天朗気清、画戲鑑賞 (original) (raw)

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

①云里雾里(ユンリーウーリー/yún lǐ wù lǐ)

これまでも日本DVD版の『西遊記』は重要な場面をばっさりカットしたり、急に背景音で台詞をかき消してしまったり、1話丸ごとカットしてしまったりとい、様々な原作攻撃をしでかしている。そして今回の第二十二集も驚くべき構成変更がなされている。第二十二集「四探无底洞(四回、底なしの洞窟を探す)」と第二十三集「传艺玉华州(玉華州で武芸を伝える)」の順番がそっくり入れ替わっているのだ。 画像の通り、題字も綺麗に挿げ替えられている。

<日本DVD版>

第二十二集「传艺玉华州(妖怪獅子)」

第二十三集「四探无底洞(三蔵・妖怪と結婚?)」

<中国原版>

第二十二集「四探无底洞(四回、底なしの洞窟を探す)」

第二十三集「传艺玉华州(玉華州で武芸を伝える)」

なぜそこまでして逸話の順序を変えたのかはさっぱり分からない。ドラマ版だけではなく、原作の順序も无底洞→玉華州なので、これを逆転すると旅が逆戻りをしてしまう。もともと日本の販売会社が入手したものが中国本土のカット版や編集版であった可能性もあるが、それにしてもあまりに意味不明である。「云里雾里(ユンリーウーリー/yún lǐ wù lǐ:訳が分からない)」ってやつだ。

<中国語で「意味不明」を意図する成語の例>

  1. 云里雾里(ユンリーウーリー/yún lǐ wù lǐ):直訳すると「雲の中、霧の中」という意味で、何かがとても曖昧で理解できない様子を表す。「何が何だかわからない」という感じです。
  2. 一头雾水(イートウウーシュイ/yī tóu wù shuǐ):直訳すると「頭が霧の水に包まれる」という意味で、混乱して何が起こっているのか全くわからない時に使う。「頭が真っ白」や「訳がわからない」というニュアンスだ。
  3. 天书(ティエンシュー/tiān shū):直訳すると「天の書」であり、これは幾つかの意味を持つ。その意味の中のひとつが「理解できない難解な書物」を示し、転じて「天書を読んでいるように意味不明だ」といった使い方ができる。
  4. 莫名其妙(モーミンチーミァオ/mò míng qí miào):「どうしてそうなったのか全くわからない」「訳が分からない」という意味で、日常会話でもよく使われる表現。こちらが「意味不明」という日本語にもっとも近いかもしれない。

※大手SNSサービス「Wechat(微信)」のステッカー例。二匹ともワケワカラン状態に陥っている。

②重蹈覆辙(チョンダオフーツェー/chóng dǎo fù zhé)

険しい山道を進んでいると、遠くから「救命(ジウミン/jiù mìng:助けて)~」という声が聞こえて来た。孫悟空は偵察中で、ここにいるのは玄奘猪八戒沙悟浄、白龍馬。沙悟浄は「師兄(孫悟空)が戻るまで待った方が良いですよ、妖怪かもしれません!」と言うのだが、猪八戒玄奘は「可哀そうだ、助けてあげよう」と言い張る。視聴者からは一斉に「何度目やねん」という突っ込みが入る展開だ。実際、ビリビリユーザーのコメントも多彩な突っ込みで賑わっている。

その後、孫悟空も戻って来て、玄奘に「師父、紅孩児のことを忘れたんですか。こいつには殺気があって明らかに怪しいですよ。放って行きましょう。」と忠告するのだが、結局は玄奘猪八戒の意見が押し切られて彼女を助けてしまった。その後に何が起こるかは、もはや言うまでもない。彼女の正体は老鼠精。かつて天宮にいた鼠の精妖で、玄奘に狙いを定めていた。

中国語の成語でこの状況を示すのなら、「重蹈覆辙(チョンダオフーツェー/chóng dǎo fù zhé)」が適切だろう。これは「転倒した車の轍(わだち:車輪の跡)を再び踏む」という意味で、過去の教訓を活かさずに失敗を繰り返すことを意味する。この成語の出典は南宋王朝の范晔が著した《後漢書・窦武伝》。後漢王朝時代、宦官による専横の腐敗が進む政治体制に対して、竇武(とうぶ/dòu wǔ)が皇帝に次のように諌言したという。

"今不虑前事之先,复循覆车之轨,臣恐二世之难,必将复及,赵高之变,不朝则夕。(今、過去の教訓を考慮せず、再び覆車[ひっくり返った車]の轍[わだち]を辿るならば、私は秦の二世が滅亡した災難が再びこの国も訪れると危惧しています。趙高[始皇帝の死後、陰謀術数を巡らせて国の破滅を招いた宦官]の変事が、朝であれ夕であれ、必ずこの国で起こるでしょう。"

※画像:カナダのコメディドラマシリーズ『トレーラーパークボーイズ』Season9 Episode12の一場面。何度も同じ失敗を繰り返す親友に向けて、猫好きのバブルスが次のように大声を上げる。

"How many times have I heard you say those exact fu**ing words, Julian? How many times? Do you guy know what the definition of insanity is? Do you know what it is? It's doing the same thing over and over again, expecting a different result!(ジュリアン、その同じクソみたいな言葉を何回聞かされたと思う?何回だ?君たちは『狂気』の定義を知ってるか?なぁ、知ってるか?それはな、同じことを繰り返して、違う結果を期待することなんだよ!)"

③貧憎稽首了(ピンゼンジーショウラ/pín zēng jī shǒu le)

孫悟空から見張られているため、ひとまず妖怪は野心を隠し、変身した美女のまま孫悟空たちに同行。そうして彼らが辿り着いた先は鎮海寺。豪壮な西方の寺院。僧侶たちが以前の記事で紹介した儀礼言葉「失迎(シーイン/shī yíng:迎えが遅れて大変申し訳ない)」を、"重複の法則(言葉を繰り返すことによって印象が柔らかくなる中国語の法則)"で口にして頭を下げる。これに対して、玄奘が「貧憎稽首了(ピンゼンジーショウラ/pín zēng jī shǒu le)」と応じている。

ここまでも挨拶に関する儀礼言葉は幾つか取り上げて来たが、この「稽首(ジーショウラ/jī shǒu)」は初めての登場である気がする。

- 貧憎(ピンゼン/pín zēng):こちらは前も何度か触れた、 仏僧が自らを謙遜して呼称する際に用いる第一人称。日本語としては「拙僧」「拙者」といった言葉がこれに近い。

- 稽首(ジーショウ/jī shǒu): 厳密に言えば、これは古代中国の礼儀作法の一つを意味する。額を地面につけて行う最も丁寧な礼拝のことだ。相手に最大の敬意や感謝、謝罪を示す際に行われる動作である。

- 了(ラ/le): これは動作が完了したことを示す助詞。先ほどの「失迎(迎えが遅れて大変申し訳ない)」も、以前のエピソードでは「失迎了(迎えが遅れましてどうも失礼いたしました)」という言い方であった。

「失迎(シーイン/shī yíng)」も「稽首(ジーショウ/jī shǒu)」も、どちらも日常世界の中で完全に定型化された儀礼言葉。日本語の「おはよう(はやいですね)」「さようなら(左様なり=そうでしたか)」と同じように、言葉そのものが持つ意味をそのまま示している訳ではない。よって、ここでは僧侶たちが本当に迎えが遅れたという訳ではないし、玄奘も地面に叩頭(頭を地面につけてお辞儀をすること)している訳ではない。

④喇嘛头(ラーマートウ/lǎ ma tóu)

今回の物語の衣装で妙に気になって仕方がないのが、漫画『北斗の拳』のヒャッハーたち(チンピラ)のモヒカン(髪型)のような、長老が被っているこの黄色くて仰々しい縦型の帽子。かなり強烈なインパクトがあるが、孫悟空たちが特にその帽子に触れることはない。

ビリビリユーザーのひとりが「这个喇嘛头上像个蛋饺(この喇嘛の頭はまるで卵餃子みたいだ。)」とコメントをしていて愉快。「喇嘛(ラーマ/lǎ ma)」はチベット仏教における僧侶を示す言葉で、チベット語の「ラマ(བླ་མ, bla-ma:高僧の意)を中国語の表記に当てはめたもの。チベット語の通り、僧侶の中でも修行を積んだ高僧や導師に対して使われる。転じて、喇嘛头(ラーマートウ/lǎ ma tóu:日本漢字は「喇嘛頭」)は、チベット仏教に限らず仏僧の髪の毛を剃り上げた頭を意味する。ビリビリユーザーの言った蛋饺(卵餃子)は、あんを小麦粉の皮ではなく卵で閉じ込める餃子の変化形。

※画像:百度百科「蛋饺(食品)」より引用。鉄製のおたまに薄くラード(豚脂)または油を引いて、そこに溶いた卵とあんを乗せた後に火であぶり、頃合いを見て箸で包み込む。結構手間が掛かるが、美味しくて見た目も楽しい餃子料理だ。

このチベット仏教の僧侶が被っている黄色い帽子は、そのまま「喇嘛的帽子(ラマの帽子)」と呼ばれることもあれば、通称として「鶏冠帽(けいかんぼう/jī guān mào)」と呼ばれることもある。確かに、形状はニワトリのとさかのようにも見える。これはチベット仏教の中でもゲルク派の僧侶がよく着用するものだが、他の宗派の人々も被ることがある。黄色の他にも赤色のものがある。

元来、チベット仏教で高僧が用いる帽子は班智达帽(パンディダ帽)という頭頂部が尖った水滴のような形状のもの。これは尖った部分が「世を覆いつくす最大の理は仏法である(仏法の至高無上の中道観)」という意図が反映されており、そこから双方に広がる長い庇は「二諦(究極の真理と日常の真理)」を意味している。

かつて9世紀中頃に吐蕃帝国が解体した後、中央チベット地方で長期間にわたる民衆の反乱が発生した際、チベット仏僧が北方ルートを通ってドメー地方へ向かった。その時、彼らは寒さをしのぐために、自分の羊毛の腰帯を二つ折りにし、それを縫い合わせてパンディダ帽に似た帽子を創った。これが鶏冠帽の原型になったということらしい。

孫悟空たちが出会った僧侶がチベット仏教徒であるという説明はない。『西遊記』の世界にはチベットやインドといった地理の概念は存在しない。しかし、寺院の形状も仏僧の容姿も、唐王朝のものとは様子が違っていて、明らかに西方の気配が感じられる。天竺に近づいているのだ。取経の旅の最終地点まで、あともう少し。

⑤あんたは何を~:動詞+什么(シェンメ/shénme)

彼女の最終的な目的は玄奘を夫として陷空山無底洞に連れ帰ること。後ほど詳述するが、彼女は悟りを開く為に「陽」の気を求めており、その気を玄奘から得ようとしていた。ただ、より多くの「陽」の気を取り込むために、彼女は深夜に別の仏僧を"つまみ食い"して密かに害を成した。孫悟空はこれを受けて、自ら仏僧に変身をして彼女と対決することになる。

この対決場面では、孫悟空を演じる俳優、六小龄童(リウシャオリントン/liù xiǎo líng tóng)兄さんの素顔をよく確認できる。ビリビリユーザーの「猿兄貴は帅哥(シュアイグー/Shuàigē:イケメン)やなぁ」というコメントが飛び交っている。

一方の老鼠精は孫悟空の変身に気が付かず、「あら、いい男じゃない」状態でぐいぐいと誘惑。「怎么你还叹什么气呀(どうしてまだため息なんてついているのさ)」「过来 过来呀(こっち来て、こっち来てよ)」と言っている。

ここで中国語の面白い構造の表現として確認できるのが、「叹什么气」。これは「ため息」を意味する表現として用いられている「叹气(タンチー/tàn qì)」の間に「什么(シェンメ/shénme)」が入っている状態。「什么(シェンメ/shénme)」は「なに」という意味の疑問表現で、英語で言うと「What」。日常的に幅広く使われているものだ。

叹(嘆)という動詞と、气(気)という名詞の間に、この什么(なに)が入ると、「何をため息なんかついているのさ」といった具合にの軽い非難やたしなめ、あるいは皮肉を含んだ問いかけとして表現することができる。同じ方式(動詞+什么)の例としては、次のような表現も日常生活で飛び交っている。

  1. **笑什么?(xiào shénme)**

直訳:「何を笑っているの?」

意図:何が面白いんだ、まったく。

  1. **急什么?(jí shénme)**

直訳:「何を急いでいるの?」

意図:そんなに急ぐ意味あるか?

  1. **哭什么?(kū shénme)**

直訳:「何を泣いているの?」

意味:泣く必要ないだろ?

  1. **慌什么?(huāng shénme)**

直訳:「何を慌てているの?」

意味:そんなに慌てる必要があるか?

  1. **吃什么?(chī shénme)**

直訳:「何を食べているの?」

意味:なんてものを食べているんだ!?

⑥この牌位(パイウェイ/pái wèi)が目に入らぬか

孫悟空と老鼠精が一戦を交えたものの、彼女は目くらましで逃亡。そのまま玄奘をさらって、自分の拠点である陷空山無底洞(陷空山の底なし洞窟)へ去ってしまった。孫悟空たちはこれを追いかけて何とか彼女と玄奘の居場所を突き止めたものの、幻術により苦戦していったん退却。その際、洞窟の中でとんでもない「証拠品」を発見した孫悟空。そこには孫悟空もよく知る人物を祭る牌位(パイウェイ/pái wèi)があったのだ。牌位(パイウェイ/pái wèi)は祖先や故人を祭る印である。(日本語ではなぜか漢字が逆転して「位牌(いはい)」という表現に変わっている。)

孫悟空が底洞で目にした牌位(パイウェイ/pái wèi)には、父として李天王の名が、兄として哪吒の名が書かれていた。つまり、妖怪は天宮の李天王(托塔天王)の娘ということに他ならない。孫悟空は早速、天宮へ突撃。玉帝の前で「李天王の娘さんが悪さをしているぜ!落とし前を付けてくれよ!」と直談判。玉帝と宰相の太白金星は李天王の娘がまだ七歳なので滑稽な訴えであると笑うが、孫悟空は牌位(パイウェイ/pái wèi)を見せつけて一同は騒然。こうして、この問題は本人に問い正そうという事になった。

そんな奴は知らんわ!とぷんぷん怒る李天王だが、孫悟空には確たる証拠がある。太白金星も「霊牌がこうしてある以上は調べないと、何か心当たりはありませんか」と丁寧に詰問。しかし、李天王はますます憤って、孫悟空にこう怒鳴り上げた。

李天王:我的大儿子侍奉如来 二儿木咤伴随观音 三儿哪吒在我身边! 只有一女 年方七岁呀 她尚未成人 怎能下界为妖啊!? 这猴头分明是诬赖好人 罪加三等!来呀!来人把他捆走来!(私の長男は如来に仕え、次男の木咤[もくた]は観音に付き従い、三男の哪吒[なた]は私のそばにいる!そして、たった一人の娘はまだ七歳で、まだ大人になっていないのに、どうして下界に降りて妖怪になれるというのか!?この猿[孫悟空]は明らかに善良な者を無実の罪で陥れようとしている。罪を三倍にするぞ!さあ、誰か、この者を縛って連れて行け!)

