記憶が晴れやかなものになったことに、感謝しています。ありがとう。
卒業前日、学年で登った小浅間山
最後に、特大の感謝を
ISAKでの三年間を、振り返ってみました。
書ききれないことも多くありますが、過去の記事も振り返りながら、今書きたいと思ったところまで。
そして、少しだけ進路に関して。
私は、イギリスの大学に進学予定ですが、まだどこの大学かは決まっていません。イギリスの大学は全て条件付き合格で、基本的には卒業直前に受けたIBの最終成績が条件となります。
平たくいうと、私は条件を満たさなかった(試験の点数が低かった)ため、少なくとも8月中旬までどこの大学になるかが決まりません。率直にいえば不安ですし、どの大学に行くかによっていただける奨学金の額も大きく異なります。
大学を受けた際、奨学金を受けた際は、想像以上にとんとん拍子に事が上手く進んだ分、戸惑いや恐怖、ストレスは毎日感じています。特に大学とのやりとりの中で以前話していた内容が覆されたりもしたため、気持ちの変化も大きく、辛くないとはいえないです。
ですが、今までの経験とは異なる、「実力不足による挫折」をここで経験したことで、人生のレベル上げにはなるのかな。それが詭弁だとしても、自分を少しでも力付けて、周りに感謝しながらできることを着実に進めていきます。
迷惑や心配をかけてる周りの人たち(というか、私の両親)、本当にありがとうございます。草取り、今週から頑張ってます。
進路に関しては、決まって、落ち着いたらまたブログで報告しますが、自分のメンタル的にもこれからは他の好きなことに関して書いていきます!!新生活前の最後の夏休み、楽しむ!!
さてさて、ということでISAKを振り返ってきました!
またISAKに入る?と聞かれたら、即答で「入る」というでしょう。
そんな高校生活が送れたことに心から感謝しています。
自分、お疲れ様。周りのみんな、ありがとう。両親、ありがとう。
さらに!このブログの総アクセス数が、卒業のすぐ後に10万を突破しました〜〜!!!!
7月25日22:38現在102,847アクセス数です。
今年まだ5記事しか出してないのに、毎日どなたかがアクセスしてくださっている…!励みになりますし、応援・肯定してくれるような存在です。
もちろん数字が全てではないですが、やっぱり何かしらの大台に乗ると嬉しいです。こんな長い記事をここまで読んでくださる皆さんのおかげです。
収益化などを考えているのだとしたら、この数字は大きいものでは全くないのでしょう。
ですが、高校三年生、始めた時は小学六年生の、なんの変哲もないただの子供の記事を読んでくださる人がいること、その事実がどうしようもなく嬉しいですし、じんわりと自分を足元から支えてくれます。
最後までお読みくださりありがとうございました。高校を想う記事の予定でしたが、予想外に感謝に溢れた記事となりました。周り無くして人は社会で生きられません。これからも、暖かく見守ってくださると嬉しいです!
こんにちは、寒い軽井沢は桜がさくのも遅く、ようやく葉桜がほとんどになってきました。でも、この前出かけたらまだ綺麗な山桜が。季節の移ろいって場所によって本当に変わりますね。
今回は、書こうか少し迷ったのですが、今月あったIBの試験に関して。
端的にいうと、IBの試験で漏洩があって、それで点数がどうなるか…大学どうなるか…みたいなちょっと憂鬱になる問題があったよ〜っていう話です。
漏洩という言葉からも感じられる通り、この記事はもう自分の感情を出すための、自分を落ち着かせるための記事です。ネガティブな内容がほとんどですので、あ、合わないかも…と思ったら今すぐUターンを!
ポジティブな記事も、近いうちに必ず書きます!
そして、書き始める前にまず前置きを。
まず、今回書くことは、まだ最終決着がついていません。
IBからの団体としての正式発表もほぼなく、私が友達やニュースから見聞きした情報がほとんどです。そんな状態で記事を書くのもどうかと思いましたが、学校を卒業した後にうだうだテストへの愚痴を言っていたくないので、卒業する前のタイミングで。
要するに、書いてある情報は別に全てが正しいとは限りませんし、まだ決着のついていない問題です。もちろん、不確定なことはなるべく書かないように注意は払いますが、情報源は別に正式なものではないということだけご了承ください。
漏洩が起こった…とは??
