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田能村直入

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第四章 京都下宿時代(1)明治三十一年三月父が名古屋へ転勤してから下宿生活となり最初京都の中央、活花の家元池の坊で名高い六角堂の門前鐘楼の傍らに父の知人の煎り豆専門の店があった。一先ず其の家へ下宿し其所から寺町丸太町の学校へ通学していた。が道も遠く何かと不便なので半年ばかりで川畑春翠君の二階へ移り其所も一年程で同家の都合で引き払い仲町竹屋町下る井上という下宿へ落ち着いた事は先に延べた。 この家も明治三十五年頃京都御所、梨木神社前の田能村直入画伯邸の隣に広い家が空いていたので其所へ転宅し下宿屋を続けたので私も又そこへ移って世話になった。 この下宿の親父は井上捨次郎といって当時四十五、六才の男盛りで女将の名は「てい」といっ…

#京都市立美術工芸学校#六角堂#明治時代#京都#梨木神社#明治31年#明治35年#田能村直入

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『青湾碑と青湾茶会』講演会大阪市教育委員会主催で開催された、平成25年度 大阪の歴史再発見 第3回「 青湾碑と青湾茶会」です。 櫻宮の堤防下大川に青湾という小湾があり、水が青淡で最も茶の湯に適したので、豊臣秀吉はここの好んで用い、青湾の名は秀吉に仕えた茶人・大江青湾に因むとも、移植した杭州・西湖の柳の色が湾に青く映ったことに因むとも、ここの水は西湖の味がするとした事によるとも言われます。 青湾の碑は、1862年(文久2年)文人画家・田能村直入が、播州山崎藩主本多忠明に「青湾」の2字の揮毫を依頼し碑を建てたそうですが、最近まで手入れもされず放置されていました・・・。 と云うのも、所有者が不明で、建碑した田能村直入に権利が…

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