城巡りマンの野望・出陣 (original) (raw)

滝の城

豊臣秀吉小田原征伐により落城した江戸・河越の2城を結ぶ「つなぎの城」

行田から荒川を渡り所沢へ

夜は寒いけど日中はまだまだ暖かいですね☀

途中、路肩で登録した拠点制圧【出陣】やりながら1時間半ほどで到着、バイパス突き進んだので行きより早かった

築城は関東管領山内上杉氏重臣であった大石氏が15世紀後半に築いたとする説が有力

川越城江戸城を築城した太田道灌の可能性もあるようです

その後、北条家の支配となり八王子にある滝山城北条氏照の居城)の支城となりました

北条氏照茶の湯を嗜んだ場所のようです

全体的に草木が生い茂り遺構もわかりにくかったかな

約25mの崖上にある城山神社の場所が本丸跡です

1590年、豊臣秀吉小田原征伐の際に、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城、徳川家康の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと推測されている

ふ〜む。平山城だし豊臣軍、凄まじい大軍でしたからね、この小田原征伐で北条軍はどこも根こそぎ虐殺されました

ここには樹齢数百年を数える黒松があり、肌を傷つけると血の色をした樹液が出ました。落城したときに討死した城兵の血が地に染み込んだためと言われている伝説がある

現在は枯れてしまっていますが、跡に石碑が残されていました。(ここ急坂道路に面していて左右から車の往来があり撮影するの大変でした)

1964年の東京オリンピックの射撃会場は所沢だったんすね〜

滝の城

・交通アクセス

所沢駅東口および東所沢駅よりバス

志木駅南口行「城」下車徒歩3分

2ヶ月半経過しましたがスマホアプリの【信長の野望・出陣】が8月末で1周年を迎えました

私は遅参したため4月末に開始しましたが【出陣】は大好評につきキャンペーンや様々な追加機能が増えて俄然やり込んでおります

このグレードアップにつき、私が城巡りしている名城のうち日本100名城は最初から登録にあったものの、続日本100名城が1周年キャンペーンにより追加されました

そして城登録と同時に城訪問により得られる武将も追加されたのです!

ということで、遅ればせながら近隣から再訪問してきました、ついでに200名城入りしてない城趾も城巡り!

今まで移動手段が徒歩、公共交通機関、車だったけど今回から原付き(125cc)🛵が加わりました

4年ほど乗ってなくて置きっぱなしでしたがこの度、修理して7月頃からたまに足代わりに乗ってます

原付きで熊谷、行田へ

成田氏館

忍城に移る前の成田氏が400年、居城とした成田氏館

こちらは過去の城巡りの中でも遺構も何もない場所でした、石碑と標柱のみ。住宅地の中にポツンと立ってる感じ

藤原鎌足の子孫、道宗の子である助高(資隆)が天喜元年(1053)に成田の地に館を構え成田氏を名乗ったとありますね、1491年に忍城に移転と。

忍城は埼玉県行田市ですがここは熊谷市なんですよね

近くにある歴代の成田家之菩提寺がある龍淵寺にも寄りました

手入れが行き届いてました

天井が見応えあった、赤と青の龍が描かれている

奥原晴湖の墓

この方は存じ上げませんでした

幕末〜明治期に活躍した女性画家のようです

ちなみに【出陣】名城巡りですが

前日の夕方に寄ってゲットしました

久々の川越城

久々の忍城

再訪問ですがこれでよし、忍城は成田長親ではなくやっぱり成田甲斐なんだな〜、戦では弓をとり武将を討ち取ったという話もあり気の強そうな印象がある(映画『のぼうの城』では榮倉奈々が演じてましたが気の強いツンデレでした)

せっかく行田市まで来たので昼飯は

忍城から徒歩3分のかねつき堂で。

実際に忍城の鐘が吊るされていた鐘楼が目印(忍城改築の際、古い鐘楼はこちらに移築されたとのこと)

ゼリーフライとふらい焼きそば卵入り(大)を注文、前に忍城巡りの際にも食べましたが本当に大盛り!満たされました🤗

成田氏館

・交通アクセス

JR高崎線・熊谷駅から国際十王交通バスに乗り「宿裏」バス停下車、徒歩約4分 JR高崎線・熊谷駅からタクシーで14分

最近やっと涼しくなってきましたね、温暖化が進んでいて秋を実感する前に冬に突入しそうな予感

10月は忙しくバタバタしておりました💦

曜変天目(の実寸サイズのぬいぐるみ)

実物の曜変天目は撮影禁止でした

千代田区丸の内 静嘉堂文庫美術館

テレビのニュース番組で茶器特集されていたので気になり来訪。展示期間は11/4までだったのでギリギリでした、チケットは1,500円

二重橋前駅三番出口でて目の前です

静嘉堂は、約6,500件の東洋古美術品や約20万冊の古典籍を収蔵している。そのうち、茶道具は約1,400件にのぼり、私立の美術館として質・量ともに高い水準を誇るコレクションとなっている。とりわけよく知られるのが、中国陶磁・茶道具の至宝である国宝《曜変天目(稲葉天目)》だろう。

とのこと

特別展「眼福—大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋」で展示

正直、茶道具は全くわかりません

静嘉堂所蔵の茶道具は三菱第2代社長・岩崎彌之助(岩崎弥太郎の弟)とその嗣子で第4代社長の岩崎小彌太の父子二代によって、明治17年(1884)頃から昭和20年までに蒐集されたものです

戦国大名は戦に勝って相手の領地を攻め落とすと、配下の武将たちに恩賞としてその領地などを分け与えます、しかし合戦が激化してくると、分け与える領地や黄金のような実物資産が不足していきます

そこで信長は当時流行した「茶道」、「茶の湯」を政治的に活用し、家臣団掌握の手段とします。領地に代わる褒美として『茶器』を利用するのです

茶道の大家である千利休に鑑定させ、高貴な茶器は荒ぶる戦国大名たちに「権力の象徴」として世に流行らせました

大名同士で盛大な催しの茶会にて互いに名器を披露することで力を見せつけ、地位や威光を示す大名のステータスとなっていきます

信長が畿内を掌握した際には今井宗久が『紹鴎茄子』と『松嶋』を献上、本願寺顕如が和睦の印として『紹鴎白天目』を信長に贈ったり外交にも使用されるなどその価値は一国に相当するほど高騰したのでした