それでは、まずは経緯説明を。
IBの試験は、毎年二回行われます。IB、国際バカロレアは、二年間のカリキュラムの中で成り立っています。成績を決めるものは主に二つ。
一つ目が、二年間を通してある内部評価の項目。ここでは小論文や口頭論述などがあります。
そして、二つ目、成績の大半を決めるのが、IBの試験です。普通の高校のように毎年複数回あるテストで成績が決まるわけではなく、受験のような一回勝負。この試験では、教科ごとにいくつかPaperが用意されていて、例えばJapaneseの授業ではPaper 1 と Paper 2 の二つの試験があります。すべての教科の試験を一回で行うので、だいたい一ヶ月くらいが用意されます。
この最終試験、基本は卒業直前にあるんですよね。11月と5月に毎年試験があるのですが、私の学校は夏始まりなのでそれに合わせて5月、卒業式の直前に試験を行います。今年も、とっている教科によっては、卒業式の三日前までテストを受ける生徒がいます。
私は途中で一気に取っている科目のテストが集中したので、1週間以上残して試験は終了しました。だからこそこの記事を書けているのですが、今回のIB試験は、通年とは少し異なる形となってしまいました。
タイトルにも書きましたが、今年は試験内容の漏洩が起こり、不公平な形で全受験生がスタートラインを切ることに。
IBの試験は、毎年だいたい15~20万人ほどが世界中で受験します。
タイムゾーン(TZ)が違う国同士で受けるので、もしかしたら先に受験した生徒がまだ試験が始まっていない国に情報を漏らすかもしれません。そうならないために、二つの地域をTZ1、TZ2とし、それぞれで試験内容を変えています。また、タイムゾーン1, 2の違いとは別に、A, B, Cで地域を分けテストを受ける時間をずらすことでさらなるカンニングを防ごうとしています。
…とは言っても、ネットが広まったこの世の中、カンニングはどこでも起こるのでしょうか…。
タイムゾーン1, 2と二つに分かれてはいますが、その分け方は、もうほぼ、アメリカとそれ以外。一応受ける時間は工夫されていても、例えば日本で試験が終了した4時間後から他の国で全く同じ試験が行われる、というケースもあるほどの分け方です。抜け道は、腐るほどあるのでしょう。
始まった日
4月24日から始まったIBの最終試験。
残念ながら5月1日に、タイムゾーン2(アメリカ以外)の試験漏洩が起こっているという情報が報告されました。そして、5月2日にはSNS中を駆け巡り、私たちの耳にも入りました。
一番最初に確認されたのは、数学や化学、物理などの試験情報が流出したという話。
この日、私の学校ではちょうど数学のPaper 2が行われていました。
私が受けている科目の中で数学の他に流出したとの情報があったのが、化学。数学と化学は、私が一番不得手としている教科です。ですが、化学はその時点でまだテストは行われていません。
いつから試験内容が流出していたのか、なんでまだ行われていない試験内容が流出しているのか。
最初はタイムゾーンを利用した不正だと言われていましたが、数学以外のまだ行われていない科目も情報が回っていることで、IBが試験内容を漏らしたのではないかという推測も。
もう、私のハウスでは高校三年生全員がパニックになりました。
何科目流出したのか、これで誰がどれくらい得したのか。
私たちに確認することができない以上、その情報がどこまで本当なのかもわかりませんでしたし、どう行動するべきなのかもわかりませんでした。
この最終試験、特に大学の入学許可が条件付き(conditional offer)の場合、本当に重要なものとなります。基本的にアメリカの大学は、冬の受験期に合格が出ればそれでほぼ確定、冬に提出した成績と最終成績がよっぽど変わらない限り、ほとんど合格が取り消しになることはありません。
それに比べて、イギリスの大学はほとんどが条件付き。すべての大学で、最終試験で〇〇点取ること、が条件となっています。この点数は人によって、大学によって変わりますが、この条件に一点でも届かなければその時点で合格取り消しです。
私はイギリスの大学をまず受験し、一応安全枠としてアメリカの大学も受験しました。
この5月2日の前日、5月1日に、合格していたアメリカの大学の入学金支払い期限があったのですが、イギリスの大学にも合格していたため、支払いをせずに入学を辞退していたんですよね。つまり、もうイギリスの条件付き合格を何が何でも掴まなければいけない状態。
漏洩ってどれほど大きいこと?