この騒動の中、三男の哪吒が何かを思い出して仲裁に入る。哪吒は取経の旅では何かと顔を合わせている馴染みの人物。彼は父親に向けて次のように説明した。

哪吒:父王 你是有个女儿在下界呀 父王忘了 那女儿原是金鼻白毛老鼠精 因在灵山偷吃香花宝烛 如来令我父子将她拿住 当时父王怜悯 饶她一死 (父王、あなたには本当に一人の娘が下界にいますよ。父王は忘れてしまったのですか?その娘は元々、金鼻白毛の鼠の妖怪でした。彼女は霊山で香花宝燭[こうかほうしょく]を盗み、それを理由に如来が私たち父子に彼女を捕らえるよう命じました。その時、父王は彼女に情けをかけ、死罪を免じたのです。)

なぜ、老鼠精が香花宝燭(聖なるロウソク)を盗み出したのか。考察によれば、彼女は真の悟りを得る為に香花宝燭に含まれている神通力を取り込もうとしたようだ。しかし、この香花宝燭には「陰」の気しか含まれておらず、彼女が悟りを得る為には「陽」の気も取り込まなければならなかった。このため、「陽」の気を持つ玄奘を夫にしようと画策するようになったようだ。

ここで話をチベット仏僧の班智达帽(パンディダ帽)に戻すと、帽子の双方に広がる長い庇が意味するのは「二諦」、すなわち究極の真理(陰)と日常の真理(陽)。彼女はその二つを取り込みたいと考えているということになる。その両者を取り込めれば、彼女は太乙金仙に昇格することができると考えた。ドラマ版では言及されていないが、道教と仏教の概念がまさに陰陽のように入り混じっている興味深い設定であると感じる。

李天王はそうだったと気付いてしょんぼりし、すっかり反省。彼は哪吒と共に孫悟空に加勢。彼の宝塔(七宝玲珑塔)はかなり強力な宝貝であり、大きさや位置を自由自在に操って相手を攻撃したり、その中に相手を封じ込めたりする効果がある。老鼠精はこれにまったく太刀打ちできずに、すぐに確保されることと相成った。

諸説があるが、この宝塔は如来が李天王に与えたものという考えが主流のようだ。当時、あまりに奔放で反抗的な哪吒に手を焼いていた李天王を見て、如来が「これで三太子[哪吒]を懲らしめてやりなさい」として李天王に譲ったらしい。観音菩薩孫悟空に手を焼いていた玄奘に緊箍咒(きんそうじゅ/jǐn gū zhòu:金の輪)を提供したのと同じ状況である。

「惩前毖后(チェンチエンビーホウ/chéng qián bì hòu)」。これは「前の過ちを罰して、後の災いを防ぐ」という意の成語。過ちを犯した人に罰を与えることで、将来の過ちを防ぎ、再び正しい道に導くという意図を含む。

仏教的に言えば「悪人には正しい教えを与えて導くべし」という更生概念が基本であるが、中華世界では「悪人は厳しい罰を与えて叩くべし」が基本。どちらも当然一理あり、重罪人に対しては後者の方が有効である。ただ、哪吒や孫悟空など「反抗期の青年」程度の罪に対して後者を適用すると、かえって彼らの柔らかで不安定な心が冷たくねじ曲がって固まってしまう危険が多い。彼らには七宝玲珑塔や緊箍咒を用いるべきではなく、規範・良識・美徳の教えをもって導くべきであろう。

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二十二集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

作品紹介

孤城閉~仁宗、その愛と大義~ DVD-BOX1

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著作紹介("佑中字"名義作品)

意訳と案内で駆け抜ける 『罪と罰』ストーリーツアー

呑気好亭 華南夢録

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

①傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)

これは妓女として後宮に属していた張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)が仲間に貶められて追放されそうになり、彼女が仁宗に泣きついて「あなたの傍にいたい」と泣きじゃくって助けを乞う場面だ。彼女の指導教官である賈玉蘭(かぎょくらん/jiǎ yù lán:夏竦[かしょう/xià sǒng]の愛人)もこの珍事に加担し、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の願いを受け入れて欲しいと平伏する。仁宗は張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)を抱きしめて、「どこにも行かせない」と彼女の願いを受け入れた。

そんな仁宗たちの傍らで、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)を心の底から敬愛している宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が「啊…真的假的…(えぇ…マジかよ…)」といった顔をして唖然としている。原作を知らずにドラマを追っている大半の観客も、「啊…真的假的…(えぇ…マジかよ…)」という気分になったに違いない。

中盤から終盤まで観客にとっては最悪の存在となる、寵妃の張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)が今回から主要人物の仲間入り。一般的に物語の中における嫌われ役は横暴で無能、気まぐれで無責任な人物造形が多い。しかし、彼女の場合は「無能」にかろうじて当てはまるが、その他の要素には属さない。なぜ彼女がこれだけ観客を苛立たせるのか。それは彼女の役柄が、成熟した成人であれば誰もが敬遠する「傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)」であること、その女性を名君として描かれている立派な男性・仁宗が寵愛してしまうこと、そしてその役柄を演じる女優の王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)が突出したプロフェッショナルであること、それぞれが関係しているように思う。

近年スラング語として流行した中国語の「傻白甜(シャーバイティエン/shǎ bái tián)」は、傻(愚か)、白(美肌)、甜(甘い態度)が合わさった若い"ぶりっこ(あざとい女子)"を意味する言葉だ。私の限られた日本の芸能情報で例を挙げると、さとう珠緒さんや田中みな実さんが視聴者からその手の「傻白甜」だとみなされていた。私はこの両名とも「傻」ではなく、むしろ聡明であると感じるが、それだけに「白甜」の部分が対比的に強調されて(意図的にそのような演出があてがわれて)一部の人々の反感を買ったように思われる。

王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)演じる張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)も同じで、以下のような人物造形の不均衡が観客の苛立ちを掻き立てる要因のひとつとして機能をしている。

- **容姿**: 王楚然の見た目は非常に美しいため、その無邪気さとのギャップが苛立ちを生む。成熟した美貌に相反するあまりに子供っぽい行動の組み合わせが、観客に「もっと成熟した行動を期待しているのに裏切られた」という感情を引き起こしている。

- **仕草**: この傻白甜型の人物造形は、誇張された無邪気な仕草や、他者に頼りすぎるような振る舞いを多く行う。王楚然が演じる張妼晗が仁宗に過度に甘えたり、世間知らずの行動をとると、観客に苛立ちを感じさせる。

- **言葉遣い**: 無邪気でわがままに聞こえる台詞や、他人の感情を理解しないような言い回しが、人物に対する反感を強める。

直近では、王楚然(ワンチューラン/Wáng Chǔrán)の傻白甜型の役柄として私が目にしたのは『燕雲台-The Legend of Empress-(2020)』である。この物語は北宋より少し前の時代、異民族国家の契丹を題材としたもの。物語終盤での登場であったが、そこまで構築されて来た人間関係を乱す強い存在感を見事に放っていた。

※大手SNSサービス「Wechat(微信)」のステッカー例。日本語の「カマトト女」「ぶりっこ」「あざと女子」のように皮肉や軽蔑の意図があり、あまり良い意味としては用いられない。しかし、私の経験則では社会的な肩書または財産だけはある未成熟で無能な中年男性(50~60代)が本当にこういう傻白甜を大好物としている印象がある。アホ同士の周波が合うんだろうね。どうぞどうぞ、存分に仲良くやってくれたまえ。

②補足:展開は創作だが原型の人物はいる

張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と仁宗にまつわるラブロマンスの展開は創作であるが、大枠としての歴史的な原型は存在している。張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)の原型となった人物とは、"温成皇后"の張氏。仁宗の寵妃であった女性で、もともとは石州の軍事推官、贈太師開府儀同三司、清河郡王尧封の次女。幼い頃に宮廷に入り、初めは侍女として仕え、その後、清河郡君に昇進した。康定元年(1040年)の10月には才人に昇進し、慶暦元年(1041年)の12月には修媛の位に進んだ。仁宗の寵愛を得て二人の娘(安寿公主、宝和公主)を産んだが、慶暦3年(1043年)の7月までにその娘たちがたて続けに逝去。これを受け、彼女は自らの願いにより位を美人に下げた。同年の10月には再び昇進し、貴妃に封じられた。

張氏との娘だけではなく、仁宗は自分の子たちが早逝するという悲劇を何度か経験している。本ドラマの主題歌にある次の箇所は、その仁宗の悲劇を意図する詩となっている。

子皆寿短储落旁(子らは皆、寿命短くして、後継は疎かになり)

その後、温成皇后は邓国公主を出産し、皇祐6年(1054年)1月8日に逝去した。享年31歳。私は「北宋王朝の寿命感覚は現代人の1.33倍」という計算式を立てている(『水滸伝』孔亮[こうりょう/kǒng liàng]の記事参照)ので、31歳は現代人における41.23歳。死後、彼女は皇后に追冊され、「温成」という諡号が贈られた。また彼女は奉先資福禅院に葬られ、陵墓の側に廟も建てられた。さらに、年中行事として彼女を祭る知制誥の祭礼が執り行われるようになった。これらの手厚い弔いからも、最愛の妃を早くに失ってしまった仁宗の深く悲しみが伝わって来る。

③皇后が《礼記》を引用

※「臣遵旨(チェンツンツィー/chén zūn zhǐ)」は「臣(臣下である自分を呼ぶ第一人称)が旨(命令)を承りました」という意味の儀礼表現。日本語では「命令を承りました」「ご指示を賜りました」といった表現が近い。

宦官の最高責任者である任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)が皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に対して「あのような無作法で野心のある娘を妃にすることは危険です」と諌言した。任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)は本当にそのような国難を憂いている側面もあるが、新しい勢力が後宮に入り仁宗の寵愛を得ると勢力図がかき乱されるので、自己保身のためにもこれを述べている部分もある。

状況からして任守忠(じんしゅちゅう/rèn shǒu zhōng)は曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)がこれに大いに賛同するものと予測していたが、彼女はこの諌言を聞いても冷静そのもの。彼女は間を置いてからゆっくりと《礼記》(儒教の最重要経典のひとつ)を引用して、「これは官家(仁宗)が決めることで、私たちはそれに従うべきです」と答えた。彼女が引用した《礼記》の箇所は次の通りだ。

<原文>

飲食男女,人之大欲存焉;死亡貧苦,人之大惡存焉。(『礼記・礼運』)

<訳文>

飲食や男女の情愛は、人の存在における最大の欲望であり、生老病死や貧困、苦厄は、人の存在における最大の苦しみである。

要するに、曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は仁宗の良識と美徳を信じているので、「礼記に書いてあるような人間の根源的な欲望の危険性については、あの方はとっくに分かっているわけですから、私たちが心配することはありません。」と述べたのである。

④祖先や歴史に対する敬意

この場面、さりげないが中華世界らしい祖先や歴史に対する厚い敬意が表れていて興味深い。皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)が名将であった祖父から貰った大切な甲冑を仁宗に譲渡し、「私の代わりに西夏戦争の現地の誰かに着てもらいたい」と願っている。これを受けて、仁宗が曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)ではなく、別の方角へ向いて「多謝曹将軍(心より御礼を申し上げます、曹将軍)と言い、深々と拱手の礼を行っている。具体的な描写はないが、おそらくその方角に曹将軍の墓または廟があるのだろう。

⑤こだい女子の髪型:丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)

あざと女子はどうでも良いが、こだい女子(古代女子)の髪型は現代人が見ても可愛らしく風雅な点が見受けられる。今回より本格的に登場する、仁宗の妃の苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)との娘(公主)である徽柔(きじゅう/huī róu)も、張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)と同様に今後の物語展開における最重要人物。この場面は康定六年(1041年)に切り替わるので、史実(彼女は1038年生まれ)に基づけば4歳の描写だ。

宋王朝時代の"こだい男子"が礼儀として必ず帽子または簪(かんざし)で髪の毛を整えていたということは以前の記事でも書いたが、一方、こだい女子の方は必ず髪を結う習慣があった。徽柔(きじゅう/huī róu)のような幼少期の女の子、また侍女などの未婚の女子がよく用いていた髪型が「丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)」や「双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)」と呼ばれるもの。画像にある三つのお団子頭も、この「丫鬟髻(やかんき/yā huán jì)」の変化形だ。

「丫(ヤー/yā)」はアルファベットの「Y」によく似ているが、もちろん全くの別物。語源などの因果も特になく、偶然形状が合致しているだけ。木の枝が二股に分かれている様子を形象した漢字であると言われており、こだい女子の髪型を呼称する時以外の使われ方はほとんどない。

その他、中国ドラマ『楚喬伝 〜いばらに咲く花(原題:楚乔伝)』に登場する主人公の楚喬(そきょう/chǔ qiáo)の髪型を紹介する記事を追ってみると、"こだい女子"は次のような髪型も存在したようだ。

- 1. 丫鬟髻(やかんき):上述の通り、侍女のような簡素なスタイル。

- 2. 滾辮髪型(こんべんはつがた):髪を中央で分け、髪を巻いて後ろに結う淑女風のスタイル。

- 3. 披頭散髪(ひとうさんぱつ):髪を下ろして自然な髪の乱れを演出するスタイル。

- 4. 丸子頭(まるこあたま):現代のお団子ヘアに似た、頭の上でシンプルにまとめたスタイル。

- 5. 三七分辮子式(三七分けの編み込みスタイル):三七分けにして、左側に短い髪のカーブを残し、右側には髪留めをつけ、胸前に二本の小さな三つ編みを垂らす。

- 6. 三七分蓬松式(三七分けのふんわりスタイル):このスタイルも三七分けで、前髪がふんわりとボリュームを持たせているのが特徴的なスタイル。

- 7. 中分鼓包式(ちゅうぶんこほうしき):髪を真ん中で分け、後ろにボリュームを持たせたスタイル。

"こだい男子"の髪型は現代とは全く異なるが、"こだい女子"の方はそのまま現代の髪型に転用できる艶やかさや可愛らしさがある。宋王朝は現代に極めて近い開放的な文化を楽しめるよ愉快だ。

※画像:百度百科「丫髻」より引用。こちらは典型的な二つ団子の丫鬟髻(やかんき)の人形。先ほどの徽柔(きじゅう/huī róu)はこの団子をもうひとつ加えたスタイルとなっている。

※画像:同じく百度百科「丫髻」より引用。こちらは丫鬟髻(やかんき)にふわっとしたボリュームを持たせた、柔らかいイメージの双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)。

尚、分かりやすさを重視して"こだい女子"というくくりを設けたが、子どもであれば男の子もこの髪型が用いられていた。またある程度の年齢に達して"Girl"から"Lady"になると、財産や地位のある家庭の令嬢は先ほどの楚喬(そきょう/chǔ qiáo)の髪型における2番目以降に移行する。その年代になっても丫鬟髻(やかんき)の結いを行っている女子は地方の者、または貧しい家庭の者が多かったらしい。

唐の杜甫の詩『負薪行』には、「夔州(今の奉節)の娘たちは、髪の半分が白髪交じりで、四十五十歳になっても夫に出会えない。さらに戦乱により嫁ぐことが叶わず、一生の恨みを抱える。土地の風習では、男は座り、女は立つ。家の出入りを女が行い、十歳ほどの子供でも薪を背負って帰る。薪を売って得たお金で生活を賄っている。老いても双鬟を結い続け、首に垂らすばかり」とある。これは"こだい女子"の髪型を通じて描かれた当時の社会情勢。当時の四川省夔州地方の女性は、長年続く戦乱のために男性が著しく減少し、その結果として四十五十歳になっても結婚できないという状況が多く見受けられたという。

また、北宋陸游(りくゆう/lù yóu)が詠んだ詩『浣花女』には、「江头女儿双髻丫,……插髻烨烨牵牛花(江辺の娘は双髻丫を結い…髷[まげ]に牽牛花を挿している)」とある。こちらは社会の厳しさや家庭の貧しさから来るものではなく、双丫髻(そうやき/shuāng yā jì)を敢えてファッションとして楽しんでいる江南女子の気風を垣間見ることができる。

※別の場面に登場した丫鬟髻(やかんき)。左にいるのは曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)、中央の男子は養子入りにより次代皇帝の候補者(皇太子)となった宗実(そうじつ/zōng shí)、右にいる女子は徽柔(きじゅう/huī róu)。宗実の髪型も典型的な二つ団子の丫鬟髻(やかんき)だ。ちなみに本作では描かれないが、宗実は後に実際に仁宗の皇帝の座を受け継いで、第五代皇帝の英宗として即位をする。仁宗時代の功臣である韓琦(かんき/hán qí)、欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)、富弼(ふひつ/fù bì)らもそのまま活躍を続けた。

⑥感情と理性の談義:曹丹姝と宗実

勉学に集中する宗実(そうじつ/zōng shí)が曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に深く鋭い質問を行い、これに対して曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)も深く鋭い回答を行う対談の場面。二人の落ち着いた演技が素晴らしく、また内容も実に良い。

宗実:胡先生讲诗 说诗是表达了人的 喜 怒 哀 乐 也就是情 胡先生说 孔圣人尤其重视 让弟子学诗(胡先生は詩について語り、詩は人の喜怒哀楽、つまり感情を表現しているものだと言いました。また、胡先生は孔子[孔聖人]が特に詩の重要性を重視し、弟子たちに詩を学ばせたことに言及しました。)

曹丹姝:情发于外 成诗成乐 抑扬顿挫 反复呤咏间 尤为感人(そう、感情が外に表れると、詩や音楽となります。抑揚のある調子や調子の変化、繰り返しの吟唱の中で、特に心に響くものとなります。)

宗実:还没进宫之前 王府的先生讲 上天给人的性是善的 如果能保住先天的本性 不被情所惑 就可以做圣人 君子 但是大多数人都被情所惑 丧失了原来的本性 就会作恶 情是害性的 所以情是不好的 娘娘 到底哪个是对 哪个是错呢(でも、まだ宮廷に入る前に、王府の先生がこう教えていました。「天が人に与えた本性は善である。もしその先天的な本性を保ち、感情に惑わされなければ、聖人や君子になれる。しかし、多くの人は感情に惑わされ、元の本性を失ってしまうため、悪を行うようになる。感情は本性を害するものであり、だから感情は良くないものだ」と。それでは、娘娘[皇后様]、この教えのどちらが正しくて、どちらが間違っているのでしょうか?)

