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浄土和讃

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じょうどわさん

日本の鎌倉時代の僧の親鸞の著書。1248年頃の著作と言われる。全部で118首の和讃で構成される。

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ほうわ2年前

いのちの原風景本堂と日日草 いのちの原風景 私たちは心の奥深くに、原風景(げんふうけい)というものがあるように思います。私にも懐かしい原風景がたくさんあります。野山を駆けて遊んだ学童期の楽しい思い出、母親の手料理・・・。言葉では説明のできない大切なものばかりです。 火薬の爆発しかし、それは楽しい思い出ばかりではありません。1965(昭和40)年7月22日のことです。小学校6年生の私は楽しい夏休みを過ごすはずでした。オモチャの鉄砲で使う巻玉(まきだま)の火薬をほぐして、小さな薬の空きビンに詰めようとしていたその時、火薬が爆発してガラスの破片が腹部や腕に突き刺さったのです。 痛さで実感するいのちそして眼にも破片…

#歎異抄#浄土和讃#法話#慈悲#親鸞#浄土真宗#いのち#しほうだに正覚寺#浄土真宗本願寺派

関連ブログ

親鸞さまに学ぶ3年前

真(まこと)のよろこび親鸞聖人の言葉 【和讃(わさん)】 南無阿弥陀仏を となふれば十方無量の 諸仏は百重千重 囲繞(いにょう)してよろこびまもり たまふなり 【語句】 囲繞(いにょう):とりかこむこと。 現世(げんぜ):現在。この世のいのちが尽きるまで。 【意訳】阿弥陀仏の願いを聞いて、信じ喜び、 南無阿弥陀仏を称えれば、十方世界の数限りない諸仏は、百重にも千重にも、とりかこんで、喜んでお護りくださいます。 【味わい】 浄土和讃のなかの現世利益(げんぜりやく)讃の言葉です。 15首和讃の末尾ですが、以前は現世利益ということが、あまり納得できませんでした。自分の欲望を満たすという、どちらかといえば低俗なことを想像し…

#浄土和讃#現世利益#南無阿弥陀仏#浄土真宗#和讃#法話#親鸞#真実の利益#正覚寺

念仏者 とんのつぶやき18日前

本願成就で救われるという表現について他力の信心、自力の信心、以外にもう1つ。 「(浄土真宗は)本願成就で救われる(教え)」というフレーズをよく耳にしました。 本願成就や名号のはたらきは「事実」であって、それがそのまま「信じたこと」「信心」にはなりません。そうであるので、救われているか否かの信疑決判の対象にはならないものと受け止めます。 具体的にはお釈迦様の本願成就文は、字の通り本願の成就を告げた文であり、いわば本願文の参考書です(適切な表現か?(^_^;))。ですからそれを聞いてどれだけ喜びに溢れているとしても、それは感情の類いであって信心とは別物です。信か疑か、論じる以前の事です。 あくまでも、本願を聞いて疑い無きが信心です。…

念仏者 とんのつぶやき22日前

極めてシンプルです念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ (浄土和讃) 本願を信じ念仏を申さば仏になる (歎異抄第12章) 南無阿弥陀仏というものは 私に称えられて 南無阿弥陀仏 (印象に残った法語) 何度読んで(聞いて)もその通り。しっくりきます。飽きません。 称える南無阿弥陀仏のまんまが信心です。 そもそも読み書きの出来ないような庶民が救われる教えとして、浄土教が確立されたわけです。理屈をこねだすと、あっという間に大コケします。

安心問答−浄土真宗の信心について−3ヶ月前

「浄土和讃に「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」という箇所がありますが、この「仏の御名をきくひと」とは称名念仏する人という理解で合ってますよね?」(Peing-質問箱-より)Peing-質問箱-より浄土和讃にて「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」という箇所があ | Peing -質問箱- 質問箱には、以下のように書きました。 聞名とは、名号を聞くことです。「仏の御名を聞く」のも、どこで聞くのかと言えばこの口から出てくださるお念仏の形で聞きます。 広く言えば仏法聴聞も入りますが、念仏を聞くと言うのが前提の話です。 これに加えて書きます。お尋ねの和讃は、前のものと並べると分かりやすいと思います。 (30) 阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり(31) たとひ大千世界に みてらん…