その上で、なぜ試験漏洩がこの大学受験にかかわるか。
試験が漏洩されたということは、タイムゾーン2の平均点が上がるということ。IBの試験は、その年の受験生の点数によって、1~7の成績をつけます。つまり、平均点が高くなると、最高点である7を取るにはより高得点を取らなければいけません。付け加えると、タイムゾーン2はそもそも東アジア、東南アジア勢のペーパーテストめちゃくちゃできる地域が集まっているので、そもそもタイムゾーン1よりも評価基準は厳しめです。
イギリスの大学の条件は、この6科目×7点(+課外活動など3点分)の45点満点で何点取れるか、そしてHL(応用レベル)3科目の合計、もしくはそれぞれが何点だったかを聞くものがほとんど。
要するに、例えばアジアの生徒が時差のあるヨーロッパ側に試験内容を漏らし、平均点が高くなれば、試験漏洩前に受験した生徒の点数は相対的に低くなり、大学の条件に届かない可能性が大きくなります。
漏洩がなければ80%を正解して7点を取れていたかもしれない教科で、漏洩のせいで80%を正解しても6点になってしまう。そんなことが起こり得るからです。
私のハウスで高校三年生は四人。その中で、イギリスの大学に進学を決めていたのは私を含めて二人。あとの二人はアメリカです。
もちろんアメリカの大学でも点数をそれほど落とすわけにはいきませんから、全員に直結する大問題です。でも、特にイギリスを志望している生徒にとって、条件付き合格の生徒にとって、このニュースはとんでもない衝撃でした。
漏洩に関する情報が載っている投稿のコメント欄を見ると、確かに、数学で実際に、その日受けた試験内容でした。私は数学を応用レベルでとっています。つまり、大学でも、◯点以上という制約があります。その数学で流出が起こったということは、合計点以前に科目点で落ちる可能性がある。
もともと、そこまで点数は落とせません。いきたい大学を受験しているわけですし、条件が易しいわけではないので。
それなのに、自分たちの努力ではどうしようもないところで、大学に落ちるかもしれない。本当に怖かったですし、試験が終わった今でも怖いです。
どうしようもないですし、泣いても何も変わらない。
でも、それまで一生懸命、睡眠時間もやりたいことも削って、自分なりに頑張ってきた身として、「しょうがない」で終わらせられないものでした。
漏洩した試験情報はすでに4.5万以上のダウンロードが行われている。
そんな情報を見ると、もう本当に大学に行けないんじゃないか、こんなことでIBが終わるなら、何のために勉強してきたのか。そんな気持ちが沸き起こって。
もちろんテストのため、大学のためだけに勉強してきたんじゃありません。
でも、IBの試験を受ける理由は大学の条件付き合格に受かるためです。それがなければ、テストなんかなくても、身のある学びをしたね、よかったね、で終わります。大学受験があるからこそ、そのテストのために努力してきたんです。
勉強にも身が入らず、結局その日は親と電話して、心を落ち着かせて。
第二の失望
ここまでは、最初の段階でした。
でも、その時点ではまだ期待がありました。IBが、しっかり調査をして、ヨーロッパとアジアで評価基準を分けるなりなんなりしてくれるんじゃないか、と。
その時は、もう情報がさまざまなところで錯綜してました。テスト自体がキャンセルになるんじゃないかという憶測もあれば、いや、冬の受験前にあった模擬試験の結果を使うんじゃないかという憶測も。大学に提出した成績をそのまま使うのかもという先生もいれば、テストが全部振替になるのではという生徒もいました。
結局、IBはその次の週に声明を出しました。内容は、
- 試験内容が漏洩されていることは認めているよ
- 漏洩は全てタイムゾーンの違いによるものだ
- 「少数の」生徒が行っているだけだから、通常の試験と比べて特に変更はないよ
というもの。
えーと、化学とか、まだ行われていなかったテストも漏洩があったそうなんですが…。それは、内容が違ったのかな?それともIBが予備問題とかと差し替えたのかな?