曹丹姝:关于情的论辩 先奏大儒和汉儒 解得不同 娘娘并非博学鸿儒 定也不能讲透彻 不过娘娘来试试(感情についての議論は、かつて大儒と漢儒の解釈が異なっていました。娘娘[私]は学識豊かな学者ではないですから、完全に理解することは難しいかもしれませんが、それでも試しにお話ししてみましょう。

曹丹姝:你看 这申时的太阳 与午时的太阳 未时的太阳 颜色 大小 光芒都不相同 那么从此地看 与从在湖上看 在屋顶上看也不尽相同 太阳都是同一个太阳 但是我们看的时辰不同 地方不同 看到眼里的样子便也不同 那么呤咏的的诗句 写的文章便也不同 不同却不能说谁是不对的 (見てください。この申の刻の太陽と、午の刻や未の刻の太陽は、色や大きさ、光の輝きが異なります。同じ太陽ですが、ここから見るのと、湖の上から見るのと、屋根の上から見るのでは、見える姿も少しずつ違います。同じ太陽なのに、見る時間や場所が異なれば、見える姿も異なるのです。だからこそ、詩や文章に詠み込まれる内容も変わってきます。異なるからといって、誰かが間違っているとは言えないのです。)

宗実:娘娘是说 虽然从前的先生汫 情是不好的 而胡先生讲 情不一定是不好的 他们讲的不同 却都不是错的 (娘娘[皇后様]がおっしゃるのは、以前の先生は感情は良くないと言っていたけれど、胡先生は感情が必ずしも悪いものではないと言っている。彼らが言っていることは違うけれど、どちらも間違っているわけではないということですね。)

曹丹姝:性乃至纯 生而具备 譬如仁爱孝悌 而情是人与外物 性受外物所激而生的 欢喜悲伤 眷恋哀愁 我想所渭会乱性 又仍为恶的情 是滥情 没有节制 放纵喜怒 肆意妄为 伤人伤己的情 而胡先生所讲的 是由心而发 却又能止乎于适度的情

(本性は純粋で、生まれながらにして備わっているものです。たとえば、仁愛や孝悌の心のようなものです。しかし、感情というのは、人が外の事物に影響を受けた結果、本性が刺激されて生じるもので、喜びや悲しみ、恋慕や哀愁といった感情が生まれます。私が思うに、本性を乱し、悪となる感情というのは、節度を欠いた「滥情(らんじょう)」です。つまり、制御が効かず、喜怒を放縦し、勝手気ままに振る舞って、自分も他人も傷つけるような感情です。しかし、胡先生が言っているのは、心から発せられた感情でありながら、節度を守って適度に止められる感情のことです。)

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「知者过之,愚者不及(知者は過ぎて、愚者は及ばず)」。宗実の二人の先生の教えは足りず、曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は少し教え過ぎている感のある場面。ともあれ、彼女が語っていることは人間の本性に関する真理の一側面であり、これは同時に仁宗が張妼晗という女性を愛する事になった出来事の彼女なりのアンサーにもなっている。本当に上手な構成だ。

短くまとめると、宗実は「人間にとって大切なのは理性を保って感情を節制することですか、それとも感情を優先して理性を節制するべきですか?(理性と感情、どちらが大切ですか?)」という質問を行って、曹丹姝が「どちらも状況によって重要性の度合いが変わるけど、とにかく感情も理性も適度に持つことが大事だよ」と答えているということになる。

この「理性か、感情か」という議題で言うのなら、作家ドストエフスキーの『罪と罰』で、理性を追求したロージャが殺人者となり、感情を追求したスヴィドリガイロフが自殺者となった結末が非常に明確な対比構造を示している。理性を追求すれば他人を害し、感情を追求すれば自分を害する。どちらも過ぎれば破滅をするという点では同じである。先の『論語』の一節、「知者过之,愚者不及」で体現されている中庸(もっとも最適な状態)を維持する人生の在るべき姿勢、これが極めて重要なのだ。

私はこの中庸の論理学発明をさらに自分なりに更新している。以前の記事でも再三取り上げている通り、人間の本性(本能)を「生存欲求(生きたい)」「知的欲求(知りたい)」「関係欲求(繋がりたい)」に分解し、このそれぞれの欲求を制御することにより中庸の状態を保てると考えている。その状態を保つことの出来る人物が、孔子の説いた「君子」であると私は理解している。

※今回の題材として用いたのは、中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第二十集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

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※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

孫悟空一行は盤絲岭に到着。今回のロケ地は四川省の奥地にある美しき峡谷、中国名所の九塞溝だと思われる。ちなみに、トップ画像の右下にいるのはおそらく撮影班のひとり。見切れが生じている。この直前の場面でも電柱が一瞬映る場面がある。予算が限られているので撮り直しや編集もある程度は妥協しながらの旅路なのだ。

①瞧(ティアオ/qiáo)

八戒 瞧 多像花果山呀(八戒、見てみ!まるで花果山みたいじゃないか?)「是啊(本当だなぁ)。」何気ない会話だが、孫悟空の故郷(花果山)に対する郷愁の念や二人の仲の良さをしみじみと感じることの出来る一場面だ。

この「瞧(ティアオ/qiáo:見る)」は主に口語で用いられるカジュアルな性質の中国語だ。物語内の台詞であれば文章の中でも使われるかもしれないが、正式な文章では用いらない。一般的な「見る」を意図する表現としては、口語でも文語でも「看(カン/kàn)」が用いられる。

<「瞧」の事例>

  1. **見る**(通常は軽く、日常的な意味で使われる)

- 「瞧一瞧」= ちょっと見てみて / 見てごらん

- 例: 「瞧,这是什么?」(見て、これは何だと思う?)

  1. **注意を引く**(他人に何かを見てもらいたい時)

- 「你瞧!」= 見て! / 見てみなよ!

- 例: 「你瞧,这个真不错。」(見て、これ本当に良いよ。)

  1. **観察する / 確認する**

- 「瞧病」= 診察する / 病気を見てもらう

- 例: 「医生过来瞧瞧。」(医者が来て見てくれた。)

  1. **皮肉や冗談で使われる場合もある**

- 「瞧你」= あなたを見てみろよ(皮肉を込めて)

- 例: 「瞧你,怎么又迟到了?」(また遅刻かよ、全く。)

②长辈(チャンベイ/zhǎng bèi)

玄奘が丘から茅屋(小屋)を見つけて、食べ物を分けて貰いに行くよと申し出た場面。孫悟空たちがわっと驚いて、「いやいや、お師匠さん、そんな弟子がやるべきことをしないでくださいよ」と大騒ぎ。特に猪八戒は「あなたは长辈(zhǎng bèi / チャンベイ)、我々は弟子なんですよ」と一生懸命に玄奘を説得して、自分が行くと申し出た。

「长辈(zhǎng bèi / チャンベイ)」は、「年上の人」や「目上の人」を指す言葉。特に家族や親族において、自分よりも年齢が上で尊敬すべき立場にある人たちを指すのに使われる。祖父母、父母、叔父、叔母などが典型的な「长辈」だ。また、職場や社会の中で自分より経験が豊富な先輩や上司に対しても使うことがある。また、长辈(zhǎng bèi / チャンベイ)は日本漢字に置き換えると「長輩」。同じ熟語は日本には無いが、派生表現として「年輩」「先輩」などを日常的に用いている。

自ら走る指導者か、他者を走らせる指導者か。これはどちらが正解であるとも言い難く、どちらが間違いであるとも言い難い。ケースバイケースだ。今回の玄奘のように自らプレイヤーとして活躍する"カーク船長(『スタートレック』)"のような指導者によって上手く機能する集団もあれば、『三国演義』の劉備のように神輿の上から降りずに有能な部下たちに支えてもらうことで最大の結束力を発揮する集団もある。

ただし、ここで問題は「気まぐれにその指導スタイルのスイッチを変えてはならない」ということだ。玄奘は美しい景色や素晴らしい天気によって気分が高揚し、急に思い立って「カーク船長」になってしまったが、このような指導スタイルの急転回は思わぬ事故を招くことが多い。そして実際、そうなってしまった。

③洗澡(シーザオ/xǐ zǎo)

いざ玄奘が小屋に向かってみると、そこにいたのは七人の美女たち。こんな山奥でどうして若い女性たちがいるのか不思議に思いつつも、玄奘は「食べ物を分けていただけませんか」と打診。しばらく彼女たちから歓待を受けた玄奘であったが、彼女たちの正体は蜘蛛の精妖。彼女たちは相手が玄奘と知るや否や、不老不死になれるという噂の玄奘の肉体を求め、蜘蛛の糸で彼を束縛してしまった。

彼女たちは童子の蜘蛛たちも呼び、全員で玄奘を食べようとウッキウキの大喝采。だが、その神通力の効果を最大限に浴びるために、"食事"の前に身体を清めようと行水へと向かった。中国語で「水浴び」を意味するのは「洗澡(シーザオ/xǐ zǎo)」だ。

※この後、心配になって様子を見に駆けつけた孫悟空が蜘蛛女たちが水浴びをしている光景を確認し、彼女たちの足止めをするために鷹に変身して衣服をすべて盗み取った。

※「女妖怪の洗澡(シーザオ/xǐ zǎo)」と聞いて、猪八戒が急に並々ならぬ興味を発揮。女好きの猪八戒ならでは。種族は関係ないようだ。

当時は湯船に浸かるという習慣が無いので「洗澡(シーザオ/xǐ zǎo)」は水浴びをそのまま意味するが、現代では「シャワーを浴びる」「お風呂に入る(湯船に入る)」という意味も持ち合わせる。日本語のように区分しなくても特に気にならない。もし「シャワーを浴びる」ことを強調したい場合は「冲澡(チョンザオ/chōng zǎo)」、「お風呂に入る」ことを強調したい場合は「泡澡(パオザオ/pào zǎo)」を用いる。

④今度は猿兄貴がカーク船長に

沙悟浄から「どうして奴らを退治しなかったんですか?」と聞かれた孫悟空が、次のように返事をしている。

孫悟空:你不知道啊 我若打死她们 岂不坏了 我的名头(分からないか?もし彼女たちを殺してしまったら、俺の名声(名頭)を傷つけることになるじゃないか?)

猿兄貴も"カーク船長"のように「男性たるもの、女性を守るべし」という騎士道精神を発揮しているが、ここまで手段を選ばず、ただただ玄奘を守り抜くことだけに集中してきた彼としては何やら生ぬるい。今回は玄奘孫悟空が自分のスタイルを気まぐれに急転回させた結果、集団全体に問題が生じてしまったという展開のように感じられる。

この後、猪八戒は美人の女妖怪たちを退治するついでに何とか彼女たちの水浴びを見るべく、「後になって師匠に累(苦難)が及ばないように、自分が退治してくる」と強く主張し、現地の河へと走って行った。そして、彼は見事に彼女たちの返り討ちに遭って蜘蛛の糸で束縛されてしまうのだった。

※アクションPRGゲーム「黒神話:孫悟空」のアニメカットシーンに登場した蜘蛛女の水浴び場面。このアニメカットシーンではどこかシリアスなラブロマンスを彷彿とさせる描かれ方がなされている。

⑤失迎了(シーユィンラ/shī yíng le)

孫悟空の活躍によって何とか蜘蛛女たちから難を逃れた玄奘一行。彼らは近隣の道院(道教の僧院)である黄花観に立ち寄り、長老から歓待を受けることになった。この場面では長老が口にしている「失迎了(シーユィンラ/shī yíng le)」という儀礼言葉は、「お迎えが遅れてしまいました」「お迎えできず失礼しました」という意味を持つ。

この儀礼言葉の「失迎了(シーユィンラ/shī yíng le)」は、相手が自分のところに来たのに、十分に迎える準備ができていなかったり、単に相手の面子を立てたかったりと、そのような謙遜を示す表現である。

玄奘たちは「長老なのに何と腰の低い善良な人だろう」という印象を受けたかもしれないが、孫悟空は一発で彼の殺気を見抜く。彼の正体はムカデの精妖である「蜈蚣精」。別名は「多目怪(百眼魔君)」。胴体に千の目があるというおぞましい妖怪で、その魔眼から強烈な神通力を含む金光を放つ強敵であった。彼は蜘蛛女たちとも知己があり、蜘蛛女たちの唆しによって玄奘に毒を飲ませることに成功。孫悟空は彼の金光に翻弄されて撤退。玄奘たちはすっかり苦境に陥ってしまった。

※適度な手作り感による滑稽味が笑える多目怪の胴体。ビリビリユーザーのコメントで「笑死了(シャオスラ/xiào sǐ le:笑い死にそう)~」が飛び交っている。今回何度か話題に出した『スタートレック(1964~67年製作)』でも、「壮大な物語+技術が未発達の時代+限られた予算」という視聴覚芸術の奇跡の調和が絶妙な人の温かさを放っている。現代では特殊映像技術によってさらに洗練された映像が生まれるのだが、この時代にしか出せなかった独特の味わいにはなかなか勝てないものだ。

⑥毗藍婆菩薩(びらんばぼさつ/pí lán pó pú sà)

この苦境で救いの手を差し伸べたのが、千里離れた紫雲山の千花洞に住んでいるという神仙、二十八星宿の一つである昴日星官の母親である毗藍婆菩薩(びらんばぼさつ/pí lán pó pú sà)だ。彼女は作家の呉承恩(ごしょうおん/Wú Chéng'ēn)によるオリジナルキャラクターであり、仏教や道教などの原典には存在していない。または、彼女は法華経に登場する十羅刹女の一人ではないかと考える者もいる。

藍婆菩薩(びらんばぼさつ/pí lán pó pú sà)は解毒薬と多目怪の金光を打ち消せる刺繍針を孫悟空に提供。後者の刺繍針は彼女の息子、昴日星官の「日眼」で鍛えられた宝貝であった。これによって見事に孫悟空たちは多目怪と蜘蛛女たちを成敗することに成功した。

藍婆菩薩(びらんばぼさつ/pí lán pó pú sà)は蜘蛛に戻った精妖たちを引き取ると告げる。猪八戒が「こんなやつらを引き取ってどうするんだい」と聞くと、毗藍婆菩薩(びらんばぼさつ/pí lán pó pú sà)は「彼女たちには私の家の庭を掃除して貰いたいんだ」と笑顔で答えたのであった。「ロボット掃除機やんハハハ」という突っ込みが飛び交うビリビリコメント欄が愉快。

だが実際、家に住まう蜘蛛は多くの場合でダニやノミを食べてくれる益虫であると言われている。実証されている訳ではないが、最近話題となった凶悪な害虫「トコジラミ」も蜘蛛がいると彼らが退治してくれるという話がある。

ちなみに、宋代の詩人である徐元杰(じょげんけつ/xú yuán jié:儒学の大家である朱熹の弟子)が、蜘蛛に関する次の七言律詩を書いている。

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《蜘蛛》

倦倚阑干小院东,蜘蛛惊雀堕虚空。

细看缕缕挂枝上,旋复丝丝收腹中。

偶尔得生诚险道,幸而不堕赖无风。

如何薄相才安迹,便欲经营网众虫。

小さな中庭の東側に疲れたように欄干に寄りかかっていると、蜘蛛が雀を驚かせ、そのせいで虚空に落ちた。

よく見ると、蜘蛛の糸は枝に残っていて、また中腹まで戻っていった。

偶然に命を得るのはまさに危険な道で、幸いにも風がないので落ちることはなかった。

しかしどうしてだ、そのか弱い姿でやっと安らかに身を置いたのに、蜘蛛はまたすぐに虫を捕らえるために巣を張り出した。

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運命に翻弄される生命の儚さと、それでもなお強く生きようと自分の力を尽くす蜘蛛の姿。徐元杰(じょげんけつ/xú yuán jié)はその運命と行動の狭間にある蜘蛛を人間の姿と照らし合わせている。

※画像:百度百科「蜘蛛侠(美国2002年山姆·雷米执导动作科幻电影)」より引用。スパイダーマンの中国語は「蜘蛛侠(ツィーツゥーシャア/zhī zhū xiá)」。「蜘蛛の侠客(きょうかく/xiá kè:義理人情に厚く、弱い者の苦しみを救うために強い者と戦う人物)」という意味を持つ。

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二十一集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

作品紹介

孤城閉~仁宗、その愛と大義~ DVD-BOX1

水滸伝 DVD-SET1 シンプル低価格バージョン(期間限定生産)

著作紹介("佑中字"名義作品)

意訳と案内で駆け抜ける 『罪と罰』ストーリーツアー

呑気好亭 華南夢録

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

①五更(ウーゲン/wǔ gèng)

西夏宋王朝で戦争が起きようとしている。抗戦するべきか、融和するべきか。仁宗はその選択に迫られ、福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)でひとり深夜まで机の上で熟考を重ねていた。いつの間にかそのまま寝てしまい、ハッと気が付いた時は五更の時。これは夜間帯を表現する当時の時間単位。(以前の記事でも十二支を用いて十二の時間帯に区分する宋王朝の時間単位を取り上げたが、これはまた別の定義となる。)

五更(ウーゲン/wǔ gèng)の「更(gèng)」は小さな鼓を意味する。夜間の時刻を、「更(gèng)」の鼓を打つことにより周囲に知らせる方式が用いられるようになった。この経緯から、単純に「五鼓」とも呼ばれた。詳しい区分は次の通りだ。

- 黄昏 一更(一鼓) 19~21時

- 人定 二更(二鼓) 21~23時

- 夜半 三更(三鼓) 23~01時

- 鶏鳴 四更(四鼓) 01~03時

- 平旦 五更(五鼓) 03~05時

早朝に目が覚めて、ある決意を胸に垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)へ向かう仁宗。一方、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)では抗戦か融和かを巡り、重臣たちが強い討論を重ねていた。

張宰相は融和政策を優先するべきだと考えており、西夏の指導者である李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)に爵位を与えれば一定の和平状態を保てるのではないかと言う。しかし、保守的な考えを嫌う情熱的な官僚の蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)が次のように断じる。

蘇舜欽:给我朝下国书上人 改名 嵬名曩霄 以青天子自居 自土上帝号 世祖始文本武兴法建礼仁孝!张相 想让官家下昏削什么 去什么 已经被弃之若敝履的 国姓爵位吗!(我々の王朝に国書を送ったその不届き者は、嵬名曩霄という名に改名し、青天子を自称して、世祖始文本武兴法建礼仁孝などと自国領土の上帝の称号を名乗ったのです!張宰相、奴は官家[仁宗]に対し、何を削り取ってやろうか、何を取り去ってやろうかとばかり考えています!奴が欲しいのは国そのもので、すでに使い古されて捨てられた宋の国姓や爵位ではありません!)