文化人で茶器の蒐集家でも知られる松永久秀は、信長が将軍足利義昭様を擁して上洛した際に、この『九十九髪茄子』を献上し恭順を示してます

(しかし久秀はその後2回信長を裏切りますw)

『利休時代から天下に知られた“大名物”の唐物茄子茶入、付藻(つくも)茄子(「九十九髪」「作物」)と、松本茄子(別称:紹鷗茄子)

この2つの茶入こそ、ともに信長‐秀吉‐家康と、戦国時代の三英傑が手にした伝来をもつ著名な茶入なのです』とのこと

三菱の前身の社名≪九十九(つくも)商会≫はこの「つくも」の名を冠したわけなのですね

全く関係なかったが恵比寿にある「九十九ラーメン」の由来も気になり調べたがこちらは九十九は「百」という漢字に一を引くと「白」となることから白髪になるまで長生きするという長寿の意味があり、縁起の良い数というのが九十九の由来でした🍜

あのチーズの白さはそういうことだったのかー。

ここから撮り溜めした写真を一挙

ゲーム信長の野望をプレイしてると出てくる茶器もありましたね

武将風雲録というシリーズでは「茶器回し」という裏技?で家臣たちの忠誠度を上げまくる禁断技がありましたが、小判より茶器のほうが一気に上がる意味がなんとなくわかりました

この現代だったら茶器に代わるものはなんだろうか。

お金や土地より高価な価値のあるもの

それは人それぞれ違うのでしょうね

そしてこれ(曜変天目)だけは撮影禁止でしたので、その目に焼き付けました!

そして、これはどうなの

いや、岩崎父子様

よく蒐集して保存してくださいました

450年も前に英傑たちが好み、所有した名器の数々が現代人の目に触れるのは幸甚の至りでした

最後に一言!ご老人でも集団になればマナーは傍若無人

だが館内のスタッフさんたちの接客、対応が素晴らしすぎた、これには驚きました

さすが丸の内!

・交通アクセス

地下鉄千代田線二重橋前〈丸の内〉駅 3番出口直結

JR東京駅 丸の内南口より 徒歩5分

JR有楽町駅 国際フォーラム口より 徒歩5分

母と叔母との草津旅行、10時チェックアウト後、帰京の前に叔母が「道の駅 川場田園プラザ」に行きたいとのことで私は別行動でこの近辺で城巡り出来ないか検索したらさすが上州、真田の街。いくつもありました

200名城リストから岩櫃、名胡桃、沼田

しかし岩櫃と名胡桃は山城、母と叔母が買い物&往復&してくるまでの間で登城するに時間がなく沼田城に決めた

沼田城址(沼田公園)で降りて母と叔母は川場田プラザに。約1時間、探索して急遽登城となりました

沼田城

真田の里にして一門の老将・矢沢頼綱が城代を務めた天空の城下町

沼田と言ったら綱渡りの外交や戦略で守り抜いた真田氏の所領ですが軍事上の重要拠点として武田・北条・上杉という並み居る戦国大名が争奪戦を繰り広げた北関東の要衝の地です

大河『真田丸』でも沼田は中盤、秀吉の人質時代でもかなり取り上げられ、北条側と舌戦した沼田裁定は丸々1話使って弁舌をふるってましたね、利根川と支流の片品川や薄根川の合流地点に形成し、河岸段丘上70mの崖っぷちに築かれた丘城で、この地は東北方面は会津、東南は桐生、西は上田に通じるといった交通の要地のため戦国大名から大人気の草刈り場なのです

「守るに堅く、攻めるに難い」と。

名胡桃とセットで行かなきゃだったかな

天空の城下町 真田の里 沼田城

かつてこの地に、五層の天守閣を持つ沼田城がありました

現在は沼田公園として整備されています

まずは沼田市観光案内所へ

こちらがスタンプ設置場所です

マンホールカードがもらえるようですね、私はマンホールを撮影してコレクションしてるだけでカードが欲しいわけではないのでスルーしました

中には真田一色の展示パネルが綺麗に並べられてました

甲冑や城のジオラマ天守模型も展示。お土産等もありました、真田人気がうかがい知れますね

いざ沼田城趾へ、駐車場に幸村がいました。これが戦国無双の幸村なんですね

ちなみにこっちが信幸。信長の野望しかプレイしないので知らなかったが、ファイナルファンタジーみたいだ

信幸の紹介、戦国ファン増に大きく貢献したコーエーテクモ)、特に真田は絶大人気

公園内は綺麗に整備されてました、昨日に引き続き涼しくてウォーキング日和で最高です

復元された鐘楼

沼田城趾のシンボルタワーですね

204本も咲く桜の季節は見頃なのでしょう

沼田城は1532年、沼田顕泰が3年の年月をかけ築城。その後真田昌幸が入城し1590年、昌幸の嫡子信幸が城主となり、その後5代91年間真田氏の居城となりました。また1597年には五層の天守が建造。1681年、5代城主信利が江戸幕府に領地を没収され、翌年1月に幕府の命により完全に破却され、その後再建されることはなかった

真田丸でも北条側の板部岡江雪斎が少し触れてましたが1578年の上杉家の内紛は御館の乱のことですね、北条氏は氏政の時代。1580年に武田軍の昌幸が攻め落として矢沢頼綱(昌幸の叔父)沼田城代に。

1582年、織田信長の侵攻により武田氏が滅亡すると独立勢力となった真田氏は上田城の昌幸と連携して沼田城をそのまま頼綱が守ることとなり、60を超えてもなお、対北条戦最前線で防衛します

(矢沢氏はこの頼綱と親子ともども真田氏を支え続けた頼綱の嫡男・頼康もいますが大河では『真田太平記』と『真田丸』の真田氏が主役にならない限り登場しないのです😢)