タイムゾーンによる不正のみだったとしても、平均15~20万人が受ける試験の中で45000以上のダウンロードがあったってニュース記事の調査が出てるんですが、それって「少数」なんですね。"very small number"なんですね。まあダウンロード数=生徒数ではないですしね…。
という、あまり釈然としない内容。
その後も、受けたテスト内容が続々とネット上に上がって行きました。
日本は世界の中でも一番先に試験を受ける国の一つです。私が化学の試験を受けた1時間後に、知り合いが「ねえ、もう化学の実際のテストが漏洩されてる」と言って来た時の無力感。調べた中では、三つある化学のPaperは全てすぐに漏洩され、1000~数千のダウンロード数。それが本当にあっているのかどうかなんて知りませんが、きっとあっているんでしょう。IBの試験は、問題を持ち帰ったりできません。その記憶力、どこか他のところで使ってくれればいいのに、と何度思ったことか。
ちなみに、この漏洩されたものはテスト前に漏洩されたものとは異なり(内容が本物だったかはわかりませんが)、実際にテストを受けた人たちが記憶して作成したもののため、内容が本物であることは間違いありません。
卒業直前、今の思い
私が卒業するまで、あと1週間。
いくつか受かった大学から、最終選択をする期限まであと3週間。
IBの結果が返ってくるまで、あと1ヶ月半。
それぞれの大学の条件は少しずつ違いますが、IBの結果が返ってくるまで待つことはできません。もともと選択しようと思っていた大学二つ(本命と保険)を一つ変えて安全圏を狙うか、それとも成績が変わってしまう可能性を承知で今のままでいくか。
自分の努力足らずで大学を落ちるのは、自己責任です。
でも、もし今回、もともと選択しようと思っていた大学を受けて、落ちてしまったら。
それは自己責任なんでしょうか?
自分が悪いのか、それとも他に要因があるのか、なんとも言えない状況になってしまったら?
とにかく、IBに動いてもらいたいです。
評価基準をアジアとヨーロッパで分けるでもいい。
評価基準を去年のものと同じにするのでもいい。
なんでもいいから、本当に「少数の生徒」が行っただけだから特に何もしない、というスタンスを変えてほしい。
すでに、IB生の署名活動や各学校のIBへの問い合わせ、さらにはニュース記事でのIBへのさらなる行動の期待など、いくつかの形でIBに私たちの思いは届いているはずです。
二年間の努力を、こんなくだらないことですっきりしない終わり方にしたくないんです。
カンニングをした人に対して、もうなんて思えばいいかもわからなくなります。大学がかかっているんです、もし友達が漏洩した試験内容を持っていたら、見せてと言いたくなる気持ちもわからなくはありません。
本当に焦っていて、周りのみんなもどんどんみていたら、自分が見ても別に…と思う人もいるのかもしれません。
でも、それで傷つくのは誰なのか。ずっと勉強してきた私たちなのか、それとも見てしまった人なのか。数年後、もしくは数日後に後悔するのでは?もしIBにばれたらそもそも資格は取り消しになります。
とにかく、不正行為はしないでください。
お願いだから。
完全犯罪にできないなら、迷惑でしかない。
これからIBの成績が出るまでの一ヶ月と少し、IBから何かしら追加の声明が出るのかすらわかりません。
評価基準がどうなるのかもわかりません。
大学の条件が少し下がる…なんていう、IB試験の現状を加味した粋な判断があるのかもわかりません(多分ない)。
そんな中で、私は学校を卒業します。
もちろん、試験が終わってから毎日友達とどこかにいって、外食して、最後に思い出を作って。楽しいです。