ちなみに、日本DVD版の字幕では李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が「(宋王朝の真似をして)礼と孝の法を自国に採用したと言います!」といった内容の翻訳を当てていたが、これは原語では言っていないと思われる。おそらく、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が自称した皇帝の名称「世祖始文本武兴法建礼仁孝」の後半部である「法建礼仁孝」を誤って訳してしまったのだろう。ただし、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が宋王朝の法律や官僚制度などの政治システムをほとんど完璧にトレースし、"コピー国家"として勢力を伸長させたという点は事実である。

②放肆(ファンスー/fàng sì)!

その後もあまりに過激な言葉や批判が飛び交うので、温和な張宰相もついにブチ切れムードに。「放肆(ファンスー/fàng sì)!」と怒鳴っている。これは「規則や礼儀を無視して、勝手な振る舞いをする」 という意味を持つ熟語表現で、ニュアンスとしては「無礼者め!」「勝手なことを!」「なんと図々しい!」といった具合になる。

しかし、蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)たちはまったくひるまず、「本当の『放肆』は西にいる!あの夷狄(いてき/yí dí:異民族の蔑称)の奴らに、二十五年間、宋は礼儀を尽くし過ぎた!」と反論。完全に議論の収拾がつかない状態だ。

③仁宗が朝堂に入り決断を語る:「親征」

抗戦と融和、それぞれの考えが大衝突して完全な分断状態となってしまった重臣たち。そこに仁宗が垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)に到着して、次のように重臣たちに質問をした。

仁宗:朕少年时 诸位鸿儒为朕讲经 论治囯之道 讲到 孟子曾劝谏梁惠王道 天下百姓无不盼 能有不嗜杀不好战的君子 若真有这样的仁君 万民归心 天下大统 诸位 俱都是孔孟门生 有不少儒家大家 此时朕倒是想问问 亚圣说的那句活 说得到底对还是不对 若是不对 诸位在劝谏朕 为政要宽仁之时 为何常提 若是对 那么朕 不愿贝烽烟起 白骨堆 不愿轻起战端 却为何未能使得 党项族人归心 反是养了豺狼(私が若い頃、様々な学者が私に経典を講義し、国家を治める道を論じてくれた。その際、孟子が梁の恵王に進言した話を聞いた。孟子は、『天下の民は誰しも、殺戮を好まず、戦を欲しない君子を待ち望んでいる。もし本当にそのような仁君がいるならば、万人の心がひとつとなり、天下は統一されるだろう』と言ったと。諸君たちは皆、孔子孟子の教えを受けた学者であり、儒家の大家も少なくない。今この時、私はふと思い立って、あの孟子の言葉が本当に正しいのか諸君に尋ねたくなった。私が西夏との戦争を欲しないということが正しくないのなら、なぜ君たちは、普段私に政治を行う際に寛仁であれと進言し続けるのか。逆に、もし私が西夏との戦争を欲しないということが正しいのなら、私はこのまま戦乱の火種を起こしたくないし、無意味に白骨が積み上がることを望むわけもないのだが、どうして党項族[西夏の民族]の人々の心を得ることができず、かえって彼らを豺狼[山犬や狼:転じて残酷で欲深い者を意味する]のような存在に育ててしまったのか。)

戦争を起こさずに平和を保とうと努力し続ける君主こそが「万民归心 天下大统(万民の心がひとつとなり、天下を統べる)」名君であると教わり、これを実践し続けて来た仁宗。しかし、今はその寛容な態度が重臣たちの批判の的になっている。仁宗は「孔子孟子の教えが間違っているのか、私が間違っているのか」と聞いているのだ。

この仁宗に問いかけに、蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)が答える。

蘇舜欽:微臣以为 亚圣自没有说错 天下的百姓 当然想要安居乐业 不起战火 他们喜欢不爱杀人的君王 但是说到底 他们需要的 是可以保护他们的君王 他们只会归附于 能让嗜杀者惧怕 并臣服的君王 而绝不会归附于 对嗜杀者退让的君王(私の考えでは、孟子[亞聖/亚圣]は決して間違ってはいません。天下の百姓は当然、安居楽業を望み、戦火が起こらないことを願っています。彼らは、殺戮を好まない君主を好むでしょう。しかし、結局のところ、彼らが必要としているのは、彼らを守れる君主です。彼らが帰順するのは、残虐な者たちに恐れを抱かせ、彼らを従わせることができる君主であり、決して、残虐な者たちに対して譲歩する君主には帰順しないのです。)

蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)はこう言いたいのだ。「譲る」と「護る」には違いがあると。君主や政治家は安寧を求めてただひたすらに周囲に妥協するのではなく、真の和平と発展を求めて戦わねばならない時もあるのだと。仁宗はこれに大きく相槌を打った。おそらく、彼は最初からこのような意見が来ることを予想していたのである。そして、仁宗は次のように続けた。

仁宗:苏卿解得好 翰林院即刻拟诏 调动禁军 讨伐逆贼 朕 要御骂亲征(蘇卿[蘇舜欽]の説明は見事だ。翰林院はすぐに詔書を草案せよ。禁軍を動員し、逆賊を討伐する。私は自ら戦場に立ち、敵を打ち負かす覚悟だ。)

騒然とする一同。抗戦を訴えていた蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)韓琦(かんき/hán qí)と韓琦(かんき/hán qí)が顔を見合わせて唖然とし、一瞬言葉を失った。西夏との戦争は彼らの望むべきものであったが、まさか軍に皇帝が直々に同行する「亲征(親征)」の決断が下されるとは思いも寄らなかったのだ。

先ほどまで言い争っていた重臣たちが、今度はひとつにまとまった。彼らは今回の戦争において仁宗を危険に晒す意味まではないと考えていたので、全員がそれぞれの根拠を用いて「親征」の取り下げを諌言した。張宰相も、以前取り上げた朝廷言葉である「請陛下三思(チンビーシャーサンスー/qǐng bì xià sān sī:陛下、どうかよくお考え直しください)」と述べた。

④親征の決意と挫折

仁宗が親征を決断した根拠を示す。親征は宋王朝における軍事活動の不具合を改善する唯一の手段であると彼は語る。

確かに、「親征」には非常に多くの優位点が存在する。第一に、軍の士気が格段に向上する。皇帝自らが前線にいる事による影響力は凄まじく、これによって兵士たちは普段の何倍もの力を発揮することができる。

そして第二に、これが極めて宋王朝では重要なのだが、軍の決定速度が爆発的に改善し、戦況に応じた臨機応変の対応ができるようになる。宋王朝は「文重武軽」の徹底した政治システムで、軍の決定権は全て朝廷の文官たちが掌握をしている。これは唐王朝時代の問題を改善した結果の産物。唐王朝時代は地方の軍部に大きな決定権を持たせ、それによって軍事大国となったが、最終的にはその軍部が力を持ちすぎて国家の崩壊につながった。

このため、宋王朝では通常の有事においては地方で軍が戦っていても現場の決定権が極めて限られており、重要な決定は常に朝廷(中央政府)に軍事行動の是非を問わなければならない。これでは現場で何か緊急事態が起きてもすぐに兵士たちが対応が出来ず、早馬で報告の往復がなされている間に戦況がまた変わってしまう。これは震災によって原子力発電所が今まさにメルトダウンを起こしかけている状況で、命を賭けて戦っている現場の職員たちが「炉心棒を冷やしても宜しいでしょうか?」と政府にお伺いを立てるようなもの。当然、そのような歪曲的な決定機構では緊急事態を制することなどできやしない。

実際、これは私が上海にいた頃もよく目にしていた「分割統治」に関するビジネス問題であった。上海が一気に経済成長を遂げた段階で多くの日系企業が現地に参入したが、多くの企業が現場の人々(支店)にほとんど裁量権を与えず、常に本社の稟議(りんぎ:従業員が起案した提議について、承認をもらうために複数人の役職者に回覧と合意を取り付ける作業)を要求した。しかし、上海のビジネス世界のスピードや性質は日本とは全く異なるものであったので、このような中央集権型の企業は現場で問題が起こると常に対応が後手に回った。そして、多くの場合、この手の「日本式」を貫いた企業はチャイナドリームに失敗した。

※画像:百度百科「优衣库(日本服装品牌)」より引用。ここは上海・浦西地区の中心街、南京西路沿いにある旗艦店(フラッグシップショップ)だ。最近の様子は分からないが、私がこのあたりを歩いていた頃はいつでも客でにぎわっていたことを思い出す。

一方、上海で大成功を遂げた日系企業、たとえばファーストリテイリクング社(ファッションブランド「ユニクロ」を展開する日系企業)などは、分割統治、すなわち現地に多くの裁量権を与える機動性の極めて高い組織を構築したと言われている。これは一種の親征のようなものであり、現地に皇帝のような決定権を持つ人材がいるので責任と決定の所在が非常に明確かつ身近であり、それだけに現地組織が自由自在に動きやすい。中央集権型か、分割統治型か。どちらが正しいという訳ではないが、中国進出においては主に後者の企業が成功に至った印象が強い。

これも中庸(バランス)が大切であろう。中央集権型は起動性を失うが、安定性を確保できる。分割統治型は安定性を失うが、機動性を確保できる。状況に応じてこのスイッチの切り替えが出来る組織が、荒々しい社会の波を制する覇者となり得る。

さて、仁宗は「親征を行うかどうか」ではなく、「親征の詔書をどう書くか」について、重臣たちに議論を要求した。その議論の時間は「蝋燭二本分」であった。仁宗の決意は揺るぎないものであったが、晏殊(あんしゅ/yàn shū)の強い諌言によって挫折をした。晏殊(あんしゅ/yàn shū)は仁宗に世継ぎが無いこと、しかも皇太子も立てていない現状を指摘し、もし仁宗の身に何かあれば国難に陥るという点を強烈に指摘したのである。

仁宗は暗い顔をして、その意見に従って親征の決定を取りやめた。そして、仁宗は立て続けに従兄の第13子 宗実を養子に迎え、これを皇太子とすると言い、そのまま朝堂をひとりで出て行ってしまった。蘇舜欽(そしゅんきん/sū shùn qīn)は晏殊(あんしゅ/yàn shū)のことを"八方美人で意気地なし"と心の中で揶揄していたので、晏殊(あんしゅ/yàn shū)がそのように強固な姿勢で意見を奏上したことに心から感服した。

しかし、晏殊(あんしゅ/yàn shū)の気持ちは複雑であった。実母の件にせよ、皇后の件にせよ、今回の親征の件にせよ、仁宗が皇帝ではなく人間であろうとしたとき、晏殊(あんしゅ/yàn shū)は常にこれを止める役回りを徹底していた。国家の為を想ってこその行動であるが、仁宗には心から申し訳ないという罪悪感があった。

⑤求仁得仁(チューレンダーレン/qiú rén dé rén)

西夏戦争の件で、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)も何かと思い悩んでいた。仁宗との関係にも距離がある。こうした時、いつも心の底から自分を敬服して苦境を癒そうと努力してくれるのが、宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)。張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)は彼女の囲碁勝負の相手をした後、彼女に慰めの言葉を掛けた。

その言葉が、「娘娘求仁得仁」。「娘娘(ニャンニャン/niáng niáng)」は何度か取り上げている通り、皇后の尊称。「求仁得仁(チューレンダーレン/qiú rén dé rén)」は、字面通り「仁(思いやり)を求めれば、仁を得られる」という意味になる。日本DVD版では「求める者は与えられる」という、なんともキリスト教風味の翻訳が当てられていたが、これは儒学的な表現ではないのでニュアンスが全く異なる。

「求める者は与えられる」は「神に求めれば、神から恩恵を得る」といった形而上学的な意味合いが強い。一方、「仁を求めれば、仁を得る」の意図は、「自分が理想とする徳や目標を追求すれば、それが最終的に実現する」という内容であり、神や天意との因果はない。あくまでも「道を究めようと努力を続ける者は、その道を必ず究められるだろう」といった求道者の在り方を示す、人間目線の論理である。

⑥補足:論語・述而

※画像:百度百科「冉求(中国春秋时期历史人物)」より引用。冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)の姿絵。

「求仁得仁」の出典は『論語・述而』だ。原文は以下の通りとなる。

---

冉有(问子贡)说:“老师会帮助卫国的国君吗?”子贡说:“嗯,我去问他。”于是就进去问孔子:“伯夷、叔齐是什么样的人呢?”(孔子)说:“古代的贤人。”(子贡又)问:“他们有怨恨吗?”(孔子)说:“他们求仁而得到了仁,为什么又怨恨呢?”(子贡)出来(对冉有)说:“老师不会帮助卫君。”

孔子の弟子である冉有が、兄弟子の子貢にこう尋ねた:「先生は衛国の(暗君)である君主を助けるのでしょうか?」子貢は「うん、私が聞いてみるよ」と言って、中に入り孔子に尋ねた:「伯夷と叔斉とはどのような人でしょうか?」孔子は「それは古代の賢人だね」と答えた。続けて子貢が「彼らは怨みを抱いたことがあるでしょうか?」と聞くと、孔子は「彼らは仁を求めて仁を得たのだから、何を怨むことがあるだろうか」と答えた。子貢は外に出て、冉有に「どうやら先生は衛国の君主を助けないおつもりだ」と伝えた。

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この会話内容は補足が必要だ。孔丘先生(孔子)は弟子たちを引き連れながら、自身の論理学を国家運営に採用してくれる君主を探していた。ここで孔子一行が向かったのが衛国。この国の君主は暗君(愚かで無責任な君主)であったが、彼に上手く取り入れば安定した地位と俸禄が得られる状況にあった。ここで、弟子の冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)が兄弟子の子貢に対して、「先生は衛国でどう立ち回るつもりなんだろうか、俺たちはここで官職を得られるんだろうか」と質問をした。

子貢(しこう/zǐ gòng)は「先生に聞いてみる」と言って、孔子のもとに向かった。子貢は直接の質問ではなく、晏殊(あんしゅ/yàn shū)のように少し回りくどい表現で次の質問を行った。「伯夷(はくい/bó yí)と叔斉(しゅくせい/shū qí)を、先生はどう考えますか?」

この二名は古代の商王朝の時代で壮絶な最期を遂げた兄弟だ。彼らはもともと孤竹君(こちくくん/gū zhú jūn)の息子。二人ともあまりに真っすぐな人間で、武王が商王朝を打倒して周王朝を建国した時、武王の仁義忠孝の無さに義憤を覚えて「周王朝のものは一切口にしない」と決意。名家に生まれた有能な彼らはどこでも要職に就くことが出来たが、敢えて首陽山に隠棲し、日々野菜を食べて生活した。しかし、彼らはその野菜すらも周王朝の土で生まれたものだと考え、自分たちの信念に基づいてそれを食べることすらも止めて、最終的に餓死をするという選択に及んだ。

子貢(しこう/zǐ gòng)は孔丘先生が何と答えるか想像した。もし「二人は融通が利かない真っすぐ過ぎる人物だった」とでも言えば、それは人生においては信義よりも生活を優先するべき時があるという意味であり、今の先生も衛国の暗君に汲み入る選択をするかもしれなかった。しかし、逆に先生が「二人は偉人だ」と言うのなら、それはどのような時であっても信義を曲げてはならず、それを曲げないからこそ道を究められるという意味を持ち、今の先生が暗君から離れる選択をするかもしれなかった。

結果は、後者であった。子貢(しこう/zǐ gòng)が「二人はあんな結末になって、恨みや悔いがひとつもなかったんでしょうか?」と聞くと、孔丘先生は「彼らは仁を求めて、仁を得たのだよ。それに対して、どのような恨みや悔いがあるというのだい。」と答えた。このような訳で、子貢(しこう/zǐ gòng)は「なるほど、先生の信義は揺るがないんだ」と考え、冉求(ぜんきゅう/rǎn qiú)のもとに戻って「先生はこの国を離れるつもりだ」と言ったのだ。

※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第十九集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

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※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

①唉(アァイ/āi)

日本DVD版でカットされている冒頭の場面。ここは朱紫国。国王が病に伏せっており、重臣たちも成す術がなく困り果てていた。ここで家臣が「唉 陛下的病不但没治好还又重了(はぁ、陛下の病は治らないどころか、さらに悪化してしまったではないか)」と話している。

この「唉(アァイ/āi)」は現代でも日常的によく耳にする簡単表現だ。発音記号はāi(アイ)になるのだが、この通りに発音されるケースはほとんど無い。適切なカタカナ発音にすると「アァイ…」といった具合で、ため息をつきながらそのついでにアとイを吐き出すといった発声になる。日本語で言うと「はぁ…」「あぁ…」がもっとも近く、ニュアンスとしては「やれやれ…」「まったく…」といった性質を持つ。

※大手SNS「Wechat(微信)」のステッカー例。ハムちゃんも猫ちゃんもため息をついて残念がっている様子が確認できる。

以前取り上げた、日常的な感嘆表現としては「哎呀(アイヤー/āiyā)」もある。「唉(アァイ/āi)」と「哎呀(アイヤー/āiyā)」は意味合いが近い感嘆表現だが、ニュアンスや使い方には違いがある。

  1. **「唉(āi)」**

- **主なニュアンス**: 失望、嘆き、ため息、不満

- **使用場面**: 重く、ネガティブな印象。何かがうまくいかず、落胆や失意、諦めを感じた場面でよく使われる。

- **例**:

「唉,我真没想到会这样。」(ああ、本当にこうなるとは思わなかった。)

「唉,事情怎么变得这么复杂了?」(はあ、どうして事態がこんなに複雑になったんだ?)

