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役替

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名古屋の町は大騒ぎ5ヶ月前

武士にもいろんな人がいるものだ宝永6年10月29日。久屋誓願寺大門を瓦葺にするにあたって、中の方から葺くようにと大工は言ったが、瓦師は聞き入れず表から葺き始めるとミリミリと音がして屋根がひっくり返り、道の向かいの塀際まで飛んで行った。未刻(午後1時)少し過ぎのことであった。その音が地を揺らし、近隣を響き渡った。手伝いの日用3人は屋根の上にいたが、全員落ちて強く打たれた。内1人は大けがで、足の骨が出たが揉み入れた。残る2人は深い傷ではなく、強く打たれたは又兵衛という者であった。すぐに1人死んだと言っていたが嘘であった。又兵衛の子、坂下つかまき(柄巻)屋勘六も手伝いの3人で少し打たられた。この他にも荷を積んだ馬を牽いて通りかか…

#1709年10月29日#久屋#誓願寺#倒壊#役替#1709年11月17日

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名古屋の町は大騒ぎ2ヶ月前

もしかして奥田主馬が城内で女中に刺されたことと関係があるのか正徳1年8月25日。早朝、飛騨守は家来を多く連れ、旅装束で馬も2匹率いて登城する。半時(約1時間)ほどして出てくる。坊主衆に直ちに寺部へ行こうと思ったが、気分が少しすぐれないので屋敷へ帰るのでいつものように迎えに来るようにと云々。何事かわからなかったが、翌26日急に二の丸様が御下屋敷へ密かに戻る。女中は1人も城に残らなかったと云々。城中表向き女性を置いたのは松院様・勘解由小路様・梅昌院であって、いずれも訳があってのことで公儀へ内々には伝えてあったと云々。この度のことは訳もなく内々でもないことだとこのため公儀老中は靭負殿を詰問すると云々。三村周蔵の役替もこれによるのかと。

名古屋の町は大騒ぎ6ヶ月前

人間、権力に溺れてはいけない宝永5年11月3日。勘定本締取田次郎左衛門は中村又蔵組馬廻となり、その上御叱りをうける。翌4日に江戸を発ち、11日に名古屋に到着し、逼塞する。次郎左衛門は役人たちに辛くあたり、下の者が迷惑するようなことを度々行った。皆が怒っており、小さな子でさえ罵り、不快に思っていたと。遠藤権内も次郎左衛門と争いになり、怒って役儀のことを願い出た。振廻(振舞)はダメだと言いながら、贈物や賄賂を様々なところから得ていた。その上、役儀の威を借りて裏で手を回したりしていた。自分のところには金のかかる妾を多く並べていた。妻も妾から迎え、衣服なども空恐ろしいほど贅沢であった。小僧に刀を持たせて玄関から出入りし、夜は浄瑠…

名古屋の町は大騒ぎ9ヶ月前

大喜びしただけなのに宝永4年3月2日。歩行衆巻沢団右衛門が乱心のため、川村半太夫が道中を警固し、この日尾張に到着する。東屋敷に入り、近藤久右衛門に渡す。団右衛門は初め足軽から取り立てられ、当時は本寿院様附であった。先月12日に役替を仰せ付けられる。大喜びして酒も飲み過ぎたのか。紫の鉢巻きをしてあたりを飛び回った。このためこの如くと。