でも、心の中で、確実にモヤモヤして、忘れられなくて、どうしても考えてしまうんです。こんな気持ちで卒業しなければいけない現状が悲しいですし、それ以上にほとんど動きを見せてくれないIBには強い懸念と懐疑の気持ちが。
そんな気持ちを少しでも和らげるために、この記事を書きました。
やっぱり、楽しく笑いながらIBを終えたいので。そうできなくなってしまった状況は悲しいですし、自分の受験とIBの集大成がこんな形で汚されてしまった事には強い憤りや戸惑いを感じます。
でも、何を言っても私にはどうしようもできないんですよね。だからこそこうした感情は収まらないのですが、今は無理やり、そんな状況の中で寄り添ってくれた家族や友達の大切さに目を向けることで感情の方向を固定したいです。
もう会わなくなるであろう友達、地球の反対側に行く友達、もしかしたら一生会えないかもしれません。そんな人たちとの時間を大切にしたいからこそ、自分の感情をコントロールしなければ。
そのための大切な手段が、私にとってはこのブログなんです。
ということで、ブログの一番最後に供養として漏洩がわかった次の日、5月3日に書いた文章をここにあげます。
修正なし。もしも、万が一、漏洩に関わった人がこのブログの読者にいたなら、ぜひ読んでもらいたい。
最後までお読みくださりありがとうございました。色々とネガティブな気持ちではありますが、ここで書くことでそれを少しでも供養できればな、と。もし本当にここまで読んでくれた方がいたら、本当にありがとうございます。時々また思い出して落ち込むでしょうが、気を取り直して、頑張ります!
5/3
何にも手につかない。
なんもできない、なんで今、なんで今年、なんでもうすでにテストが始まった後で、こんなことになるの。
本当に意味がわからない。二年間IBをやってきて、もちろんずっと真剣だったわけではないし悪い成績も取ったことはあるけど、それでも頑張って、合格できて、あとはこの試験でそのコンディションをパスするだけだと思っていたのに、なんで今こんなことになるの。
自分の努力不足で合格できないならそれは自分の責任だけど、
こんなくだらない、誰かがしでかした、馬鹿らしいことで私の将来が変わっていくとか、私がしたいことができなくなっていくとか、許せない。
でも、それより何よりこんなくだらないってわかってるのに結局集中して勉強できない自分が一番アホらしい。
なんで、なんで今、こんなにストレスが溜まっていてただでも泣きそうなこの時期にこんなニュースが出てくるの。毎日勉強して、テストの出来に一喜一憂して、でも、思ったよりは勉強の成果が出て、これならって思った瞬間に!
勉強するしかない、わかってる。でも、これで誰かのしでかした漏洩のせいで自分の手の届かないところで自分の成績が変わったら?そんなに落とせないよ、コンディションだって楽なわけじゃないんだから。これでもし落ちたら?その時私の取った奨学金と、親が払ってくれたISAKの学費と、応援してくれたみんなと、私が来年からやりたかったことはどこに消えるの。本当に、なんでリークなんかするの、大学で人生決まるわけじゃないし、一年位ギャップイヤーとればどうとでもなる。でも、私はこの八月から行きたい大学があって、やりたいことがあって、入りたいクラブがあって、それなりに努力もして、楽しみにしてたのに、なんでこんな誰かがしでかしたしょうもないことに私が影響を受けなきゃいけないの。これでカンニングした人がdream schoolに入って私が入れなかったら?でもそれも私の努力不足ではあるから、勉強しなきゃ。でも受け入れられない。とりあえず勉強しよう。今日は何もできていない。時間は待ってくれない。頑張れ。
こんにちは!テスト前ですが、現実逃避も兼ねてこの頃読んだ本の感想を。
今回は、久々のブクレポ!