  1. **「哎呀(āiyā)」**

- **主なニュアンス**: 驚き、軽い驚嘆、焦り、時には軽い叱責

- **使用場面**: 文脈によって重さと明るさが変わり、軽く愉快なトーンでも用いることができる。ある突発的な出来事や話などに驚いたり、困ったりして、軽い焦りや驚き、場合によっては相手や出来事を批判したい場面でよく使われる。

- **例**:

「哎呀,我忘了带钥匙!」(あっ、鍵を忘れちゃった!)

「哎呀,真是不可思议!」(えぇっ、マジで不思議!)

※画像:百度百科「JOJO的奇妙冒险(荒木飞吕彦创作的漫画)」より引用。左から四番目の学ランを着た男が第三部主人公の空条承太郎

若干話が横道に逸れるが、日本の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を代表する有名な登場人物の口癖に「やれやれだぜ」というものがある。これは第三部の主人公である空条承太郎が繰り返し口にしていたものだ。この「やれやれだぜ」は、意味としてはこの「唉(アァイ/āi)…」を当てはめることができるが、彼の独特の味わいある個性、そして冷静さと適応力(「面倒だが仕方ない、俺がなんとか解決してやる」の意)を表現しきれない。

百度で調べてみると、「やれやれだぜ」は中国語で「哎呀呀(おいおい)」「哎呀真是的(本当にもう)」、「傷腦筋(脳が傷つくぜ=面倒なこった)」、「真是夠了(いい加減にしろ)」といったニュアンスで解釈されているようだ。字面のインパクトを重視すれば「傷腦筋…」が良さそうだが、キャラクター性や絵柄との親和性を考えると「真是夠了」あたりが最も適切のように感じる。その他、別の候補としては「没办法(メイバンファー/méi bànfǎ:仕方ねぇ)」「真是麻烦(ツェンシーマーファン/zhēn shì máfan:本当に面倒だぜ)」も悪くないと思う。

②補足:誒(エイッorエーイ/ēi)

「唉(アァイ/āi)…」と字面が似ている「誒(エイッorエーイ/ēi:中国の簡体では「诶」)」も日常的な感嘆表現だ。私の個人的な印象ではあまり上海(華南)では聞かない気がする。北京や天津(華北)でよく聞く気がするのだが、そこまで地域性はないかもしれない。おそらく全国的に使われている表現だと思われる。

上のSNSステッカーの猫ちゃんの使い方、「誒…(エィッ…?)」はあまり一般的な使われ方ではないかもしれない。これは「哎呀(アイヤッorアイヤー/āiyā)」の一歩手前の小さな驚きを示し、日本語としては「はっ…?」「えっ…?」という意味になると思われる。よく使われるのは下の女優さんのステッカーのように「唉?!(エーイ/ēi)」と大胆に相手に押し付けるように発音するやり方で、その意図は呼びかけや注意喚起などになる。日本語としては「はぁ?!」「ねぇ!」といった具合になるだろう。

使い方の例文としては、次のようなものがある。

「诶,你看!(エーイ、ニーカン!)」→ねえ、見てよ!

「诶,我在这里!(エイッ、ウォーザイツァーリ!)」→おいっ、こっち!

「诶,是这样啊。(エェイ、シーチェヤンア)」→あぁ、そうなんだ。

発音記号は「ēi」だが、上のように文脈によってイントネーションや発音方法が微妙に変化する。このあたりの言語感覚はネイティブの領域だ。

※先ほどの会話の次の場面で登場する「哎哎(アイアイッ/āi āi)」も感嘆表現の一種で、こちらはかなりオールマイティーな言葉。誒(エイ)の持つ「呼びかけ」「注意喚起」、哎呀(アイヤ)の持つ「驚き」「困惑」、唉(アイ)の持つ「批判」「叱責」、そのすべてをイントネーションや文脈に応じて表現することができる。この場面では「呼びかけ」の意図が含められ、「哎哎 你们看 那边又来了个太医(おいおい、見ろよ、あそこにまた太医[医師]が来たぜ)」と話している。

③嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)

以前、女ばかりの西梁女国で玄奘たちが幽閉状態になってしまった時、猪八戒が的外れな発言を繰り返して、玄奘孫悟空から交互に「住嘴(ツゥーツイ/zhù zuǐ:黙れ)!」と言われてしまったことがあった。この嘴(くちばし)は拒絶や罵倒の表現によく含まれる単語で、今回は玄奘が「嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)」と叱っている。日本語としては何が適切だろう。脸(リャン/liǎn)が「面構え」「顔」の意味なので、「嘴脸(ツイリャン/zuǐ liǎn)」は「間抜け面」「馬鹿げた態度」といった訳し方が妥当だろうか。

「你收起那副嘴脸来!」(そのアホみたいな態度をやめろよ!)

「别摆出那副嘴脸,收起来!」(そんなバカみたいな顔するな、やめろ!)

したがって「收起嘴脸来(shōu qǐ zuǐ liǎn lái)」は、「その間抜け面を引っ込めなさい」、もっと簡単に言うと「馬鹿なことをするのはやめなさい」という意味になる。この場面、猪八戒が市場で楽しくなってしまい「その商品見せてよ」と商人に聞いただけなのだが、相手が精妖であることに驚いた町民たちがてんやわんやで逃げ出して大混乱になってしまったので、玄奘がこれを叱っているのだ。猪八戒にしてみれば何とも理不尽だが笑える場面である。愛するべきキャラクター、猪八戒

この後、玄奘はひとり急いで国王のもとに通行証をもらう手続きのために謁見へ向かうことになる。一方の孫悟空たちは朱紫国の市場に張り出されていた黄色い命令書(皇帝直々の職名資料:必ず皇帝を象徴する黄色い紙や布が用いられる)を通じて、「国王の病気を治した者には国の土地半分を褒章として贈る」という政策が出されていることを知る。

ドラマ版の設定としては、国王の病というは一種の精神病。その原因は三年前、皇后の金聖宮娘娘が精妖の賽太歳にさらわれてしまったことに端を発していた。ただし、金聖宮娘娘は神仙が急遽届けた棘の衣によって守られており、賽太歳は彼女に触ることが出来ずにいた。

※データ容量の関係でことごとく重要な場面を削除している日本DVD版で、こちらもカットされてしまった場面。さらわれた金聖宮娘娘を不憫に思った神仙の紫陽真人が、彼女に賽太歳から身を守るための棘の衣(霞衣)を譲渡している。

④補足:榜子(バンズ/bǎng zǐ)

孫悟空が市場に貼り出されていた榜子の内容に興味を持ち、榜子を操作して猪八戒のもとに飛ばす場面。町民が「哎 榜子怎么飞了(あれぇ 榜子がどうして飛んでいっちまうんだ)」と驚きの声を上げている。哎(アイッ/āi)は先述の通り、感嘆表現だ。この場面では「哎呀(アイヤッ/āiyā)」にしても良い。

この場面における「榜子(バンズ/bǎng zǐ)」は「国王の勅命資料」という意味合いで使われている。「榜」はもともと船で用いる木片を意味し、転じて「掲示する」「表示する」という意味を持つようになった。日本語ではあまり馴染みが無いが、僅かに「標榜(ひょうぼう:主張や事実を示すこと)」という言葉が見受けられる。

榜子(バンズ/bǎng zǐ)は時代や文脈によって異なる意味があるので、必ず国王の勅命資料を意図する訳ではない。主には「1. 奏事(皇帝への提議や報告)に用いる文体」「2. 名刺や名帖」「3. 告示や公告」「4. 模範や手本」「5. 船夫や舟人」という五つの意味がある。具体的なそれぞれの意味合いは次の通りだ。

<奏事に用いる文体>

これすなわち「奏折(そうせつ)」とも言う。宋王朝時代の孔平仲による『孔氏談苑』に「謯幎梗状(特定の形式に則った奏文の一種)を榜子と呼ぶ」とあり、「唐王朝時代の人々が奏事を行う際、表や状に当たらないものを榜子と呼び、また『録子』とも称し、今では『札子』と言われる」と書かれている。『宋史 職官志二』には、「翰林学士院では、すべての奏事に榜子を用い、三省・枢密院に関白する際には諮報(しほう)を用いる。」とある。つまり、宋王朝時代の榜子(札子)は、非公式な性質を帯びた(奏表・奏状ではない)臣下から皇帝への報告書、提案書のとして用いられたことになる。

<名刺>

榜子は現代で言う所の「名刺」のような資料としても呼称されたようだ。宋王朝時代の『張協状元』第三十五出には、「状元様、万福を!どうかお怒りを鎮めてください。私は榜子(名刺)を持って参賀しておりません」と書かれている。清王朝の俞樾は『茶香室続抄』で「紹興初年、百官が互いに会う際には榜子を用い、役職と名前を直接書いた。今では手本式になっている」と記されている。

<告示、告知>

これが今回の孫悟空たちが目にした「榜子」だ。宋王朝時代の景定四年(1263年)に黎靖德が編纂した『朱子語類』の巻127には、「当時、人々は骨肉が離散し、道沿いに榜子を貼って告示をしていた」とある。ここでは社会の動乱によって骨肉(家族)が離散状態になってしまい、道沿いに家族の行方を求める貼り紙(榜子)がずらりと並んでいた悲惨な光景が描かれている。

<模範、手本>

明王朝時代の王衡の『郁輪袍』第七折には、「このため、維摩居士が王維に、儒童菩薩が裴迪に変化し、故意に会おうとして会わないという態度を取り、一世を傲視し、千古を凌駕し、世の人々に榜子(手本)を示した」とある。

<船頭、船夫>

宋王朝時代の梅堯臣による『望芒砀山』という詩に、「舟を出して古い岸に跳び上がり、林の外に修岡(高い山)を見た。振り返って(あの山は何だと)榜子(船夫)に聞いたところ、前方の峰は芒砀山ということであった。」とある。また、清王朝時代の周亮工の『将发剑津病甚扶掖登舟枕上成诗』という詩の一部に、「江風が薬の炉に吹き、榜子(船夫)が医者を急かした」とある。

※別の場面では「这可是当今皇上的榜文呐(これは今の国王様の榜文ですぞ)!」といった具合に、「榜文(バンウェン/bǎng wén)」という表現がなされている。

※中国で大人気を博したファンタジー時代劇『琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~』における第四十九集の一場面。主要登場人物である靖王を演ずる王凱(ワンカイ/wáng kǎi)は、『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』で仁宗役を演じている名優だ。琅琊榜は架空の琅琊地域にある英傑序列の制度であり、ここでの「榜」は「リスト」「表」といった意味合い(琅琊榜=英傑リスト)となる。

⑤孫長老(スンチャンラオ/sūn zhǎng lǎo:中文では「孙长老」)

孫悟空はかつて修行した際に神通力を用いた医術も学んだので、これを試してみたくなって国王の治療を申し出た。家臣たちは特別な医術を持つという自信満々の孫悟空に藁をもすがる想いで重宝し、彼を「孫長老」と呼んで、すぐに国王の前まで連れ立った。先に通行手形の件で国王と話していた玄奘は、この出来事については寝耳に水。玄奘がまた慌てて「この"孫長老"は貧僧(仏僧である自分を謙遜して表する第一人称)の徒弟なのです。彼に病魔を癒す力はありません。」と説明している。

ここの台詞回しは簡潔ながら巧妙だ。普通に話すことを想定すれば、「この者は孫悟空と言いまして、私の徒弟です(此人名叫孙悟空,是貧僧的徒弟)」といった具合になるだろう。ただ、この説明的な話し方では玄奘の苛立ちや批判的な気持ちを十分に表すことができない。そこで「孫悟空」を「孫長老」に変えれば孫悟空の暴走ぶりや展開の外連味が生じて、玄奘のちょっとした内面の怒りも表現することが出来る。こうした論理学的な表現手法は非常に細かであるが、言語を伴う芸術作品が名作に至る要素のひとつである。

尚、このような暴走展開でありがちな大失敗の王道プロットに反して、"孫長老"は本当に国王の精神病を治療する。しかも、"孫長老"の段階的な治療ぶりは実に合理的で、現代医学の本質も突いた方法となっている。まず、長老が猪八戒沙悟浄に協力してもらいながら、必要以上の物資と時間を投じ、大黄や巴豆、鍋の底の灰、そして龍馬の尿で霊薬を作った。この霊薬にはもちろん効能があるが、これを簡単に作ってしまえばその効能が薄まってしまう。というのは、結局のところ、病というのは「薬が治すもの」ではなく、「薬を飲んだ本人の力が治すもの」だからである。この仰々しい長老の薬の調合は国の太医たちや国王を信じ込ませるのに十分なピグマリオン効果を発揮し、薬の効能を高めることに成功した。

「病は気から」という言葉は冗談ではない。精神と身体の健康は相互作用があり、自我の苦痛や不安は身体的な健康を阻害し、不具合を停滞させることに間接的に影響を与えている。どのような効き目のある漢方や化学薬剤でも、当人が「治したい」「信じよう」という気持ちがなければ、十分な自己治癒力が得られず、病気を退治することが出来ないのだ。孫長老はこの人体のメカニズムを極めてよく理解しているのである。

この霊薬によって国王の表面的な苦痛は見事に取り除かれたのだが、孫長老はここで治療を止めなかった。身体の表面上の苦痛、倦怠感や頭痛といった症状は「危険信号(シグナル)」であり、その警報装置を止めたからと言って完全な健康を取り戻したという訳ではない。警報装置が鳴るには、根本的な何らかの理由があるのだ。ここで孫長老は国王の警報装置を一時的に止めただけという「半治療」の状態であることを十分に理解しているので、これに続いて「本当は何を悩んでいんだい?」という根治に向けた診察を続けた。しかも、それを宴会の席でとても自然に行ったものだから、国王も何のわだかまりもなく素直に事情を吐露することができた。

結果、孫長老はこの診察を経て、国王が「双鳥失群症」を患っていることを明らかにする。これは雌雄の二羽の鳥が何らかの理由によって離れ離れになり、お互いを強く思い合うことで起きる精神病であり、根治のためには連れ去られた皇后を奪還することが必要だ。こうして孫悟空たちは、妖魔の賽太歳の成敗と金聖宮娘娘の奪還作戦に挑むことになった。

現代の西洋医学は「警報装置」を止めるだけのものが多い。本来、人体の病魔の根治に至るには警報だけではなく、人体全体の装置(身体・精神・社会的環境)を包括的に診なければならない。現代の西洋医学の体系はこうした包括的な視点を持つことが困難であり、そこに問題と限界がある。急性的な症状については確かに西洋医学のような局所的な人体の捉え方でも有用な時が多いが、慢性的な症状については包括的な視点を持つ東洋医学が有用であると私は考える。特に現代病である精神疾患は、孫長老のような広い目と広い技が必要だ。