手品師(浄土真宗の教えについて)3ヶ月前

浄土真宗の教え(シンプル or 難しい)今日では、親鸞聖人(1173〜1263)や浄土真宗の教えに興味を持つ人であれば、誰でも親鸞聖人の主著である『教行信証』を読むことができます。それは、親鸞聖人の教えが浄土真宗という宗派にとどまらず、地域や時代の粋を超えて、あらゆる人に開かれたものであるということを考えれば、とても有意義なことと言えるでしょう。 『教行信証』に説かれた教えは、「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」という従来の仏教の考え方をくつがえし、阿弥陀如来の本願力をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる、いわゆる「信疑決判(しんぎけっぱん)」という全…

安心問答−浄土真宗の信心について−3ヶ月前

「質問箱で「私の為すところというのは、その意味ではありません。言い方を変えれば南無阿弥陀仏の邪魔をしないと言う事です。」とお答えいただきましたが、これは「邪魔をしないようにしよう」考えるのも邪魔をしていることになるのでしょうか??」(Peing-質問箱-より)質問箱より浄土真宗の救いにおいて、自分のなすところというのは、結局南無阿弥陀仏のなされるがままにまかすということになるので | Peing -質問箱- 質問箱には以下のように書きました。 「南無阿弥陀仏のなされるがままにまかす」と言うのも、助けるの仰せにまかせるとか、仰せを聞き入れるとも言われます。私の為すところというのは、その意味ではありません。言い方を変えれ南無阿弥陀仏の邪魔をしないと言う事です。 これに対して、質問を頂きました。 質問箱より5/2 のPeing | Peing -質問箱- 質問箱には以下のように書きました。 はい。「邪魔をしないようにしよう」(そうすれば早く助かる)という…

夕顔の日記4ヶ月前

✩.*˚真宗高田派 龍教様より✩.*˚お念仏申す方は美しい 信心 信心と熱病のように語る人に信心は無い信は、仏辺に仰げ 『成就文』いはく 諸有衆生聞其名号 信心歓喜乃至一念 至心回向願生彼国 即得往生住不退転 唯除五逆誹謗正法(云々) [諸有衆生] [聞] [其名号]⇒「小慈小悲なき有情」「おもふべし(聞思すべし)」「利益」⇒小慈小悲なき(身にて)有情利益 おもふべし (『和讃』) →「利益」とは「摂取不捨利益」すなはち「念仏往生の大益」である [信心] [歓喜] [乃至一念]⇒「阿弥陀仏の御名をきき(聞其名号)」「歓喜讃仰せしむれば」「功徳の実(南無阿弥陀仏の功徳利益)を具足(ぐそく:顕わすこと)して 一念大利無上なり」(『和讃』) →「一念大利」とはすなはち「南無阿弥陀仏の功徳利益」である…

ukkaripapaのブログ5ヶ月前

4月20日 にしのみや聞法会にて4月20日のにしのみや聞法会で宮田秀成先生が 浄土和讃の最初の部分を解説して下さいました。 ① 弥陀の名号となへつつ 信心まことにうる人は 憶念の信つねにして 仏恩報ずるおもひあり ② 誓願不思議をうたがいて 御名を称ずる往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ お念仏を称える人には二通りの人がある、親鸞聖人は①のご信心をお勧めされて、②の本願の疑いを戒められているという事です。 親鸞聖人は法然聖人から「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とお聞きして、それを信じる以外に私の信心といっても別にはありませんとのお領解であるとの事でありました。 お聴聞させて頂いて「ただ念仏」と…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

浄土三部経と三願2009/12/18(金)稲城選恵和上第十八願、第十九願、第二十願を「生因三願」といいます。親鸞会では、この三願を1セットのものと考え、三願転入の文とあわせ、「善をしなければ、信仰は進みませんよ」と言っています。 参照:教学聖典⑺ (22)~(26)しかし、親鸞聖人はこの三願は1セットのものではなく、別個のものと教えられています。なぜ、このような誤りが生じたのでしょうか。親鸞聖人が明らかにされた六三法門(六三分別)で、三願は浄土三部経にそれぞれ対応します。 第十八願ー大経 第十九願ー観経 第二十願ー小経この浄土三部経の関係をあらわす見方に「三経一致門」と「三経差別門」があります。『教行信証』に…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