気温もだいぶ下がって涼しくなりましたよねー、こんな公園、地元に欲しいです

子持山沼田駅利根川が見えます

ほんとに丘の上にあるんですね、車で来たので駅から歩いてきてないためこんな高地にいる実感はないです

真田信幸と正室稲姫

稲姫本多忠勝の長女です、忠勝は天下に勇名を轟かせた戦国時代一、二を争う猛将です

生涯57度の合戦をして傷一つ付かなかったといういわゆるチート。その忠勝の自慢の娘なだけあってしっかり武芸の心得もあり才色兼備だったと言われています

北条氏と真田氏による沼田を巡る攻防で取次した徳川氏が北条氏に沼田を明け渡すと約束したことにより、真田氏は断固拒否。面目潰れの徳川氏は真田領の上田に攻めますがこれを真田氏は撃退

膠着した情勢に割って入ってきたのが織田信長の後継として天下統一を目論む豊臣秀吉

真田氏と徳川氏に仲直りさせて真田に徳川氏の与力(徳川の下で助成するポジション)になるよう指示します

この和睦の証として本多氏が取り持って真田昌幸の長男と本多忠勝の長女が婚姻を結んだのです

(正確には徳川家康の養女にした後信幸と婚姻)

めちゃくちゃセクシーだな小松姫😂

このエピソードも騙し騙され裏切り裏切られの戦国時代にあって温かい人情感じますよね

武家の娘だけあって銅像も自分を下にして夫を立ててますね、この本多氏との縁が真田氏の生き残りを賭けた戦いに後々、実を結びます

信幸像も松代城巡りで高齢時(93歳まで生きてます)の銅像しかなかったのでこの信幸も良いですね、少し表情固いですが。。

信幸は関ヶ原で本多氏のいる東軍(徳川側)に、弟の幸村(信繁)と父の昌幸は西軍(石田側)に分かれてます、西軍は敗北しますので戦後、弟と父の助命嘆願の際、徳川への忠誠を尽くす証として父昌幸から頂いた「幸」の字を捨て、信之に改名しています。

真田丸での改名シーン「信繁が幸村に」「信幸が信之に」はフューチャーされてましたが信幸が家中の者たちに「信之」と書いた改名した紙を見せ、『のぶゆきの読みは変えん、わしの意地じゃ』とか言ってたシーンはしびれましたね!

演じたのは大泉洋

直感型の天才肌の弟と父に挟まれたお兄ちゃんの「この状況下で自分が真田の家をなんとかするしかない」という決めた覚悟を感じました

現在も発掘調査は行われ、土器や青磁が出土されています。自分が生きてる間にどれくらいの遺物が発掘されるだろうか

旧家から掘り出されたり学者が手つかずで未解読のままの古文書(書状)などが発見されて実はこの時こういう理由や思いがあったとか武将の人物像の見直しがあったりなど隠された歴史が何百年を経て現代に浮かび上がるのは歴史好きの醍醐味ではないでしょうか

(なんでも鑑定団にも期待してます!)

上州真田武将隊商い処 松之屋

ここは真田氏関連のグッズやお土産、特産品などが売っているのですがこの日は定休日😔

ガラス越しにグッズが見えて買いたかった!

大阪の陣の時の幸村でしょうか、無精髭具合が九度山での蟄居生活を感じさせます

これトイレです

このへんで母から連絡がありこれから沼田に向かうとのことで沼田城址を出て歩いて10分ほどの正覚寺

個人的に今回は小松姫矢沢頼綱を語りたかったので。沼田も関ヶ原合戦後信幸の所領となりますが上田と松代藩の初代藩主のため割愛

正覚寺小松姫の骨が分骨され祀られています

徳川氏の重臣本多忠勝の娘でありながら真田氏の一族となり、関ヶ原合戦で夫の信幸とともに心中察するに余りあるほど揺れたであろう稲姫

こちらは観光案内所に展示された稲姫肖像画

よく見ると真田の家紋である六文銭の甲冑と徳川の家紋である三つ葉葵の陣羽織りを着ています。真田家に家康の養女として嫁入りしている小松姫西軍につくと決めた昌幸に対し孫の顔を見せず開城を拒否した徳川家の顔と、翌日密かに昌幸の元に孫の顔を見せに行った真田家の顔が覗かせます

信幸が東軍についてるから両方、徳川の証とは思いたくない❗️

帰りは上里SAで遅い昼食

ラーメンとチャーハンの翼くんと岬くん、キン肉マンテリーマンなみの黄金コンビで。

今回ソフトクリーム食べてなかったのでここで🍦

まさか温泉旅行について行って城巡りするとは思わなかった、思わなかったが念の為持参したスタンプ帳がラリーできたのはよかった

ちなみに沼田城は2016年(真田丸放映時)に一度行っていた、その時も車で全て下道で行ったが沼田城のことは記憶になかった

当時の写真

行ったのは覚えてるけど城趾(公園)なので今回のように中に入らずすぐに真田丸展に行ったからかな、でもぶっちゃけここも記憶にございません

リアタイで真田丸にハマって見てたから行ったのだろうけど8年という年月は怖いですね☢️☢️☢️

ほぼ忘れてる。。

沼田城

・スタンプ設置場所

沼田市観光案内所

・交通アクセス

上越線「沼田」駅から徒歩で約18分

上越線「沼田」駅からバスで約6分「沼田局前」下車、徒歩約10分

これ徒歩と変わらなくない?

