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鹿島藩日記

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マダムNの神秘主義的エッセー1年前

119 ついにわかりました! いや、憶測にすぎないことではありますが……(祐徳院三代庵主の痕跡を求めて)darkness_sによるPixabayからの画像 祐徳院に関するエッセーをまとめるに当たり、神秘主義的考察を消すか消さないかの迷い。そして、三代庵主の存在が祐徳稲荷神社に見当たらないのはおかしいのでは……という漠然とした疑問。 エッセー「あかぬ色香は昔にて」(仮題)の「はじめに」(下書き)を紹介 三代庵主、また祐徳院に属した尼僧全員の痕跡 祐徳院に関するエッセーをまとめるに当たり、神秘主義的考察を消すか消さないかの迷い。そして、三代庵主の存在が祐徳稲荷神社に見当たらないのはおかしいのでは……という漠然とした疑問。 拙「マダムNの覚書」2023年2月5日の過去記事で、次のように書きました。 祐…

#祐徳稲荷神社#花山院萬子媛#鹿島藩日記#肥前鹿島円福寺普明禅寺誌

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マダムNの神秘主義的エッセー3年前

115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。Olga KriklivaによるPixabayからの画像 萬子媛の呼び名を考察する 初婚だったのか、再婚だったのか? 直朝公の愛 萬子媛の呼び名を考察する エッセー 88「祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)」の註5で、わたしは次のように書いた。 2018年10月4日に祐徳博物館を見学した際、文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとの解説があった。痘瘡は、痘瘡ウイルスの感染によって起こる悪性の伝染病で、天然痘、疱瘡[ほうそう]ともいわれる。 「天然痘は紀元前より、伝染力が非常に強く死に至る疫病 として人々から恐れられていた。また、治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕が残…

#祐徳稲荷神社#花山院萬子媛#花山院定好#鹿島藩日記#肥前鹿島円福寺普明禅寺誌#祐徳博物館#萬福寺#黄檗宗

マダムNの神秘主義的エッセー5年前

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』Jörg VieliによるPixabayからの画像 花山院萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。 祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。 萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再…

#祐徳稲荷神社#花山院萬子媛#鹿島藩日記

マダムNの神秘主義的エッセー6年前

89 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』出典:Pixabay 花山院萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は16…

#祐徳稲荷神社#花山院萬子媛#鹿島藩日記