名神大社 安仁神社 私説の詳細 (original) (raw)

【2024/7/20】記事の、yamaneの私説は、下記の通りです。

・大伯国造は、吉井川以西と比較して、ヤマト王権との親密性が高く、吉備の中で、大伯(一番上の伯父)

と 発している。

・安仁神社は、大伯国の海部の拠点であり、吉備の穴海東部の制海権を握っている。同社が、名神大社

あるのはその為である。

・同社は、制海権を保持するため、近隣の神社等との通信ネットワークを持っていた。

・同社は、現存の宮城山に東接する音羽山山上 → 宮城山北麓 → 現在の北西麓に遷移した。

この「私説」について、改めて資料を見直しましたが、否定する説は見当たりません

でした。これらについて、改めて補足したいと思います。

名神大社 安仁神社

①吉備海部との関連 図①参照

・古代吉備の国は、吉備高原と児島島との間には、狭い内海=「吉備の穴海」が広がっ

ていた。邑久郡藤井村は、吉備の穴海の東は端に位置する。

・藤井には、「音羽山」と「宮城山」の狭湾があり、その奥に湊があった。

それを裏付けるように、狭湾の出口に、「咳(関)神宮」があり、『神武天皇東遷の

時、御船の纜を掛けられたという大きな石がある。』という「綱掛石神社」がある。

・藤井の東には、吉備海部の拠点と謳われる牛窓があり、そこから、藤井に掛けて点在

する古墳群は、同一集団が生活してしたことを表している。

②海部氏のネットワーク 図②・③参照

音羽山の西峰には磐座があり、その近くに氏神様「瀧神社」がある。

「 磐座~綱掛石神社~宝神社(西宝伝)~犬島天満宮 」は、ほぼ南北直線上に

位置する。

・「 安仁神社の古址と言われる宮城山北麓 ~ 天神社(古道里)~ 宝神社(西宝伝)~

犬島天満宮 」も南北直線上に位置する。

・「 邑久郡誌 」では、安仁神社の社地は、

往古は山の頂にありしが、中古(平安時代)、尾根上(**鶴山の北側)に遷座**。

康永3年(1344)4月炎上後、永禄(1558~1570)年間浦上宗景の兵乱に際し

再び烏有に帰す。後、寛文7年(1668)池田綱政現社地に遷し奉る。

とある。地元民としてのYamaneの感覚では、宮城山の山頂から、北麓に遷座する

理由が分からないです!

・「磐座~綱掛石神社~・・・」の関連性があった証拠として、「綱掛石神社」の

「御祭神:田心姫命,狭依姫命,瑞津姫命(宗像3女神)」であり、

これは「 辺津宮中津宮沖津宮 」を想起させます。

「 宝神社~犬島八幡宮~???」のネットワークがあったのか?

・更に、「宮城山北麓~天神社(古道里)~・・・」の、「天神社」の「御祭神:

菅原道真天御中主神 」であり、『 中古(平安時代)、尾根上(鶴山の北側)に

遷座 』後の創建と想像される。

・かって、海部のネットワーク拠点は、「 音羽山西峰 磐座 」にあったが、平安時代

経年による沖積化により、狭湾が埋まり湊が機能しなくなり、軍港を西南の地

(東片岡)に移設する。(この事情を世に残すため『 綱掛石神社 』と、名する。)

それに伴い、「天神社」を創建し、元は音羽山南部(2基の円墳あり)に居住して

いた軍族は「伊登美宮(東片岡)」の地に移住する。

ネットワーク拠点も、「宮城山北麓」に遷移し、新しいネットワークを形成する。

(東片岡には、戦国時代の城跡が多い。海部氏の子孫?)

・宝神社の伝えに「延喜中(901~923年)、菅原道真公この沖を御通船時。」・「建武

3年(1336年)足利尊氏公御通船の時」も『龍燈上がり(日本各地に伝わる怪火)』

とあるが、これは「海部のネットワーク」ではないか?!

・また、「 **海部氏拠点牛窓**:牛窓神社 ~ 真西の報恩山 ~ 音羽山山頂 ~ 音羽山西峰・

宮城山北麓 」というネットワークもあったのではないでしょうか。

更に、「 音羽山西峰・宮城山北麓 ~ 硫黄山西麓の字;火打坂 ~ 宮島(神前神社

南方沖。現水門宮山稲荷山 )~ 高島 ~ 児島屯倉 」のネットワークもあった

でしょう。

・このネットワーク網で、「吉備の穴海」の「東入口」に至る船舶は、吉備海部氏の

管理下に入ります。

③吉備海部氏:ヤマト王権、直轄水軍

・『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神朝に神魂命の7世孫である佐紀足尼命

を大伯国造に定めたとされる。『おほく』地域(備前国南東部~西播磨)は、ヤマト

王権の勢力下になる。

・古書に、藤井村に「葛井里(ふじいり)」の地名があるが、白猪屯倉を運営していた

「白猪史」が、569年児島屯倉の副(すけ)となった後、「葛井連」と名を変える。

もし、「葛井里(ふじいり)」と「葛井連」に関連があるなら、藤井村は大和王権

直轄地:児島屯倉の勢力範囲であると言える。海部氏も児島屯倉の直轄でしょうか?

・この後も、牛窓前方後円墳は造られますが、海部の拠点は西遷しているように

思えます。

・吉備海部氏(直赤尾,直難波,直羽嶋,他)は、大和王権朝鮮半島遠征にも付き

したがっている。

・ただし、「白村江の戦い」で水軍は壊滅し、「壬申の乱」以降、吉備國は解体されて

ゆきます。水軍としての、吉備海部氏の勢力もここまででしょうか?

・でも、海賊は生き残ります!

名神大社 安仁神社

・『まっとうな海賊』として、「吉備の穴海、東入口」で、通行料を頂くこともあった

でしょう。海賊たちはこの様に言います。

『 穴海は潮が早く危険ですよ!遠くに見える安仁神社にお賽銭をあげて祈っては

如何ですか。なんなら、私どもが代わりにお参りしましょうか?』

と!もし、断れば『海賊』です!!

かっての吉備海部氏です。断れる訳がありません!

・こうして、安仁神社は、世間に知れ渡り畏れられます。

かくして、『 名神大社 』です! 以 上

( 注 )もしかすると、『 吉備の穴海には、穴済神(あなのわたりがみ)がいて、

害心があり、毒気を放って路人を苦しめた 』『 日本武尊が吉備穴海の悪神を殺したと

伝える。(日本書紀、景行27)』は、安仁神社であったのかもしれません?!

所定地の穴門山(あなとやま)神社(岡山県倉敷市真備)は、海岸部ではなく、

山陽道