澤田英輔『君の物語が君らしく』の感想を書いていきます。
澤田英輔さんは風越学園の国語科の教員。2023年12月に行った「本日和」イベントなど、何回かISAK生としても関わったことがあります。楽しすぎて余韻がなかなか抜けなかった「軽井沢ブックフェスティバル」でも実行委員としてご一緒しました。
* ISAKは風越学園と同じく軽井沢に位置する私立の高校(インター)です。
もともと関係がある人の初の単著ということで、とても楽しみだったのですが、だからこそどう感想を書いていいかわからず少し時間を置いていました。
ですが、テストに向けて勉強ばかりするのも疲れてきたので、気分転換に書き進めてみます!
河口湖
もう一度本の概要を簡単に。
題名は『君の物語が君らしく 自分を作るライティング入門』。
以前は中高生を相手に、今は小学生高学年を相手に国語を教えている方が書き手です。岩波の「ジュニアスタートブックス(通称ジュニスタ)」シリーズの新刊で、ライティング入門とある通り、「書くとは」「書くためには」など、「書く」ことに関する入門本となっています。
書くことが得意な人と、苦手な人へ
この本を読んで最初に感じたのは、書くことが得意な人と苦手な人に刺さってほしいという事。
例えば、2ページ目のこの文章。
特に「得意」という人には考えてほしい。
あなたはなぜ、自分は書くことが得意と思い込んでしまったのかを。
私は、自分は人よりある程度書くことが身近にあると思っているので、この文章も初っ端から刺さりました。
人と比べて、賞を取って、先生から褒められて、文章を書くようになっていないか。
道徳の時間には、一番最初には授業のゴールになりそうなところから少しズレた文章を自分の考えとして書いて、最後には先生が好きそうな、ちょっと深そうなゴールにあった文章を書いて。
国語の時間には、自分があまり感動しなくても、教訓になりそうなところを引っ張り出して自分の体験と照らし合わせて(時には自分の体験を自作して!)感想文を書いて。
特に小学生の時は、自分は書くことが得意だと思いこみ、今思えば上記のような、周りを(というか先生を?)馬鹿にしたような文章の書き方をしていました。
少し書くことが好きであれば、同じようなことをしたことがある方もいるのではないでしょうか。
自分が思ったことよりも、「求められていること」を書いた経験。
この本はライティング入門の本ですが、上手な文章を書くための本ではありません。「上手」を求めない文章を書くために手助けしてくれる本です。
それを、著者は本の中で
書くことを、自分の手に取り戻す
と表現しています。
書くことが得意と感じている人、もしくは書くことが苦手と感じている人に読んでほしい。読み終わって、そう感じました。
私は得意と感じていた側ですが、授業で、書くことに苦手意識がある人がどうしても文章を書き始められない姿も見ていました。でも、「得意・不得意」が判断されるのは、そこに文章を書く「目的」と尺度(評価基準)ができてしまっていているからです。
でも、「書くこと」は決して教室の中にとどまりません。
誰かのための文章もあれば、自分のための文章もある。見てもらうための文章もあれば、ひっそりとどこかに隠しておくための文章もあります。
「書くこと」が「得意/苦手」だと思っている人にこそ、「新しい世界を創り出す」ための文章を書く経験を勧めたい、もしくは、そういう文章があるということを知っていてほしいです。
5分で「新しい世界を創り出す」
そのための簡単なエクササイズが、この本には多く載っています。
友達と少しやってみたのが、「穴埋め短歌」という遊び。用意された短歌の「穴」に何が入るかを想像してみる遊びです。
本に載っていた例の一つがこれ。
( )の( )には夏という商品があるらしいと聞いた
本来なら57577のリズムに沿わなければいけないんですが、思いつかなかったらちょっとズルしようというルールで作ったのが下にあるもの。
(ツルヤ)の(商品棚)には夏という商品があるらしいと聞いた
(天国)の(カプセルトイ)には夏という商品があるらしいと聞いた
ツルヤは長野県にあるスーパーの名前です。
私が作ったのは二つ目なのですが、「カプセルトイ」の小ささと「夏」の大きい入道雲のイメージのアンバランスさが好きでした。でも、「天国」ってちょっと安直すぎたかも。もうちょっと捻っても面白そう?