玄奘の心配をよそに、「神医上殿啦(シェンイシャンディエンラ/shén yī shàng diàn la)~」という大声の通知と共に彼に登場する孫悟空猪八戒。どこから引っ張って来たのか、医者の衣装を着こなしてそれっぽい雰囲気を醸し出し楽しんでいる。当人が意図したものではないかもしれないが、後ろにいる宮廷の従僕の「胡散臭い奴らだな…(这些人真可疑啊…)」といった感の怪訝な表情がとても良い。ちなみに、『水滸伝』ではこの"神医"というあだ名を持つ英傑、安道全(あんどうぜん/ān dào quán)が登場する。私の『水滸伝』再執筆の構想では、この安道全(あんどうぜん/ān dào quán)が"孫長老"のような広い東洋的な医学の目と技を、その弟子の王定六(おうていろく/wáng dìng liù)が現代的な狭い西洋的な医学の目と技を、それぞれ持っているものと捉えている。

⑥有来有去(ヨウライヨウチュー/yǒu lái yǒu qù)

人間に変装した孫悟空が、賽太歳の部下である小妖魔に接触孫悟空は小妖魔から情報を引き出した後、彼の動きを定字法で止めて、彼が腰に掲げていた「榜子」を読んだ。ちょうど折よくここに「名刺としての榜子」が出て来たので、榜子のイメージを理解をする上でありがたい描写だ。

きの榜子の表面に書かれているのは小妖魔の名前である「有来有去(ヨウライヨウチュー/yǒu lái yǒu qù)」。意味としては「来るときもあり、去るときもある」となり、日本語としては「神出鬼没」が近いだろう。

裏面には、彼の肩書や特徴が記されている。「心腹小校一名互短身材扢挞臉無须長川悬掛無牌即假」。この意味は「(賽太歳の)腹心である小官一名、背が低く、顔が曲がっていて、髭がなく、長く川のような胴体であり、牌(榜子)を掲げていなければ偽物である」となる。孫悟空はこの榜子を盗んで、小妖魔の有来有去に変身して賽太歳の拠点に潜入。その後、孫悟空は金聖宮娘娘の侍女である春嬌に変身し、賽太歳の宝貝である紫金鈴(鈴の形をした大砲)を盗み、賽太歳を徹底的に懲らしめることに成功。こうして金聖宮娘娘も無事に国王のもとへ生還することができた。

蓋を開けてみれば、実は悪さをしていた賽太歳は観音菩薩の乗り物(坐骑)である獅子(金毛吼)であったことが判明。金毛吼は童子が寝ている間に鎖を噛み切って下界に降りてしまったという。真是夠了…(やれやれだぜ…)

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第二十集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

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※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

①酒极则乱,乐极则悲,万事尽然(酒極まれば乱れ、楽極まれば悲しく、このように万事極まれば必然的に破滅的な結果となる)

就寝前、仁宗と宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が短い談話に興じた。話題は政治から昔話へ。太后の劉娥(りゅうが/liú é)が生きていた頃、仁宗は用事で彼女が宮中から出ることを内心で喜び、同年代の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)と鬼の居ぬ間に何をして遊ぼうかと夢中で話し合っていた。しかし、仁宗はその興奮のあまり体調を崩してしまい、当日の遊びは断念。劉娥(りゅうが/liú é)も予定を取りやめることになり、いつも通りの晏殊(あんしゅ/yàn shū)による講義が開かれた。

ここで晏殊(あんしゅ/yàn shū)は仁宗の体調が悪いので、勉学ではなく小話をしますと提案。晏殊(あんしゅ/yàn shū)はこの物語ではすっかりお馴染み、回りくどく仁宗に諌言や教育を施す人。彼が仁宗に語ったのは、春秋戦国時代の斉国の功臣、淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)に関する「酒极则乱,乐极则悲,万事尽然(酒極まれば乱れ、楽極まれば悲しく、このように万事極まれば必然的に破滅的な結果となる)」の逸話であった。楽しみ

この逸話は西漢時代に司馬遷が著した《史記》の巻百二十六に掲載されている《滑稽列伝》の第六十六に収録されている文章である。原文全体と日本語の意訳をメモしておく。

前文(エピグラフ):

孔子曰:“六艺于治一也。《礼》以节人,《乐》以发和,《书》以道事,《诗》以达意,《易》以神化,《春秋》以义。”太史公曰:“天道恢恢,岂不大哉!谈言微中,亦可以解纷。

本文:

淳于髡者,齐之赘婿也。长不满七尺,滑稽多辩,数使诸侯,未尝屈辱。齐威王之时喜隐,好为淫乐长夜之饮,沉湎不治,委政卿大夫。百官荒乱,诸侯并侵,国且危亡,在于旦暮,左右莫敢谏。淳于髡说之以隐曰:“国中有大鸟,止王之庭,三年不蜚又不呜,王知此鸟何也?”王曰:“此鸟不飞则已,一飞冲天;不鸣则已,一鸣惊人。”于是乃朝诸县令长七十二人,赏一人,诛一人,奋兵而出。诸侯振惊,皆还齐侵地。威行三十六年。语在《田完世家》中。

威王八年,楚大发兵加齐。齐王使淳于髡之赵请救兵,赍金百斤,车马十驷。淳于髡仰天大笑,冠缨索绝。王曰:“先生少之乎?”髡曰:“何敢!”王曰:“笑岂有说乎?”髡曰:“今者臣从东方来,见道旁有禳田者,操一豚蹄,酒一盂,祝曰:‘瓯窭满篝,污邪满车,五谷蕃熟,穰穰满家。’臣见其所持者狭而所欲者奢,故笑之。”于是齐威王乃益赍黄金千溢,白璧十双,车马百驷。髡辞而行,至赵。赵王与之精兵十万,革车千乘。楚闻之,夜引兵而去。

威王大悦,置酒后宫,召髡赐之酒。问曰:“先生能饮几何而醉?”对曰:“臣饮一斗亦醉,一石亦醉。”威王曰:“先生饮一斗而醉,恶能饮一石哉!其说可得闻乎?”髡曰:“赐酒大王之前,执法在傍,御史在后,髡恐惧俯伏而饮,不过一斗径醉矣。若亲有严客,髡帣韝鞠,侍酒于前,时赐馀沥,奉觞上寿,数起,饮不过二斗径醉矣。若朋友交游,久不相见,卒然相覩,欢然道故,私情相语,饮可五六斗径醉矣。若乃州闾之会,男女杂坐,行酒稽留,六博投壶,相引为曹,握手无罚,目眙不禁,前有堕珥,后有遗簪,髡窃乐此,饮可八斗而醉二三。日暮酒阑,合尊促坐,男女同席,履舄交错,杯盘狼藉,堂上烛灭,主人留髡而送客。罗襦襟解,微闻芗泽,当此之时,髡心最欢,能饮一石。故曰酒极则乱,乐极则悲,万事尽然。”言不可极,极之而衰,以讽谏焉。齐王曰:“善。”乃罢长夜之饮,为髡为诸侯主客。宗室置酒,髡尝在侧。

前文(エピグラフ):

孔子は言った。「六芸(りくげい)は治国において同様に重要な役割を果たします。《礼》は人々の行動を制御し、《楽》は和やかな感情を喚起し、《書》は歴史的事実を記し、《詩》は感情を表現し、《易》は神妙な変化を演繹し、《春秋》は深遠な意義を解き明かすものです。」

太史公は言った。「天の道は非常に広大で、これほどまでに大きくないはずがあろうか。言葉は遠回しで控えめであっても、事の理を突けば、争いを解決することができる。」

本文:

淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は斉国の「招婿」(婿入りした者)であった。身長は七尺に満たないが、弁舌が巧みで何度も諸侯国へ使者として赴き、一度も屈辱を受けたことがなかった。斉の威王が治めていた時代、彼は謎かけを好み、酒を楽しみ、夜通し歌い飲み明かして国事を顧みず、国政を大夫たちに任せていた。官吏たちは怠け、腐敗し、諸侯国が次々と侵攻してきて、斉国は今にも滅亡の危機に瀕していました。宮廷には諫言する者が一人もいなかった。

そこで淳于髡は謎かけを使って王を諫めることにした。「国内に一羽の大きな鳥がいます。大王の庭に住み着いて、三年間飛びも鳴きもしません。大王、この鳥がどうして飛ばず、鳴かないのかご存知でしょうか?」威王は答えた。「この鳥は飛ばないときは飛ばないが、一度飛べば雲を突き抜ける高さまで飛び、一度鳴けば世間を震撼させるだろう。」

これを受けて、威王は朝廷に出向き、72名の県令と県長を召集し、一人を褒賞し、一人を処刑し、軍事力を再整備して出撃しました。諸侯国はこのことに驚き、一斉に斉国に侵略していた領土を返還しました。それ以降、斉国は36年間その威勢を保ちました。この出来事は『田敬仲完世家』に記録されている。

威王の在位8年目、楚国が斉国に大規模な攻撃を仕掛けた。斉王は淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)を趙国に派遣し、援軍を求めるための贈り物として黄金100斤、車馬10組を用意した。これを見て、淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は天を仰いで大笑いし、そのせいで冠の紐が切れてしまったほどだった。斉王は「先生、この贈り物は少ないとお考えか」と尋ねた。淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は「どうしてそのようなことを考えましょうか」と答えた。斉王は「では、何か笑う理由があるのか?」と問うた。淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は「先ほど私は東から来る途中、道端で農作物の豊作を祈っている人々を見ました。彼らは豚の足と一杯の酒を供えて、祈願していました。『乾燥しやすい高地には穀物が満載され、湿地帯には車がいっぱいになるほどの収穫を得られますように。』私は、供え物が少ないのに、求めているものがあまりに多いのを見て笑ったのです。」

これを聞いた斉威王は贈り物を増やし、黄金1000鎰、白璧10対、車馬100組を用意した。淳于髡はこれを携え趙国へ向かい、趙王は精鋭兵10万と戦車1000両を彼に与えた。楚国はこれを聞き、夜のうちに撤退した。

威王はこの功績に大いに喜び、後宮で酒宴を開き、淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)を招いて酒を飲ませた。王は彼に「先生はどれくらい飲めば酔いますか?」と尋ねました。淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は「一斗飲めば酔い、一石飲んでも酔います」と答えた。威王は「先生は一斗で酔うのに、どうして一石も飲めるのか。その理由を聞かせて欲しい」と尋ねた。淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)はこう答えた。

「大王の前での酒宴では、執法官が隣にいて、御史が後ろに控えているため、私は恐れおののいており、一斗飲んだだけで酔ってしまいます。家父の前では、厳しい客人が来た場合、私は長い袖を束ねて跪き、彼らの酒の世話をし、たまに余った酒をいただいて飲みますが、二斗も飲めば酔ってしまいます。 また友人や昔の知り合いに久しぶりに再会し、喜んで思い出話を語り合うときは、五、六斗飲んでも酔ってしまいます。村の祭りや盛会で男女が一緒に座り、酒が進む中で博打や投壷を楽しむ場面では、男女が手を握り合い、気にすることなく自由に振る舞い、私もこのような場面が大好きで、八斗くらい飲んでようやく少し酔いが回ります。夜が更け、酒宴が終わる頃、杯が重なり、人々が寄り添い、男女が同席して靴が交じり合い、杯や皿が散乱し、灯りが消えかかる中、主人が他の客を見送り、私だけを留める場面では、女性の薄い衣が解け、微かに香りが漂ってくるとき、私の心は最も幸せであり、一石飲んでも平気です。ですから、酒を極めれば乱れ、楽しみを極めれば悲しみがやってくるという理屈なのです。世の中のすべての事柄も同じです。」

威王はこの話を聞いて、「よく言った」と感心し、夜通し飲むのをやめ、淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)に諸侯主客の役職を与えました。王族が酒宴を開く際には、彼がいつも酒席に同席するようになりました。

②補足:漁夫の利の逸話

※画像:百度百科「淳于髡(战国时期齐国政治家、思想家)」より引用。淳于髡の想像の姿絵。

淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)は様々な逸話を持つ人物だ。有名なものとして、「犬と兎の追いかけっこ」に関する話がある。こちらも《史記》の《滑稽列伝》に収録されている。

齐欲伐魏,淳于髡谓齐王曰:“韩子卢者,天下之疾犬也;东郭逡者,海内之狡兔也。韩子卢逐东郭逡,环山者三,腾山者五,兔极于前,犬废于后,犬兔俱罢各死其处。田父见之,无劳倦之苦,而擅其功。今齐魏久相持,以顿其兵,敝其臣,臣恐强秦大楚承其后,有田父之功。”齐王俱,谢将休士。

斉国が魏国を攻撃しようとしたとき、斉国の淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)が斉王にこう言いました。「伝説の韓子盧(かんしろ/hán zǐ lú)は天下で最も速く走る犬であり、東郭逡(とうかくしゅん/dōng guō qūn)は誰もが知る最も狡猾な兎です。韓子盧が東郭逡を追いかけ、山を三周し、さらに五周も走り回った結果、兎は先に走り疲れ果て、犬もまた後を追いながら力尽きました。結局、二匹とも自分の走った場所で死んでしまったのです。そこに農夫がやってきて、何の苦労もなく、彼らを簡単に捕まえたそうです。今、斉国と魏国は互いに譲り合わず、兵士たちは疲れきっており、朝廷の臣たちも疲労困憊しています。私は、この状況を見ている強大な秦国や楚国が、農夫のように楽に利益を得るのではないかと恐れています。」この言葉を聞いて斉王は恐れ、将軍たちを解散させ、兵士たちを家に帰らせて休ませました。

※画像:百度百科「淳于髡说齐王(中国典故)」より引用

という訳で、これはいわゆる「漁夫の利」の原理を淳于髡(じゅんうこん/chún yú kūn)が説き、王を諫めたという話になる。言葉同士の因果関係は定かではないが、その「漁夫の利(渔翁之利)」が初めて収録されている文献は漢王朝時代の《战国策·燕策二》である。これは先ほどの《史記・滑稽列伝》の百~三百年ほど前、紀元前4~2世紀頃に編纂された書である。

原文は次の通りだ。

苏代为燕谓惠王曰:‘今者臣来,过易水,蚌方出曝,而鹬啄其肉,蚌合而拊其喙。’鹬曰:‘今日不雨,明日不雨,即有死蚌。’蚌亦曰:‘今日不出,明日不出,即有死鹬。’两者不肯相舍,渔者得而并禽之。今赵且伐燕,燕赵久相支,以弊大众,臣恐强秦之为渔父也。故愿王熟记之也。

燕国の政治家である蘇代は自国のために魏国の恵王にこう述べました。「今回、私は来る途中に易水を渡り、貝が日向ぼっこをしているところを見かけました。そこへシギが飛んできて貝の肉を啄もうとしたところ、貝は口を閉じてシギのくちばしを挟んでしまいました。シギは言いました。『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、死ぬのは貝だ。』貝もまた言いました。『今日出てこなければ、明日も出てこなければ、死ぬのはシギだ。』こうして両者とも相手を放そうとしなかったのですが、そこへ漁師がやってきて、二匹とも捕まえてしまいました。今、趙が燕を攻めようとしていますが、燕と趙が長く争い続けることで、双方の軍が疲弊してしまいます。私は、この状況を強国である秦が漁夫の利を得るような形で利用するのではないかと心配しています。ですから、恵国には慎重にこのことをお考えいただきたいのです。』

だいたい同じ話の流れ。

「あの頃は太后がいなければ自由になると思っていたが、太后がいなくなった後、私は十倍、百倍、千倍も不自由になった…」と言いながら、疲れた顔で寝入った仁宗であった。

③宋代の枕頭(枕)

この場面で注目したいのは枕だ。本ドラマは宋王朝時代の生活用品の作り込みも半端なものではないので、寝具についても非常に丁寧に造形されているように見える。ここでは方形の布製の比較的簡素な枕が描かれている。仁宗は倹約家であり、『水滸伝』の徽宗(きそう/huī zōng)とは異なって自身の生活用品は極めて質素な物を用いていた。その経緯を考えれば、この簡素な枕は彼にぴったり合う。

枕に関して言えば、宋王朝時代の枕は現代以上に多様な素材が用いられていた。特に現代人からすると「それって寝られるのか?」と疑問に思うのが、「瓷枕(ししん/cí zhěn:焼き物の枕)」。焼き物で作られた枕は宋時代の人々にとってかなりの"特別感"があり、芸術的完成を満たすことができた。また、実用面でも、焼き物の硬い枕は夏でも涼しくして寝ることのできるので、こちらも夏対策としての有効性があった。また硬いとは言え、今風に言えば「人間工学」に基づく形状をなしており、頭を巧みに包み込む機能性を有していたようだ。瓷枕の値段はピンキリではあるが、十分に市民が手を出せる範囲であったそうだ。