草津よいとこ一度はおいで(ハドッコイショ)お湯の中にもコリャ花が咲くョ(チョイナチョイナ)♪』

皆さんはメロディーライン(メロディーロード)を知ってますか?私は知りませんでした

車道を走っていたら吃驚👀⁉️⁉️

・メロディーライン(メロディーロード)とは

アスファルト道路の路面表面に横方向の溝を決められた間隔で設置(切削)し、車両が一定の速度で通過する際のタイヤと路面との間で発生する走行音を使って、メロディーを奏でるもの

こんな工夫がこらしてあるんですね、さすが観光名所です!東京から関越道で草津を目指したら渋川伊香保ICまでしか高速道路は使えず、草津まではさらに55キロの一般道(ほぼ山道なので景色も同じ)となるのでこのようなおもてなしは嬉しい。

草津温泉♨️【湯畑】

日本三大名泉です

実は今回予定していなかったが、母と叔母が旅行行くと聞いたので直前で参加、別のホテルを取って同乗しました

草津は長野県に近くギリギリ群馬県ですね、連休取れない都内サラリーマン生活が長かったので草津温泉も初めてで楽しみです

最初に立ち寄ったのは伊香保

伊香保も温泉街ですね、モニュメントが入口に。そして有名な365段の石段

草津へは渋川伊香保ICで下りて下道なので伊香保温泉ならもうゴールなのです

温泉入るから石段上りました

目印があるんですね

母と叔母は別でゆっくり上って途中で引き返したようで「早く戻って来なさい」と言われてしまいダッシュで駆け上がりました(本当はゆっくり景色や売店を見ながら上がるのですけど)

伊香保神社

滞在時間10秒、帰ります

往復30分ほどでしたが帰りは撮影しながら下段

恒例マンホール撮影📷️

イニシャルDの聖地みたいすね、上りでは全く気づかなかった

石段温泉街、歴史も戦国なんすね

調べたら1576年長篠の合戦後、武田勝頼真田昌幸将兵の療養所の造成を命じる。とありました

ただ石段を上り下りするだけでしたが記憶と記録に留めておこう

さてここから55キロの九十九折の下道で草津へ向かいます

草津湯畑、初めてですが感動しました

湯畑という言葉は湯の花を収穫できる畑ということから湯畑と命名されました

白根山本白根山という活火山に抱かれた草津温泉草津温泉開湯については諸説様々で、約1800年前の日本武尊発見説、奈良時代の高僧・行基発見説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝が入浴したことも知られていますとのこと

頼朝出てきますかーっ。。

ちなみに関東の人間なのに草津温泉滋賀県草津市にあると思ってました(4月に滋賀の城巡りをした際に行こうと調べたら群馬県って知り唖然としたんですよね)

草津に歩みし百人の碑

草津を訪れた偉人・著名人100人の名前を刻まれていました。利家=湯=慶次のイタズラ🚰のイメージですけどね

茶色い看板のセブンイレブン(ここは売れますね〜)

平日といえどたくさんの観光客で賑わってました

手打蕎麦 あおやまで信州そばと海老天丼

後に知りましたが名物は舞茸らしく舞茸丼もあったので少し後悔、でも美味かった

足湯、手洗いの湯に顔湯ってのもあったな

母と叔母は湯畑から近い夕朝バイキング、大浴場4つ付きのホテルへ🏨

私は湯畑から2キロ離れた風呂なし、トイレ、洗面所共用の宿へ🛏️

和室は城巡り旅で初めて(おそらく学生の頃の修学旅行以来)

まぁ城巡りマンとしてはホテルは寝るだけにあり風呂なしなのでガッツリ温泉♨️入りますよ

草津温泉、また来ると信じてるので今回は無料温泉しか入りません!

①白旗の湯

1193年、源頼朝が浅間での狩りの折に草津を訪れ、この湯に入浴したと伝えられる白旗の湯

歴史のある草津最古の源泉で源氏の旗色から命名

浴槽は2つあり42℃と49℃だったかな、49℃の浴槽(白く濁ってたほう)はめちゃくちゃ熱く入浴せずに他の客と一緒に談笑しながら浴槽際であぐらして湯かけしました。

40分ほどいたらもう暗くなってました

夜の湯畑のほうがスポットですね、神秘的です。浴衣のカップルがドラマ撮影のようでした

湯もみ姉ちゃんのマンホール

②地蔵の湯

2つ目は湯畑から少し離れた場所にひっそりとあった穴場の無料温泉

ここは脱衣所が浴槽の目の前にあるため盗難リスクはありません(有料ではないので鍵付きロッカーとかはないんですよね)、どの温泉にも脱衣所の壁に盗難注意や自己責任の貼り紙がありました

地蔵の湯は浴槽1つで熱くなく、客が0でした

源泉が近いことによる鮮度の高さが売り

20分ほど独り占めさせていただきました

外には足湯もあり【出陣】やりながら浸かってました、この地蔵の湯は穴場だと思います

屋根に風鈴が吊されていて小さく音が鳴るのも風情あってよかった、この日の気温は涼しく秋風到来で夏の終わりを感じさせます

夜の静寂さに紫色のライトが居心地良くて、ふやけるほど足湯に浸かってました

伊香保の石段と運転〜からの温泉どっぷりで22時から8時まで10時間は熟睡しましたね😴💤

お宿 善

この宿はセルフチェックイン、チェックアウト(フロントなしの無人)のゲストハウスなので簡易宿泊施設として宿代を抑えて目一杯、温泉や食事を楽しみたい人にオススメです

③巽の湯

早朝、奴らが朝食バイキングしてる時に草津最後の無料温泉へ

42℃前後とちょうど良く、脱衣所や浴槽が広かったですね、全く気にせず鼻歌を歌ってるかなりご年配のおじいちゃんと同タイミングで入浴

無言の我慢比べでどっちが先に出るか対決がいつの間にか始まってました🥵💦

ここは湯畑から2キロ離れていて私の宿からすぐの場所だったので観光客より地元の人が来る印象かな

以上、3つの無料温泉施設でした(実際は初日に白旗→地蔵→白旗、今朝で巽なので4回入りました)毛穴開きまくったんちゃうかな

草津よいとこでした、一度ならず二度三度でも行きたい、渋川伊香保でおりてから下道が長いのが難ですがね

疲労回復して運転です

(ちなみに湯畑から東京目指して出たもののナビの指示で左折したら東京方面ではなくまた湯畑(1本隣の道)のほうに戻され2回ぐるぐると回りました、他にも迷って一緒に旋回してる車が前後にいて笑いました、しかし案内板に気づかなかった💦)

ついに40登城!大阪城から早1年。なんなら2月から半年程で怒涛の39城巡りでした、既にたくさんの思い出があります

200名🏯のうち1/5を攻略、しかし小谷城や鎌刃城、杉山城などの山城は日没や悪天候により断念、登城口の入口までで引き返し、資料館でスタンプのみと実際に登城してはいないので私の脳内では賛否両論ですが。