一つ目は、書くことが「苦手」だと思っている友達が作ったもの。リゾート地の軽井沢にあるツルヤで「夏」が売っていたらどういう人が買うのだろうか…とどこか考えてしまいそうです。
ただ、やってみて思ったのが、「読み手」って重要だなということ。
今回は私が友達にとっての「読み手」でしたが、もともと「苦手意識」があるからか自分の作品を「こんなの…」とはずがしがっていました。
もし授業中に先生がこのアクティビティをするなら、先生が何かを否定することは絶対あってはいけないのでしょう。
「苦手意識」と「ケンエツくん」
読み手が何かを否定しない。それって、多分相当難しいです。
特に、作品の最初の読み手は必ず自分なので、自分が自分の作品を否定しないことって、ほとんど不可能なんじゃないかって思います。
6章にこんな文章がありました。
目の前の文章を「書いていた」自分と、それを「読んでいる」自分も、決して同一ではありません。書き手としてのあなたが書いた文章を、読み手としてのあなたが読む。そこでは二人の他者が出会っているのです。
苦手意識があればあるほど、「読み手の自分」は「書き手の自分」に厳しくなってい口でしょう。そんな中で、「作品の出来不出来を気にせずにただ楽しく」文章に触れ合うためにはどうすればいいのか。
著者は、自分の中の自己検閲の声の主を「ケンエツくん」と、「他の誰かの感情」に転換することで切り離す方法を紹介しています。他にも人それぞれに合った方法はあるのでしょうが、「ケンエツくん」を一回取り除いて、自分の書いたものを一個の作品として楽しく消化することの大切さを感じました。
「めっちゃ褒めて!」
書くことに苦手意識を持っている人の「ケンエツくん」に限らず、書くことが得意だと感じている人の「ケンエツくん」も、一回切り離してみなきゃ。
個人的に感じていることですが、ただ自分のために文章を書いているとき、自分で自分お表現技法や文章の構成、話の流れを分析したり、ケンエツしたりしてしまいます。「フック」「文法」「起承転結」「陳腐」などとラベリングした自分の文章は、その時点で「直さなくてはいけないもの」となり、「下手」な文章になってしまいます。
だからこそ、まずは一回自分の文章を検閲しないで、いいところを見つけること。
その後でケンエツくんに来てもらえれば、自分の書いた文章と、その文章を書いた自分を好きなままで、もっと好きな文章を作り出せるので。
著者の方が言うように、今度誰かに「めっちゃ褒めて!」って言いながら文章を渡してみようかな。
何しろ、「自分という読者」は辛口な評論家になりがちです。
よほど経験を積まないと、自分の文章の欠点ばかりが目について、良いところは見つけられません。
そんな時に他の人の手を借りて自分の文章の良さに気づくことは、あなたが書き手として成長する大事なステップでもあります。
全体を通して
もともと、ここ数年「読み書き」について考える機会が多くなっていました。実際に著者の方と「書くこと」について話したこともあり、本に書かれていたことがすべて驚くべき内容だったかと言われると、そうではありません。
私にとって、この本は、ここ数年で感じていたことが言語化された本なのかも。
もちろん何十年も国語の教員をされている方の本なので、その考えの質や深さは全くの別物です。エクササイズなども知らなかったですし、ところどころで出る引用からも著者の方の知識の深さが垣間見えました。
でも、「書く」ことが得意だと思い込んでいたこどもが、成長するに従ってだんだんと自分と「書く」ことの関係性を考えていく過程で、ふっと思いを寄せたことのある端切れ。
そんな端切れが継ぎ合わさって、一枚の大きな布になって「それでいいんだよ」と出迎えてくれたような。
そんな暖かい印象を受けました。
読めてよかったです。
本を読んで、私が感じたこと
ここからは、本を読んで思い出したことを。
自分の中のモヤモヤを消化するための、雑記です。
この記事でも何回か書いた通り、私は、人より少しだけ「書くこと」が身近にありました。
そして、特に小学生の時は、自分は書くことが得意なんだと思っていました。