また意匠面では、宋代の瓷枕は「鹿紋」が人気であった。鹿は古代中国で神秘的な動物とされ、美しい前途を象徴する意味があると共に、官禄(役人の報酬)のニュアンスもあった。つまり、鹿紋は役人としての出世を望む縁起担ぎの意味で用いられたようだ。宋王朝時代は「重文軽武(文官である官僚を尊び、武官である軍人を軽視する)」の気風が極度に高まった社会であった為、出世を望む誰もが官僚への道を目指した。その他、やはり人気のあった「獅紋(しもん/shī wén:獅子の柄)」は、「獅(shī)」が「太師(たいし/tài shī:役人の名誉職)」の「師(shī)」と同じ発音であることから、同じように官運亨通(官職の運が円滑に進む)を祈る意味が込められていた。

その他、瓦、竹、医師、木、水晶などの素材を用いて作られた枕も非常によく使われていた。形状としては円枕、方枕、扁枕、長枕、短枕などがあった。また創意のあるものだと、寝そべる赤ん坊の形をした「孩児枕」や、寝そべる獣の形をした「獅子枕」「卧虎枕」など、抱き枕風のものも存在した。

④融和か、抗戦か

仁宗は悩んだ末に、呂夷簡(りょいかん/lǚ yí jiǎn)と范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)という有力者を左遷先から中央へ戻す時機を後回しにし、別の者で何とか朝堂の新体制を運営することに決めた。この新体制で早速難儀な議題となったのが異民族の西夏国との情勢。西夏では宋王朝に敵対的な姿勢を貫く李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が指導者となり、今にも軍事行動を起こしそうな様子だ。

この件を巡り、垂拱殿(すいこうでん/chuí gǒng diàn)に重臣たちが集まって、仁宗と協議を行った。新たな宰相の張士遜(ちょうしそん/zhāng shì xùn)は、従来通りに宋王朝儀礼や法律を輸出し、相手を教化することによって融和するべきであると主張した。一方、韓琦(かんき/hán qí)はこれに断固として反対した。

韓琦(かんき/hán qí):狠霸彪悍 奸诈狡猾 反复无常 非用诗文礼仪所能感化 如今 他荡平吐蕃 回鹘外患 扫清内部争权之亲 必然蠢蠢欲动 不乏主动举兵 侵我边境可能 (あの李元昊は冷酷で暴力的、狡猾で奸詐[かんさ:嘘や計略で人を貶めようとする様子]な性格を持ち、気まぐれで信頼できません。詩文や礼儀では彼を感化することは不可能でしょう。現在、彼は吐蕃[とばん]や回鶻[かいこつ]などの外敵を平定し、国内で権力争いをしていた親族も一掃しました。必然的に、彼は再び勢力を強め、侵略の野心を抱き始めるはずです。自ら兵を起こし、我々の国境を侵す可能性は十分にあると思われます。)

「狠霸彪悍 奸诈狡猾 反复无常(冷酷で暴力的、嘘つきで狡猾、気まぐれで信用できない)」という表現が、対象者の悪性をとてもよく端的に描写している。「狠霸彪悍 奸诈狡猾 反复无常」、現代でも色々な人に使える。

⑤狄青(てきせい/dí qīng)

※以前の『水滸伝』の関連記事のどこかで書いたかと思うが(史進の記事だろうか)、宋王朝時代は刺青文化が普及した、中華世界ではとても珍しい状況があった。軍人も顔などに刺青を彫る習慣があり、この狄青(てきせい/dí qīng)も画像の通り、顔の左側に文字を彫り込んでいた。本ドラマでは描かれなかったが、この顔の刺青は後の彼の運命にも深く関わる要素となる。

西夏の境界線、延州で将軍として軍を統率している狄青(てきせい/dí qīng)の登場。『水滸伝』では「文官として包拯(ほうじょう/bāo zhěng)、武官として狄青(てきせい/dí qīng)がいたことにより、仁宗の治世が最盛期を迎えた」といった文言が記されている。本ドラマではあまり目立つ存在ではないが、歴史同様に西夏戦争における重要な立ち回りを演じることになる。

狄青(1008年-1057年)、字は漢臣といい、汾州西河県の出身者。青年時代に軍隊に身を投じ、宮廷の禁軍の衛士に出世。仁宗の宝元年間(1038年-1040年)に、狄青は下級武官として西北の前線に赴き、戦場で勇敢に戦って、多くの戦功を立てた。泾原路副都部署、経略招討副使、捧日天武四廂都指揮使、惠州団練使などの官職を歴任し、李元昊(りげんこう/lǐ yuán hào)が宋王朝に臣従する結果に多大なる貢献を果たした。

その後も河北前線に転じて歩軍・馬軍の副都指揮使として活躍し、皇祐4年(1052年)には、その功績により彰化軍節度使および知延州に昇進。後の本ドラマの展開にも関わる所であるが、枢密副使(軍事指導者のNo.2:武官が文官の役職を得る事は北宋王朝時代では異例)に任じられ、政権中枢の一員となった。同年、宣徽南院使、荆湖北路宣撫使、広南東・西路経制賊盗事の担当者として、宋朝から全権を委任され、広源州での侬智高の反乱を平定することに成功している。

あとはいつも通りの流れ。『水滸伝』にもあるように、力を持った武官が文官の世界に仲間入りすると、多方面から権力排除の矢が放たれる。枢密使(軍事最高指導者)まで昇進した彼であったが、嘉祐年間に文官たちによって讒言(特定の人物を貶める報告)がなされて中書門下平章事に降格、陳州に左遷された。この讒言に大きく関わっていたのが、無名の文官の育成・登用に抜群の才覚を発揮していた欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)。欧陽修(おうようしゅう/ōu yáng xiū)は才能の発掘に余念がなく、紛れもなく仁宗の政治体制を盛り立てた功臣のひとりであるが、この狄青(てきせい/dí qīng)に対する最低のやり口には「奸诈狡猾(嘘つきで狡猾)」と感じざるを得ない。

そして嘉祐2年(1057年)、狄青(てきせい/dí qīng)は疽(皮膚の病気)を患って急死した。享年49歳。文官たちによる政治的ストレスが彼の命を短くしたのだと言われており、これは在る意味では狄青(てきせい/dí qīng)を積極的に重用した仁宗にも原因の一端がある。

狄青は生前、勇猛で兵をよく操り、軍の統率に厳格であった。彼の死後、宋神宗は狄青の功績を追悼し、彼の肖像を宮廷内に掲げ、自ら追悼の祭文を作ってその死を悼んだと言われている。元王朝の歴史家である脱脱は、狄青(てきせい/dí qīng)について「彼は慎み深く寡黙であり、計画を立てる際には必ず慎重に考え、決断が的確であった」と高い評価を行っている。

⑥補足:刺青に関する逸話

※画像:百度百科「狄青(北宋名将)」より引用

狄青(てきせい/dí qīng)、彼は「面涅将軍(顔に刺青のある将軍)」とも呼ばれた。刺青の文字は文献などに残されていないので不明。また、どうして彼が刺青を彫ることになったのかという経緯についても学説が分かれている。

- 学説①「職業軍人のしきたり」:宋王朝が兵を募る際、地域によって梁太祖の朱温の制度に倣っており、そのために狄青(てきせい/dí qīng)が刺青を彫らねばならなかったのではないかという説。徴兵の管理者は兵士を募集する際、まず容姿を見て、身体が機敏であるかを確認した後、最後に顔に刺青を施した。これは兵士の逃亡を防ぐこと、統率力を高めることなどの理由があった。実際、『宋史兵七』には、仁宗の時代に陝西、河北、河東などで徴兵した際、彼らの顔に「指揮」という文字が刺青されたと書かれている。これは「指揮に従うべき者」を象徴する刺青であった。

- 学説②「罪人の可能性」:宋王朝時代はファッションとしての刺青が大流行していたが、古来のように罪人を一目で見分けるための手段としても刺青が施されていた。宋王朝時代、「刺配(ちゅうばつ:刺青を施す刑罰)」は重罪人に適用されるものだった。『東都事略』によると、狄青が16歳の時、兄の狄素が「鉄羅漢」と呼ばれる人物と喧嘩をして、その結果、相手を溺死させてしまうという事件を起こしている。この事件を受けて、狄青は兄のために罪をかぶって自ら出頭。これによって刺青が顔に残ったという話である。

いずれにせよ、何らかの理由で狄青(てきせい/dí qīng)の顔には刺青という刻印が残された。それは彼の矜持であったかもしれないが、また同時に出世するごとに精神的な足かせにもなった。時に彼が朝堂の文官やその関係者から「斑儿(斑児:刺青のある奴)」と侮蔑的に呼ばれた時、彼ははらわたが煮えくり返るような屈辱を感じていたようだ。

この屈辱に関する逸話が残されている。本ドラマで強烈な存在感を放つ準主役級の政治家である韓琦(かんき/hán qí)、彼がある日、宴会を開催した。その宴会には有名な妓女である白牡丹もいた。彼女は酔っぱらった勢いで、狄青(てきせい/dí qīng)に「おい、斑儿、酒を飲んでくれ」と無礼な言葉を投げかけた。直後、狄青(てきせい/dí qīng)はあまりの屈辱に激昂して顔色を変えた。もし彼が文官であったのなら、韓琦(かんき/hán qí)を始めとして、周囲の人が「それは言い過ぎだ」と諫めたに違いない。だが、この宴会で狄青(てきせい/dí qīng)を擁護する者はなく、韓琦(かんき/hán qí)を含めて全員が笑っていた。狄青(てきせい/dí qīng)はその場では屈辱に耐えたが、翌日になっても怒りが収まらなかった。「斑儿」と呼ばれることだけでも屈辱であるのに、妓女ごときが公衆の面前でそれをやってのけ、しかもその周囲にいる人々が笑っていたのだ。彼は怒りのままに白牡丹のもとへ突き進み、その毒婦を激しく殴りつける騒動を起こした。

また、狄青(てきせい/dí qīng)には焦用(しょうよう/jiāo yòng)という旧将がいた。彼らは深い友情で結ばれる関係にあった。しかし、この焦用(しょうよう/jiāo yòng)の部下が軍資金を不正に使っているとして、韓琦(かんき/hán qí)に告発文が届けられた。これを受けた韓琦(かんき/hán qí)は狄狄青(てきせい/dí qīng)の目の前で焦用(しょうよう/jiāo yòng)を逮捕し、戦時条例を引用して即座に死刑を言い渡した。狄青(てきせい/dí qīng)は必死に焦用(しょうよう/jiāo yòng)を助けようとしたが、韓琦(かんき/hán qí)は「東華門の外で状元として名を呼ばれた者が本当の好男子だ。焦用(しょうよう/jiāo yòng)なんて助ける価値はない」と冷たく言い放った。そして、焦用(しょうよう/jiāo yòng)は公開処刑された。

本ドラマでは非常に謙虚で有能な若手政治家として描かれている韓琦(かんき/hán qí)だ。歴史的にも韓琦(かんき/hán qí)は狄青(てきせい/dí qīng)の第一の支援者となるのだが、それでさえ、彼は狄青(てきせい/dí qīng)が妓女に小ばかにされていても守らずに笑い転げ、狄青(てきせい/dí qīng)の朋友が無実を訴えていても「科挙に合格した文官でなければ生きるも死ぬも大きな違いなし」と嘲笑って処刑を断行した。

仁宗の指導手腕によって隆盛を極めていた宋王朝であったが、歴史を深堀りすると、この時点から既に官僚至上主義体制の闇の種が潜んでいたことがよく分かる。武官に対する軽視はこのまま時代を追うごとに加速。狄青(てきせい/dí qīng)と同じように、救国の英雄である名将の岳飛(がくひ/Yuè Fēi)も、秦檜(しんかい/qín guì)らにより処刑される騒動も起き、宋王朝はそのまま「史上最弱の国家」という烙印と共に破滅の一途を辿ることになる。

文を極めれば則ち腐り、武を極めれば則ち敗す、万事この通りなり(文极则腐,武极则敗,万事尽然。)。──ってことだ。

※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第十八集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

作品紹介

孤城閉~仁宗、その愛と大義~ DVD-BOX1

水滸伝 DVD-SET1 シンプル低価格バージョン(期間限定生産)

著作紹介("佑中字"名義作品)

意訳と案内で駆け抜ける 『罪と罰』ストーリーツアー

呑気好亭 華南夢録

※補足1:画像は動画共有プラットフォーム「BliBli」で公開されている中国ドラマ『西游记(1986年製作)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語の発音を再現できない為、あくまでイメージとしての記載に留まる。

今回の題材となる第十九集「误入小雷音(小雷音寺に騙され入る)」のエピソードは、日本DVD版で丸ごとカットされている。これもおそらくマーケティング(DVD1枚につき3話入り、8枚組、計24話収録のセット販売)の都合によるどぎつい節減。これまでもデータ容量の関係で名場面の数々がカットされている日本DVD版だが、丸ごと1話カットは酷すぎる。

①累坏了(レイファイラ/lèi huài le)

冒頭の植物の多い山道を突き進む場面。先頭で植物をかき分けながら進んでいた猪八戒は疲弊困憊。ここで口にしたのが、「累坏了 咱们在这儿歇会儿吧(すっげぇ疲れた!おれたちはここで少し休もうぜ)」だ。それぞれの詳しい意味は次のようなものとなる。

  1. **累坏了**(lèi huài le):

- 「累れる(疲れる)」ことを意味する「累」(lèi)に、「ひどく」「非常に」を意味する「坏了(壊れた)」(huài le)が付いている。これによって、「すんごく疲れた」「もうヘットヘトだ」という意味になる。「坏了(壊了)」は動詞や形容詞の後に付いて、程度が強いことを表す強調表現だ。

※大手SNSサービス『Wechat(微信)』のステッカー例。現代では「累死了(レイスラ/lèi sǐ le)~」という表現の方が良く聞く印象がある。文字通り、「死ぬほど疲れた~」の意味。「死」という字が入っているので字面からすると少しインパクトがあるが、特に深刻な表現ではない。文脈にもよるが、基本的には「マジで疲れた!」という程度の比較的軽度の嘆きが示される。

文語的な表現では「そんなことをしたら、兄貴に累が及ぶじゃねぇかよ!」といった具合に、「累(レイ/lèi)」を「災難」「苦労」といったニュアンスで用いることもある。

  1. **咱们**(ザンメン/zánmen):

- これは以前の記事でも取り上げた「私たち」を意味する、より親しい呼称。一般的な中国語は「私たち」を「我们(ウォーメン/wǒ men)と評する。中国語は日本語のように嵐のように人称が変わる訳ではないので、基本的には「我(私)」「我们(私たち)」が用いられるが、稀に(特に物語などでは)「咱」「咱们」が使われることもある。

  1. **在这儿**(ザイツェァー/zài zhèr)

- 「ここで」という意味です。「在」は「〜で」や「〜にいる」を意味し、「这儿」は「ここ」を示す。「这里」(ツァーリ/zhèlǐ)と同じ意味。

  1. **歇会儿**(シエフイァー/xiē huìr)

- 「休憩する」「少し休む」という意味。「歇」(xiē)は「休む」を意味し、「会儿」(huìr)は「少しの間」を示す。したがって、「歇会儿」は「ちょっと休憩する」という意味になる。

  1. **吧**(ba):

- これは提案や勧誘のニュアンスを添える助詞。「〜しましょう」「〜しませんか」という意味合いを持ち、日常的にあらゆる場面で適用できる。相手に対して提案や同意を促す役割を果たす。

※同じくSNSサービスのステッカー例。上の「好大儿(ハオダアー/hǎo dà ér)」は北京方言。「好漢(良い人)だ」といった意味がある。「ここでは柴犬のワンちゃんに「良い子だね~」と言っている。このステッカーを送られたら、相手から親しげに褒められているか、あるいはちょっとした皮肉を込めて(愉快な意図で)小ばかにされているかもしれない。

私と中国の接点は主に上海だが、上海拠点の外国人にとって3番、4番にある「儿(ァー/ér)」の発音はある種の"事件"だ。この発音は口の中で舌を巻いて行うもので、英語の「r」に近い。私のような華南と接点の多い外国人が北京など北方地域に行くと、周囲でァーァーがたくさん聞こえて来て非常に耳が困惑をしてしまう。南方ではこのァーはまったく用いられず、他の言葉に置き換えられているのだ。これは個人的にかなりの言語的ギャップであると感じる。

②謎めいた桃源郷:ここで一句

玄奘一行が少し休んでいると、土地神と名乗る男が姿を現して「特备山果一盘 奉上老师父(特に山の果物を一皿用意し、尊敬する師父にお捧げします)」と言いながら果物を持ってきた。猪八戒たちが喜んだが、孫悟空はすぐに男の正体が妖魔であると見破って攻撃。するとあたり一帯が煙に包まれ、玄奘の姿が消失。慌てて玄奘を探し始めた猪八戒沙悟浄は植物に囚われてしまい、一同は窮地に陥ってしまう。