とりあえず関東、東北、甲信越は順次登城している状況、もっと西に行かないとなのですけどね。

春日山城

義に生きた戦国最後の軍神、越後の龍・上杉謙信の居城で複雑な自然の地形を利用した堅固な城塞

武田信玄の城巡り、川中島古戦場跡と巡り、ついに来ました春日山城

起床したのが11時頃でした、実はこの日は13時から【出陣】のメンテナンスがあり5時間もプレイが出来ないとのことで春日山城登録と上杉謙信をゲット出来なくなるため(18時から山城は怖い)ダッシュで準備して高田駅に向かい、タクシー利用で春日山城へ行きました💦

城巡り開始して初のタクシー利用です、予算を抑制して巡ることを掲げてるにも関わらず夜遊び&タクシー利用はアホですね

【出陣】を始めたのが山梨(新府城)の城巡り時期からなのでそれから約4ヶ月半、城巡りと同じく取り憑かれています💦(いずれは飽きがくるのでしょうけど、、)

まずはスタンプ設置場所へ

春日山城跡ものがたり館(無料)です。上杉謙信公や、当時の春日山城の様子などを大型画面のビデオで紹介しているほか、川中島合戦図屏風などを展示しているとのこと。

また春日山城史跡広場では、調査によって確認できた土塁や監物堀、道、堀立柱建物などが復元され、中世の春日山城を体感できるとのこと。

また監物堀に植えられたカキツバタは、5月上旬が見頃らしい

う〜ん、行きたかったですね😢

スタンプ押印、滞在時間30秒

林泉寺

謙信の祖父が父の十七回忌法要を営むために1497年に創建した林泉寺

謙信はここで7~14歳までを過ごしました、戦国武将の中でも教養が高く、信仰心が厚い謙信の素養はこの時期に培われ、後の謙信の名前もここの名僧から拝領したといわれています

ちなみに謙信はもともと越後の守護代長尾家の当主で(長尾景虎という名でした)上杉姓は北条に敗れて頼ってきた上杉憲政を庇護して関東管領職を譲られ、養子入りして上杉と名乗ってます、義に厚い謙信は14回も関東出兵して北条と合戦を繰り広げます。

領土を取りに行くわけでもなく戦力を削って相手の領土拡大を抑えることで結果的に関東甲信越の情勢は保たれ、その間の信長の飛躍に一役買った面もあったと思います

米沢にある林泉寺は、ここ越後の春日山から米沢(景勝の代で関ヶ原合戦にて負けて米沢に転封された)上杉家の菩提寺なのでこの林泉寺にはその前の代である謙信と謙信の父と祖父の墓所川中島戦死者の供養塔などがあります(謙信の墓所は他にもありますがやはり春日山城の麓にあるこの林泉寺でしょう)

米沢の林泉寺は米沢城登城日の夜に行きましたね、真っ暗で怖かったのを覚えてます

ここも滞在時間30秒、タクシー待たせてるので残念

春日山神社の駐車場に到着、タクシーを降ります。既にここ春日山城の中腹あたりなので本来のウォーキングを端折って相当ワープした形です💦

春日山神社は米沢にある上杉神社より分霊され、明治34年(1901)に創建、上杉謙信公が祭神に祀られています

高台に銅像見えますね

上杉謙信公の銅像、1969年の大河『天と地と』の放映記念に建立、上越市の守り神として50年以上も見守っています。離れているため拡大してますが私のスマホとデジカメ、画質低いのでわかりにくいですが謙信の目は見開いてます。

自販機もテンションを上げさせますね!

さて春日山城案内図。。険峻ですね

ルート的には春日山神社(右回り)もしくは謙信の銅像から左回りのどちらか?ってとこでしょうね

三の丸→二の丸→本丸と攻めたいので銅像を見て左から登っていきますか

いきなり見渡す限り、山・山・山・山です⛰️

でけー山城だ

案内板が所々に、また分岐点にしっかり表示されてるため迷いようがないですね〜。

甘粕景持の屋敷跡

さっそく現れました、家臣の屋敷跡がたくさんあると書いてあったので屋敷跡巡りも楽しみです

甘粕景持は上杉家一の武の柿崎と双璧で上杉四天王でもあります

今までの山城登城で見てなかったバッタが非常に多く、いきなり目の前をピョンピョン飛んでて踏み潰してしまわないか足元見ながらの登城でした

夏から秋にかけてよく見る虫のようなのでまさにこの時期でしたね

三の丸阯です

謙信の養子の景虎の屋敷跡ですね、景虎に関しては鮫ヶ尾城登城で触れてます

春日山神社までタクシーワープしたから、ここまで来たかぁって感じもしないですね

御館の乱の際、景虎に持ってかれた米蔵

とにかく広大な山城、ただ視界が開けてるため熊が出そうという不安は全くないですね

あの山道から歩いてきただけなのでまだたいして歩いてないです

二の丸阯(11月下旬から一本イチョウが黄金色に輝きます)

他の山城に比べ、さすがは日本名城入りした謙信の居城。めちゃくちゃ整備されて登りやすい

本丸行きたいですが柿崎さんに挨拶してきます

分岐点ではこの形の案内板があり現在地、距離、紹介など大変わかりやすい

柿崎景家の屋敷跡

猛将ですね、史実の柿崎景家は軍事以外にも政治・外交にも優れた重臣だったようです

柿崎さんもここから城下町の景色見てたんすねぇ

【出陣】では一番最初に完凸したSSRであり、近所の茶室で登場して夜にウォーキングがてら小判と交換して友好度を上げたのも柿崎さんが初めてだったので思い入れがあります、能力も高くいまだに一軍部隊に入れてます

柿崎さんありがとうございます、でももう登用札で出てこなくて大丈夫です🙇

柿崎屋敷の案内板の裏に記されたこの桑取道ですが本丸跡を目指すならこれ以上は行かないことをオススメします、本丸跡を真ん中にして柿崎屋敷は西にあり、桑取道はさらに西の反対方向に向かっていきます。4時間近くの7キロアップダウンの山道で往復7時間となるでしょう