ですが、それは本が早く読めて、クラスメイトよりも長い量の文章を書くことに抵抗がなくて、読書感想文で代表に選ばれて…ということだけが理由。人との比較で「得意」と思っていただけです。
今では、取り立てて自分の文章が上手いわけではないことを知っていますし、書くことで何かを訴えてきた人たちにも出会いました。その上で、自分が書くことが好きだとわかり、それ以外に自分の気持ちを残す方法をまだ知らないから、私は文章を書いています。
それでも、授業で文章を書く機会があればあるだけ、人と比較してしまう癖が出てしまいます。
この人の文章に比べて、自分はこういう表現ができている。
この人よりも自分は構成のこういう部分がわかりづらい。
もしくは、友達のブログを見て、
この人のこの表現は私には書けないし思いつけない。
なんでこんなに読みやすい文章になるんだろう。
以前、あまり文を書く印象がなかったクラスメイトの、食に関するエッセイを読んだ時、その表現の綺麗さに驚きました。
比喩や擬音、擬人法など、表現として分析しようと思えば分析できるけど、それ以上に心の奥底にふわりと落ちてくるような文章でした。
その文を読んだ時、私はぐるぐるしてました。
私は、いっぱい本を読んでいるから書くことも上手いよね、と小さい時に言われていて。
でも、その文章は私には絶対書けない文章で。
「すごい」
「きれい」
「感動した」
そんな明るい気持ちだけで済めばよかったのですが、
「なんで私にはこの文章が書けないんだ。」
「私も本はいっぱい読んでいるのに。」
「私は何も考えずに文章を書いているのか。」
「私も人を感動させるような文章を書きたいのに。」
そんな後ろ向きな、そのクラスメイトに対しては失礼な感情を抱いていました。なんとも言いようのない、居心地の悪さを勝手に感じました。
そして、「自分はまだ、人と自分を比べるんだ。」と改めて気づきました。
その場でも「すごいね」などとおざなりな言葉で済ませてしまい、今でも後悔しています。今も、時々その人のブログを勝手にのぞいて文章を読んでいますが、染み入る文章を読むたびに、好きな言い回しを見つけるたびに、その時のはっとした気持ちを思い出します。
人と比べるために文章を書いているわけではないのに、人と無意識に比べてしまって、挙げ句の果てに相手に自分の感じたことを隠して。
そんな自分の汚い部分を、この本を読んでいて改めて思い出しました。
自分のために文章を書きたいです。
それは、こうしたブログの記事でも、そのクラスメイトのような食に関するエッセイでも、もしくは小さい頃に書いていたメアリー・ポピンズのスピンオフ作品でも。
なんでもいいから、自分のために、自分が安心する世界にいるために、文章を書きたい。この記事も、特に後半は自分の感情を整理するための、自分が安心するための文章です。自己満足、閉じた世界、そう言うこともできるけど、それが大切なんです。
そして、欲を言えば、そのうちのいくつかが、他の人の気持ちを動かすようなものであれたら。
それほど嬉しいことはないでしょう。
どうしても、作品には「読み手」が必須です。それは自分だけかもしれないし、他の人も含めるのかもしれない。
読み手が誰だとしても、誰かの気持ちを動かせるような、誰かの気持ちに染み入るような、そんな文章を書きたい。
そんなことを感じました。
自分の中のしこりを今ここで言葉にして、ちょっとまだ書き足りないような、もっと書きたいことがあるような、そんな気持ちです。
私は、こうして、書くことを通して、自分を形づくっていきます。
書くことが自分をつくる手段ではない人もいっぱいいるでしょう。
私も、書くことだけではなく、写真やダンスなど、いくつかの手段で自分を見るレンズと周りを見るレンズを構築しています。
でも、「書くこと」が自分をつくる手段の選択肢としてそこに存在していることを、時々思い出してほしいな、と思います。
『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』、ぜひ興味を持った方は手にとってみてください!
最後までお読みくださりありがとうございました。それでは、現実にそろそろ目を向けて勉強を進めていきます。テストが終わったら、また色々と「自分の物語」を書いていきたいです!