孫悟空によるすったもんだの立ち回りによって、ようやく魔の植物たちから解放された沙悟浄猪八戒孫悟空から「大丈夫か」と言われて、猪八戒が「没事儿了(メイシーァーラ/méi shì ér le:大丈夫だよ)」と答えている。これも「儿(ァー)」の北方表現で、南方では一般的に「没事了」と言う。

一方、不可思議な場所に飛ばされた玄奘が目を覚ますと、そこは夢で見たような桃源郷。月の光に輝く美しい植物が静かに息吹く空間で、玄奘はまるで取経の旅のことを忘れてしまったかのようだ。そこにおもむろに登場したのが、松、柏(かしわ)、桧(ひのき)、竹の精妖である四名の道士。それぞれ名を十八公、孤直公、凌空子、拂雲叟と言った。

ここで各人が持ち回りで詩を詠もうではないかという雅な会が始まる。ここで一句、十八公、孤直公、凌空子、拂雲叟がそれぞれの一行を詠み、最後に玄奘がこれを引き取って答えることとなった。

西游记:《五客诗咏》

禅心似月迥无尘,诗兴如天青更新

好句漫裁抟锦绣,佳文不点唾奇珍

六朝一洗繁华尽,四始重删雅颂分

半枕松风茶未熟,吟怀潇洒满腔春。

禅の心は月のように清らかで、塵ひとつない。詩の心は青空のように新しく広がる。

美しい句は自然に織り上げられ、素晴らしい文章は唾をつけずとも奇跡の宝となる。

六朝(古代の繁栄した時代)はすべて洗い流され、四始(古代の詩経の分類)は再び整理され、雅頌(優雅で荘重な詩)が見極められる。

松風に耳を傾けながら半分横になり、お茶がまだ出来上がらぬうちに、詩を吟じる心はさっぱりとして、胸いっぱいに春が満ちている。

③補足:四始

※画像:中国大河ドラマ『恕の人 孔子伝』の一場面。晩年の孔丘先生(孔子)が詩経などを編纂している場面。手前にいるのは、清廉潔白で一途に孔子の思想を探求し続けた弟子の顔回。演じているのは日本人俳優のいしだ壱成。(中国語は吹き替え対応)

先ほどの詩に登場した「四始」というのは、古代の春秋戦国時代孔子が主体となって編纂が行われた『詩経』における四つの篇を意図している。孔子は中国文学史上最初の詩歌総集としてこの編纂作業を行って、『国風』『大雅』『小雅』『頌』という四つのカテゴリーに三百五の詩を分類した。

- 国風篇:周王朝時代の各地における歌謡が収録されているカテゴリー。周代社会の風俗、生活、そして人々の思想や感情を反映している。最初に登場する詩は『関雎』。

- 小雅篇:小規模な風雅。周王朝時代の人々が用いた正式な楽歌が収録されているカテゴリーで、内容は主に賛美や称賛が多い。その一部には社会的な矛盾や人々の苦しみを反映したものもある。作品最初に登場する詩は『鹿鳴』。

- 大雅篇:大規模な風雅。カテゴリーの意味自体は小雅篇と同じ。最初に登場する詩は『文王』。

- 頌篇:周王室や貴族の宗廟での祭祀に用いられた楽歌が収録されているカテゴリー。このカテゴリーはさらに『周頌』『魯頌』『商頌』という国別の区分がなされている。最初に登場する詩は『清廟』。

④休要魯莽(シウヤオルーマン/xiū yào lǔ mǎng)

「妙 妙(素晴らしい、素晴らしい)」という声が鳴り響く中、さらに楓の「赤身鬼」、杏の「杏仙」、丹桂や臘梅の木の「女童」なども登場。霊茶が振舞われる中で、杏の「杏仙」の見事な楽歌が披露された。この歌が終わると凌空子たちが「杏仙は玄奘師父に気があるぞ!」「結婚をするべきだ!」「俺たちが保証人になる」などとまくしたてて、玄奘はこれにすっかり困惑。杏仙はこれを受けて「休要鲁莽(シウヤオルーマン/xiū yào lǔ mǎng)」と言って玄奘をかばった。意味は「軽率なことをしてはいけません」「無謀な行動を控えなさい」といった具合だ。

「休要**(シウヤオ/xiū yào)」というのは「〜してはいけない」という禁止や制止の表現。「やめなさい」や「控えなさい」といったニュアンスで、猪八戒がふざけて冗談を言った時などにもよく使われている。そして、「魯莽(ルーマン/lǔ mǎng」は「無謀」「思慮が浅い行動」などの意味。「魯(ルー/lǔ)」は孔子の出身国であるが、それとはまったく無関係に「にぶい」「愚かな」といった意味を持つ漢字。莽(マン/mǎng)は「草むら」、そして「粗い」といった意味を漢字。この意味を合わせて「魯莽(ルーマン/lǔ mǎng)」という造語が生まれた。

「魯莽(ルーマン/lǔ mǎng)」は比較的新しい造語のようで、たとえば18世紀の清王朝に制作された短編小説集《夜谭随录》などに見受けられる。厳密に言えば、『西遊記』の唐王朝時代の人々が用いる言葉としては時系列が合わないかもしれない。

⑤二十八星宿の神兵たち参戦、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の登場

植物の精妖たちが玄奘に飲ませた霊茶「迷魂湯」で判断力が完璧に鈍ってしまった玄奘。彼は孫悟空たちによって救い出されたは良いものの、その後に突如として現れた「小雷音寺」にすっかり夢中。孫悟空が「この寺は殺気に満ちているから入られない方が良いぜ!」と何度も忠告したのだが、玄奘はどうしてもこの寺が素晴らしい場所であり、入らないと気が済まないと言って利かない。こうして、再び"クソ上司"と化してしまった玄奘が、有能な部下たちを誤った道に強引に誘ってしまった。

玄奘は寺に入り、そこにいる者たちが如来と高僧たちであるとすっかり信じ込んでしまうが、彼らは「玄奘の肉」を狙っていた小西天の黄眉老仏(黄眉大王)と部下の賊たちであった。黄眉老仏は強烈な神通力を持っており、すかさず孫悟空を金の鉢によって閉じ込めてしまう。玄奘猪八戒沙悟浄も全員あえなく捕まってしまった。

何とか猪八戒沙悟浄が逃れることができて、猿兄貴を封じ込めている金の鉢の場所を見つけ出す。しかし、猪八戒が必死に金の鉢を取り除こうとしても微動だにしない。孫悟空は外にいる彼らに「快去 多请些天兵天将 啊(今すぐ天界へ行って、たくさんの天兵天将[天宮の軍勢]を呼んできてくれよ!)」、天界の救援を求めるようお願いをした。

※亢金龍が角で鉢を貫こうとしている場面。「神仙、全員可愛いわ」「龍兄貴涙目やんハハハ」「神仙に幸あれ」など、ビリビリユーザーたちのコメントも盛り上がっている。

猪八戒が急いで連れ戻ったのが、二十八星宿(二十八の星)の神兵たち。この中には、東西南北の門を守護する神兵として日本人にも何かと文化的な馴染みがある青龍、朱雀、白虎、玄武などの実力派もいる。特にここで活躍したのは亢金龍。ぜいぜいと息を切らしながら一本角を使って鉢を突き、全員がこれに協力して小さな穴を開けることに成功。孫悟空はこれにより、遂に身を小さくして外に脱出することが出来た。

孫悟空たちと二十八星宿の神兵たちによる連合軍。これは勝負があったかのように思えたが、黄眉老仏が切り札の宝貝である「人種袋(後天袋子)」を発動。これは敵を全て包み込んでしまうという恐ろしい袋で、金角・銀角が持っていた名前を呼ぶとヒョウタンに吸い込まれる術の上位互換。孫悟空たちは成す術もなく、全員がこの袋に吸い込まれてしまった。

それでも孫悟空の活躍によって何とか全員が脱出。何とか孫悟空玄奘も助け出して全員を外に出す事に成功したが、追ってきた黄眉老仏に大苦戦。その過程で姿を現したのが、弥勒菩薩(みろくぼさつ/mí lēi pú sà)。弥勒菩薩は黄眉老仏がもともと如来の前に仕えていた童子であることを説明した上で、孫悟空に袋の効力を封じる禁字法と捕縛の作戦を伝授。最終的には黄眉老仏がスイカに変身した孫悟空を食べる展開となり、体内の孫悟空の大暴れによって黄眉老仏が降参と相成った。

のたうち回る黄眉老仏に対して、彼の捕縛作戦に協力した弥勒菩薩が「孽畜 还认得我吗(nièchù hái rènde wǒ ma)」と言う。意味としては「この悪い畜生め、まだ私のことを覚えているか?」となる。

「孽畜**(ニエチュー/nièchù)」は以前の記事でも取り上げた表現のような気がする。これは「悪い畜生」という意味で、特に道徳的に悪い行いをしたり、反逆的な行動を取る者に対して使われる呼称。畜生(動物や獣)に例えて侮蔑的に相手を呼んでいる。

⑥考察:独自解釈を交えた中国神話の世界観

百度百科「中国神話(中国的神话传说)」より引用。

神仙がぞろぞろと登場した今回の逸話。そもそも『西遊記』の世界観、天宮や地獄などの組織図はどのようになっているのだろうか。たとえば玄奘たちがこの旅の最終地点と定めている天竺とはどこを意味するのか。そこにいる如来は天宮にいる玉帝とどのような関係性なのか。なぜ人間界と天界、冥界(地獄)が交わり合っているのか。このあたりの疑問を解決するために、独自解釈を加えた中国神話の整理と考察をここに書き添えておく。

<神話世界の分類>

「中国神話」とは言っても、そこには多種多様な考え方や物語が存在し、確たるひとつの体系化された世界が構築されている訳ではない。上の画像の通り、主には四つの神話世界の分類があり、世界の創世に関わっている上古神話、仏教・道教儒教などが入り乱れて構築された宗教神話、民間で生まれた信仰が積み重なって誕生した民間神話、詩や文学を通じて再構築された文学神話がある。孫悟空のイラストが描かれている文学神話が「西遊記」の世界観であり、これは上古神話、宗教神話、民間神話を融合させたものとなる。

<天界と人界>

こちらが私の独自解釈であるが、三十三層に分かれている天界という世界は、人界から放たれる精気(善良な気)によって支えられている。この精気が長年に渡って自然物に当たると、そこから稀に生命が生まれることがあり、それを精妖と呼ぶ。孫悟空はこの精妖の一種だ。

精気が満ちている状態では天界は安定してその存在を保っていられるが、悪気がそれを上回り始めると天界は下層から順番に崩壊し始める。悪気は戦争や自然災害によって生まれるものなので、天界にいる天人(神仙)たちはこれを起こさないように努めなければならない。その為に天人(神仙)たちにはそれぞれ人界に対する担当があり、人界の人間たちが争い合ったり、自然災害が人間たちのもとに向かわないように予防的な業務を取り行っている。ただ知っての通り、この天人の取り組みは完璧ではなく、時には戦争や災害などの有事が立て続けに起こってしまうことがある。

天界を取り仕切っている最高権力者である玉帝だ。玉帝になった者は(ちなみに玉帝とは唯一の存在ではなく、天人たちの中から選ばれた首相、大統領のようなものであると私は考える)、人界の悪気を回避するために彼らに深く関わるか、逆に自由にさせるかの政策方針を決定する主たる役目を担う。要するには、これは現代でいう「大きな政府」と「小さな政府」の違いだ。天界が人界に大きく関わり、統制的・計画的に人界の社会や経済を運営しようとする「大きな政府」を目指す玉帝もいれば、逆に人界に自由と裁量を与えて自然状態の競争や協力を促そうとする「小さな政府」を目指す玉帝もいる。『西遊記』の世界にいる第?代の玉帝は「大きな政府」を目指し、それぞれの神仙や精妖(彼らも基本的には天界に属する存在)が人界に関わるような体制とした。これによって、『西遊記』の世界では天人と人間が入り乱れているのである。

大きな政府」の体制になると、人界は時によって天界の天人たちの特殊能力を借りることもできる。この特殊能力を借りられる人間は限られており、多くの時間を掛けて良識・美徳・規範を醸成する努力を積み重ねなければならない。これらの努力が認められると天人はその人物の要請に応じて力を貸すことがある。この天人助力の術は「五雷天心正法(ごらいてんしんせいほう/wǔ léi tiān xīn zhèng fǎ)」と言い、主に道士(道教の修行者)がこれを行うことが出来る。『西遊記』では、たとえば天人の力を借りて雨風を起こした三大仙(虎力大仙、鹿力大仙、羊力大仙)の術がこれに当たる。『水滸伝』では公孫勝(こうそんしょう/gōng sūn shèng)や樊瑞(はんずい/fán ruì)がこの術を用いて、天人の力を借りていた。

なお、より厳密に言えば五雷天心正法(ごらいてんしんせいほう/wǔ léi tiān xīn zhèng fǎ)は幻術や法術といった魔法的なものというよりも、天人との連絡を行うホットラインを開通する手段である。このホットラインの連絡を受けた交換手担当の天人は、その人間の要請に応じて別の担当者へ連絡をつなげる。その担当の天人がこれを受けると、自分の権限の範囲内であればすぐに力を貸すし、範囲外である場合は凌霄宝殿(中央政府)にお伺いを立てる。凌霄宝殿の朝堂にいる中心メンバー(内閣)は玉帝を筆頭に、太上老君観音菩薩といった名だたる神仙がいる。この朝堂の中心メンバー構成も玉帝によって組変えることが可能だ。

<知府>

大きな政府」の体制においては、人界に天人の知府(知事)のような監督官が派遣される。『西遊記』の世界には四つの海(東海、西海、南海、北海)と四つの大陸(東勝神州、西牛賀洲、南贍部洲、北倶盧洲)があり、例えば孫悟空がいた花果山は東勝神州玄奘が育った大唐は南贍部洲、天竺があるのは西牛賀洲となる。この四つの大陸の主要地域に天人の監督官がいる。灌江口には二郎神、普陀山には観音菩薩、天竺には如来といった具合である。(※ちなみに、普陀山は上海にも程近い仏教の聖地かつ観光地として現代人にも親しまれている実在の場所だ。)

<冥界>

冥界(地獄)は組織的には天界に属する「霊魂の司法機関」であるが、その権限は現代の裁判所のように完全に独立したものとして機能をしている。冥界は天界とは逆で悪気を熱に転換することによって運営されているのだが、運営に必要な悪気は人界の動植物たちだけでまかなえるので、戦争や紛争を敢えて誘発させるような意味はない。

冥界(地獄)には動植物、とりわけ人界の霊魂を適切に裁くという職務を担っており、この職務を通じて間接的に天界の安定化と人界の平和に大きな影響を与えている。ある罪深い霊魂は判官によって裁かれ、十八層ある冥界の強制労働施設に送られる。そこで長期間に渡って霊魂が清められる。浄水場のように汚染された霊魂がここで清められれば、ようやくこれを転生の輪に戻すことができるようになる。

また、冥界の判官は生存中の人界の人物に対しても一定の影響力を持つことがある。これは天界からの要請に応じて行われる。たとえば、必要以上の悪気をもたらすような凶悪な犯罪者や政治家などが存在し、天界がこれを危険視した場合は冥界に適切に処理するよう依頼がなされる。冥界の判官は厳格な規範にのっとりその対象者の罪状や今後の罪の見通しを算出し、それに応じて寿命を縮めたり即座に誅する(突然死を操作する)ことが出来る。これを人界では「天罰」と呼ぶ。

この逆の現象もある。精気を活発化させることの出来る英雄や偉人が存在する場合、天界はこのような人の宝を大切に保護するために、特別な優遇政策を与えようとすることがある。ただし、人界における一定の運命の公平性を保つために(この「運命の公平性」が破綻すると人界が大きく乱れるので注意が必要である)、直接その者には関わらず、やはりこちらも冥界にその優遇の依頼を行う。冥界はこれを受けて、その対象者の功績や今後の成果の見通しを算出し、それに応じて寿命を延ばしたり、この先に起こり得る危機、または現在ある直面している危機を回避させたりすることが出来る。

以上、これが私なりに解釈した中国神話の世界である。日本の平安時代にも陰陽師や精妖が蠢いていたが、これも天界が「大きな政府」の時代であったことに関係をしている。その後、天界は「小さな政府」に移行し、冥界と共に人界にはほとんど接触しないようになった。結果、我々は時折しか天界、冥界の存在を感じなくなっている。

※今回の題材としたのは中国ドラマ『西游记(1986年製作)』の第十九集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

作品紹介

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著作紹介("佑中字"名義作品)

意訳と案内で駆け抜ける 『罪と罰』ストーリーツアー

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