そこには当時、上杉謙信の父長尾為景春日山城を築いた際、西方の桑取谷に住む農民たちに扶持(ふち)を与え半農半士の郷士に取りたてて、いざという時の城の守りとしました

桑取衆は、そのことを誇りに思い、春日山城主への忠誠心は厚く、それは謙信の代にいっそう強まっていたのです

大河『天地人』で景虎との戦いで主要道も遮断され兵糧尽きかけて景勝ピンチの時にこの桑取道を直江兼続妻夫木聡)は抜けて桑取衆に助けを求めて米俵を景虎勢に見つからないよう春日山城に運んでました、気にはなりましたが長すぎる。。

なので景勝屋敷へ向かいます

上杉景勝屋敷

謙信の姉の子で義に厚い謙信DNAをしっかり受け継いだ名将です、ゆえに水面下で次々と大名を懐柔していた徳川とは性格的に相容れず西軍に味方したのでしょうね

この今にも枯れそうなわずかに紫色の花がカタクリかな?それかムラサキシキブかもしれません

鐘楼跡

非常の際に鐘を鳴らして知らせてた場所ですね

左は二の丸のほうで右は柿崎屋敷のほうですね

見えにくいですが井戸曲輪

どんな渇水でも涸れることなく今でも水をたたえる大井戸、水が湧き出してて驚いた

とにかくバッタが多いです、ハチより蛾よりバッタでした

本丸・天守台に着きました

日本海と頸城平野の眺望が見事!

本丸・天守台着いて5分程。残念ながら小雨が降ってきて謙信の気持ちに浸る間もなく早々と下山開始します💦帰りは春日山神社の方向で下山

謙信が出陣の際に戦勝を祈願した場所といわれる護摩堂阯、何にも残ってないが私は感じる

息吹を❗️

小雨はすぐ止みましたー

諏訪堂阯、謙信の信仰心から祈願する建造物がこの辺りは多かったようですね

毘沙門堂

謙信は戦の前は中に篭って祈願(座禅して瞑想?)してたという毘沙門堂

ここから毘沙門天の化身と呼ばれてたんですね

誰かが割ったのか1つ穴が開いてるんですよね、撮影はしませんでしたが中に毘沙門像が見えます

御花畑阯なんてのがある!謙信、生涯独身にして戦上手で花好きか!強面硬派俳優にしてスイーツ好きの的場浩司なみのギャップだなー

さらに下ると

直江屋敷

直江といえば大河でも主役となった兼続ですが彼は正室の直江船の婿入りとして樋口姓から直江姓となり直江兼続となった、直江船の父である直江景綱が謙信の祖父からの3代に渡り宿老を務め直江家の地位を固めた重臣なので景綱、婿養子の兼続がどれだけ上杉家から高い信頼があったかがよくわかりますね

そして兼続は子が早世しても生涯側室を持たず、船と仲睦まじく米沢の地に2人で骨を埋めました(米沢の林泉寺墓所がありましたね)

このへんは屋敷に近寄せないために工夫を凝らした防衛がなされてますね

そんな中、突如現れた上杉少弼入道宅址

これ誰のことかわかりませんでした、調べても出てこない、謙信のこと?だとしたらなぜ他の家臣たちより下にあるのか。

他、いろいろありました

春日山神社に無事到着

小さい謙信像がありました

入口の駐車場のとこの高台にいた謙信像と同じ形かな?

手水舎で龍神の口から注がれる水で身を清めて

参拝しました(登城後ですが)

謙信公祭りという祭りがあるのですね、神輿が眠ってました

1.2トン!?

売店にて恒例のソフトクリーム🍦

登城後はなんでも美味いけどコシヒカリコメ粒入りってアクセントが絶妙でした

さて、タクシーで春日山神社まで来たので帰りは大手道を通り歩いて帰ります、教習車が通ったけどここの教習所の公道授業では春日山城があるのかー

この時間はもう晴れてたので暑い☀

そしてなぜ大手道から歩いたかというと

あちゃ〜。。西陽で暗いですね😢

ん〜、伊達政宗公騎馬像を思い出す黒さ

全く見えにくい……上杉謙信と言ったら騎馬ですよね、武田も騎馬隊だけど信玄は騎馬のイメージがない、これも川中島の戦いの2人の印象からか

ともあれ、騎馬謙信像を拝むために大手道を通りました(上越妙高駅の謙信騎馬像は青年期の謙信で若いのと猛々しさがなくクオリティも……)

上越市埋蔵文化財センター内に騎馬像はあります

ちなみにここ、無料施設なのですが期待せずに入ったらビックリしました

猪いたんか👺、もう登城後ですけど

ちっこい木彫りの謙信、この白頭巾の謙信ポーズは定番なんですね

春日山城ジオラマ。険峻ですねー

日本百名城で上杉謙信の居城ではない山城だったらどこまで整備、手入れされてるだろうか。続百名城でも運営や維持費が難しく案内板やコース内の倒木、沢などの整備がされてない山城も多々あります(コース間違えさえしなければそれはそれで山城らしく戦国当時みたいに険しくて楽しいのですけどね)

龍の床絵、大河『風林火山』で使用されたもの

越後十七将之肖像

謙信の年表が続きます

この体験コンテンツ面白かった、タッチパネルで操作したりクイズもありましたね

三太刀七太刀の跡

川中島合戦の謙信と信玄の一騎討ちの逸話ですね

書状(謙信は筆まめな武将でした)

謙信と同盟破棄して武田と結んだ北条氏政のことを「何も之馬鹿你無申事候」と馬鹿者という言葉を使ってます、この当時からバカってあったんだ。。

真偽は不明もけっこうなこと言ってますよね、信長とは1577年の手取川の戦いで(柴田勝家に)勝ってますから説得力ありますね、実際信長は謙信存命の間(1578年没なので1年ですが)は手を出さないよう北陸侵攻を中断しています。三方ヶ原で信玄に徳川が大敗し諦めたのと同様ですね。

