美和神社 式内社(邑久郡)② (original) (raw)

美和神社(東須恵)について、『 式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』では、

【社名】吉田家本には「美和(ミワ)神社」とあり、『大日本史』も「美和神社」と

訓んでゐる。

備前國神名帖 』總社本(綿抜本)には「美和神社」、同一宮左樂頭本には「美和

神」、同神上金剛寺本には「正三位美和大明神」、同西大寺本・廣谷本・大瀧本及び

『 國内神名位階記 』山本本には「 從三位美和明神 」とある。

後述のとほり、現在の美和神社はもと廣高(ヒロタカ)八幡宮と称してをり、明治

三年に「 御維新ニ付舊號ニ復古シテ美和神社 」(明治七年『延喜式内社取調書』)と改め

られたものである。

【所在地】邑久郡長船町東須恵宇廣高山1,0641番地( 元邑久郡須恵村・西須恵村

三和ノ峯、赤穗線謄長船駅より七キロメートル)に鎭座してゐる。

東須恵及び西須恵は古代の邑久郡須恵郷にあたり、廣高山・桂山・高山・高畑山等の

丘陵地には築山古墳(西須恵字築山、前方後圓墳、全長八十メートル、縣指定史跡)を

はじめ数百の古墳及び多数の須恵器窯跡の存在が確認されてゐる( 昭和四十九年

岡山県遺跡地図2』)。

古代の須恵郷の地域は中世には須恵保と呼ばれ(「東寺文書」嘉吉二年『 備前國棟

別事』)、近世には東須恵村・西須恵村に二分されてゐた。江戸中期の東須恵村は村高

六百二十八石九斗餘、田畑五十二町七反餘、家数百三十二軒、男女六百二一十六入、

西須恵村は村高七百二十石五斗餘、田畑七十三町六反餘、家数百三十七軒、男女七百

三十二人(享保六年『備陽記」)であつた。東須恵村・西須恵村は明治二十二年に北隣の

飯井村と合併して美和村と称し、昭和三十年に國府村・行幸村と合併して長船町となり

現在に至る。

當社の氏子は長船町東須恵・西須思一帯で、明治七年の氏子戸数二二六戸、昭和二十

七年の氏子教九五〇人、現在の氏子戸敷は二〇〇戸である。

【祭神】神社明細帳(明治三年、匿山大学所蔵池田家文庫)には「大物主命」、『延喜式

内神社、國史見在之神社』(明治初年)及び『大日本史』には「大物主神」、『邑久郡

神社誌』(大正四年)・神社明細書(昭和二十七年)には「大物主神、合殿仲哀天皇・応神天

皇・神功皇后天照大神荒魂・天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと)と

ある。仲哀天皇以下五神は明治四十三年に西須悪の八幡神社(祭神仲哀天皇・応神天

皇・神功皇后)と青木神社(祭神天照大神荒魂・天日方奇日方命)を合祀したために

追加されたものである。

【祭祀】當社の祭日は祈年祭三月九日、春祭五月九日、秋季例祭十月八・九日(元舊暦

八月十四・十五日)、新誉祭十一月二十三日となつてゐる。

當社では東須恵四組、西須恵五組が毎年交代でそれぞれ祭の當番を勤めてゐる。當番に

當つた組からは各一人の當主(トウヌシ)(當屋主)が選ばれ、十月一日に

「オシバサガリ」と称して當主の家へ神霊(御幣)が移される。十月六日の早朝に両當

主・宮司・両組の代表等が供二~三人を從へて、四キロメートル離れた邑久郡牛窓町

尻海の海岸へ行き、日の出をおがんで潮垢離をとる。これについて『 延喜式内社取調

書』には「祭祀ノ式ニハ神富始メ禱屋主、禱屋組甲長、両村(東須恵・西須恵)ヨリ尻海

へ行キ・海中ニ御祓(ハラエ)キシテ、其所ノ小社ニ幣帛(ヘイハク)ヲタテマツル

例ナリ。其小社大古ヨリ神坂ト云所二有。又齋崎トモ云」とあり、また『美和村誌』

(昭和三年)には「當社ハ往昔尻海ヨリ須恵ノ廣高山へ鎭座シ給フ由口碑ニ在ス。

故ニ當肚大祭ノ前日ニハ神職・禱屋主並祭典掛員尻海ニ行キ海水ニ浴シ、其所(神坂ト云

フ)ノ小サキ社へ幣吊・御酒饗献シテ奉拝シ、ソレヨリ美和神社へ帰り祭典執行スル例

ナリ」とあつて、これは今も嚴守されてゐる。

十月九日早朝には「オシバアゲ」と称して當主の家にまつられてゐた神霊が神社へ

移され、祭典が執り行なはれる。十年前までは神輿三體(体)(東須恵二體、西須恵一

體)があり、神社の北凡そ百メートルのお旅所まで御神幸が行なはれてゐた。お旅所は

凡そ五十坪程の廣場で、その前に馬場(御神幸道)があり、昭和初年まではお旅所で神事

がすむと、「馬とばし」が行なはれてゐた。馬は當屋組から各一頭を出し、乗り手も

當屋組から出してゐた。

【境内地及び社殿】明治三年の『 神肚明細帳 』によると、「 社地一反三畝、外ニ宮林

拾二町八畝二拾歩共境内除地」とあるが、明治七年の『延喜式内社取調書』では「二反

歩 境内、六反歩 道敷、十五町四反四畝歩 上地之分、合拾六町二反四畝歩 舊境

内」となつてゐる。

現在の境内地面積は二、七八三坪であり、山林一一町三反五畝二七歩が境外地となつ

てゐる。境内から東南の榊谷には「美和の井」と呼ぶ泉があり、「甚美(ノトヨキ)

清水なり。神供の類皆この井の水にて調進す。」(明治初年『備前國式内書上考録』)と

いはれる、

現在の社殿は昭和三年の改築で、本殿は間口三間半・奥行二聞二尺、流造り、檜皮

葺。幣殿は聞口一問三尺・奥行三問、瓦葺。拝殿は間口五問・奥行二間一尺、瓦葺。

随神門は間口二間・奥行一間、瓦葺。神輿藏間口二間・奥行一間乍、瓦葦。肚務所間口

四間・奥行三間、瓦葺。

末社武甕槌神社(祭砕・武甕槌命。社殿の額及び明治三年の『神社明細帳』には

王子神社とある。祉殿は二尺七寸四面、瓦葺)、日吉神祉(祭神・大山昨神。粧殿の

額及び『吉備温故秘録』には山王宮とある。駐殿は開口三尺四寸・奥行一尺一寸、

瓦葺)、稲荷神社(祭神・倉稻魂命。社殿は二尺四面、瓦葺)がある。稻荷紳社へは

明治四十三年二月に中村神社・牛神社が合祀されてゐる。

外に境外末社として、天神社二社(祭神・菅原神。東須恵字向山及び西須恵字向に

鎭座)がある。

【遺物】東須恵字本村から登る参道には「天保十一庚子歳三月吉日、當所若連中建之」

と銘のある石鳥居、随神門前には「寛政三戊年四月吉日 西須恵村森氏庄八郎」と銘の

ある手水鉢、拝殿前には「廣高八幡宮・若王子八幡宮、寛政五丑八月十五日、東須恵村

氏子中」と銘のある燈籠一基がある。

(加原耕作)