善巧方便と権仮方便2009/11/12(木)善巧方便と権仮方便については、これまで幾度も述べてきました。要門考(ここでは真実と方便の関係のみ)観無量寿経 覚書 その7方便方便といふこと 3方便といふこと 4まとめの意味で、木村世雄氏の論文 『歎異抄』における真実と方便の関係 より引きます。(浄土真宗の方便義がよくまとめられているということで、木村氏独自の考えではありません)・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。《善巧方便》 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。《権仮方便》 真実の法に入らしめるため…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

他力といふこと2009/10/06(火)他力については「浄土真宗聖典電子化計画」の「他力」を読まれるといいのですが、私も少し書きます。7月29日のエントリー「御和讃を読む」で取り上げた御和讃(高僧和讃 善導讃 註釈版聖典592頁)から。利他の信楽うるひとは願に相応するゆゑに教と仏語にしたがへば外の雑縁さらになし御和讃の意味は先のエントリーを読んで頂くことにして、今日は「利他」について考えます。この御和讃の「利他」とは「他力」という意味です。親鸞聖人が利他を他力の意味で使っておられることは他にも何箇所もあります。・利他深広の信楽(教行信証信巻 註釈版聖典211頁)・すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑は…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

歎異抄第4章を読む その6 還相回向と常行大悲の益2009/09/11(金)「浄土の慈悲」を語る時、還相回向について説明する必要があります。親鸞聖人は、浄土真宗の教えの骨組みは2種の回向であり、それは往相回向と還相回向であるとおっしゃっています。つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。(教行信証教巻 註釈版聖典135頁)しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。(浄土文類聚鈔 註釈版聖典478頁)往相回向とは「往生浄土の相状」ということで、浄土に往生していくすがたです。還相回向とは「還来穢国の相状」ということで、往生成仏の後に浄土から穢土・娑婆世界・迷いの世界へ還ってくるすがたで…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

歎異抄第2章を読む 番外編2009/08/10(月) 「その7」にしてもよかったのですが、第2章の内容と直接の関係はありませんので、「番外編」としました。おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。関東の門弟たちは、親鸞聖人に「往生極楽の道」を聞きに行ったのであり、「おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」たことが「往生極楽への道」ではありません。「仏法は聴聞に極まる」と教えられますように、親鸞聖人や蓮如上人は、信心獲得を目指している人(未信の人)に、真剣な聞法を、勧めておられます。…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

歎異抄第2章を読む その32009/08/06(木) ちょっと段落の区切りはおかしいのですが、前回の続きから始めます。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみ…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

要門考2009/07/31(金) 今日は「要門」について考えてみます。要門とは「浄土の要門」のことです。簡単に言うと「浄土に往生するために肝要な門」となります。(註釈版聖典の脚注)「要門」という言葉は、道綽禅師の安楽集に出ていますが、善導大師はその言葉を使われながら、意味を変えて、観無量寿経疏 玄義分 定散門に「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求…

親鸞さまに学ぶ6ヶ月前

出世の本懐(しゅっせのほんがい)阿弥陀さまとお釈迦さまの関係は?正信念仏偈如来所以興出世 唯説弥陀本願海如来、世に興出したまふゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。 意訳お釈迦さまをはじめとする諸々の仏が、この迷いの世に出現された目的は、ひとえに阿弥陀さまの願いを説くためなのです。 浄土和讃 諸経讃久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏五濁の凡愚(ぼんぐ)をあはれみて釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する浄土真宗聖典(註釈版)572頁 意訳永遠の昔よりまことに仏と成られている阿弥陀仏が、煩悩で濁った世に迷う愚かな私たち凡夫を憐(あわ)れんで、釈迦牟尼仏の姿となって迷いの世界に出現…