謙信と信玄って信長、家康連合にとって脅威だったんですよね。けして景勝や勝頼が無能なことはないですが謙信と信玄は別格な存在ですね

謙信直筆の書を刻んだ「第一義」額

律儀で誠実で義理堅い、義を重んじることファーストの生涯

謙信亡き後の御館の乱の展示もありました

景虎の項目:人質ではなく「養子」として迎え入れた謙信公

謙信も景虎家督を継ぐ兄がいたため幼少期に寺に出家するも家の事情で還俗した経緯や北条氏康との良好な同盟関係もあり初名の景虎を名付けさせて寵愛しました、景勝も景虎もどちらも謙信の養子、後継者を悩みあぐねてる最中の急死だったのでしょうね

こちらの映像ではご当地おもてなし武将隊の方々が春日山城の見どころを紹介しています、登城前に先にこちらに来たら観たほうが楽しみが増えるかと思います

この状態で700年前の焼き物とか残ってるんですね、すごいですよね

ここ来てよかったです

その後は高田駅に向かいながら寄り道【出陣プレイ】してダラダラ歩いてました、畑道とか滅多に歩くことないので365℃見渡しながら歩きました

で、もう暗くなってきたので今夜は山岡家へ

普通にチェーン店です、米どころまで来て2日連続ラーメンって何を食べてんのだ😅と。。

初日に米切れでぶっかけそば食べてから今回、食に関してはリサーチ不足もありダメダメでした

もちろんラーメンは美味しかったですよ

その後の春日山城はというと1598年、上杉氏の米沢転封により堀氏が城主となりますが、1607年に堀氏は直江津に福島城を築城して移り春日山城は廃城となります。この時代は戦国終焉を迎えていたので全国を見ても政務に不便な山城は廃城となっていきます

その後は堀氏の改易により家康の六男、松平忠輝が入封し、中心を高田に移したことは高田城登城の回で触れた通りです

領土拡大せずに謙信が生涯70回も合戦できた背景には

直江津という良港があり交易が盛んだった

・染料の原料となるカラムシを日本全国に流通

佐渡の金山

などがありました、港を抑えてるから武田に塩も送れますね

直江津佐渡島は百名城の城はないものの、今回行ききれなかったので、また上越行きます!

新潟城巡り、暑すぎて驚きましたが勉強になりました!

春日山城

・スタンプ設置場所

春日山城跡ものがたり館(12~2月は上越市埋蔵文化財センター)

・交通アクセス

えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン春日山駅」より徒歩40分

今回予定登城3城のうち2城が山城。なので2日目はインターバル。前日の疲れもあり今日は平地ウォーキングで平城です

高田城

徳川家と豊臣家の最終決戦を前に、名だたる大名たちが急ピッチで築いた天下普請の土塁の城

戦国史としては一般的に新潟県越後国=上杉ですがこの城は上杉氏には無関係です

上杉氏は関ヶ原合戦後、山形県の米沢に転封されますのでその後、堀氏(居城は直江津にあった福嶋城で内紛により御家取り潰し)を経て越後の中心を高田に移して築城された徳川の城になります

本日も晴天ナリ!高田城アクセスは電車もバスも利用しない、ホテルから徒歩20分の好立地ということで余裕かまして出発は11時頃でした

なのでゆっくりウォーキングしながら高田駅周辺で【出陣】をプレイ

この時期は酷暑ですが新潟県は豪雪地帯

雪や雨を防ぐための軒先つきの通路として街並みは雁木造りという雪や雨の日でも通行機能を確保するため、建物の庇を長く張り出して下を通路として歩けるよう作られています

まさに雪国の知恵ですね、ドア開閉時の歩行者との事故や積雪で開かないなどにならないよう玄関のドアも開き戸より引き戸のほうが多かったと思います、私はこれ私有地だから立ち入りしては(通っては)いけないと思って車道寄りの道を歩いてました

歩いてたらさっそくすごいとこ見つけましたよ

日本最古の映画館、このパワーワードだけで足止まりますよね。すごい。。1911年に開館か。。

現在上映中の新作映画わからないですけど最近のラインナップと違いますよね、ここはマニアックというか映画好きのオールドファン層が支えてるのか?奥に当時の機材が見えますね、1911年というと明治時代です

余談ですが新選組永倉新八明治維新後も長生きして77歳まで生き、晩年の趣味は孫を連れて映画鑑賞だったらしい。

「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と生前に語ったとのこと。

写真の伝来には間に合った世代なので近藤、土方ともに写真は残っているが2人の死後40年を生きた永倉にとってこの写真が動く文明の発展にはさぞ驚いたことでしょう。ここに足を運んだかは不明ですが永倉が映画鑑賞してた同時期にここでも上映していたと思うとすごいですよね。

(そういえば最近YouTube坂本龍馬福沢諭吉など偉人たちの写真を動かした動画がありましたね、あれは驚いた)

ちょうど地元の方が自転車を止めてチラシフライヤーを見て持ち帰ってました、私は中には入らなかったので興味ある方は館内の画像を検索してみてください

恒例のマンホールです。市の花である桜と高田公園の蓮の花に泳いでる白鳥と黒鳥の上越市マンホール!

高田公園の桜は日本三大夜桜の一つ。上野恩賜公園(東京都台東区)と弘前公園青森県弘前市)、そして「高田公園」(新潟県上越市)のようで高田公園はあまり普遍的ではないと思う。

三大◯◯(怒り心党ではなく)って3つ目が出てこないことありますよね、おそらくこの三大夜桜でも高田公園は3つ目なのだと思うがそれは超メジャーの上野と地方都市の弘前が強いせいだろう

野村義男的な立ち位置、しかし選定されてるだけあって春には約4000本の桜が咲き誇る圧巻の美景とのこと。来る時期ミスったかな

蓮もすごかったですよ

高田城、北側からグルっと回り込んで入城(東側は現在工事してて入城できない)しましたが意外に時間がかかったのは広大な水堀が公園全体を囲んでたからですね、非常に大きな城郭だったかと。船で漕いだらジャングルクルーズみたい

極楽橋から入城、ここは高田城址公園として散歩やジョギングコースとして市民の憩いの場となってます

極楽橋から入城すると早くも右手に見えます

正面からだとこんな感じ。桜の木がね。木ちょっと。。これ。。

徳川と豊臣の抗争が激化する中で、1610年に高田に入封したのが徳川家康の六男の松平忠輝

松平忠輝って私の記憶では器量が悪く家康にめちゃくちゃ嫌われてた印象がありますね

忠輝は、前の領主である堀氏が築いた(水害が受けやすいと言われた)福島城を廃して中心を高田に移すと天下普請(幕府の命による工事)により高田城の築城を開始、世の中は豊臣政権から徳川政権へと移り行く転換期にあたり、反徳川勢力となる西の加賀・前田家や東の出羽・上杉家の牽制役を担いました

越後の支配は上杉氏(現在の春日山にあった春日山城)→堀氏(現在の直江津にあった福島城)→松平氏(現在の高田にあった高田城)と移り変わっていくのです

工事には徳川の命を受け陣頭指揮をしたのが伊達政宗政宗は忠輝の舅にあたる(忠輝の正室の父)ですよね)そして13もの外様大名が動員されました。

かつて豊臣方だった大名たちが高田城のために私財を投じ、徳川の味方であることを示したのです。築城期間は異例の4ヵ月、各藩から集まった技術者や労働者は計5~10万人ともいわれ、国をあげての築城プロジェクトとして行われた天下普請でした

ただし大阪冬の陣を目前に豊臣家との決戦間近にて完成を急ぐ必要があったため平城の高田城は天守も石垣もありませんでした、土塁をめぐらして建築されたのです

耐震が悪かったかは不明ですが高田城は三度の大地震と度重なる大火に修復しては見舞われ、1871年には廃城して陸軍の駐屯地となりました。その後二の丸・三の丸の土塁は撤去され、堀の一部も埋められてしまいましたが1993年に多くの市民からの要望に応え、上越市発足20周年記念事業としてこの高田城三重櫓が再建されました

入城料は310円です

最初にパネル展示などがあり、このジオラマ模型があります、これは相当な巨大城郭だったことが伺えます。また写真左は映像資料で春日山城、福島城との三城物語が観れます。(もちろんメインは高田城です(約10分弱だったかな))

パネル資料も豊富でした

出土品も展示されてます

現在、新潟県の主要都市は新潟市長岡市上越市です。開府400年を迎えたこの高田の地には、今も城下町の風情を残す町家がたくさんあります、上越市の発展はこの高田を中心としたことがわかります

さて、三重櫓を後にすると目の前に高田城三重櫓管理棟があり、ここがスタンプ設置場所です

中は上越市PR動画が繰り返し流れてます、冷房が生き返るほど効きまくっています

高田城を築城した初代藩主の松平忠輝ですが築城の1年後の大坂夏の陣での不手際(諸説あり)を理由に、兄である徳川秀忠によって改易されてしまいます

その後は7家、17人の城主が目まぐるしく入れ替わります。骨肉の争いで有名な家督相続の越後騒動も起きてるように高田藩は領地経営が安定しなかったようですね

また藩主は改革を求められて高田に移封してきたわけではなく幕府に怒りを買ったり懲罰的な意味合いで左遷先としての扱いを受けていたようです、これは治安は悪くなりますね

で、関係ないですが東京は小池都知事がもう3期目ですよ、始球式で膝関節を骨折してましたが72歳、本当に大丈夫なのだろうか。外国人の移民受け入れた先の日本には治安低下が懸念されます

高田藩、幕末の頃ですが徳川四天王榊原康政の直系の家柄が1741年に入封(幕府に咎められ左遷されてきて)以来、130年にわたり榊原氏が高田藩主を務めてました。

もちろん当初は幕府側で長州征伐にも幕府軍として参陣してましたがまさかの敗戦。新政府軍(薩長)の兵備、兵制力に圧倒されてしまいます。

ここで高田藩は情勢を感じ幕府に見切りをつけたのか、130年前の処遇の遺恨か、北越戊辰戦争では越後諸藩の中では比較的早く新政府軍に恭順することで長岡や会津攻めの先鋒となり大きく貢献しました。

高田藩と長岡藩は越後有力諸藩同士、目前まで迫ってきた新政府軍に恭順するか、または東北諸藩からの列藩同盟の加盟要請を受けるかの狭間にいたわけで、最終的に新政府軍の先鋒隊となった高田藩奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩の越後諸藩同士で戦うまでの経緯は板挟みによる苦渋の決断が生々しい。

徳川親藩、譜代が治めてきた高田藩でしたが結果的に街が戦火になることは免れました

帰る途中、惣菜屋を発見

ここ鬼のように安かったですね、手間がかかるポテサラまで品揃えされてありがたい。こういう時のドリンクはサンガリアやポッカなど普段見ない飲料に手を出してしまいます

ホテルでゆっくりして夕飯は宝来軒総本店

トクつけ麺大盛り&チャーシューご飯、これは本当に大盛りで驚いた。地元の学生もたくさんいて人気ラーメン店のようですね

実は今回登城した高田城、登城したのは11日ですが前日の鮫ヶ尾城のあとホテルから夜に高田城へ外観だけ撮りに行きました

事前に休館日や営業時間を調べてたら10日まで『黄金色ライトアップ』と記載されてたので滑り込みで間に合いました

実際、黄緑色でしたが写真だと緑ですね、時間は20時頃でしたがほとんど人はいません、公園内をショートカットして帰路につく人とすれ違うくらいでほぼ私だけでした、しかし猛暑日の夜の公園は気持ち良いです

20時だというのにほんとに暗かったですね、外灯より通る車のライトが頼りでした。

高田駅の駅舎、高田城城下町をイメージとのこと、城がある最寄り駅は駅舎も味があっていいんですよね。

駅から続くメインストリート。この通りは栄えてました。ご飯だけを食べる店が少なく、居酒屋メインでしたね。こちらもアーケードが雪から歩道を守る役目を果たしてます。冬じゃないので体感してませんが、、雁木(がんぎ)!!覚えました!

積雪時の雁木通りを歩いて厳冬を感じるもよし

日本三大夜桜を見て春の訪れを感じるもよし

上越市、ご飯を食べる店が少なかったけど趣や風情があって街自体は好きでした

高田城

・スタンプ設置場所

高田城三重櫓管理棟

・交通アクセス

えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン高田駅」から徒歩30分